日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

かつて、史上最高の大ヒットを記録した映画「タイタニック」
世界が泣いたその悲劇とは・・・??
20世紀最大級の海難事故・・・氷山との衝突による沈没・・・!?

北アイルランド・ベルファスト・・・
今からおよそ110年前、この地の造船所で、建造中の広大な甲板・・・幅が28mもある豪華客船・・・
その名は、タイタニック・・・!!
全長は269m、総トン数4万6000トン・・・当時、世界最大の客船でした。
建造費は、現在の価値で220億円!!
豪華な客室に加えて、長旅を楽しむためのスポーツジム、プール、スカッシュコート、そしてサウナまで!!
その贅沢な作りは、海の上を行く高級ホテルか高級リゾート地と呼ばれるほどでした。
そして、安全性も高く、浸水を防ぐ15枚の巨大な防水隔壁を持っていました。
操舵室からのスイッチで閉まる電動防水ドアなど、最新の設備が施されていました。
これを世間は不沈船と称賛しました。

1912年4月10日、乗客・乗員2,200人以上を乗せたタイタニックは、大勢の見送りを受け、華々しく初公開に出航しました。
イギリス・サウサンプトンを出発し、北大西洋を横断、17日にアメリカ・ニューヨークに到着する8日間の旅でした。
出発から5日目・・・1912年4月14日夜・・・
タイタニックは、ニューファンドランド沖に差し掛かります。
ここは、北極からの氷山が、多数流れ着く危険な海域でした。
しかも、事故当日は、月明かりもなく、視界も悪い・・・
夜11時40分・・・氷山をよけきれず、船の前方右側が激突!!
船内に水が流れ込みました。
衝突からわずか2時間40分、午前2時20分・・・
不沈船タイタニックは海の中へと消えていきました。
死者・行方不明者は、乗員乗客の3分の2!!
およそ1500人・・・20世紀最大の海難事故と言われます。
多くの人命を犠牲にした災害・・・衝突の原因は、これまでいくつも挙げられてきました。
しかし、近年謎めいた説が話題となっています。

唱えたのは、タイタニックの事故を45年に渡り取材したロビン・ガーディナーです。
彼は、1995年に出版した著書で、驚くべき主張を展開します。

「タイタニックは、わざと事故を起こして沈められた」・・・タイタニック陰謀論です。
疑惑の発端は、1912年、事故原因を追究する査問委員会に置いて船内で怪しい動きがあったことが報告されています。
事故の夜、タイタニックの無線室には先を行く船から氷山の目撃情報がいくつも届いていました。
こうした警告は、ブリッジにいた現場責任者の船長・エドワード・J・スミスへと届きます。
ところが、船長は、氷山に対する支持を出す前に、この警告を別の人物に手渡しました。
その人物とは・・・ブルース・イズメイ・・・タイタニックを運営するイギリスの有名な海運会社ホワイト・スター・ラインの社長です。
記念すべき初公開に乗り込んだイズメイ・・・この後、不審な行動をとったことを証言しています。
氷山の警告を、イズメイは警告などなかったかのように、その紙をポケットにしまい込みました。
社長、船長共に、警告を無視したのです。

タイタニックは、フルスピードの22.5ノット・・・時速42キロで闇夜の海原を突き進んでいったのです。
なぜイズメイは、視界不良という悪条件の中、警告を隠蔽したのか・・・??
なぜ、氷山衝突の危険性を無視したのか・・・??

そのヒントが、査問委員会でイズメイ自身の口から語られています。
「タイタニックにはいくら保険員がかけられていましたか?」by委員長
「500万ドルです」byイズメイ

500万ドルは、今の価値で150億円です。
イズメイは、もしや巨額の保険金を得るためにわざとタイタニックを沈没させたのではないのか??
この陰謀論を主張するが―ディナーは、そこにはさらに手の込んだ極秘工作が仕組まれていたと主張します。

タイタニックはすり替えられていた・・・??
すり替える・・・どういうことなのか??

実は、タイタニックには、先立つこと1年前に完成し、既に就航していた同じ型の豪華客船がありました。
姉妹船・オリンピック号です。
船体の長さも幅もほぼ同じ、客室の数の違いでタイタニック号の方がわずかに大きいのですが・・・外見では区別がつきません。
しかし、一見華やかな豪華客船計画でしたが、実際は、豪華客船が会社を窮地に追い込んでいたのか・・・??
オリンピック号は、建造されてから最初の数か月で過失による海軍の巡洋艦とのひどい衝突事故・・・さらに、スクリューの脱落事故までお越し、船体にかなりひどい損傷を受けていました。
大改造が必要であることが分かったとすれば、その瞬間にタイタニック号として送り出す方がましだという判断がなされた可能性がある。

新品で、150億の保険金をかけたタイタニックと、修理の経費がかさみ会社のお荷物となったオリンピック号・・・窮地を脱するため、イズメイはこの2隻をすり替え、タイタニックが初出航のふりをして、オリンピックを出港させる・・・そして事故に見せかけて、沈めてしまえば・・・??
お荷物船の代わりに保険金150億円が手に入り、手元には第一線で活躍できる新品の豪華客船が残るのです。
さらに、ガーディナーは、この計画には黒幕がいると主張しています。
アメリカ金融業界の帝王・・・巨大財閥の創始者J.P.モルガンです。
ホワイト・スターライト・ライン社は、モルガンの海運会社の子会社でした。
彼は、タイタニックの実質的なオーナーだったのです。
そのモルガンが、初出航に乗る予定だったにもかかわらず、出航直前に急遽キャンセル・・・
彼は、タイタニックの沈没を、予め知っていたのか・・・??

タイタニックと、オリンピックのすり替え疑惑・・・
インターネット上では、すり替えの証拠とされる映像が、いくつも提示されています。

すり替え説・証拠①窓の数
建造中のタイタニックと、完成後のタイタニックを見比べてみると・・・
船の前方を見て見ると窓の数が14、初公開直前の窓の数は16・・・変わっています。
オリンピック号の窓の数は16枚でした。
これは、タイタニックが公開直前にすり替えられたから・・・??

すり替え説・証拠②タイタニックにないはずのものが・・・
1985年、北大西洋の海底3,800mに眠るタイタニックの船体を映した映像の・・・そこに映し出された通路は、プロムナードと呼ばれ客室の横の通路・・・しかし、タイタニックの設計図を見ると、客室と外壁が接していてプロムナードがないのです。
一方、オリンピックにはプロムナードがあるのです。
海底に沈んでいるのはやっぱりオリンピック号??
豪華客船タイタニックの悲劇は、保険金目当てのすり替え詐欺なのか・・・??
世界はこの陰謀に騙されていたのでしょうか??

ドックから初めて海上に出た時のオリンピック号の写真を見て見ると・・・窓が14枚・・・オリンピック号の窓は16枚では・・・??
すり替え説は、タイタニックの窓の数が14枚でから16枚に変わっている=オリンピック号とすり替えたのでは??ではなかったか??
オリンピック号も、タイタニック号も、建設途中で窓が増設されています。
つまり、タイタニックの窓の数が変わっていても、おかしくないのです。

2隻と窓が14枚から増えたのであれば、出航直前のタイタニックが16枚だからと言ってすり替えられたオリンピックだという証拠にはならない・・・

では、プロムナードの謎は・・・??
確かにタイタニックは、オリンピックと同じ階にはプロムナードはありません。
しかし、一つ上の階にはプロムナードがあります。
つまり、海底映像がオリンピックだとは言い切れません。
海底映像には、船の正体がはっきりとわかる証拠が・・・??
建設時、オリンピックは400番ドック、タイタニックは401番ドックでした。
このドック番号が、船の最後尾のスクリュープロペラに刻まれている・・・??
そこには・・・401・・・タイタニックのドック番号が書かれていました。
沈没したのはタイタニックで間違いない・・・??

タイタニックの実質的オーナーJ.P.モルガンが初航海に乗る予定を不自然にキャンセルした疑惑は・・・??
確かにJ.P.モルガンは、タイタニックに乗る予定でしたが、インフルエンザにかかってしまいキャンセルしたようです。
1912年当時、インフルエンザは今よりさらに生死にかかわる深刻な病でした。
陰謀論とは都合のいい事実だけを切り取って、バカげた主張をするものなのです。
研究をせずに、簡単な答えだけをとるのは、とても悲しいことなのです。

それでは、謎は振り出しに・・・
一体なぜ、警告をポケットにしまい込み、なぜ猛スピードで航海したのか・・・??
氷山が原因で舟が沈没する事故なんて、40年近く起きていませんでした。
会社も、乗組員も、だれも氷山を危険視していませんでした。

タイタニックより30年ほど前の1879年、アリゾナ号が氷山に正面衝突!!
船首から約10m潰れたものの死者・沈没はなし・・・自力で港に帰っています。
1890年ドイツ船・ノルマニア号は、氷山が船体の斜めから激突し、しかし、浸水すら起こりませんでした。
氷山との衝突事故では、沈没せず、死者も出ていない・・・
40年もの経験に基づく安全神話が、船舶業界全体を覆っていたのです。
当時の常識は、氷山は見つかってから対応すればいい・・・
それまでは、スピードをキープしていれば良かったのです。

タイタニック運営会社の社長ブルース・イズメイも、初航海中のタイタニックの速度についてこう語っていました。

「今日は昨日よりも良かった
 明日は今日よりも良くする
 火曜日はニューヨークにつくのだ」

タイタニックは、水曜日の朝に到着予定でした。
しかし、イズメイはそれを速めて、火曜日の深夜到着するつもりだったのです。
朝の3時までに入港すれば、タイタニックのニュースが新聞の朝刊に間に合ったのです。

たとえ数時間でも早く到着すれば、会社の宣伝になる・・・
そのためには、氷山の海でスピードを落としている場合ではない!!
40年間沈没事故ゼロと言う神話を過信し、速度を優先した営利目的の企業の論理・・・
それが、タイタニック号の大惨事を招いたのです。

2017年、沈没の新説として話題になった写真があります。
イギリスのベルファスト港で、初航海9日前のタイタニック・・・
船の右舷に、不思議な影のようなものが映っていました。
この小さな影に注目したのは、タイタニック研究家のセナン・モロニーです。
船の外壁にできた隙間から、煙が漏れ出しているのでは・・・??
船内で起きていた火災により、船体はすでに非常に大きな損傷を受けていた・・・??
タイタニックは、出向前から火災が起きてて、右舷の外壁に亀裂が入っていた・・・??
これが、タイタニックがわずかな時間で沈没した理由なのでは・・・??
タイタニック内部火災説です。
タイタニックが出航前から火災が起きてたことは、沈没事故直後の査問委員会でも明らかになっています。

「石炭庫で火災が起きたのですか?」by委員長
「はいそうです」by作業員

これは、倉庫で積み上げた石炭がボイラーに入れる前から燃えていたことを意味しています。
石炭の自然発火現象です。
石炭の自然発火は、石炭の山の内部で燃え続ける・・・
船の石炭庫など、大量の石炭が積まれた場所で、適度な酸素と70度以上の熱と言う条件が揃えばできやすいのです。
タイタニックの場合、石炭庫は船の前より空左右に11部屋づつありました。
ひとつの倉庫の高さは10mほどあり、1カ所に400トンの石炭が積まれていました。
石炭火災を治めるためには、燃えている石炭を隣のボイラー室に・・・優先的にボイラーにくべて燃やし尽くすしかありません。
しかし・・・
「11人の作業員で消火に当たったが、何百トンもの石炭の前では、我々は無力でした」by作業員

消化不可能となった石炭火災・・・
影ができている部分にはボイラー室があり、5番と6番・・・ここで火災が起きていたとされています。
これが、どうしてタイタニックの短時間の沈没と結びつくのでしょうか?
タイタニックが、僅か2時間40分で沈んだ原因は??
従来の主な説では・・・
巨大な防水隔壁は、当時としては破格の15枚・・・船内を16に分けていました。
そして、もし浸水が起きたとしても、4カ所までなら沈没しないよう設計されていたのです。
タイタニックの事故直後、乗員の報告によると、第1区画から第4区画まですさまじい勢いで浸水・・・
この4区画だけなら、設計上沈没はしないはずでした。
ところが実際は、第5、第6区画の外壁にも穴が開いていたため、船の傾きは、想定よりも大きくなっていました。
その為、海水が隔壁の高さを越えて、第5、第6区画に一気に流れ込んだのです。
タイタニックがわずかの時間で沈んでしまったのは、第5、第6区画への水の溢れ・・・オーバーフローが原因ではないのか??
これが多くの専門家たちの考えです。
しかし、モロニーは、第5、第6区画で石炭火災が発生したことこそ、浸水が4区画を越える事態を招き、短時間で沈没した原因だと主張したのです。
モロニーは、査問委員会でのボイラー作業員の証言に注目します。

「隔壁が赤くなり、熱くなっているのが見えました
 塗装も、なにもかもがはがれていました
 ゆがんでいました」

しかも石炭火災が影響を及ぼしたのは、内部の隔壁だけではありませんでした。
タイタニックの石炭庫の隔壁は、船体の外壁と同じだったのです。
これは、非常に大きな設計上の欠陥と言えます。
石炭庫は、直接外壁と接触しています。
石炭火災の熱は、直接外壁にダメージを与えていたのです。
出航前から石炭火災でダメージを受けていた外壁・・・
さらに、内部の隔壁にもゆがみから隙間が・・・
衝突事故が起きる・・・そこから、第5、第6隔壁にまで浸水が起こる・・・
急激にバランス修復の限界を超えたタイタニックは、短時間で沈没してしまったというのです。



タイタニックほどの大きな船は、そう簡単には沈みません。
当時、タイタニックに事故が発生した時、連絡を受けた人々も次の日の昼頃までタイタニックは浮いているはずと想定していました。
しかし、石炭火災による隔壁と外壁の損傷が、タイタニックを非常に早く沈めてしまったのです。
当時、船では日常茶飯事だった石炭火災・・・法令上、火災を起こしたまま出航するのは禁止でした。
しかし、タイタニックのボイラー作業員は、新聞に驚きの証言を語っています。

「会社の役員に、火災のことは黙っていろといわれました
 乗客を不安にさせたくなかったのです」

さらに、出航前には、イギリスの調査団の船内視察を受けることが義務付けられていましたが・・・

「ボイラー室と石炭庫を見せてください」by視察団員
「今、作業していて入れないんですよ」by乗組員

ボイラー室と石炭庫の視察を拒否・・・!!
石炭火災を隠蔽したまま出航するため??
ホワイト・スター・ライン社は、オリンピック号の修理のため大変な財政難でした。
その上、タイタニックの出航が遅れてしまうと、さらに評判が悪くなってしまいます。
だから、火災が起きているということは、絶対に秘密にしなければいけないことだったのです。
ホワイト・スター・ライン社による石炭火災の隠蔽・・・
もし、タイタニックが火災を消化してから出港していたら、あれほどの死者が出ることはなかったのだろうか・・・??

世間から不沈船と言われたタイタニック・・・実際に、その安全設計は、当時の最高レベルでした。
当時は十分だと考えられていたのです。
タイタニックを設計した技師は、想定できるどのようなシナリオでも沈没しない・・・つまり「沈没が非現実的な船」だと考えていました。
例えば、当時の沈没事故で非常に多く想定されていたのは、浅瀬や岩場の乗り上げる座礁・・・
座礁すると、船底に穴が開き、船全体が浸水・・・そのまま沈没してしまうケースです。
しかし、タイタニックは、船底を鉄製の二重構造に設計、外壁に穴が開いても内部まで浸水しない工夫がなされていました。
これは、現代の客船にも共通する発想です。
また、船同士の衝突事故を想定し、防水壁15枚で設計し、時代の先を行く設備を採用・・・
不沈船の噂ももっともな、安全性に優れた船として生まれたのです。
しかし。沈没しないための設備は、一方でもっとも大切な安全面の軽視へつながりました。
当時、世界の海洋ををリードするイギリス商務省の規定では、

”如何なる大きさの船であっても、優れた水密区画と商務省が判断すれば、救命ボートは既定の半分設置すればよい”

船内への浸水対策が優秀なら、救命ボートの数を減らしてもいいと国が定めていたのです。
しかし、運命の1912年4月14日、過去40年無かった常識はずれの事故が発生!!
座礁でも、船の衝突でもない、氷山による沈没・・・それがタイタニックの悲劇なのです。

氷山との衝突によっていくつもの穴があき、そこからの浸水で6つの隔壁区画がダメージを受け、沈没してしまったのです。
氷の塊と擦れるように衝突して、6つもの隔壁区画が浸水するようなシナリオは、誰も想定できなかったのです。
この時タイタニックは、国の規定にのっとり、積んでいた救命ボートの定員は、乗員乗客のほぼ半分・・・
わずか2時間40分で沈没するという混乱の中、助かったのは2,200人のうちわずか700人余りでした。

タイタニックの悲劇の後、世界中から批判を受けた海運業界は、船の運用の考え方を大きく変えました。
1914年、イギリス、アメリカ、フランスなど海運国13か国は、海の安全を守るための国際条約・SOLAS条約を採択します。
乗員乗客全てが乗船できる救命艇を備えることや、流氷の監視の義務化などを定めました。
以来、時代の変化に合わせて60回以上更新し続けています。

また、タイタニックの悲劇は、船の設計においても大きな変化をもたらしました。
船は、沈む可能性があると考えられて設計されています。
客船の場合は、80%~90%以上の生存確率が無ければ認められません。
どれほど高度な安全設計をしても、乗客の生存確率を100%にすることは難しい・・・
安全に100%はありえない・・・その宿命の中、どう人の命を守っていくのか・・・??
タイタニックの悲劇は、人類全体の安全に対する意識を大きく変えたのです。

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江戸時代、幕末動乱の京都・・・町では無差別に人が斬られ、放火や恫喝が横行・・・
そんな京の町の治安を守ろうと結成されたのが、局長・近藤勇が率いた幕末最強の剣客集団とも称される新選組です。
そんな新選組が一躍有名となったのが・・・1864年6月5日、池田屋事件です。
発端は、江戸幕府と対立する長州藩などの尊王攘夷派の志士たちが京都の町を大混乱に陥れ、とんでもない計画を企んでいることが発覚したことでした。
京都の町を震撼させた池田屋事件!!その一日とは・・・??

当時江戸幕府は、欧米列強の開国要求に屈したことで、諸藩からの信頼を失い、急速に弱体化・・・
そこで、朝廷に近づき、共に政治を行うことでなんとか幕藩体制の再強化を図ろうとしていました(公武合体)。
14歳将軍・徳川家茂と、孝明天皇の妹・和宮の婚礼を推し進めたのもその為でした。
この公武合体に激しく反発したのが長州藩を中心とした尊王攘夷派でした。
すぐさま外国勢を打ち払い、時の天皇・孝明天皇を中心に政治を行うべきだと主張します。
そうした尊王攘夷派の一部の志士たちは、天誅と称して対立する幕府側の要人や、その家族を襲撃するなど過激な行動に出ていました。
そこで、悪化の一途をたどる供与の治安を守るために結成されたのが、新選組でした。
京都守護職を務める会津藩主・松平容保の配下におかれ、新選組は市中の警備を任されます。

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池田屋事件当時、新選組の隊士は40名ほど・・・
局長・近藤勇、副長・土方歳三、そして沖田総司、斎藤一、永倉新八、原田左之助、島田魁などがいました。
隊士のほとんどは農民や町民の出身でしたが、剣術道場で研鑚を積んでいました。
腕の立つ強者ぞろいだったのです。
斬捨御免の特権が与えられていたこともあり、尊皇の志士たちからは鬼神のごとく恐れられていたといいます。
対する尊王攘夷派の主なメンバーは、長州藩・桂小五郎・・・後の木戸孝允です。
長州藩から京都留守居役を命じられた桂は、京都にある長州藩の屋敷に滞在し、密かに尊王攘夷派の志士たちと連絡を取り諜報活動を行っていました。

そんな中、事態が動き始めます。
池田屋事件の4日前・・・6月1日。
この頃、新選組はある男の行方を血眼になって探していました。
桂小五郎と並ぶ尊王攘夷派の肥後藩・宮部鼎蔵です。
幕府や新選組は宮部を危険人物としてマークしていたのです。
宮部は、同じ尊皇思想である吉田松陰と親友でした。
処刑された吉田松陰の志を継ぐべく、京都での尊王攘夷運動に参加します。
さらに、宮部には長州藩と共に企んでいる噂が・・・

”御所に火を放ち、会津の容保公と中川宮の首を狙っている”

この時、長州藩は前の年に起こった政変によって朝廷から締め出され、京都の町からも追放されるという憂き目にあっていました。
その政変の首謀者だった会津藩・松平容保と宮家・中川宮二人の命を宮部が狙っているというのです。
当然そのたくらみを阻止したい新選組・・・しかし、なかなか宮部の行方がつかめません・・・。

この日も、手掛かりを求め、宮部がかつて定宿にしていた南禅寺塔頭の前で張り込んでいました。
すると、宮部の下で働く小間使いの忠蔵がやってきたのです。
忠蔵をすぐにとらえた新選組は宮部の行方を厳しく追及しますが、なかなか口を割りません。
そこで、作戦を変更し、忠蔵を利用することに・・・。
南禅寺の山門に忠蔵をくくりつけ晒し者にしたところ・・・仲間が救出に来ました。
新選組は気付かれないように忠蔵の後をつけたのです。
忠蔵の向かった先は、市場にある桝屋という店でした。
新選組はにわかに色めき立ちます。
何故なら、この桝屋、幕府側が尊王攘夷派と関係があるかもしれないと目をつけていたからです。

”表向きは、薪や炭などを扱う店だが、下働きの男2人を召し抱えている以外、家族もなく、町内の付き合いも致さず、不審である”

新選組局長・近藤勇は、すぐに桝屋を調べるように指示・・・
張り込みや聞き込みを続けました。
その結果、桝屋の主人・古高俊太郎と尊王攘夷派の志士たちの深いつながりがわかってきたのです。
果たして桝屋主人・古高俊太郎と尊王攘夷派の関係は・・・??
近江出身の古高は、儒学者で尊王攘夷派の指導者・梅田雲浜の弟子でした。
しかし・・・1859年、雲浜は安政の大獄で投獄中に病死していました。
古高は、その志を継ぎ、京都での尊王攘夷運動に参加します。
その後、縁あって、桝屋に養子に入り”桝屋喜右衛門”を名乗りました。
古高は、商人という隠れ蓑を利用し、諜報活動に没頭・・・
いつしか桝屋は、尊王攘夷派の活動拠点となっていきます。
実は桝屋、筑前藩御用達であったため、武士である尊王攘夷派の志士たちが出入りしても、目立たなかったので、重用されていました。
そして、新選組が行方を追っていた宮部鼎蔵も桝屋に仮住まいし、活動拠点にしていたのです。
さらに、古高は長州藩からある重要任務を任されていました。
それは、長州藩に朝廷の情報を提供する連絡役だったのです。
当時、朝廷内の重職は、幕府派で占められていましたが、有栖川宮は数少ない長州派でした。
有栖川宮は、幕府の介入によって孝明天皇の妹・和宮との婚約を破棄されていました。
和宮は、結局14代将軍・家茂に嫁いでいます。
長州藩は、有栖川宮熾仁親王を足掛かりに、朝廷での復権を目論んでいました。
しかし、古高と有栖川宮とのつながりは・・・??
古高は、父親の代から山科にある毘沙門堂の門跡に仕えていました。
その門跡が、有栖川宮の叔父であったため、古高は有栖川宮との交流があったのです。
長州藩にとって、古高はまさに好都合な人物だったのです。
古高俊太郎は、長州藩と朝廷を繋ぐ重要な連絡係であり、尊王攘夷派の志士たちの強力な支援者だったのです。

近藤勇は、桝屋の摘発を命じます。
1864年6月5日、池田屋事件当日早朝・・・
緊張の面持ちで、四条にある桝屋へと向かう新選組の隊士たち・・・
この時、尊王攘夷派の志士たちが潜伏しているというとの情報を得ていました。
ところが、いざ桝屋へ乗り込んでみると、中にいたのは主人の古高俊太郎ただ一人・・・!!
実は、京都に残ることを許された長州藩士たちが、忠蔵が捕まったと聞き危険を感じて、宮部鼎蔵ら尊皇攘夷派の志士たちを藩の屋敷に匿っていたのです。
してやられた新選組の面々・・・
しかし、このまま手ぶらで帰るわけにはいきません。

「徹底的に調べ上げろ!!」

すると、奥にあった蔵の中から、刀や鉄砲など大量の武器と甲冑が出てきたのです。
それは、古高が来るべき時に備え、買いそろえていたものでした。
さらに、志士たちが書いた命を懸けて戦うとの血盟書や長州藩との書簡も出てきました。
そこには・・・
”御所に火を放ち、会津藩主・松平容保、宮家の中川宮を襲撃する”
と・・・襲撃をほのめかす内容が書かれていたのです。

尊王攘夷派が企む過激な計画の確かな証拠をつかんだ新選組は、古高を連行し、意気揚々と壬生の屯所に引き上げていきました。
そしてこの日の夜、池田屋事件が起きるのです。

6月5日、池田屋事件当日・午前・・・
古高を三部の屯所に連れ帰った新選組は、さらに厳しい尋問を行いました。
担当したのは、鬼の副長・土方歳三でした。
土方は、古高を逆さづりにし、拷問にかけます。
五寸釘を古高の足の甲に打ち込み、貫通させた上でそのくぎにロウソクを立てました。
火を点け、暫くすると熱いロウが古高の傷口に滴り落ちていきます。
たまらず、大きなうめき声をあげる古高・・・
それでも、もだえ苦しみながら耐え忍んでいましたが、30分ほどで観念・・・
一説には古高はこう白状したといいます。

「6月22日ごろ、風が強ければ御所を焼き打ちし、帝を奪い去り、山口城へと連れ去る謀反を企んでいる
 その為、大勢の長州人が京都に潜伏している」

松平容保や中川宮を襲撃するどころか、孝明天皇を長州藩の山口へと連れ去ろうとしているというのです。
天皇が連れ去られるなど、前代未聞・・・!!
これは一大事です。
当然、市中の取り締まりを任せられていた新選組の面目も丸つぶれに・・・
なんとかしなければ・・・!!

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古高俊太郎の自白によると、御所襲撃計画の実行は6月22日ごろ・・・
この時は6月5日でしたが、近藤勇は焦っていました。

「我々が古高を捕らえたことで、やつらは慌てて事を起こすかもしれん!!
 ・・・!!
 今日は宵々山か・・・!!」by近藤勇

この日は、祇園祭の直前に行われる祭り・宵々山の日でした。
毎年、町には大勢の見物客が訪れます。
近藤はその混乱に乗じ、尊王攘夷派の志士たちが仕掛けてくると、考えたのです。
すぐに、京都守護職で新選組を統括する会津藩主・松平容保に事態を報告!!
そして、潜伏する志士たちを摘発する為に支援を要請しました。
これに対し、会津藩は・・・

”一橋様 桑名様 町奉行と相談の上 人を差し出そう
 夜五つ時 祇園会所前で待つよう”

この時、京都の警備にあたっていたのは容保の会津藩の外、禁裏御守衛総督・一橋慶喜、容保の弟で京都所司代の松平定敬の桑名藩、そして京都町奉行所などでした。
会津藩は、それぞれに根回しして援軍を送るので、夜5つ時・・・9時ごろに八坂神社近くにある祇園会所前で合流しようというのです。

その頃、尊王攘夷派の志士たちは・・・
古高が捕縛されたと聞き、長州藩の屋敷に次々と集まってきていました。
重要な協力社を奪われ、今後どうするのかを激論を交わします。
一説に、その席には尊王攘夷派のリーダー・宮部鼎蔵や、長州藩主の吉田稔麿などもいたといいます。
吉田は、松下村塾出身で、高杉晋作、久坂玄瑞と共に”三秀”に数えられ、将来を嘱望された若者でした。
そして、宮部と吉田の二人は、この夜起こる池田屋事件に巻き込まれることになるのです。

池田屋事件当日昼過ぎ・・・
新選組は、夜の摘発に向けて早くも動き出しました。
局長・近藤勇は、病に伏していた一部の者を屯所に残して34人で出動することにします。
潜伏する尊王の志士たちに気付かれないよう、数人に別れ分散して出動させました。
さらには、武器や甲冑などをまとめて大八車に乗せ隠しながら運びました。
慎重に事を進めたのです。

池田屋事件当日8時ごろ・・・
準備を整えた新選組は、まだ会津藩との約束前でしたが、それを待たずに動き出します。
近藤は、隊を自分が率いる組(10人)と、土方歳三が率いる(24人)二つに分けます。
土方率いる24人に祇園界隈の捜索をはじめませます。
この時近藤は、潜伏先を祇園と三条周辺にある茶屋や旅籠など二十数カ所に絞っていました。
茶屋は、会員制で不審なものが入ってくることはなく、芸妓の口が固かったので、情報が漏れにくかったのです。
旅籠は、様々な場所からいろいろな身分の人が宿泊したので、志士たちは紛れ込みやすかったのです。

そして会津藩との約束の9時・・・
約束の時間になっても、援軍はやってきませんでした。
どうして幕府の援軍は来なかったのでしょうか??

援軍は、来るには来たのですが、かなり遅れてやってきました。
遅刻した理由は、色々説がありますが・・・
①会津藩が根回しに時間がかかってしまった
②新選組とは違う作戦で摘発するつもりだった
夜9時ごろの集合時間はあくまで目安で、会津藩は指示を出すまで配下の新選組は動かないと思っていたのです。
援軍が期待できない中、近藤率いる10人も動き始めました。
しかし、尊王攘夷派の志士たちの潜伏先はいまだ不明・・・目星をつけていた個所を探していくほかありません。
祇園周辺と三条周辺の二手に分かれて捜索する新選組・・・
先に土方歳三率いる24人が祇園周辺を調べていましたが、なかなか見つかりません。
一方、近藤が率いる10人は、四条通から木屋町通りを北上し三条へと向かいます。
この辺りには多くの旅籠は軒を連ねていたからです。

池田屋事件当日夜10時ごろ・・・
そんな中、新選組は三条にある旅籠・池田屋で長州藩と尊王の志士たちが密会をしていることを突き止めます。
尊王攘夷派の志士たちはどうして池田屋にいたのでしょうか?
当時、長州藩京都留守居役だった桂小五郎は、この時のことを後にこう書き残しています。

”かつて古高と同盟していた者を三人選んで古高救出に加わることを許し、他の者が門を出ることを禁じた
 私もこの夜、池田やで会合する約束をしていた“

古高が長州藩と朝廷の一部との窓口になっていたので、新選組に捕縛された古高俊太郎をいかにして奪還するか相談するための会合でした。
”すぐに奪還すべき”という過激派と、”慎重に状況を見極めるべき”という慎重派に分かれていました。
一説に、宮部鼎蔵や吉田稔麿は、過激派を思いとどまらせようと池田屋にやってきたともいわれています。

近藤勇は、近隣の者から池田屋の間取りを聞き出します。
建物には、三条通側にある表口の外に、裏手にも出入り口があることが分かり、近藤はそれぞれに3人の隊士を配置、そして、近藤・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4人で中へ踏み込みます。

夜10時30分頃・・・
近藤は、怯むことなく踏み込んでいきました。
すると、奥から旅籠の主人が出てきました。

「今宵、御用改めである」by近藤勇

驚いた主人は、急いでおくに・・・2階に向かって

「御用改めでございます!!
 御用改めでございます!!」by池田屋主人

そう叫びます。
池田屋は、元々長州藩の定宿で、何かと尊王攘夷派の志士たちに融通をきかせていました。
近藤は、主人を殴り飛ばし、奥の階段から沖田と共に二階へ上がります。
するとそこでは・・・十数人の志士たちが、密会していたのです。

「手向かい致せば容赦なく切り捨てる!!」by近藤勇

志士の一人が斬りかかってきました。
沖田はそれをかわし、すかさず切り捨てたのです。
すると、尊王攘夷派の志士たちの大半が、吹き抜けになっていた中庭や裏庭に飛び降りたため、近藤は急いで1階に向かいます。
その直前、沖田総司が突然倒れてしまうのです。
今までは、持病の結核で喀血し倒れたと言われていましたが、喀血なら医学的にそれ以後4年も生きられないのではないのか??と言われています。
最近の説では、暑さにやられて熱中症だったのではないか?と言われています。
いずれにしても、剣の達人の沖田の離脱は、新選組にとっては大きな痛手でした。
近藤、永倉、藤堂のわずか3人で戦うこととなった新選組・・・
そこで近藤は、永倉には表口付近の台所で、藤堂には中庭付近で戦うように指示・・・自分は奥の間で敵を迎え討ちました。
すると・・・まず、永倉が表口に逃げようとする敵を続けざまに後ろから仕留めました。
一方、中庭付近にいた藤堂は、敵に額を切られてしまいます。永倉が助太刀し、命だけは助かりましたが、出血が激しく、藤堂も離脱・・・残るは、近藤と永倉の二人だけ!!
絶体絶命のピンチ!!
しかも、近藤は大勢を相手に苦戦!!
その時のことを、永倉は晩年、こう振り返っています。

「近藤は、2、3度斬られそうになっていた」

その窮地を救ったのが、新選組最強の一人に数えられていた永倉その人だったのです。
永倉の余りの強さにおののき、一部の尊王攘夷派の志士が降伏・・・
丁度その頃・・・一報を聞いた土方歳三率いる一団が、ようやく祇園から駆けつけました。
一気に形勢は逆転、土方や、島田魁などの活躍により、新選組は池田屋にいた尊王の志士たちを見事鎮圧したのです。
踏み込んでから、1時間半ほどが経っていました。

6月6日、深夜0時半ごろ・・・
会津藩や、桑名藩など幕府の援軍が到着しました。
新選組は、援軍と共に潜伏する残党をも一網打尽にしたのです。
近藤勇によると、池田屋とその周辺を含め、新選組は7人を斬殺、4人を手負いにし、23人を召し捕ったといいます。

しかし、この時亡くなった長州藩や尊王攘夷派の志士たちの身元についての詳しい記録は残っていません。
一説に、尊王の志士たちのリーダー格だった宮部鼎蔵は池田屋で自刃、長州藩士の吉田稔麿は、援軍を呼ぼうと長州藩邸に戻る途中に討ち取られたと言われています。

幕末最強の剣客集団・新選組が、京都三条にあった旅籠・池田屋で密会する尊王攘夷派を襲撃した池田屋事件・・・
この池田屋での会合に、長州藩京都留守居役の桂小五郎も出席する約束を交わしていましたが、難を逃れています。
後年、桂はこう記しています。

「約束の刻限に池田屋に行ったが、まだ誰も来ておらず、一度池田屋を後にし、対馬藩の屋敷で待たせてもらっていた
 その後、新選組が池田屋を襲撃した」

なんと、桂は、新選組とニアミスしていました。
そして、すんでのところで難を逃れていたのです。

一方、事前に尊王の志士たちの過激な計画を阻止し、京都を混乱から守った新選組は、幕府から総額600両、の報奨金が与えられ、新選組の名を天下に知らしめたのです。
しかし、この時、多くの同志を殺された長州藩から大きな恨みを買ったことで、やがて新選組の運命は一転・・・
時代の波に飲み込まれていくことになります。

池田屋事件から3年・・・長州藩が、薩摩藩と手を組み倒幕を叫ぶと、15代将軍・徳川慶喜は、あっさりと政権を返上。
しかし、江戸幕府が終わりを告げても、なお、徳川に忠義を尽くし続けた新選組は、逆賊となってしまうのです。
局長・近藤勇や、土方歳三は、旧幕府軍と共に最後まで抵抗を続け、無念の死を遂げていきます。
池田屋事件での新選組の活躍は、長州藩をはじめとする尊王攘夷派に、大きな打撃を与え、明治維新が1年遅れたともいわれています。
しかし、時代の波には逆らうことが出来なかったのです。
そう思うと、池田屋事件は、幕末最強の剣客集団と畏れられた新選組のハイライト・・・最後の花道だったのかもしれません。

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新選組・池田屋事件顛末記

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およそ100年前・・・第1次世界大戦終結に湧く世界の足元で、未知の感染症が猛威を振るっていました。
スペイン・インフルエンザ・・・世界で5億人が感染し、5000万人もの命を奪ったと言われる史上最悪のパンデミックです。
日本では、スペイン風邪と呼ばれ、国民のおよそ半数が感染・・・50万人が亡くなったとされます。
この恐るべき感染症に、日本人はどう戦い、どう生き抜いたのか・・・??

第1次世界大戦末期の1918年春・・・
ヨーロッパ戦線に集結した各国の軍隊の間で、謎の感染症が流行していました。
発端は、アメリカのファンストン軍事基地で死亡した48人の肺炎患者だと言われ、感染は4か月で世界に広がりました。
しかし、戦時かにあった各国は、感染情報を隠蔽・・・
中立国スペインの発表だけが知れ渡り、いつの間にかスペイン・インフルエンザと呼ばれるようになりました。
第1次世界大戦による人の移動がパンデミックを引き起こしたのです。

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いまだと毎年のようにインフルエンザが流行りますが、当時、田舎で生まれ育った人たちは一生で一度もインフルエンザに罹ったことのない人がいたと思われます。
そんな人たちが、ヨーロッパに一堂に会して兵舎で暮らしたりすると、3密状態・・・
免疫がない状態に、一気に感染が広まってしまう・・・。
戦争が終わり、母国に帰り、水際を通り越して市中感染に繋がったのです。
グローバル化の象徴的な出来事でした。

1918年9月・・・日本にも上陸、スペイン風邪と呼ばれるようになりました。
病原体は、神戸や門司、大阪などの湾港から貨物や乗客と共に上陸。
その後、鉄道に乗って地方都市へと運ばれていきました。

おりしも、第1次世界大戦の軍需景気の真っただ中・・・農村から来た労働者らが、炭坑や製糸工場のような過密空間で働くことで、次々とクラスターが発生しました。
都市部の病院には、患者たちが殺到し、医師や看護婦にも感染・・・医療崩壊が起こっていました。
一方、当時農村地帯だった栃木県矢板市では、一人の医師が厳しい医療の現実を克明に記録していました。
それが、「世界的流行性感冒の見聞録」・・・開業医・五味淵伊次郎の手記です。
医師自身が記したスペイン風邪の記録としては、現存する唯一の物です。

10月下旬、地元の農林学校の生徒が、東京への遠足から帰ってくると続々と発病者が現れます。
体温は、38度から39度
頭痛やのどの痛みを訴え、患者たちの顔は、みな赤黒い色をしている

2日後には、矢板駅の駅員も倒れ、駅の利用者や、その家族から村全体に瞬く間に感染が広がっていきました。
自転車で十数キロ離れた村々を往診しますが・・・間に合わずに遺体と対面することもしばしばでした。
医師の欠乏・・・
大正期から昭和の初期は、農村と都市部の医療格差が大きくなった時代でした。
農村では、現金収入がないから医療費を払えない・・・
医者は、「農村では食えない」と、都市部に流れるのです。
当時は、国民皆保険ではないので、悪くなるまで医者を呼ばない・・・そうなると、家族が看病し、その家族が倒れたときは親戚が応援に来るので、親戚にまで広がってしまうという悪循環を起こします。

そして、五味淵の家で働いていた15歳の少女も感染し、危篤状態に陥ってしまいます。
五味淵は、当時はやっていたジフテリアと、スペイン風邪の症状が似ていることに気付き、一か八かジフテリアの血清療法を試そうとしました。

「しかし・・・動物試験のような注射を、人の子供に打つことなど、どうしてもできなかった・・・
 しかし、今は、試みなかったことを憾む・・・」

結成の投与をためらう五味淵を前に、少女は翌朝息を引き取りました。
その4日後には、五味淵の妹もスペイン風邪に侵され、血痰を吐き、呼吸困難に陥ります。
五味淵は、妹を救いたいという一心で、ジフテリア血清の注射を決意します。
手記には、注射後に、妹の呼吸や脈拍、体温が落ち着いて行く様子がつぶさに記録されています。
妹の命がかかった治療の記録を、全国の医師たちにも役立ててほしいと書き留めたのです。
五味淵は、自分自身にも血清を試したうえで、効果を確信し、村人たち99人に241回ジフテリア血清を注射しました。
しかし、現在の価値で数万円にもなる高価な費用を貧しかった農民たちを払うことが出来たのでしょうか?
五味淵の生活・・・
請求したものが全て医療費としてもらえる方が少なくて、お野菜、お米と交換したり、質素に暮らしていたのではないのかと思われます。
1919年3月・・・スペイン風邪第一波終息・・・死者25万人!!
つかの間の平穏が訪れていました。

1919年秋・・・スペイン風邪第二派到来!!
死亡率は、第一波の五倍に相当していました。
社会全体に不安が立ち込める中、医学界を代表する二つの権威がワクチン開発を巡ってしのぎを削りました。
一早く動いたのは、北里柴三郎率いる民間の北里研究所・・・
細菌の研究で、世界にその名をとどろかせていました。
北里研究所は、スペイン風邪の病原体は、インフルエンザ菌という細菌だと断定。
これを用いたワクチンの開発に乗り出そうとしていました。
それを真っ向から否定したのが、東京帝国大学医学部教授・長与又郎が率いる国立伝染病研究所です。
長与たちは、インフルエンザ菌以外の未知の病原体が作用しているのではないかと考えました。
しかし、その存在を説明するすべがなく、病原体は不明という立場をとりました。

そもそも、インフルエンザの真の病原体が、最近よりもさらに1/100ほど小さなウィルスと判明するのは、この時から14年後のこと。
当時使われていた光学顕微鏡では細菌は観察できても、ウィルスの姿を見ることは不可能でした。
しかし、北里たちは、ペスト菌や赤痢菌など細菌の発見によって医学を進歩させてきたという自負がありました。
その使命感から、1919年11月、インフルエンザワクチンを用いたワクチン製造に踏み切りました。
北里側にすれば、自分たちは細菌学の最先端の技術、最先端の知識でやっている・・・
北里研究所の人たちは、成功の連続でした。
成功体験を、人間は変更することは難しかったのです。
自分達の最近の発見のその先に、インフルエンザ菌が存在するように考えていました。
北里研究所のワクチンが、世間で熱狂的に受け入れられる中、国の威信がかかる伝染病研究所の長与たちも苦渋の決断をします。
北里たちから遅れること1か月・・・病原は依然として不明としながらも、北里研究所が主張したインフルエンザワクチンに肺炎の予防ワクチンを加えた混合ワクチンの製造を始めたのです。
伝染病研究所は、「よくわからない」と言いながら、北里側がワクチンブランドとして高名になっていく・・・
伝染病研究所は、完全に後れをとって、「国は何をやってるんだ」と言われながら、追いつくためにインフルエンザ菌や他の肺炎球菌を使いながら作っていく・・・どうしても対抗上、そうせざるを得ませんでした。

二つの研究所が、成分の異なるワクチンを製造した問題は、やがて国会へと波及・・・
専門知識がない政治家たちも、ワクチンに口を挟みだしました。

「北里研究所では、病原を確定してワクチン製造を行っているが、政府の伝染病研究所では、病原を不明としたまま混合ワクチンを出した
 政府はどちらの予防ワクチンを認めるのか、明らかにしてほしい!!」by土屋清三郎議員

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世論に押された政治家たちは、医学者への要求を日に日に高めていきました。
そもそも、現代医学の知見からは、二つの研究所のワクチンは細菌をもとに作られたもので、インフルエンザの予防効果は疑わしいとされています。
しかし、当時の人々は、ワクチンに大きな期待を寄せました。
民間の製薬会社も開発に乗り出し、全国およそ20カ所でワクチンが量産される一大ブームが巻き起こります。

とにかく薬を作らなければいけない、是非とも薬を作ってほしいという要請にこたえるために、一生懸命してしまったのです。
北里研究所がワクチンを作った時に、伝染病研究所も「何をしているのか?」と言われないように、ワクチンwの作る方向に流れてしまったのです。
世の中の流れの強さ、流行のようなものを誰も止めることが出来なかったのです。
当時からワクチンの効果を疑問視する声も上がっていました。
しかし、最終的には500万人以上がワクチンの接種を受けたと言われています。
1921年夏を最後に、スペイン風邪の流行は終息します。
それと共に、世論や政治にあおられたワクチン開発競争は次第に忘れられていきました。

スペイン風邪が日本を襲った当時、政治の民主化を求める国民の声が高まり、全国で労働運動や普通選挙運動が盛り上がりを見せました。
大正デモクラシーです。
平民宰相と呼ばれた原敬が率いる政府は、スペイン風邪の対応に当たります。
しかし、国民への強制的な介入は避け、各自の予防自覚を促すことを優先しました。
明治時代のコレラやチフスのように、警察が強引に感染者の隔離や、商店の閉鎖を行えば、国民の激しい反発は避けられない・・・!!
政府は、衛生行政の転換を迫られていました。

当時の政府の取り組みを記した資料が残されています。
「流行性感冒」・・・内務省衛生局がまとめたスペイン風邪の報告書です。
行政の対応や、全国の感染データなどが、500ページにわたって克明に書かれています。
中でも政府の方針を端的に示すのが、スペイン風邪予防のポスターです。

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病原体をユニークな姿で書いたもの・・・
見えないはずのウィルスの感染経路を赤い点線で記し、咳エチケットを促すポスターも・・・!!

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帰宅後のうがいやマスクの着用など、衛生習慣はスペイン風邪をきっかけに、日本に定借したと言われています。

日本では、イラストやキャッチコピーを多用することで、高圧的な印象を与えないように工夫をしていました。

それまでは、国民・住民というのは、命令する対象・取締りの対象と考えていましたが、住民が理解して、行動しなければ問題の対策にならない・・・ということ・・・行動の変容を訴える形に変わっていきました。


さらに、注目すべきは、全国の自治体独自の対策です。
報告書の1/5を占めていました。
埼玉県では、陸軍飛行場から飛行機を飛ばし、飛行機から感染対策のビラを撒きました。
北海道では、女学生たちにマスクづくりの協力を要請・・・出来上がったマスクを劇場や寄席の入り口で無料配布しました。

東京では、ワクチンの接所を受けられない低所得者のためや缶無料注射所を作り、医療格差の是正に取り組んでいました。
紂王の人でも気づかなかったような地方独自の政策を、拾い上げ、記録していくことで新しい公衆衛生の糧にしていこうという意識が、内務省衛生局の人にもあったのではないのか??

国や警察による一方的な介入ではなく、地域が率先して感染対策に取り組む動きが、昭和の保健所の誕生にもつながっていきます。
全国に設置された保健所は、地域の住民を守る公衆衛生の最前線となったのです。

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歴史上、日本を襲った数々の感染症・・・天然痘・コレラ・赤痢・インフルエンザ・・・
幕末から明治にかけて感染症の克服に尽力した3人とは・・・??
彼等の志は、現代の危機に何を問いかけるのか・・・??

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①蘭方医・緒方洪庵・・・挑んだのは、江戸時代多くの人命を奪った天然痘です。
洪庵は、西洋伝来の予防法を広めようとしますが理解されず、誹謗中傷に晒されます。

「新しい知識で人々の命を救いたい!!」

洪庵を支えた信念とは・・・??

江戸時代、経済の発展と共に、都市に大勢の人が集まりました。
18世紀前半には、江戸の人口は100万に達したと言われ、大坂や京都でも過密化が進みました。
そうした中、ある疫病が毎年のように流行し、人々の命を脅かすようになっていました。
天然痘(疱瘡)です。
当時、放送と言われたこの病は、子供を中心に流行しました。
体のあちこちに水泡ができ、数日のうちに化膿・・・その後、水泡が内臓にまで広がり肺を損傷・・・10人のうち3人が死に至る恐ろしい病でした。
江戸時代の人々は、天然痘にどのように対処していたのでしょうか?
天然痘が出た家には、赤いものを送る風習がありました。
一体どうして・・・??
みんなが天然痘にかかる・・・しかも、子供のうちにかかる・・・もう生まれながらにして天然痘の毒を内蔵に抱えているんだろう。
だから、毒をうまく引き出すためには赤色(痘)は、赤色を好むだろうから赤をうまく引き出そうとしたのです。
赤い絵には体の中の毒を外に出す力がある・・・人々は、病除けのまじないにすがるしかなかったのです。
そんな天然痘への対策に、革命を起こす人物が現れました。
大坂・適塾!!
日本随一の蘭学塾として知られ、西洋の先進的な学問を学ぼうと各地から若者たちが集まりました。
大村益次郎、橋本佐内、福沢諭吉・・・日本の近代化を導く逸材たちが巣立っていきました。
この適塾を開いたのが、緒方洪庵です。
蘭学者であり、有名な町医者でもありました。
ある日洪庵は、オランダの医学書の翻訳を読み、西洋に天然痘の効果的な予防法があることを知ります。
牛痘の接種です。
牛痘は、牛に感染する病気ですが、人にも感染し、軽い症状を起こすことがあります。
そのウィルスが天然痘のウィルスとよく似ているため、予め牛痘を接種すると天然痘に対する予防ができました。
世界初のワクチンでした。
牛痘の接種は、ヨーロッパやアメリカで広がっていたものの、日本には伝わっていませんでした。
牛痘の海に含まれるウィルスが、長い船旅の間に感染力を失ってしまうからでした。

1849年、ついに、牛痘の輸入に成功したという知らせが・・・!!
洪庵はすぐに牛痘を手に入れた福井藩の医師・笠原良策に面会、人命を救うために牛痘を分けてほしいと頼みました。
しかし、笠原は、「藩に持ち帰るための物だから渡せぬ」と断ってしまいました。
日本全土から放送を根絶しなければという発想がなかったのです。
洪庵の考えは違いました。
”命を救う治療法は、全ての人に施されるべき”
洪庵の必死の頼みに笠原も折れ、牛痘を分けました。
洪庵は、この牛痘を全国に広める決意をします。

まず大阪に除痘館を作り、牛痘接種・種痘をはじめます。
しかし、大坂市中に噂が広がります。

”牛痘を接種すると子供たちが牛の体になる
 洪庵のもとで治療を受けれはいけない”

当時の庶民にとって、西洋医学は得体のしれない妖術のようなものでした。
結果、だれも洪庵の種痘所に寄り付かなくなってしまいます。
おまけに洪庵を悩ませたのは、牛痘の保存でした。
感染力を保ったまま、牛痘を維持していくことは、当時の医療技術では難しいことでした。
当時は、子供から子供へうつしていくしか、長期に維持していくやり方がなかったのです。
子供に牛痘を植えて、4日~1週間で膿が出てきたときに、その膿の中にウイルスがたくさんいるので、それを取り出して別の子どもに植えていくしかありませんでした。
うまく次の子に行かなかったということも時々起こり、維持がそこで絶えてしまうのです。

洪庵は、生活に困っている人々に米や金を与え、牛痘の維持に協力してくれる子供たちを募りました。
しかし、それが3年も続くと資金は底をつき、仲間たちも彼のもとを去っていきました。
それでも洪庵は諦めませんでした。
やがてその苦労が報われる時が訪れます。
洪庵が牛痘を打った子供は、天然痘にかからない・・・牛痘の予防効果が人々の間で知られ始めたのです。
徐々に種痘をしてほしいという人が除痘館に集まってきました。
洪庵は、どんな思いで種痘に挑んだのでしょうか??

「この事業は、医の仁術としての役割を旨とするのみ
 世のために 新しい種痘法を広めることが目的のため、利益を得ることがあっても己の物とせず、さらに仁術を行う資金とする」by洪庵

洪庵は、その誓いを貫きます。
1858年、除痘館は日本初の幕府公認の種痘所となります。
洪庵は牛痘を各地の医師に分け与え、普及に努めました。
それは全国200か所近くにのぼり、天然痘から人々の命を守る拠点となっていきました。


長与専斎 (長崎偉人伝) [ 小島和貴 ]

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②長与専斎・・・肥前国大村藩の生まれ
16歳の時、医者だった祖父の勧めで適塾に入門します。
緒方洪庵の薫陶を受けながら、当時最先端の蘭学や医学を学びました。
明治維新後は、文部省に入省・・・岩倉使節団に加わり海外視察の任務にあたります。
欧米諸国の医学制度を学ぶことが目的でした。
しかし、現地で専斎はあることに気付き、強い衝撃を受けます。
自伝の中で彼はこう語っています。

「諸外国には国民一般の健康保護を担当する特殊な行政組織があることを発見した」

国が土地を清潔に保ち、食べ物や薬の品質を管理し、貧しい人の救済をする・・・
医者だけでなく、行政も国民の健康を守るというのです。
それは、当時の日本にはない考えでした。
江戸時代から行われていた養生という取り組みはありました。
養生は、住民自身が自分で健康管理を行うところが特徴で、行政が幕府の責任で住民の健康を管理する行いはありませんでした。
日本が近代国家になるためには、この仕組みを作らなければならないと、日本に導入しようとします。

帰国した専斎は、ある法令をまとめています。
現代の医学制度の原点と言われている「医制」です。
この医制の中に、専斎は日本の行政支城画期的な言葉を記しました。
”衛生”・・・新たな健康保護事業を衛生と名付けたのです。
そして1875年、内務省衛生局創設。
専斎は、その初代局長となりました。

1877年7月・・・専斎に大きな試練が・・・!!

”清国の厦門でコレラが流行している
 船に乗って日本にやってくるかもしれない” 

コレラは、当時日本人が最も恐れた感染症でした。
コレラは観戦すると激しい下痢症状に襲われ、2.3日でバタバタとひとが死んでいきます。
三日コロリともよばれた恐怖の疫病でした。
もし、再び日本で流行すれば、とんでもない事態となります。



専斎は、早速対策に着手します。

まずおこなったのは、コレラへの予防対策の徹底・・・
その中で専斎は、開港検疫の規則を定めました。
水際で、コレラの流行を食い止めようとしたのです。
しかし、ことは思うように進みません。
外国船が検疫を拒否・・・
幕末に、欧米列強と結んだ不平等条約があったため、日本には外国船を取り締まる権限がなかったのです。
そんな中、9月5日、海の玄関口・横浜で最初のコレラ患者が・・・!!
翌6日には、長崎で患者が発生!!
おりしもその時、九州では西南戦争が行われていました。
勝利した官軍の兵士たちが、鹿児島から神戸へと帰還する船の中でも新たなコレラ患者が見つかります。
神戸につくと、兵士たちは検疫官の制止を振り切り、次々と上陸します。
9月には82人だった大阪・兵庫の感染者は、10月には2223人に膨れ上がりました。
専斎は、各市町村に患者と死亡者の数を届けるよう求めていました。
統計をとることで、流行地域を把握し、拡大を防ごうとしました。
さらに、避病院という隔離病院を設け、感染した患者を隔離しました。
患者の出た家には、「コレラ伝染病あり」と書いた紙を門戸に貼り、近所の人に注意を促しました。
しかし・・・この対策に人々は反発します。

衛生の知識というのは、住民に浸透することが非常に重要ですが、なかなか浸透しません。
隔離される意味が住民には伝わらないので、自分達が患者を出した家であると知られたくないために隠蔽行動に出たりしていました。

町や村では警察を動員して隔離を徹底しようとしましたが、人々は抵抗し、警察所を襲うこともありました。
わずか3か月で流行は広がり、この年のコレラ感染者数13,816人、死者8,027人に及びました。
コレラ蔓延を防ぐために、衛生意識を高めるためにはどうすればいいのか??

流行の後も、コレラは日本を襲い続けます。
特に1879年の流行は、甚大な被害を出し、死者は10万人にも及びました。
衛生局がこれらの対策を練っても、人々は隔離を恐れ、患者を隠蔽してしまう・・・
どうすればいいのか・・・??
専斎は、一つの結論に達します。

「人民の側に立ち、その裏側に入り、懇ろに理義を説き諭すことが必要だ」

庶民の事情にも耳を傾け、じっくり話し合い、粘り強く国民の衛生意識を高める必要があると考えたのです。
1883年、専斎は、大日本私立衛生会設立。
政府要人や衛生局の官僚に加えて、民間からは医者や学者、実業家らが参加しました。
最盛期には会員は総勢6500人に達し、衛生をめぐる活発な議論が行われました。
その成果を社会に還元していくことも重要な務めでした。
毎月発行された会の機関誌には、日本の衛生に関する様々な意見や主張が掲載されました。
食事や運動、衣服の選び方まで新しい時代の衛生的な暮らしを官と民が一緒になって議論しました。
様々な方法で衛生意識の普及がなされました。

専斎は、衛生の知識をわかりやすく人々に伝えました。
国が強制するのではなく、民衆が理解し、自ら実践する自治衛生を目指したのです。
議論の中で特に大きく取り上げられたテーマは・・・飲料水の問題でした。
当時、都市部の人口増加に伴い、飲み水となる井戸水の汚染が大きな問題となっていました。
一方、その頃コレラ菌が発見され、コレラ流行の主な原因が汚染された水だとわかってきました。

近代的な上下水道を作ることが急務でした。
しかし、工事には莫大な予算がかかるため、反対意見も多かったのです。
そこで専斎は、ある物を作りました。
それは今も東京・神田の地下に眠っています。
神田下水・・・専斎は、全長4キロの小さな下水道を作り、その効果を目に見える形で示したのです。
雨水や生活排水を下水に流すことで、飲料水の汚染を減らすことが出来ると証明しました。
さらに専斎は、粘り強く政府と交渉し、東京の上水道施設計画を作り上げました。
すると他でも賛同され、水道工事が全国に広まっていきました。
それぞれ完成した水道は、地元の住民たちの協力によって維持され守られました。
行政と民間が連携して実現する自治衛生・・・それは、専斎はがこれらとの戦いの中から生み出したものでした。

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③後藤新平・・・もともと福島の医学校を卒業し医師として働いていました。
その能力を専斎に見いだされた後藤は、内務省衛生局に入り、局長・専斎の懐刀として活躍しました。
やがて後藤は最大の感染症危機に挑むこととなります。

1895年、前年に始まった中国との日清戦争は日本の勝利で終わろうとしていました。
相次ぐ戦勝に湧く一方、衛生環境の悪い戦地では日本兵が次々と感染症に倒れていました。
戦争が終わり、20万もの兵士が一斉に帰還すれば、未曽有の感染症流行の恐れがありました。
そのことに気付いた政府は、急遽水際での大規模な検疫計画を決定します。
その陣頭指揮を任されたのが後藤新平でした。
しかし、これほど大規模な検疫を日本は経験したことが無い・・・

後藤が任務に就いたのは、4月1日・・・大陸から兵士たちが帰還するまでわずか3か月・・・時間がありませんでした。
瀬戸内海とその近隣の島で検疫を行うことが決定され、検疫所の建設に取り掛かりました。
しかし、2週間後、後藤を追い込む事態が起きます。
4月17日、清との間に講和条約が結ばれ、兵士たちの帰還がさらに1か月早まることとなったのです。
余りにも時間がない・・・しかし・・・

「予定を繰り上げ6月1日に検疫を開始する!!」

兵士たちを1か月待たせてその港で大きな感染が広まってしまうことを恐れたのです。
感染拡大を食い止めることに努力するか、放置してそのまま蔓延を招いてしまうか・・・??
後藤新平自身、それをよくわかっての突貫工事でした。

1か月後・・・似島検疫所・・・出来た建物は401棟・・・そこに、電気、電話の設備を引き、検疫に使う全ての備品を運び込みました。
6月1日、次々と兵士たちを乗せた帰還船がやってきました。
実際の検疫に当たって後藤は綿密な計画を立てていました。
まず沖に停泊させた船に検査を担う検疫兵が入り、患者の有無を確認します。
患者が居れば、すぐに病院に搬送し、隔離します。
症状なしと確認された兵士は陸に上がり消毒されます。

荷物も預け、荷物が液体消毒されます。
脱衣所と浴室で消毒液の入った風呂に浸かり、身体から菌を取り去ります。
彼等が休憩する間に、大量の服は巨大蒸気消毒缶で消毒します。
消毒された衣服は、入れた場所と反対側の方向から出てきます。
注目すべきはルート・・・
後藤は、消毒されているものとされていないものとを決して一緒にならないように計算してこの建物を設計させていました。
患者と接触した可能性のある兵士は停留・・・毎日診察を受けさせました。
最大、9日間止まらせることが可能でした。
完璧に思われた計画・・・しかし、実際に検疫が始まると次々に予想を超えた事態が押し寄せました。

6月29日に帰ってきた白山丸は、航海中に72人のコレラ患者となっていました。
上陸後、なんとか患者を隔離したものの、症状のなかった乗組員たちもあとから次々と発症・・・
検疫所は大混乱となりました。
想像を絶する日々の中、検疫兵も無事では済まされません。
感染し、死んでいった者・・・53人・・・。

後藤は43日間寝床に入らず、検疫の指揮を執ったともいわれています。
上司に出した手紙に、その覚悟を語っています。

「検疫は一つの戦争です
 戦争で銃弾に倒れる者よりも、疫病に倒れる者の方が多いのが明らかです
 検疫兵にはすべて戦地同様の給与待遇を与えることをお願い申し上げます」

そして、遂に検疫は終了しました。
4か月で23万もの帰還兵を検疫・・・コレラ、赤痢、腸チフス、天然痘、あわせて996人の患者を隔離しました。
もし、兵士たちが十分な検疫なしに日本に入っていたら大惨事となっていたでしょう。
この大規模な検疫の成功は、海外にも伝えられ各国を驚かせます。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はこんな言葉を送ったといいます。

「検疫では我が国は世界一だと思っていたが日本の権益には負けた」

この4年後、幕末以来の不平等条約が一部解消され、開港検疫法に基づき、日本が外国船を検疫することが正式に認められました。
日本は衛生国家として大きな一歩を踏み出したのです。


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感想(10件)

新型コロナ騒ぎで根拠のないデマに振り回され、物不足で買い占めの悪循環・・・
感染者に誹謗中傷・・・まるで加害者扱い!!
眼に見えない恐怖で、人類はろくなことをしない・・・!!

文明誕生以来、人類を苦しめ続けてきた感染症・・・
原因不明、訳も分からず死ぬ恐怖の地獄絵図!!
解決できない恐怖に対して、人類は何にすがってきたのか??
病の原因は何??
どうして差別や虐待が・・・??
人類が繰り返す勘違いと悲劇・・・人はどうして見えない恐怖に翻弄されるのか??

コロリは、幕末を中心に日本各地を度々襲った流行り病です。
特に、1858年はコロリが江戸で流行・・・地獄絵図に陥れました。
ある日突然、激しい下痢と嘔吐・・・脱水症状を起こし次々コロリ・・・!!
パニックを起こした庶民は、迷信の薬に飛びつきます。
煎じた黒豆、桑の葉、ミョウガの根・・・さらに、コロリ祭り・・・原因不明の恐怖に怯えた人たちは、疫病退散に一心不乱に祈るしかありませんでした。

コロリ・・・詳しくはコレラ。
肉眼では見えない微生物・・・コレラ菌が引き起こす感染症です。
水の中に潜み、水や魚を飲み食いした人間の腸で増殖し、排せつ物によって再び水に広がっていきます。
驚くべきことに、江戸の庶民は、コロリの原因を目に見えない小さな生き物ではないかと噂していました。
管狐・・・日本古来の伝説上の動物です。
その名の通り、人間の体の細い管をとおり、体内に入り込み命を奪う超マイクロ狐です。

”この度の一日ころりの急病は、くだ狐のわざなるよし評判”

新たな見えない恐怖・・・これを管狐に当てはめたのです。

何が疫病を引き起こしたのか??という場合に、当時の人たちの考え方で説明すると・・・これまでの病気の原因を考えれば、狐が人間にとりついて病気を引き起こしたり、場合によっては死に至らしめるような「狐憑き」という信仰があったので、そんな信仰も踏まえて、疫病も狐が運んできたと考えていました。

さらに・・・
顔は馬、足は人間の赤ん坊、大きさは猫・・・その名も千年モグラ・・・
千年モグラは、雷獣ともよばれる日本古来の妖怪で、天変地異と共に姿を現すので、コロリと結び付けられました。
しかし、この千年モグラも新たな解釈では・・・??
”千年モグラとは、アメリカ狐ともよばれ、日本人をとり殺す!!”
どうして国産の妖怪が、アメリカ産に化けたのか・・・??

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当時は、アメリカのペリー艦隊が、軍事力で江戸幕府を威圧し、鎖国をとかせて4年ほど・・・
日本は、踏み込んできた外国人に不吉な気配を感じていました。
そんな中、1858年5月に長崎に入港したアメリカ船の船員にコレラ患者が発生!!
この感染流行が、西日本から一気に東日本へ拡大したのです。
コレラは外国から持ち込まれ、病気は動物が起こす・・・ならば、原因は外国の動物だと人々は考えたのです。

人間が不安を感じた時に、不安の原因や対処法がわからないときには、眼に見えるようなわかりやすい、据わりの言い原因を求めることによって自分の不安を落ち着かせようという心理のメカニズムがあるのです。

アメリカ狐にイギリス疫兎・・・庶民は見えない恐怖の原因をその時々に世情に合わせ納得しやすいものへと変えていきました。
さらに、退治する方法も考えます。
それが・・・ニホンオオカミでした。
相手が、異国の狐やウサギならば、それを退治してくれるのは日本のオオカミ・・・!!
ニホンオオカミの頭蓋骨は、コレラに効果があるとされ、削って粉にして飲まれたといいます。
”お犬様”ことオオカミは、昔から信仰の対象でした。
かつて、ニホンオオカミの生息地・秩父地方にある三峯神社には、神様の眷族であるオオカミのお札を求め、人々が殺到しました。
コレラが流行した1858年の記録には、”御眷族一万疋”・・・一万枚ものお札がわずか半年の間に下げ渡されたといいます。
しかし、疫病除けのこの信仰は、ニホンオオカミに悲劇を生みました。
疫病退治の薬として頭蓋骨の需要が高まり、ニホンオオカミを乱獲・・・これも、絶滅の原因の一つだと言われています。
見えない恐怖は外国から来たと、直感的に感じ取っていた庶民たち・・・
しかし、人は、不安を解消する納得感を重視すると、解決か遠ざかってしまうものなのです。

現代、飛沫感染を予防するのに有効とされるマスク・・・
1650年・・・鳥??死神??17世紀にヨーロッパの医者がつけていたとされるマスクです。

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これは、鳥のくちばしのような部分には、汚染された空気を浄化する為に薬草が入れられていました。

眼には悪い空気除けのガラス。

かつてヨーロッパでは、感染症は悪い空気が引き起こすと考えられていました。

その最悪のケースが、14世紀から18世紀まで度々ヨーロッパを襲ったペストです。
突然の発熱から嘔吐・下痢・リンパ節の腫れ・・・
体が黒く変色し、わずか5日ほどで死に至ることから黒死病ともいわれました。
特に、1346~52年のペストの流行は、中央アジアから広がりイタリアに上陸・・・一説には、ヨーロッパ人口のおよそ60%・・・5000万人が死んだと言われています。
市が町を覆いつくす地獄絵図・・・墓での埋葬が追い付かず、死体の山が・・・
目に見えないペストの原因は不明のまま。

一部の裕福な人々は町から逃げ出し、郊外の屋敷に閉じこもりました。
「ステイホーム」です。
ボッカチオは、ペスト流行の原因をこう記しています。

「この疫病がひどいありさまになったのは、人の接触によって病人から健康な人へと感染していったからです
 病人を時々訪ねるだけでも感染して死んでしまい、衣服をはじめ、病人が触ったりしたものは何でもひとたび触るとたちまち感染してしまうのです」

現代では、ペストの原因はペスト菌という細菌だと判明しています。
動物から人間に感染し、広がる仕組みのうち、人々は人間同士でうつることまでは把握していたのです。
でも、という字の人々は微生物と言ったような極小の存在を知りません。
その代わりに、一種の毒のような物質が、作用しているのではないか??と考えました。
その結果、ペストの原因は”神の罰”と人々は考えました。
目に見えない現象は、神の御業と考えるのが自然でした。
しかし、当時の学者たちは、科学的に原因を追究しようとしていたのです。

1348年、ヨーロッパ最高峰のパリ大学医学部で・・・
ペストの毒がどうして発生するのか?研究成果を発表しました。

”ペストは、火星や木星など惑星の不吉な配置、地震などの異常気象、さらには動物の大量の死骸により腐敗した空気、すなわち瘴気によって起きるのだ”

この病気の原因を宇宙から考えるという発想は、紀元前5世紀ごろ、古代ギリシャの世界観にもとがあります。
世界を構成している天体、空気、大地、水・・・
コレラが精密に動いている時は世界は安定している。
ところが、その一部でバランスが崩れると悪い環境が生み出され、汚染物質が発生・・・!!
そうした毒を含んだ空気は、瘴気と呼ばれ、ペストをはじめ、様々な病気の原因となるのだ!!

肉眼では見えない病気の原因を、秩序・バランス・・・という目に見えないものに求める発想・・・
それが、当時の世界観に基づく科学だったのです。
しかし、ペストの不安におびえる庶民には、納得できませんでした。
原因が宇宙の秩序と言われても、ピンときません。
神の罰だとすると、自分達が悪いとなってしまいます。
そんなはずはない・・・

「カトリックが使う井戸や泉に毒物を入れ、ペストの原因となる”瘴気”を発生させた奴がいる!
 ユダヤ人だ!!」

ヨーロッパ、カトリック世界では、国を持たない異教徒ユダヤ人は秩序を乱すものとして長年迫害されてきました。

「ユダヤ人が怪しい・・・」

という疑いこそ、見えない恐怖におびえる庶民が求めた答えだったのです。

「ユダヤ人が井戸に毒を入れているということは、当時の人々にとっては一種の連想チェーンでした
 ペストから遡って連想すると、毒を水に入れる行為まで容易にたどり着いたのです
 ペストの原因は、毒の空気”瘴気”によって広まっている
 その瘴気を生み出しているのは??毒の水だ!!
 毒を入れたのは?それはユダヤ人の陰謀だ
 だから、大量のペスト患者が発生する」

これが、当時の人々にとって納得のいく答えだったのです。

最悪のペスト大流行の時代・・・
1348年3月・・・スペイン・バルセロナで感染が広がるや否や、ユダヤ人が疑われ虐殺が始まりました。
4月にはフランス南部、9月にはスイスと感染が広がるにつれて、迫害が拡大!!
最悪の悲劇が起きたのが、フランスの北東部ストラスブール・・・!!
1349年2月、まだペストの感染が始まってもいないのに、被害を未然に防ごうとユダヤ人狩りを始めたのです。
およそ900人のユダヤ人が、共同墓地に掘った大穴で焼き殺されました。
その後も、虐殺の嵐は吹き荒れ、ヨーロッパで100以上のユダヤ社会が壊滅、1万人以上が犠牲となりました。
見えない恐怖の原因を知りたいという人間の心理は、時に差別という目に見えない心の闇をも引きずり出してしまうのです。
時を同じくして、ハンセン病やロマの人たちに対する迫害も起きています。
自分と異なる人に原因を求めて、恐怖のはけ口にすることが起きていたのです。
ガセの拡散・・・インフォデミック・・・大量の情報が溢れ、混乱が生じたのです。

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感染症対策には「手洗い」が有効だと言い出したのは・・・??
今やすっかり常識となった感染症対策の基本・・・手洗い。
手には、目に見えないけれど、たくさんの病原菌がついている・・・
まとめて洗い流そうというものです。
人間の体には、小さな微生物が付着しているとわかったのは、17世紀の事です。
オランダ人科学者・レーウェンフック・・・発明されたばかりの顕微鏡で確かめたのです。
肉眼では見えない微生物が病気の原因ではないのかという新しい説・・・病原体説が生れます。

医学界の主流は、古代ギリシャ以来の瘴気説を19世紀半ばまで採用・・・病気は瘴気、悪い空気が原因としていました。
19世紀半ば・・・オーストリア・ウィーン。
主人公は、医学界の権威・・・ウィーン大学病院の産科医師イグナック・ゼンメルワイス。
当時、産褥熱という病気が、大勢の女性を苦しめていました。
出産直後の母親が、原因不明の高熱で死亡するという謎の病です。
ウィーン大学病院でも、1か月に出産した母親208人のうち36人が産褥熱で死亡・・・。
2割近くが犠牲になっていました。
ある日、ゼンメルワイスは産褥熱の患者を診ていて奇妙なことに気付きました。
ウィーン大学病院には、2つの産科があり、第一産科はゼンメルワイスたち医師や医学生が妊婦を診察、第二産科ではお産になれた助産婦が出産を担当していました。
このうち、第一産科の方が18.2%、第二産科は2.8%・・・第一産科の方が産褥熱での死亡率がはるかに高かったのです。
どうして近代医学をマスターした医師が担当する産科の方が、助産婦たちの産科より死亡率が高いのか・・・??
ゼンメルワイスは調査を開始します。
2つの病棟の気温や湿度、食べ物、飲み物などを比較します。
しかし、大きな差はみられません。
また、両病棟は隣り合っているため”瘴気”が原因であれば、第一産科だけ突出してひどいというのは考えにくい・・・
そこでゼンメルワイスは、第一産科の医師たちと、第二産科の助産婦の行動を観察し、決定的な違いがあることに気付きました。

第一産科の医師たちだけが、死亡した患者を解剖している・・・
死亡患者の解剖が、どのように産褥熱に関係するのか・・・??
突然、ゼンメルワイスの脳裏に、産褥熱の原因がひらめきました。
医師たちが解剖する際に、死体についている”死体粒子”とでもいう物質が、彼らの手に付着したのではないか・・・??
そして、手についた死体粒子が妊婦を診察する際に、彼女たちの産道に付着して病気を起こすのではないか・・・??
ならばこの”死体粒子”を取り除くには、手洗いで流せばいい!!

ゼンメルワイスは、医者たちの第一産科で塩素系の薬品での手洗い、爪などを入念にブラシで洗うように指導しました。
すると驚くべき結果が出ました。
第一産科の産褥熱での死亡率が、第二産科と同じ程度の3.0%にまで激減!!
その後も減り続けたのです。

1861年「産褥熱の原因と概念及びその予防法」とまとめ、出版します。
目に見えない病気の正体をこう語りました。

「産褥熱は”瘴気”からくるものではなく感染で起こるものだ
 したがって、予防可能な病気であり、この病が蔓延する責任は、予防に努めようとしない者にある
 私たち医者が数世紀にわたり墓場に送ってしまった犠牲者の数は、神のみがご存じだ
 こうした認識が、医者にとって痛いほどつらくても、秘密にすることは絶対にできない」byゼンネルワイス
 
ところが・・・ゼンメルワイスの所属する大学や医学界の権威は激怒!! 
目に見えない死体粒子説や手洗い励行の訴えを完全に無視!!

医師たちの失敗が、。患者たちに死をもたらすことは、医学の分野で起こる出来事で最もまずい事柄です。
医学的措置が人に害を及ぼすのですから、突然妊婦殺しの非難に直面した医師たちにとって、愉快な出来事でないことは十分に理解できます。

医学界の仕打ちに対し、ゼンメルワイスは目に見えない「死体粒子」を説明、反論することが出来ませんでした。
その後、精神を病み、4年後の1865年ゼンメルワイス死去・・・46歳でした。

ところが、わずか10年後の1876年。
目に見えない病気の原因が”瘴気”か”病原体”か、長年の論争に終止符が打たれます。
ドイツ医師ロベルト・コッホが、目に見えない原因を解明する為の基本的な考え方・・・”コッホの三原則”を打ち立てたのです。

①病気にかかった動物から原因の可能性のある細菌を見つけ出す
②細菌を取り出し培養
③培養した細菌を健康な動物に接種し、同じ症状が現れれば病気の原因はその細菌

ということになります。
この三原則によって、目に見えない恐怖・・・人類を長年苦しませてきた感染症の原因が、様々な細菌だと特定され始めました。

その後、ゼンネルワイスが主張した手洗いの重要性が科学的にも認められていったことは言うまでもありません。

1918年春・・・第1次世界大戦のさ中のヨーロッパ戦線で、人類にとって新たな感染症となる脅威が発生し始めていました。
それは、スペイン風邪と呼ばれるインフルエンザでした。
戦場では、狭い塹壕に無数の兵士が長い間ひしめき合っていました。
そこで、敵も味方も関係なく、インフルエンザは一気に広がりました。
さらに、兵士たちの移動により、わずか4か月で世界中に拡散!!

しかし、感染症の原因である病原体を突き止め、有効な対策を打つことを学んだ人類は、感染の封じ込めに自信を持っていました。
それが、ワクチン開発によるインフルエンザの封じ込めです。
学者たちは、インフルエンザの患者から、原因と思われる細菌を発見!!
この細菌をもとにワクチンが作られ、人々への接種が積極的に行われました。
ところが・・・ワクチンは、思ったような効果を発揮せず、インフルエンザの猛威は止まりませんでした。

それも当然・・・インフルエンザの原因は、19世紀に確認された最近ではなく、それよりはるかに小さい見えない恐怖・・・人類にとって見えない恐怖のウィルスだったのです。

そのさ中、アメリカ・西海岸のサンフランシスコ・・・1918年9月に最初のインフルエンザ患者が発見されるや感染拡大の兆しを見せていました。
このサンフランシスコの危機に立ち向かったのが、サンフランシスコ市保健委員会委員長のウィリアム・ハスラーです。
ハスラーは、ワクチン接種を推進する一方、他にも対策を講じていきます。
人の接触を減らす
娯楽施設、人が集まりそうな場所、学校、教会での礼拝・・・閉鎖措置をとります。
そして一般市民にはなじみのなかった衣料用マスク!!
10月18日、マスク着用義務化を訴えます。

「公共の場に行く人、そして食料品や衣料品などを扱う職業に従事する者には、マスクの着用を義務付けるべきです」

市議会は、全会一致でマスク着用条例を採択!!
アメリカ初のマスク着用の義務化でした。

一方でハスラーは、新聞の一面広告で、市民の自発的心情に訴えかけます。

「マスクはあなただけではなく、あなたの子供や隣人の命を守るものです」

マスクで感染拡大を防ぐことは、アメリカ社会を守る事・・・ということは、マスクをすることは、遠くヨーロッパで第1次世界大戦を戦っているアメリカ兵の命を守る事・・・市民は、そう考えたのです。
すると街角には、マスクを買い求めると長蛇の列が・・・使命感と愛国心をくすぐられた市民は、マスク義務化が実施される前から市民の99.9%がマスクを着用していたといいます。

「これは、サンフランシスコ市民の持つ注目に値すべき知識レベルの高さと協調精神の証だ」

この結果、10月の第3週には8700人近くだった新規感染者は、次の週には7000人台に減少・・・11月に入ると、新規感染者は2桁にまで激減!!
11月21日、マスク着用条例を解除しました。
閉鎖措置が取られていた学校や娯楽施設も再開、サンフランシスコはインフルエンザに打ち勝ったのです。
ところが、喜びの裏で、大きな落とし穴が・・・
マスク条例が解除される10日前・・・11月11日、第1次世界大戦休戦!!
戦争終了の喜びとともに、前線の兵士のためという使命感から解放された人々は、一気に気が緩みました。
この頃行われたボクシングの試合には、マスクをしていない人が多い・・・まだマスク条例が解除されていないにもかかわらず・・・!!
感染者数の減少という目に見える数字だけを見て、目に見えず潜伏するウィルスの怖さを忘れてしまったのです。
悪い予感は的中し、11月21日、マスク条例を解除した直後から、感染者数が再び上昇を始めました。
12月7日、ハスラーは、マスク着用義務化の再実施を訴えます。

「もう一度市民にマスクを義務付けましょう
 感染拡大を防ぐ切り札はマスクです」

しかし、時にまさにクリスマスシーズンに突入・・・
経済界、市民も、マスクをするとクリスマスが台無しになってしまうと強く反対!!
ハスラーが提案したマスク再着用条例は市議会で否決されました。

戦争が終わったので、以前のように兵士たちをマスクをつけて守ろうという愛国的な目標が無くなってしまいました。
その上、戦争が始まって以来、初めての心から楽しめるホリデーシーズンを迎えていたのです。
市民は、
「インフルエンザに感染するかもしれないけど、それでもクリスマスを楽しみたい」
「もう、マスクなど目にしたくはない」という気持ちだったのです。

結果、サンフランシスコでのインフルエンザの死者は、3500人に上ることとなります。
その4割・・・1453人がマスク着条例解除後の死者でした。

そして、100年後の現在に至るまで、感染症・・・目に見えない恐怖は、人間から正しい判断を奪い、様々な悲劇をんでいます。
エイズやハンセン病への誤った認識、偏見は、感染者や家族への不幸な差別を生み出し、様々な人権侵害を引き起こしてきました。
見えないものに対する恐怖は、いつの時代、どの地域でも、人間の心の弱い部分を露にして更なる悲劇を生みだしかねないのです。

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