日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

明治26年、ある新作歌舞伎がお披露目されました。
「遠山桜天保日記」・・・ご存じ、遠山の金さんです。
実はこの金さんのモデルは実在の人物です。
江戸・北町奉行・遠山金四郎です。

1840年、遠山金四郎は、48歳で北町奉行に就任します。
江戸の町奉行所は北と南に別れ、この2カ所で広大な江戸全体を管轄していました。
町奉行の仕事は、裁判、行政、警察、消防などに及び、江戸町方全般を取り仕切る重要な役割でした。
12代将軍・家慶が、遠山の裁判を見学し、こう語っています。

「吟味の儀際立ち、奉行たるべきものさもこれあるべきことに候」

家慶の厚い信任を受けて、遠山金四郎はこの後名奉行ぶりを発揮していきます。
遠山が町奉行を務めた天保の時代、江戸幕府は未曽有の危機に瀕していました。
内憂外患です。
1837年、浦賀の沖合にアメリカ船・モリソン号が姿を現しました。
目的は通商・・・開国を迫ります。
ペリー来航のわずか16年前のことです。
幕府の砲撃により、モリソン号は退去しますが、それ以後も日本は西洋列強の脅威にさらされることとなります。
国内では天保の大飢饉にに見舞われ、長引く大雨や冷害で餓死者は30万人にも上りました。
これによって、幕府領の年貢収入が減り、天保2年には142万9000石でしたが、天保7年には103万9000石にまで・・・3割の減収となりました。
さらに、飢饉のため米や諸物価が高騰・・・幕府は慢性的な財政赤字に陥っていました。
この内憂外患に取り組んだのが水野忠邦です。
水野は大坂城代、京都所司代など幕府の要職を歴任し、それを将軍に評価され、1839年老中首座に就任します。
かくして、水野は天保の改革に乗り出します。

この時、遠山は北町奉行として幕府評定所のメンバーでした。
評定所は、老中首座を筆頭に、老中、町奉行、勘定奉行、寺社奉行などが重要な政策を議論決定する幕府の審議機関でした。
遠山は、水野忠邦をトップとする天保の改革のメンバーだったのです。
水野は新しい改革を次々と打ち出していきます。

①奢侈取締り
1841年5月、江戸市中に御触れが出ます。
水野は贅沢の禁止を命じます。
禁制の対象は華美な着物、贅沢な料理や菓子、装飾を施した櫛や簪、初鰹まで・・・
水野は贅沢を禁じ、江戸の町人たちに質素倹約の生活を強いました。
奢侈の取り締まりは、日に日に厳しさを増していきます。
奢侈禁止のお触れが出てから2か月後・・・
町奉行遠山は江戸の現状を調査した報告書に目を疑います。
贅沢禁止令により、江戸は深刻な不景気に見舞われていたのです。
江戸を代表する呉服屋が、買い控えにより軒並み前年同月比で大きく落ち込みます。
越後屋本店40%、白木屋73%の売り上げ減。

ある幕臣はこんな意見書を出しています。

「米屋、薬などの必需品を扱う商売以外はすべて不景気となり、両国や浅草などの盛り場はさびれている
 2.3年も経てば貧民は生活できなくなる」

老中首座・水野の政策をこのまま実行すべきか、それとも江戸の町人の生活を守るべく、町奉行として進言すべきか・・・??

かくして遠山は決意します。

1841年9月、南町奉行矢部定謙と共に伺書を水野に提出。

身分不相応の奢侈はいけないが、江戸の繁栄を維持する為に配所は大事であり、江戸が寂れることは幕府のご仁政の趣意に反故する

極端に贅沢を禁止するのではなく、暮らしにあった程度には良しとすること・・・
そして何より、江戸は繁栄していなければならない・・・。
遠山たちは、水野の政策に待ったをかけたのです。

これに水野は激怒・・・たとえ、江戸市中が衰退しても・・・商人、職人が離散しても、頓着しないぐらいの激しい姿勢で改革を行わなければいけない・・・!!

改革を行うためには、江戸が衰退しても構わない!!
ここに、水野の天保の改革に対する基本的な考え方が集約されていました。

基本的に世の中は、武士と農民・・・この二者の関係によって社会の根幹は出来ていました。
商工・・・商人は武士の生活や農民の生活に必要な最小限程度あればいい・・・
つまり、商工業者は、最小化されなければならない・・・!!
それ以上は、社会的に望ましいものではなく、現在の秩序を壊していくものだ!!

改革を断行する水野忠邦と、江戸の繁栄を第一に考える北町奉行・遠山金四郎・・・
2人の対立は激化していきます。

②寄席取の全廃
1841年、江戸の寄席の数は233軒大いに繁栄していました。
演目は、落語にとどまらず手品、声帯模写、女浄瑠璃、小唄など・・・様々な芸が披露されていました。
料金はおよそ50文。
現在にして1600円もあれば楽しめました。
主な客は、職人や奉公人など・・・庶民のささやかな娯楽でした。
ところが・・・寄席の全廃の方針を打ち出します。
理由は、見物人を集め、金銀を費やさせることは贅沢につながるというものでした。
遠山は反論します。

「寄席は、毎日の労働の疲れをいやす場であり、町人の日々のささやかな楽しみを奪ってはならない」

この遠山の訴えにより全廃は免れたものの、233軒から24軒に激減します。
さらに、江戸町人文化の華・歌舞伎に規制を加えました。
歌舞伎小屋三座の所替を命じたのです。
歌舞伎小屋は、日本橋と銀座から、当時江戸のはずれだった浅草裏の猿若町へと移転を余儀なくされました。
絶大な人気を誇った五代目市川海老蔵を奢侈禁止令に触れたとして江戸十里四方処払いとしました。
次々と引き締め政策を行った水野は、満を持して大胆な構造改革に乗り出しました。

③株仲間の解散
当時、米や酒、油などの産品は、全国から大坂に集められ、その後江戸へと海路で運ばれていました。
産品ごとに株仲間という組合が結成され、彼らは幕府に冥加金を払うことで、産品の流通販売を独占していました。
どうして水野が株仲間の解散を考えていたのでしょうか?
株仲間が作られた時期には、市場を管理していくとか、商品流通をシステマチックに動かすという意味がありました。
しかし、時代が経ていくと特権化して硬直化した市場体制になっていました。
価格操作とか、新規商人の加入を認めないなど、負の価値が強くなってきていました。
それをどのように解決していくのか??という問題がありました。

水野は120年続いたこの株仲間に、解散を命じました。
理由は、「問屋共不正」です。
株仲間は市場の独占を利用し、商品の家格を不当に吊り上げているという者でした。
そして、「素人直売買勝手次第」・・・誰でもが市場に参入できるように規制を緩和し、自由競争による物価の低下を狙ったのです。
しかし、この改革は、市場に混乱をもたらすこととなります。

解散に伴い株仲間の商売を保証していた株札が無効になってしまったことが原因でした。
当時において、”株”が一番の重要な担保でした。
資金の融通を受ける際に差し出す担保・・・これが、当時は株だったのです。
株仲間が解散を命じられたことによって、株の価値が無くなってしまう・・・
すると、担保として差し出すものがないので、お金を借りられない・・・!!
いざという時に、資金の融通を受けられない・・・商家は現金を手元にためておこうとします。
お金を使わない・・・景気は回らなくなってしまう・・・!!
遠山と南町奉行の矢部は、株仲間の解散に反対したといいます。
しかし、水野は株仲間の解散を強硬・・・!!
結果、市場の混乱を招いただけで、さして物価も下がらず、10年後の1851年株仲間が再興されます。
この株仲間の解散を巡って、遠山は大きな痛手を被ることとなります。

1841年12月、南町奉行・矢部定謙、罷免。
5年前に起きた与力の不正事件を矢部がもみ消したというのが理由でした。
現在の研究では、水野の謀略による冤罪というのが通説となっています。
将軍・家慶の信任が厚い遠山の代わりに、矢部がターゲットとなったのです。
矢部は永預けとなり禁固され、旗本矢部家は改易処分となりました。
この処分に矢部は納得せず、抗議の絶食の果てに死亡したといわれています。
盟友・矢部の無念の死・・・
この後、遠山は厳しい選択を迫られていきます。

盟友・矢部の無念の死を悼む暇もなく、遠山は水野から新しい改革の実施案を求められます。
それは、天保の改革でも重要な政策でもある人返しの法でした。
人返しの法・・・農村から江戸に出てきた者たちを強制的に農村に帰らせるというもの。
この頃、江戸の町人の人口は、55万3200人・・・そのうち、農村などから来た他国生まれは16万5000人いました。
30%にも達していたのです。
農民が江戸に流入り、農村の人口が減ったことで田畑は荒廃し、農作物の収穫が低下していました。
さらに水野が問題視したのが、農村からの流入者の殆どが、「其日稼の者」・・・低所得者層でした。
遡ることおよそ50年前の1787年、天明の大飢饉により米価が高騰、天明の打ちこわしがありました。
暴徒の多くが其日稼の者でした。
再び凶作が起きると、この者たちを中心とした打ちこわしが起こりかねない・・・と、危惧していたのです。

水野の言うことも一理ある・・・しかし・・・??

遠山は、江戸巡検を行うことにしました。
一日の巡検が30キロに及ぶこともありました。
遠山自身が巡検することで、江戸の町人の実体を目の当たりにできました。
町人たちがどういうことを楽しんで、どう云うことで苦しんでいたのかを感じ取っていました。
江戸市中をくまなく回り、庶民の生活をつぶさに見ることで、遠山は実感します。

其日稼の者でも、一旦証人となれば、稼ぎも安定し、妻子もできる
故郷に帰りたいという気持ちも無くなり、江戸に住み着くことになる
江戸でなんとか安定した生活を手に入れたら、其日稼の者に強制的に農村に帰れと命じるのは無理がありました。
このまま強行していいものか??
現実にあった策はないのか・・・??

❶人返しの法を実施
❷町人第一の政策を貫く

遠山は水野に1842年5月、「人返しの法」に対する上申書を提出します。
そこには、強制的に村に返さず、かつ飢饉の際の打ちこわしを防止する策が記されていました。

「お救い米百万石に増やすべし」

遠山が提言したのは、七分積金の活用でした。
七分積金とは、およそ50年前の寛政の改革で行われた政策で、町の収入の一部を使いもみなどを購入し備蓄、飢饉の際にこれをお救い米として放出するという江戸のセーフティーネットです。
七分積み金は、連綿と受け継がれていましたが、天保の飢饉で放出し、激減していました。
そこで、遠山はもみを百万石に増やせば、飢饉が起きても其日稼の者たちの生活を支えられると提案し、あくまでも町人第一の政策を貫くことを選択しました。
遠山の進言が大きく影響し、人返しの法は、”最近になって江戸にやってきてまだ妻子もいない者”にだけ適用されました。

救民対策のために七分積金を増やして手当てするのは、町奉行の提案としては至極もっともな提案でした。
一方、年の窮民は少なくなったの方がいいので、国元にできるだけ帰ってもらおうとしますが、強制力を持って帰すわけにはいきません。
非常に整合性のある現実性のある政策が展開されたと思われます。

1843年、遠山、大目付に就任。
栄転ですが、天保の改革からは外れることとなりました。
同じ年、御簾納忠邦は上知令を発令。
当時、江戸と大坂の周辺には、幕府領以外に大名や旗本の領地も混在していました。
これら、大名・旗本の領地を幕府に返上させ、かわりに替地を与えることとしたのです。
年貢の取れ高が多い大名・旗本の土地を、取れ高の少ない幕府領と取り換えて、幕府の財政を補強するのが目的でした。
これこそ、幕府の赤字を解消する最後の切り札でした。
しかし、この強引なやり方に、大名・旗本から猛反対が起きました。
その筆頭は、御三家・紀州藩、老中・土井利位なども加わり、幕府内に反水野が形成されました。

1843年9月、上知令撤回の幕令が下され、水野は老中免職・・・!!
天保の改革は、2年余りでほとんど成果を上げず幕を閉じたのです。

しかし、天保の改革の時代、諸藩でも改革が行われ赤字財政を画期的に克服した藩がありました。
例えば、薩摩藩です。
1835年には負債総額500万両・・・現在の2000億円です。
そこで薩摩藩は、特産品の黒砂糖の自由取引を禁じ、生産から流通販売まで薩摩藩が市場を独占することで莫大な利益を得、財政を回復させます。
長州藩や土佐藩も、同様に赤字財政を克服・・・西南雄藩は、明治維新へと突き進んでいくこととなります。

一方、遠山の晩年は・・・??
1845年、南町奉行に就任します。
彼は晩年、遠山の金さんと呼ばれ慕われていました。
60歳まで南町奉行務めた遠山は、1855年逝去・・・63年の生涯でした。

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アメリカの物語・・・
1920年代は繁栄の時代でした。
しかし、そこには黒い影が・・・
伝説を作ったアル・カポネ、ラッキー・ルチアーノ、フランク・コステロ、マフィアが悪の帝国を築き上げ、勇気ある者が反撃に出ました。
組織犯罪に歯止めがかかりません・・・。
アメリカ社会の善と悪がぶつかり合う時代が続きました。
アメリカの暗黒街の物語です。

オハイオ州・シンシナティのレッドランドフィールド・・・
1919年10月1日、ワールドシリーズが開幕しました。
シンシナティ・レッズ対シカゴ・ホワイトソックス・・・先に5勝した方がチャンピオンです。
ホワイトソックスの監督は、自信満々、ナックルボールで最多勝を獲得したエディ・シーコットに先発を任せます。
レフトを守るシュ―レス・ジョー・ジャクソンらスター選手の揃ったホワイトソックス側が圧倒的に有利とみられていました。
賭博は違法ですが、闇のオッズは7対5でソックス有利、しかし、試合開始数時間前になって、レッズの掛け金が一気に流れ込みます。
ニューヨークのタイムズスクエアでは、特製のスコア・ボードが用意され、電報で逐一伝わるボールの動きが瞬時に表示されます。
ソックスのFanは、エースのシーコットが4回に滅多打ちにあい愕然・・・
シンシナティ・レッズは、初戦を9対1で楽々と勝利・・・番狂わせは続き、5勝3敗でレッズはシリーズ優勝を果たしました。
スポーツライターのヒュー・フラートンは、不振を抱き、新聞にホワイトソックスの選手がワールドシリーズで八百長した疑いがあると告発記事を掲載・・・大きな反響を呼びました。
シューレス・ジョー・ジャクソンら選手8人が一人5000ドルでシリーズの勝利を売ったと非難されました。
シカゴの大陪審で撮影が初めて許され、1920年9月、尋問された8人の内3人が八百長を認めました。
8人全員が、大衆をだました詐欺の罪で告発されます。
裁判では供述書が無くなるという不可解な事件も起こり、陪審は無罪の評決を下しました。
しかし、MLBコミッショナーのケネソー・マウンテン・ランディスは、大目に見ることはなく、8人全員を野球界から永久追放。
事件はアメリカの新たな犯罪組織が世界のどこにでも救うことを知らしめました。

ニューヨークのロウアー・イーストサイド・・・移民が密集して暮らしていました。
市場は一獲千金を目論む若者で溢れています。
アメリカン・ドリームを手っ取り早く手に入れる手段の一つが犯罪でした。
イタリア系移民から大物ギャングになったのは、チャールズ”ラッキー”ルチアーノ・・・そしてフランク・コステロです。
2人はニューヨークを拠点として、一般社会の裏側に暗黒街を築き上げました。
1920年代のアメリカは、犯罪史にとってチャンスに満ちた国でした。
禁酒法の裏をかいて、密造酒をあらゆる階層に供給すれば、容易く荒稼ぎできました。
お酒は、海のルートを使って運ばれました。
ウイスキーひと箱の仕入れ値は、海の上で65ドル・・・陸では400ドルで売れます。
積み荷を満載し、逃走すると沿岸警備隊が追いかけます。
船足で勝る密輸船が振り切るのです。
アメリカ本土で人々への酒への欲望が、尽きることはありません。

連邦政府は、酒類取締局を設置しましたが、問題は慢性的な人で不足です。
わずか1500人で、アメリカ全土のお酒の流れは止められません。
ニューヨーク、パークアベニューでの強制捜査が派手に宣伝されますが、人々は法の目を簡単にかいくぐれることを知っています。
捕まるのは氷山の一角で、密輸人が検問を何事もなくすり抜けていました。

1925年、違法の酒を振るまうナイトクラブが賑わいを見せていました。
法を軽視する風潮が全米に広がります。
特に顕著だったのが、ニューヨークです。
丁度、市長選の時、洒落物者の州上院議員で地元ティンパンバレー出身の音楽家ジミー・ウォーカーが市長に立候補します。
肩ひじ張らない彼のスタイルは、カリフォルニア州知事との記者対応でも本領を発揮します。
禁酒法反対を強く唱えるウォーカーは、マフィアが好むタイプの政治家でした。
1925年11月の市長選挙で圧勝・・・
しかし、市役所の堅苦しい雰囲気が合わず、夜の市長と呼ばれるようになります。
彼は公的資金を使って、セントラルパークのカジノというナイトクラブを改装、違法なシャンパンを開けぬなら、ニューヨーク市政を指揮しました。

休みの日にウォーカーがよく現れたのが52番街の21クラブです。
建物には複雑な仕掛けが施されました。
壁の奥に隠されたのは秘密のワインセラー・・・マフィアの大物アーノルド・ロススタインの資金で買い集めたお酒が保管されていました。
ウォーカー市長の時代、マフィアの事件が新聞の一面を飾るようになります。
1928年にはロススタインが賭けをめぐるもめ事で市街ののホテルで撃たれました。
ロススタインはマフィアの沈黙の掟を守り、撃った犯人の名を明かさぬまま2日後に死亡・・・
ただ一人証言したのはホテルの客室係ブリジット・ファリーでした。
他の証人が現れなかったので、容疑者は保釈されました。
この沈黙の掟がマフィアの隆盛を支えます。

1927年「暗黒街」・・・
マフィアの悪名は、ハリウッド映画に新しいジャンルを生み出しました。
ギャング映画です。
魅力的なギャングのボスとその恋人は、違法なバーに頻繁に出入りし、やがて警官隊と銃撃戦を展開します。
映画の中のギャングは、富とカッコよさとスリルで観客を魅了しました。

悪名は彼等の使った武器でさらに高まります。
トミーガン・・・機関銃です。
速射のできるマシンガンはマフィアのお気に入りとなります。
1934年までは、町の店頭でも買うことができました。
トミーガンで武装したグループは勢力を拡大し、さらにその名をとどろかせます。
1920年代にシカゴで頭角を現したアル・スカーフェイス・カポネ・・・彼は最初の三丁のトミーガンを金物店で買いました。
この銃は、シカゴの至る所で使われたため、シカゴ・タイプライターというあだ名がつきました。
カポネのグループは1929年、バレンタインデーの虐殺という抗争事件を起こし、全米にニュースが轟きます。
アメリカ社会は、一般市民の平穏な日常生活にも脅威が迫っているとみるようになります。
ニューヨークでは連邦下院議員フィオレロ・ラガーディアらが街の浄化かを掲げ、1929年の市長選でウォーカーに挑戦します。
ラガーディアは怒りを訴えます。
ウォーカーはタレント然とした態度で応じます。
投票の結果は、ウォーカー1万4849票、ラガーディア3635票・・・
ウォーカー市長の再選でした。
ウォーカーの再選は、汚職の勝利を示したかに見えました。

しかし、ギャングの隆盛にも逆風が吹き始めます。
1931年8月、5歳の少年、マイケル・ベンガリの葬列を数万人が見送り、その様子がニュースカメラに収められました。
東107番街にあるギャングのたまり場の近くで遊んでいたマイケルは、抗争事件の流れ弾に当たって死亡・・・
他にも4人の子が巻き込まれました。
容疑者は良く知られたギャングのリーダー、ヴィンセント”マッドドッグ”コール。
しかし、誰も証言しようとしません・・・
事件は暗黒街への世間の味方が変わる転換期におきました。
組織犯罪は全米に拡大し、殺人発生率は過去最悪となっていました。
ロマンと共に語られたギャング像は否定され、マフィアは世間の敵となったのです。

1931年、フロリダ州マイアミ・・・裕福なアメリカ人に人気のリゾートになっていました。
温暖なフロリダは、北部の寒い冬を逃れる理想的な場所です。
1キロ半ほど先のパーム島にある豪華な別荘では、秘密の集まりが行われていました。
オーナーはアル・カポネです。
ラッキー・ルチアーノ、ジロ・アーティョーク・キング・テラノバ、フランク・コステロ・・・
ニューヨーク出身のこの4人が、暗黒街の大物にのし上がる一方で、多くの人々は大恐慌に苦しんでいました。

1932年、大統領候補のフランクリン・ルーズベルトは、不況対策と禁酒法廃止を掲げます。
ルーズベルトは、組織犯罪や汚職への世論の反発を感じていました。
ニューヨークで州知事を務めていた1930年9月には、ニューヨーク市の汚職を調査する委員会を立ち上げていました。
ウォーカー市長は、市の発注事業で利益を得たとして非難されます。
1932年、ウォーカーは不名誉な形で辞職・・・
ショーガールの愛人と共にヨーロッパに渡り、3年間暮らしました。

連邦の捜査当局は、シカゴの取り締まりに着手します。
シカゴでは1928年に全米一498件の殺人が起きますが、ボスのカポネが罪に問われたことは皆無・・・
その年の彼の収入は、推定で1億500万ドル・・・今の値で14億ドルですが、税金は申告も納付もしていません。
当局はこれを突破口に、1931年カポネを法廷に引っ張り出します。
税務当局の捜査官フランク・ウィルソンは、巨額の現金がカポネに支払われたことを示す秘密の帳簿を発見・・・脱税の証拠を押さえます。
1932年5月、カポネは11年の実刑判決を受けアトランタとアルカトラズの刑務所に服役します。
押収されたカポネの車は一般に公開されます。
彼が逮捕を逃れた秘密の一端が明かされます。
車には警察と同じタイプのサイレンが・・・そのサイレンを逃走に利用していました。
最新鋭車は警察無線も傍受できました。
敵の攻撃にも耐えうる仕組みでした。
車両の窓は、すべて防弾ガラスです。



1932年11月、ルーズベルトは大統領選に勝利、公約通り禁酒法を廃止します。
貴重な収入源を失ったマフィアは、ギャンブル事業に一層の力を入れます。
ニューヨークのハーレム地区では、黒人ギャング団が、ナンバー賭博を広めました。
手ごろな値段で毎日売られる数当て式の宝くじは、違法でしたが、あらゆる階層に人気となります。
選ぶのは3つの数字、当選番号は新聞紙面から無作為に当てられます。
胴元が999対1で有利となるオッズでした。
ハーレムの街頭で売られるナンバー賭博の売り上げは、年間2000万ドルに達しました。
犯罪は相変らず白昼堂々行われていたのです。

フィオレロ・ラガーディアは、ニューヨーク市を浄化するのは自分しかいないと確信し、1933年の市長選に再び立候補しました。
今回は有権者もラガーディアを支持し大勝・・・政治の世界から暗黒街への反撃が始まります。
ラガーディアは早速、ニューヨークに氾濫する違法賭博の撲滅に乗り出します。
最大の標的は、フランク・コステロや、ラッキー・ルチアーノが経営するスロットマシン事業でした。

コステロは、潜り酒場や町の商店などに2万5000台ものスロットマシンをおいていて、その売り上げは1931年には2500万ドルに達しました。
スロットマシン一掃をアピールしようとラガーディアは押収した大量のマシンに自らハンマーを振り下ろしました。
壊したものはイースト川に廃棄します。
押収された大量の銃器類もイースト川へ・・・。
環境問題を当時の人々は意識していませんでした。
一斉摘発は、コステロやルチアーノの事業の大規模さを白昼のもとに暴きました。
しかし、商売道具の押収だけでは不十分です。
市長はボスたちの逮捕を目指します。

抜擢されたのは、腕利きの検察官トマス・デューイでした。
問題は、ルチアーノについて密告するメンバーが一人もいないことでした。
そこで、デューイはルチアーノが経営する売春宿の娼婦数人に、司法取引による証言を持ちかけます。
1936年、ルチアーノは、強制売春の容疑で逮捕されました。
裁判でルチアーノは2万ドル程度の微々たる所得額を主張しましたが、実際には不正な商売で1000万ドル以上稼いでいたことが明らかになりました。
禁固30年から50年の刑が宣告されます。
しかし、ラガーディアの取り締まりも、マフィアに致命的な打撃を与えるに至りませんでした。
ニューヨークでは逮捕者が相次ぎましたが、アメリカはチャンスが無限に広がる国です。
ニューヨークから遠く離れた場所で、組織犯罪が新たな黄金期を迎えていました。

1938年6月、1艘のスピードボートがカリフォルニア州サンタモニカ沖の国際水域に入ります。
乗客が乗り移ったのはかつて漁船だったレックス号です。
今はすっかり姿を変え、海に浮かぶカジノです。
運営するのは避けの密輸業から転じた”トニー・ザ・ハット”コルネロ・・・別名提督です。
20万ドルを投じ、非課税のギャンブル天国を陸地からスピードボートで12分の海の上に作りました。
船は2000人の客と、350人のスタッフを収納可能でした。
ルーレットやカードゲームの隣にスロットマシンがずらりと並びます。
カジノは24時間無休・・・金持ちが詰めかけました。

レックス号が営業を開始して1年後、州政府は法律を変更し、取り締まり可能な海域を沖合に伸ばしました。
コルネロは当局と鼬ごっこを繰り返しますが、岸から余り離れると客を失ってしまいます。
最後は沿岸警備隊の手に落ちました。ギャンブル用の設備が、太平洋に沈められていきます。
組織犯罪の資金源は、東海岸の都市に限らないことがよくわかります。
ルイジアナ州のニューオーリンズでも、マフィアが1940年代には勢力を確立していました。
その機会を提供したのが、上院議員の”キングフィッシュ”ロングでした。
大統領への野望と汚職にまみれていました。
しかし、ロングは1935年に射殺されます。
ニューオーリンズの顔役は、酒の密輸からレストラン経営に転じた”ダイヤモンド”ジム・モランでした。
あだ名の由来は簡単・・・ダイヤモンドが大好きだったのです。
25万ドルの宝石をよくつけていました。
モランは暗黒街のメンバーに煩わしい日常を逃れて羽を伸ばす機会を提供していました。
ゲストはスピードボートでミシシッピ川を登ってやってきます。
ルイジアナ州でのマフィアの休暇に欠かせないものは銃を使った魚釣り・・・そして食事・・・世間の目が届かないところで満喫します。
ニューオーリンズでは、多くの人間がマフィアブームの分け前に預りました。
しかし、こうした時代はまもなく終わりを迎えます。

シャバのパーティーには欠席続きでもチャールズ”ラッキー”ルチアーノは刑務所の中から引き続き犯罪組織を指揮していました。
ルチアーノは、1946年収監されてわずか10年で釈放されます。
第2次世界大戦中、アメリカ軍のイタリア侵攻作戦にシチリア生まれのルチアーノが協力したという噂が流れました。
釈放の条件は強制送還でした。
イタリア・ローマに到着します。
しかし、ルチアーノは犯罪の帝国を手放すつもりはありませんでした。
1947年、アメリカに戻ろうと試みますが、キューバで身柄を拘束され、再びイタリアへ送還されます。
イタリアで、ルチアーノはカメラに追われます。
アメリカでも犯罪仲間への圧力が高まっていました。
議会上院が公聴会を開き、マフィア幹部を追求する様子を全米にテレビ放送したのです。

マフィアの隠された実態が暴かれ始めました。
1950年春、ハリー・トルーマン大統領の人気は、大戦後の景気後退と歩調を合わせるように下がっていました。
2人のマフィアメンバーの遺体が、ミズーリ州の民主党の関連会社で見つかるという大統領に追い打ちをかけます。
現場の壁に掲げられていたのは、地元が生んだ英雄・トルーマンの写真・・・
政治家と犯罪組織が癒着しているという印象を社会に与えました。
非難の声を受け、議会は組織犯罪に関する初の本格的調査に乗り出します。
テネシー州選出の上院議員エステス・キーフォーヴァ―は、全米へのアピールを画策、公聴会はアメリカではじめての一大テレビイベントとなります。
1951年3月、視聴者の数は3000万人余りに達しました。
マフィアに関係すると思われる人物を、数百人規模で召喚・・・
見たこともない光景に、アメリカ国民はくぎ付けになりました。
クリーブランドの”アウル”ポリッツィは、地下人脈について質問を受けます。
公聴会の目玉は、フランク・コステロの召喚でした。
違法な賭博から合法な不動産業まで、全米で様々な事業に絡み、テレビ局2社にも出資しています。
資産総額は計り知れず・・・
コステロは、口をつぐんだまま何も語りません。
委員会は最後に自らの正当性を訴えるように促しました。

「税金を払った
 上院に対し敬意を抱いているが、これ以上質問に答える気はない」

証人席を離れて退出・・・
ギャングの高慢さの象徴として、社会に記憶されました。

次の証人はアラバマ州出身のヴァージニア”ザ・フラミンゴ”ヒル。
もとは、アル・カポネお気に入りのウェイトレスで、シカゴとメキシコを結ぶ麻薬取り締まりのブレーンにまでのし上がった女性です。
5000ドルのミンクのコートに身を包み、莫大な資産は競馬で稼いだと言い放ちます。
自分で不利になる証言はうまく免れました。
しかし、注目されることを嫌いました。
税務調査から逃れるようにヨーロッパに渡り、15年後オーストリアで亡くなりました。

フランク・エリクソンや、ジョー・アドニスといったマフィアの大物は、憲法修正15条を盾に、自分の不利な証言を拒否しました。
修正第5条に基づいてが常套句となりました。
1年間の公聴会で、600人を呼んだキーフォーヴァー議員は、憂慮すべき結論を発表します。

「犯罪組織は州を超えて、全米規模で連携しています
 我々の想像以上に大規模で悪質な活動です
 その壊滅的な悪影響は、我が国の経済や社会規範、政治や政府に及んでいます」

まもなく、コステロの天下に終わりを告げます。
公聴会での勝手な退席により侮辱罪で有罪となり、その後5年間刑務所を出たり入ったりします。
1957年5月2日には、暗殺を試みた男に頭部を撃たれますが、生き延びました。
容疑者はヴィンセント・ジガンテ・・・コステロの宿敵ヴィト・ジェノヴェーゼ配下の男でした。
コステロがマフィアの沈黙の掟を守り、証言を拒否したため、ジガンテは無罪釈放となります。
1962年1月、ラッキー・ルチアーノが心臓発作で亡くなりました。
ナポリでの葬儀は一大イベントととなり、世界各国の報道陣が集まりました。
弔問客の多くが、その筋定番の服装・・・ルチアーノは、秘密を墓場まで持って行きました。
しかし、翌1963年、沈黙の掟が破られる衝撃的な事件が起こります。
ヴィト・ジェノヴェーゼの組織の末端メンバーのジョセフ・バラキという男が服役中に殺人を起こします。
死刑を逃れるために、バラキは司法取引に応じ、終身刑への減刑の代わりに沈黙の掟を破ったのです。

犯罪組織の秘密の名前が初めて公に明かされます。

「イタリア語でコーザ・ノストラ
 ”我らのもの””我が家族”といった意味です」

組織犯罪の実体が暴露されます。

「一度入ったら抜けられず、逃げることは不可能です
 必ず捕まります」

マフィアはバラキの首に10万ドルの懸賞金をかけましたが、誰も手にできませんでした。
バラキは、1971年に獄中で自然死を遂げます。
2年後、フランク・コステロが死亡、ニューヨークのクイーンズに埋葬されました。

バラキの証言をきっかけに、マフィアに対する取り締まりは一層厳しいものとなります。
大物が次々と法廷に引きずり出されます。
20世紀が終わるころ、捜査当局はマフィアの屋台骨の解体に成功、暗黒街の黄金期は幕を閉じたのです。
 
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かつての甲斐国・・・山梨県甲州市にそびえる天目山・・・
1582年、名将武田信玄の跡を継いだ武田勝頼がこの山の麓で無念の死を遂げました。
ところ変わって・・・かつての紀伊国・・・和歌山県の高野山・・・
1595年、天下人豊臣秀吉の養子である秀次が切腹を命じられ、寺の一室でこと切れました。
この二人には、3つの共通点がります。
①歴史にその名をとどろかせる偉大なる父を持っていたこと
②無念の死を遂げたこと
③死後、数々の汚名を着せられたこと
です。

勝頼が自刃し、20代続いた名門武田家が滅びました。
歴史からその名が消えたことで、勝頼のことを不肖の息子、愚将と揶揄しました。
死の直前、養父・秀吉に対し謀反を企てたという嫌疑をかけられた秀次は、暴君・摂政関白と言う悪名を馳せます。
本当にそうだったのでしょうか??
偉大な父の影に隠れ、今まで注目されてこなかった二人の戦国武将の実在とは・・・??

武田信玄の四男として生まれた武田勝頼・・・26歳の時、信玄の指名で後継者となります。
どうして不肖の息子と呼ばれた勝頼が武田家を継ぐことになったのでしょうか?
信玄は、甲斐の隣国だった相模の北条氏康、駿河の今川義元と同盟を結んでいましたが・・・
1560年桶狭間の戦いで今川義元が尾張の織田信長に討たれると、弱体化した今川の領地をとろうと信玄は信長と同盟関係を結びます。
そしてその証として信長の養女が勝頼の正室として迎えられました。
ところが・・・この同盟に、勝頼の兄で信玄の嫡男の義信が猛反発。
義信は今川義元の娘を妻にしていたので、今川家の立場をとっていたのです。
自分に異を唱えた義信に対し信玄は激怒、義信は幽閉され2年後自刃していまいました。
この時、次男・信親は出家、三男・信之もすでに亡くなっていたため、年功序列によって四男の勝頼を新たな後継者に指名しました。
ところが、信玄の家臣たちが猛反発!!
それほど勝頼は、後継者に相応しくない不肖の息子だったのでしょうか?
信玄の側室だった勝頼の母・諏訪御料人は、信玄が攻め滅ぼした信濃の豪族・諏訪氏頼重の娘でした。
諏訪家との融和を図ろうと考えた信玄は、勝頼が生れると諏訪家の男子が用いていた頼の文字を使った名を与え、諏訪家の跡取りにすることにします。
そして勝頼はやがて武田配下の諏訪家の領主として戦に参加するようになります。
このことが、勝頼が後継者に指名された際、大きな問題になりました。
武田の重臣たちにとって、長らく同僚として戦を戦ってきた勝頼が、館となることに反発があったのです。
もう一つは、勝頼はあくまでも諏訪勝頼・・・諏訪家の男であって、武田の人間ではないという・・・
武田家は代々嫡流が家督を継いできていました。
余所の家に養子になっていた人間が武田の家を継ぐということについては根強い反発があったのです。
家臣が勝頼が跡取りとなることに反対したのは、勝頼が”不肖の息子”だったからではなく武田配下の諏訪家の当主だったからです。

こうして勝頼は、家臣の反対を受けながらも信玄の後継者としてはれて武田勝頼を名乗ることとなります。
ところがその2年後、信玄は病死してしまいました。
すると、父・信玄の遺言が、さらに勝頼を苦しませます。
その内容は・・・
”勝頼の息子・信勝が16歳になり次第、家督を継がせ、勝頼はその後見人になること”
勝頼が正当な武田家の跡取りではなく中継ぎであると・・・真の後継者は勝頼の息子・信勝だといっているようなものです。
どうしてこのような遺言を残したのでしょうか?
ゆくゆくは勝頼の息子・信勝が跡を継ぐから・・・と、家臣と勝頼を配慮したものだったのですが、逆効果だったようです。
武田の家臣は、武田二十四将と言われ、一筋縄ではいかない者も多く、信玄と一緒に領土を大きくしてきたという自信もあるので、そんな人たちを勝頼がコントロールするというのは並大抵のものではありませんでした。
信玄が長生きをして、勝頼と家臣たちの関係をうまくつなげるような関係を作っていればよかったのですが、不運としか言いようがありません。

甲斐の虎と恐れられ、戦国最強の武将・武田信玄・・・
対して息子の勝頼は、後世愚将と蔑まれてきました。
織田信長と同盟を結んでいた武田信玄でしたが、越前の朝倉義景や北近江の浅井長政、さらには大坂の石山本願寺などが決起すると、信長包囲網に参戦します。
1573年三方ヶ原の戦いなどで、信長と同盟を結んでいた徳川家康を相手に戦いを優勢に勧めていましたが・・・
そのさ中、持病が悪化・・・甲斐へ戻る途中に亡くなってしまいました。
そんな父の無念を晴らすために、新生武田軍も織田・徳川連合軍に挑んでいきます。

1574年、勝頼は織田の領地である東美濃へ侵攻。
その勢いはすさまじく、1日で18もの城を落とします。
さらに、家康の領地へ侵攻した勝頼は、遠江にある難攻不落の城・高天神城を陥落させ、三河の足助城、野田城までも落としてみせるのです。
焦る家康をしり目に、勝頼が次に狙いを定めたのは、家康の息子・信康が城主を務める岡崎城でした。
勝頼は、徳川家の家臣・大賀弥四郎らと内通し、岡崎城を内外から攻め落とす作戦を立てます。
結局、済んでのところで情報が洩れ未遂に終わり、大賀弥四郎は処刑されます。
もし、岡崎城を占拠されていれば、信長の援護が絶たれ、浜松城にいた家康は孤立し、武田軍によって壊滅状態に追い込まれるところだったのです。
家康を追いつめた勝頼の見事な戦いを伝え聞いた信長は、同盟を結んでいた越後の上杉謙信にこんな手紙を送ります。

「勝頼はまだ若いが、信玄の軍法を守り、表裏をわきまえた武将 恐るべき敵である」

勝頼が侮れない存在であることを認めたのです。
しかし、その一方、勝頼の家臣たちは・・・

”これで勝頼さまは、益々我らの意見を聞かなくなる”

勝利を重ねていく度に、勝頼は独断で動くようになり、家臣たちとの溝は深まるばかりでした。
そして、1575年・・・ついに勝頼は織田・徳川連合軍との大一番を迎えます。
長篠の戦いです。
織田・徳川連合軍3万8千に対し、武田軍はその半分以下の1万5千。
当然勝頼の家臣たちは撤退を進言しますが・・・勝頼はそれを無視して突撃を指示!!
結果、武田軍は惨敗を喫し、信玄以来の家臣たちの多くが命を落としました。
どうして勝頼は無謀な戦いに挑んだのでしょうか?

あの場に信長、家康の二人がいる・・・信玄の果たせなかったこの戦いに勝てば、父を超えることができる・・・??
相すれば、武田家の中での権威を不動のものにできると考えたのです。
勝頼の家臣たちから武田家の跡継ぎとして認められていないという状況を打開したかったのです。

武田家の兵法書「甲陽軍鑑」には、勝頼は”強すぎたる大将”と記されています。
故に自分は父・信玄を超えているのだと過信してしまったのかもしれません。

一説に、家康は長篠の戦いの直前信長にこう迫ったといいます。

「もし信長殿が援軍を送らず、長篠が陥落したら勝頼と手を組み、織田と戦う所存」

それだけ、家康が勝頼率いる武田軍を恐れていたということ・・・
長篠の戦いで勝利した信長が、追い打ちをかけるべく上杉謙信に武田領に攻め入るように要請しますが・・・
なぜか謙信は動きませんでした。
勝頼は、信長の動きを察知して、既に謙信との和睦を成立させていたのです。
家康を追いつめ、信長の動きの先を読む・・・この時、信長42歳、家康33歳、対して勝頼は30歳・・・そう考えると武田勝頼は善戦し、名将の片りんを見せていたのです。

長篠の戦いで、大敗した武田勝頼は、領内での立て直しを図ります。
まず行ったのが検地・・・各農地からの年貢を厳しく定めることで、それまで不安定になりがちだった家臣たちの知行から得られる収入を確定させました。
そして勝頼は、それに見合う軍役を、家臣たちに課しました。
つまり、収入によって保有しなければならない兵士や武器などの数を厳密に定めたのです。
これにより、短期間で武田軍を再強化することに成功します。
勝頼は、商人と職人を管理します。
武具の安定供給、城づくりの際の資材の調達、人足の動員などを迅速に行えるようにしたのです。
さらに、城の移転を進めます。
祖父・信虎、父・信玄は躑躅ヶ崎館を居城としてきましたが、甲斐・駿河・信濃にまたがる領地を治めるには甲府は東に寄り過ぎていたため、勝頼は領土拡大も見据えて韮崎(新府城)を築城し、そこへ武田氏の本拠地を移しました。
東西を川に挟まれ、城を建てた七里岩台地の周囲は、25キロにわたって断崖が続いていて、新府城はまさに自然の要害でした。
新府城は、躑躅ヶ崎館に比べると、はるかに巨大で武田の築城技術を駆使したとてつもない大きいお城です。
他の戦国大名と比べても大きく、集大成の意味もありました。
ところが、そんな新府城を築城した翌年、勝頼は武田家を滅亡に追い込んでしまいます。

しかし、武田家滅亡は、勝頼のせいだけではなかったのです。
勝頼は、周辺諸国との外交交渉を、積極的に行っていきます。
信玄の時代から長年対立してきていた越後の上杉謙信との和睦が成立すると、そこに信玄時代から同盟を結んでいた相模の北条氏政を加え、甲斐・相模・越後の三国による和睦を画策・・・三国で同盟を結べれば、織田・徳川連合軍に十分対抗できると考えたのです。
しかし、勝頼の期待空しく、謙信が氏政との同盟を拒否したことで、あえなく破談に終わってしまいました。
さらに、暫くして予期せぬ事態が・・・氏政が、甲相同盟を破棄して信長と同盟を結んだのです。
勝頼は、西側から織田・徳川連合軍、東側から北条の攻撃を受ける羽目に陥ってしまったのです。
次第に劣勢になっていく勝頼・・・そんな勝頼に対し、家臣たちも不信感を募らせていきます。
そして・・・この最悪の状況の中、勝頼をさらに追いつめる出来事が・・・
1582年2月14日、奇しくも織田軍が武田領に進軍したその日・・・領内の浅間山が噴火しました。
当時、浅間山の噴火は、「東国に政変が起こる」前兆とされてきました。
さらに、この時信長の朝廷への根回しにより、勝頼が朝敵とされていたことから、家臣たちはこう考えたのです。

「帝が信長の必勝を祈願したことで、神は勝頼さまを見限ったのだ」

家臣たちは武田家はもうおしまいだと、次々に勝頼の元を去っていきました。
天にも家臣にも見放されたことで、勝頼は甲斐にある天目山まで逃げのびるも・・・
結局信長軍に追い込まれ・・・妻と息子と共に自刃したのです。
1582年3月11日、武田勝頼自刃、37歳でした。

「勝頼は紛れもない名将であったが、運が尽きてしまいああいう結果に終わってしまった」by信長


天下人の養子にして関白の座にあった豊臣秀次・・・
秀次は死後、殺生関白などの汚名を着せられてしまいます。
が・・・その人生の殆どは、秀吉の言われるままでした。
1568年、秀次は、百姓であった父・弥助と秀吉の姉であった智との間に・・・尾張の農家に生まれます。
しかし、当時織田信長の家臣であった叔父・秀吉の出世によってその人生が激変していきます。

1573年北近江の浅井長政の居城・小谷城攻めの直前、秀吉は浅井の重臣宮部継潤を織田方へ寝返らせるため、甥の秀次を人質代わりに継潤の養子として差し出します。
5歳だった秀次は、宮部吉継を名乗ることになります。
その後、一度は秀吉の元に戻りますが、13歳の頃、信長の家臣・三好康長との連携を深めるために養子に出されます。
自分の子供を政治に利用することは戦国の常でしたが、秀吉と妻・おねとの間には子供がいなかったため、甥である秀次がその代わりに秀吉の出世の道具として使われたのです。
2回目の養父・三好康長は、茶の湯・連歌を嗜む風流人・・・そんな康永から多大な影響を受け、文学や和歌を嗜み、茶の湯においては千利休の弟子だったともいわれています。
そんな教養ある秀次は、後に関白となる秀吉に、公家や諸大名の接待役として重宝されたといいます。

秀次の武将としての才覚は・・・??
1584年、羽柴秀吉が、徳川家康らと相まみえた小牧長湫の戦い・・・
秀吉軍10万に対し、徳川・織田信雄軍はわずか3万・・・
数の上で劣勢だった徳川軍は、小牧山に陣を構え動かずにいました。
相手の3倍の軍を要しながら、手出しできない状況に秀吉は苛立ち始めます。
そこで、池田恒興が、こんな作戦を提案しました。

「家康の本領である三河を攻めるふりをして、徳川をおびき出し、そこをたたいてはいかがなものか」

すると、秀次がこう申し出ます。

「私をその作戦の大将にしていただきたい」

秀吉は、作戦自体には乗り気ではありませんでしたが、秀次が大将を務めるならばと了承します。
秀次は恒興らと共に、意気揚々と出陣します。
ところが・・・家康がすぐにこの作戦を見破り、秀次軍に気付かれないように二手に分かれて追跡し、挟み撃ちにしたのです。
不意を突かれた秀次軍は、壊滅状態に・・・
大将の秀次は、命からがら逃げだしますが、恒興をはじめ、2500人が討ち死にしてしまいました。
この秀次の失態に、秀吉は激怒したといいます。

1583年の賤ケ岳の戦いで、同年代の福島正則、加藤清正らが大活躍をしていました。
秀次は焦っていたようです。
秀吉は怒り、秀次に責任を問う手紙を書いています。

”一時は殺そうと思った”
”今後行いを改めなければ首を切る”

とまで・・・
しかし、その手紙の最後にこうも書いています。

”ゆくゆくは、自分の名代として考えている”

秀吉から大きな期待を寄せられていた秀次は、秀吉の弟で自分の叔父にあたる羽柴秀長の支援もあり、その後傭兵軍団・雑賀衆・根来衆を討伐する紀州攻め、土佐の長宗我部正親を討つ四国攻めで武功をあげ、愚将の汚名を返上します。
この活躍により、秀次は近江20万石を与えられます。
大坂、京都を拠点にしていた秀吉が、秀次を隣接する近江においたのは、豊臣政権を支える大きな柱の一つとして認めたことの証でした。

豊臣秀吉の甥で秀吉の言いなりの人生を歩んできた秀次・・・一国一城の主になります。
しかし、その後、暴君という汚名を着ることとなります。
秀次は本当路暴君だったのでしょうか?
秀吉から近江20万石を与えられた秀次は、新しい町づくりに挑んでいきます。
その名残が、近江八幡市に残されています。
町を歩いていると真っ直ぐな道が多いことに気付きます。
当時の城下町の殆どが、敵の侵入を防ぐために行き止まりや袋小路を多く設けたのに対し、近江八幡の町は碁盤目状になっています。
秀次は、軍事拠点としてではなく、商業の中心地となるように町づくりを計画。
町にめぐらせた堀を、琵琶湖とつなぐことで舟で直接荷物を運び入れることができました。
さらに、上下水道を整備します。
町家と町家の間に、背割りという溝を作り、生活排水を流せるようにしました。
上水道は、遠方から引いてきた水を、竹の管を通して各緯度に分配し、常時使えるようにしました。
この時代、上下水道を完備した町は他にはなく、秀次の先見性が伺われます。
そして、秀次はインフラを整備したこの町に、信長の死によって活気を失っていた安土から多くの商人と職人を呼び寄せ、楽市楽座のような活気ある商業都市を築き上げたのです。
秀次は、軍事より商業を優先した経済都市を築き上げ、領民から喜ばれる平和な町づくりを実践した名君だったのです。

そんな秀次が、秀吉から跡継ぎとして指名されるのは、それから6年後の1591年のことでした。
この年、秀吉は良き理解者であった弟の秀長と、側室・淀の方との間にもうけた3歳の息子・鶴松を相次いで亡くします。
この時、秀吉55歳・・・自ら築き上げた豊臣政権を守るため、身内である秀次を養子とし、関白の座まで譲ります。
幼いころから秀吉の言いつけを守って生きてきた秀次が、ようやく手にした関白の座・・・喜びもひとしおでした。
ところが・・・その後、摂政関白の汚名を着せられることとなるのです。
そもそも殺生関白といわれるようになったのは、”太閤様軍記のうち”という本の中で、秀次がいろいろ悪事を働いたということが書かれています。
例えば、殺生禁止の比叡山で鹿狩り・・・??しかし、教養のある秀次がそんな大それたことをするのか??
罪もない旅人を千人斬り・・・??秀次は芸術に造詣が深く、秀吉所有の名刀の管理を任されていました。
秀次は、その切れ味を試すために、罪人を使って試し切りをした・・・と考えられます。
悪く、悪く、悪意のある書き方をされています。
”太閤様軍記のうち”は、太閤・秀吉を称賛する書物なので、秀吉に都合の悪いことは捻じ曲げられ、悪事はすべて秀次に押し付けた可能性があります。

秀次の存在は秀吉にとって都合が悪かった・・・??
天下人・豊臣秀吉に対する謀反を企てたとして、養子の秀次が切腹に追い込まれた秀次事件・・・
本当に秀次は謀反を企てたのでしょうか・・・??
1593年、秀吉と側室・淀殿との間に秀頼が生れます。
当然秀吉は、自分の息子・秀頼を跡継ぎにしたいと考えるようになりました。
しかし、すでに養子の秀次に関白の座を譲っていました。
そんな中、1595年、山へ鹿狩りに出かけ戻ってきた秀次に、衝撃の知らせが届きます。

「わしが山で仲間と落ち合い、太閤殿下に謀反を企てていただと・・・??」

秀次は、すぐさま秀吉に事実無根であることを訴えますが・・・弁解する事さえ拒否され、結局秀次は高野山で切腹に追い込まれてしまいます。
本当に謀反を企てていたのでしょうか?
秀次と親交のあった人々の証言によると・・・??

「秀次さまが謀反を企てた?? そんな馬鹿な・・・」by公家・山科言経
「秀次公は、謀反を起こすような方ではない」by前田利家
「秀次は、万人から愛され、野心家ではなかった」byルイス・フロイス

秀次は、謀反を企てるような人物ではないというのです。
では、どうして切腹に追い込まれたのでしょうか??
唯一の手掛かりは、秀吉が自分の養女の婿・吉川広家に宛てた手紙です。
そこには・・・
「自分の思い通りにならなかったから・・・」
秀次の何が思い通りにならなかったからなのでしょうか??
秀吉が、秀次に自分の息子に関白の座を譲れといった事を拒絶したのか??と思われます。

秀次は、謀反ではなく関白の座を譲れという秀吉の言葉を聞かなかったことによる切腹だと考えられます。
それでも怒りが収まらない秀吉は、秀次の正室、側室、子供、侍女など30人を処刑しました。
二度と跡継ぎ問題が起きないように・・・。


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独裁者アドルフ・ヒトラー・・・彼には唯一心を許した正式な妻がいました。
その名はエヴァ・ブラウン・・・ヒトラーより23歳年下の女性です。
しかし、その存在はドイツ国民に知らされることはありませんでした。
秘密の関係を続けたエヴァとヒトラー・・・二人が結婚式を挙げたのは、共に命を絶つ前日でした。
独裁者アドルフ・ヒトラーが愛した一人の女性・・・エヴァ・ブラウン。
幼いころから自由奔放、政治には関心がなく、ハリウッド女優になることを夢見ていました。
やがてヒトラーと恋人となると、エヴァはヒトラーが用意した豪華な山荘で暮らしました。
ファッションを楽しみ、大好きな動物を飼い、気ままに過ごす日々・・・
第二次世界大戦が勃発し、ドイツ国内が戦火に包まれる中でも、身の危険や貧困からは無縁の暮らしでした。
ヒトラーをはじめ、ナチスドイツの高官と他愛もない会話で周囲を和ませたエヴァ・・・
多くの召使に囲まれ、山荘の女主人と称しました。
しかし、その裏では家族との確執を抱えていました。
ヒトラーの過激な言動に反発し、別れを勧める父・・・
ナチスドイツの反ユダヤ政策に反対する姉・・・
そしてヒトラーには常に何人もの女性の影が付きまといました。
その一方でエヴァの存在は極秘・・・山荘という鳥かごに閉じ込められていました。
しかし、ナチスドイツが滅びる2か月前・・・
エヴァは自ら鳥かごを出てヒトラーがいる戦火のベルリンに向かいました。

エヴァ・ブラウンとヒトラーが出会ったのは1929年。
17歳のエヴァは、ミュンヘンにある写真館で働いていました。
そこへ店主に連れられて一人の男がやってきました。

「おかしな口ひげを生やし、大きなフェルトの帽子をかぶった中年紳士が入ってきたの
 私の足を見つめていて、あまりいい気がしなかったわ」

「君は、あの方が誰だかわからないのか?」

「さあ・・・」

この男こそ、アドルフ・ヒトラー。
当時40歳、急激に勢力を伸ばしていたナチ党の党首・・・すでにメディアを賑わす有名人でした。
エヴァにとっては、この中年男の初対面の印象はよくありませんでした。
しかし、後にエヴァとヒトラーは恋人同士になします。
どうして惹かれていったのでしょうか?

エヴァ・ブラウンは、1912年、ドイツ・ミュンヘンの中流家庭で誕生します。
エヴァは三姉妹の次女で、教員だった父のフリードリヒと母フランツィスカの元、娘たちは厳しく教育されました。
学校の成績は優秀でしたが、いたずら好きの問題児・・・教師たちに手を焼かせる生徒でした。
エヴァは思春期を迎えると、父の監視は益々厳しくなります。
父は娘たちの手紙すべてに目を通します。
門限を設けて夜10時には床につくように・・・。
1928年、16歳になるとカトリック修道会の女学院に入学させ、模範的な淑女に育てようとしました。
しかし、この頃エヴァが夢中になったのは恋愛小説と映画。
特に学芸会では演劇に熱心に取り組みます。
いつしか、ハリウッド女優として成功することを夢見るようになっていました。

教師の父親が一番重要視していたのは、娘たちに一流の専門教育を受けさせること・・・。
しかし、エヴァ達娘は、反抗的でした。
17歳になったエヴァは、近所の写真館で働き始めます。
これが、彼女の運命を大きく変えることとなります。

この頃ドイツは、第1次世界大戦で敗戦し荒廃していました。
戦争を再び起こさないように軍備を制限され、戦後賠償で経済はどん底・・・町には失業者が溢れていました。
そんな時、経済復興と失業問題の解決を掲げ、支持を集めたのがヒトラー率いるナチ党でした。
エヴァが働く写真館の店主は、熱烈なナチ党員・・・ヒトラーの専属写真家も務めていたため、店はヒトラーの写真で埋め尽くされていました。
ヒトラーと出会った夜、エヴァは父に聞いてみました。

「アドルフ・ヒトラーってどんな人?」

「ヒトラー?
 あいつは自分が万能だと思い上がっている青二才だ!!」

父親はもちろん心配していました。
なぜなら、当時のナチ党は、極めて暴力的で殺人を犯すこともありました。
しかし、エヴァは、父への反抗としてヒトラーに近づきました。
一方、ヒトラーは、エヴァを気に入りました。

「彼女は私を和ませるんだ」

ヒトラーは、周りを側近や気の置けない人で固める傾向にありました。
そういった狭い交友関係の中で女性も選んでしまうのです。
その後、ヒトラーは写真館を訪れるたびにエヴァへプレゼントを持ってくるようになりました。

「エヴァさん・・・オペラに招待してもよろしいですかな?」

23歳年上の男からの紳士的な誘いに魅了されていったエヴァ・・・
出会いから2年がたったころには姉にこう打ち明けています。

「絶対にあなたもヒトラーに会うべき!
 会えばあの人のイメージも変わるから・・・!!」

ヒトラーの女性に対するマナーには、うっとりとするものがありました。
夢中になってしまったのは、エヴァからでした。
しかし、この頃のヒトラーには特別に親密な女性がいました。
姪のゲリ・ラウバル(23歳)です。
ヒトラーの姉の娘で、エヴァより4歳年上でした。
ヒトラーとゲリは、2年の同居生活を送り、叔父と姪を超えた深い関係だったといいます。

「私は姪のゲリを愛している
 だが、結婚は出来ない」

タイプとしては、エヴァとおなじように非常に快活で行動的な女性でした。
そんな中、ヒトラーとエヴァが急速に近づく事件が起こります。
1931年ゲリが自ら命を絶ちました。
一説ではヒトラーの束縛が原因ともいわれています。
ヒトラーは憔悴しきっていました。
ゲリを失ってしまったショックがあまりにも大きかったのです。
それを見たエヴァは・・・

「ヒトラーにとってあの女は、きっと特別な人だったのね」

この直後、エヴァは思いがけない行動に出ます。
髪型や風貌、話し方まで自分をゲリそっくりに真似たのです。
いつしか二人は恋人同士になりました。
エヴァ19歳、ヒトラー42歳の時でした。

自ら望んでヒトラーの恋人となったエヴァ・ブラウン・・・しかし、わずか2年の間に2度も自殺を企てます。
何が原因だったのでしょうか?
エヴァがヒトラーと出会って3年後、1932年7月、ヒトラー率いるナチ党は、ドイツ国会選挙で第1党に躍進します。
ますます政治活動に力を入れるヒトラー・・・
エヴァをミュンヘンに残し、ドイツ中を飛び回ります。
以前より会う時間は減っても二人の関係は続いていました。
当時ヒトラーは、側近にこう漏らしています。

「私はミュンヘンにいる一人の娘を愛している」

しかし、エヴァの存在は、限られた一部の人だけの秘密でした。
それは、ヒトラーの結婚に対する考えからでした。

「私には既に花嫁がいる
 私はドイツと結婚したのだ!」

独身であることで、女性の支持が得られるという考え方がヒトラーにはありました。
結局最後まで、ヒトラーはエヴァと言う存在を国民の目からひた隠しにしました。
ヒトラーにとっては、女性よりも政治の方が大事だったのです。

この時、エヴァ・ブラウンは20歳・・・ミュンヘンの実家でヒトラーからの連絡を待つだけの生活でした。
そんな中、ある事件を引き起こします。
エヴァは、ヒトラーに別れの手紙を投函・・・そして・・・銃弾は首をかすめ、一命をとりとめました。
知らせを聞いたヒトラーは、すぐに病院へ駆けつけました。
そして医師にこうただしました。
 
「彼女は本気で自殺しようとしていたのか・・・??」

「彼女は心臓を狙っていましたが、なんとか助けられました」

エヴァは、ヒトラーとの関係が終わるのではないかと深く絶望していました。
これからは、この娘を気にかけてやらなければ・・・
2度とこんなことが起きてはならない・・・
ヒトラーは、いつでも連絡が取れるようエヴァの部屋に電話を設置しました。
自殺未遂の翌年・・・1933年1月にヒトラーは首相に就任。
一層政局に謀殺されていきます。
21歳の誕生日を迎えたエヴァの元には、ヒトラーから指輪やネックレス、ブレスレットが届きました。
しかし、肝心のヒトラー本人は現れませんでした。

「彼が殊勝になったところで、私に何の関係があるの??
 彼に会えない日が増えるだけだわ」

翌年ヒトラーは、ナチ党の党首・首相・大統領と全ての権限を持つ総統に就任し、独裁色を強めていきます。
武力を背景に、反対勢力を排除していきます。
しかし、エヴァは、ヒトラーの政治には関心を示さず、生涯ナチ党に入りませんでした。
そんなエヴァにとっての最大の関心ごとは、ヒトラーの周りの女性たちでした。
絶大な人気を誇るヒトラーの周りには、有名女優や歌手、映画監督などが集まりました。
青年時代は画家志望だったヒトラーは、芸術的才能を持つ女性たちと積極的に触れ合います。
それに対して、エヴァの存在はあくまで秘密にされ、公の行事に参加する事さえ許されませんでした。
エヴァは、ヒトラーに寄ってくる女性たちに、激しい嫉妬心を抱いていたといいます。
ヒトラーは、多くの著名な女性と出会っては、彼女たちの機嫌を取るため贈り物までしていました。
しかし、エヴァは、自分がとても難しい立場にいることも自覚していて、すべてを受け入れるしかありませんでした。

エヴァの23歳の日記には・・・ヒトラーと自分の関係が・・・その時々の気持ちが書かれています。

「昨日は思いがけなく彼が来て、うっとりとするような夜になったわ」

それから2週間後には・・・

「彼はもう、14日間も来ていない
 私は彼がなぜ怒っているのかわからない」

さらに12日後には・・・

「今は政治的にいろんなことが起きているから彼が私に興味を示さないのは当然のことよ
 ただ静かに待っていればいいのよ」

この日記が書かれた1935年3月16日、ヒトラーは第1次世界大戦後に禁止されていたドイツの再軍備を宣言しました。

エヴァの日記に書かれているのは、ありふれた日常ばかり・・・
国がひっくり返って、世界が崩壊するかもしれない中で、エヴァがはヒトラーが自分のために時間があるかどうかという観点からしか見ていませんでした。

翌月のエヴァの日記には・・・

「愛なんてものは彼の計画から外されてしまったんだわ」

そしてエヴァは再び事件を起こします。
自宅で大量の睡眠薬を飲み、2度目の自殺を図ったのです。

「親愛なる神様、今日中に彼と話すことができるようにお力をお貸しください
 明日では遅いのです
 私は35錠飲むことに決めました」

しかし、姉がすぐに発見して手当てをしたため、命はとりとめました。
この時姉は、エヴァの自殺の原因を両親に知られるのを恐れ、日記の一部を破りとりました。
エヴァの日記は後になくなりますが、姉が破った4か月分だけが偶然残りました。
再び自殺を図ったエヴァに対し、ヒトラーは驚くとともに心打たれたといいます。
ヒトラーは、自分に絶対的な忠誠心を誓った仲間に非常に温情をかけるような面があります。
自分の命をかけてまで、自分に忠誠を示してくれたというのが、ヒトラーの気持ちを動かしました。
2度目の自殺未遂から3か月後、ヒトラーは公式行事にエヴァも参加することを許しました。

1935年秋、ニュルンベルク党大会・・・ヒトラーのもとに10万もの人が集まるのをエヴァは初めて目の当たりにしました。
この党大会中にヒトラーはある重要な法案を可決しました。
ニュルンベルク法と呼ばれるユダヤ人の市民権を奪う人種差別法です。
エヴァは日記にこうつづっています。

「地球でもっとも偉大な人の恋人の私」

エヴァ・ブラウン23歳の秋のことでした。

エヴァとヒトラーが出会って6年が経った1935年、父・フリードリヒはヒトラーに手紙を送ろうとしました。
恋人とはいえ、秘密で結婚もしようとしないというエヴァとの中途半端な関係を心配したからです。
「子供達は結婚して初めて両親のもとから離れるもの」
これ以上付き合うなら、エヴァと結婚してほしいと遠回しに迫っています。
この手紙はヒトラーに届けられる前に、エヴァに見つかり破り捨てられてしまいます。
しかし、父が手紙の写しを持っていたため、どんな内容だったのかわかっています。

もちろん、エヴァは結婚したかったのです。
しかし、自分の立場を受け入れ、一度たりともヒトラーの邪魔をしようとはしませんでした。
常にヒトラーの言われたように動きました。
だから、あのような関係が長く続いたのです。
ミュンヘン近郊・・・自然に囲まれたオーバーザルツベルクの山荘・・・ここを気に入ったヒトラーは、山荘を買い取って改築しました。
改築が完成すると、エヴァ・ブラウンは実家から出て山荘で暮らすようになります。
この時、24歳・・・山荘には巨大な大広間をはじめ、30以上の部屋があり、最高級の木材などが使われていました。
人里離れた山荘は、関係を公にできない二人にとって絶好の隠れ家でした。
この山荘で、エヴァに仕えていた女性の証言が残っています。

「”ハッキリ言っておくわ”と初日に言われたの
 ”あれがヒトラーの部屋で、こっちがエヴァの部屋、利口ならば2人の関係はわかるわね
 あともうひとつ
 何を見ても、何が起こっても、絶対口外したり、書き留めたりしないこと
 エヴァの存在は極秘よ”とね
 だから、2人がどこまで進展しているのかは分からなかった」

エヴァとヒトラーは、人前では仲のいい友人として振る舞い、決して親密な態度は見せませんでした。
そんな2人が楽しみにしていたのが夜の映画鑑賞です。
その日何を見るか決めるのはエヴァ、特に好きだったのはハリウッド映画「風と共に去りぬ」でした。
エヴァは、主役のスカーレット・オハラを真似た衣装を着て、映画の一シーンを再現するほどお気に入りでした。

エヴァが山荘に移って3年が経った1939年、第2次世界大戦勃発。
9月、ドイツ軍はポーランドに侵攻。
戦争が始まると、山荘は総統大本営となりました。
ヒトラーは、ここで日夜作戦会議を開いて戦略を立てました。

戦争中でも、エヴァの暮らしにはほとんど変わりはありませんでした。
しかし・・・エヴァ自身にはある変化が起きていました。
ヒトラーが山荘を離れるとエヴァはそれを待っていたかのようにいそいそとパーティーの準備を始めるようになります。

「それまでおとなしくしていた彼女が一瞬で豹変した
 すぐに様々なお楽しみの準備が始まった
 はめを外し、まるで子供だった」

さらに、エヴァは家族も山荘に呼んで一緒に優雅な生活を送るようになりました。
そこには、ヒトラーをかつての青二才と嫌っていたフリードリヒの姿もありました。
この頃には、父もナチ党に入党しています。
いつしかエヴァは、自らを山荘の女主人と名乗るようになっていました。

開戦当初、ヒトラー率いるドイツ軍は快進撃を続け、1940年6月にはパリを占領するなどヨーロッパ中を震え上がらせました。
戦争を拡大する裏で、ナチスは数百万人のユダヤ人を強制収容所に送ります。
こうしたユダヤ人迫害など、ヒトラーの政策を批判していたのは姉のルイゼでした。
山荘で公然とヒトラーを批判する姉に対して、エヴァはこう言いました。

「総統が、あなたを強制収容所送りにしても私は助けないわよ!」

第2次世界大戦末期の1945年4月30日・・・
ナチスドイツの総統官邸でエヴァはヒトラーと共に命を絶ちました。
一体どうして・・・??
1944年、ヒトラー率いるナチスに開戦当初の勢いはありませんでした。
6月には連合軍がノルマンディ上陸作戦に成功。
ドイツ国内では市街地への空襲が激化!!
山荘にいたエヴァは、故郷ミュンヘンから立ち上る炎をじっと見つめていたといいます。
更に翌月には、ヒトラー自身に衝撃的な事件が起こります。
1944年7月20日、ヒトラー暗殺未遂事件・・・会議中、ヒトラーの傍に置かれていたカバンが爆発・・・戦争の敗北を悟った側近たちのクーデターでした。
この爆発で4人が命を落としたものの、ヒトラーは奇跡的に軽傷を負っただけで済みました。
この時、エヴァのもとにヒトラーからあるものが届けられました。
爆発の衝撃でボロボロになった軍服です。
エヴァはヒトラーにこう返事を書きました。

「あなたの身に万一のことがあったら、私は生きていくことができません
 たとえ死んでもあなたについていくと誓ってまいりました
 あなたを愛することが私の全てです・・・あなたのエヴァ」

1944年10月、エヴァは細かい遺書を書きます。
遺書には現金や車、買いそろえた毛皮のコートやじゅうたんなど、家族や友人の誰に渡すか・・・事細かに記されていました。

1945年1月、連合軍は首都ベルリンに迫っていました。
ヒトラーは、総統官邸の地下に作られた地下壕に籠り、ベルリン防衛を指揮。
エヴァに対しては、戦火から遠く離れた山荘に留まるように指示していました。
しかし、3月7日、ベルリンの戦火を抜けて走る一台の車が・・・
エヴァ・ブラウンでした。
ヒトラーは、彼女が言いつけに背いてやってきたことを心から喜んだといいます。
その後も連合軍の猛攻は続き、地下壕の側近たちにも不安が募っていきます。
しかし、エヴァは、地下壕に家具一式を運び込んで、美しく着飾って、山荘にいるのと同じように過ごしました。
エヴァは、ヒトラーが部下の前で弱みを見せることを許さず、時には軍服の乱れを注意することもありました。

「そんな薄汚れた格好で歩き回ってはいけないわ」

1945年4月、連合軍は総統官邸の目前まで迫ってきました。

「1日ごと、いや1時間ごとに最後が私たちに近づいてきています
 総統は、この戦争の全ての希望を失いました
 けれど、私たちは生きて捕らわれるつもりはありません」

敗戦が濃厚となり、逃亡する兵士が続出・・・
その中にエヴァの妹の夫・・・義理の弟もいました。
逃亡先で捕まった義理の弟には、処刑命令が下りました。
しかし、エヴァは救いの手を差し伸べませんでした。
すでに地下壕は絶望的な状況・・・連合軍がいつ押し寄せてもおかしくありませんでした。
そして、4月29日未明・・・
エヴァは、ヒトラーと結婚式をあげようとしていました。
写真館の出会いから16年が経っていました。
エヴァは、光沢を帯びたロングドレスに身を包み、美しい宝石で着飾ります。
式は、ナチスドイツの婚姻条例に従ってベルリン市役員立会いの下で行われました。
結婚証明書に署名する際、エヴァはブラウンと書きそうになり、慌ててエヴァ・ヒトラーと書き直しました。
朝になるとエヴァは使用人にこう言います。

「私のことをヒトラー夫人と呼んでもいいのよ」

結婚式の翌日・・・1945年4月30日午後3時・・・
ヒトラー夫妻はそろって部屋へと入っていきました。
そして銃声が・・・こうして、エヴァ・ヒトラー33年の生涯に幕を下ろしました。

2人の遺体は地下壕の外に運び出され、焼却されました。
2日後ベルリンが陥落し、ドイツは敗戦を迎えます。

 
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映画の都・ハリウッド・・・スクリーンの魔術が、アメリカでもっとも華やかなビジネスを生み出しました。
スターが誕生します。
チャールズ・チャップリン、クラーク・ゲーブル、マリリン・モンローが、世界を虜にしました。
映画制作会社の大物が業界を牛耳り、スキャンダルも飛び交います。
思想をめぐる戦いも・・・しかし、戦時にも、平時にも、ハリウッドは適応と進化を繰り返します。
アメリカの夢の工場・・・ハリウッドの物語。

アメリカの映画産業は、ニュージャージー州で産声を上げました。
1893年発明家エジソンが、アメリカ初の映画スタジオを設立、スタジオはブラック・マライアと呼ばれました。
外見が真っ黒で、警察の護送車を思わせたからです。
しかし、まだ作品をスクリーンに映し出すことは出来ず、お客はキネトスコープと呼ばれる箱にコインを入れ、のぞき窓からフィルムを眺めます。
1894年制作の「くしゃみ」という5秒間の作品が残っています。
技術の進歩と共に、映画は多くの人が楽しめる娯楽となりました。
商店を改装したミニシアターがいくつも登場します。
このような映画館は、ニッケルオデオンと呼ばれました。
ニッケル・・・5セント硬貨でチケットが買えたからです。
1903年の映画「大列車強盗」は、上映時間12分、ストーリーもありました。
1907年には、週に200万人が映画に出かけたといわれます。
映画人気が高まるにつれ、東海岸に制作会社が続々と誕生します。
そこで、エジソンの会社を中心とする大手9社は、モーション・ピクチャー・・パテント・カンパニーを設立。
撮影と上映の技術を独占し、競争相手に圧力をかけて廃業に追い込みました。

1910年、映画監督のD.W.グリフィスは、矢が色気のため、西部カリフォルニア州に赴きました。
そしてたまたまある村に立ち寄ります。
なだらかの丘と果樹園の広がる人口5000人の村です。
村からロサンゼルスまで伸びる16キロほどの通りは、まだ世に知られていない子の小さな村の名をとって、ハリウッド大通りと呼ばれるようになります。
グリフィスの作品「In Old California」は、初めてハリウッドで撮影された映画です。

様々な地形に富み、一年を通じて晴れが多いカリフォルニア・・・しかも、エジソンが独占支配する東海岸からは、4000キロ離れています。
ビジネスチャンスにひかれ、独立系の制作者たちは西を目指しました。
1912年、東海岸で映画ビジネスをしていたカール・レムリがユニバーサルを設立します。
後にハリウッドの巨大企業となるこの会社は、28万坪と言う広大な敷地に世界最大の制作スタジオを造りました。
ユニバーサルは、数多の従業員を雇います。
レムりの成功を受け、業界の人々が次々と西海岸に拠点を移します。
プロデューサーのアドルフ・ズーカー、ジェシー・ラスキー、セシル・B・デミル、サミュエル・ゴールドウィンがパラマウントの前身となる会社を設立、もう一人のパイオニア、ウィリアム・フォックスはエジソンの独占は違法だと訴え、勝利します。
自由になった映画産業は、カリフォルニアを拠点に急速に成長しました。
ハリウッドの映画制作会社は、新しいビジネスモデルを生みました。
映画を作るだけではなく、劇場チェーンも所有していました。
そのため、一定数の観客を確保することが可能でした。

1914年、イギリス人の俳優・チャップリンの二本目の出演作「ヴェニスの子供自転車競走」で、トレードマークとなるキャラクター・放浪者チャーリーに扮し、一躍スターに・・・。
チャップリンは監督も務めました。
1916年映画会社が彼に支払った年俸は70万ドル・・・社長の給料の10倍近くに当たります。
時はまだ無声映画の時代・・・台詞抜きで楽しめるコメディーが人気を集めました。

大スターの一人・・・メアリー・ピックフォード。
1916年、パラマウントと結んだ専属契約は前代未聞の100万ドル・・・ピックフォードを頻繁に起用したのが、D.W.グリフィスです。
1915年、グリフィスは、新しい技法を駆使した「国民の創生」を発表。
南北戦争を舞台としたアメリカ初の壮大な人間ドラマです。
上映時間は3時間・・・1万8000人を雇い、制作費10万ドルを投じました。
興行収入は、現在の価値で2億5000万ドルにのぼったといわれています。
しかし、議論が巻き起こりました。
白人至上主義団体クー・クラックス・クランを正義として、アフリカ系アメリカ人を敵として描いていたからです。
上映禁止を求める抗議運動が起きました。
グリフィスは謝罪しませんでした。
1930年作品の再公開に当たり、こう弁明しています。

「当時、KKKは必要でした。
 社会維持に貢献していました。」

それでも独創的な新しい手法によって、グリフィスはハリウッド一の名監督の座を手にしました。
第一次世界大戦中、プロパガンダ映画を撮影するため、特別にフランスの塹壕への立ち入りも許されました。
戦争の資金集めに奔走したのが、ハリウッドのスターたちです。
ワシントンでメアリー・ピックフォード、チャールズ・チャップリン、ダグラス・フェアバンクスが、戦時公債を宣言します。
一行は各地を回り、スターに頼まれれば、市民たちは喜んでお金を出しました。
終戦までに集まった金額は、およそ170億ドル・・スターは今や、国民の恋人でした。

しかし、権力を握っていたのは制作会社です。
ユニバーサル、パラマウント、フォックスにワーナーブラザーズとコロンビアも加わりました。
会社は報酬や芸術表現の面で、俳優を厳しく管理しました。
自由を求めて反旗を翻した者もいます。
ピックフォード、チャップリン、フェアバンクスは、グリフィス監督と共に、1919年にユナイティッドアーティストを設立。
金儲けの手段ではなく、芸術としての映画に道を開く出来事でした。
しかし、大手スタジオには太刀打ちできません。
資金集めは難航し、制作は停滞します。
旗挙から5年間は、平均で年に5本の作品しか世に送り出せませんでした。
仕事上の同志だったフェアバンクスとピックフォードは、私生活でもパートナーになりました。
夫のいたピックフォードは、離婚によってキャリアを失うのでは??と心配します。
しかし、国民はフェアバンクスとの結婚を究極のハッピーエンドとして祝福。
ハリウッド発の大物カップルの誕生でした。
夫妻はビバリーヒルズに豪華な新居を構え、撮影隊を招集します。
一帯はすでに高級住宅街として有名でした。
ご近所さんはチャップリンでした。
通称ピックフェアと呼ばれた二人の邸宅には、ハリウッドのセレブ達が集うようになりました。

1920年には、世界の映画の大半がハリウッドで制作されました。
映画はアメリカ第4の産業となり、4万2000人以上を雇用していました。
映画産業に関わりたいという夢を持って、大勢がハリウッドに押し寄せました。
ロサンゼルスの人口は、1920年代に倍増し、アメリカ第5の都市へと成長します。
住宅地が広がっていきます。
1923年、大きな資材を丘の上に運ぶ人々・・・新興住宅地を宣伝する高さ15mの巨大看板を作るためです。
費用は2万1000ドル・・・現在の30万ドル相当でした。
4000個の電球が浮かび上がらせたのは、HOLLYWOOD LANDの文字・・・
一次的な広告の予定でしたが、1949年にLANDの4文字が取り払われ、今もこの地のシンボルであり続けています。
1920年代初頭、ハリウッドほど自由奔放な町はありませんでした。
スクリーンの中にも外にも怪しげな雰囲気が漂うようになりました。

そして1921年9月・・・事件が起きます。
大人気のコメディアン、ファッティー・アーバックルが、強姦殺人の罪で逮捕されたのです。
被害者は、女優ヴァージニア・ラッペでした。
アーバックルは、サンフランシスコの高級ホテルでのパーティーの後、犯行に及んだとされます。
ハリウッド初のセックススキャンダルを受け、業界はアメリカ映画制作配給業者協会を創設。
共和党の政治家ビル・ヘイズを初代会長として招きました。

ヘイズは、プロダクションコードと呼ばれる倫理規定を導入します。
しかし、実態は掛け声にとどまり、規定に従わせる権限は、ほとんどありませんでした。
ハリウッド流のパーティーは終わりませんでした。
映画は古いモラルを打ち破るための大胆な挑戦でもありました。
ラブシーンの撮影は、監督の腕の見せ所・・・セクシーな魅力を前面に押し出す俳優も登場します。
ルドルフ・ヴァレンチノ・・・別名、ラテンの女たらしと呼ばれたスターです。
ヴァレンチノは、1926年胃潰瘍が原因で31歳と言う若さで世を去ります。
ファンは悲しみにくれました。
遺体はニューヨークで3日間安置され、何千人もがスターの死を悼みました。
1927年には、1週間にアメリカ人の半数にあたる5700万人が映画館を訪れました。
需要に応え、各地に映画館が急増します。
ロサンゼルスのハリウッド大通りには、興行師シド・グローマンが200万ドルを投じたチャイニーズ・シアターが登場。
スターが劇場前の歩道に、手形足形をつける伝統は、この時始まりました。
第1号はダグラス・フェアバンクスと、メアリー・ピックフォードでした。
同じ年、フェアバンクスとピックフォードは、ハリウッドの伝統ある組織の立ち上げにも参加。・・・画芸術アカデミーです。
1929年から始まったアカデミー賞授賞式は、最も華やかな映画イベントとなり、受賞者に与えられるオスカー像と共に、世界に知られるようになります。
映画業界は、活気に満ち溢れていました。
さらにこの時、映画を根本から変える革命が起ころうとしていました。

1927年、ニューヨークのタイムズスクエア・・・
革命の瞬間に立ち会おうと、ワーナー劇場に詰めかける人々・・・世界初の長編トーキー映画「ジャズシンガー」のプレミア上映です。
アル・ジョンソンの記念すべき第一声に、観客は大興奮しました。
トーキーの登場で、映画の作り方はがらりと変わりました。
音声を拾うため、撮影場所は屋内の特設スタジオに変わりました。
かつて活躍した大掛かりなセットは、もはや使われることも無くなり、取り壊されました。
トーキー映画の名脇役は、サイレント時代からMGMのトレードマークだったレオ・ザ・ライオンです。
何頭ものライオンが、レオ役を務めてきましたが、最も有名なのはジャッキーでした。
1927年、ジャッキーは特別仕様の飛行機で、MGMの宣伝ツアーに出ました。
ところが、サンディエゴを飛び立った5時間後、飛行機はアリゾナの山中に墜落、パイロットは救助を求めに行き、ジャッキーは4日間残されたサンドイッチを食べて生き続けました。
MGM幹部が真っ先に聞いたのは、「ライオンは無事か?」と言う言葉でした。
事故は宣伝となり、ジャッキーは幸運のライオンと言われ大いに甘やかされます。
1928年、その声が初めて劇場に轟きます。
トーキー映画の象徴でした。
トーキーの到来と共に華麗な変身を遂げたのが、元コーラスガールのルシール・フェイ・ルスールです。
テキサス出身のルシールは、南部訛りを無くすため懸命に努力します。
彼女の名前の響きが気に入らなかったMGMは、雑誌で新しい名前を公募、賞金は1000ドルでした。
新しい名前は、ジョーン・クロフォード・・・MGMは、その貧しい生い立ちを隠して、新しいプロフィールを作ります。
1929年、彼女はダグラス・フェアバンクスの息子と結婚し、ハリウッドのセレブの仲間入りをしました。

MGMの幹部ルイス・B・メイヤーは、莫大な儲けを産むスターたちを徹底的に管理します。
1930年代には、60人以上のスターと契約し、MGMはハリウッドの中心的存在となりました。
映画会社は養成学校を作り、新たなスターの発掘に努めます。
授業の様子を撮影し、プロモーションにも利用しました。
俳優の卵たちが、カメラの前でトレーニングを受けます。
女性たちは完璧なレディーを演じるように求められます。
歩き方講座もありました。
キスの練習も・・・映画会社は自分達が求める俳優を育てます。
スターの生活は優雅でした。
俳優たちがニュース映画に登場する時は、常に映画会社が万全な体制をとっていました。
1937年、アメリカ人の平均所得は1800ドルでした。
映画スターはこの額をはるかに上回り、クラーク・ゲーブルの年収は28万ドル余り・・・しかし、アメリカで最も高額な報酬を手にしていたのは、MGMのボス、ルイス・B・メイヤーで、その額は110万ドルでした。

憧れの的ハリウッドは、その煌びやかさゆえに議論の的にもなります。
メイ・ウエスト主演の「妾(わたし)は天使ぢゃない」のプレミア上映が1933年にありました。
ウエストは、悪名高き女優でした。
舞台での過激な演技でわいせつ罪で逮捕され、禁固10日の刑を受けました。
保守的な宗教団体は、ウエストの映画の性描写に拒否反応を示し、セックスと暴力を賛美する映画界の傾向を非難します。
ハリウッドはこの批判をかわそうとしました。

倫理規定の適用を最初に受けたのが1934年の「ターザンの復讐」でした。
ジョニー・ワイズミュラーとモーリン・オサリバンの代役が及ぶシーンは裸が問題となりカットされました。
検閲の時代が、この後30年続きます。
業界は方向転換をし、もっと無邪気で愛らしいスターを求めることにしました。

わずか5歳のシャーリー・テンプルです。
映画「歓呼の嵐」で歌とダンスを披露し、アメリカ人の心をつかみました。
フランクリン・ルーズベルト大統領は、この少女が大恐慌で落ち込んだ人々を元気づけるのを見てこう言いました。
「この国にシャーリー・テンプルがいる限り、私たちは大丈夫だ」
映画スターとして初めて大統領の誕生日に歌も歌いました。

1939年には、365本の映画が公開され、週に8000万枚のチケットが売れました。
そのほとんどが、映画史上空前の大ヒット、「風と共に去りぬ」のチケットでした。
プロデューサーのデイヴィッド・セルズニックは、キャスティングに2年を費やします。
ポーレット・ゴダードを含む32人がスカーレット・オハラ役の候補にあがりました。
最終的にこの大役を射止めたのは、イギリス人のビビアン・リーでした。
レット・バトラー役にはクラーク・ゲーブル、アシュレー役にはレスリー・ハワードが決まりました。
ビビアン・リーと、オリビア・デ・ハビランドがセルズニックと共にアトランタに姿を現すと市民は熱狂。
しかし、最も大きな歓声を浴びたのは、ハリウッドのKing・・・クラーク・ゲーブルでした。
ジョージア州知事は、ワールドプレミアの日を市の休日とし、100万人以上がお祭りに加わります。
スターのパレードを見ようと、30万人が通りを埋め尽くしました。
しかしこの作品も、「国民の創生」と同じく人種の問題を浮き彫りにします。
プレミア会場には、奴隷のマミー役ハティ・マクダニエルをはじめ黒人俳優の姿はありませんでした。
劇場には白人しか入ることが許されなかったのです。
人種差別は、アメリカ全土におよんでいました。
アカデミー賞授賞式では、セルズニックが頼み込み、やっとハティ・マクダニエルの出席が許されます。
しかし、彼女は何処にも写っていません。
他の候補者との同席は許されず、遠く離れた席があてがわれていたのです。

風と共に去りぬは、過去最多の8部門を受賞、ハティ・マクダニエルは助演女優賞に輝きました。
アフリカ系アメリカ人として初めてのことです。
人種差別は、この後何十年もハリウッドに残り続けます。
さらに、ハリウッド自体にアメリカへの忠誠度が問われる時代がやってきます。

第二次世界大戦さ中の1942年、ハリウッドスターは国民へ戦争への参加を呼びかけました。
ジェームズ・スチュアートもその一人です。
当初は痩せすぎのため合格ラインにたらず、スパゲティとステーキとミルクセーキで体重を増やしました。
まだ基準より数十グラム軽かったものの、軍医を説き伏せて合格。
陸軍航空軍の爆撃機パイロットになり、国民の入隊を呼びかけます。
徴兵の年齢を超えていたクラーク・ゲーブルも、妻を飛行機事故で亡くしたことをきっかけに入隊します。
名監督ジョン・フォードも、戦争を後方支援しました。
海軍への入隊が夢だった彼は、1941年、映画製作スタッフを集め独自に海軍予備隊を結成します。
政府の要請を受け、連合軍に従軍してドキュメンタリー映画や訓練用の映画を撮影しました。
1942年、ミッドウェー島のアメリカ軍基地の撮影に赴きます。
日本軍の攻撃で負傷しながらも、フォードは撮影を続行!!
海兵隊の兵士たちが祈るようにアメリカ国旗を掲げる様子を捕らえ、アカデミー賞のドキュメンタリー部門で受賞しました。

本国でもハリウッドのスターたちが一役買います。
メアリー・ピックフォードは、ピックフェアと言われた自宅を軍人に開放、町にはハリウッドキャンティーンをオープンします。
ベティ・デイビスとジョン・ガーフィールドが1942年に開いた伝説の店で、連合国の軍人なら誰でも利用できました。
軍服が入場券替わりで、店内のものはすべて無料でした。
リンダ・ダーネルなど、有名俳優を含む3000人のボランティアが食事を出し、客をもてなしました。
スターとダンスもできました。
ハリウッドで初めて成功したドイツ人俳優マレーネ・ディートリッヒの姿も・・・。
ナチスからの帰国要請を拒否して、1939年アメリカの市民権を得ていました。

このキャンティーンは、1945年までに300万人の兵士をもてなし、コーヒー900万杯とタバコ300万箱を提供しました。
しかし、まもなくハリウッドの愛国心に、疑いの目が向けられるようになります。
冷戦時代、アメリカは内部の敵に怯えていました。
1947年、アメリカ下院の非米活動委員会が国内の共産主義者の調査と摘発に乗り出しました。
ハリウッドは、赤の温床と見なされ、標的にされます。
委員会はワシントンで9日間にわたる公聴会を開き、ハリウッドの映画人40人以上に証言を求めました。
映画俳優組合の代表だったロナルド・レーガンは、ハリウッドの潔白を断言します。
委員会は、共産主義との関係が疑われる人の名を上げるように迫りましたが、一部の脚本家と映画監督は、憲法上の権利の侵害だとして協力を拒みます。

委員会に逆らった10人の映画人は、ハリウッド10と呼ばれ、大きな代償を払います。
業界のブラックリストに乗せられ、1年の禁固刑まで受けました。
ハリウッド10への冷遇に反発する俳優もいました。
ハンフリー・ボガートやローレン・バコール・・・俳優たちがワシントンに集まり抗議の声をあげました。
ハリウッドを代表するスター、チャールズ・チャップリンも憂き目を見ます。
非米活動委員会は、アメリカの市民権を取得しようとしないチャップリンの国外追放を求めたのです。
チャップリンは委員会に電報を送りました。

”私は共産主義者ではない
 平和の使徒だ”

委員会は引き下がったものの、FBIは捜査を続けました。
1952年、63歳のチャップリンは、映画「ライム・ライト」のプレミア上映のため、21年ぶりにイギリスに向かいます。
大歓迎の祖国とは対照的に、第二の祖国アメリカは、チャップリンの再入国を阻もうとします。
これに傷ついた俳優は、この後、20年間アメリカに戻ることはありませんでした。
ひとつの時代の終わりでした。

そして、ハリウッドは新しい脅威に直面します。
強力なライバルの登場です。
1948年、連邦最高裁は、パラマウントをはじめ多くの映画制作会社に映画館の所有を禁じる判決を下しました。
市場の独占が崩れました。
制作会社はこれまで頼りにしていた手堅い集客手段を失い、競争にさらされます。

新興勢力であるテレビ業界には、絶好のチャンスでした。
ベビーブーム世代が結婚し、郊外に移ると、お金と時間のかかる映画館からは足が遠のきます。
1950年代の半ばには、アメリカ人の半数がテレビを所有、逆に映画館の客入りは戦時中に比べ半減します。
映画制作会社は勝ち目のない競争よりも、流れに乗ることを選びました。
ニュースよりも娯楽番組が増えるにつれ、ハリウッド製の作品がテレビにあふれるようになります。
俳優たちもテレビに進出します。
大ヒットドラマ「アイ・ラブ・ルーシー」には、毎週4000万人がチャンネルをあわせました。

映画の復権には、新たな客層の開拓が必要でした。
お金を落とすようになったティーンエイジャーをターゲットに、ハリウッドは新世代の俳優を生み出します。
マーロン・ブランド、ジェームズ・ディーン・・・
ディーンは、スクリーンの中でも外でも異端児でした。
クリーンなイメージを保ちたいワーナーブラザーズは、安全運転を呼び掛ける公共CMに彼を出演させます。
数週間後、彼は事故に遭い24歳で亡くなります。

ハリウッドは、海の向こうにも売り込みます。
セックスシンボルとして一世を風靡したマリリン・モンローは、アメリカの象徴となり人気を博します。
1956年にはプレミア上映会のためにロンドンを訪れ、ハリウッドの女王と即位して間もないエリザメス女王が対面しました。
1962年、J.F.ケネディ大統領の誕生日を独特の歌声で祝いました。

煌びやかなスターを生み出すハリウッドの力は健在でした。
観客の争奪戦が続く中、映画にも付加価値が求められるようになります。
1952年、映画「これがシネラマだ」のプレミアム上映にスターが顔を揃えます。
ジョーン・クロフォード、ロック・ハドソン、ジョン・ウェインも最先端のワイドスクリーン・・・シネラマを体感しました。
湾曲した横長のスクリーンに、三台の映写機で映します。
観客はまるで実際にジェットコースターに乗っているような臨場感を味わいます。

一方、はじめてシネマスコープで撮影されたのが、1953年の「100万長者と結婚する方法」です。
1代の映写機で、ワイドスクリーンへの投影が可能になりました。
こうした技術を駆使して、ハリウッドはテレビに真似のできない映画ならではの作品作りを目指します。
「国民の創生」や「風と共に去りぬ」の流れをくんだ巨額の制作費をかけた壮大な作品が人気を呼びます。
「十戒」は、エジプトで撮影されました。
セットの建設に1600人が動員され、エキストラの数は1万2000人、1300万ドルという空前の制作費が投じられましたがその甲斐はありました。
興行収入は制作費の10倍にあたる1億2200万ドル以上、パラマウントの作品で最高を記録したのです。
ニューヨークでのプレミア上映には、スターが勢ぞろい・・・ハリウッドを象徴する華やかさに溢れていました。
夢の工場ハリウッドは、サイレントからトーキーへ、戦時から平時へと時代に適応して生き延びてきました。
その魔法がとけない限り、これからもアメリカ文化の中心にあり続けることでしょう。


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