日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

ローマのカエサル、フランスのナポレオン、ナチス・ドイツのヒトラー・・・
彼らがこぞって憧れた英雄・・・それがアレクサンドロス大王です。
彼が支配した帝国は、あのチンギス・ハンが現れるまで1500年間世界最大の広さを誇りました。
しかも、アレクサンドロスは、この帝国をわずか10年で築いたのです。

アレクサンドロス大王・・・後の人々は、戦の天才、理想的なリーダーと称えました。
未知の世界に挑みながら、32歳でこの世を去ったアレクサンドロス・・・その大いなる野望と苦悩の人生とは・・・??

アレクサンドロスは、紀元前334年、22歳の時にアジアに出発!!
6万5000の兵を率いてエーゲ海から東の世界に旅だちます。
わずか10年のうちに大帝国を打ち立てました。
どうしてアジアへ向かったのでしょうか・・・??

紀元前356年、アレクサンドロスはギリシャ北部の山岳地帯マケドニア王国に生れました。
父は、マケドニア王・フィリッポス2世!!
母はオリュンピアス・・・アレクサンドロスは、次期マケドニア王の有力候補でした。

彼は幼い頃から英才教育を受けます。
アレクサンドロスは、同世代の貴族の子どもたちと切磋琢磨し、運動や格闘で体を鍛えます。
乗馬も習います。それは、騎馬隊がマケドニアの戦力だったからです。
誰も乗りこなせなかった気性の荒い馬を乗りこなします。
その馬は、ブーケファラスと名付けられ、その後アレクサンドロスの愛馬としていくつもの戦いを勝利に導くことになります。
勉強も超一流で、343年、13歳の時に、今も歴史に残る人物が家庭教師として招かれます。
哲学者・アリストテレスです。
アレクサンドロスは、アリストテレスから文学や哲学、医学、天文学・・・ありとあらゆる知識をたたき込まれ学びます。
アレクサンドロスがアリストテレスに送った手紙にはこう書かれています。

「私は権力者よりも、何が最善であるか正しく判断できる者になりたいのです」

当時、ギリシャは都市国家アテネを中心に発達し、西洋随一の文明を誇っていました。
しかし、戦上手で野心家だったフィリッポスは、精強な軍隊を率いて南に勢力を広げていきます。
18歳の時、アレクサンドロスに活躍の場面が・・・
ギリシャ地域の覇権をかけた一戦に、マケドニアの一員として参加することになったのです。
敵は、アテネを中心とする連合軍!!
紀元前338年、カイロネイアの戦いです。
アレクサンドロスは、騎兵部隊を指揮し、アテネ連合軍の歩兵部隊を壊滅させるのです。
マケドニアは圧勝します。

マケドニア王国の首都・ペラの遺跡に、強さを物語る壁画があります。
貴族の墓に描かれた兵士の姿・・・手にしている槍の長さは約6m・・・。
それまで他の部隊の歩兵が使っていたものの2倍は長かったのです。
この長い槍の兵士たちが何列も体型を作り、密集して進む戦法です。
他の攻撃を寄せ付けず、もし見方が倒れても、そのまま前へと進む強力な戦法でした。
この戦いでマケドニアはギリシャ地域の大半を支配下に置き、フィリッポス王は、強大な地域の盟主となりました。

しかし、アレクサンドロスは華々しい活躍を見せたにもかかわらず、複雑な思いを抱いていました。

「父上は何もかも先に取ってしまわれて、私がやりたい大きく立派な仕事は何一つ残してくださらない」

紀元前336年、アレクサンドロスが20歳の時に、フィリッポスは前代未聞の代計画に取りかかります。
古代ギリシャ人がアジアと呼んだ大国ペルシャへの遠征です。
ギリシャとペルシャは、貿易が盛んなエーゲ海の覇権をめぐり、200年にもわたって対立していました。
そんな争いに決着をつけるために、ペルシャ侵攻を決意したのです。
しかし、出兵の直前に思わぬ事件が・・・
祝典のさ中、観衆の前でフィリッポスは護衛官によって暗殺!!
事件の直後、暗殺の黒幕として二人の人物に疑いの目が向けられました。
ひとりは妻のオリュンピアス、そしてもう一人はアレクサンドロスです。

当時のマケドニアは一夫多妻制・・・
フィリッポスには7人の妻と2人の息子がいましたが、後継者はアレクサンドロスが最有力でした。
しかし、フィリッポスが寵愛する若い王妃が妊娠すると、風向きは変わります。
この王妃が男の子を産めば・・・その子に王位を継がせるかもしれない・・・。
王の死は、アレクサンドロスにとって好都合でした。
王子といえど黒幕となれば王位に就くことなどできない・・・。
しかし、新たな王となったのは、疑惑の渦中にあった20歳のアレクサンドロスでした。
決め手になったのは、重臣たち・・・大貴族がアレクサンドロスを支持したからでした。
アレクサンドロス自身は、父親から帝王学を学び、すでに軍隊で活躍した経験を持っていました。
それは、どの貴族も兵士たちも認めるところでした。

紀元前334年、22歳でアジアに出発!!
父が成し遂げられなかった夢をかなえるために・・・!!
10年に及ぶ大遠征の始まりでした。

「アジアを野蛮なペルシャの支配から解き放ち、ギリシャの自由を取り戻すのだ・・・!!」

トルコの西部・エーゲ海と黒海の間に位置する海峡ダーダネルス海峡・・・ヨーロッパとアジアを分かつ境界線です。
紀元前334年、22歳の時にダーダネルス海峡を越えてアジアへ・・・!!
当時、アジアに君臨していたペルシャは、世界最大の帝国でした。
そんな強敵を相手に、アレクサンドロスは連戦連勝を重ねます。
どうしてペルシャに勝てたのでしょうか??
当時のペルシャの支配領域は、エジプトからトルコ、インドのインダス川にまで及んでいました。
その帝国をしていたのは、ペルシャ王ダレイオス3世でした。
アレクサンドロスの軍に対抗すべく、2000キロ以上離れた王宮のあるバビロンから戦闘の指揮を執っていました。
アレクサンドロスはペルシャ領に入ると、小アジアを東に侵攻。
それを受けてペルシャ軍は、アジアの門といわれたグラニコス川で迎え撃つことに・・・。
アレクサンドロス率いる1万8000の軍が川に到着。
対岸にはペルシャ軍の精鋭部隊が川を渡ろうとするところを待ち構えていました。
グラニコス川は、川幅は狭いものの流れが早く、切り立った崖が迫っていて川岸には十分な広さがありませんでした。
マケドニアが得意とする長槍部隊が使えない・・・!!
対岸に押し寄せたペルシャ兵・・・戸惑う味方の兵士にアレクサンドロスは・・・

「あとに続け!!
 そしてあっぱれば勇者ぶりを見せよ」

アレクサンドロスは正面突破を決断し、川に飛び込みます。
敵軍の放つ矢を受けながら、崖を登って対岸にたどり着くと、次々とペルシャ軍を撃破していきます。
ペルシャ軍は、リーダーのアレクサンドロスめがけてやってきます。
この時、身を挺してアレクサンドロスを守ったのが、子供の頃から共に訓練を受けて育った側近の部下たちでした。
やがてペルシャ軍は敗走を始めました。
父・フィリッポス2世が、軍隊を改革して、側近だけでなく歩兵も「仲間」と呼ぶようになっていました。
父親の代から、王と兵士の間には強い絆があったのです。
これをアレクサンドロスは受け継いでいたのです。
兵士や貴族たちも、王に対して親密な態度で、親しく語ることができる・・・
上下関係ではなく、「仲間」「同志」という関係で結ばれていました。

部下との絆を大切にするアレクサンドロス・・・
遠征に出発する前に、アレクサンドロスは財産の殆どを部下たちに分け与えてしまいます。
それを心配した側近が訪ねます。

「王の手元には何を残されますか?」
「希望だけだ」
「では、あなたと遠征を共にする我々も、その希望を分かち合いましょう」
側近はこう言って、もらった財産をアレクサンドロスに返したといいます。

ペルシャとの初戦に勝利したアレクサンドロスは、小アジアの都市を攻略していきます。
一方、ペルシャ帝国のダレイオス3世は、国中から集めた大軍を率いてバビロンを出発!!
アレクサンドロスとの直接対決に向かいました。
紀元前333年、23歳の時にイッソスの戦い・・・
地中海沿岸部で、両軍が川を挟んで対峙しました。
アレクサンドロス率いるマケドニア軍・1万9000、対するはダレイオスの部隊ペルシャ軍7万2000!!
圧倒的な兵力差でした。
戦いが始まりました。
しかし、川岸は足場が悪く、マケドニア軍が馬にまたがったまま川を渡ることは難しい・・・
そこで、アレクサンドロスは、弓矢軍の援護を受けながら、徒歩で素早く川を渡ります。
ペルシャ軍は、狭い土地に数万の兵士を集めたために身動きが取れず、アレクサンドロスの素早い動きに対応できませんでした。
敵の混乱に乗じたアレクサンドロスは、ブーケファラスにまたがり、ダレイオスに突進!!
それを見たダレイオスは・・・戦線離脱・・・逃げ出したのです。
王を失ったペルシャ軍は、総崩れ・・・アレクサンドロスは、歴史的勝利を得ました。

戦いの後、ペルシャ陣営に足を踏み入れたアレクサンドロス・・・
そこには、ダレイオスの母と妻、子供たちが残されていました。
敗者はどのような扱いを受けても文句は言えない・・・しかし、アレクサンドロスは、捕虜となったダレイオスの家族を、王族として丁重に扱ったのです。

また、そこには、夥しい数の金銀財宝や豪華絢爛な装飾品の数々が残されていました。

「王になることはこういうことだったのか・・・!!」byアレクサンドロス

アフガニスタン北部にある紀元前4世紀の都市の遺跡・・・アイ・ハヌム・・・
ここで、ギリシャの様式で作られた柱の跡が残されています。
2400年前、遥か4000キロ離れた中央アジアにまでギリシャ文化が伝えられていました。
もちろん、ギリシャからペルシャ、インドまで及んだアレクサンドロスの帝国がもたらしたものです。
それだけの広大な土地をどのようにして支配したのでしょうか?
ペルシャ軍を破ったアレクサンドロス軍は、紀元前332年、24歳の時にエジプトを制圧!!
逃げ出したダレイオスを完全に倒すべく、帝国の中心に向かいます。
その頃、既にアレクサンドロスは、東地中海一帯を支配下に置いていました。
そんな中、アレクサンドロスのもとへダレイオスから手紙が届きました。

「捕虜となった家族を返してくれるならば、ユーフラテス川より西の領域すべてと身代金として多額の金を提供する
 さらに、私の娘と結婚し、友人になり、同盟を結んでほしい」byダレイオス

しかし、アレクサンドロスは・・・

「自分はアジアの王である!!
 金にしても、領土にしても、すべてもう自分のものだ
 家族を返してほしいというなら、まずはダレイオスみずから臣下として出頭せよ」byアレクサンドロス

そしてアレクサンドロスは、再びダレイオスと対決します。
決戦の部隊はイラク北部のチグリス川のほとりガウガメラ!!
ダレイオスは前回の教訓からダレイオス軍が力を発揮できる広大な平原を選びます。
更にダレイオスは秘密兵器も用意しました。
車輪に鋭い鎌をつけた戦車です。
その威力を生かすために、先に土地を平らにならすという念の入れようでした。
兵士も帝国の全土から精鋭を集めます。
ダレイオスの威信をかけた総力戦でした。
20万とも30万ともいわれるペルシャ軍に対し、アレクサンドロス率いるマケドニア軍は4万7000!!
まともに戦えば勝ち目がありません。
側近がアレクサンドロスに提案します。

「夜の闇に紛れて奇襲をかけましょう」

しかし、アレクサンドロスは・・・


「私は勝利を盗まない」

あくまでも正々堂々と決着をつけることを望みました。
紀元前331年10月、ガウガメラの戦い。
ダレイオスを中心に広がるペルシャの大軍・・・アレクサンドロスは敵に囲まれないようにせん列を⑳西、斜めの陣形をとりました。
そして、アレクサンドロス本人は、騎兵隊を率いて右翼の最前線に立ちました。
敵の戦車の機動力を削ぐために、地ならしされていない方向へ戦列を移動させます。
さらに、巧妙な罠を貼りました。
ペルシャの戦車部隊が突進すると中に入れさせます。
戦車が孤立したところを襲い掛かります。
作戦にはまり混乱するペルシャ軍!!
その左翼で喜平と歩兵の間で亀裂が生じました。
その瞬間、アレクサンドロスは突進!!
敵陣の中に入りました。
目指すはダレイオスの首ひとつ!!
しかし、ダレイオスは、再び逃げ出しました。
王がいなくなったペルシャ軍は、散り散りとなり敗走を始めました。
25歳のアレクサンドロスは、こうしてギリシャとアジアの覇者となったのです。

その後、アレクサンドロスは自ら兵を率いてダレイオス追撃に向かいます。
しかし、ダレイオスは逃亡の途中で側近に裏切られ、暗殺されていました。
遺体を目にしたアレクサンドロスは自らのマントで包み、王として丁重に葬りました。
さらに、暗殺者を捕らえて、四肢分断・・・ペルシャ式で処刑しました。
正当な方法でダレイオスの仇を討ったとペルシャ全土に触れ回ったのです。
ガウガメラの戦いで歴史的勝利をおさめたアレクサンドロスは、王宮のあるバビロンに向かいます。
この時、アレクサンドロスがバビロンの人々に語り掛けた言葉がバビロンの遺跡から発掘されています。

「私はあなた方の家に侵入しない」

決して略奪や破壊は行わない・・・平和的に入城するつもりであることを表明しました。
おだやかに諭して平和的に彼らを治める・・・
力づくで征服するのではなくて、相手の文化や伝統を尊重しながら支配下に治めていく・・・!!
アレクサンドロスはどうして平和的な政策をとったのでしょうか?
それは、ガウガメラの戦いの前年、エジプト入城でのことです。
ダレイオスから学びました。
エジプトの王・ファラオでもあったダレイオスは、現地の宗教を認め、言葉や文化を尊重しました。
さらに、荒れ果てた砂漠に地下水路を建設し、農地を増やしていました。
人々の生活を豊かにし、慕われていたのです。

ギリシャ文明こそ世界一でアジアは野蛮・・・そんなアレクサンドロスの価値観は揺らいだのです。
それまでアレクサンドロスは、 制圧した都市の総督をすべてギリシャ人に変えていました。
しかし、バビロンではペルシャ人に今まで通り統治させることを決めました。

arekusanndorosu














この有名な壁画は、イタリアの古代都市ポンペイの大富豪の家を飾っていました。
しかし、紀元1世紀に火山の大噴火によって町全体が壊滅・・・。
その後、18世紀に遺跡の発掘が開始され、1831年モザイク画が発見されたのです。
絵の内容は、アレクサンドロス軍とペルシャ軍との決戦の場面です。
アレクサンドロスは右側のダレイオスを見据え、右手の槍はペルシャ兵の体を貫いています。
一方、ダレイオスは、アレクサンドロスの方を見ながらも、身体は逆を・・・まさに逃走しようとしている瞬間を描いた絵なのです。

当時のギリシャ人の中には、生計を立てるために傭兵として外国で仕事をする者もいました。
ペルシャ軍の中にも傭兵としてギリシャ人が戦っていました。
当時は大義のために戦う人もいれば、職業で戦う人・・・色々いました。
ペルシャ軍は、他にもいろいろな東方の民族がおり、寄せ集めの兵のような感じでした。
これが勝敗を分けた原因の一つでもありました。

向かうところ敵なしのアレクサンドロス・・・??
アレクサンドロスは、ペルシャを制圧したのち、広大な地を治めるためにペルシャ人を次々と要職につけました。
しかし、そのことで腹心の部下の間に亀裂が入りました。
ギリシャ人の部下はこう漏らします。

「ペルシャ人たちは、アレクサンドロスの同胞と呼ばれているが、私たちは誰もそんな名誉にあずかっていない」

アレクサンドロスが人前に出る時には、ペルシャ風の豪華の装束を身にまとっていました。
アジア地域の王であることを多くの民族に知らしめ、支配力を高めるためです。
さらに、家臣が王の前でひざまずき、ペルシャ式の宮廷儀式をギリシャ人にもさせました。
あるギリシャ人の部下は・・・アレクサンドロスのことを陰でこう言いました。

「東方かぶれ」と。
「野蛮な者たちや奴隷と一緒に暮らすがいい」

ひざまずいてお願いをするというのは、ギリシャ人にとって神に対して行う嘆願であって、生きた人間に対して行うものではありませんでした。
人間の世界と神の世界をごちゃまぜにしてしまう・・・
この世の秩序が壊れてしまうような非常に重大な出来事だったのです。

遠征軍が東へ、東へ進むと、ペルシャ帝国の影響力が弱くなり、抵抗は激しいものとなっていきます。
アレクサンドロスは、現在のウズベキスタンの辺りまでを苦労の末に制圧。
現地の豪族を取り込むために、生れてはじめてのことをしました。
有力者の娘・ロクサネと結婚したのです。
アレクサンドロスは、ロクサネとの間に子供も設けます。 
くわえて部下たちにも現地人との結婚を奨励し、合同結婚式を行います。
その土地で子供を産み、兵を増やすという考えもあったのだといいます。

しかし、アレクサンドロスが征服した民族と融和を深めるほど、古参の部下との溝が深まっていきます。
ある日の宴で酔っ払った部下が、アレクサンドスを公然と批判しました。

「アレクサンドロスの功績も、ただ一人で成し遂げたわけでもない
 大部分は、われわれマケドニア人たちの働きの結果ではないか」

こういわれたアレクサンドロスは、頭に血が上り、槍をとって部下を刺し殺しました。
この部下は、かつてグラニコス川の戦いでアレクサンドロスを守った側近中の側近でした。
己の行いにショックを受けたアレクサンドロスは3日間何も口にせず、悔やみ続けたといいます。

それでも・・・紀元前326年、30歳でインド北部へ・・・!!
川の向こうには、もっと豊かで広大な土地がある!!と、アレクサンドロスは心躍らせます。
しかし、いざ川を渡ろうとしたとき、部下の多くがついていくのを拒んだのです。

「我々が国を出た当時、どれくらいの数のギリシャ人がいたか・・・
 そして今、どれほどの数が残っているかはよくご存じのはずです。
 体力は、かつてのように強健ではなく、気力はさらに衰えております。」

兵士たちは、故郷マケドニアを出て以来、8年間過酷な遠征に疲弊しきっていました。
しかし、アレクサンドロスは、必死に説得します。

「輝かしい大業は、危険をおかす者たちの手によってこそ成就するのだ
 武勇に生き、不滅の誉れを後の世に残して死ぬことこそ、喜ぶべきことではないか」byアレクサンドロス

結局、兵士たちは動きませんでした。
アレクサンドロスは、やむ終えず遠征を中断・・・バビロンに戻りました。

それでも2年後、アレクサンドロスは海を渡る新たな遠征計画を立てます。
指揮官たちに命令します。

「陸上部隊は4日後に出発、艦隊は5日後に港を出る」 

しかし、その直後に熱病にかかり、見る見るうちに病状が悪化・・・
遠征に出発できないまま・・・
紀元前323年、アレクサンドロス死去・・・32歳でした。

アレクサンドロスの死後、大王を失った帝国では後継者争いが勃発し、膨大な領土はいくつもに分裂します。
新しく王となって激しく対立したのは、長年アレクサンドロスのもとで戦った部下たちでした。
1887年に発掘されたアレクサンドロスの石棺・・・そこには、ギリシャ兵とペルシャ兵が戦う姿があります。
しかし、別の面にはお互いが協力しながら狩りをする姿が刻まれています。

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その渋沢栄一に肩を並べた男がいます。
銀行家・松本重太郎です。

彼につけられた異名は、西の渋沢栄一でした。
しかし、そんな彼の晩年は、知り合いの大工が善意で貸してくれた貧しい借家で、ひっそりとその生涯を終えるのです。
西の渋沢栄一とまで呼ばれた男が、どうして・・・??

明治11年、織物業で莫大な財を築いた松本は、それを元手に第百三十こ国立銀行を設立。
当時半休だった土曜日を全日営業、送金手数料無料など、常識破りの企画をいくつも実行・・・!!
周辺の銀行を次々と買収。
設立20年時には、預貯金&貸出額で住友銀行と肩を並べました。
メガバンクに成長し、関西経済界の重鎮となった松本は、大阪・堂島に贅を尽くした和館や洋館の並ぶ大豪邸を作り、栄華を極めました。

明治17年、順調に銀行を拡大していた時・・・新しい事業を・・・!!
鉄道!!
阪堺鉄道(現南海電気鉄道)、浪速鉄道(現JR片町線)、阪鶴鉄道(現JR福知山線)などの敷設に参画。
大阪紡績(現東洋紡)、大阪麦酒(現アサヒビール)、明治生命保険(現明治安田生命)など、12社で経営トップとなりました。

栄光からの転落は突然でした。
取り付け騒ぎが・・・
明治34年、未曽有の金融危機が起こります。
銀行がつぶれるという噂が流れ、国民が銀行から預貯金をすべて引き出しだしたのです。
松本の銀行も、急激に資金繰りが悪化・・・紡績業の輸出大不振・・・!!
松本グループは大赤字に・・・!!

他の銀行に支援を求めようにも、経営拡大の為に業界の暗黙の了解を破ってきたことが、仇となっていきます。
ひとりだけ・・・??

「私の会社、すべてが極めて厳しい状況です。
 どうか、お力を貸していただけないでしょうか?」

松本が助けを求めたのは、後の富士銀行となる安田銀行創始者・安田善次郎でした。
松本のライバルでした。
当時、数々の経営難の銀行を再建し、”金融界の救世主”と呼ばれていました。

「松本さん・・・
 あなたは、豪華な家屋や美術品を持っていると聞きましたが・・・
 それをひとつ残らず売る覚悟はありますか?
 私財をすべて経営再建の為に捧げる覚悟はありますか」

「覚悟をしてここに来ました!!」

松本は、社員の為に自分の地位や財産をすべて投げ打ち、ライバルである安田に経営権をすべて渡しました。
経営から手を引いた松本は、二度と表舞台に立つことはありませんでした。
後に、彼はこんな言葉を残しています。

「この松本はどうなっても構わない
 仕事が潰れば、結局松本も残るわけですから」


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秋田県と青森県の県境に広がる白神山地・・・
平成5年、1993年に登録された日本初の世界自然遺産のひとつです。
人間の影響をほとんど受けていない世界最大級のブナの森は、神々の住む森として、アニメ映画「もののけ姫」のモデルとなったともいわれています。
美しく澄んだコバルトブルーの青池・・・神が宿っているような厳かで清らかな自然がそこにはあります。
しかし、今から1万年以上前、ここに縄文人が暮らしていたことはあまり知られていません。
白神山地の東の玄関口・青森県中津軽郡西目屋村・・・ここで、20003年~大規模な発掘調査が行われました。

縄文遺跡のある青森県中津軽郡西目屋村・・・およそ1400人の小さな村です。
ここに建設されたのが、県内最大の津軽ダムです。
総貯水容量は、東京ドームの113.6杯分で、1億4090万㎡です。
津軽白神湖と名付けられたそのダム湖の向こうには、白神山地が広がります。
4月から10月まで運行されている水陸両用バスに乗って、ダム湖を周遊すれば、ダム湖の上から雄大な景色を望む事ができます。

その津軽ダムの底に眠るのは、白神山地東麓縄文遺跡群です。
現在確認することができる遺跡は、ダムの水量が少ない時にだけ見える竪穴住居の柱の跡です。
しかし、もともと心美は18もの縄文遺跡が存在していました。
そのうち17の遺跡の本格的な発掘調査が津軽ダムの建設に伴って開始され、12年に及ぶ調査で発掘されたのは、段ボール箱1万5千個分の遺物でした。

そしてすべての発掘調査が終わった翌年、遺跡群はダムの底へと沈んだのです。
出土した遺物の多くは、青森県埋蔵文化財調査センターに保管されています。
その中に保管されている出土品は膨大です、縄文時代草創期から晩期まで、縄文時代各時期の遺物が出土しています。
一説に、縄文時代は1万3千年以上あったとされ、6つの時期(草創期・早期・前期・中期・後期・晩期)に分けられています。
白神山地からは、すべての遺物が出土しているのです。
中でも最も古いものが、草創期の隆起線文土器の破片です。
隆起線文土器は、粘土ひもを張り付けた縞模様が特徴の土器で、1万2000年以上前に作られた器です。

また、もっとも新しい縄文時代晩期は大型遮光器土偶で、3000年前のものです。
こうした調査の結果、草創期から晩期までが発掘された白神山地の東麓には、縄文時代全般にわたって人々が暮らし続けていたことがわかったのです。
このような縄文遺跡は、他に類を見なく、考古学上きわめて貴重な遺跡・・・大発見でした。

白神山地東麓縄文遺跡群の中に、捨て場があります。
調査の結果、クリ・クルミ・トチの実などの殻が大量に出土、ツキノワグマやカモシカの骨も・・・!!
そして不思議な土器まで出土・・・人と獣の顔が一緒についた土器です。
どうしてこのような土器を作ったのでしょうか?
獲物となる動物を作ったもので、縄文人たちは自然の中に食料を求めていました。
命をいただくことを・・・ツキノワグマへの畏敬の念を込めて、土器を作ったのではないか??と思われます。

彼等がそこに住み続けたのは、獣・木の実などの食料、水・・・
白神山地の麓は、自然の恵みに満ちた場所だったのです。
そして周りの集落がなかったので、自然の恵みを独占できたのです。

縄文人たちは、白神山地から流れる岩木川で、アユ・イワナ・カジカ・ウグイ・・・川魚をとって食べていたようです。
これもまた、白神山地の恵みです。
しかし、ニシン、ホシザメなどの海の魚も発見されています。
さらに、赤貝などのの海でとれる二枚貝でつけられた文様の土器も発見されます。
skら神産地の東の麓から日本海までは約30km・・・
道中は険しい山道で、そう簡単には行き来できないような感じですが・・・どのようにして海の魚や貝を手に入れていたのでしょうか?
縄文人は山の中に住んでいても、山に籠っていたわけでもなければ、自給自足だけで生活していたわけでもありません。
海の人と交流をもって生活していたのです。
二枚貝で模様をつけたの土器は、早期のもので、白神山地の縄文人たちは少なくとも7000年以上も前から海辺の人と交流し、様々な産物を物々交換で得ていました。
さらに・・・クボガイ蓋の化石・・・クボガイは、巻貝の一種で、こぶりながら濃厚・・・
白神山地の人々も食べていたようですが、フタが発見されたということは、むき身にした貝を干して運んだのではなくて、生きたまま海辺から運んで食べていたことがわかります。

経済行動ではなく、人間同士の交流が具体的に見えてきます。

遺跡から新潟県産のヒスイや、長野県の黒曜石の壮士食品が出土したことから、縄文人たちの行動範囲がかなり広かったことがわかります。
日常に使う道具も遠方から入手しています。
石斧もその一つです。
白神山地東麓縄文文化遺跡群から出土したものは、完成品ばかり・・・。
製作途中での失敗作が出土していないのです。
完成品がたくさん出る・・・つまり、ここでは作っていないのです。
石斧は、すべて完成品として運ばれてきたものなのです。
白神山地周辺では、石斧を作るのに適した石が採れません。
良質の石の産地は、北海道や下北半島・・・産地で作られて出来上がったものを使う・・・
そんな合理的な生き方をしていたのです。

他の地域の人々と交流し、豊かな生活をしていた縄文人たち・・・
彼等は、社会性とコミュニケーション能力を持ち、文字が残っていないために証拠はありませんが、言葉を持っていたようです。
さらに、数の概念を持っていて、足し算や引き算だけでなく、掛け算や割り算も使いこなしていました。
それを裏付けるのが、秋田県の大湯環状列石から出土した土版です。

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①から⑥までを表す穴があけられていて、計算のための道具では??といわれています。

さらに、青森にある三内丸山遺跡では、縄文人が数を使いこなしていた痕跡があります。
大型掘立柱建物は、柱の間隔が全て4.2mになっています。
縄文時代に長さの尺度があったことを示す証拠です。
その長さの基準は、35cm・・・縄文人たちは、35cmを一つの尺度と考えていました。
他にも35cmの倍数を使った建物が見つかっていて、35cmは縄文尺と呼ばれています。
35cmの意味は・・・??縄文人たちの肘から手首までが35cmだったとも考えられています。

縄文の名付け親は日本人ではありません。
1877年に大森貝塚を発見したアメリカの動物学者エドワード・S・モースです。
モースは、縄目文様の土器を”Cord Marked Pottery”=縄の跡がついた焼き物と呼び、それが日本語で縄文土器と訳されたことが始まりでした。

縄目文様をつけた理由は滑り止めともいわれていますが・・・
縄目文様のないものも多く、ハッキリとはわかっていません。
しかし、土器がつくられるようになったことで、煮炊きができるようになり、彼らの食事が格段に豊かになりました。
その他にも、土器は儀式の道具として用いられたり、子供の棺として使われたりと、用途は多様で、縄文人たちの生活は、土器と共にありました。
縄文時代全般にわたって生活していた白神山地でも、様々な土器が発見されています。
掌におさまるような小さな土器・・・前期~中期に作られたミニチュア土器は、祭壇のお供え用?子供用に作ったおもちゃではないか?と考えられています。
後期から晩期に作られた注口土器は、注ぎ口が男性器を模したものになっています。
しかも、同じようなものがいくつも発見されています。
どうして・・・??
土器は女性が作るもので、遊び心からできたものだと思われます。
その遊び心が・・・人面付き土器・・・その表情は仏様のように穏やかです。
そして性器つけたことで、土器を人間的に扱っているのです。
土器を擬人化して楽しんでいた女性たち・・・
しかし、この世紀をつけるのは特定期しかなく、流行り廃りがあったようです。
当時の女性も流行には敏感だったのです。

暮らしに大切な土器は、壊れることも日常茶飯事・・・
縄文人たちは、修理をしながら大切に使っていました。
そして、その修理には、接着剤を使っていました。
アスファルトを使って修復した土器も出土しています。
天然アスファルトは、石油の成分などが地熱によって蒸発し、その残留物が化学変化を起こしてできた物質で、粘着性が強く、冷えると石のように固まるため、縄文人たちは接着剤として日常的に使っていました。
このアスファルトは、日本海側でしか採れません。・・・山形県、秋田県、青森県、北海道かた採ってきて、土器、土偶、を修復していました。
あとは、石鏃をアスファルトを使って柄にくっつけていました。
天然アスファルトと共に、縄文人たちが重宝していたのが漆です。
様々な木の漆器はもちろん、前面に漆を塗った土器も出土しています。
縄文人たちは、漆に防水、防菌の効果があることを知っていたのだと思われます。
また、遺跡からは朱色の漆が塗られた櫛も発見されています。
もともとは鮮やかな色合いで・・・当時、櫛は髪飾りとして使われていました。
作るのは、漆はかぶれるので、漆を採る集団、漆器を作る集団が存在していました。
縄文人たちは、特技を生かした分担・・・今でいう職業があったのです。
そしてひも状の針葉樹の木の皮を縦横交互に編んだポシェットのような籠、5500年前のものが発見されています。
発見された当時、そこにはクルミの殻が一つ入っていました。
縄文人たちは、様々な道具を編み出して、生活を豊かにしていたのです。

縄文時代の遺物といえば・・・土偶です。
姿や大きさはさまざまですが、女性の姿をかたどっていて、妊婦が多いのが特徴です。
縄文人たちの祈りの道具といわれ、祈りの造形といわれていますが、明確な根拠があるわけではなく、その制作目的は今もって謎です。
造形美に優れたものも多く、国宝に指定されているものもあります。
白神山地からも多くの土偶が出土し、その数は500点以上です。

土偶の中には犬もあります。
多くの縄文人たちは犬と暮らし、私たちと同じように心を通わせていました。
しかし、ペットではなく狩りを一緒にする生活のパートナーでした。
縄文犬は、体高約40cmで、脚が太く短く、身体がしっかりしていて、現在の柴犬や狐のような感じでした。
そんな縄文犬・・・青森県七戸町三ツ森貝塚から発見された縄文犬は、骨がすべてそろっています。
人の手によって手厚く埋葬されていました。
骨折の跡もあるのですが、治っているので手当をしてもらっていたと考えられます。
このような縄文犬の骨は、全国各地から発見されていて、中には人の骨と一緒に埋葬されていたものもありました。
縄文人にとって犬は大切な家族であり、良きパートナーだったのです。

温帯性の落葉広葉樹・・・ブナがここに生え始めたのは、氷河期が終わり日本が温暖になってきた約8000年前・・・
それからまた悠久の時を経て、広大な森となったのです。
白神山地の麓に縄文人たちが暮らし始めたのは1万2000年前・・・。
縄文人たちは、ブナの木が生える4000年前から白神山地の麓で暮らしていたのです。
ブナの森の誕生を目撃し、その成長と共に生きてきた縄文人たち・・・。

彼等はブナの森の形成にどのように携わってきたのでしょうか?
狩猟、採集などの自然に身をゆだねるしかなかったと考えられていた縄文人たちですが、自然をコントロールするすべを持っていたのでは・・・??といわれています。

青森市にある三内丸山遺跡・・・多い時には200人ほどが暮らしていたとされる縄文時代中期の集落跡ですが、この周りにはクリの林があったとされています。
そして遺跡から出土したクリの実を遺伝子分析したところ、その遺伝子構造がほとんど同じでした。
大粒で糖度の高いものばかりでした。
三内丸山遺跡の周りのクリの林は、縄文人たちによって人工的に作られた林であったと思われます。
彼等は、甘くて大きいクリの実のなる木を集落の周りで栽培し、食料用として確保していたのです。

彼等はどうすれば自然のものをうまく使えるか、常に考えていました。
大豆や小豆の原種も栽培しようとしていました。
自然を利用する技術が高かったのです。

ブナの森に対しては・・・??
多くの命を育むのに最適の場所で、多様な哺乳類と鳥類が生息しています。
さらには2000種を超える昆虫類が今も生息しています。
もちろん、木の実や山の幸も豊富で、東北地方の日本海側は、有史以来、干ばつや冷害による飢饉に何度も襲われてきましたが、白神山地周辺では餓死者がほとんど出なかったといわれています。

そこに暮らす者にとって、ブナの森はまさに命の森・・・
この生育に縄文人たちが一役買っていたということはないのでしょうか??
人間がブナの森を作ることはありません。
縄文人たちは自然を支配しようとしているのではなく、あくまでも感謝する・・・
自然に生まれたブナの森を、縄文人たちは侵すことなく見守り続けたのです。

自然への感謝を忘れずに共に生きる・・・それが白神山地に暮らして来た縄文人たちからのメッセージだったのです。
大自然の中に身を置き、敬意を払いながら共存し、遠くの人々と交易しながらないものを補い合い、情報を交換して生き抜いてきた縄文人たち・・・
残された遺跡や遺物を見ると、縄文人たちの生活は豊かで力強く、想像力に富んだものでした。

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あるものが発見されるまでの手術は地獄でした。
あるものとは麻酔です。
それまでは、痛みにショック死するものや、手術を悲観して自殺するものもたくさんいました。
しかし、世紀の大発見”麻酔”のおかげで医療技術が大進歩します。
命をすくうことになった世紀の大発見・・・にもかかわらず、麻酔の第一発見者で歯科医のホレス・ウェルズを知る人はほとんどいません。

アメリカ・・・1844年のある日・・・ウェルズは奇妙な光景を目にします。
笑気ガスと呼ばれていた亜酸化窒素・・・これを吸うと突然暴れ出したり踊り出したり・・・その滑稽な振る舞いを楽しんでいた人たちです。
椅子にぶつかったことも気づいていない・・・足から出血しても・・・!!

「もしかして、これを使えば痛みなく虫歯を抜けるんじゃないか・・・?」

ウェルズは、自らが実験台になり亜酸化窒素を吸入、親知らずを抜いてもらいました。
全然痛くない・・・!!麻酔発見の世紀の大発見の瞬間でした。

「これをアメリカ中に広めたら、たくさんの命が救えるぞ・・・!!」

ウェルズは、医学界の権威の前で麻酔の公開実技を行います。
しかし・・・公開実技は失敗!!
窒素の濃度がいつもと違っていたのです。
大ウソつき、ペテン師・・・この失敗で、アメリカ医学会から完全に干されてしまいました。

ウェルズを慰めていたのは、弟子のウィリアム・モートン・・・。
しかし、その本音は・・・
「麻酔のかけ方は全部ウェルズに教わっている
 この技術を盗んで大金持ちになるぞ・・・!!」

実はモートンは、歯科医になる前は筋金入りの詐欺師で、悪行改めウェルズのもとで働いていましたが・・・
失敗したウェルズを見て、詐欺師の顔がよみがえりました。
ウェルズの失敗から1年後・・・
ウェルズの技術を盗んだモートンは、麻酔の公開実技を大成功させます。
亜酸化窒素と同じエーテルを使ったのです。
その結果、医学の歴史には麻酔の第一発見者としてウィリアム・モートンの名が刻まれています。
モートンは麻酔の特許を申請、国もこれを認めモートンの計画通りに・・・!!

しかし、アメリカ・メキシコ戦争(1846~48)で・・・負傷者の手当の為に特許を無視してエーテルを使い始めたのです。
他の医者たちも無断でエーテルを使用するようになった結果、モートンには一銭にも入ってきませんでした。
ショックのあまりモートンは、次第に精神が不安定になっていき、池に飛び込んで死んでしまいました。
享年48歳でした。

しかし、更に悲惨な最期を遂げたのは、麻酔の第一発見者ウェルズの最期です。
公開実技が失敗した後、麻酔としてクロロホルムを試し、歯科医として再始動します。
が、自らが実験台となってクロロホルムの効果を試すうちに、幻覚を引き起こすクロロホルム中毒に・・・!!
精神を病んだウェルズは、娼婦に硫酸をかけて逮捕。
その獄中で、自ら命を絶つのです。
密かに持ち込んでいたカミソリ・・・自らが発見したクロロホルムを吸い込んだ後、左足の動脈を切り裂いたのでした。

医学界史上最大の発見・・・麻酔・・・そこには2人の男の栄光と破滅の人生がありました。



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時代を動かし、時代に名を残していく天才たち・・・
しかし、そんな彼らの影には、天才と呼ばれながら歴史の波にのまれ消えた天才がいました。

大阪市中之島に建つ大阪市中央公会堂・・・
かつてヘレン・ケラーや、ガガーリン大佐などの公演が行われました。
歴史的建造物として国の重要文化財となっています。
そんな公会堂の片隅に・・・ある男の銅像が・・・

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岩本栄之助です。
明治時代、株トレードの天才といわれ、北浜の風雲児と呼ばれた大富豪な男です。
そんな彼の最期は・・・39歳の若さでピストル自殺という壮絶なものでした。

どうして岩本はこのような死に方を選んだのでしょうか?

今から100年以上前の事・・・
岩本商店を経営し、株式投資をしていた岩本・・・
株の買い方は、世間が”買い”なら”売り”、世間が”売り”なら”買い”という逆張りでした。
これがことごとく当たり、莫大な財産を築きます。

時に相場に失敗した株仲間を助けることもあり、その中には野村證券の創始者・野村徳七もいました。

そんな岩本は、明治42年、渡米実業団の一員としてアメリカ視察に・・・!!
そこである建物に心を奪われます。
カーネギーホールです。
実業家アンドリュー・カーネギーが、人々の為に私財を投じて完成させたコンサートホールでした。

「僕の仕事は、儲かるばかりとは決まってない商売や
 いつ一文無しになるかしらん
 それやったら、成功している時にみんなの為になんかせなあかん・・・!!」

岩本は私財を人々の為に使うことに決めます。
明治44年、大阪に数十億円を寄付。
その寄付金を使って作られたが、大阪市中高公会堂だったのです。

「自分だけ儲かればええと考えている奴は、本当の商売人やない
 これでやっと、私も本当の商売人になれたのかもしれへんなあ」

この寄付によって、岩本の名は、大阪商人の鑑として知れ渡ったのです。

しかし・・・ここから彼の人生は歴史に翻弄されていきます。
寄付から3年後の大正3年、第一次世界大戦勃発!!
戦争物資の需要増加による好景気で、株価は上昇し続けました。
岩本は売りにかけました。
しかし、本格的な大戦景気が起こり、止まらない株価暴騰・・・!!
株価の下落にかけていた岩本は、資産が底をつきます。
ただただ膨れ上がる借金・・・

大阪に寄付したお金を返してもらう・・・??

「あかん、いちど寄付したもんを返してくれというのは大阪商人の恥や
 あの金は、みんなに気持ちよう使ってもらいたいんや」

大正5年10月22日は、おだやかな秋晴れでした。
岩本は従業員たちとマツタケ狩りに行く予定でしたが、家に残りました。
午前中は店の書類の整理・・・午後は三越呉服店に行き写真を撮りました。
その帰り道・・・まだ建設中の中央公会堂へ・・・

はようできてほしいなあ・・・
この建物が、大坂発展の為に少しでも役に立てたらええなあ

家にて・・・乾いた銃声と共に、天才と呼ばれた男の一生が幕を閉じました。
寄付からわずか5年後のことでした。
傍らにあった遺書にはこう書かれていました。

全財産を債権者に提供
妻子のためには、一文たりとも使ってはならぬ
株式投機は自分一代に限り、子孫は決してすべからず

岩本の遺志を継いで大阪市が中央公会堂の建設を続行!!
岩本の死の2年後に完成しました。


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