日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

”退く戦は攻める戦より難しい”

戦国時代、撤退戦は武将たちを死の間際に追い込みました。
乱世に幕を引いた天下人・徳川家康も例外ではありません。
生涯で幾度も危険な撤退戦を経験した家康・・・
その中で、今まであまり語られてこなかった戦があります。

”金ヶ崎の退き口”です。

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織田信長が、朝倉氏討伐のために越前へ出兵。
信長と同盟関係にあった家康も、この戦に参陣しました。
戦いを優勢に進めていた織田軍でしたが、浅井長政の裏切りにより形勢が逆転。
信長は、撤退せざるを得なくなりました。
軍の殿・・・つまり、最後尾を任されたのが、木下藤吉郎・・・のちの豊臣秀吉でした。
しかし、この時、最も厳しい状況にあったのが、敵中深くまで攻め込んでいた家康でした。
家康の家臣はこう記しています。

”信長は、家康を前線に残したまま、何の連絡もなく退却した”

家康は、信長が撤退したことを知らされておらず、最前線に取り残されてしまったのです。
家康は、いかにしてこのピンチを生き抜いたのでしょうか??
信長、秀吉、家康・・・
戦国の三英傑を窮地に追い詰めた金ヶ崎の退き口・・・
この戦いに徳川家康の視点から迫ります。

1560年、桶狭間の戦いで、織田信長が東海の雄・今川義元を討ち果たしました。
これを機に、今川家中の一武将だった家康は、生まれ故郷の三河に帰り、独立を果たします。
この時、19歳でした。
まもなく、尾張の織田信長と同盟を締結。
西からの脅威を無くした家康は、三河を統一し、版図を拡大させていきます。

1570年、29歳の家康に、同盟相手の信長から書状が送られてきました。
それは、天下静謐のため、各地の領主に上洛を命じるものでした。
家康はこの命令に従って、上洛。
将軍・足利義昭の前で、馬揃えを披露しました。
その盛大さに、多くの見物人が集まったと記録されています。
しかし、華やかな式典の裏で、信長はある作戦を実行しようとしていました。

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1570年4月20日早朝、信長は、3万ともわれる大軍勢で都を出陣!!
その中には、家康率いる徳川勢もありました。
都の西岸を北上した軍は、4月22日、若狭国の熊川城に到達。
この時、家康は城下の得法寺に泊まったといわれています。

この時信長は、3万もの大軍を動員して何をしようとしていたのでしょうか?
信長が、毛利元就に送った書状にはこうあります。

”若狭の武藤と申す者が悪逆を企てているので、成敗しなさいと将軍から命令された”

足利義昭から、若狭国衆・武藤氏の討伐を命じられたと言います。
しかし、4月23日、熊川を出た信長は、武藤氏の西ではなく北へ軍勢を向けました。
その先は越前・・・戦国大名・朝倉氏が支配する地です。
従来、この信長の出兵は、朝倉の当主・朝倉義景が上洛命令に従わなかったためと考えられていました。
しかし、近年違った解釈があります。
信長が、最初から越前攻めを考えていたかは非常に難しい所です。
若狭国は、朝倉方と将軍・信長方で二分されていました。
言うことを聞かない武藤氏が、越前の朝倉に援助を求めたとわかってきました。
それなら懲らしめないといけないと、若狭から越前に入って行ったのでは??

朝倉義景が、反将軍派の後ろ盾になっていたと知り、信長は越前に軍を向けたのです。
4月23日、信長は若狭と越前の国境にある国吉城に入城。
その2日後に、越前の敦賀に進軍を始めます。
狙うは金ヶ崎城と手筒山城・・・2つの山城です。

信長はまず手筒山城への総攻撃を指示、家康率いる徳川勢も、南側から力攻めを行います。
結果、手筒山城はわずか半日で落城。
この時織田軍は、1300人以上を討ち取ったと記録されています。
翌日、信長は金ヶ崎城を包囲。
ここで手柄を立てたとされるのが、木下藤吉郎・・・のちの豊臣秀吉です。
城に乗り込んだ木下藤吉郎は、降参すれば命を奪うことはないと説いて開城させました。
越前と畿内を結ぶ要衝・敦賀の全域を易々と占領したのです。

信長は、すぐさま越前のさらに奥へと軍勢を進ませます。
その先鋒を務めたとされるのが、徳川家康!!
4月27日、家康らの先陣は、越前の南北を分ける木ノ目峠に達したと考えられています。
朝倉氏の本拠地・一乗谷まではおよそ50キロ・・・家康は峠を越え、一気に一乗谷へと流れ込もうとしていました。

しかし、その時、信長に驚くべき知らせがもたらされていました。
北近江を治める浅井長政が、朝倉川についたというのです。
長政は、信長の妹婿でもある同盟相手です。
もし裏切った浅井が近江から北上してくれば、信長は朝倉・浅井に挟み撃ちにされます。
一国の猶予も許されない絶体絶命の状況・・・
ここで信長は、”是非に及ばず”と言い捨てました。
後に本能寺の変でも口にする言葉です。
そして、撤退を決断!!
わずかの馬廻りだけを従え、都へ一目散に駆け出しました。
朝倉の追っ手をふさぐ殿は、木下藤吉郎らに託されました。
この時、越前の最も奥まで攻め込んでいた家康は、いかなる状況にあったのでしょうか?
家康の家臣が記した”三河物語”にはこうあります。

”信長は家康を捨て置き、何の連絡もなく宵の口に退却した
 家康はそれを知らず、夜が明けてから木下藤吉郎に知らされ、退却することになった”

危険な最前線に取り残されてしまった家康・・・
ここから決死の撤退戦をすることになります。

信長が退却したことを知らされた家康は、すぐさま兵を集め撤退を始めました。
目指すは、木下藤吉郎ら殿の軍勢が残る金ヶ崎城。
朝倉から奪ったばかりの城です。
この山城は、今は周囲を埋め立てられていますが、当時は三方を海に囲まれた天然の要害でした。
敦賀湾に突き出た金ヶ崎城は、朝倉の追撃を防ぐのに最適の城であったように思われます。
しかし、撤退する家康が、この城に入ったという記録はありません。

その理由の一端が、航空レーザー測量によって見えてきました。
赤色立体図には、細かな地形が視覚化されています。
そこには金ヶ崎城の意外な姿がありました。
それは、朝倉時代に整備された遺構が驚くほど少なかったことです。
南北朝時代に作られたものを、そのまま利用したのではないかと思われます。
南北朝時代の城の遺構は多く確認されましたが、戦国時代の最新の防衛設備は極めて少なかったのです。
山を削って平地を作ったように見える場所・・・それまでは曲輪かと思われていましたが、調査の結果は古墳でした。
朝倉時代のものではなく、新たに確認された古墳です。
城の遺構と思われていたのは、1000年以上前に築かれた前方後円墳でした。
朝倉は、こうした空間に手を付けず、城としての大規模な整備を行っていなかったのです。
実は当時、敦賀では金ヶ崎城のふもとにあった氣比社・・・現在の気比神宮が強い力を持っていました。
氣比社にとって、金ヶ崎城にある山並みは、神が降臨したとされる聖地でした。
朝倉は、こうした事情に配慮したとも考えられます。
金ヶ崎城は、天然の要害であるけれど、自分から反撃するということが籠城するとできない場所でありました。
徳川家康も、ここで残って何かをしようとは思わずに、脱出できる間に脱出して、追撃をかわしながら安全な場所に行く・・・と、考えたと思われます。
金ヶ崎城では、朝倉の追撃を食い止められない・・・
家康は、この城を横目にさらに西に向かいます。
木下藤吉郎ら殿の軍勢も金ヶ崎城を出て西に向かったと考えられます。
背後には、朝倉の追撃軍が迫っていました。
一体どこまで逃げれば助かるのか・・・??

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この時家康が目指したのは、越前と若狭の国境と考えられます。
そこには、国吉城という城があります。
国吉城とはどんな城だったのでしょうか??
登りにくく、ここに山城が無ければ登ろうとは思わない登りたくない山です。
山頂までは急峻な斜面が続き、敵の侵入を防ぎます。
さらに、本丸の手前には、高度な守りの設備も築かれていました。
”連郭曲輪群”があり、5つの階段状の曲輪が並んでいます。
それぞれの曲輪の間には、切岸が築かれています。
攻めよせる敵に、およそ10メートルのがけの上から鉄砲や弓矢で攻撃を浴びせるのです。
本丸までにはこうしたがけが5つ続いていました。
まさに、難攻不落!!
北側は、若狭湾が一望でき、大池もある・・・非常に、防御にも適した立地にある城山でした。
堅い守りを誇る国吉城・・・朝倉氏は、これまで何度もこの城を攻略しようとしていました。
しかし、その度に激しい反撃にあい、失敗。
朝倉義景は、この城について語っています。

”国吉城は、城の守りが固く、自由に攻め寄せられず
 攻めても有利にならない”

国吉城は、家康が逃げ込むのにうってつけの城でした。
織田軍全体の中でも、国吉城に帰れば、国吉城まで撤退すればというところがありました。
朝倉にしてみると、国吉城まで逃げられてしまうと、今まで攻めても落ちない城・・・
そこまで逃げられたら追いかけるのに諦める・・・!!

金ヶ崎城から国吉城まではおよそ10キロ・・・
金ヶ崎の退き口での家康の撤退戦は、この10キロを逃げ切れるかどうかだったのです。
しかし、その道のりは過酷なものでした。
朝倉の記録には、こう記されています。

”親は子を捨て、郎党は主人を知らず、我一番にとひ引き行く
 進むときは鉄壁をも砕く程の猛勢も、退く時は波の声も敵の寄ると恐れをなし
 後より味方の落来るを 敵の追うかと心得て 同士討ちする族もあり”

敵は朝倉の追撃だけではありませんでした。
朝倉や浅井の息がかかった一揆勢が、家康のいく手を遮っていたともいわれています。
そんな中、家康を守る三河武士は、決死の戦いを続けました。
徳川勢の最後尾にいた弓の名手、内藤正成は、6本の矢で6人を倒す、百発百中の腕前を発揮。
槍の半造と呼ばれた渡辺盛綱は、数十人を突き伏せ、一揆勢を退却させたと記録されています。
壮絶を極めた戦いの末、若狭へ入った徳川軍・・・
しかし、国吉城を目前にして、家康は難しい選択を迫られることになります。

若狭国の国吉城へ向け、およそ10キロの道を戦い続ける徳川軍・・・
ようやく国境を越えてまもなく、家康が目にしたのは味方のピンチでした。
殿として撤退していた木下藤吉郎の軍が、敵に囲まれていたのです。

木下藤吉郎の軍が、敵兵に四方から取り囲まれ、全滅寸前になっていた

そんな窮地に陥っている木下藤吉郎を目の当たりにした家康・・・どうする??

木下藤吉郎が、朝倉軍に囲まれたと伝えられる黒浜は、国吉城まで2キロ足らず・・・
家康は信長の家臣ではないのだから、かまわず城へ行くのが当然だと思われます。
しかし・・・見方を見捨てたとなれば、信長はどう思うのか??
浅井に裏切られた怒りにまかせて、どんな仕置きをされてもおかしくはない・・・!!
救援に行き、信長の覚えをよくしておくべきか??

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国吉城の手前で敵に囲まれた木下藤吉郎の軍勢・・・ 
それを見た家康は、こういったと伝わっています。

「ここで木下藤吉郎が討たれれば、再び信長殿に合わす顔がない」

家康は、木下藤吉郎を救援に行く選択をしました。
朝倉軍に突撃した家康は、水から鉄砲を放ち、木下藤吉郎を救出。
命拾いした木下藤吉郎は

「お陰を被りかたじけない次第」

と、家康に感謝を伝えたと言います。
こうして、危険な撤退戦を生き抜いた家康は、何とか国吉城に到達。
朝倉軍は、ここで追撃をあきらめたと考えられています。

数日後、家康は木下藤吉郎とともに都に帰還。
信長は、殿をやり遂げた木下藤吉郎をほめ、黄金数十枚を与えました。
しかし、家康に褒美があったという記録はありません。

金ヶ崎の退き口からわずか2か月後、家康は再び信長の求めに応じ出陣。
浅井・朝倉との姉川の戦いです。
ここで家康は、朝倉軍を一手に引き受け、さらに窮地に陥った織田軍を救い、勝利に導きます。
同盟締結から信長が死ぬまでのおよそ20年・・・
家康は信長を助けつづけるのです。

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家康の決断 天下取りに隠された7つの布石

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皇居東御苑・・・かつて江戸城本丸だった場所に、巨大な石積みが残されています。
そのうえには、江戸城のシンボルとして天守が聳え立つはずでした。
五層六階、高さ58m・・・建てられていれば、日本で一番大きい天守となっていたことでしょう。
しかし、どうして石垣だけが残されたのでしょうか??
そこには、江戸を襲った未曽有の災害が関係しています。
4代将軍・家綱の治世・・・明暦3年1月、江戸で大火災が発生しました。
火は江戸の6割を焼き尽くし、10万人以上の犠牲を出しました。
明暦の大火です。

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猛火からなす術なく逃げるしかなかった人々は、江戸という町が火災に対して全くの無防備であることを思い知らされました。
この危機の中、事態の収拾に当たったのが、幕閣・保科正之・・・
幕府への不満が高まる中、保科は武士も町人も驚く策を講じました。
過去を覆すその決断は、政治そのものを根底から変えていくことになります。

1657年1月18日、江戸は幕府が開かれてから54回目となる正月を迎えていました。
「むさしあぶみ」と呼ばれる書物・・・著者は、浅井了意・・・当時の世相や風俗を書き記しています。
1月18日の記録は、江戸の天気から始まります。
”乾のかたより風吹出ししきりに大風となり”
乾・・・北西からの風が次第に強くなってきた

この時、江戸ではほとんど雨が降らず、乾燥した日々が続いていました。
午後2時過ぎ・・・江戸城の北・本郷で異変が起きます。
日蓮宗寺院・本妙寺で火災が発生!!
炎はあっという間に寺を焼き尽くし、さらに周囲に燃え広がっていきました。
明暦の大火の始まりです。
北西の風にあおられた火は、湯島天神はじめ多くの寺社を焼き払って南東へ!!
神田川などで水場にぶつかります。
しかし、日は船を伝って軽々と川を飛び越え対岸へ!!
大名屋敷を焼き、町人が暮らす人口密集地へ迫りました。
当時、江戸の消防を担っていたのは大名火消しでした。
幕府から指名された10の大名が、十日交代で担いました。
しかし、この大名火消し、火災が町人地で発生した場合、出動しないことも多かったのです。
町人たちは、そんな大名火消しを皮肉って、”消さぬ役”と呼んでいました。

この時も、日は消し止められることなく、江戸きっての町人密集地を襲いました。
日本橋には、川向うに避難しようとする町人が殺到。
身動きが取れないようになっていました。
避難が滞った原因の一つが、「むさしあぶみ」に描かれています。
路上に、車輪のついた箱があふれていました。
車長持です。
人々はこの中に貴重品を入れて逃げようとしました。
しかし、その結果、車長持が道に溢れ、避難経路を塞いでしまったのです。

”親は子を失い、子はまた親に遅れて、あるひは人に踏み殺され、あるひは車にしかれ、おめきさけぶものまたその数をしらず”

さらに、江戸の人々は、空に驚きの光景を目にします。

”はげしき風に吹きたてられて、車輪の如くなる猛火、地にほとばしり”

これは、炎が竜巻のように回転する火災旋風だったと考えられています。
命からがら避難した人々は、墨田川に行き当たります。
しかし、江戸城を守るため、墨田川には橋がかけられていませんでした。
焼け死ぬもの、冷たい川で溺れ死ぬもの、大火災への備えのない町の中で、多くの命が失われました。

”親は子を尋ね、夫は妻をうしなうて涕とともに声うちあげ
 死に失せてめぐり合うことなく、力を落して歎くもありてものゝわけも聞えず”

こうして、大火の1日目は終わりました。

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しかし、それはまだ、序章にすぎませんでした。

大火発生件数(1603~1867)
江戸・・・49回
京・・・・10回
大坂・・・3回
金沢・・・3回
その他・・16回

江戸の町が急速に大きくなったことで、自然災害に弱くありました。

明暦の大火2日目の1月19日・・・
本妙寺を火元とした火災は、未明には収まりました。
しかし、別の火災が・・・!!
午前11時過ぎ、小石川に合った大番衆の与力の宿舎から出火。
火災は、水戸藩の下屋敷をはじめ、多くの大名屋敷を焼きながら、ついに江戸城本丸まで迫りました。
江戸城で最初に燃え移ったのは、予想外の江戸城天守!!

天守は、黒く塗られた銅板で壁を覆い、同じく銅の瓦を吹くことで防火対策を施した建物のはずでした。
その隙をついたのは火の粉・・・
開いていた天守の窓から火の粉が飛び込み、室内から炎上させたのです。
火の粉は、火災の熱による上昇気流で舞い上がり、離れた場所に落下・・・新たな火災を発生させます。
火の粉は1㎞以上離れて落ちることもあり、堀も川も飛び越えて広がるのです。
天下一の天守は、小粒な火の粉に襲われ、あえなく落ちました。
その後、火は本丸御殿、二の丸へと燃え広がっていきました。
燃える江戸城の主・・・時の将軍は、4代藩主・徳川家綱(17歳)でした。
若い将軍を補佐する幕府首脳には、歴戦を生き抜いた強者が・・・!!
元老格の井伊直孝(68)、大坂の陣では、井伊家の大将を務めました。
元大老の酒井忠勝(71)、関ケ原の戦いでは、徳川秀忠と共に信州上田で真田氏と戦っています。
そして、島原の乱鎮圧の総大将を務めた知恵伊豆こと老中・松平信綱(62)!!
これら古参の幕閣の中に、ひと世代若いものがいました。
会津23万石の藩主・保科正之です。
保科は、腹違いの兄・三代将軍・家光から、幼い家綱の後見を託されていました。

大火の最中、彼ら幕閣は、江戸城内に詰め、家綱の傍らで策を練っていました。
迫りくる炎から家綱をどう守るのか・・・??
保科と重鎮たちとの間で意見が分かれました。

酒井忠勝や、井伊直孝は、城の外へ避難するように提案。
松平信綱は、上野・寛永寺への避難を提案。
しかし、こうした元老たちの案に、保科や老中・安倍忠明は反対しました。

「幸い、西の丸が残っています
 まずはここに上様をお移しすべきでしょう
 もし、西の丸が焼けてしまうようであれば、焼け跡に陣屋を立てればよい
 城の外へと動くことなど、あってはなりませぬ」by保科正之

保科が将軍の権威にこだわったのは、この機の乗じて幕府をなきものにしようとする勢力を警戒していたからでした。

大火の6年前の1651年。
幕府転覆未遂事件が起こっていました。
由比正雪の乱です。
軍学者の由比正雪は、幕府に不満を持つ浪人たちを扇動。
江戸城火薬庫に放火し、混乱に乗じて城を占拠、それを京や大坂など複数の都市で行う計画でした。
計画は未然に防がれたものの、幕府は大きな衝撃を受けました。
幕府への反発は、全国の大名に対する厳しい統制から生じていました。
家康、秀忠、家光、三代の間に、改易された大名は129!!
結果、主家を失う浪人となった者が町に溢れました。
将軍や幕府に対する恨みがこれ以上募れば、将軍の権威も地に落ちると保科は感じていました。

議論の末、保科の意見は取り入れられ、午後3時過ぎに家綱は西の丸に移動。
江戸城に留まることになりました。

その直後、火事は治まることなく新たに3カ所から出火。
場所は麹町でした。

ドキュメント明暦の大火 幕府を変えた江戸の危機



2日目に小石川と麹町で相次いで発生した火災は、初日に被災を免れた場所を容赦なく焼き尽くしました。

1月20日朝、全ての日がおさまりました。
3日に渡った火災で、大名屋敷160軒、旗本屋敷約810軒、町人地800町以上が消失、実に江戸の町の60%が灰になりました。

むさしあぶみは、死者の数を10万2100余人と伝えています。

”一るいけんぞくのある者は、尋ねもとめて寺にをくりしもあり
 大かたはいかなる人、いづくの者とも確かならず
 かはり果てたるありさま それとさだかにしる事なし”

江戸開府からおよそ50年、将軍のおひざ元は壊滅状態となりました。

3日に渡って燃え続けた大火は、江戸の町の6割を灰にしてようやく鎮火しました。
むさしあぶみは、火がおさまった様子も詳しく書いています。
飢えと寒さにあえぐ人々に、幕府は温かいかゆを与えました。
3週間にわたって行われた粥施行。
用いた1万7000俵の米は、幕府の米蔵から出されたものでした。

むさしあぶみでは、”まことに治世安眠の政道ただしきこと”と、高く評価しています。
焼けた家屋の再建のために、幕府から被災者へ資金が渡される様子もかかれています。

保科は、援助のために家康以来御金蔵にためてきた金銀を使おうとしました。
しかし、幕閣から猛反対の声が上がりました。
当時、民間にそれだけの大金を国家が拠出したケースは全くありませんでした。
お金は軍資金で、軍資金をためておくのが江戸城の御金蔵だという認識の人たちが、軍資金以外に消費してしまうことは考えられませんでした。

保科は反対する老中たちにこう説きました。

「官庫の貯蓄と云ふは斯様の時に下々へ施し、士民安堵せしむる爲にして、むざと積置きしのみにては一向蓄えなきと同然なり」by保科

議論の末、被災者への資金援助は・・・
大名(10万石未満)・・・銀300貫~100貫 貸与
幕臣・・・・・・・・・・金725両~3両   給付
町人・・・・・・・・・・銀1万貫(総額) 給付

墨田区両国にある回向院・・・
ここは火災の後、保科の働きかけで建立されたお寺・・・境内に供養塔があります。
江戸の町中に遺体が放置されているのを見た保科は、無縁仏としてここで供養させました。
本尊の阿弥陀如来・・・その台座には、供養のために、身分の差別なく人々の名がびっしりと書かれています。

町の復興が進む中、江戸城の再建も始まりました。
江戸城は半分以上が消失しており、工事は大掛かりなものとなりました。
そして、大火の翌年、城のシンボルとなる天守の再建が始まりました。
消失前、高さ60mの日本一大きい天守がそびえていました。
工事は土台の天守作りから始まりました。
普請を命じられたのは、加賀・前田家でした。
皇居・東御苑に残っているのは、その時の石垣です。
この石垣は、前田家の威信をかけたものでした。
真っ白な御影石は、瀬戸内海でないと取れません。
前田家は、瀬戸内海の島から石材を運んできて天守を建てたのです。
今までにない真っ白な意思を使うことで、前田家の力量を見せつけようとしたのです。
前田家はわざと四角形をずらして作っています。
五角形、六角形・・・前田家の石積みの技術の確かさ、高度さを見せつけようとしたのです。

着々と積みあがっていく天守台・・・
しかし、保科には迷いがありました。
天守再建を停止する??
江戸城の天守を作るのに、どれだけの労働力を必要つするのか??
資料によると・・・建築期間はおよそ4カ月、その間にのべ34万人以上の大工が必要でした。
江戸中で家屋敷の再建ラッシュとなる中で、職人の手間賃も高騰しています。
大火前、大工の日当は銀1匁5分+米1升5合でした。
それが大火後、1.7倍の銀2匁5分+米1升5合となっていました。
莫大なコストを集中させてまで、天守の再建は優先すべき事なのか??
その思いが、保科の脳裏に去来します。
それとも天守は必要??
天守は権現様がこの地にお建てになって以来のもの・・・軽々しくなき物にはできない・・・!?
天守は当時の人々にとっては・・・??
西国大名には、天守も建てられないのか!!と、思われる危険性がありました。
豊臣家の大名にとっては、天守は大切なものでした。
島原の一揆や由比正雪の乱らの農民らの謀反は、遠い昔のことではない・・・
この混乱に乗じて、幕府に不満を持つ者たちが再び騒ぎを起こすかもしれない・・・
ましてや上様もまだお若い・・・
今こそ、しかと徳川の権威を見せつけなければ・・・??
治世のためにはやはり聳え立つ天守が必要??

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保科は幕府の重臣たちを前に、自らの意見をこう述べました。

「天守は近代織田右府以来のことにて、さのみ城の要害に利あると申すにも非ず
 ただ遠く観望致す迄の事なり
 武家町家大小の輩家作致す砌に公儀の作事永引たらば、下々の障にも成るべし
 斯様の儀に国財を費やすべき時節に非ざるべし
 当分延引可然」by保科

天守の再建は、保科によって無期限の”待った”がかけられました。
そして、その資力、労力は、江戸の町全体の復興に充てられることになりました。
幕府が目指したのは、単に大火の前に戻すのではなく、火災に強い都市へと改造することでした。

その内容の資料が残されています。
幕府がつくった江戸の復興計画図・・・
この地図には、大火前の地図にはなかったものが書き込まれています。
空き地、広小路・・・幕府は、町中に空き地を作り、火事の延焼を防ぐための防火帯としました。
空き地を作るため、武士も町人もすべて巻き込んで住民の大移動が行われました。
現在の吹上御苑にあった水戸藩・尾張藩・紀州藩の御三家の上屋敷を、外堀の近辺へ移転。
跡地を広大な空き地としました。
江戸城の周囲で被災した大名たちには、まだ野原の広がる麻布などの郊外に新たな屋敷が与えられました。
本郷や湯島にあった寺は、当時まだ発展途上だった浅草などに移転しました。
江戸城防御のため、下流域に橋がかけられていなかった墨田川・・・
橋がなかったため、多くの犠牲者が出たことを重く受け止めた幕府は、建設を決断します。
大火の2年後、1659年に両国橋完成。
そして、この橋を渡った先にある本所地区をニュータウンとして開発しました。
ここには町人だけでなく、武家屋敷や寺社仏閣も移転しました。

幕府は、町の構造を変えるだけでなく、消防制度も整えます。
従来の大名火消しに加え、上火消を創設。
上火消には、10名の旗本が任命され、それぞれが与力6人と同心30人を率いました。
大名火消しとの最も大きな違いは、火の見櫓をもった火消屋敷に常駐したことです。
初めて火消専門の役人が誕生しました。

明暦の大火は幕府にとって、これまでの大名統制の在り方を見直す契機となりました。
大火の直後に作られた江戸の地図・・・
江戸の改造に際して、幕府はまず、大名側に移転先の希望を聞き、それを調整して割り当てを行っています。
これまでのように幕府の計画を一方的に押しつけるのとは違いました。
幕府は武力を背景に、強い権力で大名たちを屈服させる武断政治を見直し、高野制度に基づいて穏やかに統治する文治政治へと舵を切っていきます。
大火後の都市改造により、江戸の町の範囲は拡大・・・
それは後に、100万都市へと成長する布石となりました。

保科が中止させた江戸城天守の再建・・・
その後、江戸幕府が終わるまで行われることはありませんでした。

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“地形と気象"で解く! 日本の都市 誕生の謎 歴史地形学への招待

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明治の文豪・・・森鴎外。
鴎外は、日本近代文学の創始者として当時の文壇に多大な影響力を持っていました。
鴎外の活動は、作家だけにとどまらず、陸軍省の軍医として最高位である軍医総監にも上り詰めています。

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島根県津和野町・・・古くから山陰と山陽を結ぶ街道の町として栄えた山紫水明の地です。
この地に、江戸末期にたてられた家屋が残されています。
文豪・森鴎外の生家です。
1862年1月19日、鴎外こと森林太郎は代々続く津和野藩の御典医の長男として生まれました。
鴎外の勉強部屋・・・父が、自らの茶室を鴎外のために明け渡しています。
母の峰子は、就学前の鴎外のために、寝る間も惜しんで仮名や手習いを教えたといいます。
当時、森家は不祥事によって身分を降格させられており、鴎外は久し振りに生まれた待望の男子でした。
家族から、家名再興の期待が一心にかけられていたのです。
家族の期待に応えるために、懸命に勉学に励んだ鴎外は、すでに論語などの四書を読みこなし、神童の誉れ高かったといいます。

1874年1月、東京大学医学部に入学します。
鴎外の入学時点の年齢はわずか11歳。
大学の入学規定が14歳以上17歳以下と定められている中で、生まれた年を偽ってでの受験でした。
鴎外は、入学者の約半数がついていけず中退する厳しい授業を潜り抜け、19歳で大学を卒業します。
就職先に選んだのは、両親の薦めもあって陸軍省。
森家再興を目指し、明治政府で立身出世の道を歩むことを決めたのでした。

入省から3年後、鴎外の運命を決定づける事例が下ります。
ドイツへの留学です。
留学の目的が、鴎外の日記に記されています。

”政府が私に託したのは、衛生学を習得すること”

当時、日本には衛生という概念自体が存在していませんでした。
コレラなどの感染症を予防するすべもなく、陸軍では大量の死者を出しており、その対処が近々の課題でした。
ドイツでは、ロベルト・コッホにより、コレラ菌や結核菌が発見され、衛生学の中でも最先端の細菌学が確立されていました。
感染症の原因を明らかにするこの革新的な医学を学び軍に役立てようというのです。
鴎外は、初めて見る実験器具の扱い方や、自然科学の方法論を懸命に学びました。
その後、念願の細菌学の父・コッホに支持。
下水道から新種の菌を発見し、論文で発表するという業績を上げています。

順調に見えた鴎外の留学生活ですが・・・問題が・・・
同じ日本からの留学生との確執です。
鴎外は留学生たちが開く定例会の様子を日記に書いています。

”麦酒を飲んで新聞を読んでブラブラしているだけだ”

そして、彼らの面前で演説!!
国費で留学している以上、研究に役立つ集まりにするべきだと主張しました。
しかし、鴎外の意見は全く取り入れられず、反発されてしまいます。
当時の鴎外の直属の上司・石黒忠悳はこうした留学先での鴎外の様子を目にし、同僚に手紙を送っています。
そこには鼻が伸びた天狗の絵が・・・その天狗は鴎外のこと。
その鼻を少々削ってやりたいというのです。

鴎外のドイツ時代は、かなり生意気で自信過剰でした。
一直線に進んでいく鴎外・・・根回し、周りの雰囲気は読みません。
ある種の鴎外の正直なとことで正義感に燃えた時でした。
しかし、それは個と組織の軋轢となりました。

周囲となじめずにいた鴎外の心のよりどころとなったのが・・・

”本棚の洋書は170巻を超えた
 ダンテの新曲は、幽昧にして恍惚
 ゲーテの全集は宏壮にして偉大なり”

鴎外は、西欧の哲学や文学を大量に読み込んでいました。
中でものめり込んだのは、フランス革命後に根付いていた個人の自由の概念です。
それは、家族からの期待や組織のしがらみから解き放つものでした。

1888年9月、鴎外は4年に渡る留学を終え、帰国。
陸軍軍医学校教官に就任し、ドイツで学んだ衛生学の導入に貢献します。
そして、1年半後、鴎外のもう一つの才能が花開きます。

デビュー作である小説「舞姫」を発表したのです。

鴎外をモデルにした日本人留学生の主人公は、現地で出来た恋人との暮らしを続けるか、日本に戻るかの選択を迫られます。

”我心はこの時までも定まらず、故郷を憶ふ念と栄達を求むる心とは時として愛情を圧せん”

個人の幸福である恋愛と、国家への忠誠との間で懊悩する姿を擬古文の雅な文体で描いた作品はたちまち評判となり、鴎外の文名を轟かすこととなりました。
鴎外はその後も、留学時代に親しんだ小説や詩の翻訳を新聞や雑誌に次々と発表。
西欧留学を経て、作家、軍医として確固たる地位を確立し始めました。

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鴎外は、帰国から5年後のわずか31歳で陸軍軍医学校の校長に就任していました。
国から大きな期待を寄せられ、出世を続けていたのです。
さらに、鴎外は作家としての名声も高めていきました。
舞姫発表から1年後に間に、後にドイツ三部作と謳われる傑作「うたかたの記」「文づかひ」を相次いで発表。
好評を博していました。
鴎外が将来の期待に胸を膨らませていた矢先、その運命を一変させることが起きます。

1899年6月8日、突然、北九州小倉にある第12師団軍医部長への転出を命じられたのです。
当時小倉は、東京から鉄道と船を乗り継ぎ、丸3日を要する地方都市でした。
鴎外が翻訳や小説を発表していた出版社は東京に拠点があり、小倉への移動は作家活動の場を奪われることに等しいものがありました。
鴎外は、この移動を軍上層部の策略だととらえていました。

事例の半年前に書かれた鴎外の日記には・・・

”小池が私を排除しようとしている噂を聞いた”

小池とは、当時軍医のTOPだった小池正直のことです。
留学先で天狗の絵を描いた石黒の息がかかった人物でした。
鴎外の軍上層部への強い不信感が伺えます。
日記から3か月後、小池は鴎外にとって受け入れがたいある訓令を発しています。

”軍医の副業は対面を汚すため、民間での病院の開業を禁止する”というもの

作家活動をする鴎外も指弾の対象でありその立場は危うくなっていきました。
失意の中で移動を受け入れるか否かで、悩む鴎外・・・

組織の論理に屈するか、私の意地を通して辞職するのか・・・??

北九州市小倉北区鍛冶町・・・北九州市屈指の繁華街の一角に、明治半ばに建てられた一軒の家屋があります。
鴎外37歳・・・この家で、小倉の生活をはじめました。
鴎外の選択は、小倉移動を受け入れるでした。
この時の心境を、母・峰子への手紙に残しています。

”私が小倉に来たのは、左遷なりとは軍医一同口をそろえて
 私も決して満足しているわけではない”

左遷を悔やむ鴎外の気持ちが見て取れます。
鴎外が当時残した「小倉日記」
小倉赴任後のおよそ3年に渡る日々が淡々と書かれています。
救護活動などの衛生演習や、徴兵のための健康診断など、軍務に多忙な様子が伺えます。
現在も小倉に残る第12師団司令部正門の跡・・・
第12師団は、来るべき日露の戦争に備えて、鴎外派遣の前年に新設されたばかりでした。
鴎外はここを拠点とし、九州各地の視察に回りました。
半年後、鴎外が現地の新聞に自らの作家活動に関わる重大な発表をしています。

”私が軍医として接する人は、「あれは小説家だから重要なことは任せられない」と言って、私の進歩を妨げてきたことは数えきれない”
 
鴎外は、作家活動が、軍での信頼を失墜させたと考えていました。
そして、鴎外漁史はここに死んだと・・・作家活動からの引退を宣言したのでした。
失意の底に沈む鴎外・・・その心を和ませてくれたのが、家の世話をしてくれる召使いたちでした。
これまで家事などを家族に任せていた鴎外にとって、彼らとの交流は初めてのことでした。
母に宛てた手紙にはこうあります。

”先日、濱といふ小間使いを置いたのだが、汁物を作る際に鰹節を削るほどつまらないことはない
 折って入れれば汁に味が就くことは同じだと言って、5つに折って入れてしまった”

召使いの大胆さに驚く鴎外・・・
さらに別の日の日記にはこうあります。

”人力車で福丸に行こうとしたのだが、みな病気だと言って引き受けず歩いていくことになった”

炭鉱の町・福丸では、人力車は金払いのいい客を選び、正規料金しか払わない軍人を拒否していました。
軍の権威がまるで通じない経験でした。
素で生きている人たち・・上層部でもなく、地方で普通に生きている人たちと初めて出会ったのです。

庶民の姿に触発され、立ち直るきっかけをつかんだ鴎外は、生涯の友人となる人物と出会います。
小倉にある寺の住職・玉水俊虠です。
鴎外は、後に小説で俊虠をモデルにした人物をこう描写しています。

”学徳があって世情に疎く赤子の心を持っている”

俊虠は東京で大学教授として仏教哲学を勉強していましたが、職を辞し、小倉にやってきていました。
鴎外は、自分と同じ境遇を、不幸とも不満とも思わない俊虠の姿に感銘を受け、交流を深めていきます。
当時の日記にはこうあります。

”俊虠が私のために唯識論の講義を始めてくれた”

唯識論とは、仏教哲学の教えのひとつで、世界の全ては自らの心の動き・・・つまり識に過ぎない

実在しているかのように見えるものや、学んだ知識、家族といった者もすべて心が作り出すかりそめの物だという・・・

鴎外はこの教えに大きな衝撃を受けました。
鴎外にとって俊虠との交流は、出世や家族へのこだわりが解きほぐれていく経験でした。
小倉移動から2年が過ぎた頃、鴎外は母への手紙にこう書いています。

”配置されたところで落ち着き、与えられた仕事をこなすことは、バカなことでも、無駄なことでもないと思っています”

鴎外は、小倉での生活を受け入れる境地に立っていました。
翌年3月、鴎外のもとにある辞令が下ります。
東京にある第1師団軍医部長への転出命令です。
鴎外は、待ち望んだ移動の辞令にも心も出されることなく、東京帰還の日を迎えました。

1907年11月13日、鴎外は軍医のTOPである軍医総監医務局長に就任、軍務に励む中、ある活動を始めています。
小倉で引退宣言をしてから10年ぶりとなる小説の執筆です。
この頃書かれた鴎外の代表作のひとつ「高瀬舟」
流刑となる罪人を乗せる渡し船の物語です。
船頭が自殺を願った弟の死を幇助した兄の話を聞き、ある疑問に囚われます。

弟が早く死にたいと言ったのは苦しさに絶えなかったからである
兄の喜助はその苦を見ているに忍びなかった
苦から救ってやろうと思って命を絶った
それが罪であろうか

医師として鴎外が向き合い続けた生と死の問題が、答えの出ない問いとして表現されています。

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鴎外は、軍医総監の職にある10年の間に、150以上もの小説を発表。
後に豊熟の時代と言われる最も多産な時期を迎えています。

鴎外はなぜ小説を書き続けたのか??
その象徴的作品が、短編「沈黙の塔」です。
物語は、高い塔にいくつもの死体が運び込まれている場面から始まります。
鴎外と思しき語り手は、その理由を別の男に尋ねます。

誰が殺しますか
仲間同士で殺すのです
なぜ・・・危険な書物を読む奴を殺すのです
どんな本ですか
自然主義と社会主義との本です

実はこの作品は、小説発表の半年前に起きたある事件に触発されて書かれたといいます。
1910年6月、幸徳秋水ら社会主義者26人が、明治天皇の暗殺を企てたとして逮捕されます。
通称”大逆事件”です。
証拠不十分なまま、全員の基礎が確定。
裁判は非公開で行われ、24人に死刑判決が下りました。
政府が事件を捏造したと言われています。
鴎外は当時、捏造を主導したとされる人物のひとり・山県有朋と知己を得ており、事件の不透明さを知り得る立場にありました。
ところが鴎外は、公の立場では何も語らず、小説の形で事件に言及していました。
その理由は、鴎外が常日頃軍という巨大な組織の中で無力さを感じ続けていたからだと言われています

沈黙の塔の終盤、語り手の男は鴎外を代弁するかのようにこう語ります。

”どこの国いつの世でも、新しい道を歩いていく人の背後には必ず反動者の群れがいて隙を伺っている
 そしてある機会に起って迫害を加える”

ここで言う新しい道を歩いていく人とは幸徳秋水ら社会主義者のことであり、反動者とは保守的な政府に他なりません。
軍医総監という組織の頂点に上りつめることで、数多くの現実とぶつかった鴎外・・・
その問題と向き合い、作品へと昇華し続けたことが豊熟の時代へと結実したのです。

1922年7月9日、作家として、軍医として、二つの人生を生きた鴎外は、60歳でその生涯を閉じました。
鴎外はその間際、遺言にこう残しています。

”私が死ぬ瞬間、称号や肩書などあらゆる外形的取り扱いを辞退する
 ただ森林太郎として死にたいと思う”

鴎外のふるさと・・・島根県津和野町。
この地に建てられた墓地には、その遺言の通り”森林太郎”の文字だけが記されています。

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1787年江戸・・・激しい物価高に悩んでいました。
原因は凶作と商人たちによる買い占め・・・米の値段は例年の4倍にまで跳ね上がりました。
生活に行き詰まり、橋や船から川に身投げする人が後を絶ちませんでした。
ところが幕府は助けてくれない・・・!!

「昔、飢饉の時には犬を食べた、今回も犬を喰え」

人々の我慢は限界を超え、米屋を狙った一斉蜂起が起きました。
江戸時代最大規模の打ちこわし「天明の打ちこわし」です。
将軍のおひざ元での大暴動は、幕府に強い衝撃を与えました。
打ちこわしは、政権交代のきっかけとなり、後に寛政の改革を行う松平定信の登場をもたらします。

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1787年5月20日、江戸。
どこからともなく集まった町人たちが米屋を狙い、打ちこわしを行いました。

”店にある米俵はもちろん、店に置いていた米俵も担ぎ出して切り裂き、路上にぶちまけた”

打ちこわしの原因は例年の4倍以上となった米価の高騰でした。
打ちこわしは20日に深川と赤坂で始まり、21日には江戸一帯へと広がりました。
米屋を中心に、油屋、乾物屋、薬屋などが襲われました。
男たちは身の回りにあった木槌や鍬などを持って参加しましたが、とりわけ多くのものが手にしたのが鳶口でした。
火事の際、延焼を防ぐために周囲の家を引き倒したり、解体した木材を運ぶための道具です。
町々には、火事に備えて数多くの鳶口が保管されていました。
しかし、打ちこわしといっても家そのものを壊したり、暴れまわったりするものではなく・・・
記録によるとそれは・・・

打ちこわしを始まめる前に数人で店に入りきちんと火の元を消す・・・
火事を起こして周囲に迷惑をかけることを避ける気配りからです。
打ちこわしは、リーダーがうつ拍子木で始まります。
さらに、再び合図が鳴ると打ちこわしを止め、みんなが一斉に休憩をとりました。
次の合図でまた打ちかかる・・・規律のある行動でした。

店の商売道具は滅茶苦茶にしたが、店の人には手出しせず危害を加えることはありませんでした。
混乱に乗じて物を盗むことも禁じ、万が一盗みを働く者がいたときは、仲間内で即座に打ち殺すという申し送りまでありました。
こうした打ちこわしの様子を見た水戸藩士の証言は・・・

「誠に丁寧、礼儀正しく狼藉に御座候」

狼藉には違いないが、秩序と統制を重んじた一風変わった暴動だったのです。
打ちこわしに参加した町人たちは目に余るほどの大勢と記録され、打ちこわしの被害に遭った商店は1000軒と言われています。
参加者は日増しに増え、広がっていきました。
事態収拾のため、江戸の治安を守る与力・同心が出動します。
この時彼らを指揮したのが、鬼平でお馴染みの長谷川平蔵でした。
しかし、蜂起した町人たちのあまりの規模に、与力と同心たちだけでは多勢に無勢・・・
騒ぎを収めることはできませんでした。
こうして江戸の大混乱は5日間にわたって続いたのでした。

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18世紀、江戸の人口は100万を超え、その半分を町人が占めていました。
町人の大半は、家を借りて長屋で暮らす店子でした。
長屋では3坪か4坪の部屋にそれぞれの家族がひしめき合って暮らしていました。
仕事は異なれど、長屋で暮らす者は稼ぎで食料を買って暮らすその日暮らし・・・
食事は白米にみそ汁と漬物が基本の一汁一菜。
おかずは質素でも江戸っ子は白米を好んで食べました。
そんな江戸の庶民を直撃したのが、急激な物価高でした。
大豆や麦、そばなど穀物全般が値上がりしましたが、激しく値上がったのが米でした。
例年ならば100文で1升1合買えましたが、打ちこわしの正月には値上がりによって100文で6合~7合しか買えなくなりました。
米の値上がりは、留まることを知らずに、4月下旬には100文で5合~4合半、その10日後には4合半~4合・・・さらに1週間後には3合・・・その2日後には2合半にまで高騰しました。
例年の4倍以上、米価高騰が庶民を襲いました。
棒手振の稼ぎが1日300文・・・当時の人は、ひとり1日3合の米を食べたと言われています。
日銭暮らしの町人が一家を養うことは不可能となりました。

米価高騰の裏には・・・1783年浅間山の大噴火と異常気象がもたらした天明の大飢饉がありました。
降り続く火山灰と冷夏が、東日本で農作物に深刻な被害を及ぼしました。
さらに追い打ちをかけたのが、大洪水!!
関東一帯が大洪水に見舞われました。
打ちこわしの前年、全国の米の収穫量は例年の1/3にまで減少していました。

幕府も手をこまねいていたわけではなく、品不足による米価高騰を防ぐ対策を打っていました。
それが通称”米穀売買勝手令”です。
当時、決められた業者のみが米の販売や流通を行うことを許されていましたが、それを撤廃。
素人・・・それまで米取引を行っていなかった商人も自由に売買してもいいというものでした。
新たな商人の参入によって、米の流通量を増やして米価の引き下げを狙った緊急時の時限立法です。

しかし、この政策は、幕府の意図とは逆の方向に・・・
新たに参入した商人たちの中に、投機目的で米を買い占めて価格のつり上げを狙うものが現れました。
買占めによって米価は一層高騰します。
幕府は、米価高騰を収めるため、商人による米の買い占めを禁止します。
しかし、これが出されても、米の買い占めは治まることはなくあがる一方でした。
どうして買占めは止まなかったのでしょうか?
それは、商人たちが法の目をかいくぐったからです。
米価高騰の背景には、商人が旗本と結託して、賄賂などを贈って旗本の屋敷に預けて米を隠す・・・
市中に出回る米が少なくなるので米の値段が上がります。
これは、将軍直属の隠密であるお庭番が、町で広がる噂の実情を探っています。

米の値上がりと不正への怒りが、人々を打ちこわしに向かわせました。

打ちこわしがあった町の辻には、木綿の旗が掲げられていました。
その旗には、打ちこわしに及んだ理由と幕府への要求がびっしりと書かれていました。

”老中をはじめ町奉行や諸役人が、結託して悪事を働いたため、その罪により打ちこわしを行った
 もし、幕府が徒党の者をひとりでも逮捕し、罪を科すならば老中や町奉行、諸役人を行かしてはおけない
 その為の人数は、何人でも動員するし、このことを厭うことはない 生活の成立を保障する政策を実施すべし”

木綿の旗に記された言葉には、打ちこわしは正義の行いという強い思いが書かれていました。
怒りの矛先は、直接的には不正を行う商人に向かいます。
しかし、為政者たちにも向いていきます。
為政者は、全ての人の生活を成り立たせる大きな役割があるからです。
今、自分たちの生活が成り立たなくなっている・・・
これは正義の行いだと、自分たちは思っているのです。
自分達の正義の行いを取り締まるような為政者がいたならば、本来の正義に反するという思いがありました。

打ちこわしを目撃した人は・・・

「誰一人打ちこわしを憎むものなし」

打ちこわしは江戸に暮らす人々に強く支持されていました。

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1787年5月・・・江戸では米の値上がりの影響で家賃が払えなくなり、長屋を追い出される町人が続出し、飢えに苦しんでいました。
そして、思わぬ社会現象が起きました。
隅田川にかかる永代橋や両国橋から多くの人が身を投げ、溺死する人が続出しました。
その為、見張りが増やされ、橋の上での行動が監視されるようになりました。
橋からの身投げが難しくなると、隅田川の渡し船から身を投げるようになり・・・渡し船が停止されました。

米の値上がりで最も苦境に立たされたのが、長屋に住むその日暮らしの店子でした。
かつて享保の大飢饉の時、幕府は多くのためにお救い米を出しました。
今回も、店子たちの間でその期待が高まりました。
身分の低い店子が、町奉行に直接願い出ることなど許されません。
そこで、店子たちは自分の暮らし町の責任者である町名主にすがりました。
町名主にお救い米嘆願を訴えたのです。
ところが、町名主たちは、町奉行から、店子たちが騒動を起こさないように監視するように言われていました。
町名主たちは板挟み状態・・・苦しい立場にありました。
そうした町名主たちの代表が、商業の中心地・日本橋界隈を取り仕切っていた3人の年番名主でした。
上からの命令と、下からの訴えに挟まれた彼らは・・・??

お救い米を願い出る・・・??
町の者たちをなだめて騒ぎを防ぐ・・・??

5月18日、年番名主たちは決断を下します。
それは、店子たちに寄り添い、お救い米を願い出ることでした。
嘆願書は、江戸の行政と司法の責任者である町奉行宛に出されました。

”町の者たちはみな、困窮しています
 お救い米をいただけないと、餓死者が出続けます”

その文末には、

”お慈悲が全ての者たちに行き届くよう、甚だ恐れ入りつつお願い奉ります
 町中すべてが嘆いているため、やむを得ず申し上げた次第です”

必死の思いで町人たちが出した嘆願書・・・果たしてその願いは・・・??

江戸の年番名主の訴えから遡る事1年・・・
幕府を大きく揺るがす事態が起きていました。
1786年8月25日、10代将軍徳川家治死去。
これによって、およそ20年間にわたって老中として幕政を取り仕切ってきた田沼意次が失脚。
以後、田沼派と、白川藩主の松平定信を老中にしようとする反田沼派が反目する事態となります。
城内は緊張状態にありました。
そうした中、年番名主によるあのお救い米の嘆願書が提出されました。

5月19日、町奉行所からその回答が出ます。
しかし、それは驚くような内容でした。

男性は米2合、女性と子供は米1合を時価で売り渡すというものでした。

さらに、米の代わりに大豆を食べることを推奨するおふれが出されました。
しかし、大豆もまた高騰!!
無償のお救い米を待ち望んでいた江戸の町民たち・・・
その期待は、すっかり裏切られたのです。
おふれが出された日、米価が20%上昇。
さらに、北町奉行・曲淵景漸が暴言を吐いたという噂が・・・

「昔、飢饉のときに犬を食べたことがある
 今回も犬を食え」

町人たちの怒りは頂点に達しました。
そして翌日の5月20日、打ちこわしが始まりました。
5日間に渡り江戸の町は大混乱に陥ります。
事態を収拾すべく、幕府は遅ればせながら動き出しました。
お救いの実施を決定!!
まず、奉公人を除くすべての町人に米と大豆を3合ずつ支給されました。
さらに幕府は、20万両を支出し、商人から買い集めた米を安価で販売。

町人たちは、水を得た魚の如く喜び安堵したといいます。
町人たちの願いに向き合おうとしなかった着た町奉行曲淵景漸が打ちこわしの責任を取らされ解任。
さらに、田沼派の重鎮で御側御用取次の横田準松が将軍に打ちこわしを隠したとして失脚。
これをきっかけに、政治の主導権を反田沼派が掌握。
翌月には、松平定信が老中に就任しました。
民衆の蜂起によって政権が交代したということは、江戸時代始まって以来、初めての出来事でした。

田沼派に変わって政治の実権を握った松平定信は、米価引き下げのための政策を次々と打ち出します。
幕臣と商人との癒着や賄賂を厳しく取り締まります。
米を大量に必要とする酒の製造を1/3に制限。
さらに、地区ごとに町会所と呼ばれる米蔵を設置。
50万人が1か月食べられる米を備蓄しました。

これらの政策が功を奏して、天保の飢饉の際には江戸で打ちこわしが起きることはありませんでした。
町人たちの怒りの抗議が世を変えたのです。

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日本人が知らされてこなかった「江戸」 世界が認める「徳川日本」の社会と精神 (SB新書)

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天下取りへの第一歩、桶狭間の戦い・・・織田信長が、今川義元の大軍を打ち破った奇跡の逆転劇です。
しかし、実は信長には用意周到な作戦があったのでは・・・??
どうして桶狭間の戦いに勝てたのでしょうか??

レジェンド&バタフライ



1560年、27歳の時、桶狭間の戦い!!
この頃、織田家が支配する周りは、敵だらけ・・・!!
危機的状況を打開するために織田家の長男として育てられた信長。
しかし、期待外れの変わり者とみられていました。
信長公記には、従来の信長の姿が描写されています。

”いつも着物の袖を外し、短い袴をはいただらしない格好で、特に見苦しいには街中で栗や柿、うりをかじりつき、人に寄り掛かり、ぶらぶら歩いている”

大うつけ・・・大バカ者と噂されたといいます。
その後、父の病死で当主となった信長・・・
うつけ者が、どうやって強大な今川軍と戦ったのでしょうか??
従来、桶狭間の戦いのきっかけは、今川義元が京の都にのぼろうとしたためだといわれていました。
江戸時代初期に記された信長公記には・・・

”今川義元は上洛し、国家の政治を正すため兵を挙げた”

その為、今川義元が尾張に進軍してきたというものです。
さらに、桶狭間で信長が勝った理由は、これまでは奇襲攻撃だといわれてきました。

”敵の後ろ側へ迂回して移動しろ
 旗を巻いて忍び寄り、義元の本陣を攻めろ”

信長軍は北へ迂回しながら今川軍に見つからないように丘陵地帯を進み、桶狭間に展開する義元本陣を急襲したというものです。
しかし、近年、研究者が記録を総合的に見直すと、全く異なる戦いの姿が浮かんできました。

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感想(3件)



事の発端は、桶狭間の戦いの7年前・・・信長が、19歳で家督を継いだことでした。
それを知った義元は、

「信長はうつけと聞く
 今が大高城を手に入れる好機!!」by義元

大高城は尾張でも大きく重要な城でした。
そこを義元は奪い取ります。
大高城を手に入れたことで、義元は織田家の領地を南北に両断!!
しかも、この大高城は伊勢湾の目の前にあり、海上交易の利益を得られます。
大高城を奪ったことで、織田の経済力に打撃を与えたのです。
また、大高城と同じ年、義元は同じく伊勢湾に面した鳴海城も手に入れ、経済的支配を確固たるものにしました。
信長は絶体絶命の危機・・・!!
しかし、義元の策を読んで、戦略を練っていたのです。

桶狭間の年の前年、1559年26歳の時、信長は大高城のそばに2つの付城・・・丸根砦と鷲津砦を作ります。
さらに、北に3つの砦を作りました。
大高城と鳴海城を砦で囲み、今川軍の兵糧の運び込みを妨害、義元が大高城を助け出陣すせざるを得ない状況を作ったといわれています。
義元が出てくることを見越していたからこそ、付城を作って包囲して、攻め立てたことがきっかけで義元が出てきたのです。
今までのイメージとは違い、信長の方が自ら仕掛けていって義元を誘い込んでいたのです。

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1560年5月12日、今川義元出陣!!
大高城救援に向かう義元・・・道中にあったのが桶狭間でした。
この時、清州城で戦況をにらんでいた信長は、5月19日早朝、出陣!!
向かったのは、鳴海城東に位置する善照寺砦でした。
この砦は、これまで鳴海城を監視する砦と考えられていました。
ところが、砦の構造を丁寧に検証すると・・・
鳴海城の反対側の山の端っこに作った城だったことが分かります。
つまり、善照寺砦からは鳴海城が監視できないのです。
その代わり、南東の方角が一望出来ました。
善照寺砦の南東方面・・・それは桶狭間でした。
信長は最初から、今川軍の行動を読んで、桶狭間方面を監視するためにこの砦を設置してたのです。
今川の軍勢が尾張に向かってやって来れば、いち早くそこでキャッチできる監視塔のような役割を果たしていたのが善照寺砦でした。

記録によると、信長はここで2時間ほど動いていません。
信長が善照寺砦に到着したころ、すでに鷲津砦・丸根砦が今川先陣によって落とされていました。
この状況で信長が桶狭間に向かえば、大高城にいる今川軍に背後をつかれる恐れがありました。
また、最も重要だったのは、義元が今どこにいるのか??という情報でした。
戦全体を一望できる善照寺砦から、大高城の今川軍が動かない・・・義元は桶狭間にいるという二つの条件を見極めていたのです。

さらに、信長は運も味方につけていました。
二つの砦を落した今川軍は、人馬を休め、休憩。
この時、急に天候が激変し、豪雨が降りだしました。
今川軍は雨の中、動きが鈍くなり、火縄銃なども火薬が湿って使えない状況でした。
織田軍は砦に待機し、雨が上がるのを待っていました。
しばらくすると一転、晴れ渡る空~~!!
その時、信長は、

”空が晴れるのをご覧になって、信長は槍をとって大声で「さあ、かかれ、かかれ」とおっしゃった”

織田軍は、砦から2000の兵で正面攻撃!!
今川軍は総崩れ・・・義元は討ち死に!!

桶狭間の戦い・・・それは、奇跡の逆転劇ではなく、用意周到な戦術家・信長が起こした必然の勝利かもしれません。

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1568年、35歳の時、桶狭間の戦いの8年後、信長は室町幕府の将軍候補・足利義昭と共に上洛。
従来、天下統一のため将軍を利用したとされてきました。
明治期の歴史書には・・・

”信長の上洛は、義昭のためではなく足利氏の代わり天下を平らげんとする意味”

その後、義昭を京から追放し、それに代わって自ら権力を握った事実から、信長のイメージは伝統的秩序の破壊者に・・・!!

ところが、近年の研究では信長の違った一面が見えてきています。
どうして将軍・足利義昭と共に上洛したのでしょうか??

1568年、35歳の時、信長は足利義昭と共に上洛。

”将軍上洛のともとして織田信長が参陣する”

しかし、この発見された書状の年を見てみると、永禄9年となっています。
信長は、実際の上洛の2年も前から義昭と共に京を目指す計画を立てていました。
しかし、永禄9年の時点では、桶狭間の戦いで今川義元に勝利したとはいえ信長の周囲は強敵ばかり・・・
いつ攻められてもおかしくないため、上洛など考える余裕はありませんでした。
しかし、信長はそんな状況の中でも、義昭と共に上洛することを考えていました。
信長にとって、義昭と上洛することはどんな意味があったのでしょうか??

1467年、応仁の乱・・・京で始まった権力争いは、全国を巻き込む戦乱へと発展します。
室町幕府は衰退の一途をたどっていきます。
そんな中でも信長は幕府の権威を重んじていたことを示す記録が残っています。
上洛の5年前に書かれた室町幕府の家臣の名簿・・・
その中に、”織田尾張守信長”の名が・・・!!
信長も、将軍を支える大名のひとりだったのです。
権威を重んじる信長が、上洛を目指した目的・・・それは、室町幕府の再興を図ったからです。

信長は、特に中央が維持された中で、「自分の領国があるんだ」という考え方の人物でした。
中央も鎮まるべきだという考えから、積極的に動いて行きました。
伝統的秩序に対する信長の思い・・・
新たに見直されている言葉「天下布武」!!
信長が用いたスローガンで、”天下に武を布く”と読めます。
自分の書状に、この正印を押した信長・・・
これまでは、「天下を武力で我がものとする」という意味で捉えられてきました。
しかし、この天下布武・・・当時の使われ方は・・・??
天下・・・今では日本全国という意味ですが、戦国時代、日本に滞在した宣教師ルイス・フロイスは、「五畿内の領主は、天下の領主と呼ばれる」
つまり、天下とは、全国ではなく、京都周辺の地域(京・山城・摂津・和泉・河内・大和)を示しているのです。
もう一つの手がかりが、”天下静謐”という表現です。
上洛後の信長が、足利義昭への手紙で使った言葉です。
「天下」すなわち「五畿内」に将軍を置き穏やかに治めることを理想としているのです。
これらの事実から、天下布武の意味を読み解くと・・・

”武力という手段を使ってでも五畿内の平和的秩序を目指す”

というスローガンとも取れるのです。
実際に信長のやったことを見ていくと、乱れていた中央を鎮めるという意味合いが一番強い・・・
安泰を維持していく、そういう世の中を求めていたのです。

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1568年9月、35歳の時に4万の軍勢を率いて京へ!!
立ちはだかる敵を蹴散らします。
遂に、義昭と共に念願だった上洛を果たしました。
10月には、信長の軍事力を背景に、義昭が征夷大将軍に就任。
その後、信長が政権内で担当したのは、義昭が行う行政の監査、京の町の治安維持・・・
あくまで財政や守護の任命などの内政面は、義昭が担当しました。
二人は補い合う関係でした。

しかし、蜜月の時は長くは続きませんでした。
上洛からわずか2年・・・信長の怖れていたことが起こります。
越前の大名・朝倉氏の反逆をきっかけに、畿内周辺の有力大名や寺社勢力が信長に反旗を翻したのです。
これに対し、信長は戦を重ね、支配地域を拡大!!
勢いを増す信長に、義昭は不安を抱き始めます。
やがて二人の関係に亀裂が生じていきます。
将軍義昭は、信長と組んで気付いたら周りが敵対者に囲まれてしまっている!!
自分も共倒れになってしまうんではないか??
そんな中、徐々に信長とのすれ違いが生まれてきます。
これに対しの信長は、義昭のふるまいを非難した意見書を送ります。
十七箇条の意見書です。
義昭の怠慢や悪政を、十七条にまとめ、厳しい言葉で忠告しています。

・忠勤の部下を大切にせよ
・えこひいきがあってはならない
・世間から悪しき御所と陰口をたたかれている

信長としては、中央を治める将軍なんだから、しっかりしなさいということを求めていました。
義昭からすれば、不信感の上に、説教まで・・・!!と、怒りが増大してきていました。

上洛から5年後の1573年、信長40歳の時、義昭は信長に対し挙兵。
しかし、信長の圧倒的軍勢の前になすすべなく和睦するほかありませんでした。
信長は、義昭を都から追放。

「命を助けて後世の人々の評価に委ねようと、恨みを恩で返すつもりで送り届けた」

伝統的秩序の破壊者という信長のイメージ・・・
しかし、その実像は、室町幕府再興を願う武将だったのかもしれません。

将軍を京から追放し、戦を重ねて領地を広げた信長・・・
その強さを支えたのは卓越した経済力でした。
信長は、これまでにない経済政策を次々と打ち出していったパイオニアだといわれてきました。
しかし、そのほとんどは、他の武将のマネだったことがわかっています。
信長は、どうやって経済を発展させたのでしょうか??
楽市楽座とは、これまで商人たちが商売を行う際に、土地の所有者に払っていた税を廃止し、組合に入らなければ商売ができなかったものを緩和、自由な商売を認め、経済を活性化させたものです。
歴史の教科書でも信長の経済政策として取り上げられるので、革新的なイメージと相まって、信長発案の印象がありました。
しかし、近年、戦国時代の都市や政策の計画の研究が見直され・・・
楽市楽座は、信長が実施する以前からありました。
現在残る文献では、近江の戦国大名・六角義賢が1549年に楽市令を出していることが確認されています。
信長が岐阜で初めて楽市政策を始める18年も前のことです。

さらに、今川氏の楽市令・・・信長が楽市楽座を行う前年の1566年に出されています。
治安の悪化で活気が減った富士大宮の市に対して税をとらない楽市にすると書かれています。
こうした先人たちの試みである楽市楽座を信長が取り入れたのは、当時解決しなければならない課題があったからです。
流通経済の乱れ・・・特に、拠点となるところを通らずに、流通が展開してしまう・・・!!
信長としては、戦争が終わった状況でそれを再興していく必要がありました。
足利義昭を追放したのち、世の中の安泰を望む信長にとって、戦によって乱れた町と、流通経済の復興が必要だったのです。
信長は、以前からの楽市政策に、ある改良を加えて城下町の復興を活かします。

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1567年、信長が34歳の時に岐阜城下に楽市楽座令を出します。
最初の条文にこう書かれています。

”この市場に移住するものについては、国内の流通を保証し、税を免除する”

城下に移住する商人たちに限って税を免除!!
定住する人を増やして、城下が栄えることが目的としたのです。

自分の支配地域だけで、戦に必要な物資が全て集まることは、各地で戦っていた信長にとって大きなメリットでした。
そして信長は、経済力を高めるため、当時の日本随一の港・堺に目をつけます。
堺は当時、海外貿易で巨万の富を得ていました。
中国・明との貿易では、1回の航海につき2万貫(20億円)の利益が出ていたともいわれています。
当時の戦国大名の多くは、土地を獲得して年貢による収益を得るのが一般的でした。
しかし、信長は、領地拡大だけでなく、港に目をつけ、貿易での商人たちから税をとることで、収入を増やしました。
さらに貿易港・堺を押さえたことは、戦にも有利に働きます。
その効果が分かる戦いが・・・
1575年、信長42歳の時、武田勝頼の軍と対峙した長篠の戦いです。
織田軍が鉄砲を駆使し、武田軍に勝利したことで知られています。
2019年、合戦場の発掘調査で、織田軍の武器から驚くべき特徴が浮かんできました。
織田軍の鉄砲の玉・・・成分調査をすると、東南アジアの鉛の成分が出ました。
鉛は加工が簡単で、銃弾を大量生産できるため、鉄砲の玉に適した材料です。
しかし、日本ではあまり取れず、十分な量をとるのが難しい素材です。
信長は、堺の貿易ルートを使って、東南アジアから銃弾の原料となる鉛を大量輸入していました。
さらに、このルートで、国内では手に入らない硝石・・・火薬の原料も同時に手に入れていました。
硝石は、国内では取れません。
それを押さえているのは堺の港・・・信長は当然硝石の独占権を握ることとなります。
鉛の弾を輸入していた港は堺・・・堺を押さえていた信長が、圧倒的に鉛も手に入れていました。
武田は鉄砲はありましたが、火薬は作れないし鉛の玉もない・・・
鉄砲はほとんど使えませんでした。

たとえ改革の先頭を走らなくても、先人の成功を取り入れ、プラスアルファ―を加えることで、ライバルを上回る・・・それが織田信長でした。

元は尾張の大名にすぎなかった信長・・・
46歳の頃に安土に居城を移し、所領を大きく広げていました。
その躍進の原動力となったのが、身分にとらわれず重用した家臣たちです。
羽柴秀吉は低い身分から家臣となり、明智光秀は足利将軍の側近の出身、滝川一益に至っては忍者だったという逸話もあります。
一方で、結果が出なければ追放もある厳しい実力主義は、家臣たちとのゆがみを生んでいきます。

1579年、46歳の時に安土城が完成。
信長は安土城に身を置き、各方面の統治を自らの有力家臣たちに任せるようになります。
広い領国を、ひとりでは見切れないためです。
この時信長は、家臣たちに厳しい統治のルールを課します。
柴田勝家らが越前を治める際に、信長が勝頼に送った書状が信長公記に残っています。

”不法な税は取るな
 ただし事情がある場合は我々に尋ねよ
 そして裁判は公正に
 双方が納得しないようなら、我々に伺いを出して判決せよ”

そして、各地を治める家臣たちのもとに与力と呼ばれる信長直属の配下たちを監視役、目付として付けました。
信長は、部下を監視し、支配に揺るぎがない体勢を築いていこうとします。
しかし・・・お互いを離反させるような、仲良くさせないような仕掛けが多すぎて、織田か診断の中がぎすぎすしていました。
そこが、信長流人事の欠点でした。
そして、仕事ぶりがよくない家臣を罵倒!!
信長の父の時代から織田家に仕えていた尾張出身の重臣・・・佐久間信盛。
佐久間は、本願寺と戦う前線の指揮官でしが、目立った功績はあげていませんでした。
そこで信長が、佐久間信盛に送りつけた手紙には・・・

”丹波は明智が平定し、目覚ましい活躍をしている
 秀吉も数カ国で”功績をあげている
 それに引き換えお前は、5年間、感心する功績を一度もあげていない
 剃髪して高野山へ行け”

信長は、他の武将の名を上げて、佐久間を激しく批判します。
そしてこの手紙ののち、佐久間信盛は追放・・・2年後に、失意のうちに亡くなります。

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さらに、この状況に不安を抱いた人物がいました。
明智光秀です。
光秀は、佐久間が指揮していた本願寺攻めに参加。
祖の指揮官であった佐久間が追放処分になっていることが、穏やかではありませんでした。
手柄なき者は去れという露骨な人事・・・
武将達の神経を逆なでするようなことも、平気でやるのがこの頃の信長でした。

実力主義の信長軍団・・・しかし、一方でこの頃から信長は、長男・織田信忠に家督を譲り、次男・織田信雄には伊勢を与えるなど、息子たちを重用し始めます。
こうした信長の対応は、家臣たちの間にほころびを生んでいきます。
荒木村重、松永久秀といった家臣たちは、織田家の中での立場を不安視・・・
信長に対して反旗を翻しました。
そして、家臣の恐怖や不満が、形に立って現れたかのような事件が起きます。

本能寺の変です。

京の本能寺に滞在していた信長を、家臣・明智光秀が襲いました。
本能寺は炎の包まれ、信長はこの世を去りました。
1582年・・・織田信長死去、享年49歳。

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