日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

オリンピックで日本人初のメダリストが誕生したのは、1928年8月2日、アムステルダムオリンピック女子800mでした。
世界はこの類まれな身体能力に驚き、東洋の明星と呼びました。
その名は人見絹枝。
64年後の1992年8月2日、バルセロナオリンピックで同郷・岡山県出身の有森裕子が銀メダルを獲得しました。
人見絹枝以来女子陸上競技二人目の快挙でした。

しかし、人見絹枝のオリンピックへの道程は、決して容易なものではありませんでした。
近年、生家から人見絹枝の17歳の日記が発見されました。
そこに綴られていた悲痛な思い・・・女が足を露にすることさえ憚られる時代、心無い言葉が投げつけられました。
日本人女性初のメダリスト・人見絹枝・・・メダル獲得までの苦悩の洗濯とは・・・??

人見絹枝の故郷は、岡山県岡山市・・・
1907年農家の次女として生まれた人見はここで伸び伸びと育ちました。
体格にも恵まれた人見・・・十代で身長は169cm、足のサイズは27cm。
日本女性の平均身長が150cmだった時代、人見は目を引く存在でした。
1920年、高等女学校に入学、スポーツの出発点は、袴でもできる庭球でした。
そんな人見に陸上競技会出場の話が舞い込みます。
大正末期、男子だけで行われていた陸上競技が女子にも普及し始めていました。
女子だけの陸上競技会も開催され、その広がりは全国的なものになってきていました。
岡山県大会に出場した人見は、走り幅跳びでいきなり日本新記録をたたき出します。
人見の能力を伸ばそうと女学校の校長は、東京の学校を薦めます。

1924年、日本女子体育大学の前身・・・二階堂体操塾に入学します。
高等女学校の体育教師を育成する創立間もない学校でした。
創設者は、二階堂トクヨ・・・私財を投げ打ち、荒れ地を開墾し、後に日本女子体育の母とされた人物です。
人見は二階堂の信念に心を打たれます。

「先生は教育家である一方に、又立派な事業家であります。
 あの五千坪ちかい運動場や体育館、それが全部、先生の手で成ったものなのです。」

人見絹枝は時代を切り開く、自立した女性の姿に憧れました。
そして袴を脱ぎ、体操着を着た人見絹枝は、二階堂体操塾でその才能を開花させていきます。
入学からわずか半年・・・17歳で三段跳びの世界新記録を樹立。
記録を出す喜びに目覚めた人見は、指導者ではなく競技者の道を選び、塾を巣立ちます。

時は大正デモクラシー・・・都会ではモダンガールが闊歩していました。
1926年、大阪の新聞社に入社。
当時、スポーツ記事で販路拡大を目指していた新聞社にスカウトされたのです。
新聞記者として記事を書きながら、競技も続ける・・・人見にとって自立の第一歩でした。
入社から4か月・・・転機が訪れます。
1926年8月、万国女子オリンピック・・・スェーデン・イエーテボリで行われる国際大会に出場することになったのです。
女子だけの陸上競技の世界大会です。
欧米を中心に10か国から92人の女子が集まりました。
人見絹枝は、東洋から参加したたった一人の選手でした。
初めての海外での大会・・・外国人と競う未知の世界・・・
この大舞台で、人見は驚くべき活躍を見せるのです。
100ヤード走3位、円盤投げ2位、立ち幅跳び・走り幅跳び金メダル、走り幅跳びは世界新記録でした。
東洋からやってきたヒロインに、ヨーロッパの観客は湧きました。
人見は総合優勝という活躍をし、オールラウンダー・・・万能選手として尊敬を集めました。
彼女の価値は、記録だけではありません。
1896年に始まった近代オリンピックは、あくまでも男性のものでした。
女性が参加できたのは、テニスやアーチェリーなど、男性が女性らしいと認めた競技のみでした。
男たちは、女性には陸上競技は過酷すぎると参加を認めなかったのです。

そこに異議を唱えたのは、女性の権利向上のために活動していたフランス人、アリス・ミリアでした。
ミリアは国際オリンピック委員会に、陸上競技に女性の参加を認めるように働きかけていました。
そんなミリアにとって、人見絹枝は女性でも立派に競技ができるという証でした。
この万国オリンピックを開いた理由・・・それは、女性たちが国際大会で競技する場がなかったからです。
スポーツは過激すぎると男性たちに言われる・・・
女性たちが、スポーツは自分達にも出来ると証明する駆け引きのツールでした。
IOCに見せて訴えたのです。

男たちもようやく重い腰をあげました。
第8回国際陸上競技連盟総会の議論の記録が残されています。
2年後のアムステルダムオリンピックでの女子陸上の採用は・・・??
欧米17か国の代表が意見を交わします。
強硬な反対派はフィンランド代表・・・
「女性が笑い者になる・・・男性の持久力は先祖から受け継いだものだが、女性はそうはいかない・・・」
これにノルウェー代表が反論します。
「男性にとって良いことは、人類の半分の女性にも良いことだ」
「一回だけでも試験的に女子種目を実施する??」
人見絹枝の活躍・・・それは、男性たちの懸念を払う見事なものでした。
この成果で、オリンピックに女子陸上が参加が決定的となります。
人見絹枝は、アムステルダムオリンピックへと歩み始めました。

1928年7月28日、オランダ・・・アムステルダムオリンピック!!
初めて女子陸上競技が開催される記念すべきオリンピックが開幕しました。
しかし、あくまで試験的・・・今後の継続は、このオリンピックでの女子の結果次第でした。
開会式に臨む日本選手団・・・人見絹枝は、たった一人の女子選手として行進していました。
当初、日本の女子はチームで参加する予定でした。
人見の活躍もあり、女子陸上は全国に広がり、世界レベルの記録を出す少女たちが現れました。
三段跳びと短距離走の天才少女・橋本静子。
100メートル走のスプリンター姉妹・・・双子の寺尾正・文。
彼女たちは人見絹枝にできた初めての仲間でした。
しかし・・・少女たちは好奇の目にさらされます。
寺尾姉妹をモデルにした恋愛小説が発表されました。
それは、陸上選手の美しい姉妹が一人の青年を奪い合うというものでした。
年端も行かない娘たちが見世物にされたとこを両親は激怒!!
姉妹を強引に引退させてしまいました。
橋本静子は記録が振るわず予選会で落選・・・オリンピック代表は、またしても人見絹枝ひとりになってしまいました。
オリンピックににひとりで出場・・・
「女だてらにオリンピックか!!」という批判もありました。
そんな中、今度のオリンピックで金メダルを取れるだろうとの期待感・・・
批判と期待の狭間に立った、その苦しみは大変でした。

人見が照準を定めたのは100m!!
人見は世界記録を出しており、メダルの期待が高まっていました。
準決勝2位までが決勝に進める・・・!!
結果は4位・・・まさかの準決勝敗退でした。

この時の気持ちを後に、
「もう目の前は真っ黒になって、奈落の底に落ちたような気持であった」と。

絶望の淵に突き落とされた人見絹枝・・・。

100m一本に絞ってやってきた・・・負けを受け止め帰国して再出発するのか??
このままでは帰れない・・・わずかな可能性・800mにかける・・・??
今まで1回も出たことがないのに・・・??
そうすれば女子スポーツの道が開かれる・・・??
しかし、800mは、陸上の格闘技と呼ばれていました。
集団内での駆け引き、足やひじのぶつかり合い、男性でも過酷な競技でした。
周りから見れば、勝てる可能性はゼロでした。

1928年8月2日・・・女子800m決勝!!
そのスタートラインに人見絹枝の姿がありました。
人見の挑戦が始まりました。

スタートダッシュ・・・100mで鍛えた体でトップに躍り出ます。
2位以下を引き離す・・・しかし、スタミナは続かない・・・。
200mを過ぎてから、一気に失速・・・。
追い抜かれ順位をさげます。
TOP集団を行くのは、800mの記録保持者ドイツのリナ・ラトケ。
差はどんどん開いていきます。
ラスト一周・・・人見が腕を多きく振り始めました。
ラトケとの差が縮まる・・・3位に上がった人見・・・遂に2位を捕らえました。
目の前にはラトケのみ・・!!
人見絹枝、2位でゴール!!
1位のラトケとの差はわずか2m、記録は2分17秒6!!
世界記録を上回るタイムでした。
しかし、ゴール直後、人見は意識を失っていました。
後続の選手も次々と倒れ、女子800mは、死のレースといわれました。
人見が我に返った時・・・ポールには日の丸がはためいていました。
人見絹枝が銀メダル獲得を実感した瞬間でした。

アムステルダムから帰国後、人見絹枝は全国の女学校を回り、自ら競技する姿を女学生たち見せ、訴えます。

”狭い国内ばかり見ないでください
 世界は広いのです
 海外に出なければ、物事の本当の姿は見えてきません”

自分が選手として行ってメダルを取っただけではなく、自分は何をしなければいけないのか・・・
ありとあらゆるスポーツのマネジメント、指導者、選手・・・すべてをこなしました。
オリンピックをへて、人見に芽生えた夢は、次の世界大会で日本女子選手団を率いて出場することでした。
人見は莫大な遠征費を調達する為に、執筆活動で得た印税を投入!!
年に200回に及ぶ講演会をこなし、陸上競技の魅力を伝えます。
さらに、全国の女学校を回って寄付金を募ります。
そして人見絹枝の元に、5人の才能あふれる少女が集まりました。
10代の女学生たちです。

1930年9月6日、第3回万国女子オリンピック大会プラハ大会開幕!!
人見絹枝を先頭に、6人の選手たちが堂々と更新していました。
しかし、初めての国際大会で記録のふるわない選手たち・・・
このままではいけない・・・人見絹枝は自分の記録より、日本チームとして結果を残すことにこだわります。
世界記録を持っていた200mを棄権し、チーム競技である400mリレーにかけたのです。
結果は見事4位入賞!!
人見絹枝の夢がかないました。

しかし・・・この時、身体は限界を迎えていました。
プラハ大会の翌年・・・過労により肺炎を併発した人見絹枝は・・・
1931年8月2日・・・静かに息を引き取りました。

人見絹枝の母校に、彼女の最期が残されています。
デスマスクです。
亡くなられた直後に作られたものです。
享年24歳・・・女子スポーツの行方に、一筋の光が差した矢先の、早すぎる死でした。
命日は8月2日・・・奇しくも3年前、アムステルダムオリンピックで銀メダリストに輝いた日でした。

同じく8月2日、有森裕子が銀メダルを獲得しました。
バルセロナオリンピックから帰国した有森は、人見の墓前に足を運びました。
人見の思いは64年の時を経て、再びつながれました。
人見絹枝が日本女子選手団として活躍したプラハ・・・
国の英雄たちが眠る国立墓地の一角に、人見絹枝の記念碑が残されています。
彼女の死を悼んだ現地の女子陸上委員会は、東洋の明星・人見絹枝を称えています。

”愛の心を持って 世界を輝かせた女性に 感謝の念を捧ぐ”

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

不滅のランナー人見絹枝 [ 田中良子 ]

価格:1,620円
(2019/9/19 18:36時点)
感想(0件)

人見絹枝 炎のスプリンター/人見絹枝/織田幹雄/戸田純【1000円以上送料無料】

価格:1,944円
(2019/9/19 18:37時点)
感想(0件)

鹿児島市からおよそ120キロ・・・大隅諸島の種子島。
種子島といえば、宇宙センターで知られていますが、もう一つ・・・歴史的なある出来事が起こりました。

1543年8月25日、種子島にやってきたポルトガル人が、日本に初めて鉄砲を伝えた・・・鉄砲伝来です。
教科書にはこう書かれていますが・・・
しかし、近年の研究によって、いろいろ違う説も出てきました。

国立公文書館に、鉄砲伝来の貴重な資料が残されています。
江戸時代初期の1606年に薩摩国の僧侶・南浦文之が編纂した鉄砲記です。
種子島に鉄砲が伝わった経緯が詳しく記されています。
これによると・・・種子島の最南端にある門倉岬・・・
1543年8月25日、この岬の沖合に大きな船が姿を現します。
島民たちは動揺・・・!!
船から降りてきた乗組員に中に、見たこともない顔つきの者がいたからです。

報せを受けた村の長、西村織部丞が、乗組員に話しかけてみるも全く言葉が通じません。
そこで、漢文に通じていた織部丞が、砂浜に字を書くと・・・答えた男は、隣の国・明からやってきた五峯というものでした。
他のものは誰なのか聞くと・・・彼らは西南から来た異人で、商人であるとの事。
その異人とは、ポルトガルの商人でした。

織部丞は、とりあえず島を治めていた種子島家へ・・・。
この時の島の領主・種子島時堯は、まだ十代の若者でした。
五峯らと面会した時堯は、ポルトガル人が奇妙なものを持っていることに気付きます。

「おぬしが手にしているモノは、一体何じゃ??」

其れこそが、鉄砲・・・火縄銃だったのです。

ポルトガル人は、この火縄銃を身振り手振りで説明・・・そしてこう言いました。
「これは、銀山を砕くことができるし、鉄の壁に穴をあけることもできる
 国に災いをもたらす邪悪な者も、鉄砲の玉に触れればたちまち魂を失ってしまう」
若き領主・時堯は、すぐに鉄砲に強い興味を持ち、日を改めて試し打ちをさせてもらうことに・・・
手ほどきを受けて引き金を引いてみると・・・??
時堯は、初めて体験した爆音と衝撃に驚きますが、一瞬にして百歩先の的に玉が当たったのを目の当たりにすると、
「ぜひともこの使い方を、学びたいものだ」
と、すぐに鉄砲を二挺購入・・・一説には二挺で銀2000両・・・数千万円の大金を払ったと言われています。
この時、時堯が手にした鉄砲は残ってはいませんが、同じ時に伝わったものが種子島に残っています。
西村織部丞がポルトガル人から手に入れた鉄砲とされています。

その鉄砲を伝えた船には、ポルトガル人以外に明の人も乗っていました。
実は彼らが乗ってきたのは南蛮船ではなく、ジャンク船と呼ばれる中国で古くから使われてきた木造帆船です。
五峯の船だった??
五峯は、王直という人物の別称で、明や東南アジアの沿岸などで、暗躍していた海賊・・・倭寇の頭領でした。
鉄砲が伝来してきたころの倭寇は、明の人たちが主体となって、東南アジアや日本などと密貿易を行っていました。
倭寇のメンバーに、ポルトガル人がいたと思われます。
ポルトガル人を乗せたジャンク船が、タイを出発し、日本近海へ漂着したと伝えられています。
つまり、伝えたのは倭寇とそのメンバーであるポルトガル人の乗った船だったのです。

日本の鉄砲記・・・・・・1543年に鉄砲が伝来
ポルトガルの記録・・・1542年
イエズス会の記録・・・1541年

となっていて、様々な説があるのです。

どうして種子島にやってきたのでしょうか??
その理由にも、様々な説があります。

①偶然説
8月25日は、今の9月下旬ごろ・・・台風が頻繁にやってくる時期です。
ポルトガルの記録には、倭寇たちの乗せたジャンク船が航海中にシケに遭い偶然種子島に着いたとあります。
②必然説
室町幕府や有力大名などは、堺などの商人たちを使って明と勘合貿易を行っていました。
商人たちは堺から土佐、南九州を通って明の東沿岸へ向かっていました。
そしてそのルートの中で中継点となっていたのが種子島だったのです。
現在の奄美大島や沖縄は、琉球王国とよばれ、実質的に日本の最南端は種子島でした。
倭寇が民から日本へ向かう際、当時の日本の最南端であった種子島を目指すのは必然だったのです。
明の人々にとって種子島は日本の玄関口だったのです。

種子島にやってきた明の海賊・倭寇のメンバーだったとされるポルトガル人が伝えたとされる鉄砲・・・その火縄銃は、どこで作られたものなのでしょうか?
現在最も有力な説は、ヨーロッパ製。
ところが、種子島に伝わってそののち国内で普及していった火縄銃と、当時のヨーロッパの銃とは大きく異なっています。
点火装置である火ばさみ・・・日本のものは引き金を引くと火ばさみが銃口側・・・前に落ちる仕組みになっています。
対して、ヨーロッパで普及していた火縄銃の火ばさみは、打ち手側に落ちる仕組みになっています。
この違いから、伝来したのはヨーロッパ製ではないのではないか?という説があるのです。
だとするとどこのもの・・・??
ポルトガルの資料によると、現在のタイであるシャムから倭寇の船に乗って・・・とありました。
東南アジアでも鉄砲が作られていたとされています。
その火ばさみは、まさに日本のものと同じタイプ!!
そのため、種子島に伝来したものは東南アジア製である可能性が唱えられています。

豊臣秀吉が天下統一を果たしたころには、50万挺の火縄銃が、国内に装備され、世界有数の鉄砲保有国になっていました。
急速に増えて行った原因は、日本人の職人たちのその技術力の高さがありました。
国産第一号はどのようにして生まれたのでしょうか?
種子島を治めていた種子島時堯は、ポルトガル人から2挺の鉄砲を購入したのち、家臣たちに言います。
「これと同じものを作ってみせよ」
その大役を任されたのが、刀鍛冶の八板金兵衛でした。
種子島では、海岸で良質の蹉跌が採れ、製鉄に必要な薪も豊富にあったので、刀づくりが盛んにおこなわれていました。
金兵衛は、刀の本場美濃国の関から種子島にやってきたと言われています。
早速金兵衛は、その技を駆使して銃身づくりに・・・しかし・・・基底部を塞がないと暴発してしまう・・・
しかし、掃除の為にも基底部は開けられるようにしておかなければなりません。
密閉出来て簡単に取り外せる・・・それが大きな壁でした。
ネジ構造でしたが、当時の日本にはネジ自体が存在していませんでした。
鉄砲を分解し、ネジを目にした金兵衛は途方に暮れていたかも・・・??
金兵衛はポルトガル人に製造方法を教えてほしいと願い出ます。
それと引き換えに、自分の娘・若狭を差し出したといいます。
若狭を連れて帰ったポルトガル人は、翌年母国から鍛冶職人と共に帰ってきて製造方法を金兵衛に教えます。
それは、父金兵衛の執念の犠牲になった娘の悲劇として種子島に伝わっています。
若狭は戻ってきたポルトガル人と共に帰国し、その後亡くなるまで種子島で暮らしたと言われています。

金兵衛の作った鉄砲が残っています。
代々、種子島家に伝わったものです。
しかし、金兵衛がどのようにしてネジ部分を作ったのかという記録は残っていません。
ネジは外側にネジ山のある雄ねじと内側にネジ溝のある雌ねじとに分かれています。
雄ねじはやすりなどで加工、雌ねじは内部なのでその苦労は大変なものでした。
どのようにして重臣の内側に溝を掘ったのでしょうか?
それは、鍛造法による雌ねじの製作です。
①高温に熱した銃身に雄ねじを差し込みます。
②回りを叩いていくことで、雄ねじと密着させます。
③鉄が暑いうちに、雄ねじを回しながら抜き取ると、銃身の内側に溝が刻まれます。
そうすると、綺麗な雌ねじが完成します。
こうして、苦労の末、国産第一号の鉄砲が出来上がったのです。

急速に普及していった鉄砲・・・
種子島からどのようにして国内に広まったのでしょうか?
種子島に鉄砲が伝来し、国産の鉄砲づくりに成功したという噂は、近畿地方に伝わります。
当時、明と貿易を行っていた堺の商人たちが中継地点の種子島に立ち寄って聞いたのを広めたからです。
そんなある日の事・・・一人の男が種子島時堯の元にやってきます。
紀州・根来寺の津田監物です。
新義真言宗の総本山である根来寺は、当時寺領72万石を有し、一大宗教都市を形成していました。
大名並みの権力・財力を持つ寺で、防御するための軍事力も必要でした。
僧兵・・・寺の軍事力を強化したいと考えていた監物は、
「殿の鉄砲を一挺お譲りいただけないでしょうか」
大金を払ってポルトガル人から手に入れた鉄砲・・・
「一つ持って行くがよい」
気前よくもらい、扱い方、火薬の調合まで教えてもらいました。

監物が島を去ったのち、和泉国堺から商人の橘屋又三郎がやってきました。
鉄砲で商売をしたく、その作り方を会得したいというのです。
すると、時堯は、またもや承諾します。
「よくよく学んでいくがよいぞ」
刀鍛冶・八板金兵衛がようやく手に入れた作り方を、惜しげもなく教えてしまうのです。
どうして時堯は、貴重な鉄砲を手放し、伝授したのでしょうか?

時堯の思いは「鉄砲記」に記されていました。
「我が島はとても小さいが、決して物を惜しむようなことはしたくない
 私自身が欲しいと思うのだから、誰でも欲しがるであろう
 これを自分だけのものにして箱に収めて仕舞っておくようなことはしない」
鉄砲は、種子島時堯の気前の良さで、交易をしていた堺や紀州などの近畿地方へ広まっていったのです。

津田監物は根来寺に戻ると鉄砲職人に作らせ、大量生産に成功。根来寺の僧兵たちは鉄砲隊を形成、根来衆と呼ばれるようになります。
橘屋又三郎も堺に帰り、鉄砲の一大生産地となります。
近畿地方一帯に広まった鉄砲は、関東地方などに広まり、さらに甲信越・・・東北地方へ・・・。
そこで重要な役目を担ったのが、紀州・根来衆、堺の砲術師、鉄砲鍛冶たちでした。
彼等は諸大名たちに招かれ、鉄砲を広く普及させていきます。

豊後を治めていた大友義鎮も・・・義鎮が、南蛮鉄砲を13代将軍足利義輝に献上したという記録が残っています。
その鉄砲は、交易していた種子島家、もしくは肥前の平戸などで密貿易を行っていた倭寇から手に入れたものだとされています。
九州で勢力を拡大していた義鎮は、新たに配下に置いた肥前の守護に任命してもらえるように将軍義輝に当時まだ珍しかった舶来の鉄砲を送ったのです。
その義輝自身も、そうした鉄砲を政治に利用していきます。
失墜していた幕府の権威を取り戻すために・・・関東の豪族たちを取り込もうと火縄銃を与えます。
また、上越地方で勢力を拡大していた上杉謙信には病気見舞いとして火薬の調合の秘伝書を送るなどしています。
贈答品や外交の道具として用いられた鉄砲は、やがて、新しい兵器として全国に普及していくことになります。

当時は戦国大名たちが鎬を削る戦乱の世・・・
それまで戦で使用されていた武器は・・・刀、槍、そして弓などでした。
そんななかに現れた鉄砲は、戦を大きく変えていきます。
火縄銃の威力とはどれほどのもの・・・??
50m離れたところから撃って、的の中心から半径4センチ以内に命中します。
射程は100mあり、殺傷能力も十分にありました。
さらに、その破壊力は・・・??
40m先の甲冑を撃ち抜きます。

戦国大名たちは、余所の鉄砲集団を傭兵として雇い入れました。
有名なところでは、紀州の根来衆、雑賀衆の強力な鉄砲集団です。
鉄砲の伝来とともに甲冑も伝来しました。
それを参考に、鉄砲から身を守るため、鉄製の鎧が使われるようになりました。
それが、現在言われる当世具足と呼ばれるものです。
城の構造も大きく変わります。
新しい城郭は、鉄砲玉を通さないように壁が厚くなりました。
鉄砲狭間を作り、鉄砲を装備した敵を遠ざけるため、城の周囲に堀を巡らせました。
戦の様相もがらりと変わりました。

戦国武将の中で、一番鉄砲を有効利用したのは織田信長です。
戦国の世を天下布武へと導いたのが織田信長・・・
信長は、若い頃から鉄砲に興味を抱いていました。
”信長公記”によると・・・
1549年・・・16、7歳ごろの時、砲術師・橋本一巴から鉄砲の手ほどきを受けたと書かれています。
日本に伝来してわずか6年後のことでした。
新しもの好きだった信長は、鉄砲を気に入るとすぐさま戦に用います。
1570年、北近江の浅井長政、越前の朝倉義景との姉川の戦いで、500挺の鉄砲を投入。
1575年、武田勝頼率いる武田軍と戦った長篠の戦いでは3000挺もの鉄砲を投入して、見事勝利しています。
しかし、どうして信長はこれだけ多くの鉄砲を調達することができたのでしょうか?

①和泉国・堺を手中に収めていた
信長は、堺の商人・茶人の今井宗久にさまざまな特権を与え、鉄砲と火薬の製造を任せたのです。
さらに、姉川の戦いの後の小谷城の戦いで浅井長政を倒すと、長政の領地であった近江国・国友村を配下に納めます。
②近江国・国友
国友は、堺と並ぶ鉄砲の一大生産地でした。
こうして、鉄砲の安定した供給を押さえた信長は、そののち、戦を大きく変えていきます。

鉄砲は伝来当時高価なものでしたが、その高価なものをたくさん使うことは誰も考えていませんでした。
信長は、強力な経済力のもと、大量の鉄砲を装備したのです。
秀吉、家康もそれを踏襲しています。

鉄砲を大量に装備したものが戦に勝つ・・・いつの間にか、戦は経済力の勝負となっていきます。
財力のない武将は、戦う前から降伏するようになり、無駄な戦が減少していきます。
そして、信長亡き後、鉄砲を大量に装備できる圧倒的な財力を誇った豊臣秀吉や徳川家康によって、天下統一がなされていったのです。


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

真説 鉄砲伝来 (平凡社新書)

新品価格
¥864から
(2019/9/17 07:11時点)

鉄砲―伝来とその影響

新品価格
¥10,584から
(2019/9/17 07:11時点)

新紙幣・・・1万円の顔となった渋沢栄一・・・
明治時代、日本最初の銀行や、製造業、鉄道、ホテルなど500の会社を設立、日本資本主義の父と呼ばれた人物です。
次々に会社を興した経済人としてのイメージが強い渋沢ですが、別の顔があります。
日本の社会福祉事業の創始者です。
完成して間もない鹿鳴館でチャリティーバザーを開催、貧しいに人々の救済に奔走します。
貧民は経済発展の邪魔だといわれる中、悪戦苦闘します。

eiiti
















こちらは、渋沢栄一の風刺画です。
まるで千手観音のように色々なものに手を出していたというものです。
実業家としての渋沢栄一ではなく、福祉事業家としての渋沢栄一とは・・・??

1867年、一隻の大型汽船が日本からフランスへと向かっていました。
15代将軍慶喜の義弟・徳川昭武を長とするパリ万博使節団一行です。
その中に、28歳の渋沢栄一の姿がありました。
渋沢は、武蔵国の豪農の息子でしたが、その才覚を認められ、幕臣として随行を許されたのです。
到着したパリは、万博を契機に大きな経済発展を遂げていました。
日本が足元にも及ばないこの発展は、どのようにしてできたのでしょうか?
渋沢は、その源泉をパリで出会った一人の銀行家から学びます。
フリュリ・エラールは、渋沢を銀行や株式取引所に案内し、資本主義のシステムを教えます。
銀行や株式会社は、人々から集めたお金で投資、そこで得たもうけを人々に還元する・・・
この資本主義の仕組みを使えば、巨額の資金を調達でき、フランスの発展の原動力となっていたのです。
渋沢は、パリで髷を切り、決意します。

「銀行や株式会社などの資本主義のシステムを日本に作ろう」

渋沢がパリにいた頃・・・
1868年1月、鳥羽・伏見の戦いが勃発!!
これに勝利した薩長を中心に明治政府が樹立しました。
帰国した渋沢は、1873年民間人の立場で日本人で初めて銀行(第一国立銀行)を設立。
国立とあるが、国の法律にのっとるというもので、あくまで民間の銀行でした。
かくして、渋沢は日本の資本主義の父として第一歩を歩み出したのでした。

一方、渋沢にはもう一つの顔がありました。
東京都板橋区の一角に建てられた銅像・・・渋沢栄一の銅像です。
こここそ、社会福祉事業家・渋沢栄一の原点でした。
渋沢が終生関わった東京養育院という福祉施設のあった場所です。

1872年鉄道開設。
東京は文明開化を迎え、大きく変貌を遂げようとしていました。
しかし、その一方で、繁栄から取り残され住む家を失った人々も街にあふれていました。

江戸幕府の瓦解により、100万都市といわれていた人口が50万人に・・・。
その6割以上が貧民とされ、日々の食事や寝るところにも困窮していました。
渋沢は、この現状を目の当たりにして、何とか方法はないか??助けることはできないか??と、強い問題意識を抱いていました。

1874年、渋沢にとって好機が・・・!!
東京府知事大久保一翁から依頼を受けます。
「七分積金の運用を引き受けてくれないか?」と。
七分積金とは90年前、松平定信の寛政の改革にさかのぼります。
その際に行われた政策の一つで、江戸の町内会の積立金の七分に相当する米やもみを徴収し、備蓄していたのです。
飢饉や災害が起こった時に御救い米として放出し、江戸庶民のセーフティーネットとなっていました。
さらに、松平定信は人足寄場を作っています。
浮浪人に大工やわらじづくりなど手に職をつけさせ社会復帰させる更生施設です。
江戸幕府が瓦解すると、七分積金は、そのまま東京都に引き継がれました。
この時七分積金の総額は、170万両・・・今の金額で170億円でした。
この江戸幕府の遺産に目をつけたのが、財政のひっ迫していた明治政府でした。
文明開化の時代、橋や道路の補修、連歌外建設・・・インフラ整備に流用しました。
元幕臣だった大久保東京府知事は、「七分積み金を困窮者の救済のために使ってくれ」と、渋沢に要請。
渋沢は早速、行動を起こします。
彼は、東京養育院という生活困窮者の救済施設を訪れます。
そこで愕然・・・子供も老人も、病人も一緒に収容され、100畳ほどの部屋に100人以上が詰め込まれていました。

「頗る乱雑を極めている
 その実情を見て、全く情けなく感じた
 いかに無料で収容しているにしても、これではあまりにも気の毒だと考えた」

ホームレスのような人々を、収容するだけの施設・・・
「その人たちをどうするのか?」という目標もなければ、施設自体をどのように維持させていくのかも考えていませんでした。
「社会全体で事業として確立させなければいけない」と、福祉という活動に非常に強くのめり込んでいきます。
渋沢は、七分積み金を使って、養育院の改革に乗り出します。
近代的な診療施設を設置、職業訓練所を設け、草鞋つくりなどの技術を学ばせ手に職をつける職業訓練所を作り社会復帰を支援、子供達には学問所で学ばせ知識をつけさせます。
渋沢は、七分積み金の生みの親である松平定信を生涯進行していました。
松平が行った構成システムにあるべき社会の姿を見ていました。

渋沢の談話集「論語と算盤」・・・渋沢は、論語と算盤を結び付けて理想の社会を説こうとしました。
”論語と算盤は、はなはだ不釣り合いで大変にかけ離れたものであるけれども、富をなす根源は何かといえば、仁義、道徳。
 論語と算数というかけ離れたものを一致せしめることが、非常に重要だ”

日本初の銀行設立を皮切りに、渋沢は、近代化に必要な基幹産業を次々と立ち上げ、日本資本主義の父として華々しい活躍をしていきます。
その頃、その手腕を見込んでオファーが・・・
主演の席に招かれた渋沢栄一、招待したのは三菱の創業者岩崎弥太郎でした。
当時、岩崎は日本の流通業である海運業を独占し、経済界の大立者として権勢をふるっていました。

「君と僕が堅く手を握り合って、事業を経営すれば、日本の実業界を思う通に動かすことができる
 これから二人で大いに大いにやろうではないか」by弥太郎

「いや・・・独占事業は、欲に目のくらんだ利己主義だ」by栄一

市場の独占を狙う岩崎弥太郎、多くの株式会社が自由に市場に参入することが資本主義社会の原則だと思っていた渋沢。
渋沢は、岩崎の申し入れを断って席を立ちました。

1881年、東京府庁・・・渋沢は寝耳に水の知らせを受けます。
東京養育院の廃止案が東京府議会に提案されたのです。
1879年から養育院は、東京府の税金で運営されていました。

「貧民を救うために、多額の税金を使うことは止めろ」
「渋沢は、惰民製造の本尊だ
 渋沢が余計なおせっかいをするから惰民が増加する!!
 養育院にいる惰民はみな、一時に追い出せ」by田口卯吉

渋沢は、真っ向反対します。

「一国の首府にして、これ位な設備を置いて窮民を救助すると云うことは、絶対に必要である
 顧みざるはこれぞ暴涙の政になる」

渋沢は、議会に廃止案の撤回を働きかけますが、多くの議員は支持しました。
この頃、明治政府は富国強兵をスローガンに、産業の近代化を推し進めていました。
紡績や造船などの工業を発展させ、西欧列強に対抗する国にしようというのです。
富国強兵論者からすれば、東京養育院の維持費は無駄・・・それは弱者の切り捨てにつながりました。

「もしこの施設を欠けば、餓死者が道路に横たわる惨状となるだろう
 将来を遂行すれば、廃止すべきものではない」

渋沢にとって養育院の廃止は、あり得ないことでした。
養育院の人々の命と生活を守り、そこからどう抜け出せばいいのか・・・??
困窮者を惰民と決め付ける議会と真っ向対決する渋沢・・・!!

①養育院を税金で維持??
社会福祉事業は、政府・自治体のバックアップが必要だ・・・
之を失うわけにはいかない・・・
幸い府議会には、懇意にしている議員がたくさんいる。
彼等に味方になってもらおう!!
しかし、養育院の人たちを惰民という人たちは、理解してくれるだろうか・・・??

②民間資金で運営継続
養育院はかけがえのない場所・・・
経済界で築き上げたネットワークを駆使し、民間企業から出資者を募るのはどうか・・・??
500もの企業に携わってきた私だ・・・必ず協力者がいるはずだ・・・!!
しかし、株式会社は営利が第一目的・・・利益の出ない養育院に理解を示してくれる人はいるだろうか・・・??

渋沢栄一の必死の訴えにもかかわらず、1884年には東京養育院の廃止が決定。
そこで渋沢は、こう啖呵を斬ります。
「府會がそれほどまでに無情であるならば、今後は養育院を独立せしめて経営するの策を、取らなければならぬ」

渋沢は、養育院の所属は東京府のまま、自分が運営する委任経営を申し出ます。
民間資金で運営継続を選んだのです。

しかし、運営資金はどのように捻出するのでしょうか?
ここから渋沢の挑戦が始まりました。
まず、渋沢が目をつけたのは、完成したばかりの鹿鳴館です。
西洋流の社交の場として舞踏会などが催されていました。
そこで、渋沢は政府高官や財界の婦人たちに働きかけ、1884年日本初のチャリティーバザーを開催。
手袋、足袋、人形、絵画など・・・身の回りのもの3000もの品をオークションに出品。
売り上げは3日間で7500円・・・今の6800万円にも上ったと言われています。
さらに渋沢は、財界の篤志家を一人一人たずね、多くの経済人から寄付を仰ぎました。
寄付者の名簿の最初には、渋沢栄一の名が・・・
次に三井財閥の幹部、大倉財閥の設立者が名を連ねます。

渋沢は、寄付を集める時、必ず大きな袋を持ち歩き、それを差し出しました。
実業界の大物・渋沢に促されると、誰も寄付を断れません。
人々は陰でこのかばんを”泥棒袋”と呼んでいました。
中には、冗談交じりにボヤく人も・・・
「渋沢さんが、寄付金を集めに来ると、ついつい出してしまう
 渋沢さんに長生きされては、こちらの身代がもたないよ・・・」

福祉事業・慈善事業は、事業自体を長く永続させ、社会に定着させるためには、福祉事業を維持させるための資金を活用する集める方法を自分達で考えなければならない・・・
こうして集めた寄付金を、公債や銀行預金に運用し、資金を増やしていきます。

東京養育院の資金・・・
1885年には3万5031円(2億9800万円)だったのが、1890年には11万8104円(8億8500万円)とまで増え、寄付の文化のなじみの浅い日本で、渋沢は社会福祉事業の資金を着実に増やしていったのです。
その後、養育院は拡大し、収容者も増えていき、東洋一の福祉施設となりました。

そして渋沢は、福祉活動の対象を困窮者だけでなく、災害にあって困っている人や、病気で苦しむ人たちにも広げ、医療や学術研究の施設の設立や運営に協力していきます。
さらに、当時はほとんどなかった保育所の構想も練っていきます。

”母親が安心してこの子を委託し、日が暮れるころには仕事が終わり、子を連れに来て伴って帰るというようなよいしっくみを作ったなら、非常に良いと思います”

ここには、一般の人々の普通の生活も福祉で支えようという思いが伺えます。
1909年70歳となった渋沢は、経済界から引退します。
しかし、社会福祉活動は、終生つづけました。

1929年、世界大恐慌・・・
日本でも失業者が続出し、東北地方では農村が深刻な飢饉に見舞われます。
国会では、貧困者を救う救護法が制定。
救護法とは、貧困者を救護することを国や自治体に初めて義務化したもので、後の生活保護法につながります。
しかし、法が制定されても、政府は予算がないことを理由に実施を延期します。
このまま貧困者の窮状を見逃してもいいのか・・・??
福祉活動家たちは、最後の頼みとして渋沢を頼ります。
救護法実現のための協力を仰ぎます。
この時、渋沢は91歳・・・病気と闘っていました。
活動家たちの話を聞くと・・・
「私はもうどれだけ生きられるかわからない
 私の命をみんなに与えていくのは本望だ」

そして、医師の制止を振り切り、羽織袴に着替え、大蔵大臣にこう訴えかけます。
「私たちが一生懸命働いて来て、日本の経済をこのようにしたのは、この時にこそみなさんに役立てていただきたいからでありました
 渋沢の最後のお願いです
 救護法を実施してください」

2年後の1932年、大蔵大臣は、予算を工面してようやく救護法を実施。
24万人もの人々が救護されました。
しかし、救護法実施を見ることなく、前年の1931年渋沢栄一逝去・・・92年の生涯でした。

東京都板橋区の一角にある銅像・・・
その隣にそびえたつ巨大な東京都健康長寿医療センター・・・
ここは、かつて渋沢が終生関わった東京養育院のあった場所です。
現在はお年寄りの医療や、リハビリで最先端の取り組みを行っています。
渋沢の思想を受け継いで・・・その場所は、日本有数の医療施設として人生100年の老後を支えています。

渋沢は晩年、各地で公演を活発に行い、日本の資本主義の在り方を訴えました。
それをまとめたのが、「論語と算盤」です。

「世の中がだんだん進歩するにしたがって、社会の事物もますます発展する
 ただし、それに伴って、肝要なる道徳仁義というものが、共に進歩していくかというと、残念ながら”否”と答えざるを得ぬ
 仁義道徳と、生産殖利とは、元来ともに進むべきものであります」


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

論語と算盤 (角川ソフィア文庫) [ 渋沢 栄一 ]

価格:820円
(2019/9/15 12:06時点)
感想(21件)

育てる力 栗山英樹『論語と算盤』の教え [ 栗山英樹 ]

価格:1,404円
(2019/9/15 12:06時点)
感想(1件)

マインドコントロール・・・その罠は、日常の至る所に潜んでいます。
セミナー、ボランティア、SNS・・・自らの意思で選んだように見せかけ、一度入れば抜け出せない・・・
そして恐ろしい事件を引き起こしてしまうかも・・・??
今から40年前、南米ジャングルの中の町で起きた前代未聞の集団自殺・・・
死者の数909人・・・信者を自ら死に追い込んだのは、人民寺院の教祖・ジム・ジョーンズでした。
社会正義を掲げ、人々を熱狂させ、奇跡を起こす・・・
しかしその一方、信者を恐怖で縛る・・・!!
彼等はどうして自分の生き死にまで操られてしまったのでしょうか?

南米ガイアナのジャングルを切り開いて作られた町・・・ジョーンズタウン・・・
今からおよそ40年前、アメリカから集団移住した宗教団体は、人種の垣根を超え、理想郷を作ろうとしていました。
ところが、1978年11月18日・・・
彼等の理想郷は突如崩壊します。
子供を含む909人が集団自殺したのです。
死因は猛毒のシアン化合物による服毒自殺でした。
この集団自殺を引き起こしたのは、人民寺院・・・そして信者たちをしに追いつめたのが、ジム・ジョーンズでした。
人民寺院は、数千人の熱狂的な信者を抱える大教団・・・

始まりは、集団自殺事件の47年前・・・
アメリカのインディアナ州・・・ジム・ジョーンズは、1931年5月13日に州都インディアナポリスにほど近い900人ほどの小さな町で生れました。
当時、アメリカ各地で激しい人種差別が蔓延し、インディアナ州もそんな一つでした。

”私の家は、地域の中でも間違いなく貧しい方でした。
 子供の頃を思い出そうとすると、とても辛くなります。”

貧しい暮らしの中で、事務の人格形成に大きく影響を及ぼしたのが、母のリネッタでした。

母親は、輪廻転生を信じていました。
今の自分が不幸なのは、周りの抑圧と嫉妬のせいだと信じていました。
その反動からか、ジムのことを幼いころから
「あなたは特別な人」
「神はあなたが世界を変える人になるのを望んでいる」
と、繰返し言い聞かせました。

幼くして強烈な使命感と自己愛を背負い込んだジム・ジョーンズは、自分の生きる道を当時コミュニティーの中心だった教会に求めます。
6歳の頃から町じゅうの教会を回り、聖職者がどのように人々の関心を集め、世間に影響力を持つのか・・・
説教の仕方や振る舞い・・・
そして、1952年21歳の時、インディアナポリスの地元の白人教会の見習い牧師に就任します。
この頃、信者獲得の方法を研究していたジム・ジョーンズは、ある教会の集会に参加し、衝撃を受けます。
それは、ペンテコステ派教会の集会で、聖霊体験を通じて信仰を深めるというものでした。
信仰に没頭する信者を見たジム・ジョーンズは、この手法を利用することを考えます。

1954年、23歳の若さで人民寺院設立。
人民寺院は、貧しい人の救済や人種差別の撤廃などを掲げ、黒人や貧民を引き付けていました。
設立当時の人民寺院は・・・
人種差別と貧困に苦しむ黒人たちの心をわしづかみにしたのは、ジム・ジョーンズが熱狂的に掲げる理想の社会でした。

”私は神の原理 すなわち神の社会主義を身をもって実現しています
 完全に平等な社会 人々が全ての物事を共有する社会
 貧富の差がなく、人種の区別がない社会の代表者なのです
 平等や正義を求めて闘う人あらば、そこに私は存在します
 そのような場所こそが、私の居場所なのです。”

インディアナポリスでは、人気者となりました。
白人の牧師なのに、他民族の共生生活やマイノリティーの社会問題を取り上げ、熱く語りました。
これまでそんな話をする牧師は、見たことも聞いたこともありませんでした。
ジム・ジョーンズは、理想を語るだけでなく、自ら実践しました。
貧しい人々やホースレスに無料で食事を提供・・・スープ&キッチン
他にも、悩み事相談、衣服の配布など、社会奉仕の輪を広げ、知名度を上げていきます。
そして、さらに多くの信者を集めることにも熱心でした。
そのために彼がやったとこは・・・
足腰の悪い人に暗示をかけて、歩かせる奇跡に成功。
これは信仰治療・・・大衆の面前で病気を治し(ちなみにこの女性はサクラと判明)、この奇跡に多くの人々が押し寄せ、教団の規模は拡大していきます。

”私は奇跡を起こすことができる”
”私は病気を癒し、癌を治すことができる”
”私は太陽の輝きを止めることができる!!”
”私は雨を降らせることができる!”
”そう、何でもできるのです”
”平等や正義を求め戦うあなた
 そんなあなたのそばに私はいます”

世の中とうまくいかず、苦しんでいる人にとっては心動かされるセリフです。
その一方で、ジム・ジョーンズは信者獲得のために怪しい治療もしていました。
彼は何をやろうとしていたのでしょうか?

カルトとは、ラテン語で”儀礼””神々の崇拝”という意味です。
しかし、この事件が起きて、否定的な意味合いが加わってしまいました。
破壊的カルトと位置付けます。
こっそりと人権侵害をする集団・・・
破壊的カルトは、集団優先・私生活の蜂起・批判の封鎖・絶対服従という特徴を持っています。
1950年代~70年代にかけて、アメリカは価値観が大いに揺らいだ時代でした。
その中で、ビジョンを掲げる人がたくさんいて、ジム・ジョーンズもその中のひとりでした。
病気、空白感、人間関係・・・悩みを相談する相手もいない・・・
相談しても「みんなそんなもの」「我慢しなさい」といわれてしまう。。。
そこに、教祖カリスマが、
「あなたの悩みはわかりますよ」
「こういうことを求めているんですね」
という事で、魅力的になるのです。
「信じる信じない」は、自分や周りが体験したことだけしかない・・・それを与えられてしまうと信じてしまうのです。

マーチン・ルーサー・キング・・・
1960年、公民権運動が盛んになる一方で、それを阻止しようとする白人との対立が深まった時代・・・ジム・ジョーンズは、1961年、30歳でインディアナポリスが選出する人権委員会委員長に就任。
人権委員会は、言論の自由、暴力の禁止などを啓蒙する民間組織で、ジム・ジョーンズは、白人専用の店や映画館などの施設を、国民に開放するなど強引に改革を進めました。
しかし、地位と名声を手に入れる一方で、彼の行動に異変が・・・。

人種差別が根強い中での急激な改革・・・
マスコミを使って自分の成果を過剰にアピールする手法などが、保守的な白人の反感を買い、ジム・ジョーンズのストレスとなっていました。
やがて、ジム・ジョーンズや人民寺院、教団の周りで嫌がらせが頻発するようになります。
深夜に鳴り響く無言電話、自宅の窓ガラスが割られることも・・・
ところが、ジム・ジョーンズは気が付いてしまいました。
そのガラスの破片は家の外側に飛び散っていたのです。
ジム・ジョーンズの不正行為・・・
ジム・ジョーンズや教団への攻撃は、ジム・ジョーンズの作り話だったのです。
自分自身で恐怖を作り上げ、信者に訴えていました。
被害妄想になっていたのです。
自作自演や、彼の指示による信者たちによる仕業・・・

”核の地獄によって、アルマゲドンが起きるだろう
 私たちはそれに備えなければならない
 独裁者が支配した時のことを考え、他の場所へ移動するみゅんびもしておかなければならない”

東西冷戦によって、核戦争の危機が恐れられていた当時、ジム・ジョーンズは、核戦争の恐怖まで利用しようとしました。
彼は、信者をコントロールするのに、”恐怖”が一役買っていることを知っていました。
彼は、「外界には巨大な悪の世界がある」と、信者に思いこませたかったのです。
ジム・ジョーンズは、あらゆる恐怖を利用し、自分達を脅かす敵は外にいるとし、「君たちを守れるのは教団だけ」だと、信者たちを追い込んでいきます。

そしてその決め手が・・・1965年教団の移設でした。
インディアナから3700キロカリフォルニア州に、140人ほどの信者を引き連れて向かいます。
彼等の移住先となったのが、レッドウッドバレー・・・ブドウ畑が一面に広がる農村地帯でした。
移住に当たり、ジム・ジョーンズは、信者たちに全財産を寄進させます。
家を売り払い、仕事も辞めさせ、人間関係まで断ち切らせました。
ここでの共同生活を強いたのは・・・そこには教祖ジムの野望が・・・!!
移住によって、教団の結束力は高まります。
彼等には家族のような強い絆が・・・!!
しかし、それは、ジムに忠誠を誓わせ、意のままにコントロールしようとするジム・ジョーンズに都合のいい偽りの家族でした。
教祖になる人の共通点は、ナルシストで自己愛が強く、自己顕示が強い・・・
他人は自分の道具のように平気でウソをついて操ることが許されると思っています。
周りから攻撃をされると自尊心が傷つき、それが嫌。
「崇拝されている自分」を感じたい・・・!!
そしてメンバーを逃がさないために、恐怖を与える!!

選ばれた少数派・・・そこに誇りを持つ人々は、自分たちのグループに属さない人を排除しようとします。
自分達は真理を知っている・・・真理に近い・・・!!
よりよい人生を歩んで、将来は”不老不死”
辛くても、そこにいることが大事で、抜け出ることが敗北なのです。
自分達こそが救われる・・・だからがんばる・・・!!
外部の人が、ヤジ、バッシングをしようと聞き入れる必要はない・・・!!
という気持ちがあるので、いくら話をしてもダメなのです。

1972年、41歳の時、組織拡大のため、人民寺院の拠点を大都市に移します。
サンフランシスコ・フィルモア地区です。
黒人たちの信者を獲得しながら、ジム・ジョーンズは新たな戦略を立てていました。

”社会を変えようと願う白人学生の心を掴む”こと。

当時は、ベトナム戦争反対をきっかけに、社会運動が盛んな時代でした。
ジム・ジョーンズは、アメリカ社会から脱出し、精神的自由を得ようとする若者に狙いを定めたのです。

人民寺院は、教団運営を教祖の側近たちによる合議制が表向き・・・民主的に進めているようでしたが、実際はジム・ジョーンズの独裁でした。
側近たちは、彼に弱みを握られた人たちで、主にセックスパートナーで、主にジムの汚い仕事を任されていました。極秘の仕事です。
女性たちが任された汚い仕事・・・その一つは、真夜中のゴミ漁り・・・信者になりそうな家のゴミ箱をあさって、個人情報を集め、礼拝の時に使います。
おもむろに名前を呼び・・・あらかじめ得た情報で、悩みや病気を言い当て、奇跡の能力と見せかけて勧誘する・・・
しかし、この詐欺まがいの事実を知っても、側近たちは止めさせようとはしませんでした。
彼のユートピア建設という革命的ビジョンに共感し、社会を変えると興奮していたからです。
彼の発言に疑問を感じても、自分が間違っていると言い聞かせていました。
ジム・ジョーンズが、自分に疑問を抱いている信者がいないか、側近たちに監視させました。
見つかれば、信者は徹底的に自己批判させされました。
自己批判は、人間浄化ともいわれ、集会など、多くの信者の前で行われました。

人間浄化といわれるつるし上げは、巧妙な計算のもとに行われていました。
友人、親、兄弟から批判させ、最後は集団でなじる・・・家族の絆を断ち切り、孤立化させるのです。
救いが得られるのは教祖だけ・・・。

人間浄化は、見ている者も恐怖で縛りつけます。

理想社会を目指す教団の恐怖の実体は、秘密として守られ続けるはずでした。
重要な幹部が逃亡・・・教団の弁護士の妻で、サンフランシスコ寺院の管理を担当する者です。
さらに、ジム・ジョーンズが最も恐れていた事態が・・・地元の有力紙・サンフランシスコクロニクルの記者が、ジム・ジョーンズの異様さに気付き、脱会した信者を調べ始めたのです。
ジム・ジョーンズの恐怖の支配に亀裂が入ろうとしていました。

家を売り、仕事を捨て、ジム・ジョーンズについてきた人たち・・・もう後戻りはできません。
その先にあると信じたのは、輝かしい未来に満ちた楽園・・・
そこで待っていたのは破滅でした。

1977年8月1日、遂に人民寺院の告発記事が出ます。
ジム・ジョーンズの本当の姿が暴かれたのです。

”敵が人民寺院を陥れようとしている”

ジム・ジョーンズは恐怖で煽り立てます。
告発記事が掲載されると、1000人もの信者がカリフォルニアから姿を消しました。
その先は、南米の国・・・ガイアナ・・・。
ジム・ジョーンズは、密かにジャングルの中に巨大な街を築き上げていました。
ジョーンズタウンと名付けられた街には、学校や病院も完備されていました。
信者は財産のすべてを教団に譲り渡し、衣食住のすべてを教団が面倒を見る仕組みです。
信者の子どもは、人民寺院の子として育て、18歳未満の子供は300人近く暮らしていました。

一方アメリカでは、家族を取り戻そうと被害者家族の会が結成されました。
下院議員が現地調査に乗り出すことに・・・!!
アメリカ政府の動向がジム・ジョーンズに伝わると、彼の被害妄想は悪化していきます。
不安が増すと、1日中拡声器で信者に恐怖を訴え続けます。

1878年11月14日、調査団はジョーンズタウンに向かいます。
ライアン下院議員に同行したのは被害者の会メンバー14人、報道関係者9人、視察期間は、11月17日、18日のみ。
11月17日、ジョーンズタウンに入ります。
カメラを向けた信者たちのすべてが、ジョーンズタウンを褒め称えます。
この日の夜、歓迎祝賀会が開催されます。
笑顔と歓声・・・その裏で、ジョーンズタウンのバランスが崩れ始めていました。
11月18日、視察2日目・・・取材班は、ジム・ジョーンズにインタビューする機会を得ていました。
彼等は独自に入手した情報をぶつけて暴こうとします。

恐怖について・・・
「昨晩、一人の信者がこのメモを私に託してきました」
そこには・・・「助け出してほしいと」名前入りの信者の手紙でした。
取材後、さらに2家族13人が、ジョーンズタウンから出たいと願い出ます。
ジム・ジョーンズが理想と恐怖でしばりつけたほころびが次第に大きくなっていきます。

差別や格差のない社会を夢見て、全てを捨てジム・ジョーンズについてきた信者たち・・・。
しかし、たどり着いた先は、教祖と教団による恐怖と抑圧・・・こんなはずではなかった・・・本当に他の道は選べなかったのか・・・??
調査団が急遽チャーターした飛行機は2機・・・空港に着くと、まず信者たちを乗せようとしました。
その時・・・滑走路に多くの人を乗せた不審なトラクターが・・・!!
11月18日午後5時・・・人民寺院信者の襲撃により、ライアン議員と報道関係者たち5人が死亡、5人が重軽傷を負いました。
その直後、ジョーンズタウンでは、ジム・ジョーンズの最後の説教が始まろうとしていました。

”下院議員はなくなりました。
 裏切り者も死んでいます。
 今日、起こったことから私たちはもう逃れることはできません。
 私たちはとても危険な状況に追い込まれてしまいました。
 平和に暮らすことができないのなら、平和のうちに死を選びましょう。”

説教の最中、側近たちは集団自殺のためのシアン化合物の入ったジュースを用意していました。
教祖の示した死に抵抗したのは、女性一人でした。

「自ら死を選ぶのは敗北です
 最期まで戦うべきです
 ここにいる赤ちゃんを見てください
 みんな生きる権利があります」

「そう思うよ だが、赤ん坊にも平和に逝くという権利もあるのを忘れてはいけない」

「平和な暮らしを求めてここに来たのです
 ロシアに亡命する選択肢はもうないんですか?」

「なに?わかった すぐロシアに電話してやろう
 ほかに案はあるか?」

シアン化合物入りジュースは、幼い子供から順に飲まされ・・・ガイアナ人民寺院事件・・・死者918人(18歳未満の子ども304人)
集団自殺を免れた信者は87人

教祖の実子スティーブン・ジョーンズは、バスケットの試合で他の町に行っていたために生き延びました。
事件後、教祖の子として他の道を選べなかったのか、スティーブンは長い間悩み続けました。

マインドコントロールをされないために・・・誰にも依存することなく、自分で考え続けることが大切なのです。

サンフランシスコの小高い丘に、ジョーンズタウンで亡くなった人たちのメモリアルが・・・。
身元が確認できなかった409遺体がここに埋葬されました。
ほとんどが子供達です。
生き延びた者たちは、長い年月、自分が生き延びた意味に悩みつつ・・・2018年、彼らが完成させた墓碑銘には、ガイアナで亡くなった全ての人の名前が刻まれています。
反対意見もあったが、ジム・ジョーンズの名前も・・・!!

本当に他の道はなかったのか・・・??
深い後悔と自責の念を抱え、元信者たちは毎年11月18日、ここで祈りを捧げるのです。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

人民寺院―ジム・ジョーンズとガイアナの大虐殺

中古価格
¥4,087から
(2019/9/12 23:48時点)

ガイアナ人民寺院の悲劇 [DVD]

中古価格
¥4,550から
(2019/9/12 23:49時点)

世界最大級の木造建築、奈良の東大寺大仏殿・・・ここに鎮座するのは、銅製の仏像で世界トップクラスを誇る廬舎那仏です。
どちらも国宝です。
国宝とは、重要文化財のうち、歴史的文化史的価値が高く、世界的にも保護すべき国の宝として国が指定したものです。
現在国宝に指定されているのは、建造物、美術品を含め、1116です。
人気の国宝の謎に迫ります。

Ⅰ.日本の仏像史上最高のイケメンと称される「阿修羅像」。

asyura
猛々しい戦いの神が、どうして憂いを帯びた少年の顔なのでしょうか?

奈良興福寺、大化の改新の中心人物中臣鎌足の妻によって創建された藤原氏ゆかりのお寺です。。
その境内に、かつてあった西金堂の安置されていたのが、国宝・阿修羅像です。
釈迦の教えによって帰依した仏法を守る神です。
3つの顔と6本の腕を持つ三面六臂、八頭身という抜群のプロポーションが特徴です。
平安時代以降に衰退し、幻の製作方法とされる”脱活乾漆”と呼ばれる方法で作られています。
その方法は・・・??

アシュラブック 興福寺阿修羅像から東大寺不空羂索観音像へ [ 北進一 ]

価格:2,484円
(2019/9/8 10:19時点)
感想(0件)



①原型づくり・・・骨組みとなる木の芯に粘土を盛っていき、ヘラで大まかな形を作ります。
②麻布貼り・・・麻布を何枚も重ね、木くずや漆を混ぜた木屎漆を塗りつけて乾燥させます。
③粘土の掻き出し・・・乾燥したのち、背中や腰の部分に穴をあけ、中の粘土を掻き出して空洞に・・・
④縫い合わせ・・・麻布で、穴を閉じ、色を塗って完成です。

この方法で作られた阿修羅像は、軽くて丈夫なのが特徴で、そのおかげか戦火で焼失するピンチを幾度となく逃れてきました。
柔らかな表現を出すことができたのも、この技法のおかげです。
仏像全体に色が施されてきましたが、ほとんどはげ落ちてしまいました。
長い間謎とされてきたその色彩・・・赤い色で塗られていたことがわかります。
その赤は、辰砂と呼ばれる水銀と偉央を含む鉱物からできたものであることもわかりました。
辰砂は、作り方によって数種類の赤が生れます。
ろうそくの光でも・・・暗い環境でもはっきりと見えるように、明るい色で塗られていました。

もう一つ、阿修羅像に魅入られる理由は・・・??
愁いを帯びた表情で人々を魅了してきた興福寺の阿修羅像・・・
ぷっくりと膨らんだ下唇、つぶらな瞳はうるんでいるようにも見えます。
まだあどけない少年の顔をした阿修羅・・・
しかし、元々阿修羅とは、古代インド神話に登場する怒りに満ちた戦いの神です。
娘を強奪した最高神インドラに挑み続ける間に、荒ぶる神になってしまったといわれています。
なので、通常は怒りの表情らしいのですが・・・
興福寺の阿修羅像は、どうして少年の表情を称えているのでしょうか?
近年大発見がありました。
それは、九州国立博物館と奈良大学が共同で研究を進めていた時の事・・・
CTスキャンで撮影し、画像を分析すると・・・顔の下にもう一つの顔があることがわかりました。
製作の途中で、顔が作り替えられたのでは・・・??
権力者・・・仏像を作らせた光明皇后が変更を命令したのでは・・・??
夫である聖武天皇が即位してから続いた天変地異・・・。
日照り、台風が相次ぎ、各地で飢饉による餓死者が続出します。
734年には畿内で山崩れや地割れの起こる大地震が・・・。
その3年後には、死の病・・・天然痘が大流行・・・夥しい死者が出ました。
聖武天皇は考えます。

「異変や災害がなおとまらず、我の不徳を責めている
 責任は我ひとりにある」

そして、民のため、国家安泰のために祈り、深く仏教に帰依していきます。
東大寺の大仏建立もその一つです。
その建立を働きかけたのは、妻の光明皇后だったともいわれています。
皇后もまた、仏教の教えに従って国民を救うべく尽力します。
興福寺の中に、貧しい人々に施しを与える悲田院や医療施設である施薬院を作ります。
みずからが建立した法華寺には、浴室(からふろ)を作ります。
病人などを癒す施設・・・サウナでした。
日本最古の風呂とされています。
そこには日本の社会福祉の原点ともいわれる逸話が・・・
光明皇后自らが千人の垢を流したという伝説が残っています。
不安な世相に怯える貧しい民に、救いの手を差し伸べた光明皇后・・・興福寺の阿修羅像もその一つでした。
仏教で国を守ろうと考えます。
しかし、阿修羅像に込めた思いは他にも・・・
727年、聖武天皇は光明皇后との間に男の子を設けます。
ようやく授かった跡継ぎ・・・二人の喜びは大きく、生後32日という異例の早さで皇太子に・・・。
しかし、その翌年、皇子は亡くなってしまいました。
愛する皇子を失った光明皇后は深い悲しみに・・・
それから6年後の734年、光明皇后は母の一周忌のため、興福寺に西金堂を建立。
その中に安置する為に作った仏像の一つが阿修羅像でした。
皇后はそこに幼くして亡くなった我が子を投影・・・そのため、物資が作った怒りの表情を、少年の表情に変えさせたのでは??と考えられています。
阿修羅像の3つの顔は、少年の成長の過程を現したものといわれています。
そこには、見ることが叶わなかった我が子の成長を思い描く、母・光明皇后の深い愛と悲しみが込められていたのです。


Ⅱ.江戸時代初期に現れた稀代の絵師・俵屋宗達の最高傑作「風神雷神図屏風」。
風神、雷神は、風と雷を神格化したもので、仏教美術に登場する一対の鬼神でした。
それを堂々たる主役としたのが、宗達の風神雷神図屏風です。

俵屋宗達は、桃山時代末期から江戸時代初期にかけて活躍した町絵師です。
詳しいことはわかっていない、謎の多い絵師です。
宗達が活躍していた頃、画壇の頂点に君臨していたのは、狩野探幽ら・・・狩野派の御用絵師でした。
江戸時代になると、活動拠点を京都から江戸に移し、徳川家に仕えるようになります。
一方宗達は・・・京都で暮らし、扇に絵を描くことを生業としていました。
すると・・・その絵が、京都の豪商や寺社から気に入られ、やがて狩野派の絵師とは一線を画し、町絵師として人気を博すようになります。
京都・建仁寺には、宗達の最高傑作が残されています。

jin










国宝「風神雷神図屏風」です。

一節には、京都の豪商・打它公軌(うつだきんのり)が、制作を依頼したといわれています。
それを受けた宗達は、これまで誰も見たことのない屏風を作ってやろうと持てるわざと、アイデアをつぎ込んでいきます。
そこには、見る者を引き付けるマジックがしかけられていました。

もっと知りたい俵屋宗達 生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション) [ 村重寧 ]

価格:1,728円
(2019/9/8 10:21時点)
感想(0件)



①色彩・・・宗達はド派手でした。
風神は鮮やかな緑、雷神は白にしましたが・・・雷神は赤い色で書かれることが殆どでした。
どうして白に・・・??
ユーモラスで親しみやすい雷様になっています。
風神と雷神の乗る雲は・・・銀色。派手で軽妙洒脱なキャラクターに・・・。
これが長く愛される由縁です。
デジタル復元で、もとの色の屏風にしてみると・・・暗い部屋でもはっきりとわかるようになっていました。

②マジックアート
夜見ると・・・江戸時代の人々とおなじように、和ろうそくで鑑賞して見ると・・・
風神と雷神が浮き出てきて絵から飛び出して来たようです。
まるで3Dアートです。
その原因は、背景の金にあります。
揺らめく炎が金箔に反射し、浮き出るような効果を発揮しているのです。

③目
通常ならば、互いを見つめ合っているはずの風神、雷神の目・・・ところが宗達の風神あり人は、風神は雷神を見ていますが、雷神は前方下を見ています。
何を見ているのか??それは、屏風の前に座る鑑賞者です。
風神の視線は雷神に、雷神の視線は鑑賞者に、そして鑑賞者は風神を・・・視線がループするようにしかけられていました。
これらの仕掛けによって、鑑賞者もまた作品の一部となって引き込まれていきます。
まさに、前代未聞の屏風なのです。


Ⅲ.今も実在していたら国宝間違いなしの幻の絵の模写を発見!!「平治物語絵巻」!!

平安時代末期の1159年、京の都で大規模な内乱が勃発します。平治の乱です。
後白河上皇の近臣であった信西と藤原信頼の対立が原因のこの内乱は、平清盛や源義朝などを巻き込み、血で血を洗う惨劇が起こされました。
最終的には、信西側についていた平清盛が内乱を治め、それ以後平家一門が台頭し、政治の実権を握ります。
そんな平治の乱を描いたのが、「平治物語絵巻」です。
平家のライバル源氏が幕府を開いた鎌倉時代に書かれた絵巻です。
元々は、15巻に及ぶ超大作ですが、現存するのはわずか3巻のみ・・・

heiji










「三条殿焼討巻」
藤原信頼の軍勢が、後白河上皇のいる三条殿を襲撃し、上皇を拉致する場面。

sinzei









信頼が信西を追いつめ、自害に追い込む「信西巻」

rokuhara














そして清盛が監禁されていた二条天皇を助け出し平家一門の邸宅のある六波羅に匿う「六波羅行幸巻」

このうち、「六波羅行幸巻」のみが国宝です。

保元・平治物語絵巻をよむ 清盛栄華の物語 [ 石川透 ]

価格:1,944円
(2019/9/8 10:22時点)
感想(0件)



しかし、もし現存していたならば、国宝間違いなしというものが出てきました。
「六波羅合戦巻」です。
何が描かれていたのでしょうか?
東京国立博物館に、模写が残っています。
原画が失われる前に書かれたものだとされています。

見どころは、三条河原の決戦です。
大将である平清盛の軍勢が、京都の三条河原で敵方を追い込み決着をつける・・・というクライマックスシーンです。
模写を元に復元してみると・・・様々な歴史の真実がわかってきました。
鎌倉時代に平清盛の活躍がどうして描かれたのか??
その象徴シーンが書かれています。
襲った勝者が後ろから狙われているシーンが書かれています。
勝者が敗者となる諸行無常のシーンです。

平治の乱に勝利した清盛ら平家一門は、その武力を背景に朝廷での地位を確立していきます。
「平家にあらずんば人にあらず」とまで言われ、栄華を極めました。
しかし、それから26年、壇ノ浦の戦いで源氏に敗れ、あっけなく滅亡してしまいます。
それからおよそ100年後の鎌倉時代にこの絵巻は書かれました。

おごれる者は久しからず・・・

ぞの平家の運命を教訓として逸話が身に起きるかもしれないと心に刻むために・・・!!

国宝の数々・・・そこには、人々の思いや知られざる歴史の真実が隠されていました。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代ランキング

国宝の解剖図鑑 [ 佐藤晃子 ]

価格:1,728円
(2019/9/8 10:23時点)
感想(1件)

このページのトップヘ