日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

幕末、・・・日本は未曽有の国難に直面していました。
攘夷か、開国か!!
国論は、真っ二つに別れ、遂には武力による討伐・・・明治維新へと突き進みます。
そんな幕末動乱の時代に、危機に立ち向かった先陣の英知とは・・・??

①老中首座・阿部正弘
200年以上守ってきた鎖国の危機に、阿部は人々の納得を取り付けながらシステムを変えるという最も困難な仕事に取り組みました。
1853年、ペリー浦賀に来航!!
その中には、最新鋭の蒸気軍艦二隻の姿もありました。
逆風をものともせず進む巨大な黒船・・・
これまで目にしたこともない黒船の異形に人々はパニックに陥りました。
当時の瓦版に書かれたペリーの姿は、同じ人間とも思えない風貌・・・黒船打ち払うべしという攘夷の声は、日本全土へと広がっていきます。
しかし、備えはまったくと言っていいほどなされていませんでした。
阿部が老中になる前年・・・1842年イギリスがアヘン戦争に勝利・・・清に領土を割譲させたという知らせは日本にも届いていました。
ところが、当時の幕府財政は火の車・・・海岸を守るための軍艦や砲台に回す資金はありませんでした。
ペリーはさらに、江戸湾内に船を進めます。
そこには驚くべき意図が・・・!!
ペリーが本国に提出した江戸湾の測量図があります。
ペリーは、江戸湾を測量し、どこまで陸地に近づけるかを調べていました。
国土への直接攻撃をにおわせる示威行動でした。
その上でアメリカは、船舶の補給基地として港を開くことと、交易の開始を要求します。
余りにも強引な開国要求でした。
ペリーの圧力に屈して鎖国を捨てれば幕府の威信は地に落ちる・・・
高まる攘夷の中、阿部は前代未聞の方法に踏み切ります。
それまで幕府政治への参加を許されなかった御三家や外様大名・旗本に、国書を開示し、意見を聴収します。
それは、挙国一致で当たるという幕府始まって以来の方針転換でした。

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挙国一致の課題は、大きな大名との協調政策です。
国の一番重要な政策について意見を聞きます。
有力大名の半数が、鎖国を守るためには戦争も仕方ないと主張!!
その代表が、水戸藩の徳川斉昭!!
御三家として大きな影響力を持っていました。

「刀や槍の戦いでは我が国に分がある
 電光石火のごとく戦えば、かの夷族を鏖にすることは掌のうちにある」by斉昭

圧倒的な攘夷派を前に、選択を迫られた阿部・・・!!

黒船に積まれていた最新式のペキサンス砲・・・その特徴は、爆弾を的に対して水平に発射できること!!
命中率が高く、破壊力も大きい!!
ペリー艦隊の攻撃によって、海岸沿いの下町は完全に火の海になる恐れがありました。
御城下が灰になるほどの事態になれば、幕府の威信は地に落ちてしまう・・・??

「外寇への備えは、交易の利潤をもって当てる」by勝海舟
勝は、通商を行って、利益を得ることが、国防の強化につながると説いていました。
しかし、通商を認めることは鎖国を捨て去ること・・・
国法を曲げては、幕府は弱腰であると、大名からの声が沸き起こるであろう!!

ハッキリとは回答しない・・・??
回答延引策は、薩摩藩主・島津斉彬たちが唱えていました。

「交渉は出来る限り引き延ばす・・・3年ほど待てば、軍備も整うのでその後に打ち払う」by斉彬

攘夷か?開国か?それとも回答延引策?
いずれを選んでも困難な道でした。
先の来航から半年経った1854年1月・・・ペリーは再び江戸湾に現れました。
果たして、阿部の選択は・・・??
それは、”ぶらかす”・・・回答延引策でした。
1853年6月、将軍・家慶死去・・・
阿部はそのことを口実に、交渉延期を申し入れます。
しかし、ペリーはこれを黙殺!!

「将軍の死は公務を遅らせる理由にはならない」byペリー

引き延ばしはもはや通用しない!!
阿部は、諸大名と共に撮るべき方策を協議しました。
実際の交渉にあたる役人は、通商まで譲歩しなければまとまらないと主張!!
しかし、阿部はあくまで慎重でした。
打ち出したのは、「開港容認・通商拒絶」でした。
1854年2月10日・・・
圧倒的な武力を持つアメリカに対する綱渡りのような交渉が始まります。
阿部の意を受けた役人は、頑なに通商を拒みます。
日本海国という名誉を祖国アメリカにもたらすことを重視していたペリーは、次第に焦り始めました。

「このまま通商に固執することは得策なのか・・・??」byペリー

交渉開始から1か月・・・日米和親条約締結。
開港を許したのは、大都会から離れた下田と箱館。
そこでは、航海に必要な物資の補給だけを認めました。
通商に関する要求は、完全に退けたのです。
阿部はいかにしてこの結果を手にしたのでしょうか?
近年、広島県福山でその資料が発見されました。
阿部の腹心である軍学者・江木鰐水の手記によると・・・
交渉のさ中、黒船に乗り込んだ江木は、事細かく書いています。
ペリーが話すときの声は温和・・・
交渉相手のことを事細かく調べたうえでの交渉に臨むことで、阿部は薄氷の勝利を得ました。
しかし、阿部は、自らが用意した日本の未来を見ることはできませんでした。
未曽有の国内に対処してきた重荷が、その肉体を確実にむしばんでいました。
1857年、阿部正弘死去・・・享年39歳でした。

②長州藩・高杉晋作
1864年・・・それは、長州藩が国内外の危機に直面し、がけっぷちに立たされた運命の年でした。
国政の主導権を握ろうとする長州に対し、薩摩藩と会津藩が反撃!!
世に言う禁門の変が勃発します。
7月19日、薩摩・会津の連合軍と衝突した長州軍は、僅か1日で惨敗・・・
御所に向かって発砲した長州藩は、時の帝・孝明天皇によって朝敵の烙印を押されてしまいました。
状況はさらに深刻化・・・
それは、武力によって外国船を打ち払おうとする祖国・長州藩の暴走でした。
8月5日、下関戦争・・・
長州は、関門海峡を航行する外国商船を砲撃!!
激怒した欧米列強によって報復攻撃を受けます。
関門海峡の殆どの砲台が列強連合軍により占領!!
植民地化という最悪の危機が予想されました。
追いつめられた長州は、停戦交渉を要請・・・
そしてその難しい立場での交渉に登場した男こそ、高杉晋作でした。
8月8日・・・交渉の席上、列強側は300万ドルという巨額の賠償金を要求。
晋作は啖呵を切ります。

「もし、戦争を続けるというのなら、長州は最後の一人になるまで戦うつもりだ」by高杉晋作

晋作たちの強硬な姿勢に、列強側は態度を一変・・・
関門海峡の砲台撤去、水・食糧・燃料補給のため下関上陸を求めてきました。
晋作たちは、本来は幕府の権限であるはずの下関の開港を独断で受け入れます。
下関を開港し、貿易を行えば、富国強兵を推し進めることが出来る・・・
晋作たちは、交渉の土壇場で、未来の実利につながる決断をしました。

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1864年7月・・・第一次長州征伐・・・幕府は朝敵の長州を攻め滅ぼすべく13万の大軍を大坂に・・・!! 
その一報を受け、長州藩の上層部が真っ二つに分かれます。
抗戦派・・・大義名分のため幕府に抵抗
恭順派・・・藩存続のため幕府に謝罪
この対立です。
11月12日、恭順派によって長州藩の三家老が切腹・・・幕府への徹底恭順の証とされました。
抗戦派に組していた晋作は、身の危険を感じ、九州・筑前藩に亡命!!
再起の時を伺っていました。
この時、晋作にはどのような選択があったのでしょうか?

内乱挙兵の決起策か??
藩士以外の武士や、庶民で編成された奇兵隊を!!
最新式の銃を装備し、西洋式の戦術を学んだ長州の軍です。
それとも冷静に交渉の道を選び、藩の大義名分を取り戻す・・・??
朝敵の汚名をどうしたらいいのか・・・??

晋作の決断は・・・決起策でした。
反乱の兵をあげ、武力によって藩の方針を覆す道を選びました。

11月25日、高杉晋作、長州に帰還!!
奇兵隊をはじめとする諸隊に反乱の決起参加を要求します。
しかし、諸隊幹部は無謀な戦いだと消極的な態度に・・・!!
その姿勢に晋作は叫びます。

「僕は、毛利家300年来の家臣だ
 たとえこの身が討ち倒れようと長州に殉じる!!」by晋作

ここに、反乱軍は挙兵します。
晋作たちは長州藩の経済の要・下関の会所を制圧!!
さらに、藩の軍艦を強奪することに成功!!
最初は消極的だった奇兵隊たちが動き出しました。
反乱軍は、800人の大軍勢に膨れ上がります。

1865年1月7日、大田絵堂の戦い・・・
恭順派率いる軍の正規軍と激突します。
野戦戦術と、最新式のミニエー銃を使うことを学んだ奇兵隊は、藩の正規軍を圧倒!!
そして、晋作決起からおよそ40日後・・・
藩主・毛利敬親によって、徹底恭順は撤回!!
もし攻撃を受ければ、最期の一兵まで戦い抜くこと・・・武備恭順を藩の方針とさだめました。
晋作の決起が導いた奇跡の勝利・・・次なる幕府との戦争が始まる中、晋作はまったく独自の構想を抱いていました。
長州の将来について晋作が記した意見書・・・回復私儀・・・
そこには、晋作が最も力を入れている方策があります。
それが、「大割拠」でした。
徳川一強の時代は終わった・・・

「今こそ、我が長州藩の下関を世界に向けて開こう
 そして、欧米列強の力にも十分に対抗できる国力を身につけるのだ
 世界五大陸にこの長州藩を押し出して、長州の大割拠、独立を成し遂げるのだ」by晋作

しかし、その夢が実現することはありませんでした。
1867年4月14日、高杉晋作病没・・・享年29歳でした。
あまりにも早すぎる突然の死でした。

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③薩摩藩家老・小松帯刀

小松帯刀・・・薩摩で島津家に次ぐ名門の家に生まれ、28歳の若さで家老に就任。
当時、権力の座にあった国父・島津久光の抜擢によるものでした。
帯刀は久光のもと、富国強兵を推し進めました。
綿・・・当時、綿花はアメリカで始まった南北戦争の影響で世界的に品薄となっていました。
帯刀は、西国諸藩から綿花を調達し、ヨーロッパへ輸出・・・
その利益で5隻もの蒸気船を購入、海軍の創設に力を注ぎました。

1863年、帯刀は、久光から京都での政治工作を任されます。
目的は、雄藩連合です。
これまで幕府では、一部の譜代大名が政治や外交を独占・・・
外様藩である薩摩や長州は蚊帳の外に置かれていました。
薩摩は有力大名が手を組んで政治に参加する雄藩連合を構想し、実現に向けて動き出しました。
このことが、幕府側との対立を引き起こすこととなりました。
御所を警護する一橋慶喜、京都守護職・会津藩松平容保、京都所司代・桑名藩松平定敬ら一会桑勢力です。
1964年7月、慶喜は朝敵・長州を討つべく、15万の大軍を大坂に集結させました。
第一次長州征伐の発動です。
ところが、これに対し薩摩は思いもよらない行動に出ます。
10月、小松帯刀、慶喜に征伐中止を進言!!
その要因は、京都政局のパワーバランスでした。
一会桑は、有力な藩を国政運営に加えたくありませんでした。
薩摩としては、長州を敵に回さない方が得・・・恩を売るという考えがありました。
薩摩の行動は素早く・・・長州に対して禁門の変を主導した三家老を処刑し、幕府に謝罪するように打診します。
長州がこの条件を受諾したことで、第一次長州征伐中止・・・!!

薩摩への警戒を強める慶喜・・・
再起へ虎視眈々の長州・・・
幕末の風雲はいよいよ急を告げます。
1865年、幕府側の巻き返しが始まりました。
15万の大軍が、大坂へ・・・第二次長州征伐です。
幕府は諸外国に対し、長州に武器を売らないように要請!!
長州は、絶体絶命の窮地に陥りました。
この時、帯刀は驚くべき決断をします。
薩摩名義で7300丁もの銃を購入、長州へあっせんしたのです。
長州の使者に対し帯刀はこう答えています。

「幕府の嫌疑等意に介してはいない・・・ 如何なることでも尽力する」by帯刀

薩長両藩は、1866年1月・・・長州から木戸孝允が上京します。
帯刀のもとで交渉を担当したのは西郷隆盛!!
幕府側に対する武力行使も辞さない強硬派です。
ところが、西郷が発したのは思いもよらない一言でした。

「ここはまず、幕府の処分をあまんじて受け入れよ」by隆盛

この時点で、幕府は長州に藩主親子の引退、領地10万石削減などを通告する見通しとなっていました。
過酷な処分を受け入れよという西郷・・・実は背景には国父・島津久光の意向がありました。
注目すべき資料は、島津久光に宛てた伊達宗城の書簡です。

「近頃西郷はしきりに暴論を主張している 久光公は依然として持重」

久光にとっては幕府に対する武装蜂起など思いもよらない・・・
急遽京都藩邸に使者を送り、藩士全員に厳しく自重を命じました。
西郷と帯刀は、朝敵の汚名を晴らす政治工作は動けても、幕府への武力行使には協力できない状況に追い込まれていました。
しかし、長州は既に臨戦態勢にありました。
更なる処分を受け入れるはずもありませんでした。
交渉は平行線をたどり、木戸はついに帰国を口にしました。
このままでは薩長提携に向けて動いたことは、すべて水泡に帰す・・・
帯刀は交渉を続けるか否かの決断に迫られました。

交渉は打ち切るしかないのか??
このままいけば、幕朝開戦の可能性が極めて高い・・・久光公の本意は、幕府と事を構えることにないのは明らか・・・家老として、その御意志を越えてまで、長州との提携を進めることが許されるのだろうか??
しかし、久光の方針に従えば、薩長提携の道は閉ざされてしまう・・・!!
それは目指す雄藩連合からの後退を意味していました。

ここで長州を孤立させていいのだろうか・・・??
雄藩連合が頓挫してしまう・・・
久光公を説得して、同盟締結に持っていけないだろうか・・・??

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小松帯刀の選択は、薩長同盟締結でした。
幕府との対決にひた走る長州との同盟を、帯刀は独断で締結したのです。
薩長同盟には、両藩の公式文書は存在しません。
唯一その内容を伝える木戸孝允の書簡・・・そこからは、政治家・小松帯刀の周到な計算が読み取れます。
そこには巧妙なロジックが隠されていました。
戦うとしたら一会桑・・・と書かれています。
つまり、幕府とは言っていないのです。
一会桑との対立は、そう遠くはない・・・久光サイドも理解できていました。
薩摩が生き残るためには、長州を絶対に滅ぼしてはならない・・・帯刀は久光の許容範囲すれすれで同盟を結び、事後承諾を勝ち取ったのです。
新たな時代・・・明治を切り開いた薩長同盟・・・その意義とは・・・??

久光主導から、小松、西郷、大久保による主導に転換していきつつあるきっかけになりました。
両藩の間での正式の合意文書がない・・・第5条の決戦条項を久光には見せられなかったのでしょう。
それは、久光の初期の方針を逸脱したものだったからです。

全て自分が責任を負う・・・それが、歴史の方向を決定づけました。
阿部正弘、高杉晋作、小松帯刀・・・身分は違えど、三人に共通するのは、新たな時代は自分が作るという責任感でした。

老中・阿部正弘は、死の1年前、幕府の路線を大きく変更しました。

「交易互市の利益をもって富国強兵の基本とする」by阿部正弘

開国通商に舵を切ると宣言したのです。

その志は確かに受け継がれます。
鹿児島のとある釜元・・・薩摩焼は帯刀の進言で輸出用に作られたものです。
ヨーロッパで上流階級に珍重され、注文が殺到しました。
小松帯刀は病のため36歳で亡くなりました。
しかし、彼は最後まで来るべき時代の輝かしい日本の未来を夢見ていたのです。


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今から半世紀前・・・人類は、地球を飛び出し、未知の世界に乗り出しました。
宇宙へ~~!!
しかし、その挑戦は、あまりにも危険なミッションでした。

まず、誰もが思い浮かべるのは、アポロ11号の月面着陸です。
1969年7月20日・・・人類は、初めて月に降り立ちました。
全世界に生中継された船長アームストロングの姿・・・そして、あまりに有名なあの言葉・・・

「一人の人間にとっては小さな一歩だが
           人類にとっては大きな飛躍だ!!」

しかし、着陸があと十数秒遅れていたら、偉業は大惨事になっていたかもしれません。
謎のエラー音が鳴り響き、想定外のトラブルが次々と発生!!
地球の管制室がパニックになる緊急事態!!
一体、何が起きたのか・・・??

アメリカ・ニューヨーク・・・
アポロ11号月面着陸50周年、イベント会場にいた男・・・チャールズ・デューク・・・
50年前チャールズは、管制室がアポロ11号に迫る危機を肌で感じていました。
一瞬の判断が命取りになる中、どうやって結面着陸を成功させたのでしょうか??
1969年7月16日、アポロ11号打ち上げ!!
世紀のミッションは幕を開けました。
乗組員は3人の宇宙飛行士・・・船長ニール・アームストロング、バズ・オルドリン、マイケル・コリンズ。
人類を月へ送る・・・この壮大な計画は、1961年に始まりました。
NASAは、宇宙飛行士の候補として、空軍や海軍からエリート中のエリートを選抜しました。
チャールズ・デュークも宇宙飛行士・・・アームストロングの4年後輩にあたります。
宇宙飛行士は、宇宙に出る前、1年間管制室で経験を積む必要があり、チャールズは交信担当になっていました。
現場の指揮権は船長のアームストロングにあり、ヒューストンの管制センターは宇宙飛行士に適切な指示と情報を与える・・・
しかし、宇宙船に情報を伝える役は、ただ一人・・・交信担当の宇宙飛行士でした。
同じ訓練を受け、同じ知識を持つ者にしかできない仕事・・・チャールズがこの重要な役割に抜擢されたのは、アームストロングが深く関係していました。
アームストロングから直々に頼まれたのです。

「君は、10号で素晴らしい仕事をした
 是非、11号でも担当してほしい!!」と。

月面着陸の最終リハーサルとして、1969年5月18日にアポロ10号は打ち上げられました。
着陸船のテストの際、トラブルが発生していました。
宇宙飛行士の操作ミスで、機体が激しく回転!!
この時、チャールズは地球から素早く、的確な対応策を伝えました。

「期待が大きく回転しているが、手動で姿勢をコントロールできる」byチャールズ

これを評価したアームストロングは、命を預ける相手としてチャールズを選びました。
チャールズもまた、アームストロングには絶大な信頼を持っていました。

地球を出て4日目、アポロ11号は月の軌道に入りました。
いよいよ着陸準備にかかります。
ついに迎えた運命の7月20日!!
着陸直前の緊迫した様子が、20018年に公開された交信記録に残されています。

「動力降下開始」byチャールズ

着陸船イーグルで月に降りるのは、アームストロングとオルドリン!!

月と地球との交信は、1.3秒の遅れが生じます。
もし、イーグルに何か起きた場合、すぐに指示を出さなければならない!!
チャールズは万一に備えます。

「我々のいる位置を確認してくれ」byアームストロング
「了解、正しい位置にいる、すべて順調だ」byチャールズ

開始から5分・・・冷静なアームストロングの声が突然変わりました。

「プログラムアラームだ!!」byアームストロング

イーグルではエラーのアラームが鳴り続けていました。

「1202、1202の意味を教えてくれ!!」byアームストロング

各部署が焦って一斉に知らせます。
そしてコンピューターの担当者が素早く反応しました。

「コンピューターのオーバーフローだが、二度と起こらなければ問題ない」

実はこのエラーは、オルドリンのある操作が招いたものでした。
月面と着陸船の位置関係を測定するレーダーだけを使う筈でしたが、司令船用のレーダーもオンにしていたため、情報が増えオーバーフローが起きたのです。

「問題ない、着陸はGOだ!!」byチャールズ

しかし、すぐに新しいトラブルが・・・!!
予定していた場所は、岩やクレーターで着陸不可能!!
とっさにアームストロングは操縦を手動に切り替え、別の目的地を探します。
しかし、なかなか着陸できません。
そして、最大の危機に直面します。
余計な燃料を使い、燃料切れになりそうでした。
あと60秒でイエローカード、30秒を切ったらレッドカードです。
予定よりも飛行距離が伸びた・・・
ギリギリしか積んでいない燃料は限界に・・・!!
非常事態にざわめきたつ管制室・・・!!
しかし、チャールズは・・・同じ宇宙飛行士として、この時アームストロングが何を考えているのか?同じ気持ちになって考えました。
同じ状況を作り出そうとしたのです。
そして、宇宙飛行士にではなく、管制室に向かって言いました。

「我々は静かにしていよう」byチャールズ

アームストロングならこの事態を乗り越えてくれる・・・彼にはそれだけの経験があると信じていました。

1968年5月6日、月着陸訓練・・・
アームストロングが乗る月着陸訓練機に吹き付けた強風・・・期待があおられ制御不能に!!
墜落直前、アームストロングは脱出!!
命を落としかねない事故でした。
それでもこの訓練が必要だと考えたアームストロングは、誰よりも長く直前まで訓練を続けていました。
ここから先は、アームストロングを信じて任せるしかない!!
チャールズの指示で静かになった管制室・・・
イーグルは予定されていた着陸地点を6キロも超えて飛び続けていました。
残された燃料はあとわずか・・・緊張が高まります。

「こちら”静かの基地”イーグルは着陸した」byアームストロング

残された燃料は、17秒分でした。

この後、いよいよアームストロングが月面に降り立つ・・・!!
世紀の瞬間が、全世界のテレビで生中継される!!
日本でも特別番組がスタートしていました。
しかし、ハプニングが・・・!!
世界中に放送され映像は、上下さかさまでした。
テレビカメラの位置に問題がありました。
取り付けられていたのは格納庫・・・
カメラはさかさまに設置されていました。
テレビ中継を担当したエド・トーキントン・・・カメラがどう取り付けられているのか正確な情報がわからないままの本番でした。
しかし、エドは、万が一に備えて中継地にボタンを押すだけで反転する装置を取り付けてもらっていました。
そのおかげで、すぐ映像は反転され正常の戻りました。
まさに、その数秒後!!

「月面に踏み出す
 一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ!!」byアームストロング

人類が一つとなって、未来への大きな一歩を踏み出した瞬間でした。
何億人もの人々が見守る中、月面着陸は大成功を果たしました。
互いを信じたチャールズとアームストロング、実は二人はある約束を交わしていました。

「着陸に成功したら、その場所を”静かの基地”と呼ぶよ
 秘密のコールサインだ」byアームストロング

このことを知っていたのは、3人の宇宙飛行士とチャールズだけでした。

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1961年4月12日、人類は初めて宇宙に飛び出し、地球を一周しました。
宇宙船の中にいるのはソビエトの宇宙飛行士ユーリ・ガガーリン。
当初宇宙開発は、アメリカよりもソビエトが先んじていました。

「地球は青かった」の言葉は、あまりにも有名です。
しかし、偉業達成後、ガガーリンはどうなったのでしょうか?
7年後・・・34歳の若さで他界・・・
突然の英雄の死に、様々な憶測がささやかれました。
英雄の栄光と知られざる苦悩とは・・・??

半世紀前、ソビエト社会主義共和国連邦と呼ばれる国がありました。
鉄のカーテンに閉ざされ情報もうかがえない謎の国!!
1961年4月12日、そのソビエトが突然世界初有人宇宙飛行!!

「地球が見える、なんて美しいんだ!!」

一夜にして、突如全世界に注目される英雄となったガガーリン。
しかし、この後、ガガーリンは奇妙なことを語っています。

「宇宙に飛んだ重圧よりも地上での重圧の方がつらい」byガガーリン

モスクワの北東に位置する星の街。
半世紀前、秘密基地で場所も公表されませんでした。
ガガーリンの友人ボリス・ボリノフは、ガガーリンと共に訓練をした宇宙飛行士です。
人類初の宇宙飛行士の候補生としてソビエト空軍が誇るエースパイロットが集められました。
しかし、当時宇宙に行くことは秘密・・・トップシークレットにされていました。
命がけであることは理解していました。
候補生たちを待っていたのは、味わったことのない過酷な訓練でした。
遠心加速器に乗せられました。
負荷は重力の12倍・・・12G !!血流すら重く感じるほどでした。
多くの脱落者が出る中、ガガーリンの存在は大きな励みになりました。

「ガガーリンは、どんなに苦しい訓練でもいつも笑顔でチームのムードメーカーでした
 笑い話をしたり、誰かをからかったりして大笑いしました
 弱音を吐いたときは、ガガーリンがそうやってみんなを鼓舞してくれました
 彼がいたから前向きになれた」byボリス

初めて宇宙船を見た時、ガガーリンは「中に入ってもいいですか?」とためらいなく乗り込んだといいます。
いつも笑顔で、茶目っ気タップリの明るい青年でした。
しかし、人類初の宇宙飛行は危険に満ちていました。
実験的に宇宙に送られた犬は、心拍に異常をきたすなど半数が死亡。
宇宙区間が生物に与える影響はいまだはっきりしませんでした。
さらに、ロケットにも問題が・・・
70名以上が死亡し、航空機事故と発表されましたが、しかし、それはロケットエンジンの爆発だったことが分かっています。

時は”米ソ冷戦”の真っただ中!!
ソビエトがその国力を証明する為にアメリカと競っていたのがロケット開発でした。
1957年10月4日世界初の人工衛星スプートニクを飛ばし、先んじたのはソビエト!!
しかし、アメリカもすぐに追いかけます。
1958年10月1日NASA設立!!
その競争は、どちらが先に宇宙に人類を送り込めるかで絞られつつありました。
みな、祖国の栄光のために、命がけで挑んでいました。
打ち上げの2日前、人類初の宇宙飛行士が選ばれる!!

「宇宙に行く最初の人物は、ユーリ・ガガーリン!!」

労働者階級の出身、そして小柄であることなどが決め手でした。

1961年4月12日、ボストーク1号発射!!
人類が初めて地球を見た瞬間でした。
2日後の4月14日、盛大なセレモニーが開催されました。
108分の飛行は、27歳の若者をソビエトの英雄にしました。
しかし、その瞬間から彼の人生は政治に翻弄され予想だにしなかった方向へと突き進んでいきました。

アンドレイ・ヴァヴィーロフは、外務省でガガーリンの通訳をしていました。
彼が見せてくれたまだ誰にも見せたことのないフィルムには・・・。
政府の要請で、インドを訪問した時の映像がありました。

「ガガーリンを一目見ようと、演説に50万人が駆けつけました
 インド人には、宇宙から帰って来た彼が、天から舞い降りた神様に見えたのかもしれない」byアンドレイ

ガガーリンの飛行は、社会主義国家の力を宣伝する格好の材料でした。
偉大な功績をアピールするため、ガガーリンは世界中に派遣されることになります。
世界中から英雄扱いされる自分を、ガガーリンはどう思っていたのでしょうか??

ガガーリンの姪・・・タマラ・フィラトワによると・・・
ガガーリンは英雄になりたかったわけではありませんでした。
自分よりも他人を第一に考える人でした。

「宇宙に飛んだ重圧よりも地上での重圧の方がつらい」
 
英雄という重圧に、ガガーリンは追いつめられていきます。

「居心地が悪いんです
 だって、みんなが僕をスーパーヒーローにしようとしているから
 人を理想化すべきじゃない
 病気になりそうです」byガガーリン

彼の唯一の希望は、もう一度宇宙飛行士として任務につくこと・・・。
しかし、その願いも、思わに形で奪われることに・・・。
初飛行から6年後、ガガーリンは次の打ち上げ機の予備のパイロットに選ばれます。
正パイロットは、親友のコマロフでした。
しかし、ソユーズの開発は難航・・・飛行直前にもかかわらず、改善すべき欠陥が、203にものぼる有様でした。
ガガーリンは、危険すぎると打ち上げ中止を訴えたが、受け入れられません。
その時、親友のコマロフは悲壮な覚悟を決めていました。
打ち上げ直前、コマロフにあった人物がこう証言しています。

コマロフの妻は「飛ばないで!!」と言っていました。
でも彼は、
「行かなければならない
 自分が断われば、ガガーリンが飛んでソ連の英雄が死ぬことになる」
苦し気に泣いていました。
打ち上げは、強行されました。
しかし、地球への帰還の途中、パラシュートが開かず宇宙船は地面に激突!!
1967年4月23日、コマロフ死去
親友が事故死した後、ガガーリンは政府から告げられています。

「君を宇宙に行かせることは二度とない」と。

親友の死に耐えていたガガーリン、宇宙に行く夢と親友を同時に失ってしまいました。
ガガーリンが、戦闘機の訓練中に事故を起こし、亡くなったのはその1年後のこと・・・34歳でした。
気球を避けようとしたとも他の戦闘機を避けようとしたともいわれていますが、今なお、真相は明らかになっていません。

宇宙飛行士の夢を絶たれたガガーリンは、エンジニアとして宇宙開発に携わるべく勉強していました。
ガガーリンは、新たな目標に向かって夢や希望にあふれていました。
ガガーリンの死から1年後、アポロ11号が打ち上げられました。
アームストロング船長が、人類史上初めて月面に第一歩を踏み出します。
ガガーリンの友人・ボリノフは、国際会議の席上でアームストロング船長を固い握手を交わし、彼のある言葉に心を震わせました。

「私たちみんなに対し、星々を目指すように求めたのは、あのガガーリンだった」byアームストロング

宇宙へのあくなき挑戦・・・栄光の裏にはいくつもの危機がありました。
月面着陸から1年後の1970年4月13日。
宇宙での大事故が発生します。
アポロ13号が月に到達する直前、管制室に緊急メッセージを送ってきました。

「問題発生の模様!!」

突然船体が爆発、メインエンジンが使用不可能に・・・!!
事故が起きたのは、地球から32万キロの彼方・・・!!
絶体絶命の危機に陥りました。
それを救ったのは名もなき男たちでした。
動くこともままならず、宇宙空間を漂い始めたアポロ・・・船内には、3人の宇宙飛行士・・・!!
しかし、アポロ13号は絶体絶命から奇跡の生還を果たします。
その陰には、NASAのエリートだけでなく、全米各地のエンジニアの知られざる努力がありました。
宇宙飛行士が生きて戻るまでは緊迫の87時間!!

1970年4月11日、アポロ13号打ち上げ!!
月のサンプルを集めるため打ち上げられました。
4月13日、夜9時7分・・・爆発音が!!

「ヒューストン、問題発生だ
 主電源Bが電圧低下」byアポロ13号

その時の管制室は大混乱!!
いろんなボタンが赤く点滅し、何が起きたのかわかりませんでした。
爆発音から13分後・・・

「窓から外を見ると、何か噴き出しているようだ
 何かガスのようなものだ」byアポロ13号
 
起きていることが、クルーの生命に関わることだということははっきりとしていました。
爆発したのは、支援船内部にある酸素タンクのひとつ!!
エンジンを損傷した可能性があり、その場合、点火すれば船体ごと吹き飛んでしまう!!
助かる道はただ一つ・・・
予定通り月を周回し、月の引力を使って加速し帰還するルートです。
しかし、あまりにも遠い道のりでした。
動力はおろか、酸素、電力が失われる中、アポロ13号は地球まで持つのか・・・??
アポロの中でぜったに守らなければいけないのは司令船!!
地球に戻る時、大気圏で焼けるような温度になっても耐えられるのはこの部分だけでした。
そこで、司令船の電力を温存するため、クルーを急遽、月着陸船・アクエリアスに避難させました。
切り離して動くために、電力も酸素も独立したシステムになっているからです。
なんとか急場をしのぐも、大きな問題が立ちはだかっていました。
爆発の衝撃で、本来の軌道から外れていたのです。
軌道修正しようにも、メインエンジンは損傷した可能性があり使えません。
そこで目をつけたのは、アクエリアスの小さなエンジンでした。
しかし、そのエンジンは月に着陸するための降下用・・・
一度使うためだけの設計でした。
軌道修正できるだけの性能とパワーがあるのか??
困惑するNASAに、カリフォルニアから情報がもたらされます。
アクエリアスの円陣を開発した総責任者ジェラルド・エルヴェラムでした。
NASAからすぐにエンジンを噴射したいといわれ・・・即座に
「噴射は20秒ほどだったら問題ない、推力は自由に調節してもいい」と言いました。
事故から5時間半後・・・エンジンは噴射されました。
軌道修正は成功!!
しかし、前途は多難・・・頼みの綱はアクエリアス!!
その小さいエンジンはどれだけ持つのか??

エルヴェラムは、8年前からこのエンジンにかけてきた男!!
自らNASAに売り込み、開発、アクエリアスのエンジンには、特別な思い入れがありました。
エルヴェラムは即座に動き始めます。
あらゆる事態を想定してデータを洗い出します。
さらに、右腕をヒューストンに送ります。
アクエリアスのエンジン担当ドン・ハーヴィーです。
管制室につくなり、ある問題を突き付けられます。
地球に向かう速度を上げられないか??
電力は残りわずか・・・このままでは宇宙飛行士の命が危うい・・・エンジンを噴射して加速したいが・・・あとどれだけ使えるのか・・・??

問題は、エンジン内部にある断熱シールドでした。
何回の燃焼に耐えられるのか・・・??
エンジンを点火する時、その高熱からエンジンを守るために断熱シールドが・・・この耐久性がネックになる!!
カリフォルニアのエルヴェラムと協力し、データを洗い直します。
一方、ニューヨークでもアクエリアスを設計した現場の男たちが動いていました。
アクエリアスの管理責任者ジェラルド・サンドラ、設計デザインマーティ・フィンクルマンは、なんとかエンジンを持たせられないか・・・極限まで電力を節約する方法を検討します。
電力の残りは2日分・・・
しかし、地球までは最低4日かかる・・・!!どうすれば・・・!!

NASAに何かを伝えても、業者か言われるのは嫌そうでした。
そこで、NASAの上層部に連絡し、彼らの指示に従えといってもらいます。
マーティたちは、現場の知恵を結集し、大胆な節約プランを練り上げます。
通信装置遺骸ほとんどすべてをOFF・・・命綱のナビゲートシステムさえもOFFに!!
一番の難題は、NASAの人間に彼らが定めた限界が絶対ではないと説得することでした。
エンジニアたちは実験で、NASAが知らないデータを持っていました。
しかし、彼等は規定外のことがしたくない・・・
この温度は超えるな!!このスイッチは絶対に切るな!!
マニュアルを聖書扱いしていました。
説得するのが骨でした。

アポロが月の裏側を抜ける直前・・・エンジンの限界について結論が見えてきました。
ハーヴィーがカリフォルニアのエルベラむとデータを突き合わせた中に、決め手となる情報がありました。

断熱シールドがどれだけの燃焼に耐えられるのか??
その実験データが見つかったのです。
実験は、NASAが求める以上に長い時間、燃焼したらどうなるかを試していました。
そのデータによると、断熱シールドの限界は、およそ4分間でした。
合計4分までなら噴射可能!!

事故から23時間半後・・・アクエリアスは、エンジンを噴射します。
噴射は、成功!!
アポロは地球に向けて加速します。
事故から82時間後・・・遂に、地球まであと少しのところまでやってきました。
最後の難関は大気圏突入!!
僅かな角度の違いで、帰還することが出来ない・・・許される角度の幅は、2.4度・・・。
支援船を切り離し、最後の調整・・・目標の角度へと導きます。
事故から86時間後・・・アクエリアスを切り離す!!
アクエリアスは、全ての任務をやり終えた後、大気圏に落下し燃え尽きました。
いよいよ大気圏突入!!通信が途絶えます。

そして、12分後、アポロ13号が姿を現しました。

世界中がその生還を喜びました。
まさに、奇跡の生還劇!!
人類が初めて経験した宇宙での大事故・・・アポロ13号の奇跡のリカバリーはこう呼ばれます。

「成功した失敗」と。

人類の宇宙への挑戦・・・そこにはどんな危機に見舞われようと決してあきらめない人々の努力と情熱の物語がありました。

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群雄割拠の戦国時代、一人の男が乱世を制し、やがて時代の覇権を握りました。
戦国の革命児・織田信長です。
天下統一を目指した信長・・・しかし、その前には、数々の大きな壁が立ちはだかりました。
僅かな兵力で、10倍以上の大軍に挑んだ桶狭間の戦い・・・
周囲を多くの敵に囲まれる中で断行した上洛作戦!!
そして、不意の奇襲攻撃を受け窮地に立たされた姉川の戦い!!
信長は、3つの逆境をいかにして克服したのか・・・??

戦国の覇者・織田信長・・・しかし、若き日々は、苦悩と不安に満ちていました。
それは信長19歳の時に始まります。
1552年、信長の父、死去。
急死した父親の葬儀に駆け付けた信長・・・突然仏前に抹香を投げつけました。
どうしてそんなことをしたのか??
定かではありませんが、父の死が信長の方に重くのしかかっていたことは確かでした。
信長の父・織田信秀は、守護代の一家臣という低い身分でしたが、尾張一国を担う立場にありました。
力の源泉は、海運の要・津島湊と熱田湊を支配下に置いたことでした。

信秀は、海運を通じて商業を活性化・・・莫大な富を得ることに成功しました。
ところが、晩年は美濃・斎藤氏との戦いに敗れるなど信秀の求心力は徐々に低下・・・。
尾張統一も危ぶまれる情勢にありました。
そんな中、父の跡を継いだ信長・・・
しかし、周囲から大うつけ・・・非常識、愚か者として疎まれていました。

一族が敵対する事への恐れ、不安感がないまぜになっていた信長・・・不安は的中します。
ほどなくして一族の離反が始まります。
織田信友の謀反!!
それに対し信長は、信友を切腹に追い込んでいます。
そして実の弟・信勝・・・その謀反の計画を察知した信長は、仮病を使って見舞いに来させ家臣に命じて殺害しました(1558年)。
激しさを増す信長の一族討伐!!
造反勢力を抑えるのは容易ではありませんでした。
さらに、信長に巨大な外敵が迫っていました。
東海一の弓取りと畏れられた今川義元・・・義元は、一族の内紛に苦しむ信長に対して攻略の準備を進めていました。
まず義元は、尾張領内にあった鳴海城・大高城・沓掛城を手中に収めます。
それは信長にとって大きな痛手でした。
伊勢湾沿いに建てられた鳴海城と大高城・・・義元は、尾張の海運の要である津島と熱田に狙いを定めたのです。
信長は、父から受け継いだ経済基盤を失う危機に直面していました。
義元の領国は、駿河・遠江・三河の三か国・・・離反した織田方の家臣も組み入れ、石高にするとおよそ100万石!!
対する信長は、美濃・斎藤氏とも対立しており、まさに四面楚歌!!
援軍を望むべくもなかったのです。
しかし、信長はあくまでも義元に対抗!!
寝返った城の周辺に善照寺砦など3との砦を、そして鷲津砦・丸根砦を築いてけん制しました。

信長のこの動きをきっかけに・・・1560年今川義元、尾張に進軍・その数2万5000!!
信長軍の10倍以上でした。
尾張に侵攻した義元・・・信長にとってこれまでに兵力を持つ外敵でした。
5月18日夕刻・・・清須城にいる信長に、今川の動きを偵察していた家臣から報告が入りました。

「今川軍が明朝に攻撃開始!!」

いよいよ決戦の時!!
集まった家臣たちは、信長の言葉を待っていました。
ところが信長は・・・

「さあ・・・夜も更けた
 皆、帰宅して良いぞ」

そういって、軍議もせずに家臣たちを帰らせました。

「運の尽きる時は知恵の鏡も曇るというが、今がまさにその時なのか・・・!!」

そう失望する家臣もいました。
今川軍襲来の報を受けても動かない信長・・・果たして信長に勝機はあるのか・・・??

1560年5月19日、清須城の信長に、今川軍が鷲津砦と丸根砦が攻撃され始めたと連絡が入りました。
義元はまず、自分に寝返った大高城をすくうため、その周囲の鷲津・丸根砦を攻略し始めたのです。
すると信長は、僅か5騎を引き連れ、砦方面へと駆け出しました。
これまでの今川迫るの知らせには、微動だにしなかった信長が、どうして突然清洲城を飛び出したのか・・・??
それは、具体的な今川の攻撃場所を知る必要があったからです。
信長が、僅かな手勢で飛び出したのは、あくまで状況確認のため・・・もっと情報が必要だったと考えられます。
途中、善照寺砦に到着した信長は、一旦ここで馬を止めます。
ここには、遠くを見渡す物見櫓がありました。
この砦こそ、戦況を知るための前線基地だったのです。
高いところから今川軍の方向を見ると、鷲津砦・丸根砦の当た場所が遠望できます。
当時の信長が見た景色・・・立ち上る煙を目の当たりにして、信長は二つの砦が陥落したことを確信しました。
当時の戦術の常として、義元は鷲津・丸根攻略のためにまず、軍の主力・・・まず先陣を送ったはず・・・一方、大将・義元のいる本陣は、そのはるか後方で待機!!
今川軍が二つに分かれているこの状況を信長は図っていました。
今川本陣がむき出しになっている瞬間・・・その瞬間にかけて・・・!!
しかし、信長はまだ今川本陣がどこにあるのか具体的な場所をつかみかねていました。
そして正午ごろ・・・決定的な報告が、家臣からもたらされます。
鷲津砦と丸根砦陥落の知らせを聞いた信長が、桶狭間山で人馬を休憩させ、謡を歌わせているというのです。
桶狭間山は、先陣から3キロほど離れた場所でした。
地元の地理を熟知していた信長・・・今川軍が二手に分かれる構図に勝機を見出します。
この時、義元の本陣はおよそ5000、対する信長軍は2000足らず!!

今しかない!!

信長は、ここで最終決断をします。
そして檄を飛ばします。

「今川軍はすでに疲れている 大軍を恐れるな!!
 この戦に参加する者は、すべて名誉を得て功名は永遠に語り継がれるであろう!」

午後2時ごろ、今川本陣に突進!!
その途中で豪雨が降り出しました。
一方、今川本陣は、散り散りになって雨宿りの場所を求めました。
迫りくる信長軍に注意を向けるものはいませんでした。
豪雨が治まった時、信長軍は今川軍の本陣のすぐ目の前に接近していました。

「旗本これなり これへかかれ!!」

信長の号令で一斉攻撃!!
不意を突かれ浮足立つ今川軍、信長軍の一人が義元に一番槍を突き刺し、もう一人が首を刎ねる!!
いずれも、信長が育てた精鋭部隊でした。
一方、本陣から離れて休憩していた2万の軍勢は、”義元討たる”の報を聞くと、戦意を失って退却!!
信長軍の奇跡的大勝利!!
そこには、敵の情勢を見極め、勝機を逃さない信長の優れた判断力がありました。
戦国の覇者へ、その一歩を踏み出したのです。


2014年10月、新発見の資料が公開されました。
それは、新発見であり、未紹介であり、内容が非常に重要でした。
発見されたのは、信長の上洛に関する書状です。

”将軍上洛の供として 織田信長が参陣する”

1568年、信長が足利義昭の要請に応じて上洛したのは、桶狭間の戦いから8年後のことでした。
発見された書状の年号は永禄9年・・・信長は、実際の上洛の2年も前から義昭を奉じ、今日を目指す計画を立てていました。
どうして信長はそこまでして上洛にこだわったのか・・・??
室町時代、京の都で始まった権力争いは、全国を巻き込み大乱に発展!!
室町幕府は衰退の一途をたどっていきます。
戦国時代になると、将軍はしばしば都を離れ、地方の有力大名に庇護を求めました。
しかし、近年の研究によれば、戦国時代でも将軍の権威は保たれていたといいます。
信長が、将軍の権威を重んじていたことを示す資料が残されています。
幕府の家臣の名簿の中に信長の名前・・・権威を蔑ろにするイメージの信長も、将軍を支える大名の一人でした。
信長が上洛を目指したのは、衰退した室町幕府の細網を図ったからか・・・??
従来の室町幕府の秩序を、もう1回再構築するのが信長の目的なので、将軍は必要な存在でした。
そして、一有力大名として支えていくというのが信長の考え方でした。
尾張守護代の家臣という信長の出自は低い・・・
義昭の要請に応えることは、大名としての正当性を獲得する絶好の機会となったのです。
しかし、桶狭間の戦いで今川義元を討ち、尾張統一を果たしたとはいえ、永禄9年の時点では、信長の周囲は強敵に囲まれていました。
上洛など夢のまた夢・・・
さらに、上洛は、京に義昭を送り届けるだけではありませんでした。
将軍を守り、都の治安維持を図る・・・それには兵を常駐させておかなければなりません。
圧倒的な軍事力を求められました。
当時、信長が居城としていた小牧山城・・・
この城から信長の上洛に対する並々ならぬ決意が伺えます。
近年の発掘調査によって、当時の最新技術を使った巨大な石垣が次々と出土しました。
石垣の先端技術は、畿内で古くから発達しました。
信長は、畿内のいろんな技術、情報を押さえていたのです。
その中で、最先端の技術を築くことが出来るノウハウを持っていたのです。
また、小牧山城には、城下町が整備されていました。
上洛を睨んで、兵農分離が行われていたと考えられます。
兵農分離は、武士を農民から切り離す軍制改革です。
戦国大名の軍団を成す兵は農民たち・・・普段は村で農業をし、いざ戦いとなると兵隊として駆り集められました。
一方信長は、一早く専業の武士団を作り、城下町に集めて生活させていたことが小牧山城の発掘からわかりました。
兵農分離したことで、農繁期・農閑期に関わらず、いつでも遠征できる・・・!!
尾張をいかに治めるかということだけでなく、京都を目指していた意図が隠されていました。
上洛を果たすために、畿内の先進技術を取り入れ軍制改革を推し進めた信長・・・周到な準備を重ね、ようやく上洛が実現したのは最初の計画から2年後のことでした。

永禄11年(1568年)9月26日、およそ4万の大軍を率いて上洛!!
立ちはだかる敵を一蹴します。
ついに、足利義昭を奉じて上洛を果たしました。
10月18日、信長の軍事力を背景に、足利義昭将軍に就任!!
一方、新将軍誕生の立役者となった信長・・・信長の名は畿内一円に広がり、周辺の武将たちが次々と馳せ参じて忠誠を誓ったといいます。
信長が目指した国のありようを表した言葉・・・”天下静謐”・・・天下を平和にするという意味です。
将軍が中心となった畿内の政情を安定させる・・・そういう状況こそ、信長が考えた天下静謐でした。

ところが、上洛からわずか2年・・・怖れていたことが起こります。
越前の大名・朝倉の叛逆を皮切りに、畿内周辺の有力大名や、寺社勢力が次々と信長に反旗を翻したのです。
信長は、天下静謐を目指し、戦を重ね支配地域を拡張していきました。
一方、義昭は信長の凄まじい勢いに恐怖を抱き始めます。
2人の亀裂があらわになったのが、信長が義昭に宛てた「十七条の意見書」です。
義昭の怠慢や不正を十七ヶ条にまとめ、諫めたものです。

忠勤の部下を大切にせよ
えこひいきがあってはならない
世間から悪しき御所と陰口をたたかれている

などと、義昭を注意しています。
以後、信長と義昭の関係は、悪化の一途をたどります。
そして遂に1573年2月、義昭・・・挙兵!!
しかし、信長の圧倒的な軍勢を前に、降参する以外に術はありませんでした。
7月・・・義昭、京から追放・・・ここに室町幕府は崩壊したといわれます。
義昭を殺さず追放に止めたのは、将軍の権威を恐れ、謀反人と見なされることを避けたからだともいわれています。
以後、信長は、将軍の権威に寄らず、天下の静謐を目指しました。
それは、新しい天下人の姿でした。

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足利義昭を奉じ、上洛を果たした信長・・・
将軍の権威を背景に、信長は畿内周辺の諸大名に上洛を命じる書状を出しました。
これをはねつけたのが、朝倉義景です。
かつて、足利義昭の後ろ盾となっていた越前の雄です。
信長の上洛勧告に朝倉側はこう答えました。

「これは上意にはあらず
 信長の謀略である!!」

1570年4月、信長は3万の大軍勢を引き連れて朝倉討伐へ!!
目指したのは、今の福井県敦賀市。
陸上交通と、北国海運の要です。
朝倉氏にとっては、畿内への玄関口でした。
1570年4月26日、金ヶ崎城の戦い!!
信長は力攻めで、敦賀にある金ヶ崎城を攻略します。
ところが、この時信長のもとに驚愕の知らせが・・・!!
妹婿で北近江を治める浅井長政が裏切ったのです。
長政裏切りの報に接した信長は、こう答えました。

「虚説たるべき!!」

裏切りを嘘だと報告を信じようとはしませんでした。
当時の資料には、こうあります。
”浅井は近年信長の家来となり、心の隔たりなく付き合ってきた”
長政には、十分な所領・北近江半分を与えています。
しかも、信長の妹・お市の方を嫁にしているのに・・・!!
別格の待遇をしていると、信長は長政に恩を着せています。
しかし、長政は、信長の家臣ではないと思っていました。
家臣扱いされることに対する自尊心があったのです。
朝倉攻めを優勢に進めている信長・・・
しかし、長政の裏切りが事実ならば、形勢は一気に逆転します。
長政が南から敦賀に攻め入れば、朝倉との挟撃は免れない!!
西には敵対する若狭の武将たち・・・さらに、南の琵琶湖を支配しているのは長政!!
四方を囲まれ、信長は袋の鼠!!
この時、信長は即断即決します。
南西に向かい、即座に駆け出します。
京までおよそ100キロの道程・・・信長の撤退戦・金ヶ崎の退き口の始まりでした。
信長を京まで逃がすために、困難な殿を受け持った家臣たち・・・
木下藤吉郎(豊臣秀吉)・明智光秀・徳川家康があその任に当たったといいます。
若桜街道を南下し、京に無事たどり着いた信長・・・長政の裏切り発覚から3日後のことでした。
この時、信長に付き従ったものは、僅か10人ばかりと記されています。

フロイスの「日本史」によると・・・
”信長は自らに加えられた屈辱に対しては懲罰せずにはおかなかった”
とあります。

いよいよ、姉川の戦いの幕が切って落とされようとしていました。

1570年6月、信長は長政討伐のために北近江に侵攻。
同じ頃、朝倉の援軍8000が到着、小谷城近くの大依山に陣を構えました。
対する信長の本陣は龍ヶ鼻!!
左手には徳川家康が陣を構えました。
姉川を挟んで浅井・朝倉の連合軍と信長の本陣とが睨み合う形となりました。

6月27日、大依山の浅井・朝倉勢が動きます。
大依山の軍勢が、山向こうに異動したため、信長の目の前から浅井・朝倉勢が見えなくなってしまったのです。
この時信長は、敵の動きを小谷城への撤退行動だと読んでいました。
しかし、長政は撤退したと見せかけて信長本陣に奇襲攻撃をかけようとしていました。

6月28日午前5時ごろ・・・浅井勢、姉川に到着。
信長の本陣に密かに迫っていました。
そして・・・姉川の戦い開戦!!
信長の虚をつくまさに乾坤一擲の奇襲攻撃でした。
浅井軍の猛攻に押される信長の軍勢・・・崩れるのは、もはや時間の問題でした。
この時、信長の本陣は、陣杭の柳と呼ばれる場所にありました。
本陣の奥深くまで攻め込まれ、信長が窮地に立たされたことを物語るものがありました。
浅井家家臣・遠藤直経の墓です。
信長に迫り、あと一歩のところで討ち取られた武士として記録されていました。
本陣から墓までの距離・わずか300m!!
これこそ、浅井長政の奇襲攻撃で、信長本陣が大混乱した証です。
浅井勢に攻め込まれた織田軍・・・
しかし、信長は戦場を離脱することなく本陣に踏みとどまりました。
この時、信長を支えたのが家康の援軍でした。
これにより、信長は反撃を開始!!
結果、浅井軍は退却し、信長は辛くも勝利を得たのです。
この戦い以降、信長は大きく戦法を変えます。
時間をかけて浅井方の城を包囲し、小谷城の包囲網を築いて行きました。
さらに、浅井に組する武将に調略を持ちかけ寝返りを図ったのが、後の豊臣秀吉です。

1571年9月、比叡山焼き打ち!!
信長は、浅井長政に味方した比叡山を焼き打ちにしました。
その2年後の1571年8月、5万の大軍勢で朝倉滅亡!!
返す刀で小谷城を包囲!!
信長軍の猛攻についに浅井長政は切腹・・・享年29の若さでした。
浅井・朝倉滅亡の後、畿内周辺から信長に敵対する大勢力は途絶えました。
最大の逆境を乗り切った信長は、領土を拡大、天下統一に邁進していきます。

浅井・朝倉滅亡の2年後・・・信長は、当時最強と畏れられた武田軍を撃破することに成功!!
その後信長は、巨大な安土城を築き、天下統一事業に邁進!!
敵対する勢力には周到な準備と圧倒的な兵力で臨み、勝利を重ねていきます。
新しい時代の扉は数多の逆境を克服した男によって開かれたのです。

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今日富上京区にある観世稲荷社・・・室町時代、この辺りにあったのは、観世家の屋敷です。
観世とは、今に続く能の流派の一つ観世流を受け継ぐ家・・・
その始まりは、700年ほど前まで遡ります。
観世座という芸能一座を率いた観阿弥です。
そして観阿弥の意志を継いで大成させたのが、息子の世阿弥です。
2人は能に、様々な革新を起こしました。

世界最古の舞台芸術としてユネスコの無形文化遺産に登録されている能・・・
謡とお囃子を伴奏に、舞踊的な所作で物語を展開させていく幽玄な歌舞劇です。
その始まりは、中国伝来の散楽と呼ばれる曲芸に、歌舞などの日本古来の芸能が融合された猿楽・・・
当初は、滑稽で人を楽しませる芸術でした。
そんな猿楽の一座を率いていたのが観阿弥でした。
鎌倉幕府が滅亡した1333年に、大和国の猿楽師であった父のもとに生れました。
やがて自ら観世座という猿楽一座を率いる観世太夫となります。

当時の猿楽師の在り方は、乞食の所行と呼ばれていました。
地位は低いものでしたが、観阿弥はスター役者でした。
猿楽の地位を上げようと奮闘し、革新をもたらしていきます。
観阿弥は、猿楽に当時の流行歌謡である曲舞を取り入れ、メロディー中心だった猿楽に、曲舞の拍子の面白さを加え、新しい謡を編み出しました。
現代で言えば、ラップに近い面白さがありました。
猿楽に別ジャンルの要素を取り入れ、革新を遂げた観阿弥の一座は、頭角を現し、京で勧進能を催すまでになります。
そんな中、観阿弥に待望の跡継ぎが誕生!!
1368年世阿弥が生れます。

時は二つの調停が並び立つ南北朝時代!!
北朝方の室町幕府の力は盤石ではなく、各地で反乱がおこる中、1367年、室町幕府2代将軍足利義詮が病死。
家督を継いだのは、僅か11歳の義満でした。
1368年、3代将軍に就任!!
ここから観阿弥・世阿弥親子の運命が大きく動くのです。

義満の時代~「蜜月」

1375年、観阿弥43歳の時、猿楽の地位を向上させる最大のチャンスが訪れます。
京都新熊野神社での観世座猿楽興業に、将軍・義満が見学に来るというのです。
”将軍という最高のパトロンを得られるかどうか?”観阿弥にとっては勝負の時でした。
そこで、観阿弥は一計を案じます。
興業の冒頭で、必ず演じられていた翁猿楽の翁役を自ら演じることにするのです。
通常は一座の長老が行うのが習わし・・・異例のことでした。

「翁」は、役者が最初は面をつけずに素顔で演じる演目です。
翁を演じる役者が年寄りだと、義満が興ざめする恐れがありました。
観世座の中心役者である自分が、最初に出てくることで義満の興味を引けると考えたのです。

観阿弥の狙いは敵中~~!!
見事、義満の目を引きます。
さらに、義満が目を奪われたものは・・・美少年と言われた世阿弥の姿です。
一説には、世阿弥はこの時13歳、義満は18歳だったといいます。
美少年好きの義満は、世阿弥を常に自分の傍に置き、可愛がりました。
祇園祭見学の際には、同じ席に世阿弥を上げ、杯を交わすほどだったといいます。
しかし・・・義満が世阿弥を寵愛したのは、義満が美少年だったから・・・だけではありませんでした。

当時の幕府は、武力によって地方を押さえ、政治を行っていました。
しかし、すべてを承認する権限は、朝廷にあったため、自由に物事を進めることが出来なかったのです。
そこで、義満は公家社会に入り込むことで、朝廷を思い通りに動かそうと考えます。
しかし、朝廷では、多くの儀式が古いしきたりのもとで行われており、武士である義満が、容易に入っていける世界ではありませんでした。
そこで、まずは摂関家・二条良基に朝廷の儀礼や作法を学びます。
これが認められ、義満は1378年、武家にとって最も名誉な右近衛大将に任じられ、その3年後の1381年には武家として異例の内大臣に昇進、朝廷内での発言力を強めていきます。
しかし、義満は・・・京の高い公家文化にコンプレックスを持っていたと考えられます。
その為、義満は京の高い文化に対抗できるものが自分にもほしいと考えました。
観阿弥率いる観世座は、新しい猿楽の在り方を実現させていました。
義満が、新しい文化を掴んでいることを内外に示す意味があったのです。
そして、観世座の猿楽が、義満の政治・文化ラインに沿うようなものになっていったのです。
義満は、観世座の猿楽を、広告塔として使うようになりました。
観阿弥は、世阿弥に将軍や幕府の中枢にいる武士や公家と対等に付き合えるように、和歌や蹴鞠なども習わせていました。
全ては、猿楽を都で認めさせるためでした。

こうして、将軍という強力なパトロンを得た観阿弥でしたが、1384年5月、52歳・・・巡業先の駿河で急死します。
跡を継ぎ一座のTOP・観世太夫となったのは22歳の世阿弥でした。
父の遺志を継ぎ、観世座を守り、盛り立てて行こうと精進していきます。
そんな世阿弥に最初の試練が・・・ライバルの出現です。
大和と並んで猿楽の盛んな近江の猿楽師・犬王です。
天女の舞を躍らせたなら、右に出る者はいないと高い評判を得ていました。
義満も、そんな犬王をいたく気に入ったようで、犬王が将軍お気に入りの役者の筆頭に躍り出ます。
世阿弥は、犬王の存在を強く意識します。
自分にはない優美さがあったことも、大きな理由でした。

足を細かく使ったり、地面を踏んだりする力強い鬼の演技を得意とする世阿弥は、自分にはなかった犬王の幽玄で美しい舞を貪欲に取り込み、鍛錬を積んでいきます。
パトロンである義満の好みに近づくために・・・!!
時代の風を詠み、新たな要素を取り込んで芸を高めていく・・・
それは、一座の蝶として観世座を守るための世阿弥の生き残る術・・・戦略でした。
一座の長としての重責を担い、ジレンマと戦いながらも自らの芸を磨いて行った世阿弥・・・
将軍・義満のご贔屓も取り戻します。

大衆芸能だった猿楽を、名実ともに京文化の中心に引き上げた観阿弥・世阿弥親子・・・
2人の名についている阿弥というのは、芸名です。
世阿弥がこの名を名乗るようになったのは、40歳になるころでした。
それまでは、元清とか、三郎などと名乗っていました。
しかし、将軍周辺で、これからは出家した際につける法名の一つ阿弥号で呼ぼうということになりました。
父親である観阿弥が、観世を名乗っており、世阿弥も当時、そう呼ばれていたようで・・・そこから世という文字が使われ、将軍・義満の一言で”ぜあみ”と呼ぶようになりました。
ちなみに阿弥は、当時の文化人のステイタスシンボルでした。
義満によって、文化人に相応しい名前を得た世阿弥・・・しかし、蜜月はついに終わりを告げます。

1408年、世阿弥のパトロンだった室町幕府3代将軍足利義満死去・・・
幕府の実権は、4代将軍・義持に移りました。
これによって、世阿弥の人生は、またも大きなうねりを見せます。

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義持の時代~「苦難と革新」

将軍・義持には、贔屓にしている役者がいたのです。
農耕行事から生まれた芸能・田楽出身の増阿弥です。
その演技に世阿弥自身も魅了されます。
淡々とした中にも深い味わいを持つ舞の美しさ・・・新たなライバルの出現に、世阿弥は奮い立ちます。
追求したのは花・・・

「花と面白きと珍しきと これ三つは 同じ心なり」by世阿弥

花の意味とは・・・??
花は、観客にとっての新鮮さ、面白さであって、世阿弥は如何に観客を面白がらせ、舞台に感動の花を咲かせるかを追求していました。
新しき花を、珍しき花を、生み出すことを追求していった世阿弥・・・
そんな彼が挑んだのは、新しい能の作品を作ることでした。

「能の本を書くこと この道の命なり」by世阿弥

世阿弥は、能の本を書く・・・新たな作品を作ることで、最大の革新を起こしていきます。
その中で、強く影響を受けたのが禅です。
世阿弥は50歳を過ぎてから座禅修行を行う仏教宗派・禅宗に深く帰依していました。
世阿弥は、禅画や枯山水のような「余白の美」で表現できる美しさを能の中に取り入れようとしたのです。
余白の美を能に取り入れようとした世阿弥は、「動十分心 動七分身」といっています。
思っているよりも、身体の動きを抑えることで、敢えて心情が伝わり趣が生れる・・・と。
心を平穏にして、リラックスして、新しいものを作ろうというニーズが高まっていたのです。
静かで美しい動きの中に表す心の機微・・・感情の奥深さで、見る者たちの心を鎮めようと考えた世阿弥・・・。
こうして生み出された新たな能のスタイルが、夢幻能です。
それまで演じられていたのは、現在能・・・現実の世界で起こる事件や出来事を題材とした能です。
これに対し、夢幻能は、神や幽霊、聖霊など現存しない者たちがシテと呼ばれる主役となり描かれます。
物語が大きく前半と後半に別れているのが特徴・・・
その構成は、物語の脇役である旅の僧侶などが、源氏物語や伊勢物語など当時の貴族が好んだ物語や和歌に詠まれた土地にやってきます。
すると、そこで主人公に出会います。
主人公は、この土地ゆかりの出来事や人物についてまるで見てきたかのように語り出し、最後に私こそがそのゆかりの者だと名乗って消えてしまいます。
そして物語は後半へ・・・
旅の僧侶の夢の中に、主人公の亡霊が当時の姿で現れ昔の出来事を再現・・・
その苦悩を舞って見せます。
やがて夜が明け、僧が夢から覚めるとともに霊は消え、物語は終わるのです。
このような構成のため、夢幻能は、この世に未練を残し死んでいった者たちが主人公となる悲劇が多いのが特徴です。
世阿弥が編み出したこの夢幻能・・・「能」はもともと鎮魂の芸術、レクイエム・・・亡者供養の世界です。
非業の最期を遂げた人間や、地獄に落ちた人間の人生で一番輝いた一瞬を舞台で再現する・・・これが亡者供養に繋がるのです。
また、夢幻能は、日本のあらゆる古典文学や昔話を能の中に取り入れることが出来る画期的な仕組みでした。
世阿弥は、夢幻能という新しい演劇の編集装置を使い、次々と作品を生み出していきました。
伊勢物語を軸とし、平安時代の歌人在原業平を待ち続ける妻の令を主人公にした幻想的な「井筒」。
兄・源頼朝によって死に追いやられた義経の亡霊を主人公にし、屋島の戦いでの活躍を描いた「八島」。
世阿弥は天賦の才で、能を洗練された舞台芸術へと高めていきます。
世阿弥の手による作品は、わかっているだけでも50くらいはあるのでは??と、考えられています。
また、猿楽が能と呼ばれ始めるようになったのも、世阿弥の頃だといわれています。
そしてその能の演目は、ほぼ変わらず上演され続けています。

主に大衆を喜ばせ笑わせていた芸能・猿楽を、能という高度な洗練された舞台芸術へと高めていった世阿弥・・・
様々な革新によって大成された能は、700年近くたった今も、連綿と受け継がれています。

「住する所なきを まづ花と知るべし」by世阿弥

同じ芸や得意な芸ばかりやらず、常にその先にある新しい芸を求め続けよ・・・

「秘すれば花なり」

世阿弥は、能を理論的に綴った日本初の演劇論「風姿花伝」の中のことばです。

世阿弥は風姿花伝をはじめとした高度な能楽論をおよそ20も執筆しています。
「花鏡」もその一つで、中には有名な言葉が・・・

「初心忘るべからず」

単に初々しい時の心を忘れてはいけないという教えだけでなく、如何に己が未熟であるかということを忘れてはいけないという教えが込められています。
多くの教えを書き残すことで、後進の育成に力を注いだ世阿弥・・・
しかし、自身の後継者というと・・・妻・寿椿との間になかなか子を授かりませんでした。
そこで、弟の嫡男・三郎元重を養子とし、跡を継がせることにしましたが・・・
その後、2人の男子(十郎元雅・七郎元能)を授かります。
これで候補者は3人となってしまいました。
当初の予定通り養子にするか、実子のどちらかにするか・・・??
1422年実施である十郎元雅を観世太夫にします。
世阿弥は、「花伝第六花修」に”能の本を書くことこの道の命なり”と書いています。
能本を書く才能を非常に重視していました。
その才能を十郎元雅は持っている・・・実子であったことも大きな理由ですが、十郎元雅が優れた劇作家だったために選んだのです。
しかし、この決断が、世阿弥のこの後の人生を大きく揺るがすこととなります。

1423年、世阿弥が60歳を超えた頃、幕府は後継者問題で揺れます。
4代将軍・足利義持が息子である義量に将軍職を譲るも、その2年後に義量が19歳で亡くなってしまいます。
その為、出家していた義持が将軍代行に就いたのですが・・・
1428年、跡継ぎを決めないまま義持死去・・・。
そこで、次の将軍は”くじ引き”で決めることに!!
結果・・・義持の弟義教が6代将軍に就任しました。
これが、問題でした。

義教の時代~「絶望」

義教の治世は、恐怖政治と恐れられました。
その性格にも難があったといいます。
意に沿わない者は、厳罰に処し、死罪をも辞さないという横暴ぶりです。
人々は震え上がりました。
その矛先は観世座にも・・・!!
後小松上皇の仙洞御所で催されるはずだった世阿弥・・・元雅親子による猿楽の公演が、突如将軍・義教によって中止されたのです。
弾圧とも迫害ともいえる義教の横暴は続き、舞台から遠ざけられていきます。
どうして義教は、強く当たったのでしょうか??

義教は無類の猿楽好きでした。
将軍になる前からお気に入りの能楽者がいました。
それが、世阿弥の養子・三郎元重だったのです。
義教は、異常なほど三郎元重に肩入れをしていました。
観世座を告げなかった元重は、観世座の中で別グループを率いていました。
そんな元重を、義教は将軍になる前から贔屓していて、世阿弥親子が演じるはずだった仙洞御所での猿楽公演にも元重を抜擢したのです。

その後も、興業の機会が奪われるなど、観世座に暗雲が立ち込める中、世阿弥に追い打ちをかける出来事が起こります。
次男の七郎元能が能の道を捨て出家・・・さらに跡を継いだ十郎元雅が巡業先の伊勢で急死。
世阿弥の悲しみは深く・・・

「私は元雅に能の神髄をすべて書いて残してやりました
 しかし、その元雅が若くして逝ってしまった今、すべて無駄になってしまったのです
 ああ・・・すでに埋もれ木となったこの歳になって
 花盛りの元雅のその花の跡を先に見るとは・・・」

まさに、絶望の淵にいました。
そんな中、1433年、将軍義教の庇護のもと養子の三郎元重が観世太夫となります。
そして、京都・糺河原で3日間に及ぶ盛大な襲名披露の猿楽公演を行いました。
将軍義教の支援のもとで・・・!!

1434年、世阿弥が突然佐渡へ配流!!

佐渡には数々の世阿弥の伝説が残されています。
例えば、大干ばつに見舞われた際には、世阿弥の雨乞いの舞で大粒の雨が降り出し、島民をすくったと伝えられています。
そんな佐渡に世阿弥が流されたのは、70歳を過ぎてのことでした。
どうして配流となったのか・・・??
書物には

”世阿弥が娘婿である金春禅竹をあまりに寵愛したため、我が子(養子の三郎元重)と仲違えをし、将軍の機嫌を損ねて佐渡へ島流しにされた”

とあります。

これは江戸時代ごろに作られた創作だと思われます。
世阿弥の島流しには、長男・十郎元雅との立場が関係していたともいわれています。
十郎元雅は、藩幕府勢力とのつながりを持っていたのではないか?といわれています。
長男の十郎元雅が、藩幕府勢力と繋がっていたことで、連帯責任をとらされた可能性があるのです。
しかし、それを裏付ける正式な資料はなく、真相は今も闇の中です。
ただ、世阿弥が佐渡に流されたのは事実・・・
そこでの暮らしを伝える生活を金春禅竹に宛てた手紙が残っています。

「おいてきた妻が心配でなりません
 そんな妻と私への援助に感謝してもしきれません
 佐渡では支障なく暮らしております」

そして、鬼の能について質問してきた禅竹に、こう答えるのです。

「ただ荒々しいだけの芸をしてはならない」

世阿弥は佐渡で、「金島書」を書いています。
最後まで能への情熱は消えていなかったのです。

その後、1441年、観世太夫・・・元重の能を見物中に義教は暗殺されます。
一説にはその義教が亡くなったことで、世阿弥は流罪を許されたとされています。
しかし、京都に戻って来られたのか?そのまま佐渡にいたのか・・・??いつ亡くなったのか・・・??
それは、わかっていません。
そんな不遇な晩年を送った世阿弥・・・しかし、最期まで理想とする花を、能を追い求め、伝えることを諦めませんでした。
その気持ちは、今も世界に誇る伝統芸能・能の中に生き続けています。

「命には終わりあり
 能には果てあるべからず」by世阿弥


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大阪高槻市に、今、注目の古墳があります。
今城塚古墳・・・二重の堀を含めた全長350mという巨大な前方後円墳です。
堀の外には、長さ50メートルにわたって、様々な埴輪が並びます。
武人、力士、巫女などおよそ200体・・・葬られた人物の権力の大きさを物語っています。
この古墳の主を多くの研究者は継体天皇と考えています。
6世紀初めの天皇で、聖徳太子の曽祖父に当たります。
継体天皇は、極めて異色の天皇でした。
出身は、権力の中心・大和からほど遠い北陸・・・先代天皇との血縁も薄かったのに、大和の豪族たちに即位を求められたのです。
一体どうして地方の王族が天皇になれたのか??
いかなる人物だったのでしょうか??

まだ日本が倭国と呼ばれていた506年・・・大和政権は、大きな危機の中にありました。
日本書紀にはこう記されています。

”武烈天皇が崩御した
 ところが、天皇には息子も身近な親類もおらず、後継者候補がいなくなってしまった”

政権の中枢である天皇になる人がいない・・・まさに、大和政権崩壊の危機でした。
そんな危機が起きた理由は、武烈天皇の4代前、雄略天皇の時代にありました。

日本書紀には・・・

”雄略天皇は、誤って人を殺すことが多かった
 人々は、大悪の天皇であるといった”

雄略天皇は、自らが天皇になるためにライバルを次々と殺していきました。
その為、後継者候補は極端に少なくなり、武烈天皇の代で遂に跡継ぎがいなくなってしまったのです。
大和政権を支える有力豪族・・・大伴金村、物部麁鹿火は、後継者探しに奔走します。
そこで、ある人物の名前が上がります。
2人が白羽の矢を立てたのは男大迹王・・・亡くなった武烈天皇とははるかに遠縁の人物でした。
武烈天皇の5世代前の応神天皇の代に別れた家系の五代目・・・
さらに、男大迹王は、そのプロフィールも異色でした。
生れたのは、大和から離れた近江の北部、父の死後、母の故郷・越前に移り、その地を治めていました。
年齢は57歳、当時としては高齢でした。
どうしてこんな異例の男大迹王が後継者に選ばれたのでしょうか?

琵琶湖の西岸に位置する滋賀県高島市・・・男大迹王の故郷に当たるこの地の調査では、男大迹王の父・彦主人王の墓(田中王塚古墳)が発見されています。
5世紀後半の築造とされています。
大きさは直径58m・・・この地域で最大級の大きさで、高島の中で突出して規模が大きいのです。
高島では100年間に70基もの古墳が相次いで造られました。
その中で、田中王塚古墳は最大で、長年にわたって地域を治める、近江の有力豪族だったことが分かります。

日本書紀によると、近江で生まれた男大迹王は、その後、母親の故郷・越前を治めたといいます。
近江と越前の豪族を従える王に成長していたことが伺えます。
さらに、男大迹王を支えていたとされるのが、尾張の大豪族・尾張連です。
当時、尾張では東海地域最大級の断夫山古墳を始め、巨大な古墳が数多く作られていました。
その尾張の大豪族の娘を男大迹王は妃にしていたのです。
近江、越前、尾張・・・広大な地域の豪族たちに支えられていたことこそ、男大迹王が大和政権の新たな主に選ばれた理由でした。
男大迹王の力の源はそれだけではありませんでした。
故郷高島にある鴨稲荷山古墳には、男大迹王の親族が葬られた石の棺の中から金で出来た靴や冠が出土しています。
これらは朝鮮半島からもたらされたものと思われます。
伽耶、百済の王墓から出てくる物に非常に近いのです。
この朝鮮半島とのつながりも、後継者に選ばれた要因の一つではないかと思われます。
5世紀以降、越前、近江、若狭といった日本側沿岸地域は、朝鮮半島との交流が非常に活発でした。
継体天皇の基盤には「対外交渉」朝鮮半島とのつながりがあったのではないか?と思われます。

朝鮮半島には、男大迹王と密接な関係を持った人物がいました。
朝鮮半島西側の国・百済の武寧王です。
武寧王は、北の強国・高句麗の攻撃を撃退し、20年以上にわたって王として君臨した古代朝鮮の実力者です。
その武寧王が、男大迹王に送ったとされる品が残っています。
和歌山県・墨田八幡神社に伝わる国宝・人物画像鏡です。
この鏡の背面に、興味深い銘文が刻まれています。
送り主の名は斯麻=武寧王、男大迹王の長寿を祝ってこの銅鏡を送るとあります。
送った年は503年・・・男大迹王が後継者に選ばれる前です。
つまり、男大迹王は即位前から百済の武寧王とつながりを持っていたと考えれます。
日本書紀には、地方にいた王族とだけ記されている男大迹王・・・しかし、その実像は、各地の豪族と朝鮮半島の百済に支えられる大実力者だったのです。

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遠く離れた越前の地から武烈天皇の後継者に選ばれた継体天皇・・・
507年に即位します。
しかしなぜか、政権の本拠地に入ることはありませんでした。
最初に宮を築いたのは・・・507年樟葉宮・・・琵琶湖から流れる淀川のほとりでした。
継体天皇はここで即位し、およそ5年過ごすことになります。
その後も・・・511年筒城宮、518年弟国宮・・・と相次いで宮を築きますが、いずれも大和ではありませんでした。

日本書紀にはこう書かれています。

”継体天皇は、内心、自分が選ばれたことに疑いを持っていた”

これは、即位に反対する勢力がいると考えていたと読み取れます。
この頃、大和の豪族たちは大きく東西の二つの勢力に分かれていました。
継体天皇を推挙した大伴・物部など大和盆地の東に基盤を持っていました。
西側には、彼らと一線を画す葛城氏の拠点となっていました。
全長200m近い大型の古墳が連なる馬見古墳群・・・これらは、葛城氏が築いたものとされています。
継体天皇の10代前、仁徳天皇の頃から天皇の后を出し続けており、彼らが新参者の即位に反対し、継体天皇の大和入りを阻んでいたとも考えられます。

それとも、敢えて大和に入らなかった・・・??
大阪府交野市には森遺跡があります。
そこからは、継体天皇が即位したころの鍛冶工房跡が見つかっています。鉄を加工する鍛冶炉・・・炉に風を送る鞴の一部も見つかっています。
この辺りは、古墳時代の鉄器を加工していた遺跡が東西2キロ、南北500mの範囲で見つかっています。
6世紀に入って、鉄器加工を集中的に行っていた場所です。
当時、倭国に製鉄技術はなく、朝鮮半島から輸入した鉄の地金を加工して使っていました。
戦略物資である鉄器生産の中心地が、継体天皇最初の地・樟葉宮の近くにあったのです。
その後、継体天皇は拠点を移し二つの宮を築きましたが、いずれも淀川水系にありました。
淀川は、大阪湾にそそいでおり、そこから瀬戸内海を通じ九州から朝鮮半島につながる・・・
南部の伽耶は、倭国が輸入する鉄の産地でした。
継体天皇は、戦略物資である鉄の輸入ルートと加工の場を共に手中に収めていたのです。

526年、継体天皇はようやく奈良に入り、奈良盆地南東部に磐余玉穂宮を置いて、名実ともに大和の大王となりました。
即位から20年近くも後のことです。

ようやく大和入りした継体天皇・・・
倭国の王として混乱する国の立て直しを行うこととなります。
しかし、その前には大きな問題が立ちはだかっていました。
舞台は九州・・・!!
北部九州最大の岩戸山古墳・・・墳丘の長さは138m、高さ20m・・・6世紀前半の古墳としては、全国有数の規模を誇ります。
この古墳の主は筑紫君磐井・・・継体天皇と同じ時代、北部九州一帯に勢力を誇ったとされる豪族です。
磐井の本拠地は、現在の福岡県八女市・・・八女古墳群と呼ばれる300もの古墳が点在し、岩戸山古墳はその中心に位置しています。
磐井の力を示すのは古墳の大きさだけではなく・・・古墳の周りの埴輪・・・岩戸山古墳は埴輪ではなく石で作られた”石人石馬”と呼ばれるもので、古墳の周りに配置されていました。
岩戸山古墳からは、石製品が100点以上も見つかっています。
石工・・・石製品を作る職人集団を九州中から集めていました。
北部九州を掌握していた磐井は、大量の石人石馬を並べ、自らの威厳を誇示するようになっていました。
そんな磐井の勢力は、九州だけにとどまりませんでした。
朝鮮半島とも結びついていたのです。
岩戸山古墳にほど近い古墳では伽耶系の耳飾りが、磐井と関係の深かった久留米の古墳では新羅系の土器が見つかっています。
百済、新羅、伽耶・・・様々な社会と複数のパイプを持つ有力者・・・
衰えた大和政権の立て直しを図る継体天皇・・・
九州で自立の動きをする磐井にどう向き合うべきか・・・??

磐井と手を組む・・・??
それとも、見せしめとして磐井を滅ぼす・・・??
どうする・・・??

継体天皇が葬られたとみられる今城塚古墳・・・
墳丘の長さは、磐井の墓の1.4倍、当時最大級の古墳です。
ここで彼の選択にまつわるものが発見されました。
それは、今城塚古墳から大量に出土した円筒埴輪・・・船の絵が意識的に書かれています。
三日月形の船体に2本マストが立っています。
これは、大型輸送船をモチーフに書いていると思われます。
古代最大の兵員輸送・・・6万人の兵を送り届ける!!
継体天皇の選択は、磐井を滅ぼすでした。

527年~528年、磐井の乱。
6万人もの兵を導入して、磐井との戦いに乗り出しました。
大将軍・物部麁鹿火率いる軍勢が、磐井の軍と筑紫三井郡で激突!!
結果は大和軍の圧勝でした。

”天皇の命に従わず、無礼であった磐井を物部らは殺した
 官軍の怒りは収まらず、石人の手を打ち折り、石馬の頭を打ち落とした”

今城塚古墳からは、戦いの後、継体天皇の力が全国に及んでいたことを示すものが発見されています。
阿蘇ピンク石は九州で採掘され・・・赤い顔料(水銀朱)がついていて、神聖な色でしばしば石棺に塗布されています。
はるか遠くにある石をどうして使ったのか・・・??
阿蘇ピンク石の産地である熊本県宇土市・・・馬門石と呼ばれています。
自分の権力や財力を、いかにして見せつけるのか・・・??

「我々は、あんな遠い勢力とつながりがある
 重いものを運んでくれる
 それほど自分達には力がある」

と、誇示したかったのです。

運ぶことによって、40~50カ所の豪族が受け入れる・・・王権の一翼を担っていると認識できます。
九州全体が自分になびいていくきっかけにもなります。
継体天皇にとって、大事な契機となりました。

磐井を倒し、大和政権の立て直しに成功した継体天皇・・・
日本書紀では磐井を倒して3年後の531年に崩御。

今城塚古墳では、発掘の結果200体もの埴輪が50mにわたって並んでいたことが分かっています。
強大な権力を手にした大王を送る厳かな儀式のありさまを伝えています。

地方からスカウトされ、衰えた大和の力を復活させた継体天皇・・・
今、その実像に新たな光が当てられています。


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