日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

2.26事件、阿部定事件と世間を震撼させる事件が続いた続いた昭和11年・・・
1枚のレコードが話題となりました。
「お伝地獄の唄」です。
愛する男のために罪を犯したその女性の名は・・・明治の初めに毒婦と言われた実在の人物・高橋お伝でした。
彼女は本当に毒婦だったのでしょうか?

明治9年8月26日夕刻・・・東京蔵前に会った旅館・丸竹に一組の男女がふらりと入ってきました。
身なりの立派な中年の男は古物商・後藤吉蔵、その隣にいた粗末な格好をした女が高橋お伝、この時26歳でした。
二人は2階の部屋にあがると夜の10時ごろまでお酒を飲んでいたといいます。
8月27日朝・・・二人がなかなか起きてこないので声をかけると・・・
「悪いモノを食べたようで、具合が悪いのでしばらくこのまま寝かせてくださいな。」
傍らには、明け方にお伝が殺した吉蔵が横たわっていました。
お伝は血にまみれた吉蔵の首を布団で隠し、部屋を出る支度をはじめます。
8月27日夕方・・・お伝は女中に、
「私はちょっと出かけてきます。
 主人はまだ調子が悪くて寝ていますので、決して起こさないように・・・」
そう言って、勘定の1円を先払いすると、出かけていきました。
8月28日朝・・・しかし、お伝は帰ってきません・・・
男も起きてこないので、女中が男のところに行くと・・・全く起きないので布団をめくってみると、首を切られ血まみれになった死体が・・・!!
女中は部屋から飛び出してすぐに警察に通報!!
しかし、二人は偽名で泊まっていたために身元がわからず・・・
余りにも凄惨な殺人現場・・・枕の下から書置きのようなものが・・・

”この者に5年前に姉を殺され無念の日々を暮らしてきましたが、ついに仇を討ちました
 姉の墓参りを済ませたら出頭します
 逃げも隠れもしません”

この殺害は仇討だった・・・??
しかし、これは巧妙な偽装工作だった・・・??

仇討と言えば、世間の同情もひき、捜査の手も緩むだろう・・・。
仇討は、江戸時代までは公認されていましたが、地方制度の整備によって、お伝の事件の3年前の明治6年に禁止令が発布されていました。
しかし・・・禁止令が出されても、お伝の事件はそれから間もなくのことだったので、仇討に同情的で・・・この前に土佐で起こった仇討は無罪になっていました。
墓参りが済めば出頭しているのではないか・・・??
警察も同情的で、出頭するのを待ち、捜査もろくにしませんでした。
しかし、数日後、事件は予想外の展開を見せます。
後藤吉蔵の妻から「夫が帰ってこない」と通報が入ったのです。
容貌や服装から、蔵前の遺体が吉蔵であることが判明・・・しかも、家を出る時に持って出ていた所持金11円がなくなっていることもわかりました。
事件は仇討から強盗殺人に切り替えられ、捜査を開始!!
人相書きを作り、お伝を探します。
すると。。。よく似た女が東京の新富町にいたという情報が入り・・・しらみつぶしに捜索が・・・
そして、明治9年9月9日、警察は知人宅に潜んでいたお伝を発見し、そのまま逮捕!!

お伝はどうして吉蔵を殺してしまったのでしょうか?
強盗殺人で捕まったお伝は、市谷監獄に収監されます。
当時は物的証拠よりも自白が重要視されていたので、取調べは厳しく拷問も当たり前でした。
しかし、お伝はなかなか自白しないばかりか・・・恋人に手紙を書いています。
仮釈放にしてもらえるように、権威のある人に力を貸してもらえるように恋人に頼んだのです。
さらに、新聞記事によれば・・・助かりたい一心で、供述をころころ変え、そのたびに供述書に拇印を押していたといいます。
そんな中で、一貫していたのは「姉の仇討」ということでした。
「私は旧沼田藩の家老・広瀬半右エ門の娘です。
 母・春が広瀬家に出入りいている際に、半右エ門の手がつき生まれたのが私でした。
 そして、半右エ門にはもう一人娘がいて・・・それが姉のかねです。
 そして、このかねの旦那こそが、にっくき後藤吉蔵なのです。
 吉蔵は5年ほど前、理由はわかりませんが、姉を刺し殺してしまったのです。」
 だから、その仇を討ったのだと言い張ります。
しかし、調べてみると沼田藩の広瀬家にはそんな事実はなく・・・
姉がいるというのも作り話でした。
お伝は確かに沼田藩・・・嘉永3年に上野国下牧村で生まれました。
父親は高橋勘左衛門という浪人でした。
母・春は嫁入り前に身籠っていて・・・それを承知で器量の良い春を娶っていました。
そして春はお伝の父親について決して話さなかったといいます。

春が身籠っているのを承知で娶った勘左衛門でしたが、お伝が生れてわずか2か月で春を離縁してしまいます。
このことを、取調べで勘左衛門は語っています。
「春はどうにも我儘が強くてね
 自分の気に適いませんでした。」
この母の性格をお伝は受け継いでいました。
お伝は子供のいなかった勘左衛門の兄・高橋九右衛門に養子に出されてしまいました。
九右衛門はたくさんの田畑を持ち、農業の傍ら造り酒屋を営んでいたので裕福でした。
実の子のようにかわいがられたお伝・・・14歳になった時、九右衛門の勧めで百姓の宮下要次郎を婿にとります。
ところが・・・甘やかされ我儘に育ったお伝は、真面目が取り柄の要次郎をどうしても好きになれず、夫を残して家を飛び出し、料理屋の住み込み女中となってしまいます。
九右衛門が連れ戻しに行っても、要次郎のいる家には帰らないと駄々をこねるばかり・・・
結局、九右衛門が根負けし、要次郎との離縁を受け入れました。
お伝の最初の結婚生活は、わずか2年半で終わりを告げたのでした。
我儘なお伝を造り酒屋に奉公に出した九右衛門・・・
しかし、九右衛門にとっては可愛い一人娘・・・20日ほどで許されて・・・17歳の時2人目の婿を取ります。
親類でもある高橋波之介でした。
働き者で色男・・・お伝にとっては理想の亭主でした。
義父からもらった田畑を共に耕しながらつつましく暮らしていました。
しかし、その幸せも長くは続きませんでした。
「1年半が過ぎた頃、夫がレプラになってしまいました。」
レプラとは、ハンセン病のことで、らい菌による慢性感染症のことで、主に皮膚と末梢神経に病変が生じます。
現在では治療法が確立していましたが、当時は不治の病で感染すると信じられていました。
それでもお伝は献身的に看病しました。
わが身をも省みずに看病するお伝でしたが、波之助の病状は良くならず・・・生活も困窮していきます。
田畑を担保に借金をして凌ぐ日々が続きます。
病気のせいで村人からも疎まれていた二人は、村を出る決意をします。
おでんは義父に「必死に働いてお金は返すつもり」と書置きをし、故郷を捨て、波之助と共に東京に向かいます。
二人は東京・馬喰町の旅館に落ち着き、お伝は雇い奉公をして生活を支え、波之助の治療法を必死に探します。
日本に最新の医療を持ち込んだヘボンの治療を受けようと、横浜に移り住んだこともありました。
お伝は治療費や生活費のために身を粉にして働きます。
時には娼婦として路上に立ったことも・・・。
波之助を助けたい一身でした。
惚れた男にはとことん尽くす・・・それがお伝でした。

運命とは残酷なもので・・・お伝の必死の看病もむなしく、波之助の病状は悪化の一途をたどり・・・
明治5年9月・・・遂に帰らぬ人になってしまいました。
深い悲しみに暮れるお伝・・・故郷には借金もあって帰れない・・・
しかし、身寄りのない都会で、女性が一人で生きていくのは容易なことではありませんでした。



お伝は、当時羽振りの良かった絹商人・小沢伊兵衛の愛人となり、なんとかしのいでいました。
そんな中・・・運命の人と出会うのです。

「麹町にいたところ、小川市太郎という男と知り合い、すぐに夫婦同然となって商いをはじめました。」

小川市太郎は尾張藩士の子弟でしたが、明治維新で失業し、お伝と出会ったことは遊び人に身を落としていました。
しかし、根はやさしく何よりも色男だったので、お伝は惚れこんでしまいました。
二人は一太郎が借りた金を資金に仲買業を始めました。
お伝は関東一円を飛び回ったといいます。とても仕事熱心でした。
今度こそ幸せを・・・と、働きますが、市太郎は遊び惚けてばかり・・・
なかなか軌道に乗らず、生活は困窮を極めていきます。
明治9年・・・二人は茶葉の取引に失敗し、大きな損失を出してしまいます。
住むところも失っていよいよ首が回らなくなった二人は、新富町に住む友人・穴倉佐太郎に同居を申し込みます。
とても人情深い男で、二人の食事まで用意してくれました。
うまくいかない事業・・・借金・・・お伝の人生は大きく狂っていきます。

高橋お伝はどうして人を殺めてしまったのか・・・??
働かない恋人の小川市太郎の代わりに、お伝は内職をして当座をしのいでいましたが、その傍らで街角に立ち体を売っていました。
それでも商売で作った借金は一向に減りませんでした。
心身ともに追いつめられたお伝は、商いの相手だったともいわれている古物商の後藤吉蔵を訪ねます。
羽振りの良かった吉蔵に、200円の借金を申し入れるお伝。
平均年収が160円ほどだった時代、200円は今の500万円に相当します。
なかなか首を縦に振らない吉蔵・・・。
しかし数日後・・・
明治9年8月26日、吉蔵は突然態度を変えます。
お伝に金を貸すようなそぶりを見せると・・・
「どこかで一泊しないか」
藁にもすがる思いでお伝は吉蔵の誘いを受けいれ・・・
蔵前の旅館・丸竹に・・・。

そして吉蔵に言われるがままに体を委ねるのです。
翌朝事件が起こります。
お伝は寝ていた吉蔵をおこし、もう一度借金を申し込みますが・・・
吉蔵は悪びれる様子もなく「貸せない」と、冷たく言い放ち、再び眠ってしまいました。財布を見てみると11円しかありません。
弱みに付け込まれ、もてあそばれただけ・・・悔しい!!
するとお伝は突発的に持っていたカミソリで吉蔵の喉を掻っ切ってしまいました。
この時、狂気となったカミソリ・・・事件の6日前に家から無くなっていたものでした。

吉蔵を殺した翌日、帰ってくると・・・
「いつものように横浜に行っていとこにあってきましたけど、思ったほど金策ができませんのよ。」
そしてその翌日、久し振りに丸髷を結って簪を差しおめかししていました。
これが最後の幸せな時間でした。

明治11年10月・・・お伝の自白は得られないまま、証拠は十分として取調べが終わりました。
お伝は、結審に当たって市太郎、九右衛門との面会が許されます。
涙ながらにこう言いました。
「自分は近いうちにお仕置になると思う
 お仕置の日は、もう一度会いに来てほしい」
そして明治12年1月・・・お伝に判決が下されます。
罪状は、色仕掛けで金を巻き上げようとしたがうまくいかなかったので殺した強盗殺人・・・
言い渡された刑は・・・「斬」・・・斬首刑でした。
極刑である斬首刑は、古代から死刑の一つとして認められてきました。
江戸時代になって8代将軍吉宗が定めた”公事方御定書”によって法制化されます。
斬首のみ・・・殺人
        10両以上の窃盗
        他人の妻との不義密通
        殺人犯逃亡の手助け
に課せられ
斬首+獄門(晒し首)・・・主殺し
               親殺し
               関所破り
               公儀に対する重い諜計

江戸幕府が消滅し、明治の時代になっても斬首刑は行われていました。
しかし、世の風潮は変わりつつありました。
明治時代になって刑法制度の改革が行われ、火あぶり、磔などの残虐な方法は廃止されるようになりましたが・・・
重罪には斬首刑は行われていましたが・・・
しかし、国際社会と歩調を合わせることが急務な当時の日本において、欧米諸国と足並みをそろえるためには古い制度をやめて新しい制度に代える必要がありました。

明治6年切腹廃止
   9年廃刀令発布
斬首刑もまた時代遅れの刑として廃止を求める声が高まっていました。
そんな中、お伝は最後の斬首刑に処せられることとなるのです。

明治になって急速に近代化が進むと、刑罰や処刑法も見直されました。
そんな中、人ひとりを殺し、11円を奪ったお伝は斬首刑という判決を受けます。
お伝の判決は妥当だったのでしょうか??
この時代、強盗殺人に対しては、死刑が言い渡されると決まっていました。
裁判では法律に基づいて死刑、斬首刑を言い渡したとなります。
もう少し、近代化が早かったなら、代わっていたのでは??

・市太郎との生活で借金が重なった
・吉蔵の言いなりにならざるを得なかった
・吉蔵は約束を反故にした
・カッとなって殺してしまった

これらは量刑を考えるうえで、斟酌すべき事情に当たると言えるでしょう。
近代刑法の制定後なら、斬首されることはなかったでしょう。

明治12年1月31日、市谷監獄でお伝の処刑が行われました。
「高橋お伝の断末魔は、誠に見苦しいとりみだしたものであった。」
結審後の面会で、市太郎は必ず最期の日には会いに来ると約束していましたが、来ませんでした。
激しく狂うお伝を、補佐役の役人が力づくで抑え込むと、処刑人が一気に刀を振り下ろしました。
しかし、刀は外れ、お伝の後頭部に・・・!!
お伝は観念したかのように念仏を唱え始めました。
そして・・・
明治12年1月31日、高橋お伝死去・・・この時お伝は29歳でした。

最愛の人、小川市太郎が市谷監獄を訪れたのはその翌日でした。
そしてお伝が処刑された翌年・・・明治政府は新しい刑法を指定し、お伝の処刑後は斬首刑は一度も行われなかったので、日本で最後に斬首刑になった人となったのでした。
人を殺め、嘘をつき、罪を最期まで逃れようとしたお伝の行為は確かに悪女と呼べるものかもしれません。
しかし、毒婦というのは・・・??
どうして??
処刑後、お伝の遺体は浅草にあった警察の病院に運ばれ解剖されることに・・・
名目は「犯罪者の体にある生理学上の特異性の調査」でした。
おでんの体は4日間に分けて細かく徹底的に調べられました。
その所見は・・・「局部の異常発達」
おでんの局部は切り取られ、サンプルとしてアルコール漬けにされます。
どうしてお伝の局部は標本にされたのでしょうか?
それは美人で男を取り込む要素を持つ女性・・・ということで、医者の興味本位で標本にされてしまったのです。
今から思うととてもひどいものですが、当時としては見せしめとして同情はほとんどなく・・・
局部の異常発達は、性欲が強いためと決め付けられ、異常性欲の殺人者のレッテルを貼られてしまったのです。
死後もお伝の悲劇は続きます。
処刑から3か月後には当時の戯作者仮名垣魯文がお伝をモデルにした「高橋阿伝夜叉譚」を発表。
その中でお伝は後藤吉蔵を殺しただけではなく、他に二人の男を毒殺しようとしたと書かれました。
そして毒婦であると印象付けるために、作品には毒という文字が21回も使われたのです。
その1か月後には歌舞伎も上映・・・人気役者で話題となりましたが、時代設定は江戸時代になっていましたが、ここでもお伝は各地を放浪しながら悪事を重ねた毒婦にされ、吉蔵から奪ったお金も200両と誇張されました。

その後もお伝は様々な作品のもモデルとなったことで、稀代の毒婦になってしまいました。
類まれな美人であったために、マスコミの餌食とされてしまったのです。
マスコミが作り上げた毒婦像だったのです。
お伝の遺体は・・・頭蓋骨は何者かによって持ち去られ、巡り巡って浅草に住む漢方医のもとへ・・・
そして、事件から10年が過ぎた明治22年3月・・・この漢方医のもとへ40歳代の男がやってきました。
それは僧侶となった小川市太郎でした。
お伝が最期まで名前を呼んで愛した最愛の人でした。
お伝の亡骸を見せてもらった市太郎は、涙に暮れていたといいます。
お伝は好きになった男にはとことん尽くした男でした。

嘘で固められてしまった人生・・・その中で唯一の真実・・・それは市太郎への思いだったのかもしれません。
まさに流転の人生でした。
東京台東区にある谷中霊園・・・ここにお伝の墓碑があります。
3回忌の際、お伝をモデルに小説を書いた魯文の発案で立てられたもので、出資者には演じた歌舞伎役者たちも名を連ねています。
この墓碑には古くから不思議な言い伝えがあり、お参りをすると三味線が上達すると言われていて・・・
今でも花を手向ける人が絶えません。
しかし、お伝が三味線を弾いたということはどこにもありません。

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秘密の闇に隠されたお宝ロマン・・・現代に残された巨大な謎・・・それはナチス黄金列車でした。
2015年8月、ポーランド・ワルシャワにて・・・衝撃のニュースが発信されます。
「私が思うには、列車は99%埋まっています」byポーランド文化・国家遺産省・ジュコフスキ副大臣
ポーランドで地下に埋められた列車・・・
謎のナチス黄金列車発見か??
ヒトラーの秘密の黄金列車??!!
第二次世界大戦末期、黄金など300tの財宝を積んだ列車をナチスドイツがどこかに隠したのか??
その幻の列車の隠し場所は、戦後70年を経て判明したのか??

黄金列車発見か?となった発信地は、ポーランドのバウブジフ。
この町は、第二次世界大戦のさ中、ナチスの支配下にありました。
その頃に生まれ、語り継がれているのがナチスの黄金列車伝説です。

バウブジフを通る鉄道路線・・・線路わきの土手に・・・??
第二次世界大戦の終わりごろ、その辺りで列車を埋める作業に関わったとある老人が証言を残したのです。
その証言をもとに、レーダーなどで調査したところ、地中に列車のような反応を確認・・・
ここに、長さ100m級の列車が埋まっていると発表されたのです。

トレジャーハンターに聞いてみると・・・
レーダーで確認すると、自然の物体ではなく左右対称の人工のものが埋まっている・・・!!
その形は、第二次世界大戦の装甲列車が軍用列車のようにも見えました。
車両の大きさや、レーダー画像と一致するというのです。
ここに黄金や宝石など高価なものを載せていた可能性があるというのです。
100mもの列車をどのようにして埋めるのか??
現場には、元々トンネルが存在し、そこに列車を引き込んで、トンネルを爆破して丸々埋めてしまう!!
こんな大胆な隠蔽工作が、本当にあり得るのでしょうか?
ここから3㎞ほど離れたクションシュ城で、大工事が行われていました。

アドルフ・ヒトラー・・・自ら率いるナチ党を、ドイツ国家と一体化させ、独裁者として君臨。
ヨーロッパで領土拡大を重ね、第二次世界大戦を引き起こした張本人・・・
ナチス・ドイツは、このクションシュ城を第二次世界大戦中手に入れ、秘密基地として改修工事を行っていました。

城内のヒトラーの部屋から通じる秘密の扉・・・
その向こうに作られていたのは、専用のエレベーター・・・2基のエレベーターは、1944年に作られました。
完成すれば、地下50mまで降りることができました。
その地下には、巨大なトンネルが・・・現在残っているトンネルの長さは1km。
一説によると、ベルリンまで直通の専用列車を計画していたともいわれています。
これほどの大工事があったのなら、列車を丸ごと埋めたというのも信じられる・・・??

しかも財宝を満載した黄金列車・・・という伝説を裏付ける根拠がもう一つあります。
ナチスドイツがヨーロッパに作った巨大な鉄道網です。
ナチスドイツは、多数の物資を一度に運べる列車に注目・・・
1937年、鉄道を国家直営とし、あらゆる輸送を可能にしました。
大勢の兵士や武器を前線に送り届ける軍用列車、ヒトラー自身も専用の特別列車を作らせ動く司令本部としました。
莫大な金銀など財宝を運ぶ黄金列車が存在したのか??
ナチスの財宝は、ヨーロッパ各地で数多く隠されているという。
現代のポーランドで俄によみがえったナチス黄金列車と秘密の財宝伝説・・・その謎は・・・??

ナチスが略奪した財宝・・・
琥珀の間は、現在の価値で数百億円と言われ、財宝の中の財宝です。
ソビエトのエカチェリーナ宮殿に置かれていたものを、1941年ドイツ軍が略奪しました。
その後、空襲で燃え尽きてしまったが・・・密かに運び出され、人知れずどこかに眠っているという噂は絶えません。
そして、今でもヨーロッパでは、ナチスの財宝が発見され続けています。

2014年ドイツ北部のリューネブルク。
かつて岩塩の採掘で栄えた古い町並みの残る地方都市です。
ナチスの財宝を発見した人は、金属探知機で文化財の調査をしていました。
地元の考古学者から、古いお墓と思われる場所の調査をされたのです。
ある木の根元付近で金属探知機が反応・・・しかし、たいていは金属のゴミのことが多いのですが・・・
そこには1枚の見慣れない金貨がありました。
そして立て続けに9枚も・・・!!
翌日、役場の担当者、考古学者と調べてみると・・・2mほど掘り進んだところに・・・!!
金貨を集めるのに10日ほど・・・発掘されたのは19世紀から20世紀初頭にかけての古い金貨217枚!!
現在の価値にして550万円に当たります。
更に金貨入りの袋を閉じていたと思われるアルミ製の封印には、ナチスの鉤十字が!!
まさに、ナチスの財宝だったのです。

ナチスの財宝の多くは、1945年第二次世界大戦のドイツ敗北の頃に続々と発見されました。
チューリンゲン州メルカースの岩塩を採掘した穴には、金塊が8000個以上・・・全部で100tも隠されていました。
現在の価格でなんと5000億円!!
大量の指輪は、チューリンゲン州の強制収容所近くで発見されました。
囚人たちから奪ったものと思われます。
国家予算に匹敵するほどの隠し財産の多くは、ナチス・ドイツが略奪によって手に入れたものだとされています。
ナチスドイツが他国を占領した目的の一つは、その国が貯蓄している金を略奪することでした。
ドイツの利益のためというよりも、戦争を行う資金を調達するためです。
略奪と戦争・・・ヨーロッパ制圧の野望を実現する為に・・・!!

1939年9月1日、ドイツ軍は突然、隣国ポーランド侵攻。
第二次世界大戦がはじまりました。
周辺の国々を瞬く間に侵略する圧倒的な軍事力・・・
それを支えたのが、戦争を始める前から段階的に行ってきた略奪経済でした。
戦争開始の1年半前の1938年3月、ドイツは隣国オーストリアを外交圧力によって併合。
この時、オーストリアの国立銀行をドイツが吸収するという法令を出し、金1800億円をドイツへ!!
合法的にドイツの国家財産としました。
1939年にはチェコを保護領とすると、チェコ国立銀行の取締役を脅迫し、800億円相当の金をドイツへ譲渡させます。
こうして他国からの奪略を財源とし、第二次世界大戦を開始するや否や、占領したオランダ、ルクセンブルク、ベルギーからも金を略奪。
国家資産を1兆円以上も増やし、戦線を拡大させていきます。
略奪と戦争を一体化させた経済政策という恐ろしい国家運営を進めたのです。
更にナチス・ドイツは戦争の費用を生み出すために、個人・・・特定の民族から財産を略奪していきます。
狙われたのは、憎しみの対象となっていたユダヤ人でした。

1938年11月9日、11月ポグロム・・・
ドイツ全土で、ナチ党の党員や一般市民がユダヤ人に対し、暴動を起こしました。
数百ものユダヤ教教会堂に火が放たれ、7500ものユダヤ人商店が襲撃されるというすさまじいものでした。
これをナチ党の指導者たちは悪用します。
暴動の原因はユダヤ人側にあるとし、10億マルクの税金をユダヤ人社会全体に課しました。
依田屋人は全財産の25%を税金として納めよ!!
という法令まで発布!!
合法的な略奪を行っていきます。
新たな法律によって・・・
1938年11月 宝石美術品
1939年 2月 貴金属
1940年11月 カメラ、望遠鏡
1942年  1月 毛皮、ウール
貴重な財産をユダヤ人から奪い続けます。

ポーランドにあるアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所・・・ナチスドイツはこのような6カ所の強制収容所に財産を絞り尽したユダヤ人たちを送り込みます。
ここでは最後の略奪が行われました。
ユダヤ人の遺体から抜き取った金歯の山・・・金塊へと加工し、国家財産へ!!
ヨーロッパ隠されに隠され、伝説として私たちを引き付けるナチスの財宝は、こうして生み出されたものなのです。

ナチスドイツの略奪は、極めて合法的、組織的に行われました。
ナチスドイツの考え方としては、ユダヤ人の富は、ドイツ人に寄生して蓄えたと考えています。
だから、ユダヤ人からドイツ人が取り返すとなるのです。
当時はアーリア化と呼ばれ、ユダヤ人の土地・事業を売却し、所有権をドイツに移行していくのです。

問題なのは、国家的に特定の集団を収奪したことで、その手段は、税金・・・。
ユダヤ人に特別税を課し、いくら不法・不当であっても国家が課す以上払わないといけない仕組みになっています。払わなければ処罰されるのです。
合法的にユダヤ人の富を吸い上げることが可能となるのです。



財産税は持っている財産の25%・・・出国税25%・・・すべて吸い上げて身ぐるみをはいで海外に移住させる・・・強制収容所に送るシステムでした。

普通の法律は倫理的に正しいのですが、しかし、ここにおける合法的は、非倫理的な法律を作り、合法的な行為をして国家が行っていたのです。
アウシュビッツへドイツの国鉄で連れてくる場合、1キロ当たり4ペニヒ(約20円)を取っていました。
それが、当時の国鉄の収入の5割を占めていました。
平時の経済の中に「収奪」がシステムとして入っていたのです。
従順なユダヤ人は収奪を手伝わされました。
嫌だけど・・・やっている間は生きていられるかもしれない・・・極限の状態でした。

服従・・・「自分は不本意」の感覚がある
同調・・・やはり少し「不本意」の感覚がある
同一視・・・嫌なことを美に感じる

一般市民たちは、最初は「ユダヤ人気の毒」と思っていても、繰り返しているうちに「やっぱりユダヤ人は悪いし・・・」と変わって正当化されていくのです。

略奪によって集められた莫大な財宝を乗せてどこかにあるというナチス黄金列車伝説・・・
第二次世界大戦当時、実在した黄金列車がありました。
「ハンガリーの黄金列車」です。
50両の貨車に金塊や宝石類、財宝を積み込んで・・・その総額はおよそ3億ドル・・・なんと4700億円に当たるといいます。
しかし、その輝きとは逆に、ハンガリー黄金列車には、略奪の連鎖という人間の闇が隠されていたのです。

ハンガリー黄金列車の悲劇①
略奪されたユダヤ人の財宝
第二次世界大戦でハンガリーはドイツと共にソビエトと戦いました。
しかし、政治的にはドイツと距離を置いていました。
首都ブダペストの人口の1/5を超える16万7000人のユダヤ人は、経済活動に重要な役割を果たしていました。
そのため、ハンガリー政府は、ドイツからのユダヤ人引き渡し要請に協力を拒んでいたのです。
しかし、1944年1月、スターリン率いるソビエトは攻勢を開始すると、状態は一変!!
1944年3月、ハンガリーはソビエトへの寝返りを疑われ、ドイツによって軍事的に制圧されるのです。
ドイツの傀儡政権となった・・・ナチスの「略奪経済」を採用し、ユダヤ人財産の差し押さえを開始!!
従順なほどに提供するユダヤ人たち・・・「あとで戻す」・・・為政者が理不尽な略奪に人びとを従わせるカギがありました。
一連の法案の初期の段階では、財産の内容を報告することが義務づけられていました。
財産は管理され、戦争が終われば戻されるという印象を与えながら実際は押収・・・。
ユダヤ人も財産を手渡せば、これ以上のひどい目には遭わないと信じていました。
しかし、それは全くの幻想だったのです。

ナチスドイツの制圧からわずか4か月・・・およそ44万人のハンガリー系ユダヤ人はアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所に移送・・・
今、理不尽な命令に従っておけば、あとで穏便に元の状態に戻れる・・・そう信じた人々にあとは来ませんでした。

持ち主の失われた莫大な宝石や貴金属・・・これら略奪品は、一旦ハンガリー政府に納められるものの、すぐに別の場所へ・・・。
その積み込まれた先は、黄金列車でした。

ハンガリー黄金列車の悲劇②
相次ぐ”略奪の連鎖”
1944年9月、ソビエト軍ハンガリーへ侵攻・・・首都ブダペストに近づいてきました。
ソビエト軍の略奪を恐れたハンガリー政府は、国家資産をドイツへ避難させ始めました。
工業製品など様々な国家資産を積んだ列車が次々とドイツに向かいます。
列車の便は1000本にも上りました。
そんな中、ハンガリー政府が秘密裏に用意した列車がありました。
ユダヤ人から略奪した財宝を非難させるための特別列車でした。
12月15日、金塊や宝石類、高価なじゅうたんなどの4700億円相当の財宝を積んだ48両の列車がブダペストを出発!!
その後、国境の町ブレンベルグバーニャに3か月停車。。。この停車中、財宝は仕訳けられ、周辺で略奪した財宝も運び込まれました。
ところがこの間に、戦争の状況は大きく進み、黄金列車は窮地に立たされます。
ソビエト軍はハンガリーの大部分を占領し、黄金列車に迫っていました。
一方西からはアメリカを中心とした連合軍が、ドイツ本国へ侵攻。
当初はドイツに逃げ込むはずだった黄金列車は、ヒトラーのアルプス要塞と噂されていたオーストリアのザルツブルク方面へと向かいます。
ところが・・・3月29日、最初の事件が起こります。
財宝のうち、仕訳けられたダイヤモンドや金などの高級品が多数持ち去られたのです。
持ち去ったのは、財宝の管理をしていたハンガリー憲兵隊のトルディ・アールバード大佐でした。
トルディ大佐は、自分が車で先行し、列車が進めるように段取りをつけてくると称し、なぜか40箱以上の財宝と共に姿を消したのです。
指揮官自らが財宝を持ちだしたのを皮切りに、黄金列車は人々の欲望を引き寄せるかのように略奪の危機にさらされます。
軍隊の襲撃・・・しかも味方であるはずのドイツ軍の兵でした。
一体どうして・・・??
1945年4月16日、ベルリン総攻撃!!
5月2日、ソビエト軍に攻め込まれ、遂に陥落!!
略奪経済で人々を従え、ヨーロッパを戦火に巻き込んだアドルフ・ヒトラーも4月30日に自殺!!
5月10日、国家の後ろ盾を失ったドイツ兵は、黄金列車へと群がったのです。
さらに・・・国破れ敗北者となって彷徨う列車には、民間人や鉄道員までが財宝に殺到!!
ユダヤ人から略奪した財宝は、略奪される側へと転落!!
その忌まわしい略奪の連鎖は、数十年後の現在まで影響を及ぼしていき、予想しない事態に発展していきます。

ハンガリー黄金列車の悲劇③
現代まで残る略奪の傷
1945年5月、ドイツ敗北!!
混乱の時代、ユダヤ人から略奪した財宝を乗せ国外脱出しながらも逆に略奪の的として狙われたハンガリー黄金列車・・・窮地に立たされた指揮官たちの苦渋の選択は・・・アメリカ軍への幸福でした。
ソビエト軍や敗残ドイツ兵に略奪されることよりも、アメリカ軍に平和的に保護を求めることで、ルールにのっとった管理下に置かれる道を選びました。
1945年5月11日、ハンガリー黄金列車はアメリカ軍が接収・・・財宝も連合国軍の管理下に入りました。
ところが・・・略奪の連鎖は止まりません。
アメリカ軍兵士たちが財宝を私物化!!
最後まで奪略を免れた財宝は、アメリカ駐留軍の推定によれば推定1990億円・・・
半分以上の財宝が消えていたのです。
それから50年近く・・・1998年アメリカ連邦議会で、ユダヤ人が奪われた財産の行方を調査する「ホロコースト資産委員会法」が制定。
これによってアメリカ合衆国第42代大統領ビル・クリントンを中心とする大統領諮問委員会が芸術や文化財、金融資産の分野で調査を開始。
ハンガリーの黄金列車も調査対象となり、アメリカ兵による略奪について報告がなされました。
「米軍の高官は、自分たちの個人的用途のために黄金列車から財産を盗み、さらにその財産は、陸軍取引所を通して売られました。
 黄金列車から財産が盗まれたことを示す明らかな証拠も存在します。」
アメリカ政府は、自国平氏の50年以上前の略奪、犯罪行為を認めたのです。
この後、アメリカに住むハンガリー系ユダヤ人からの集団訴訟に・・・アメリカ政府は2550万ドルを支払い、和解しました。
アメリカ政府は、略奪された被害者とその相続人に対する社会福祉のための基金設立に2550万ドルにあてられました。
しかし、「あとで戻す」という国家の偽りの言葉によって略奪された宝石、指輪、貴金属などの大切な宝物が、元の持ち主にかえることはありませんでした。

戦場で、勝った側が負けた側のものを持ち帰る・・・これは常にあり得ることです。
たとえ横領したとしても、そんなに悪いことをしているという感覚はないのです。
非常に短いタイムラグで課題をこなすことを繰り返していると、人間は思考が浅くなります。
なので、想像する心の動きが戦争によって失われていくのです。
「どうしてそんなことができるのか?」
そんな現代の日本の私たちの感覚・・・それは深い思考ができる状態で、静かな中で考えるからできることなのです。
戦争になったら論理は変わってしまうのです。
圧倒的多数が死亡している・・・その死亡した人の財産はどうするのか?
個人に返しようもないのです。

人から物を奪う略奪、そしてその略奪の連鎖・・・
戦争は、人が人を殺す以上のことがあります。
それは、人間が歴史の中に作り上げてきた「規範」を破壊する・・・人間の存在価値である規範、人間性が気付かないうちに破壊されることが怖いのです。
ホロコーストは、史上最大の強盗殺人・・・600万人という人間が死んでいます。
その背後では、物凄い額の財産が奪われていて、それについては討論してきていません。
もちろん、物より命の方が大切なのですが、物を失うこと・・・それは、そのもの自体の価値を越えた何かを失うこと・・・家族の思い出、歴史という付加価値が奪われているのです。
付加価値は対価がなく、奪われた人はお金を返してもらってもそれは同じではないのです。
ナチスの略奪は、たくさんのものを破壊しました。

財を奪うことが人間の根底、心理面も破壊し、命だけではなく、奥ある付加価値も奪う・・・その闇の部分が垣間見ることができます。
しかし、その「闇」は、人間みんなが持っているものなのです。

ポーランドの黄金列車は結局どうなったのでしょう?
2015年に世間をにぎわせたポーランドのナチスの黄金列車発見騒動・・・
地元大学の研究チームが地中を調査した結果、
「トンネルはあったとしても、そこに鉄製の構造物はないでしょう」
期待された100m級の列車は存在しない??という結果となりました。
列車のようなレーダー画像は、現場の上を通る電線の影響か??と指摘されました。
2016年とレジャーハンターが現場を掘ってみると・・・古い鉄道のレールを発見!!
隣の線路の廃材らしい・・・最終的に6mのところまでショベルカーで掘り、財宝を積んだ列車は発見されませんでした。
再び伝説の彼方へ消えた黄金列車・・・そのまばゆい輝きに心がひきつけられるとき、欲望の闇は私たちを争いへと引きずり込むのです。


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津軽10万石の城下町だった青森県弘前市・・・2016年ある発見が話題を呼びました。
町中にある一軒の古民家が、忍者屋敷であることがわかったのです。
弘前藩の忍者集団”早道之者”が諜報活動のために使ったとされています。
忍者屋敷がそのまま残されているのは、全国でも極めて珍しい。
藩主、家老から命令を受けて、作戦会議をする場所だったと思われています。

忍者・・・影のヒーロー??そのほとんどは、創作の産物です。
しかし、実在の忍者が一度だけ歴史の表舞台で活躍した戦いがありました。
敵は、織田信長!!天正伊賀の乱です。

戦国時代最強を誇った織田軍が、忍びの郷・伊賀に向けて出兵しました。
ところが・・・攻め込んだ先で、兵士たちは次々とうち取られていきます。
織田軍大敗北!!ついには撤退!!
果たして伊賀の忍び達はどんな手段で織田軍を撃退したのでしょうか?

群雄割拠の戦国時代、歴戦の武将の影には不思議な呼び名を持つ者たちがいました。
上杉謙信に伏齅・北条氏康に乱波・武田信玄に透波・・・彼らは戦国時代に活躍した忍び達です。
ある時は敵地に潜入し諜報活動、ある時は敵の不意を突き夜襲攻撃、凡人には出来ない危険な任務を行う特殊部隊でした。
そんな忍びを数多く輩出したのが伊賀・・・忍びの里と呼ばれたこの地には、どんな秘密があったのでしょうか?

伊賀には屋敷を取り囲む不自然なほど高い土塁がたくさんあります。
防御を備えた館城があり、土塁だけではなく堀もあったようです。
確認された城跡はおよそ650以上・・・全国有数の密度です。
どうしてこれほどまでに多く築かれたのでしょうか?
伊賀は中世以来、限られた土地をめぐり争いの絶えない地域でした。
各地で自ら館城を築いた地侍たちは、大名の直接支配を受けることなく自治独立の国だったのです。
戦国時代の伊賀衆について・・・
毎日夜明け前から昼頃までは士農工商それぞれの仕事に励み、それから日暮れまでは武芸を磨く・・・
そして密謀の通力を伝える風習があった・・・と記述されています。
密謀の通力がいわゆる忍びの術なのです。

常に危険と背中合わせだった伊賀では、武芸だけでなく敵を陥れる技も鍛える必要があったのです。
そんな伊賀を疎ましく思っていた男がいました。
織田信長です。
当時、信長は近畿一帯に勢力を伸ばしていましたが、伊賀には手を出せずにいました。
そして隣国にはもう一つの忍者の里・甲賀があり、同じく自治独立を守っていました。
伊賀と甲賀が連携して信長の進出を阻んでいたのです。
険しい山々に囲まれ、進入路さえ分かりにくい土地・・・信長は現地の情報を集めながら、じっくり攻め入る予定でした。
しかし・・・その意図を汲まずに伊賀を狙っていたのが信長の次男・信雄でした。
1579年伊勢にいた信雄は、信長に無断で伊賀へ出兵。
1万を超える大軍勢でした。
山を越え、伊賀領内に侵入しようとしたその時・・・突然山道に地侍たちが現れ、一斉に襲い掛かってきました。
山の中で待ち伏せしていた伊賀衆でした。
その奮闘ぶりは・・・
地の利はよく心得ている
ところどころに砦を築いて弓矢や鉄砲を放ち、槍を併せ、息つく間もなく攻撃し、山の崖へ追いつめていきました。
総崩れとなった織田軍の戦死者は、数千人に及んだといいます。
そして、織田方重臣・柘植三郎右衛門が討死!!
信雄は、命からがら伊勢に逃げていきました。
伊賀の完全勝利でした。

織田軍敗北の報せは、すぐさま信長に知らされました。
言語道断!!
息子・信勝が安易に出兵したことに激怒したといいます。
見事な結束で独立を守った伊賀衆・・・
しかし、彼らにとって本当の試練はこれからでした。

1581年、織田信長は伊賀討伐を命じます。
その軍勢なんと、4万以上・・・汚名返上に燃える信雄を総大将に、織田の名だたる武将・・・筒井順慶、蒲生氏郷、丹羽長秀が先陣に加わります。
しかも、今回は多方面からの一斉攻撃!!
迎え討つ伊賀は、それぞれ敵の情報を正確につかんで連携する必要がありました。
そのために使ったとされるのが、狼煙による情報伝達です。
伊賀ではのろし台の跡がいくつか確認されています。
いずれも集落から見えやすい位置にあり、南北15キロ以上に警報を伝えることができたと言われています。
さらに・・・忍びの狼煙には、特殊能力がありました。

江戸時代の忍術書「万川集海」・・・そこに狼煙の材料が記されていました。
最初に掲げられているのがオオカミの糞・・・手に入りにくいものの代表的な材料でした。
すぐに煙が立ち上がり、煙から強烈なにおいが発せられます。
狼煙が嗅覚にうったえていた可能性があるのです。
その悪臭は、1~2キロ位は伝わる可能性がありました。
悪天候で煙が目視できないときでも使えた可能性があるのです。



織田軍に対してあらゆる防御を備えていた伊賀衆・・・
しかし、4万という大軍勢を前に、彼らの心は揺れていました。
信長に内通するもの(福地伊与)まで現れます。
福地は険しい進入路の道案内を行い、織田軍を伊賀領内に導いたといいます。
どうして仲間を裏切ったのか??
伊賀北東部にある福地城・・・ここは、織田軍が最大の軍をおいた地域でした。
福地の集落は、真っ先に攻撃を受ける場所だったのです。
福地は福地で、集落を守ろうとしたのです。

内通者を得た織田軍は、伊賀領内に侵入!!
その攻撃は苛烈を極めます。
一軒残らず焼き払い、男女問わずに殺害した・・・
伊賀衆は、わずか数週間で、最後の拠点柏原城まで追いつめられます。
籠城したのは1600人・・・城には女子供達も逃げ込んだといいます。
各方面から侵入した織田軍は終結し、およそ4万で柏原城を取り囲みました。
絶体絶命の中、協議に望んだ伊賀衆・・・
徹底抗戦する??それとも降伏・・・??
補給路も援軍もない・・・今更降伏しても命の保証はない・・・どれだけの仲間が殺されたのか??
信長は伊賀を殲滅したいのか??
袋小路に陥った伊賀衆・・・意外な意見も・・・
敵を欺いて、せめて女子供だけでも城から脱出する??
城からの脱出路・・・すでに柏原城を包囲される前に、この作戦を実行した者たちがいました。
西部の比自山城に籠城した伊賀衆です。
織田軍が城に突入すると、そこは一夜にしてもぬけの殻になっていたといいます。
伊賀衆は、城中に松明を炊き、城にいるかのように見せて織田軍を欺き、密かに脱出に成功していたのです。
しかし、すでに小田野全軍が、城の周りに・・・本当に脱出することなどできるのか??
宿敵・信長に対し徹底抗戦か??それとも降伏か??それとも脱出か??

伊賀衆が出した結論は”脱出”でした。
およそ4万で包囲する織田軍から、どのように逃れるのか??
籠城から10日以上たった夜、柏原城から数人の伊賀衆が抜け出しました。
彼等は周辺に隠れていた百姓たちを動員して、織田軍の背後の山に、可能な限り多くの松明を灯させます。
それを見た織田軍は、数千に及ぶ伊賀の援軍あらわる!!そう思い込み、大混乱となりました。
これこそ、伊賀衆の狙いでした。
この隙に、柏原城から女子供を逃がす手はずだったのです。
ところが・・・この計略を見破った男がいました。
織田の名将・丹羽長秀・・・10代のころから信長に仕えた重臣でした。
比自山城での伊賀衆の計略を見ていた長秀は、援軍を偽物と見抜き、混乱を速やかに収束させてしまいました。
脱出作戦・・・失敗!!

もはやこれまで・・・1581年10月28日柏原城開城・・・
伊賀の自治独立は、ここに消滅しました。
信長の容赦ない処分が・・・
各地の城は焼き払われ、神社仏閣は破壊されました。
そして男女の差別なく、多くが処刑されました。
運よく他国に逃げ延びたものの・・・半数の伊賀衆が犠牲になったといいます。
それから数日後、見聞のために織田信長が伊賀に入りました。
山の上から伊賀の国を見下ろしていた・・・その時、事件は起こりました。
数発の銃弾が信長に向けて放たれたのです。
伊賀の忍の残党でした。
しかし、弾はいずれも外れ、忍びは姿を消したといいます。
伊賀の執念は、最後まで信長を脅かしたのです。

その後も伊賀への警戒を緩めなかった信長・・・
その城が、信長が伊賀支配のために築いた滝川氏城・・・。
巨大な本丸跡は、伊賀のそれまでにはないものでした。
その一方、形は伊賀の館城と同じ・・・そこに信長の心境が表れています。
当時の織田のお城の作り方とは全く離れていますが・・・伊賀の城に織田の城が合わせにいっています。
伊賀の人に分かりやすい館城のお化けのような巨大なお城が作られたのです。
自らの力を誇示しつつ、慎重に支配を進めた信長・・・
伊賀を織田の直轄地とし、地侍たちが再び力をつけないように統制を図ります。

しかし・・・1582年6月2日、本能寺の変・・・信長は、突然この世を去ります。
天正伊賀の乱から8か月後のことでした。

信長の死後、天下人は秀吉から家康へと移り、戦国乱世の終焉を迎えます。
他国へ落ち延びていた伊賀衆の中には故郷に帰る者もいました。
しかし、伊賀がかつての自治独立を取り戻すことはありませんでした。
そんな伊賀の忍び達に目をつけたのが、徳川家康でした。
服部半蔵のもとにまとめられた伊賀者たちは、江戸時代、将軍家の隠密や江戸城の警備などを務めます。
伊賀者たちの評判は、全国に知れ渡り、諸藩の大名達にも雇われるようになります。
ある者は諜報活動を行い、ある者は藩主の身辺警護を務めたりしました。

伊勢の関宿にある江戸時代から370年続く老舗の和菓子屋・・・
そこには、忍者の末裔が住んでいました。
服部家には、まだ世に出ていない資料がたくさん眠っています。
関宿は、東海道五十三次の宿場町です。
多くの人が行き交い、各地の情報を得るにはうってつけでした。
店のその目の前には、将軍家の宿泊所である御茶屋御殿がありました。
家康はじめ、将軍が上洛する際に、宿泊した場所だったのです。

服部家の資料は、多くのご先祖が忍びの経歴があったことを伝えています。
もしかしたらこの和菓子屋で、代々徳川家を支えるために、忍者の仕事をしていたのかもしれません。

戦国から江戸時代へ・・・幾多の試練を生き抜いた忍者たち・・・故郷で培った忍びの術は、形を変えてその暮らしを支え続けたのです。

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明治天皇は在位中、北は北海道から南は鹿児島まで全国巡幸を繰り返しました。
学校や工場など訪れたところで多くの人々と接した天皇・・・そのわけは、新政府を率いた大久保利通たちの戦略でした。
幕末動乱のさ中、14歳で即位となった明治天皇・・・その存在は、まだ全国に知られていませんでした。
無名の青年君主を、新しい日本を導く天皇としてあまねく知らしめる・・・
巡幸は、人々の心にどのように印象付けたのでしょうか?
そしてどのように受け入れられていったのでしょうか?

幕末の動乱・・・明治維新・・・天皇は大きな時代の流れに飲み込まれていきます。
1868年鳥羽伏見の戦いで旧幕府勢力に勝利した新政府は、新しい国づくりに着手します。
この時、大久保、西郷、木戸らが構想したのは、天皇を中心とした国家でした。
しかし、そこには乗り越えなければならない壁がありました。
当時、多くの国民にとって、天皇は遠い存在だったからです。

京都では、行事もあり、御所もあるので天皇の存在は当然でしたが・・・
普通の人々に天皇の存在は知られていません。
かなり茫漠としたもの・・・江戸では天皇は神様のような存在だったのです。

江戸時代、天皇は御所の外にはほとんど出ませんでした。
民衆の抱く天皇には、多くのばらつきがありました。
そこで、天皇の存在を知ってもらう必要がると感じた大久保は・・・

”天皇が玉廉の中にいて、公卿にしか会えないのでは、民の父母であるという天から授かった職掌を達成できない
 外国においても、帝王は国中を歩き、万民を慈しむものである”

新しい時代の天皇は、人々に姿を見せる西洋の君主になるようにと、大久保は考えました。
1868年、大久保たちは、天皇を御所の外に出すことから始めました。
3月大坂行幸、7月東京行幸を計画します。
天皇はその求めに応じ、9月20日、京都から東京へ出発。
道中、民衆とのふれあいを楽しみます。
そして20日後の10月13日、江戸城へ到着。
東京では大勢の人々が天皇を祝福。山車が繰り出され、2日間にわたるお祭り騒ぎ・・・
ひとまず新政府は、京都以外の人々に天皇をアピールすることに成功しました。
そして、東京は西洋諸国に倣って文明開化!!
そして、天皇自身が新時代にふさわしい天皇になることを求め始めます。

天皇のイメージチェンジ・・・
明治神宮には、明治天皇が明治5年に着用した燕尾服と帽子がが残されています。
帽子には鳳凰の刺繍、ボタン掛けの上着は、菊唐草紋の刺繍で覆いつくされています。
金の糸をふんだんに使った豪勢な作り・・・

tennou

天皇の軍服は、主に儀式などで使われたと思われます。
黒羅紗の地に金モール・・・天皇は20歳の時、この軍服を身にまとい、カメラの前に・・・

明治天皇の代表的な肖像写真です。

白粉やお歯黒を落とし、ひげを蓄え、威風動堂な姿・・・
江戸時代の天皇とは全く違う天皇が誕生したのでした。



明治天皇は、全国巡幸で訪れた先々で、花瓶や茶碗などを下賜しました。
それらは、大切に保管され、人々は後々まで天皇のことを語り継いでいきます。

権威や徳の大きさを印象付けるだけが巡幸の目的ではありませんでした。
群馬県では新町の中心にあった工場を視察しています。
巡幸の前年に作られた工場に、明治天皇は1時間滞在しています。
この工場、明治10年にできたときは屑糸紡績所でした。
この紡績所で屑糸をリサイクルし、生糸を作っていたのです。
ここは、大久保や岩倉らが新たな外貨獲得を目的として建設した政府肝いりの工場でした。
もともと群馬には、フランスの技術を導入し、輸出用の生糸を生産していた富岡製紙工場がありました。
この製糸場に近く、屑糸が手に入りやすいため、屑糸紡績所を作ったのです。

明治天皇は全国巡幸で、工場をはじめ近代化の象徴とされる施設を多数訪問しました。
学校、地方行政を担う庁舎、天皇ができたばかりの施設を視察することで、文明開化や殖産興業を図ったのです。



巡幸は、人々が明治天皇を広く知ることだけではなく、天皇自身が為政者としての自覚を促すきっかけになったといいます。
天皇に日本の隅々までご覧いただきたい・・・日本はこれだけ広くて、これだけいろんな地方がある・・・
豊かなところもあれば、そうでないところもある・・・それも含めて日本だ・・・ということを、新しい時代の天皇として知っていただきたい・・・。
巡幸を通じて、君主としての自覚が生れてきたのです。
巡幸なくして、意識の変革はなかったのです。

1878年・・・明治11年5月、事件が発生!!
大久保利通暗殺!!
赤坂上御所に向かう途中、紀尾井坂でのことでした。
実行犯たちは斬奸状を起草して、明治政府を糾弾!!

現在の法律は天皇の御威光でもなく、人民の意見を取り入れて作られたものでもない。
要職にいる一部の官吏の独断によるものである。

この事件を契機に、宮中で天皇の在り方を変えようとしていた勢力が動き出しました。
中心となったのが、熊本藩出身の儒学者・元田永孚や土佐藩出身で新政府の参議も務めた佐佐木高行・・・侍補と呼ばれる側近たちでした。
侍補は明治10年に天皇の補佐・指導を目的として宮内省に置かれた役職で、天皇の傍に仕えながら、政治や道徳を教え、相談を受ける役割を担っていました。
天皇が主に学んだのは、元田の意向を反映した書経や詩経・・・儒学の古典でした。
侍補たちは、天皇を「徳」を備えた聖人君子にしようとしたのです。
大久保が暗殺された直後、侍補たちは、かねてからの構想を実行に移しました。
大臣・参議による専制を批判し、天皇が政治の実権を握る天皇親政を進めるべきだと言ったのです。

薩摩・長州の一部の人間が牛耳り、陛下の意向を無視して進められている・・・
このままだと天下の人心に不平が起こり、政府要人を狙った暗殺事件が再び起きるかもしれない・・・
今こそ、古代中国の聖人君子のように徳を備えた聖人君子となり、天皇親政を実現しなければっ!!

明治天皇は涙を浮かべて奏上を聞き、侍補たちに同調しました。
自ら政治に介入する動きに出ます。
当時空席となっていた工部卿に佐佐木高行を推薦。
しかし、それは天皇親政を恐れた太政大臣・三条実美らに認められず、実現できませんでした。
天皇親政運動の結果としては「天皇の政治的意思は内閣が担う。もう侍補は要らない」となったのです。

政府の外でも動きが・・・地方の士族や豪農を中心とする自由民権運動です。
国民の自由や権利の拡大を目指した政治運動で、国会開設と憲法制定を要求しました。
国民主体の政治を目指しました。
運動の過激化を防ごうとした政府は、明治14年、9年後の国会開設と憲法制定を表明します。
憲法の制定作業に本格的に取り組むことなります。
この動きの中心となったのが、大久保亡き後政権の中枢にいた伊藤博文でした。
当時、政府よりも早く民間では様々な憲法案が発表されていました。
議会優越、天皇大権・・・天皇の廃位を求めるモノまで・・・天皇を憲法の中でどこに位置付けるのか??
憲法制定の中核を担った伊藤は頭を悩ませていました。

そんな中、明治15年3月、伊藤は憲法調査のためにヨーロッパへ。
そしてウィーンで重要な人物と出会います。
ウィーン大学の法学者ローレンツ・フォン・シュタイン教授です。
伊藤はこの講義を受け、感銘を受けます。
シュタインの教えは、君主に一定の統治権を認めつつ、行政を中心に据えることで君主や議会の横暴を止めるというもの。
当時ヨーロッパの新興国だったドイツ・プロイセンの考え方・・・立憲君主制でした。

明治16年8月、構想を固めて伊藤博文帰国。
政治に復帰した伊藤は宮中改革を進めますが・・・
そこに直面したのは、自らの意思を反映できずに政治への意欲を失った天皇の姿でした。
たまりかねた伊藤は、明治18年8月、三条実美に書簡を認めます。
政務に熱心でない明治天皇への嘆きが率直に書かれています。

天皇の知らないところで、大臣たちが全てを決めているという現状・・・。
明治天皇に立憲君主としての在り方をどう理解してもらうのか??
伊藤の苦悩は深かったのです。

明治天皇にどのようにして憲法を学んでもらうか・・・伊藤には秘策がありました。
「澳国スタイン博士講和録」・・・伊藤と同じくシュタイン博士の講義を受けた人の記録です。
侍従の藤波言忠は幼いころから宮中に出入りし、天皇の信頼も厚い学友でした。
伊藤は当時ヨーロッパで滞在していた藤波に目をつけ、ヨーロッパでシュタインのもとで憲法を学び、帰国後明治天皇に進講することを要請します。
藤波はおよそ1年にわたりシュタインの憲法を徹底的にたたき込まれ、天皇の立憲君主としての心構えまで学んで帰国しました。
明治20年に始まった進講は30回以上、4か月に及んだといいます。
憲法を熱心に学ぶ明治天皇・・・。

藤波は、立憲君主の仕組みを工夫を凝らして説明し、天皇を助けます。
何から何まで自分が統治するのではない・・・法律の中にあるのが天皇である!!
明治21年春まで続いた進講によって、明治天皇は憲法の中に規定されている自らの役割を理解し、理解を深めていきました。
伊藤の目論見通り、天皇は新しい立件国家に相応しい君主へと成長したのです。

明治21年6月、憲法草案について最後の審議が行われました。
天皇の諮問機関として設けられた枢密院・・・1か月にわたり伊藤を議長とし、皇族や大臣が参列する中、激しい議論が行われます。
憲法の制定に深い関心を示す天皇の姿・・・明治天皇は一度も欠かすことなくご臨席されます。
夏の暑い時に、長時間の難しい議論もじっと聞いていられる・・・根気のいることでした。
明治22年2月11日、大日本帝国憲法発布。
新築された宮殿で、天皇御隣席のもと、盛大な式典が催されました。
憲法で天皇はどう位置付けられたのか??
第1条・・・萬世一系の天皇これを統治す・・・天皇家が日本の統治権を担うことを宣言。
その一方、第4条で天皇の統治権は憲法の条規により・・・憲法の従うことが明記されました。
立憲君主として憲法の制約を受ける天皇の役割を明確に規定した憲法となりました。

皇居前広場・・・憲法発布の前に式典公開のために整地された敷地です。
宮殿での発布式を終えた明治天皇と皇后は、馬車に乗ってパレードを行いました。
皇居前広場は、多くの民衆で溢れ、憲法発布を祝いました。
喜びの声は、東京から各地へと広がります。
幕末維新の動乱のさ中に即位した明治天皇・・・
それから22年・・・近代日本の立憲君主として国民の前にその姿をようやく定着したのでした。


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今から1800年以上前の弥生時代・・・日本は倭国と呼ばれていました。
クニと呼ばれるいくつもの小国からなっていましたが、長い間内乱が続いていました。
それを治め、統治したのが卑弥呼だと言われています。
卑弥呼は邪馬台国の女王で、シャーマンのような呪術を使った・・・
古代史の謎の一つ・・・卑弥呼とは何者だったのか??

卑弥呼は日本の歴史書には一切登場しません。
その名が最も古く書かれているのは中国の正史「三国志」。
65巻に及ぶその歴史書の一部、「魏書東夷伝 倭人の条」・・・いわゆる「魏志倭人伝」です。
3世紀後半に中国の歴史家によって書かれたもので、その内容は2000字ほど。

”その国本また 男子を以て王となし
 住まること七、八十年 倭国乱れ 相攻伐すること暦年
 即ち共に 一女子を立てて王となす
 名付けて卑弥呼という”

つまり、魏志倭人伝によれば、倭国に何年も続いた内乱を鎮めるために卑弥呼が女王となったというのです。
それはいつ頃のこと・・・??

手掛かりとなるのが、その後5世紀に出た「後漢書」。

”桓霊の間 倭国大いに乱れ 更々相攻伐し 暦年主なし
 一女子あり 名を卑弥呼という
 ここにおいて 共に立てて王となす”

注目するのは”桓霊の間”・・・この時期倭国が乱れていたとあります。
この時期は・・・中国の皇帝桓帝、霊帝の時代でAD147年~184?年・・・2世紀の中ごろから後半のことです。
倭国を構成するクニが共に卑弥呼を女王として立てたのです。
邪馬台国の女王とは言っていません。
そのクニとは・・・倭国。。。つまり、連合国家・倭国の女王で、邪馬台国は倭の女王・卑弥呼が暮らしたクニのことです。
つまり・・・
・2世紀後半の人物
・倭国の女王
・倭国内の邪馬台国の王宮で暮らした
と思われます。

”卑弥呼は鬼道に仕え民衆を支配していた”

鬼道こそが卑弥呼が女王として共立された大きな原因でした。
鬼道とはなんなのでしょう?
鬼籍に入る・・・「鬼」とは死者を意味します。
鬼道とは、死者の霊や先祖の霊と交信する神がかり的な行為でした。
青森のイタコやシャーマンのような霊力のある霊的能力を持って女王となったのです。
祖先崇拝・・・死者の声を聞くことのできる最初の人物で、その特殊能力に畏敬の念を抱き女王としたのです。

卑弥呼の王宮があったとされる邪馬台国・・・その場所はわかっておらず、様々な説が・・・
現在有力とされているのが、畿内説と九州説です。
それぞれで主張されている場所は・・・
畿内説での最有力候補は奈良県桜井市”纏向遺跡”です。
南北1.5キロ・東西2キロの巨大な遺跡で、広さはもちろん九州から関東に至る土器が多数出土しています。
そのことからここが当時の日本の交易の中心だったと考えられ、邪馬台国の都ではないかと言われてきたのです。
さらに、平成21年には、3棟の大型建物群の柱の跡が見つかりました。
最も大きな建物で、南北19m・東西12m・・・卑弥呼の時代、国内最大級の建物がここにあったのです。
魏志倭人伝には、卑弥呼の王宮についてこう書いています。

”宮室 楼観 城柵 厳かに設け”とあります。
この宮室に当たるのが、大賀建物群ではないか?と言われています。
しかし、纏向遺跡では、楼観、城柵のようなものが見つかっていません。

九州説は・・・??
佐賀県にある吉野ケ里遺跡です。
日本最規模を誇る弥生時代の集落跡で、現在は98棟の建物が再現されています。
その中の大きな建物が”宮室”ではないか?と考えられてきました。
さらに、平成11年の発掘で、吉野ケ里遺跡最古の堀の跡が見つかり、ここに纏向遺跡では発見されていない巨大な環濠のあることがわかりました。
その堀に沿って城柵があると推測されています。
楼観・・・物見やぐらのあったこともわかりました。
それは、魏志倭人伝にある卑弥呼の王宮そのものでした。

しかし、その真実はわかっていません。

”女王になってから彼女の姿を見るものは少なく、千人の侍女がいたが、飲食の世話などは一人の男子が行っていた”

卑弥呼の食べていたものは・・・??
炊き込みご飯、隊の塩焼き、サトイモ・タケノコ・豚肉のあわせ煮、蛤とイイダコのワカメ汁、ショウサイフグの一夜干しなど・・・フグには毒がありますが、この時代からすでに食べられていました。

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感想(1件)



中国の歴史書の中にしかない卑弥呼・・・
別の名で日本の歴史書にあるのでは・・・と、古事記や日本書紀で探ろうとしたのですが・・・??
江戸時代の朱子学者・新井白石が唱えたのが、第14歳仲哀天皇の皇后・神功皇后です。

・神功皇后説
神功皇后・・・白石はあるエピソードに注目します。
神功皇后は、仲哀天皇と九州での戦いに向かった際、「海の向こうの宝の国(新羅)を討て」との神の託宣を聞きました。
しかし、戦いで帝が命を落としてしまったため、皇后は身重の体でありながら武装、朝鮮半島に攻め込み、凱旋後には出産した皇子・後の応神天皇の代わりに政を行った。
神のお告げを聞くことができ、自ら戦い、政を行うその姿が重なると考えたのです。

・熊襲の女説
同じ江戸時代、国学者の本居宣長は、卑弥呼=神功皇后としながら・・・
魏に使者を送ったのは、卑弥呼と偽った熊襲の女首。
熊襲とは、ヤマト政権に服属しなかった九州南部の部族です。
その女首長が自分が卑弥呼と偽って手紙を送ったというのです。
魏志倭人伝に書かれている卑弥呼は偽物だったというのです。

・天照大神説
戦前に活躍した東洋史学者の白鳥庫吉は、著書の中で天照大神こそ卑弥呼であると唱えます。
古事記には、太陽を司る天照大神が天岩戸に引きこもったことで世界が闇となり災いが発生したとあります。
天岩戸伝説です。
卑弥呼が亡くなる前に、日食が起こりました。
月によって太陽が隠され、光が失われていくさまが、天岩戸伝説と重なるというのです。

・倭迹迹日百襲姫説
第七代孝霊天皇皇女・倭迹迹日百襲姫です。
日本書紀に・・・
崇神天皇の時代、疫病が蔓延し、国の民の半分が失われ・・・帝は当惑し、天照大神を祀ったものの一向に良くならず・・・。
皇族の年配者である倭迹迹日百襲姫に相談したところ、大物主神がつきこう助言します。
「我のことを祀りなさい」
さらに、大物主神は我が子の祀らせよと伝えました。
大物主神とは、人間との間にできたこのことで、天皇はすぐにその子を探し出し、祀らせました。
すると・・・たちまち疫病がおさまったといいます。
大物主神は、祖先神的な要素の強いため、これを呼び出すことのできるものが卑弥呼では??

卑弥呼が軌道を使い、祖先神の声を聴いたように、倭迹迹日百襲姫も祖先神である大物主神と交信できる力を持っていました。
そのことから二人は同一人物ではないか?と言われるようになりました。
最近では倭迹迹日百襲姫が有力ですが、決め手となる証拠は見つかっていません。

魏志倭人伝の中の一節・・・
”年すでに長大なるも 夫婿無し 男弟あり 佐けて国を治む”
卑弥呼は女王になった時、すでに年を取っており、夫はおらず弟に助けてもらいながら国を治めていたといいます。
しかし、弟が補佐していたという説に異を唱える人も・・・
卑弥呼は女王ではない??
卑弥呼の時代前後に、女王はいなかった・・・??
卑弥呼のみが女王というのはおかしい・・・??
卑弥呼という名は、古代中国人が倭人が話すヒミコという音に漢字をあてたと思われます。
古代で言えば”ヒメミコ”なのでは・・・??
ヒメミコ・・・「ヒ」とか特殊な霊力を持った女性・「ミコ」は高貴な人(皇族)の子どもを示したのでは・・・??
よってヒメミコは、霊力を持った少女という意味で、人名ではなく地位の称号ではないのか?ということです。
ヒメミコと名乗る女性は、同時期にたくさん存在すると思われるのです。
女王の称号としてはふさわしくない・・・??
なので、卑弥呼は女王ではなく、男弟が倭国王で卑弥呼はその補佐をしていたのでは・・・??というのです。

では、どうして卑弥呼が倭国の女王ということになっているのでしょうか?
倭国が中国から遠く離れていたので単純に間違えた??
古くからの伝承で・・・”東海の果てに女国がある”とあるので、魏志倭人伝の著者がその国だと思うそうした??
古代中国の思想で・・・中華思想によって女王卑弥呼が作り出されたのでは??
男性が長く国を治めてきた中国・・・人々は女性が政治に介入することをひどく嫌い、辺境の地にはそんな野蛮な国があると思っていました。
そうした思想から、海の向こうの倭国もまた、女王が治める魏よりも劣った野蛮国であると思った可能性があるのです。
卑弥呼が必ずしも魏志倭人伝の通りに女王であった可能性だけではなく、色々な可能性があるのです。

247年・・・卑弥呼は亡くなったとされています。
しかし、そこにはなぜ、どのようにして亡くなったのかが詳しく書かれていません。
卑弥呼の死の真相とは・・・??
・暗殺説
魏志倭人伝によると、卑弥呼は亡くなる直前、狗奴国と戦争していたといいます。
苦戦をしていた卑弥呼は、魏に応援を要請するも、大敗・・・
卑弥呼に従っていた国々は、「戦いに敗れたのは、卑弥呼が神の声を聞き誤ったからだ」として暗殺した?
しかし、狗奴国に敗れたとは考えにくく、敗戦の責任で暗殺されたとは考えにくい。
・生贄説
卑弥呼が亡くなる前、日食が起こったと言われています。
当時の人々にとって、日食は悪い前兆であり、政を行うもののせいだという考えがありました。
そこで、卑弥呼が日食の責任を取った??
・自然死説
魏志倭人伝には、倭国と狗奴国が戦争をしていたのは247年とあります。
しかし、その後の卑弥呼の死や後継者争いについて年代が書かれていません。
卑弥呼は狗奴国の戦いに勝った後も生きていて、自然死した可能性があるのです。
・戦死説
王宮に籠り、戦場に赴くことなどなかったはずの卑弥呼が戦死・・・??
祖先崇拝を維持していくためには、始祖という偉大な祖先が必要です。
卑弥呼は国をまとめて平和を作った偉大な祖先に近い・・・自らが死ぬことで、偉大な祖先神になろうとした??
そんな時、戦いの場が死にやすかった・・・??

そんな卑弥呼の墓は・・・??
畿内説・纏向遺跡の中にある箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫の墓だと伝えられています。
倭迹迹日百襲姫=卑弥呼・・・??
箸墓古墳は、全長300m、高さ30mという巨大な前方後円墳で、公演部分の直系が150m・・・魏志倭人伝には、卑弥呼の墓の大きさは、直径百余歩とされています。
1歩は1.44mなので、同じ150mになります。
平成21年、箸墓古墳に発見された土器から3世紀の中頃ものだということがわかりました。
卑弥呼が亡くなったも、まさに3世紀!!
箸墓古墳は、偉大なる祖先神を祀るために造られたもの・・・??
それは祖先神の始祖になろうとした卑弥呼に相応しく、衣装を身にまとった姿を模した墓にしている??

九州説
吉野ケ里遺跡からおよそ40キロ・・・平原遺跡にある弥生時代終末期に作られたとされる古墳一号墓。
一変がおよそ12mの四隅が丸い長方形の墓に木簡が埋葬されていました。
その周囲から発見されたものの中には耳當と呼ばれるピアスが。。。
埋葬された人物が女性だったことがわかります。
そして木棺の周りから40枚もの銅鏡が・・・意図的に割られており、埋葬されたのは呪術を操る強い力を持った人物で、その力を封印する為に祭事に使う道教が割られたのではないか??
一号墓は女性で強い霊力を持ったその時代のものだと言われるようになります。

もう一つは・・・福岡県・久留米市にある祇園山古墳です。
根拠としているのは、魏志倭人伝の卑弥呼の墓について書かれている部分・・・
”埋葬する者 奴婢百余人”です。
卑弥呼は殉死した100人ほどのものと一緒に埋葬されたとあるのです。
祇園山古墳には、中心の埋葬施設の周りにいくつもの埋葬施設があるからです。
さらに古墳の形・・・上から見ると円の中心が四角いものの、周りは丸くなっています。
その形が方格規矩鏡と似ているのです。
そしてその方格規矩鏡には四神(玄武・白虎・朱雀・青龍)が書かれているので、宗教的な儀式に使われたとされています。
卑弥呼にとって慣れ親しんだ鑑だったので、墓の形として採用したのでは??

魏志倭人伝には、卑弥呼の死後、男性が王になったものの再び混乱が起きてしまったとあります。その後を受け継いだのが、わずか13歳の少女でした。
これによって倭国はまた平和を取り戻しました。
しかし、その後、中国の歴史書から邪馬台国の記述は消え、卑弥呼の名と共に歴史の闇に包まれてしまうのです。
謎多き卑弥呼・・・いったい何者だったのでしょうか。

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