日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

川路利良・・・幕末・薩摩藩出身!!初代警視総監であり、警察の父と呼ばれる人物です。
幕末動乱の時代、薩摩は長州と共に倒幕に突き進んでいました。
武士より身分の低い与力の出身だった川路、数多の戦いに参加したものの、一兵卒にすぎませんでした。
そんな川路がどのようにして栄達のきっかけを掴んだのでしょうか?

鹿児島・・・城下からおよそ北に12キロのところにある皆与志町比志島地区・・・
1834年5月、川路利良は「与力」の家に生れます。
後に大警視にまで上り詰める川路が、最下層の身分与力の子として生まれたのです。
大久保利通や、西郷隆盛らよりも身分が低く、武士と見なされませんでした。
比志島地区は今も農村地帯で、川路は農業で生計を立てなから、毎日遠い城下まで通い、藩の務めを果たしていました。
14歳の時、後の薩摩藩主・島津斉彬のお供で江戸へ。
藩の情報を伝える飛脚として活躍します。
薩摩と江戸を何度も往復しました。

川路にはもう一つ誰にも負けないと自負するものが・・・剣術です。
高杉晋作も江戸に剣術修行に行っていますが・・・
川路のことを「志ある者なり」と評しています。
川路は飛脚で培った情報収集力と剣術で、徐々に藩内で知られるように・・・
そして、幕末維新の動乱が、川路を表舞台へと押し上げていきます。

1864年7月・・・きっかけは禁門の変です。
前年に起きた政変によって京都を追われた長州が、主導権を取り戻すために御所を攻撃した事件です。
御所を守るのは、薩摩藩と会津藩!!
31歳の川路は一兵卒として参加していました。
序盤は長州が有利でした。
長州勢は守りを蹴散らし蛤御門へ!!
そこに援軍として駆けつけたのが川路達薩摩勢でした。
川路は長州勢を率いる大将を狙えば勝てると仲間の兵を鼓舞します。
薩摩兵がその大将を狙撃、重傷を負わせ、長州勢の進撃を食い止めました。
川路の機転は、戦局の変わるきっかけとなり、薩摩、会津の勝利でこの戦は終わりました。
勇猛果敢な一人の男・・・これに目を留めたのが薩摩藩の軍事指導・西郷隆盛でした。
西郷は川路を取りたて、やがて大隊長に・・・。

4年後の1864年1月・・・鳥羽。伏見の戦いが勃発
薩摩・長州の新政府軍と旧幕府軍とが京都郊外で戦い新政府軍が勝利します。
この時の川路の活躍は・・・??
「世の中に戦ほど面白きものはなし!!」
その後、川路は西郷に従い戊辰戦争を会津まで転戦!!
新政府軍の勝利に貢献します。
そして明治維新後、新しく首都となった東京で、川路は活躍の場を広げることとなります。

1871年、川路は新政府の参議だった西郷隆盛から重要な任務を任されます。
それは、首都・東京の治安維持でした。
江戸時代、町奉行が管轄していた職務を近代的な組織に変える必要性に迫られていました。
新政府は士族3000人を雇用。
そのうち1000人は薩摩藩士で、川路自ら鹿児島で集めたといいます。
彼等は邏卒と名付けられました。
現在の警察官の前身です。
1872年、川路は邏卒総長に就任。
薩摩藩士の中で、江戸の町を一番熟知していたのは川路でした。
川路はこの時から、日本の警察制度を確立する為に将来を捧げることとなります。

明治維新後、政府は早急に解決しなければならない問題青抱えていました。
威信の功労者たちが、次々と各地で暗殺・・・または暗殺未遂に会っていました。
新政府では、一連の事件を機に、これからの治安維持には犯罪の捜査だけではなく、犯罪を未然に防ぐ近代的な警察組織が必要だとなりました。

8月邏卒は、司法省警保寮の管轄となり、川路はそのNo,2警保助となりました。
そんな川路にヨーロッパ警察の視察の命が・・・!!
9月、川路達司法省の視察団が横浜を出発!!
フランス、ドイツ、ベルギー、オランダ、ロシアなどを1年かけて回りました。
川路がとりわけ感銘を受けたのは、フランスの警察制度でした。
当時、フランスはプロイセンとの戦争に敗れ、戦後も労働者の革命自治政府パリ・コミューンが樹立されるなど混乱が続いていました。
しかし、7000人を超える警察官によって、パリの治安は守られていました。
当時のパリは、維新後の日本と同じだったのです。
激動の時期、日常にどう戻していくのか??
戦乱、武士の力、軍事力ではなく、日常的に秩序を作り上げていくためには・・・??

1873年9月帰国・・・
そして、すぐさま政府に建議書を書きます。
新しい警察組織の創設を訴えたものです。

警察は国家平常の治療なり・・・
ヨーロッパでは、邏卒に軍人を用いるのは通例
日本にも士族がいるので、これを使わないのは失政の極みである

川路はフランスでの視察を盛り込んで、建議しました。

これに目をつけたのが、西郷と共に政府の実力者だった大久保利通でした。
大久保は、警察から地方行政まで全般を担う内務省を創設を準備していました。
川路は大久保の後ろ盾のもと、新しい警察組織の創設に邁進します。
ところが・・・建議書提出の翌月、新政府を揺るがす大事件が起こります。
西郷隆盛が新政府を離れ、鹿児島に戻ってしまいました。
朝鮮との外交方針を巡って、大久保らと意見が対立、論争に敗れたのが原因でした(明治6年の政変)。
西郷下野!!
その影響は大きく、薩摩藩士の多くは離脱・・・100人以上の邏卒が西郷を追って鹿児島へ帰ってしまいました。
川路もまた薩摩人として岐路に立たされます。

西郷を追って鹿児島へ・・・??
それとも警察の創設に邁進する・・・??

1873年11月10日、西郷が新政府を去ってわずか数日後、大久保利通肝いりの内務省が設置されました。
TOPである内務卿には大久保が就任、この内務省誕生は川路の選択に大きな影響を与えることとなります。
自らを取り立ててくれた西郷の恩・・・しかし、もっと国に尽くしたいという思い・・・!!

国家の安定、市民を守る警察行政制度の更なる拡充が頭の中にありました。
刻下の行政は一日たりとも揺るがせにできない・・・。
しかし、西郷への恩義は感じており、市場においては忍びないが・・・と言っています。

1874年1月15日、内務省の管轄下に警視庁が誕生しました。
当時の警視庁は、首都東京の治安維持だけでなく、国家全体にかかわる事件を地方警察に代わり担当していました。
川路は大警視・・・現在の警視総監の地位にある警視庁のTOPにつきます。
そして、日本の警察制度を一から作り上げていくことになります。

邏卒から警察官に変わったことで、新しく導入されたのが警察手帳です。
警視庁創設当時、警察官は約5300人でした。
この警察官の実力が試される時が・・・!!
各地で士族の反乱が起きます。
明治政府に不満のある士族たちが各地で反乱を起こしたのです。
士族たちは刀を持つことを禁じた廃刀令や、家禄廃止に反感を抱いていました。
警察官たちは次々に現地派遣され、軍の後方支援などで活躍、乱の鎮圧に貢献します。
そんな中・・・最も警戒していたのは鹿児島の西郷・・・
大久保や川路は、西郷の私学校の士族たちが能初することを恐れ、対策に講じます。
鹿児島に巡査を密偵として派遣!!
さらに・・・警察官の増員計画・・・目をつけたのが、戊辰戦争で敗者となった会津藩や仙台藩などの士族たちでした。
中でも旧会津藩主は、北寒の青森に移住して、斗南藩で苦難の生活を送っていました。
斗南藩も無くなり、路頭に迷うものも多くいました。
川路は、会津藩で家老を務め、鬼官兵衛として官軍に恐れられていた佐川官兵衛と接触します。
会津戦争の時に、徹底抗戦を貫いた官兵衛は、部下からの信頼も厚かったのです。
川路は、佐川に旧藩士を連れて警察官になるように要請します。
佐川はかつての部下たちのことを想い、決断します。

「皆、衣食に窮し 飢餓に迫る 之を養ふは我分なり」

佐川は、旧会津藩士300人を従えて警察官となりました。
川路と西郷の対決が、刻一刻と迫っていました。

1877年、川路と西郷の対決が・・・!!
薩摩では、士族を蔑ろにし、中央集権化を進める新政府への不満が爆発寸前でした。
そこに、川路が密偵を派遣していたことが露見!!
私学校の士族たちの怒りに火をつけることとなりました。
2月・・・武装した1万数千人が鹿児島で蹶起!!東京を目指して出発します。
九州各地で、薩摩と行動を共にする士族が現れ、西郷軍に加わります。
西南戦争の始まりです。
西郷軍を阻止する為に、警察は陸軍と共に各地で奮戦します。
今回は、後方支援にとどまらず、およそ1万3000人の警察官が武装して従軍しました。

川路は、陸軍少将兼大警視として西南戦争に参戦。
当時、熊本城にいた政府軍は、西郷軍に包囲され孤立していました。
八代に上陸した川路は、熊本城の救出に向かいます。
しかし、その登城、川路軍は西郷軍の奇襲を受けます。

部下の死を聞いた川路は激怒!!

「いざ、弔い合戦せん!!」

部下たちを叱咤激励します。
兵を率いて反撃に転じ、西郷軍を蹴散らします。
川路の勝利を知った西郷は、こう語ったといいます。

「川路は、兵の機をよく把握している
 敵ながら天晴なり」

やがて陸軍の増援部隊が加わり勢いづいた政府軍は、西郷軍を敗退させ、落城寸前の熊本城を救いました。
その後、火力と兵力に勝る政府軍は、鹿児島県との県境まで押し戻すことに成功!!
しかし、6月・・・川路は陸軍少将及び別働第三旅団長を辞任し、終戦を待たずに東京へ・・・。
その理由は・・・??

西郷にとどめを刺すというのは、私情において・・・と、ここに私情が出てくるのです。
本来、巡査隊の仕事ではない・・・ほかにやるべきことがある・・・という建前です。
最後・・・周りが避けさせたのではいか・・・??
開戦から7か月たった9月24日、鹿児島の城山に追い込まれた西郷は自害・・・西南戦争は終結しました。

大恩ある西郷を裏切ったともいわれた川路・・・。
当時の心情は・・・??

敗色濃厚の中で、鹿児島に戻った西郷が士族たちに最期の決起を呼び掛けた回文・・・。
死の20日ほど前にかいた絶筆です。
川路はこの手紙を手に入れ、西郷の直筆であると自ら書き加えたといいます。
絶筆と言える回文を自分のところに大事に保管したかったのでは・・・??

1879年10月、病のために46歳で亡くなります。
大警視の地位にあったのはわずか5年でした。
川路が眠る墓は、鹿児島ではなく東京にあります。
西南戦争のあと、川路は鹿児の地に足を踏み入れることはありませんでした。
墓には桜島の溶岩が・・・

大義の前に私情を投げ打ったという川路・・・。
しかし、鹿児島、西郷を思う心は、終生変わらなかったのかもしれない。

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今からおよそ1400年前から1100年前にかけて、木造の船で風を頼りに男たちが命がけで大陸を目指して海を渡りました。
世に言う遣隋使と遣唐使です。
当時、東アジアで強大な勢力を誇っていた隋と唐に派遣された使節団です。
飛鳥時代から平安前期にかけて300年もの間続けられた一代国家プロジェクトでした。

遣隋使を初めて派遣したのは、日本初の女性天皇・推古天皇を頂点とするヤマト王権でした。
長らく交流がなかった古代中国に強大な統一王朝隋が登場!!
この隋と国交を結ぶための使節派遣でした。
そして、この国家プロジェクトを任されたのが、推古天皇の甥で摂政だったと言われる厩戸皇子(聖徳太子)です。
こうして、西暦600年、第1回遣隋使派遣となります。
その船は、現在の大阪の難波津から出航しました。
北九州を経由して、朝鮮半島にわたり、黄海を横断し、山東半島に上陸したと推測されています。
その船には誰が乗っていたのか?いつ帰ってきたのか?日本には記録がありません。
600年から・・・
①600・・・不明
②607・・・小野妹子
③608・・・小野妹子
④614・・・犬上御田鍬
と、4回行われていますが・・・②~④は、日本書紀に記されています。
どうして「日本書紀」に1回目の遣隋使派遣の記述がないのでしょうか?

第1回遣隋使について唯一描かれているのが中国の歴史書「隋書」倭国伝です。
そこに書かれているには・・・倭国から来た使者に隋の初代皇帝・文帝はこう聞きました。
「倭国はどのような国か?」
「倭王は天が兄で太陽が弟です
 夜明け前に政務をはじめて、日が昇るとあとは弟に任せます」
一説には、これは倭王を明けの明星にたとえ、隋の皇帝を天とするならば、倭王はその下で輝く金星だと言いたかったのだと言われています。
ところが、通訳が拙かったのか意味が伝わらず、文字通りに受け取った文帝の怒りを買ったともいわれています。
中国では天は唯一の物で、天の命によって皇帝が決まるという考えで、皇帝は天ではありません。
文帝は「はなはだ義理なし」とし、中国的なやり方に改めるように指導したともいわれています。
文帝は倭国を未熟で野蛮な国だと門前払いをし、日本は大恥をかいたのです。
こうして何の成果もなく屈辱的な派遣だったので、第1回遣隋使は日本書紀には記されなかったのです。
これをきっかけに厩戸皇子は隋と対等の関係を結べるような国づくりに邁進していきます。
遣隋使によって、隋との違いを知り、国内体制の整備、改革の必要を痛感したのです。

厩戸皇子の国造り
当時、ヤマト王権には外交施設がありませんでした。
そこで、古代中国の建築物に倣い小墾田宮を建造します。
さらに、遣隋使の使節が位を表す冠をしていなかったことも野蛮とされた理由の一つだったとされ、冠位十二階を制定。
そして、孔子の教えである儒教など・・・日本に入ってきたばかりの外来思想を積極的に取り入れ、憲法十七条を定めます。
こうして、国内の制度を整えた厩戸皇子は、2回目の遣隋使派遣を決めます。
その7年間で、隋の皇帝は文帝から息子の煬帝へと変わっていました。

607年第2回遣隋使派遣
第2回遣隋使の最大の目的は、隋と国交樹立すること・・・さらに、この時から仏教が復興した隋で、仏法を学ばせたいと、日本の僧侶たちを連れていくようになりました。

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そんな2回目の遣隋使の代表・・・大使となったのが、小野妹子でした。
妹子は、現在の滋賀県大津市に当たる小野村の豪族の出身で、当時の官位は大礼で、決して官位は高くなかったのですが、古くから近江の豪族はヤマト王権の中枢で活躍していたので、妹子が抜擢されたのです。
妹子はこの時、こんな書き出しの国書を持って行きました。

”日出ずる処の天子
 書を日を没する処の天子に致す
 恙なきや云々”

日出ずる処とは東の日本のこと・・・日没する処とは西にある隋のこと・・・
ところが、これを聞いた隋の煬帝は、日本が隋を同格とみていることに激怒!!
使節たちは、またも帰されてしまうのでは??と思ってビクビクしていましたが・・・
この時、隋は隣の高句麗との戦争を控えていたので、日本を敵に回して高句麗と組まれては困ると考え、無事国交樹立となりました。
1年の滞在の後、608年小野妹子帰国。
この時、隋の煬帝から国書の返書を受け取ったのですが、途中で紛失してしまいました。
朝廷に戻った妹子はこう告げます。

「帰国の際に立ち寄った百済で、返書を奪われました。」

しかし、この返書紛失事件には裏がありました。
百済が隋の文書を奪うことは大きな国際問題となるので、疑問です。

奪われたわけではない・・・??
この文書は、倭国の国書に対して、無礼だとけん責し、改めさせる内容だったと考えられます。
そんな文章を持ち帰ったら・・・返書を持ち帰れないと考えた妹子は、百済で奪われたことにしたのです。

妹子を処罰すべき・・・??
推古天皇は、隋の使者に騒動が露見することを防ぐために、妹子を罪に問いませんでした。

処罰を免れた妹子は、608年、官位が最高位の大徳に昇進。
9月には、再び遣隋使の大使として海を渡ります。

京都にある紫雲山頂法寺・・・通称六角堂は、587年に厩戸皇子こと聖徳太子によって、創建されました。
隋から帰国した妹子は、出家するとこの寺に入ったといいます。
六角堂の北側にある聖徳太子が身を清めたと言われる池・・・この池のほとりに僧侶の住坊があったことから、六角堂の住職は池坊と呼ばれるようになりました。
池坊とは、華道の家元で知られるあの池坊です。
妹子と華道には深い関係があります。

当時はお花を神仏に備えるということはなく、常盤木(マツなどの常緑広葉樹)を縁起のいいものとして供えていました。
妹子が隋に行き、持ち帰ったのが供花・・・色花も含めた仏に備える花です。
そうして、ここが生け花発祥の地とされ、小野妹子は華道の祖と言われています。

614年、第4回遣隋使として犬上御田鍬・・・滅亡寸前の隋を目の当たりにします。
隋が、新興勢力だった唐に滅ぼされたのは、御田鍬が帰国した3年後・・・618年。
唐が、国として安定した630年、舒明天皇が唐との外交を密にするために、第1回遣唐派遣開始します。
そうして、894年まで、260年の間に、遣唐使は18回計画され、15回実行されたのでは?と言われています。

それではどんな人物が唐に渡ったのでしょうか?
最初の頃は、2隻の船で、使用団120人。
その大半は、船をこぐ水手でした。
船員たちは、朝鮮半島の往来に慣れていた北部九州から動員されたようで、遣唐使事業に従事したものは、3年免税されました。
船員の他には、遣唐使の使節たち・・・家柄、学識、教養、風采・・・総合的な選考が行われました。
特殊な技能を持っていた人も乗り込んでいました。
通訳、医師、主神(船内に祀られていた住吉の神に仕える者)、陰陽師(易による占いや天文、気象現象の観測を行う者)、絵師(絵や書で記録にとどめる)、船大工・・・
船大工は、外洋航海のために損傷が激しく、帰ってくるときに修理をしなければなりませんでした。
留学する者もいました。
留学生・・・長期滞在者・・・15~20年間滞在し、次回の遣唐使と帰国
     ・・・短期滞在者・・・1~2年間滞在し、同じ回の遣唐使と帰国

いずれも唐の文化を習得、密教の理解を深めることに努めました。

船旅は命がけ・・・第2回遣唐使は120名×2隻でしたが、1隻が竹島付近で遭難し、生存者はわずか5人でした。
無事生還したのは6割でした。

どうして遣唐使船は海難事故が多かったのでしょうか?
考えられるのが、船の性能、航海技術です。

①船
全長30m、全幅9.6m、船首に舵があります。
主な労力が風邪で、網代帆でした。
布帆も用いていた可能性もあり、無風、逆風の時は帆を下ろし、櫓を使っていました。
それなりの航海技術はありました。

②時期
日本は遣唐使を派遣していく中で、唐に2年に一度貢物をする約束をします。
その時には、必ず諸外国の使者と共に、唐の皇帝の祝賀行事の朝賀に参列。
それは、正月に行われることになっていました。
余裕をもって4,5か月前に出発・・・これは、現在の暦にすると9~10月ごろ・・・。
まさに、台風の起きやすい時期なのです。
おまけに季節風が向かい風に変わるころで、海が荒れ・・・海難事故・・・??
実際には、5~7月(6~8月)に出発した記録が多く、東シナ海が安定し、航海に適した時期でした。
季節風、海流などは認識していました。

どうして海難事故が多かったのか??
③ルート
当初船は、北回りルートでした。
博多→壱岐→対馬→朝鮮半島西岸を経由して山東半島に上陸。
そこから陸路で長安へ・・・船旅だけで、40~50日かかりました。
これは遣隋使の頃からのルートで、危険な海路に依存する割合が少なく、比較的安全だと思われていましたが・・・
7世紀半ば、朝鮮半島の新羅が唐と同盟を結び、百済と高句麗を滅ぼします。
その後、旧百済領を巡って、唐と新羅が争いました。
朝鮮半島西岸を通ることが危険となり、使えなくなっていまいました。
そこで用いられたのが、五島列島から直接唐に入る南回りルートです。
1週間から10日で唐の江南地区長江河口付近に到着するため、航海時間は短くなりましたが、荒れやすい外洋を進むことになったので、難破や遭難が増えたのです。
海難事故が増えたこともあって、少しでも多くの人が唐にたどり着けるように、船の数を2隻から4隻に、人数も250人から600人となりました。
長安までも、運河を船で行きさらに陸路で2ヵ月・・・かかるときは半年かかったようです。
しかも、全員長安に行けたわけではなく、600人のうち50人ほどしか許されませんでした。

命がけで海を渡ってきたのに・・・??
元々長安まで上京するのは使節団のみです。
唐が遣唐使節の滞在費を負担しました。
しかし、奈良時代の後半・・・安史の乱(755年~763年・唐で起きた大規模な反乱)で、治安が悪化し、財政問題から遣唐使に希望する者すべてを長安まで行かせることができなくなっていました。
皇帝の許しが出たものに関しては、持ち帰ったり、見学(暮らし・建築)をしたりすることができました。

飛鳥時代から奈良時代に移り遣唐使後期になると、600人になった使節団は、留学する者が多くなります。
その中には長期滞在(留学生・学問僧)、短期滞在(請益生・還学僧)がいました。
長期滞在者は、次の船が来るまでの15年~20年もの間唐に滞在、それぞれが文化の習得や仏教理解の研鑚に努めました。

吉備真備 天平の光と影

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備中国の豪族の生まれの吉備真備(695~775)もその一人です。
留学僧として2度唐にわたっています。
一度目は、717年、第8回遣唐使として唐にわたり、17年間滞在します。
天文学、音楽、兵学を学び、帰国の際には唐から支給された留学の手当てをすべて書物などに変えて日本に持ち帰って朝廷に提出しました。
様々な学問書や仏教・儒教の書籍を日本へ持ち帰ることが遣唐使の大きな使命なのです。

当時の日本は、唐を参考に律令に基づく国家樹立を目指していたので、唐の事情に精通し、頭脳明晰な真備は重用されました。
帰国後は、破格の出世をし、従八位下から正六位下(大学助)に任じられ、学問面で国家の基礎づくりをします。
東宮学士という皇太子の先生となり、聖武天皇、光明皇后に寵愛され、破格の出世をし、766年には右大臣へ。
学芸、政治・・・奈良時代に数々の足跡を残しました。

日本に戻れずに唐でその人生を終える者もいました。
吉備真備と共に唐に渡った阿倍仲麻呂です。

遣唐使 阿倍仲麻呂の夢 (角川選書)

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仲麻呂は、大和国の名家の生まれで、この時まだ19歳でした。
長安についた仲麻呂は、法律、文学、儒教など様々な学問を学び、唐の国家試験である科挙に合格し、唐で役人として出世し、時の皇帝玄宗に仕えました。
唐を代表する詩人・李白や王維とも交流を深めます。
そうして唐に来て16年・・・仲麻呂は遣唐使と共に帰国したいと玄宗に願い出ます。
ところが、帰ることを許してもらえなかったのです。
仲麻呂の願いが聞き入れられたのは、それから20年後のことでした。

その送別会の席で仲麻呂は歌を詠みます。

天の原
  ふりさけみれば
      春日なる
三笠の山に
    いでし月かも

日本を懐かしんだのですが・・・日本に帰る途中で暴風雨に遭い途中で遭難。
船はベトナムへ漂着し、再び唐に戻ることに・・・。
結局、日本に帰ることはかなわず、唐でその生涯を終えたのでした。

中には鑑真・・・鑑真は、日本に戒律の精神と儀礼を伝え、唐招提寺の開祖となりました。
すでに唐で名のある高僧だった鑑真が、日本にわたる決意をしたのは743年55歳の時でした。
鑑真は天台宗の高僧として活躍した慧思が、その死後、東方の国に生まれ変わり仏教を広めたという伝承を信じていました。
そして、その東方の国こそが日本で、戒律が栄えるべきところだと考えたのです。
しかし、時の皇帝・玄宗が出国を禁じます。
それでも鑑真の意志は固く、半ば密航の形で日本に向かいます。
しかし、悪天候、弟子の密告などに阻まれます。
1回目・・・743年・・・弟子の密告
2回目・・・743年・・・悪天候
3回目・・・744年・・・弟子の密告
4回目・・・744年・・・弟子の密告
5回目・・・748年・・・悪天候
5回目の渡航の際には愛弟子が亡くなり、鑑真も視力を失ってしまいます。
それでもあきらめることなく、754年日本に戻る遣唐使船に・・・。
6回目でついに来日を果たしたのです。

時の孝謙天皇は、鑑真に戒律を授ける権限を一任。
日本の仏教会の頂点に立った鑑真は、400人ほどに戒律を授け、戒律制度を整備。
さらに重い税や貧困に苦しむ民衆にも手を差し伸べて救済・・・763年76歳で天寿を全うしました。

894年8月・・・
第18回遣唐使派遣が決まります。
選ばれたのは、学者から出世を継げていた菅原道真でした。
菅原道真は、一旦は引き受けますが、1か月後、遣唐使の派遣中止を時の宇多天皇に訴えます。
道真は、過去にも受諾した案件を翻意にすることがありました。
この時もそうだったようですが・・・
どうして遣唐使の中止を訴えたのでしょうか?
意見書にはこう書かれていました。

「往復の危険は承知の上。
 しかし、今は唐の国力が衰えていて、以前なら安心だった唐の中の移動が危険にさらされている」
そのため、中止が望ましいと訴えたのです。

学者として調べると、9世紀の後半には反乱が起きていて、かなり治安が悪くなっていました。
留学生の待遇も悪化しており、支給されていた遣唐使への食糧が20年分から5年分と削減されていたのです。
唐の国力が衰退し、待遇も悪化していたため、危険を冒して唐にわたる必要がないと考えたのです。
また、当時商人の船による唐との往来が増えていて、国が船を出さなくてもいい状況になってきていました。
実際、遣唐使として唐にわたっていた円仁は、847年に新羅の承認の船で帰国しています。

情勢を冷静に判断した菅原道真の意見は通り、894年遣唐使中止・・・その後廃止となりました。
およそ300年間にわたって実施されてきた国家プロジェクトは、遣隋使4回、遣唐使15回、合計19回に及んだのです。
使節たちによってもたらされた先進国・隋や唐の文化と知識は、国内で熟成し、日本文化の基礎となっていきました。
命をかけ、海を渡った男たちの賜物・・・過酷な旅でした。


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天平期の僧と仏―行基・鑑真・道鏡、そして良弁

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聖徳太子と日本人 ―天皇制とともに生まれた<聖徳太子>像 (角川ソフィア文庫)

天正10年6月2日・・・この日、歴史が変わりました。
天下統一目前だった織田信長が、家臣・明智光秀の謀反により非業の死を遂げる・・・本能寺の変です。
光秀はどうして謀反を起こしたのか?
今なお多くの謎に包まれた本能寺の変ですが・・・
今回の視点は”どうして信長は本能寺に泊まったのか?”です。
この時、信長には京都において定宿が三カ所ありました。
その中で、信長が本能寺を選んだのはなぜか??

戦国最大の事件本能寺の変・・・この時明智光秀は、主君・織田信長だけでなく信長の跡継ぎ・信忠をも討ち果たしました。
この信忠の死により、織田政権は実質的に崩壊したのです。
信忠とは・・・??
26歳で亡くなっていますが、非常に活躍した有能な息子でした。
偉大な父・信長の影に隠れ、歴史に埋もれてしまった信忠・・・。
1557年、信長の長男として誕生します。
信長のもうけた息子は、信忠・信雄・信孝など11人・・・。
しかし、信忠以外は幼くして養子に出されています。
攻めようとしている伊勢などに、養子に送ったりしています。
しかし、それは織田家に限らず、戦国大名のいろんな家がしてきている事・・・。
嫡男以外の男子を戦略的に周辺の領主に養子に入れるので、余程能力に問題がない限りは、後継者は嫡男でした。
生れながらにして信長の後継者として育った信忠・・・
その帝王学は厳しく・・・織田家の家臣が信忠を褒めると・・・信長は、
「家臣に手の内を読まれるなど、信忠は大将の器ではない
 そうであれば、信忠を我が後継者とするわけにはいかない」と。
他にも、信忠が自ら能を舞うのが好きな能数寄だとわかると、それに対し、
「武将たるものが能にうつつを抜かすなど何事か」と怒り、能に使う道具を取り上げたといいます。

信長から後継者としての資質を疑われた信忠・・・いかにして信頼を勝ち得たのでしょうか?

1575年5月、織田・徳川連合軍が戦国最強とうたわれた武田軍と激突!!
世に言う長篠の戦いです。
結果、織田・徳川連合軍は、武田軍に完勝!!
この機に乗じ、織田軍は武田領の東美濃を攻略。
その総大将に抜擢されたのが、わずか19歳の信忠でした。

岐阜県恵那市岩村町・・・武田の東美濃の拠点となった岩村城は、標高717メートルの巨大な山城です。
信忠軍が包囲する岩村城は、自然の地形を利用した難攻不落の要塞でした。
その秘密が井戸にあります。
兵糧攻めでは、水の手をたつということが行われます。
しかし、この城は、豊富な水が城内に湧いているので、城を落とすことができませんでした。
信忠が攻めたときも、半年間ここに籠っていました。

事実、信忠は5か月間岩村城を落とせず・・・

そこに、長篠の戦いの敗戦から息を吹き返した援軍が迫ってきます。
岩村城に籠城していた武田勢は、援軍を待たずして出撃!!
信忠の陣を逆に攻めたてます。
この時信忠は、自ら先陣として出陣!!
敵を返り討ちにしたばかりか、大将格21人を討ち取りました。
これによって岩村城は落城!!
11月、信長は信忠に茶器などの名物を褒美として与えたばかりか、尾張・美濃の二国を与ます。
さらに織田家の家督を譲りました。
信忠は、自らの武勇を示すことで織田家当主の座を勝ち取ったのです。
そして、天下人の後継者としての地位を盤石にしたのが・・・1582年2月武田征伐!!
総大将・信忠率いる織田軍は、怒涛のように武田領を席巻!!
最大の激戦となった高遠城攻めでは、自ら前線に赴き、采配を振るいました。
信忠は武田が誇る高遠城を、わずか1日で落城させたのです。

戦国最強の武田軍を相手に、自ら先陣を切る信忠に、信長は苦言を呈しています。
武田を弱敵と侮ってはならぬ・・・
しかし、そんな信長の心配を余所に、信忠は快進撃を続け、遂に武田家は滅亡!!
信忠が武田領に侵攻してわずか1月でした。
武田滅亡によって東の憂いは無くなりました。
信長は宣言します。

「信忠に天下を譲る!!」

織田家の家督だけでなく、天下人の座も継ぐことになった信忠・・・
本能寺の変3か月前の出来事でした。

本能寺の変2日前・・・1582年5月29日。
信長は安土を出立!!
二、三十人のお供を連れて上洛。
信長が少人数で上洛したのはなぜか?
「信長公記」によると・・・

直ちに中国へ出陣しなければならないので、安土に残るものは戦の準備をして待機させ、命令次第出陣するというので、この度小姓衆以外は随行しなかった。

当時織田軍は、関東・北陸・中国・四国と各地に展開。
中国方面軍羽柴秀吉は、備中高松城で中国の覇者・毛利と対峙。
信長に援軍の要請をしていたのです。
大規模な軍事遠征を間近に控え、上洛した信長・・・
その宿所となったのが本能寺でした。

戦国時代の京は、応仁の乱の被害があって、かなり荒廃した様子でした。
現在の本能寺は、豊臣秀吉の時代に移されたもので、元の本能寺は別のところにあります。
信長が宿所とした本能寺は、南西におよそ1キロ離れたところ。
戦国時代の京都を克明に記しているのが「国宝 上杉本洛中洛外屏風」です。
本能寺の周辺には、水堀などの防御施設が描かれています。
本能寺周辺で行われた発掘調査では、寺の周囲に幅およそ4メートル以上、深さ1メートル以上の堀などが設けられていたことがわかっています。
戦国時代の京都は、応仁の乱で焼け野原になって以降も戦乱で・・・その結果・・・上京と下京に分断され・・・それぞれの町は、総構えと呼ばれる濠などの防御施設に守られていました。
しかし、本能寺はその総構えの外に位置していました。
市街地のいちばんの外側・・・攻めやすかったのです。
信長自身は、本能寺はそれほどたくさん泊まっていません。
当時、信長が上洛した際に宿としていたのは、主に本能寺・二条御新造・妙覚寺でした。
記録によれば、二条御新造には14回、妙覚寺には20回、本能寺には4回・・・。
本能寺の北東に位置した妙覚寺は、一番多く泊まった宿です。
寺の周りに土塀や堀を巡らせた防御機能のある寺です。
本能寺の変の時には、信長の嫡男・信忠がここにいました。

1582年5月21日・・・信長が上洛する8日前・・・
信忠は兵500を率いて上洛!!妙覚寺に宿泊していたのです。
本来、妙覚寺は信長が京都へ上洛した時、頻繁に寄宿していた場所です。
信忠も妙覚寺へ泊るようになり・・・信長は本能寺に移り、信忠が妙覚寺にいるようになったのです。
妙覚寺と向かい合っていたのは、二条御新造。
信長の宿所として築いた屋敷です。
しかし、2年後には、時の皇太子に当たる誠仁親王に渡しています。
信長は、一旦妙覚寺に来て、その後、本能寺に移っていくのです。
妙覚寺には長男・信忠、二条御新造には皇太子・誠仁親王が・・・信長は本能寺に宿泊せざるを得なかったのです。

では、信長と信忠はどうして同時に上洛していたのか?
朝廷に対し、信長はこう申し立てています。
「我が顕職は信忠に譲与したい」と。
当時、信長の官位は右大臣・右大将(右近衛大将)・・・武士の頭領を意味します。
信長は、朝廷の許しを得て、自分の官位を信忠に譲ろうとしていたのです。
戦国武将は、いずれも成り上がりの者が多く、公家・帰属に比べると家柄も悪い・・・
権威付けという意味で、官職は重要な意味を持っていました。
これは、明治維新まで官職が人の序列を定める一番の根幹部分でした。
当時信忠の官位は従三位・左中将(右近衛中将)・・・信長は信忠の官位を武家の頭領である右大将に引き上げようとしていたのです。
今回の上洛で、信長は普段と異なる行動をとっています。
それまで信長は公家宗徒の対面を断ることが多かったのです。
その理由は「くたびれ云々」・・・面倒くさいということです。
しかし、今回の上洛では、信長は公家衆40人と数刻にわたり雑談に応じ、自慢の茶道具まで披露。

当時、信長が京都に来るときは、なにか京都に用事がある時・・・
信忠がいるということは、信長は官職を辞めた後、息子・信忠に高い位をつけてほしいと朝廷に働きかけていたのです。
その答えを聞くため・・・信忠が妙覚寺にいて、信長が本能寺にという可能性が高いのです。

後継者の豚だの地位を盤石にするために、本能寺に泊まった信長・・・
しかし、この時、明智光秀の大軍勢が本能寺を目指して進軍していました。

1582年6月2日早朝・・・
明智軍1万3000が信長のいる本能寺を襲撃!!
記録には、この時信長はこう叫んだといいます。
「信忠の別心(謀反)か!!」と。
近くにいる軍勢は信忠の身と思い込んでいた信長・・・それほど明智軍の襲撃は想定外だったのです。
本能寺から信忠の妙覚寺まで600m・・・明智軍の時の声は信忠の宿所にも届いていました。
信長のいる本能寺が明智軍に攻められている・・・信忠はどうするべきなのか・・・??

①信長の救援に向かう・・・??
②それとも、安土へ撤退する・・・??

ルイス・フロイスの記録によると・・・
信長は、安土から宮子までの陸路におよそ6mの道幅の道路を作らせたとあります。
道は平たんで真っすぐであった。
およそ50キロ・・・整備された道・・・
伊勢には次男信雄、大坂には三男・信孝集結・・・京都脱出に成功すれば、弟たちと合流することもできる・・・。
信長の弟・織田長益など、名のある武将も脱出しています。
信忠なきあと、後継者候補は信雄と信孝・・・二人はそれぞれ信雄=北畠・信孝=神戸に養子に出ています。
家督相続をめぐり、骨肉の争いは必至!!

③光秀を迎え討つ??
戦わずに退くなど、武士の一分が立たん!!

明智軍の本能寺への攻撃はわずか1時間余り・・・光秀の次なる標的は、妙覚寺にいる信忠・・・!!
その頃信忠は、妙覚寺を後にしていました。
向かった先は、隣の「二条御新造」
妙覚寺より守りが堅かったからです。
この時、信忠の側近は、「安土に移り、光秀を退治しては?」と進言します。
信忠は・・・
「これほどの謀反を企てた光秀が、洛中のあらゆる退き口に手をまわしていないはずがなかろう。
 途中で相果てることこそ、無念である。
 いたずらにここをひくべきではない!!」
信忠は、二条御新造に籠り、光秀と戦う道を選びました。
信忠は追手門を開門させ、敵をそこへ集中させます。
敵が怯むと打って出て、押し寄せる大軍勢を3度にわたって押し返したといいます。
信忠は、新陰流の免許皆伝で、剣の達人でした。
自ら剣をふるい、敵17人を切り伏せたといいます。
しかし・・・多勢に無勢・・・獅子奮迅の働きをしたのち、家臣にこう命じました。

「縁側の板をはがし、遺体を床下へ入れて隠せ!!」と。

そして、燃え盛る炎の中、信忠は切腹!!
壮絶な最期を遂げたのでした。
信忠死去・・・享年26歳でした。

明智軍は、信長同様、信忠の首も見つけることができませんでした。
この時、光秀は都の出入り口を押さえていたわけではありませんでした。
もし、この時信忠が逃げていれば、生き残れる可能性は十分にあったのです。

信忠亡き後の織田家は、弟達の家督争いで力を失い、天下は秀吉・家康のものとなっていくのです。

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舞台は灼熱のアラビア半島・・・!!
迫りくる岩の裂け目の先に・・・突然現れてくるのが謎の砂漠都市ペトラ!!
2000年前、奇跡の繁栄をしながら歴史の表舞台から消え去った幻の都です。
ペトラは東西文明の十字路・・・あふれんばかりの富を生み出します。

砂漠が国土の8割を占めるヨルダン・・・かつてここに大国と渡り合った小国ナバテア王国がありました。
行く手を遮る用の現れる岩山・・・その奥にナバテア王国の都ペトラがあります。
一本道・・・狭い谷と呼ばれるシークを通って・・・現れたのは古代都市の玄関口でした。
この風景は、「インディー・ジョーンズ 最後の聖戦」のロケ地です。
聖なる秘法の隠された場所だったのです。

宝物殿・・・高さは40m。
部屋は岩盤をくりぬいて作られています。
最新の研究ではここで祭祀が行われていました。
宝物殿は、外側の柱、彫刻などが巨大な一つの岩をくりぬいてできています。
この方法は、当時のトルコやペルシャの影響を受けています。
彫刻にはギリシャ神話に登場する神や部族、エジプトに出てくるの神の姿(アマゾネス・ニケ・イシスなど)もあります。
ヘレニズム様式の傑作とされ、世界遺産に登録されています。
宝物殿の脇に、奥に道が延びています。都市の内部へ・・・!!
左右の岩に構造物が・・・多くは墓で、かつて人々は町を囲むように墓を作りました。
墓には文様が刻まれています。
古代メソポタミアから取り入れた階段状のモチーフや、劇場・・・4000人が収容できます。
劇場はローマ様式です。
ここにはペトラならでわの特徴が・・・多くのローマ様式の劇場は、切り出した岩を積み上げて作るので座席には切れ目が・・・しかし、ペトラでは、巨大な岩を掘りぬいて作られているので切れ目がありません。
2000年前、ここで大勢の人々が演説や音楽に聞き入ったのでしょうか?

町の中心部には、2万人~3万人が住んでいました。
発掘はこれからで、王宮も見つかっていませんが・・・。
大神殿が発見されています。
大神殿は、広さ7000㎡、ギリシャのパルテノン神殿のような大型な建物だとわかっています。
さらに、アメリカの研究機関によると・・・巨大プールがあり、人々が泳いでいたというのです。
大神殿の向かい側には噴水が・・・
各地の文明に加え、佐幕に大量の水まで集めていたペトラ・・・
2000年前、ここにはどんな人が住んでいたのでしょうか?

歴史書によるとペトラで暮らしていた人は、もとは砂漠の遊牧民だったといいます。
彼等はナバタイ人と呼ばれ、その国をナバテア王国といいました。
ナバタイ人はどうしてあれだけの都を築けたのでしょうか?
その手掛かりとなるのがペトラから北に100キロのところにある死海です。
湖からはれき青が・・・れき青は天然のアスファルトです。
熱を加えると80度ほどで溶けて、コーティングの材料となります。

エジプトでは、ミイラの腐敗を防ぐために塗られていました。
れき青は、船の防水加工にも欠かせない材料でした。

「汝 瀝青をもて その内外に塗るべし」旧約聖書
ノアの箱舟にも使われたといいます。

ナバタイ人は、希少な資源で価値の極めて高いれき青を、砂漠を越えて取引していきました。
ナバタイ人は、交易によって富を得ていったのです。
王国が豊かになると、ペトラには多くの商人たちが集まることに・・・
そこで、行き届いたもてなしで、人々を迎え入れます。
ワインも作られていました。
位の高い人の邸宅の居間には・・・床暖房がありました。
ナバタイの都・ペトラ・・・そこは富が溢れ、各地の文明のエッセンスが香り立つ、世界有数の交易都市だったのです。

紀元前1世紀ごろ、ナバテア王国に強大な国が立ちふさがりました。
古代ローマです。
小さな地方都市から始まったローマは、数百年のうちに成長をとげ、遂に古代オリエントに目を向けつつありました。
当時、ローマの権力を一手に握ろうとしていたのが、大将軍ポンペイウス・・・!!
20代のころから卓越した武勇で頭角を現した生粋の武人です。
巨大帝国を築いたアレクサンドロス大王に自らをなぞらえたポンペイウスは、紀元前66年、オリエントへの大掛かりな遠征を開始!!
10万近い大軍を率いて、現在のトルコ周辺の国々を屈服させていきます。
その頃、ナバテア王国も周辺に勢力を拡大していました。
地中海の貿易港・ガザの周辺や、交易の一大拠点・ダマスカスです。
当時のナバテア王はアレタス3世・・・開明的で、ギリシャの進んだ文明を積極的にとり入れ、影響力を強めていきます。
そのアレタスの軍勢は、さらにエルサレムを包囲!!
しかし、そこにローマのポンペイウスの大軍がやってきました。
すると、戦うことなくペトラに引き返すのです。
ポンペイウスの軍隊は、勢いそのままにペトラにやってきます。
ところが・・・??
「ペトラへの接近は困難だった」byユダヤ古代史
どうしてローマ軍は近づけなかったのでしょうか?
ペトラの中心は平たんですが、周りは高さ数百メートルの岩山に囲まれています。
シークへの進入路は、シークと呼ばれる一本道・・・シークは狭く、二頭立て馬車がすれ違えるほどの幅しかありません。
さらに、ぺトラの背後には、高さ200メートルの断崖絶壁がそびえていました。
裏から攻めることも難しい・・・
その上アレタスは、この岩山を使い、神出鬼没の戦略をとっていました。
ローマ軍は組織的な軍隊で、ゲリラ的に攻めてこられると弱いのです。
要害・ゲリラ戦をうまく使い、乾燥地帯での長期滞在はローマ人にとっては負担となっていました。

どうしてペトラはこのような独特な地形をしているのでしょうか?
それは、大地溝帯の上にあるからです。
大地溝帯は、アフリカから地中海を貫く地球の裂け目で、ペトラ周辺は、もとは大陸の一部でした。
それが、1000万年の間に、巨大な裂け目が作られていきます。
大地の営みは岩の山脈を作りました。
ナバタイ人はそうした場所に生き、都を作り、国を発展させていたのです。
そののち、王アレタスは銀300タラント(約9トン)を送り、ローマと講和。
岩と砂漠の要塞都市・・・それがローマと渡り合うことができたペトラの力の源でした。

生き残るための技術も持っていました。
貯水槽です。
家には水路がはりめぐらされ、台所、水洗トイレ、洗面所・・・水がふんだんに使われていました。
町にはダムが・・・ペトラでは、200を超える雨水の貯水施設が見つかっています。
砂漠の都ペトラは、冬の短い雨期にしか雨が降らず、年間降水量は150ミリ・・・日本の1/10以下です。
僅かな水も、無駄にできないのです。
しかし、ペトラの水の技術は貯水槽だけではなく・・・
ペトラから6キロ離れた山の上にあるモーセの泉・・・今も地元の人々の生活の欠かせない水です。
ナバタイ人は、雨水に加え、この小さな泉の水をペトラまで運んでいました。
山あり谷ありの起伏の激しい土地にどのようにして水を引いたのでしょうか?
砂岩は水をしみ込みやすいので、モルタルでコーティングした水の水路ルートです。
水道橋もあります。
水路は、山や谷の中をわずか4度の傾斜で保たれていました。
土器でできた水道管も使われていました。
ペトラでは、貯水槽や泉の水を集めることで、一人当たり約600ℓ/1日の水が供給されていました。
それは現在の東京都民のおよそ3倍です。
もしもローマの大軍が包囲しても、ペトラは長期的に耐えられる都だったのです。

紀元前44年、拡大を続けていたローマを揺るがす大事件が起こりました。
ポンペイウス亡き後権力を一手に掌握したユリウス・カエサルが暗殺されたのです。
時のナバテア王は、マリクス1世・・・カエサル暗殺によっておこる激動の波に、翻弄されることとなります。
ローマの動揺を見て動き出したのは、東の大国パルティアでした。
この機を逃さんと、ローマの領土だったシリアから死海の近くにまで一気に侵攻!!
そもそもパルティアは、強固な騎馬軍団を擁し300年にわたってローマと激突していたライバル国家でした。
直近の対戦ではローマの司令官が敗死。2万人以上が戦死・・・ローマは大敗北を喫しました。
ナバテア王マリクスは仕方なくパルティアにつき、当面は生き延びようとします。

しかし、そこに立ちはだかった国は・・・女王クレオパトラ率いるプトレマイオス朝エジプト!!
クレオパトラはナバテアの財源・れき青のとれる死海周辺に狙いを定めてきました。
死海周辺をめぐるナバテアとエジプトの関係は・・・??
エジプトにとっては交易のライバルでした。
豊かな物資の地域を確保したかったのです。

クレオパトラはローマの新たな権力者となったアントニウスに接近!!
アントニウスはクレオパトラの虜に・・・。
協力関係になっていきます。
アントニウスのローマ軍は、パルティアを押し戻し、死海の近海を影響下に置くことに成功します。
するとアントニウスは、ナバテア王国から死海周辺を取り上げてクレオパトラに与えます。
ナバテア王・マリクスは、死海周辺を失いたくないと訴えかけます。
結果、毎年銀200タラント(6トン相当)で、辛くも土地の使用権を取り戻したのです。
しかし、それもつかの間・・・ローマ国内では次の火種が・・・
当時、ローマでは二人の権力者がせめぎ合っていました。
一人はクレオパトラの恋人・アントニウスと暗殺されたカエサルの養子・オクタヴィアヌスです。
紀元前31年、二人の争いは戦争にまで発展します。
アクティウムの海戦です。
大国ローマの次なるリーダーを決める争い・・・
否応なくどちらにつくのか、選択に迫られ・・・アントニウス・クレオパトラ連合へ援軍を送ります。
しかし、海戦はオクタヴィア盗郡の勝利!!
するとナバテア王マリクスは驚くべき行動に・・・!!
味方のはずのクレオパトラ側の船を焼き打ちしたのです。
その成果を手土産に、マリクスはオクタヴィアヌスに許しを求めます。
そして死海周辺を取り戻すことに成功します。
こうしてナバテアは大国に振り回された存亡の危機を切り抜けていったのです。

ナバテアの危機・・・それは初代ローマ皇帝オクタヴィアヌスによってもたらされます。
オクタヴィアヌスが南アラビアへの遠征を決めたからです。
当時、南アラビアと地中海を結ぶ交易ルートは、ナバテア王国が独占していました。
ここで取引されていたのは、乳香・没薬などの香料で、ナバテアにとってはれき青と同じく重要な交易品でした。
乳香は、当時黄金と匹敵する価値があったとか・・・!!
古代地中海世界の宗教儀式には欠かせないもので、現在でもつかわれています。
イエスが生れたときにも三人の賢者から乳香と没薬が・・・最も神聖で高価なぜいたく品なのです。
ナバテア王国にとって莫大な富を生み出す香料は国家の柱・・・
その交易路は王国の生命線でした。
そこにオクタヴィアヌスが目をつけたのです。
ローマ皇帝は莫大なお金を乳香や没薬につぎ込んでいました。
そこで、彼らはその交易路を支配しようとしたのです。

ナバテア王国はどのように対応したのでしょうか?
ナバテア王国宰相・シュライオス!!
シュライオスはローマの動きに対して実質的なリーダーシップを執ったと考えられています。
シュライオスにはどんな選択肢があったのでしょうか?

抗戦する??
それとも恭順・・・??
シュライオスの取った行動・・・1000人の兵士を引き連れエジプトへ出発!!
ナバタイ人は、ローマ軍の遠征に、自ら進んで従軍したのです。
1万人のローマ軍に、1000人のナバテア兵士が参加しました。
宰相シュライオスが、自ら道案内を務めます。

つまり・・・シュライオスが選んだのは、恭順の道だったのです。
ところが、シュライオスの恭順は、ただの恭順ではなく・・・
当時の歴史家の記録によると・・・

行軍の大半は、人の住まぬ砂漠だった
安全なルートも解らず、悪路ばかり・・・
道のないところ回り道・・・どこもかしこも行き止まり

兵たちは、疲労、喉の渇きに苦しみます。
途中、戦闘では7名を失っただけでしたが、結局、水が不足したために撤退せざるを得ませんでした。
ローマ人は、アラビアが過酷な場所だと全く知らされずに必要以上に長い距離を歩かされたのです。
つまり、案内役のシュライオスが、失敗するように仕向けたのです。
危険な砂漠地帯を、十分な水も持たずに進み、病気やのどの渇きに耐えかねて、死んだ兵士もいました。
ローマに従うふりをしたナバテアの勝利です。

シュライオスの策略にしてやられたローマ軍・・・
ローマの将軍は帰りは別の道を帰りました。
すると、なぜか行きの1/3の日数しかかからなかったといいます。
こうしてシュライオスは、香料の交易路を渡すことなく、自らも罰せられることなく、王国の利益を守ることに成功したのです。

ローマとの危機を乗り越えたナバテア王国・・・
ナバテアの交易網は、壮大な発展を遂げていきます。
南アラビア、エジプト、ヨーロッパ、インド・・・調査では、スイスの遺跡からナバテアのコインが見つかり、スリランカではナバテアの土器が発見されました。
ペトラの名は、シルクロードにも・・・

ペトラは東西交易の十字路として世界の先端文明を吸収・・・
数々の巨大建築を誇る国際都市として、その後100年にわたって最大の繁栄を築いていくのです。

ペトラはその後どのような運命をたどったのでしょうか?
ペトラの最も奥に、ナバタイ人たちが神を祀っていた遺跡がります。
そこには山と太陽の神ドゥシャラが祀られてきました。
しかし、後にキリスト教の祈りを捧げる場となり修道院に・・・。
近くの岩場には、キリスト教の十字架まで・・・。

106年、ペトラにローマ帝国を史上最大にした皇帝トラヤヌスの軍隊が攻めてきました。
ナバテア王国は、遂にローマに併合されてしまったのです。
しかし、その時の詳しい記録は見つかっていません。
ペトラはローマに併合されたあとは、独自の宗教は奪われキリスト教の拠点都市となっていきました。
ペトラはその後廃れ、忘れ去られていきます。
どうしてあれだけ繁栄を誇った都市が、幻となってしまったのでしょうか?

ひとつの原因は地震・・・
4世紀、6世紀、8世紀と巨大地震に襲われ、大きな打撃を受けます。
さらに交易路が変化し、ペトラを通らなくなります。
そうしてペトラから人々が消え、幻の都となったと言われています。
しかし、それを覆す発見が・・・!!
ペトラから見つかった6世紀のパピルス・・・
その解読から、巨大地震に見舞われたあとのペトラの変化が見えてきました。
ペトラの人々は、町の中心部や教会の周辺に住み続けていたと思われます。
そして、町の周囲には麦やブドウの畑が・・・
ペトラの周辺には、今も、麦、イチジク、オリーブの畑が広がっています。
交易都市ペトラは、農耕が営まれる土地へと生まれ変わっていったのです。
砂漠を農地に変えたのは、古代ナバタイ人が築いた水の技術・・・
今も畑の水は、当時の水路から送られています。
雨季の前には水路の手入れを行い、雨の到来を待つ週間が今も残っています。
ペトラにはナバタイ人の言葉があちこちに残されています。
その中に、頻繁に登場する言葉・・・「サラーム」
サラームは、今もアラビアであいさつに使われます。
意味は、平和、平安です。
2000年前、大国の狭間を生き抜いたナバタイ人・・・その文化や願いは、今もここに生き続けています。

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       たった四杯で 夜も眠れず

”上喜撰”という緑茶と、蒸気船をかけています。
そしてたった四隻で幕府は不安で眠れない様子を揶揄した歌です。

アメリカ側でもそんな記録が残されています。
マシュー・ペリーは、アメリカから4隻の船で浦賀にやってきました。
蒸気船のサスケハナ号とミシシッピー号、そして2隻の帆船です。
艦隊は全部で63門の大砲を装備、臨戦態勢を布きながらを進め、午後5時ごろ浦賀沖に錨を下ろしました。
初めてみる日本・・・ペリーの第一印象は・・・

「投錨の直前に天候は晴れ上がり、富士山の高い頂がますますくっきりと見え、内陸部に広がる群峰よりはるかに高くそびえていた」

ペリーにとっても霊峰富士は強烈な印象だったのです。
ペリーが遠路はるばるやってきた目的は二つありました。
①アジア諸国と貿易をする拠点を作る
②捕鯨船の補給基地を作る
この時ペリーにはもう一つ重要な任務がありました。
アメリカ大統領の親書(国書)を日本に渡す任務です。
鎖国を続けてきた日本に、どうやってアメリカの要求をのませるのか?
ペリーは事前の日本の情報から日本人の特性を掴み、幕府との交渉方針を決めていました。

「排他的に振る舞い、気難しい人物を演じれば演じるほど、形式と礼儀を重んじる日本の人々は、こちらの目的を尊重するようになるだろう」

ペリーが浦賀に停泊すると、すぐに浦賀奉行所の船が近づいてきました。
そして役人のひとりがいきなり横断幕を広げたのです。
そこには当時ヨーロッパの公用語だったフランス語で「艦隊は撤退すべし!」と書かれていました。
もちろんアメリカ側も意味は理解していましたが、毅然とした態度をとっていたいペリーはこれを無視!!
しかし、幕府役人はなかなか引き下がりません。
ひとまず役人を乗船させ、部下のコンティ大尉を通してこう告げます。

「われわれはアメリカ合衆国大統領から、幕府将軍に宛てた親書をしかるべき役職の人物に受け取ってもらいたい」

ペリーは幕府の役職にある人物と会うことが交渉の近道だと考えたのです。
しかし幕府役人は・・・

「異国との交渉は、長崎でしか行えない
 親書は長崎で渡してもらいたい」

別の異国船が来航した際、この言葉で体よく追い返した例がありました。
今回も、帰ってもらおうとしたのですが・・・それを聞いたペリーは激怒!!
幕府役人を追い払ってしまったのです。
そしてここから全く開国する気のない幕府と、何としても国交を結びたいアメリカとの長い戦いが始まるのです。

黒船を見ようとたくさんの人々が浦賀に詰めかけます。
中には見物人相手に商売をする人も・・・
望遠鏡の貸し出し、船での黒船見学ツアーなどです。
ペリーの似顔絵も販売されました。

この時繁盛したのが武具師・・・
江戸幕府始まって以来、武具を使うことがなかったので、多くの旗本、御家人たちは持っていなかったのです。一斉に武具を買いに走りました。

ペリーはいきなりやってきたのではなく・・・幕府は事前にペリーが来航することを知っていました。
諸外国との交易・交流を制限する鎖国政策をとっていた幕府は、取引場所を長崎の出島に限定し、相手はオランダと清国とのみ交易をおこなっていました。
そして、その見返りとして彼等から欧米列強に関する情報を得ていたのです。
当初は開国を求めてやってくる他の欧米列強に対し武力での排除を行っていましたが・・・
1842年清国がアヘン戦争でイギリスに敗れ、不平等条約の締結を強要されたという情報を得ると、大きく方針を変換・・・
1842年薪水給与令を出し、外国船に燃料や水を与え、穏便に帰ってもらうように指示を出していました。
アヘン戦争のころから、欧米列強の武力に脅威を感じ始めています。
”ペリー来航”の情報も、お蘭だから事前に知らされていました。

「アメリカ合衆国が艦隊を派遣し、交易をおこなうために日本へ渡来するとの事、司令官は当初オーリックというものであったが、ペリーなる人物に交代したようだ」

この風説書がオランダより幕府の手に渡ったのが1852年7月でした。
ペリーがアメリカを出発したのが10月でした。
ペリーがアメリカを発つ3か月も前に、オランダを通じてアメリカが通商を求めてやってくることを掴んでいたのです。
しかし、幕府は何ら手を打つことができませんでした。
当時の将軍は12代将軍徳川家慶・・・病気がちだったために老中首座・阿部正弘が政務を行っていました。
当然阿部は、オランダからの報告を聞いていましたが、この年・・・1852年5月22日江戸城西ノ丸御殿が焼失・・・。
再建工事に莫大な費用が掛かるために、軍費にお金を割くことが難しかったのです。
この頃、外国の情勢に詳しい薩摩の島津斉彬と会談した阿部は、こんな事を漏らしています。

「もしアメリカが来ても、なるだけ穏便に済ませ、長崎へ行ってもらうしかない」

そしてペリーが実際にやってきました。
阿部の指示通り、長崎へ行ってもらうようにしますが・・・拒否されてしまいます。
さらにコンティ大尉はこう脅してきました。

「浦賀でしかるべき役人が大統領の親書を受け取らなければ、我々は武装して江戸城へ向かう」

対応した浦賀奉行所・香山栄左衛門は・・・
「船の中は、緊迫した状況であり、アメリカ側は皆殺気立っていた」

幕府はようやくアメリカが本気だということに気付いたのかもしれません。
戦争は避けなければ・・・ようやく幕府は親書を受け取ることに・・・。

1853年6月8日・久里浜・・・6日目・・・アメリカ大統領の親書の受け渡しが行われました。
幕府は江戸湾の警備を行っていた彦根藩・川越藩などの藩兵を5000人配置!!
対してアメリカ側は武装した水兵300人!!
幕府の代表としてペリーを出迎えたのは、浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道・・・
この時の様子をペリーは・・・
「戸田、井戸の両候は、初めから最後まで銅像のように動かず、一切言葉を発しなかった」
この日はあくまで親書を受け取るだけ・・・
余計なことを言わないように釘を刺されていたのかもしれません。
双方無言の中、13代アメリカ大統領ミラード・フィルモアの親書が日本側に渡されました。
そこには・・・
①友好的な国交を樹立し、通商条約を定める
②難破船やアメリカ船の船員の救助と保護
③蒸気船の燃料と水・食料の補給
それを渡したペリーは・・・
「来年の4月か5月にふたたび来日するので、その時に親書に対する返答を聞かせてもらいたい」
そう言い残し、アメリカがアジアの拠点としていた清国の広東へと向かったのです。
どうしてペリーはその場で交渉しなかったのでしょうか?

幕府はなるべく時間稼ぎをし、はぐらかし、アメリカを諦めさせようと考えていました。
幕府のペースに巻き込まれることを避け、効率よく時間をおいての交渉で決着しようとしたのです。

あっけなくペリーは去りましたが、阿部正弘は再びやってくるペリーにどう対応するのか?頭を悩ませていました。
すると阿部は、驚きの行動に出ます。
親書を一般に公開し、大名から庶民に至るまで広く意見を募ったのです。
時代が大きく動いていました。
全国から約800通の建白書が寄せられました。
一番多かった意見は、「アメリカの要求を拒絶し打ち払う」という案でした。
200年以上守ってきた伝統を崩したくない・・・
しかし、積極的に開国し、アメリカとの貿易で得た利益で軍備を強化するという意見もありました。

1635年、3代将軍家光の時に、「大船建造の禁」によって幕府も軍艦を所有できていませんでした。
阿部は、諸大名に対し大型船の建造を許可し、オランダへ軍艦を発注しています。
しかし、ペリーがやってくるまで9か月!!
ペリーが再来航するまでに強化できた軍備は、品川沖に台場を建設するぐらいでした。

幕府はアメリカン関する情報収集にも乗り出します。
土佐藩士の中浜万次郎を江戸に呼び、旗本格として登用しました。
ジョン万次郎で知られる中浜は、漁船で漂流後、アメリカで10年間暮らし、ようやく帰国したばかりでした。
万次郎は・・・
「アメリカはかなり前から日本と親睦を持ちたがっていました。
 メキシコとの海上戦でわずか4時間ほどでアメリカ側が勝利をおさめた」
などと、開国を進言!!
更に幕府は長崎奉行を通じてオランダ商館の館長クルティウスにも助言を求めます。
「アメリカの要望を一切無視したならば、戦争に発展しかねない
 試しに一港だけ開いてみたらどうか」
多方面から様々な意見を聴取した幕府老中・阿部正弘でしたが、いかにアメリカの要求をはねのけることが難しいか・・・痛感するばかりでした。

1854年1月16日・・・ペリーが再び来航!!
幕府は焦ります。
ペリーの予告では、4月か5月との事だったからです。
そこにはペリーの思惑がありました。
前回の来航直後、12代将軍徳川家慶が亡くなっていました。
そこで、その混乱に乗じれば、用意に条約締結に持ち込めるのでは?と考えたからです。
前回の来航後、ロシアも日本に開国を迫っていたので、他の列強国を出し抜いて、有利な条約を締結したいとも考えていました。
アメリカが要求したのは三つ・・・。
①友好的な国交を樹立し、通商条約を定める
②難破船やアメリカ船の船員の救助と保護
③蒸気船の燃料と水・食料の補給

日米両国の国益をかけた戦いの前に、水面下で駆け引きが始まりました。
この時ペリーは、長い航海で持病のリウマチが悪化・・・体調を崩していました。
それを聞き付けた幕府は、お見舞い品として大根800本、人参1500本、鶏卵1000個などを届けています。
対してアメリカ側も、幕府役人らを船に招待・・・
西欧料理や酒を出してもてなしました。
アメリカは船に生きた鶏、羊、イタリア人シェフまで乗せていました。
万端の準備をしていたペリー・・・。
食事でもてなすことで、友好的なムードを作り出そうとしたのです。

こうして当日を迎えましたが・・・両者が激突します!!
アメリカ代表のペリーに対峙したのは江戸幕府応接掛筆頭・林大学頭!!
冒頭、林は3つの条件のうち、難破した船員の救助と保護は承諾します。
そして石炭、水、食料の補給も承諾!!
しかし、両国間で通商を結ぶのは、国の決まりで出来ないと断固拒否!!
この時幕府側は、全てを拒否するのは難しいと考え、受け入れを最小限に止めるという方針に転換していたのです。
しかし、それを聞いたペリーは態度を豹変!!

「貴国は難破船の救助を行わないうえ、海岸に近づこうとしただけで発砲してくる
 さらに、漂着した外国人を罪人同様に投獄している
 貴国が国政を改めないならば、我々は戦争も辞さない覚悟である」

林を揺さぶろうと過去の非人道的な行為をあげて責めます。
しかし、林は動じません。

「外国船に発砲していたのは一昔前の話であり、漂着民に対してもオランダを通して長崎の出島から返還している」と、理路整然と反論!!
さらに通商に関しては・・・
「自国の産物で十分に事足りている」
と、きっぱり拒否したのです。
すると驚いたことに、ペリーは通商の要求をあっさりと取り下げてしまいました。
どうして・・・??
自分達の要求をすべて飲ませようとしたものの林大学頭らが手ごわいのを見て、方針を転換したのです。
全部を処理しなくても、国交樹立を最優先して段階的に通商を認めさせようとしたのです。
こうして日米の間で、ひとまず合意に至りました。
大筋では合意したものの、交渉はまだ終わりません。

日本にやってきたペリー・・・
日本のはじめて目にする日本の風俗や文化に驚きます。
ある時町の銭湯へ・・・驚愕!!
男女とも入り乱れて混浴!!
「日本人は道徳心に優れているのに、その道徳心に疑いを感じざるを得ない」

さらに既婚女性のお歯黒にびっくり仰天!!
「妻がこんな歯をしていたら、夫はものも言わず逃げ出してしまうだろう」

一方で日本人に器用さに感心します。
町で売られていた浮世絵のち密さとユーモアに感嘆!!
焼き物の磁器や漆器の優美な形と洗練されたデザインに魅せられます。

日本人がひとたび欧米諸国の技能を知ったならば、近い将来強力なライバルとなるだろう

日米の交渉は大詰めを迎えていました。
アメリカの蒸気船の燃料である石炭と水、食料の補給などをどの港で行うのか??
幕府は、当面は長崎で行い5年後に別の港を追加することを提案します。
それに対しペリーは・・・

「本来の趣旨を理解されていないようだ」

アメリカが日本に目をつけた主な理由は、太平洋航路の中継地点としたいからです。
太平洋に面していない長崎は、その狙いから外れているので、納得できるものではありませんでした。
ペリーはここでこんな申し出をします。
「大統領の命により運んできた土産の品々を贈呈したい」
献上品は、全部で140種類に及びました。
なかでも幕府の一港が目を見張ったのが、1/4モデルの蒸気機関車と、モールス電信機でした。
アメリカ側はそれらを実演してみせ、日本側を大いに驚かせます。

「日本人はいつでも異常な好奇心を示し、それを満足させるのに、画集国からもたらされた発明品の数々は恰好の機会を得た」

幕府も負けじと贈り物をします。
米と酒・・・ここで50人もの力士を導入し、1俵60キロもある米俵を片手に二俵づつ、計4俵担いで運ばせて・・・力士の怪力ぶりを見せつけます。
力士たちの巨体と怪力に、ペリーたちは圧倒されます。

「偉大な筋肉は、ヘラクレスのよう彫像のごとく、隆々と盛り上がっていた」

すると予期せぬ事態が・・・傍らでこのパフォーマンスを見ていた水兵が、力士に勝負を挑んだのです。
この思わぬ日米対決に、周囲は大興奮!!
しかし、勝負は一瞬でつきました。
そして力士は水兵に向かってこう言い放ったのです。

「強さの秘密は、日本の美味い米と美味い酒じゃ」

日本が大いに面目を施した瞬間でした。

北太平洋で操業を行う捕鯨船の補給基地に数カ所、清国と結ぶ太平洋航路の補給地として会談を行っていた横浜周辺を含め他に数カ所開港することを要求します。
幕府は、当面は長崎で、5年後にもう一つ追加することで押し切りたいと考えていました。
アメリカの要求を飲めば、長崎で取引をしているオランダも同じ要求をしてくるに違いない・・・!!

しかし、ペリーは執拗に林に食い下がります。
音を上げた林は、「もはや自分の裁量では決められない」と江戸へ戻り、幕閣たちに伝えたのです。
すでにペリーが再来して1か月がたっていました。
長期にわたる交渉に疲れたのか、これ以上拒むことは不可能と感じたのか、結局幕府が折れ、「箱館・下田」を開港すると通知。
ペリーもそれを承諾し、ようやく合意に達したのです。

「この湾にきてわずか5週間・・・
 この国と、この国の人々から大きな信頼を勝ちうることができた」

そしてペリーは日本側に感謝の意を示すためにおよそ70人の幕府役人を招待し、豪華な料理、バンドの演奏にダンス・・・役人の中には酔っぱらってペリーと肩を組む者もいたほど和やかでした。
こうして締結された日米和親条約(1854年3月3日)でしたが、その中には今後日本が他国とこれ以上好条件で条約を締結した場合、その内容が自動的にもアメリカにも適用されるという・・・アメリカに最恵国待遇を与えたのです。

そして黒船の来航は、およそ260年続いた太平の世を揺り起こします。
尊王上運動を誘発し、明治維新へと繋がりました。
ペリー来航から14年後、江戸幕府はついに大政を奉還します。
もしペリーがやって来なかったら・・・??
明治になるのはもっと時間がかかったかもしれません。

日米交流の扉を開いたマシュー・ペリー・・・日米和親条約締結からわずか4年後、アメリカで63歳で死去・・・。
ペリーが日本から持ち帰ったものが、今もアメリカに残されています。
初代大統領ジョージ・ワシントンの功績をたたえるために建てられたワシントン記念塔・・・この一部に幕府からアメリカに送られた伊豆下田の石が使われています。
日本とアメリカの友好の証として・・・!!

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