日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

ご無沙汰していました。
久し振りの大河レビューになります。
去年の「いだてん」面白かったですが、どちらかというと男版朝ドラのような感じがして楽しく拝見しました。
って、今年の「麒麟がくる」を厳しく見るわけではないですけどね??

みなさん見て見てどうでしたか??
あまりにも鮮やかな色彩にビックリ!!した方が多かったみたいですが、実は私も同じです。
もしかしたら、草木は今よりも栄養もあったから色が鮮やかだったかもしれませんが、着物はなあ・・・と思う私です。
さて??1年間どんな感想になるのやら??
楽しみです~~!!

さて・・・時代は??
天正2年(1574年)・・・光秀は19歳です。
時代は、京都での戦乱に次ぐ戦乱で足利幕府が弱体化した室町末期、争いは各地に伝染していきました。
舞台は京都から四十里の美濃国・・・ここから物語が始まります。

綺麗に豊かな作物が実っている明智荘。

キリリとした一人の青年・・・彼がこの物語の主人公、明智十兵衛光秀です!!

OPはいい感じにレトロ感です。
やっぱり大河は王道でないと安心できないもう既に年寄りか?な私です。


kirin5











明智荘が、野盗に襲われるところから始まりました。
野盗は15騎!!
地の利を生かして倒す判断をし、迎え討ちます。

キリッと判断する光秀、農民の土地を思いやる光秀、そして何より強い、強い!!
なんともリーダーです。
が・・・なんとか村人は守れたものの、放火され、米俵を奪取され・・・そして野盗の置き土産は”鉄砲傷”!!
見たこともない鉄砲に興味を覚える光秀。

kirin













叔父・光安に、村の現状を訴えますが、叔父も解っているようで・・・

「この明智の里は、美濃の国教にある故野盗に狙われやすい。
 他国からもすぐ攻め込まれる。
 それゆえ、殿も何かとご配慮下さっている。」

と言っているものの・・・明智だけでは国境は守れないと反論する光秀!!
まだまだ若いだけあって、血気盛んな正義感の強い青年です。

稲葉山城下に向かった光秀・・・鷹狩りに行く殿(斎藤道三)を待ってに話を聞いてもらうためです。
で・・・道三の息子・斎藤高政に会います。
高政=のちの龍興ですね??
この二人は幼なじみです。
会いたければ城に入ればいいのに・・・と言ってくれる高政に、叔父に怒られるから偶然を装って会うつもり・・・と遠慮するものの、結局城の中へ・・・。
そこで、道三の妻・小見の方が病気であることを小耳に挟みます。

殿は、高政に目の前にあるサンゴの数をどれだけあるのか聞きました。
「1500か、1600・・・」と答えた高政に対し光秀は、

「2000を少々超えるかと。
 数珠ならば一連で108個、20人分として2160個となります。」

名を聞かれ、明智十兵衛ですと答える光秀。

そこで、高政の幼なじみであったことを思い出します。
四書五経をわずか2年で読み終えたことも・・・。
「お前は七年もかかったのに・・・」と言われて「六年です!!」という高政。

なんだか、このやり取り、本当に性格が出ているというか・・・今までのピッタリの感じが出ています。
斎藤道三は油売りから下剋上で成り上がったのだから、お金の算段は得意でしょうし、龍興のコンプレックスもいい感じで導かれそうです。

昨日来た野盗に肝を冷やしたこと・・・鉄砲です!!

kirin3














殿は鉄砲のことを知っていました。
美濃の外で作られた鉄砲を見て見たい!!
美濃から出てみたい!!
これから何度もくる野盗・・・野盗は美濃の外を知っている、鉄砲を知っている、しかし、我々はそれを知らない・・・だから、外を見て見たい!!
堺を見て見たい!!
この美濃のために・・・!!

理論立てて殿にお願いします。

「どうか、旅をさせていただきたいのです・・・!!」

旅には金がかかるがその金はどうする??そのたびに出すことで自分にどれだけの得があるのか?という殿・・・
流石、道三です。
汚くのし上がった感が出ていますね。
あ~、モッくんの綺麗なお顔からはまだそんな感じが出ていませんが・・・これから蝮感が出てくるのかしらね??
私的には、モッくんの昭和天皇が大好きです~~!!

syouwa











邪心のない綺麗な昭和天皇から、邪心の塊の蝮の道三に・・・楽しみです~~!!

得になること・・・
鉄砲を買ってくるという光秀ですが、道三の心には響きません。
「小見の方のために京都から名医を連れてくる」と頑張ります。
やっとお金を出してくれるようです。
そして、そんな頭の回転の速い光秀のことを頭に捕らえた道三でした。
いいですね、蝮ってだけでなく、奥方に優しい一面と、光秀の才能を見抜く一面・・・ただの蝮ではなさそうです~~!!

家に帰って母上に旅に出ると告げる光秀、母に相談もせずに決めたことを謝ります。
そして家の者たちは、光秀が旅に出るのを心配し用意をするのでした。
それは、光秀の父も同じでした。
土岐一族として都にあがったこと、大事にされていたこと・・・土岐源氏の誉として生きていく心得を母に聞き、心に念じて出発・・・!!

旅の途中でいろいろ経験する光秀・・・広い世の中に希望を持って・・・!!
鉄砲のこと、堺のことを収集します。
堺の刀は宗次郎・・・!!

比叡山では僧兵が「ここを通りたければ一人15文をおいていけ!」と、無法地帯です。
野盗にも襲われ、人買いも見てしまいました。

堺に入った光秀・・・町の様子にビックリです!!
カラフルで活気のある堺!!
化粧をした男子、見たこともないお菓子、大道芸人・・・全然違う~~!!
さぞ豊かな街に映った事でしょう。

宗次郎の店にやってきた光秀。
斎藤山城守のために、鉄砲を売ってほしいと頼みます。

成り上がりの田舎大名には売れない・・・??

そこへやってきたのは誰・・・??
大塚明夫~~!!
じゃなかった宗次郎~~!!
お店にいた三淵藤英(細川藤孝の兄です~~!!こんなところにもう出会いが!!)が、鉄砲の試し打ちを始めました。
試し撃ちをした感想は・・・??
弓矢なら次々撃てるが、鉄砲は1回うつと次まで時間がかかる・・・戦には不向きと判断しました。

が・・・光秀は欲しいというものの、人気商品なので2月、3月かかるという・・・。

美濃ならば山奥だから狸でも撃てばよかろう~~~!!

などと馬鹿にされてしまいましたが・・・??
そこへ誰??吉田剛太郎登場!!

kirin4














剛太郎さん、私の中では信長のイメージが強いんですが・・・今回は松永久秀ですよ~~!!
って、とっても似合っているわ~~!!
既に松永久秀!!

松永久秀は、斎藤道三が大好きらしい。
やっぱり成り上がり者は成り上がりが好きなのかしら??
尊敬しているそうです~~!!
でも、怪しいですよ~~!!
損な怪しい男に「お金を持ってる」って言っちゃったわ!!
おまけに飲みにまで誘われて・・・なんだか怪しいでしょ~~??
でも、久秀が何も知らない光秀のために京都のあれやこれやを教えてくれます。
おお!!まさに、剛太郎劇場!!
京都のふんぞり返っている人よりも、道三の方を尊敬すると言い出します。
あまりに褒めるので、不満を爆発させる光秀!!
しゃべってストレス発散する光秀。

「ケチなのか・・・!!」by久秀

論語で政を語り出した光秀・・・
懐には大金が・・・!!
意気投合した二人ですが・・・??

次の日の朝・・・懐にあった大金は無くなっていました。
が・・・枕元には鉄砲が・・・!!
書置きをして出ていっていた久秀の仕業でした。
喜んで飛び上がる光秀!!
鉄砲を片手に颯爽と宿を後にします。

名医を探して京都に来たものの・・・戦いに次ぐ戦いで・・・そこは廃墟のようになってしまって・・・貧しい者たちの巣窟となっていました。
将軍様も近江に逃げ、名医もいないという・・・
そこで、六角堂の望月東庵がいるかも・・・??と話を聞くのです。
東庵のもとへ行った光秀ですが、出てきたのは駒という少女でした。
薬を支払うお金もないという・・・
かくかくしかじかで、美濃に来て診てもらいたいと願います。

お金に困っていると思われる東庵・・・駒は、美濃に行けばいくらくれるのか??聞きます。
「100貫ぐらい??」
「・・・相応の・・・」
と、東庵のもとへ・・・。

近所の子供・お梅とすごろくをしている東庵・・・
医者といっても道具も薬も、何もなさそうです。

お金では動かないという東庵。
自分は名医でもない、名医なら御所の周りにという。

貧乏で薬を買うお金もないし、名医にもなれない・・・という駒に、話しだします。

東庵は、ある時から御公家や大名の脈を取るのはやめようと決めました。
具合が悪いから診てくれと言われ、病人を残して出かけた・・・。
見事な一室に通されたものの、病人はいない・・・
連れていかれた中庭には・・・そこに犬が一匹いたのです。


「大事な犬ゆえ、金はいくらでも出す。

 それで申し上げた。
 犬に打つ鍼は、ありませぬ。
 以後、二度とお呼びはかかるまいと思うたけれど、それでよいと。」

「わかりました・・・」

光秀は、幼くして亡くした父のことを思い出します。

「大事なのは一つ・・・ただ一つ・・・誇りを失わぬことだ」と。

お気持ち、腑に落ちました。と、帰ろうとしたとき・・・悲鳴が!!


火事が・・・!!盗賊の仕業でした。

お梅が建物の中に取り残されてしまった・・・!!
水を被って火の中に飛び込む光秀・・・!!
柱に足を挟まれて動けなくなっていた梅・・・挟まれた足を気遣いながら、なんとか助け出します。

kirin2














気は失っているものの、生きていた梅・・・
その処置からも、東庵が名医であることが伺えます。

助けててくれた光秀に、駒が話し出しました。
自分は先生に拾われたことを・・・
そして、自分の両親も戦の火事で亡くなったこと、自分もお梅と一緒だったと・・・

その時助け出してくれた人の大きな手は覚えている・・・
大きな手の人はこう言いました。

いつか、戦が終わる。

戦のない世の中になる。

そういう世を作れる人が、きっと出てくる。

その人は、麒麟を連れてくるんだ。

麒麟というのは、穏やかな国にやってくる不思議な生き物だよ、って。

それを呼べる人が、必ず現れる。

麒麟が来る世の中を・・・。

だから、もう少しの辛抱だ。

と。


「何処にも麒麟はいない・・・何かを変えなければ・・・誰かが!!
 美濃にも京にも麒麟は来ない・・・!!」by光秀

そして・・・家も焼けてしまったので、美濃にでも行くと言い出した東庵でした。

美濃に帰れることとなった光秀。

その頃、尾張の織田信秀が、隣国美濃に攻め込む構えを見せていました。

ということで、いよいよ明智光秀が始まりました~~!!
第1回、いい感じでした。
とんとん拍子でご都合主義的なと言われるかもしれないですが、戦国時代はやっぱり冒険活劇!!
麒麟が何たるかも紹介してくれて、ストンとすんなり心に入る作品だったと思います。

今回の大河を見て、明智光秀を誰がやってるのかな??って思ったんですが、あんまり思い出せません。
個人的には”江”の市村正親さんぐらいしか思い出せません。
ちなみにこの時の信長は豊川悦司さんですが・・・覚えていません。
”真田丸”の吉田剛太郎信長に蹴られていたのは、岩下尚史光秀ですが、覚えていません・・・。
いろいろな作品での明智光秀を見て見ましたが、みんなインパクトないんですよね・・・。
どうして市村正親さんを覚えているのか??
それは、「え~~??この年で~~!!」と、あまりにもインパクトがありすぎたからです。
ま、信長さんよりは年上ですけどね??

ということで、明智光秀・・・戦国を描くうえで絶対必要なのに、演じた役者さんもほとんど覚えていないという・・・
この大河には期待しかない・・・!!

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1982年6月2日未明・・・
京都本能寺で突如炎が上がりました。
わずかな手勢で宿泊していたのは、天下の織田信長!!
その最も信頼する家臣・明智光秀が襲ったのです。
事件当日光秀には、中国地方で戦う羽柴秀吉の応援に向かう筈が、突然軍を本能寺に向けます。
夢にも思っていたなかった光秀の謀反・・・信長は寺に火をかけ、奥に入って自刃しました。
日本史上最大のクーデターともいわれる本能寺の変・・・いまだに謎が多く、光秀の動機について数えられないほどの説が語られてきました。
真実は何なのか・・・??

①怨恨説
これまで通説そして長く信られてきた怨恨説・・・映画やドラマなどで常に描かれてきた信長による光秀への暴力的叱責・・・怨恨説は、光秀が恨みを募らせて謀反を起こしたというものです。
この説の根拠の一つとされているのが、1582年の「惟任退治記」です。
本能寺の変の4か月後、羽柴秀吉が書かせたもので、光秀を討伐したという記録です。
この資料には、光秀が謀反を起こした動機について、こう書かれています。

「決して当座の思い付きではなく、積年積もる逆意があって、この時が好機であると決断したのである」

主君・信長を殺害するまでに、積もりに積もった逆意とは・・・??
光秀の信長に対する恨みの理由に関して、後世の資料では様々なエピソードがありますが、その中でも有名なものが”徳川家康の饗応役解任”をめぐる確執です。

本能寺の変の2週間前、信長は同盟相手の徳川家康をねぎらうために、安土城で盛大にもてなすことに・・・饗応役としてその仕切りを任されたのが、明智光秀でした。
光秀は、各地から山海の珍味を集め、豪勢な料理の準備に余念がありませんでした。
しかし・・・接待の食事に出した魚から悪臭が漂っていたとして信長が激怒、光秀は足蹴にされたと言います。

信長からの暴力的な叱責は、宣教師ルイス・フロイスの記録にも見ることができます。

”人々が語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りを込め、一度か二度足蹴にしたということである”

信長の光秀に対する激しい叱責と、積年の恨みが光秀が謀反を起こす理由だったのか??

怨恨説の中にはもう一つ・・・斎藤利三をめぐる怨恨説があります。
斎藤利三は、光秀の右腕ともいわれた明智家の重臣です。
本能寺の変から遡ること1か月、斎藤利三は明智家のために他の織田家の家臣から家老の一人を引き抜きました。
これを聞いた信長は、織田家家臣団の規律を乱すとして激怒、利三の切腹を命じるほどの激しい怒りでした。
このエピソードは、利三に家老を引き抜かれた稲葉家の記録「稲葉家譜」に書かれています。
1582年5月27日、光秀は、利三の監督責任を問われ、叱責を受けたと言われています。
この時、あるアクシデントが起こり、光秀のプライドがズタズタになります。
殴ったはずみで、”かつら”が取れてしまいました。
光秀は、髪が薄いことを気にして、普段から付髪をしていました。
人前であからさまに付髪を取られてしまったのは、屈辱でした。
この事件が起きたのは、本能寺の変の4日前です。
公衆の面前で潰された武士の面目・・・これが本能寺の変に向かわせたのでしょうか?

怨恨説の根拠は、後の時代に書かれた二次資料です。
一次資料には、光秀が信長を恨んでいたという記録は残っていません。
怨恨説の否定材料となる一次資料は・・・??
本能寺の1か月前の信長の最後の朱印状が細川家に残っています。
あらゆる軍事情報は、光秀を通じて送るように命じています。
虐めるどころか、光秀あっての近畿の軍事政権であると信頼していました。

光秀が信長を恨んだエピソードは、後世の脚色で、一次資料には見られません。
おおむね否定です。

②共謀説

イエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、光秀についてこう評しています。

”彼は裏切りや密会を好み、己を偽装するのに抜け目がなく、計略と策謀の達人であった”

計略に長けた光秀と何者かが手を組んで本能寺の変を起こしたのか・・・??
数ある共謀説の中でも代表的なのが”朝廷共謀説”です。
朝廷と光秀が共謀して信長を殺したというものです。
だとしたら、朝廷が信長を亡き者にしようとした理由とは・・・??
本能寺の変の前年、信長は京都で馬揃えを行いました。
馬揃えとは、今の軍事パレードです。
しかも信長の馬揃えは、かつてないほどの壮大なものでした。
朝廷共謀説によれば、信長は軍事力で朝廷を威圧するためのものだったのでは・・・??と言われています。
自らの軍事力を見せつけたうえで、これまでにない要求をします。
”三職推任”です。
三職とは、朝廷の最高職「太政大臣」、天皇の補佐「関白」、武家のTOP「将軍」という天皇の除く最高権力・・・信長はこのうちのどれかに自分を推薦するように天皇に迫ります。
三職を与えるかどうかを決めるのは、天皇の専権事項・・・
信長の要求は、天皇の権力を蔑ろにするような前代未聞の暴挙でした。
朝廷にとって信長は危険な存在・・・
そこで朝廷は、公家とも親しい文化人の光秀に近づき、謀反を共謀したというのです。

イエズス会共謀説
さらに、朝廷以外にも、公家と親しかったイエズス会・・・
キリスト教の布教のために、イエズス会は本能寺の変の33年前から日本で活動を始めました。
この時彼らは、中国進出のために日本での基盤を固めるべく、信長を経済的に支援していました。
ところが、信長がほぼ天下を収め、手中に収めると・・・天下人として振る舞うようになり、イエズス会にとってコントロールできない存在となってきました。
ルイス・フロイスは、イエズス会を震撼させた信長の言動を記しています。

「途方もない凶器を盲目に陥り、自らに優る宇宙の主なる造物主は存在しないと述べ、彼、すなわち信長以外に礼拝に値する者は誰もいないというに至った
信長はあろうことか絶対的な存在であり、キリスト教の守ですら否定し、自分はそれよりも上の存在だと言い出したのだ
神を冒涜する信長を許してはならない」

イエズス会は信長に次ぐ実力者だった光秀に近づき、共謀して信長を暗殺した??
信長を亡き者にしたい朝廷、そしてイエズス会・・・それらの巨大組織が光秀と繋がって本能寺の変を起こしたのか・・・??
イエズス会の重要人物の一人・宣教師オルガンティーノは、安土にいたものの本能寺の変の後、明智軍を恐れ、批難したと言われています。
イエズス会と明智が繋がっていたとすると、オルガンティーノの動きは説明がつきません。

朝廷共謀説、イエズス会共謀説は、根拠となる資料が乏しく否定。

③鞆幕府推戴説

広島県福山市にある惣堂神社・・・
厳重に保管されている御神体は、室町幕府最後の将軍・足利義昭です。
広島と足利義昭、本能寺の変の関係とは・・・??
本能寺の変の9年前・・・1573年に室町幕府が滅亡。
信長に槙島城の戦いで敗れ、京都から追放された足利義昭・・・
これをもって、室町幕府が滅亡したと言われています。
しかし・・・京都追放後、義昭は広島県福山市の鞆の浦に毛利氏の庇護のもと、鞆幕府と呼ばれる勢力を存続・・・
将軍として再起を図ろうとしていました。
しかし、どうして鞆の浦・・・??
港からほど近い小松寺・・・
ここは、室町初代将軍・足利尊氏が京都で幕府を開く直前戦勝祈願のために立ち寄ったとされる寺です。
再び上洛を果たし、幕府復興を目論む義昭にとって、鞆の浦は縁起のいい場所でした。
さらに、鞆の浦は、海流が満潮時に丁度ぶつかる瀬戸内海屈指の交通の要所でした。
四国・九州から、人、物、そして情報が集まり、戦力的にも有利な場所でした。
義昭は、京都から広島に逃れ、信長と敵対する西国の大大名・毛利氏らと組み、打倒信長を画策していたのです。

義昭が御所として使ったとされる常国寺・・・
今でも足利将軍家の家紋「足利二つ引」が掲げられています。
寺に伝わる羽織は、義昭が地元の有力者に贈ったものだとされています。
そこには、将軍家など権力者だけに許されていた紋「九七桐」が使われています。
光秀が鞆の浦で京都奪還を望む義昭に近づき「本能寺の変」を引き起こした??

義昭の野望と、光秀の深いつながりを示す証拠が本能寺の変から10日後に書かれた「土橋重治宛光秀書状」に書かれています。
秀吉との最終決戦・山崎の戦いを控え信長と敵対していた勢力に宛てた協力を求める書状には・・・


「上意への奔走を命じられたことを、お示しいただき、ありがたく存じます
 しかしながら、(将軍の)ご入洛につきましては、すでにご承諾申し上げています。」

信長亡き後、上意が使われる人物は、義昭以外に他ならない・・・??
その義昭の入洛・・・光秀自身既に承諾している・・・??
光秀が、鞆幕府を推戴していた証拠なのでは・・・??
光秀は、室町幕府復興の大義のために、本能寺の変を起こしたのか・・・??
義昭の入洛について承諾しているという光秀の書状から、光秀が義昭を担ごうとしていたことはわかるものの、問題は、光秀と義昭が結びついたのが、本能寺の変の前か、後か??
書状が本能寺の変の後に書かれていることから、光秀が自分の正当性を示すために義昭の権威を利用したのかも??

光秀と義昭のつながりは、変の前→義昭と計画的に行われた謀反
へんの後であれば、謀反の大義名分のために推戴したのでは・・・??と思われるのです。

将軍義昭を再び京都に迎え入れるために奔走した光秀、最近、義昭と光秀のつながりが発見されました。
そもそも、明智光秀に関する信頼できる資料は非常に乏しく、前半生は謎に包まれています。
本能寺の変を起こした時の年齢も、明智軍記=55歳、当代記=67歳と、言われています。

光秀に関して最も信頼されている古い記録は、本能寺の変の15年前、永禄10年の「永禄六年諸役人附」です。
そこには、光秀が越前国の足利義昭陣営の足軽衆であったと記されています。
信長に会う前、光秀は足利義昭の家臣でした。
当時義昭は、将軍だった兄を殺され、京を追われ朝倉氏のもとに身を寄せていました。
幕府とつながりの深い朝倉氏のもとで、上洛に必要な大名を探していました。
そこで目をつけたのが、美濃で力をつけてきていた織田信長でした。
その時、義昭と信長を結びつけるために出てきたのが明智光秀です。
この時、若く見積もっても40歳・・・出自もわからない光秀が、どのようにして義昭と結びついたのでしょうか?
長い間謎となっていました。
そんな中、2017年、熊本で・・・謎に迫る発見が・・・!!
「針薬法」と呼ばれる書物は、細川家の家老米田家に残された光秀本人が語った新資料です。
資料には、永禄9年の物と書かれていますが・・・これが事実なら、光秀に関する一番古い資料となります。
その奥書には・・・
”明智十兵衛光秀は、近江国高嶋の田中城に籠城していた”
光秀は、永禄9年(1566年)以前に武将として活躍していたことがわかります。
どうして明智光秀は、主君・織田信長を討ったのか・・・??

本能寺の変に謎はあるのか?: 史料から読み解く、光秀・謀反の真相

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④構造改革反発説
光秀は、信長の行った革新的な構造改革に反発し、変を起こしたという説です。
世は戦国時代、自分たちの所領や領地を守り、いかにして拡大するか・・・??
大名たちによる限られた土地の奪い合いは、100年近く続いていました。
そんな時代を終わらせるべく、信長が出した全く新しい思想は・・・預治思想です。
土地はあまねく天の物・・・それを預けられ、治める・・・この思想が、信長の革命的な思想なのです。
土地はすべて天からの物で、天下人に与えられたものであり、各大名はその土地を預かっているだけ・・・
そうすることで、土地の奪い合いは無くなる・・・預治思想は、秀吉・家康に受け継がれ、幕藩体制の礎となっていきます。

天正8年・・・1580年8月、信長は大和一帯を治める筒井順慶に居城ひとつを残して他の大和一帯の城をすべて破壊するように一国城割を命じました。
領地・城の管理は、従来の各大名の権限で、それを信長は奪い、自ら差配、それまでの権力者とは、一線を画す命令でした。
そして天正8年を機に、
天正8年 大和 城割 検地
      摂津 城割 検地
      河内 城割 検地 
      和泉 城割 
      丹波 城割 検地
      丹後 城割 検地
天正9年 越中 城割
      能登 城割
      伊賀 城割
光秀や秀吉などの家臣の領地で、石高を調べる検地を次々と行い、領地管理を徹底管理させていきます。
さらに、長年自らに仕えてきた宿老に対し・・・
滝川一益 伊勢長島→上野厩橋
越前府中 江千仙府中→能登七尾
細川藤孝 山城青龍城→丹後宮津
見ず知らずの土地に国替えを命じました。
全ては、天下人を中心とした集権国家にするためのもの・・・まさに、国の形を劇的に変える構造改革をしようとしていたのです。
そして次なる国替えは光秀だった・・・??
江戸時代にまとめられた「明智軍記」によれば、「丹波・近江を召し上げ出雲・石見を与える」と言われたと言います。
丹波の地は、光秀が4年の歳月をかけて平定した土地です。
新しい国の形を探して信長が行った構造改革・・・しかし、旧来の常識にとらわれる家臣たちにとっては、あまりにも革新的過ぎたのでは・・・??

革新的なのは信長か?光秀ら家臣たちか??
革命家・信長と旧来型の家臣・光秀・・・そうした従来の評価は近年大きく変わってきています。
信長の革新的の象徴とされる安土城・・・信長は土の城から城郭へと進化させ、城革命を成し遂げたと言われてきました。

しかし、光秀と親交のあった吉田兼見によると・・・
「坂本城の天守を作るところを見せてもらった」とあります。
坂本城とは、安土城の4年前に建築が始まった光秀の城です。
信長よりも早く、荘厳な天守を築いていた可能性があるのです。
さらに、京都市に残る周山城は、東西に800m、南北に620mの広大な山城で、天守の役割をする建物もありました。
当時の一般的な城は土塁・・・周山城は石垣・・・広大で巨石を積み上げた総石垣の山城は、他に例がありません。
さらに、家臣たちを統率する規律も、時代を先取りしたものでした。
「明智光秀家中軍法」によると・・・
当時の軍は、いろいろな出自の者が集まる寄せ集めでした。
家中軍法では、こまごまとした規律が定められています。
戦場での雑談や抜け駆けの禁止が徹底され、織田家はもとより他の大名家に軍法が存在しない中、明智家だけに存在した法律・・・そのあまりの革新性に、江戸時代につくられた偽の文書ではないかとも言われていました。

革命家と言われてきた信長・・・
朝廷が執り行う儀式には、多額の資金が必要で、それを援助するのは伝統的に室町幕府が行うものでした。
しかし、室町将軍・義昭を追放した後は、信長が変わって経済的援助を行い、朝廷を支えていました。
さらに、岐阜城に入ったのち、天下布武の印を使い始めた信長・・・天下統一を目指し、天下人となる決意表明ととられがちですが・・・
信長にとって戦の目的は、天下統一ではなく、各地で起きる反乱を鎮め、朝廷を中心とした伝統的な秩序を守るためでした。
信長は、次の時代を作った革命家ではなく、最後の戦国大名だったのでは・・・??

この頃、信長が使っていた”天下”という言葉も、最近解釈が変わってきています。
天下とは室町幕府、朝廷、京都のこと・・・??
天下布武は、日本全土を支配するのではなく、近畿一円では・・・??
従来のイメージと異なる信長と光秀の人物像・・・
ここから本能寺の変の真相に、新たな説が見えてきます。

⑤暴走阻止説
信長の暴走を止めるために、本能寺の変を起こした・・・??
1580年、石山本願寺との戦いが終わり、畿内を平定。
しかし、信長は戦いをやめることはありませんでした。
全国各地の自らに従わない勢力に対し、兵を送り、武力で押しつぶそうとしました。
信長の行動は、武力に任せるという旧来の戦国大名と何ら変わりのないものでした。
既に中国地方での毛利との戦いは6年に及び、上杉とも戦いは続いていました。
長引く戦と、拡大する戦線・・・織田家臣団は、疲弊しつつありました。
そんな中で、信長は更なる戦を決定します。
四国攻めです。
尾張の見えない戦の日々・・・そんな信長に最も危機感を持っていたのは光秀でした。
織田家の有力者たちに任された地域を見ると、秀吉の中国地方、柴田勝家の北陸地方に対して、光秀は信長のおひざ元・畿内周辺を任されていました。
さらに、光秀と軍事行動を共にする大名を含めると、京をぐるりと包囲しているのがわかります。
信長の暴走を止められるのは、畿内を任され、軍事的No,2だった光秀のみ・・・??
本能寺の変の動機に関して、自筆の書状が残っています。
”明智光秀覚条々”(1582年6月9日付)によると・・・
本能寺の変の後、細川藤孝に対して自ら筆をとっています。
ここに書かれた動機こそ、この説の大きな根拠になっています。
本当に光秀は、信長の暴走を止めるべく本能寺の変を起こしたのでしょうか?
本能寺の変は、光秀が天下を取るためではなく信長の時代を終わらせ、次世代に渡すためだった可能性も・・・??

⑥四国説
2014年、歴史界を驚かす、驚きの発見がありました。
”石谷家文書”によると・・・明智光秀の重臣・斎藤利三と土佐の長曾我部元親がやり取りした膨大な数の手紙によると・・・
注目されたのが、四国説です。
長曾我部元親は、四国統一を目指していた戦国大名でした。
元親は、信長と同盟関係にあり、その取次ぎを務めていたのが光秀でした。
戦いで勝ち取った土地は、自分のものにしてよいという信長のお墨付きをもらい、敵対する三好家と戦い続けた元親・・・四国統一目前でした。
ところが、状況は一変・・・本能寺の変の前年・・・信長は突然長宗我部ではなく三好家と接近・・・元親が戦いで勝ち取った四国の一部を三好家に返上を要求します。

「元親のために光秀は尽力している」

手の平を返す用に領地を奪われる立場となった元親のために、奔走していた光秀・・・
その結果、ようやくたどり着いた妥協案は・・・??
本能寺の変の10日前、元親から光秀の重臣・斎藤利三に出された手紙です。

「信長との間を始終取り計ららってくれたことは忘れない
 阿波国内の主要な山城は明け渡す」

領土の返上を渋っていた元親の説得に成功した光秀・・・
しかし、信長は情け容赦ない決定を下します。
長宗我部を滅ぼすと・・・!!

光秀の人力空しく、四国出兵が決まります。
元親討伐軍が四国渡航予定の6月2日未明・・・光秀は本能寺の変を決行したのでっす。
この四国政策の手のひら返しが本能寺の変を引き起こさせた・・・??

本能寺の変が起こった1582年、信長はすでに家督を信忠に譲っていました。
二人を同時に討たなければ、謀反は成功したとは言えない・・・
ところが、当初信長と別行動をとるはずだった信忠が、予定を変更。
二人が急遽、兵を伴わずに京都にいることになりました。
これが決定したのは、本能寺の変がおこるわずか3日前のことでした。
中国出兵が決まっていた光秀のもとには、1万3000余りの軍勢が・・・!!
光秀にとってありえないほどの好条件が重なったことが、本能寺の変の大きな要因の一つになりました。
四国をめぐる信長の判断が、光秀を追いつめ、織田家家臣団の問題が表面化し、本能寺の変につながった可能性が高いと思われます。

⑦秀吉陰謀説
四国説で浮き彫りになった光秀と秀吉による織田家臣団のNo,2争い・・・
ここからまことしやかに囁かれているのが・・・秀吉陰謀説です。
本能寺の変の直後の光秀について、京都・吉田神社の神官・吉田兼見・・・
朝廷にも深くかかわり、光秀と頻繁に行き来する間柄の吉田兼見によると・・・
本能寺の変当日の兼見の日記には、

”光秀は信長方を悉く討ち果たし、大津に異動した
 私は馬に乗って粟田口まで走り出て光秀に対面し
 吉田家・吉田神社の領地を保証してくれるよう直接頼んだ“

兼見だけでなく、京都の多くの勢力が光秀を謀反人として扱うことはなかったようです。
その後、安土城に入城した光秀のもとに、朝廷からの勅使が訪れました。
これは、朝廷が光秀を次の天下人として認めた可能性を示しています。
本能寺の変後、光秀の動きは順調に見えました。
しかし・・・
それを打ち砕いたのが、秀吉の中国大返しです。
本能寺から200キロも離れていた高松城から毛利との講和を結び、京都に取って返した秀吉・・・
変からわずか11日後・・・1582年6月13日、山﨑の戦いで光秀は秀吉に破れました。
本能寺の変で最も得をした人はだれか・・・??
天下人の道を歩み始めた秀吉です。
どうして秀吉は、こんなに早く変の情報を入手し、動くことができたのか・・・??
秀吉は本能寺の変に何らかの形で関わっていたのか・・・??

秀吉の陰謀である可能性は低いが、秀吉は光秀の謀反を予知していた可能性は高いと思われます。

本能寺の変の直後から、光秀は味方になってくれる織田家家臣団を取り込むべく各所に書状を送り、援軍を頼みました。
敵対勢力・・・最大の秀吉を制すれば、謀反は成功するはずでした。
光秀が最も頼りにしていたのが、細川藤孝・忠興親子でした。
藤孝は、光秀が信長と出会う前からの長い付き合いで、当時光秀の与力大名として軍事行動を共にする間柄でした。
息子の忠興は、三女のガラシャが嫁いだ相手・・・つまり、娘婿でした。
当然彼らの援軍を得られるであろうと思っていた光秀・・・
ところが、本能寺の変を知ると、細川親子は信長の喪に服すると出家、光秀とは組まないという意思を示しました。
さらに、娘婿の忠興は、たまを離縁、幽閉します。
思いもよらない細川親子の反応・・・
光秀はどう受け止めたのでしょうか?
本能寺の変の7日後・・・
光秀が細川家に送った書状によると、細川親子の出家に対し、抗議しながらも、今からでも味方してほしいと強く要請しています。
にもかかわらず、細川家が動くことはありませんでした。
細川家のこの判断によって、光秀の運命は決まりました。

秀吉による中国大返し、それでももし、秀吉の通り道にある丹波で細川が迎え撃てば、秀吉の足止めができたかもしれない・・・
しかし、細川は動かず、実に三倍の兵力を引き連れた秀吉と・・・
1582年6月13日、山﨑の戦い!!
光秀を撃破した秀吉は、信長の後継者の地位を手繰り寄せました。
本能寺の変の1か月後・・・光秀に組しなかった細川家に宛てた秀吉の文書が残っています。
”羽柴秀吉血判起請文”によると・・・花押の上に秀吉の血判が・・・今に残る秀吉唯一の血判です。
細川家によって、400年以上大切に保管されてきました。
秀吉はこう書いています。

”この度のご不慮(信長が自刃に追い込まれた本能寺の変で)
 細川家の行動は「比類なき頼もしさ」であった”と。

そして秀吉はこう続けます。

”これからは、ごく親しい関係を結び
 表裏なく、公私とも抜かりなく協力していこう”

そこには、細川家に対する最大の感謝が伺えます。
しかも、書かれたことが真実であることを誓う、熊野神社の護符の裏紙が使われ、この誓いを破ったら、日本中の神の罰を受けてもいいとまで書かれています。

本能寺の変で、中世が終わり近世が始まる・・・国家の在り方を江戸時代につなげる転換期でした。

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アメリカの情報機関は、最近2000ページに及ぶ極秘文書を公開しました。
20世紀最大の喜劇王チャールズ・チャップリンの人物ファイルです。
命じたのは、J・エドガー・フーバー・・・FBI史上最強の長官は、チャップリンを共産主義と危険視していました。
私生活も徹底調査、電話の盗聴、取り巻きの素行調査、女性関係、セックスの監視、作品の分析・・・
1922年から78年まで50年以上に及んだ容赦ない調査の記録です。

チャップリンとフーバーの対決には、長い間アメリカを分断してきたリベラルと保守の対立構造が伺えます。
なぜアメリカで人道主義者のチャップリンが批判の的になったのでしょうか?
どうして言論の自由は蔑ろにされたのでしょうか?

1910年代・・・
20代半ばだったイギリス人俳優・チャップリンは、所属する劇団の巡業でアメリカを訪れました。
その頃、ハリウッドでは、映画産業が急成長を遂げていました。
まだ小さな制作会社の集まりでしたが、その一つのキーストンスタジオがチャップリンを雇い、短編のトーキー映画に出演させます。
チャップリンは、すぐに人気をさらいます。
奇妙ないでたちでユーモアたっぷりの浮浪者の姿が、大いに受けたのです。

チャップリンはタイミングのいい男で、映画産業が花開こうとするときにハリウッドにやってきました。
放浪者は、大きすぎる服に、だぼだぼのズボン、しかし、山高帽でステッキ、フロックコートを着ています。
下半身はみすぼらしいのに、上半身は上流階級のよう・・・。
チャップリンが自ら選んだこの衣装は、後の映画での基本的なスタイルがすでにできています。
質素でありながら威厳を供えている・・・。

こうして、トレードマークの放浪者が誕生しました。
チャップリンは、自ら監督も行うようになり、もっと自由な環境で映画を作りたいと考えるようになりました。
チャップリンは、いくつもの映画会社を渡り歩き、70本以上作成します。
数年で莫大な富を築きます。
1917年には、自身のスタジオの建設に着手しました。
彼が好んで制作したのが風刺映画でした。
金持ちの紳士が、顔にパイを投げつけられたり、警察官がひどい目に合ったりします。
チャップリン演じる放浪者は、社会で虐げられている人々の代弁者になっていきます。
彼が、劇中で繰り広げる権力者への些細な抵抗が、庶民の共感を詠んだのです。
チャップリンの風刺作家としての名声は高まっていきます。

チャップリンは、放浪者を労働者や移民の一人として描きました。
生涯で様々な役を演じますが、貧しい生まれの人物という部分では共通していました。
彼は、虐げられている弱者のことをよく知っていたのです。
彼自身の貧しい生い立ちを考えれば当然のことでした。
子供の頃に感じた不公平感を・・・

1917年公開の映画{チャップリンの移民」は、アメリカの移民政策への批判が込められていました。
保守派の論客は、チャップリンの映画を反体制的だととらえるようになります。
アメリカのピューリタン的な価値観を、脅かしかねないと見たのです。

第一次世界大戦でアメリカ兵が戦地へ赴く中、チャップリンはアメリカの市民権を拒んだことで批判されます。
チャップリンは、「自分は世界市民だ。国籍は生まれた国の物だけあればいい。」と言いました。

一方、チャップリンは、戦争資金を調達するための公債の発行を支援します。
政府への支持を訴え、全米を回りました。
さらに、公債と題したプロパガンダ映画を製作します。
しかし、公開時にはすでに休戦が宣言されていました。

1920年代になると、アメリカは飛躍的に成長を遂げます。
大手映画会社は、700本を超えるサイレント映画を世界中で公開しました。
チャップリンは、作家自身による映画配給会社「ユナイティッド・アーティスト」を作ります。
作品の内容により強い権限を持つようになったチャップリンは、映画「キッド」では固辞の問題を取り上げました。
チャップリン演じる放浪者が、ニューヨークの街で孤児と出会うストーリーです。
チャップリンは、人々に夢と希望を与えてきたアメリカが、一方で貧しい孤児たちの存在を無視してきた実態を描いています。
彼は、様々な手法で批判してきたことです。
ワシントンではロシアの革命から、共産主義の思想の広がりを懸念していました。
若きフーバーの任務は、要注意人物の監視でした。
フーバーは公務員でした。
彼は大戦中から、政治犯の監視の担当をしていたのです。
フーバーは、黒人を蔑視する人種差別の塊で、同性愛も嫌悪していました。
そして何よりも反共主義者でした。
国際的な秘密組織が存在し、欧米各国を弱体化させ社会主義革命を狙っているという妄想に取り憑かれていました。
1919年、フーバーは、共産主義運動の指導者たちを国外追放します。
少しでも社会主義やリベラルな思想を持つ者は、コミュニズムの支持者だと疑われました。
マスメディアで反体制の言動をする者も標的になります。
知識人や芸術家も疑われました。
一般市民に危険な思想を植え付けていると思われたのです。

フーバーは、ハリウッドに捜査員を潜入させ、監視下におきます。
ゴシップ誌も重要な情報源でした。
フーバーは、チャップリンファイルを開設、50年で2000ページに及ぶ記録の始めは、俳優ミルドレッド・ハリスとの結婚です。
当時、ミルドレッドは16歳、スキャンダルを畏れたチャップリンは、1918年結婚します。
子供は生後すぐに亡くなり、結婚はすぐに破綻・・・
妻が離婚を申し立て、ほどなく認められました。
1921年、チャップリンは、長期のヨーロッパツアーに出かけます。
ロンドンやパリで大歓声で迎えられました。
1924年、チャップリンは、俳優のリタ・グレイと結婚し、二人の息子を設けますが、結婚はうまくいかず、リタは幼い子供を連れて家を出ました。
その後、リタはチャップリンの不貞や暴力を訴え、離婚を申し立てます。
裁判の末、チャップリンが多額の示談金を支払うことで離婚が成立します。

第1次世界大戦後のアメリカは、禁酒法が施行され、保守主義が台頭した時代でした。
しかし、チャップリンはそんな時代をあざ笑っていました。
彼の映画は、多くの良識あるアメリカ人にとって不快に映ることもありました。
一方で庶民は、チャップリンの映画を称賛しました。
権力者がコテンパンにされる姿を見て大喜びしたのです。

厳格なキリスト教徒たちは、チャップリンの映画のボイコットを呼びかけます。
道徳的な観点から映画に懸念を示す人が大勢いて、キリスト教の団体が政府に映画の検閲をするように求めていました。
そのため、多きな映画会社が、MPPDAを設立し、自主的な倫理規定を作ります。
初代会長は、郵政長官だった共和党の政治家ウィル・ヘイズです。
協会は、まず俳優たちに教会に従うという誓約書への署名を義務付けました。
しかし、自分の配給会社を持っていたチャップリンは、縛られることはありませんでした。

チャップリンは、次第にFBIからにらまれるようになります。
1922年8月、フーバーは、特別捜査官のホプキンスに調査を命じます。
ホプキンスは、チャップリンがロサンゼルスの自宅で開催したパーティーについて報告しました。
それによると、招待客の中には、共産主義に共鳴する人物や、急進主義者、労働組合の指導者も含まれていました。
ホプキンス捜査官は、チャップリンはMPPDAのヘイズ会長を批判し、我々は如何なる検閲にも反対すると明言したと言い、トイレの扉には「ようこそヘイズ」と書かれたペナントがあったと報告しています。
フーバーは、報告書をヘイズに送ります。
FBIとMPPDAは、映画に含まれるプロパガンダを取り締まるために協力関係を築き、この関係は1945年前まで続きました。

マスメディア・FBI・MPPDAの圧力を前に、チャップリンは四面楚歌の状態でした。
1927年、チャップリンの映画の内容に、外部から更なる圧力がかかり、更なる規則が追加されました。
映画に含んではいけない11の要素と扱いに注意を払うべき25の項目のリストが発表されました。
ヌードは禁止、宗教は敬意をもって扱う、犯罪や不貞行為を煽らない・・・
MPPDAには、違反者を罰する手段がありませんでした。
映画の製作者たちは、一分でもリストを守ればいいと都合よく解釈をし、良心と興行収入を守りました。

華やかな1920年代は悲劇で幕を閉じます。
1929年10月24日、株価が大暴落!!
大恐慌となります。
人口の1/4が職を失い、多くの人が路頭に迷いました。
FBIにとって、経済危機であると同時に、政治的な危機でもありました。
国内の全ての反体制分子を監視しろという命令が秘密裏に出されました。
極右のメンバーと共産主義者への調査活動が強化されました。

映画「街の灯」は、金融危機がもたらした労働者たちの過酷な日常を書いています。
チャップリンは、脚本を恐慌が始まる前から書いていました。
劇中では酒飲みの大富豪と放浪者との奇妙な関係が描かれ、庶民に対する支配階級の冷淡さが表現されています。
この映画の製作中、新たな問題に直面します。
トーキーの登場です。
映像と音声と同期したトーキーは、大手映画会社では数年前から制作されていました。
しかし、チャップリンは、一時的な流行に過ぎないと考えていました。
チャップリンは、放浪者はしゃべれない・・・しゃべった瞬間、死んでしまう・・・ジェスチャーを通して意思疎通することに面白さがあると言っていました。
サイレント映画では興行的に失敗すると言われても、チャップリンはトーキーを嫌いました。
チャップリンの「街の灯」は大ヒットし、賭けに勝ちました。
1933年になると、映画業界はカトリックの団体から圧力を受けるようになります。
これに対応する為に、MPPDAはジョセフ・グリーンを検閲の責任者に据えます。
彼は何より道徳を重んじました。
彼は最高で2万5000ドルの罰金を科す権限を与えられたので、制作者たちは規則を守らざるを得なくなります。
これが、ハリウッドの転換点となりました。
制作者たちは規則に従うか、抜け穴を見つけるか、判断を迫られます。
チャップリンにとっては受け入れがたいことでした。

同じころ、ルーズベルト大統領が、ニューディール政策を打ち出します。
経済を復興させ、失業者たちを無くす目的でした。
チャップリンは、ルーズベルトへの支持をラジオで訴えます。
公正な社会を求める彼の思いが、次の作品「モダン・タイムス」につながります。
当時、地方の人々が、大挙して大都市に移り住みましたが、生活は非常に貧しいものでした。
この窮状を目の当たりにしていたチャップリンは、大手自動車工場を訪問したのち、モダン・タイムスを制作します。
そして、効率化を求める会社の管理体制や、分業化、機械化を批判しました。
労働者を機械やロボットのように変えてしまう資本主義社会を痛烈に皮肉ったのです。

チャップリンは、ポーレット・ゴダードを起用、その後二人は10年近くプライベートでもパートナーとなります。
彼女はチャップリンの生活に多くの幸せをもたらしました。
チャップリンは、彼女に会った瞬間に、モダン・タイムスにピッタリだと思いました。
映画が封切られると、チャップリンはゴダードと一緒に世界旅行に出かけます。
1936年、二人は密かに結婚しました。
映画は大成功を収めましたが、内容は共産主義的だと非難する批評家が大勢いました。

チャップリンは抗議します。
この映画は共産主義でも資本主義でもない・・・中立だ!!
ナショナリズムの機運が高まる中、中立を貫くのは不可能だということを、チャップリンはわかっていませんでした。
それまでハリウッドの共産主義者は少数でしたが、1930年代半ばに変化が起こります。
アメリカ国内の共産主義者の数も倍増しました。
フーバーは、映画業界が反体制派に対抗するように手をまわします。
フーバーはFBIの後方映画の制作を指揮、その活動がいかに優れているのかをアピールします。
さらに、FBI捜査官が主役の映画を作るように映画会社に働きかけました。
1935年の「Gメン」は、その一例です。

フーバーは、捜査官のネットワークを使い、チャップリンの収入や資産をつぶさに監視、多額の預金があることは確認できましたが、共産主義団体に寄付した痕跡は見つかりませんでした。
失望したフーバーは言いました。
「ロックフェラーのように大金を稼いでおきながら、資本主義を批判するのは間違っている」

当時の世界情勢に触発され、チャップリンは新作「独裁者」に取りかかります。
彼は全体主義の台頭に恐れを抱きました。
チャップリンは、本質的に常にヨーロッパ人でした。
彼は独裁者の構想を練り始めます。
そして、2年という歳月をかけてヨーロッパ情勢を分析し、300ページに及ぶ作品を書きあげました。

本当にすごい偶然です。
世界で最も嫌われた男と、最も愛された男が、ほとんど生き写し・・・
誕生日は数日違い、年齢も、身長も、体つきも同じ・・・
髭の大きさは違っていましたが、しかし、ヒトラーの髭は次第に縮んでいって、チャップリンそっくりになっていきます。
ナチス・ドイツがポーランドに侵攻した1939年9月、チャップリンはハリウッドで撮影を開始します。
チャップリンは独断でこの映画を作ることを決め、自分のたくわえを投じました。
家族も制作会社も映画の制作には反対でした。
チャップリンは、殺しの脅迫まで受けていましたが、経済的なリスクを含め、あらゆる覚悟をしていました。
人々の連帯や、人権が尊重される世界を信じ、平和主義を訴えようとしました。

独裁者は、1940年秋に公開されると、たちまち人気に・・・
しかし、終盤の平和を訴えるスピーチには賛否両論がありました。
新聞は、チャップリンが共産主義を宣伝していると批判します。
映画を見たルーズベルト大統領はナチス・ドイツを支持する国々との間で緊張が高まるのではないかと心配します。
当時アメリカは、ドイツに宣戦布告しておらず、孤立主義の立場をとっていました。
市民の多くは、アメリカの参戦に反対でした。
ルーズベルトは、FBIの役割を強化します。
ナチスを支持するドイツ系アメリカ人協会の団体を、監視下に置くよう命じます。
1940年以降、FBIは、国内の諜報活動において軍を凌ぐほどの力を持つようになります。
1941年12月、日本の真珠湾攻撃をきっかけに、世論が変わります。
アメリカ人の大半が、参戦を支持するようになりました。
ソビエト連邦が、連合国側についたことで、アメリカの共産主義者への姿勢も変わります。
内なる敵からナチスと戦う戦友となったのです。
ルーズベルトは国民を一つにすることに専念しました。

大統領はハリウッドにも協力を求めます。
政府、軍、映画会社は一丸となって愛国心を鼓舞する作品を作りました。
チャップリンは、大統領の要請にこたえるだけではなく、ソビエト軍を支援すべきだと公に訴えました。
チャップリンは、ドイツが東部戦線を制したら、ヨーロッパは終わりだと思っていました。
ソビエトを支援する運動を、FBIは、共産党の隠れ蓑だと思っていました。
運動を支持したチャップリンも、共産主義者では??と疑われました。

1942年、チャップリンはロシア戦線を支援する集会でスピーチをするように当局から依頼されます。
求めに応じたチャップリンは、サンフランシスコの会場に向かいます。
そして、スピーチ冒頭「同志よ・・・!!」と、突然呼びかけ、聴衆を驚かせます。
まずいことにスピーチの内容をFBIが記録していました。
更にチャップリンは、オーソン・ウェルズらと共にニューヨークで開かれた集会に出席します。
主催したのはFBIが左翼としてマークしていた芸術団体で、開場のカーネギーホールの前では、共産主義に反対するデモが行われました。
ロシア戦線への支持を表明したことが、とどめの一撃になりました。
チャップリンは、大統領だけでなく連邦議会まで敵に回しました。

フーバーは、チャップリンを法廷に引きずり出すための証拠探しを続けていました。
1943年、俳優のジョーン・バリーが妊娠6か月で父親はチャップリンだと主張。
フーバーは、早速調査に乗り出しました。
報告書によれば、二人の出会いは1941年。
彼女はハリウッドに出てきたばかりでしたが、チャップリンにうまく取り入り、彼の映画で役をもらいました。
しかし、次第にジョーンの精神的不安定が明らかになります。
ある日彼女が泥酔状態で車の事故を起こします。
チャップリンは、ジョーンとの契約を解除し、その後しばらく彼女に会いませんでした。
報告書でフーバーが興味を示したのが、次のような一文でした。
1942年10月にチャップリンがニューヨークを訪れた際、ジョーンと一夜を過ごすために列車の切符を買い与えた。
フーバーは報告書にしるしを入れ「掘り下げるように」と記入。
マン法に違反している場合は、厳しく処罰するようにと指示しました。
マン法は、白人奴隷の売買を防ぐ目的で、1910年に施行された法律です。
州をまたいで女性を輸送し、売春などの不道徳な行為に当たらせることを禁じるものでした。
ホテルの請求書を手に入れたフーバーは、ついにチャップリンを追いつめる証拠を手に入れたと意気込みます。
フーバーは、職責を著しく逸脱してジョーンを説得し、チャップリンに対する訴訟を起こさせます。
さらに、彼女のために、自ら弁護士を雇いました。
1944年2月10日、裁判が行われ、報道陣が押しかけました。
チャップリンの弁護士は陪審員に訴えます。
「ジョーン・バリーは、いつでも被告の求めに応じたであろうに、わざわざ4500キロも一緒に旅をしたなんて、おかしいと思いませんか?」
チャップリンは無罪になりますが、これで終わりではありませんでした。
すぐに二つ目の裁判が始まります。
ジョーン・バリーが子供を認知するように訴えを起こしたのです。
しかし、血液検査で親子関係がないことが証明されます。
チャップリンは法廷で彼女とは2年間関係を持っていないと主張しました。
それでも裁判所は、チャップリンの姓を名乗ることを認め、チャップリンに養育費の支払いを命じます。

不当な判決に傷ついた彼を救ったのは、ウーナ・オニールの存在でした。
ウーナは、1943年6月、一連の騒動の渦中でチャップリンと結婚し、彼がこの世を去るまで支え続けました。
この頃チャップリンは、これまでで最もシリアスな作品を書き始めていました。
「殺人狂時代」です。
よく手入れされた口ひげを蓄え、オーダーメイドのスーツに身を包んだ紳士・ベルドゥーが、殺人を繰り返し、最後は処刑される物語です。

「一人を殺せば犯罪者だが、数百万人殺せば英雄だ」

チャップリンは、このセリフに裁判所への恨みを込めていました。
戦争が終わると状況が一変・・・アメリカとソビエトの間で冷戦が始まります。
マッカーシー上院議員が主導する赤狩りがあらゆる分野で吹き荒れ、特にハリウッドは大きな打撃を受けます。
殺人狂時代のメディア無家の試写会は惨憺たるものでした。
記者たちは映画の内容ではなく、チャップリンについて質問しました。

「あなたは共産主義者ですか?」
「私は共産主義者ではない。」
「ではなぜアメリカ市民にならないのですか?」

「チャップリンはアメリカの道徳的基盤を脅かしている
 彼の映画が若者たちの目に触れないようにしなければならない」byジョン・ランキン

ランキンは、司法長官にチャップリンの国外追放命令を出すように迫ります。
チャップリンは、下院非米活動委員会に召喚されました。
反体制的な活動を摘発するこの委員会は、1947年秋、ハリウッドの映画関係者聴聞会を開きます。
チャップリンは委員会にこう伝えます。

「喜んで出席するが、聴聞会の間中放浪者の姿でパントマイムする」

これにより、チャップリンは出席を免れることができましが、多くの映画関係者はそうはいきませんでした。
委員会は反体制的で共産党との関係が疑われる人物をハリウッド10に絞ります。
俳優のハンフリー・ボガート、ローレン・バコール夫妻などが、友人たちを助けようと立ち上がります。
映画会社はボガートにハリウッド10の支援をやめなければ俳優としてのキャリアを失うぞと警告しました。
チャップリンは、委員会に逆らい、友人らを擁護します。
アイスラ―は国外追放となり、チャップリンは共産主義者の味方をしたと責められました。
証言を拒否した映画関係者は、理解侮辱罪に問われ、禁固刑に処せられました。
大手映画会社の幹部たちは、ニューヨークで対策に追われ・・・
今後は共産主義者でないと誓ったものしか雇わないことで一致しました。
ブラックリストに載った者は、潔白を証明する為に仲間を売ることを余儀なくされました。
チャップリンは、非米活動委員会や映画業界の圧力からは逃れることができましたが、退役軍人やカトリック団体からの追及は続きました。
彼等は、ハンス・アイスラ―との関係を、さらに調査するように求めていました。

1948年、ロンドンでの撮影を計画していたチャップリンは、帰国の際に必要な再入国許可を申請しました。
すると移民局から4時間にわたって尋問を受けます。
人種的なルーツは??・・・
女性関係はどうなっているのか??
なぜアメリカの市民権をとらなかったのか?
戦時中にソビエトを支援したのはなぜか?
チャップリンは答えました。
「ソビエトを支援したのは彼らがいなければナチスが勝っていたからだ。
 私は進歩的な民主主義者であって、社会主義者ではない・・・
 人道的な愛国者で、世界市民だ
 私は常にアメリカを愛してきた」
尋問の末、チャップリンの再入国が認められますが、後日、税務当局は一変して200万ドルの保証金の支払いを命じてきました。
チャップリンは、イギリスへの渡航を中止し、次回作をハリウッドで撮影することを決めます。
チャップリンがイギリス行きを計画したのは、新作「ライムライト」の世界観が、自分が育ったロンドンの貧しい町だったからです。
チャップリンは、何回もオーディションを行い、イギリスの舞台俳優クレア・ブルームをヒロインに抜擢します。
ハリウッドで全くの無名でした。

映画が完成すると、試写会の準備のためにロンドンに向かいます。
1952年9月、チャップリンは妻と4人の子供を連れ、アメリカを離れました。
しかし、出港から2日後、悪い知らせが・・・
司法省が再入国許可を取り消し、チャップリンがアメリカに戻った場合は拘束することを通達したのです。
この措置は、フーバーの調査報告に基づき、以前から決められていたことでした。

チャップリンは唖然としつつも立ち向かう決意をします。
40年近く暮らし、情熱や愛情を注いできた国から追放される・・・到底受け入れられないことでした。

ロンドンでチャップリンは大歓迎を受けます。
ライムライトは、試写会で絶賛されます。
チャップリンはイギリス王室の面々にも謁見しました。
その後、パリやローマでも熱烈な歓迎を受けます。
もう二度とアメリカへと戻らないと決心したチャップリンは、妻にアメリカにおいてきた財産を整理するように銘じました。
アメリカ国籍を持っていたウーナはアメリカに戻り、家やスタジオを処分し、スタッフに別れを告げ、銀行から預金を引き出し、書類を持ってチャップリンの元へ戻りました。

1953年、チャップリン一家は、スイスに移り住み、レマン湖を望む場所に居を構えます。
チャップリンは疲れ切っていました。
静かな場所で安心して映画を作り続けたかったのです。
一家は幸せに暮らしました。
そしてさらに、4人の子供に恵まれました。
妻のウーナは、アメリカの市民権を放棄します。
チャップリンは自分を追放した人々を許すつもりはありませんでした。

1954年に制作が始まった「ニューヨークの王様」では、チャップリンの息子マイケルがFBIに追われる夫婦の子供を演じました。
長年の敵フーバーとチャップリンの対立のパロディでした。
赤狩りがテーマで、自分を追放したアメリカを痛烈に批判しました。
フーバーは、チャップリンがアメリカを離れた後も、しつこく追い続けます。
本当はユダヤ人ではないかと、イギリスの情報機関に問い合わせたり、スイスの情報機関から交友関係や行動について報告を受けたりしていました。
しかし、ベトナム戦争が始まると、チャップリンの帰国待望の声が高まります。
1960年代に入ると、フーバーの勢いにも陰りが・・・執拗な反共攻撃や部下へのパワハラ、政治家への脅迫、マフィアとのつながりなど、次第に明らかになり、そのキャリアを泥の中に終えたのです。
チャップリンは、フーバーとの長きにわたる戦いを終えるがごとく、20年ぶりにアメリカに帰還・・・至る所で大歓迎を受け、ニューヨークではカギを贈呈されました。

アカデミー賞授賞式で、名誉賞を授与されたチャップリンは、12分間の熱烈な拍手喝さいを浴びます。
それは、彼を追放していた映画界からの心からの謝罪でした。
1か月後、フーバーは心臓発作でこの世を去ります。
彼は、戦後アメリカの暗い秘密を墓場まで持って行きました。
1975年、チャップリンはエリザベス女王からナイトの称号を受けます。
1977年のクリスマスの日、天国に旅立ちました。
庶民の味方で誇り高き自由人の放浪者と共に・・・。

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愛と欲望が渦巻く女の園・・・大奥・・・江戸城の中で営まれた煌びやかでミステリアスな暮らしぶりは、今も私たちの心を揺さぶります。
その基礎を築いたのが、春日局です。

将軍の世継ぎを作るためにもうけられた大奥・・・
最盛期には、3000人もの女性たちが暮らした絢爛豪華な世界です。
その礎を築き、最高権力者として君臨した春日局・・・本名はお福。
お福の生涯は、苦悩と困難の連続でした。

1579年、お福は丹波国・・・兵庫県丹波市に誕生します。
高台に今も残る城の石垣・・・この城の主が、お福の父・斎藤利三でした。
斎藤利三は武芸に優れ、家族を大切にした人物として知られています。
1万石という領地で裕福なお姫様として育ったお福・・・
しかし、25歳の時、徳川家の乳母として仕えることとなります。

1582年、4歳の時・・・突如として幸せな暮らしを壊す大事件が起こります。
明智光秀が、主君・織田信長を裏切った本能寺の変です。
お福の父・斎藤利三は、明智光秀の重臣でした。
その後、光秀は信長の家臣・羽柴秀吉に敗れ、父・利三も謀反人として捕まります。

斎藤利三を生け捕り、京の都中を引き回し、首を刎ねた・・・!!
明智の首と共に晒しものにした・・・!!

この時お福は4歳・・・一説には、母に連れられ、父の最期を目にしたともいわれています。
謀反人の娘となったお福・・・それまでの生活が一変します。
一家は亡き父の友人を頼りにする流浪の身・・・
食べる物も満足にない粗末な暮らし・・・なんとか生き長らえたことが当時の記録に残っています。
極貧・・・謀反人の娘としてどん底の生活をしていました。

1588年、10歳の時に親戚にあたる公家の家に引き取られます。
お福はこの家で、書道や歌道を学びます。
この経験が後に役立つことになります。
17歳になったお福は、母の遠縁にあたる武士と結婚。
相手は、稲葉正成・・・中国地方の有力大名・小早川秀秋に仕える武将でした。
お福は子宝にも恵まれ・・・しかし、幸せは長くは続きませんでした。
夫・正成が、諸君とそりが合わずに解雇・・・浪人となります。
一家は夫の故郷・美濃谷口に移り住みます。
夫の収入はなく、自給自足のどん底の暮らしだったといいます。
お福が懸命に働いて家計を支えているにもかかわらず、夫は妾を囲っていたともいわれています。
そんな暮らしを続け、3人目の子どもが生まれた時・・・思わぬ話が耳に入ります。
二代将軍に子供が生まれるので、乳母を募集するという・・・
お福はこの話に飛びつきます。
極貧の生活から脱出する為に・・・自分が主として子供たちを育てていくためにも、何か職を・・・!!

乳母の募集を命じたのは、天下人・徳川家康でした。
その頃、京都の伏見城にいました。
お福は美濃からわざわざ京に上り、面接を受けました。
応募者は、20人以上・・・
決め手は家康・・・家康はお福の父・利三を高く評価していました。
立派な武将で、力量が高い・・・戦略的にうまい・・・!!

「お福は斎藤利三の娘なので、優れた人物のはずだ」

家康にとっても乳母として最適なお福だったのです。

お福は将軍家の乳母に見事合格!!
夫と離縁し、乳飲み子と次男を母に預け・・・長男一人を連れて江戸に向かいます。
お福はこの時、25歳・・・新しい人生の始まりでした。

埼玉県川越市の喜多院・・・ここには、三代将軍家光が生れた部屋があります。
江戸城から移築されたものです。
家光の部屋につながる春日局化粧の間・・・お福が使っていたとされる部屋があります。
家光の幼名は竹千代・・・内気で病弱だったものの、お福と二人三脚で将軍の跡目争いを勝ち抜いていきます。
今も同じ屋根の下にある二つの部屋は、二人の強い絆を表しているのです。

どうしてお福は竹千代を将軍にすることができたのでしょうか?

お福が25歳の時に乳母としての生活が始まりました。
赤ん坊に乳をあげるだけでなく、付きっ切りで世話をして育てます。赤ん坊の名は竹千代・・・次期将軍です。
竹千代の父は、二代将軍秀忠、そして母は信長の姪・お江でした。
3歳になると、竹千代には厳しい教育係がつけられ、武道や学問を徹底的に教え込まれました。
そんな日々を送る竹千代が、ヒマを見て逃げるように通ったのがお福の部屋でした。
厳しい教育環境・・・選りすぐりの将軍教育をされていた竹千代・・・息苦しい教育環境にあったので、家光も気がめいりことが多く・・・一息付けるのがお福の家だったのです。

しかし、竹千代には将軍になるには不安な点が二つありました。
①内気でおとなしい性格
将軍として全国の大名に号令するにはあまり相応しくない・・・
そこで、役に立ったのが、お福が故郷から連れてきた長男・正勝・・・幼いころから竹千代の世話係・小姓にしていました。
何でも話せる年上の相談相手が、内気な性格を徐々に変えていきます。
②病弱
竹千代は体が弱く、病気がちでした。
食べ物の好き嫌いも激しく、食も細かったのです。
そんな竹千代が工夫を凝らしたのが食事でした。
七色飯・・・白米の外に、茶飯、粟飯、小豆飯、麦飯・・・七色用意しました。
見た目を楽しくしてたくさん食べてもらおうとしたものです。
竹千代に豪華な食事を出す一方、お福は極めて質素でした。
それを気にした竹千代が、自分の膳から分けたこともあったといいます。

お福の愛情ですくすくと育つ竹千代。

しかし、そんな二人に暗雲が・・・
竹千代が7歳の時に跡継ぎ争いにライバルが現れます。
2歳下の弟・国松です。
内気な兄・竹千代とは違い、活発で聡明な国松・・・。
お江は、竹千代よりも国松に愛情を注いでいました。

一説にはこの頃江戸城内ではある噂が立つこととなります。

「お江が竹千代より国松をかわいがるのはお福のせいである」と。

原因は、お福とお江の浅からぬ因縁でした。
お江の伯父は信長・・・その信長を殺した光秀の家臣がお福の父・斎藤利三・・・
更に家臣の間には・・・
「将軍様は竹千代さまでなく、国松さまを嫡男(跡継ぎ)になされるかもしれない・・・」
家臣たちは、国松に貢物を持参する一方で、竹千代にはほとんど持ってこなかったといいます。

江戸時代も始まったばかりのこの頃、優秀さが将軍にはどうしても必要でした。
優秀なように見える国松が、兄を差し置いて跡継ぎになるということもあり得たのです。
お福はそれを一番心配していました。
実の母の冷たい仕打ちに追いつめられていく竹千代・・・
そして・・・竹千代・・・自殺未遂・・・。
しかし、その寸前でお福が見つけ、思いとどまらせたといいます。
思い余ったお福は、将軍秀忠の側近に話を持ちかけます。

「そろそろ竹千代君が世継ぎであるという正式なお披露目があっても良い時期なのに、いまだなんのお沙汰もありません
 一体どうなっているのでしょうか」

秀忠の返事は一言・・・「そのうち決めることにする」

このままでは竹千代の将来が危ない・・・!!

1612年、34歳の時、お福は江戸から旅立ちます。
行先は駿府城・・・!!
大御所・徳川家康と会うためでした。

お福は家康に訴えます。

「竹千代さまが将軍家のお世継ぎであるはず
 弟の国松さまを母君が愛され、その勢いは竹千代さまを凌いでいます
 しかし、弟が兄に勝ることは許されることではありません
 将軍の跡継ぎの決定は、天下の一大事だからです」

跡継ぎは兄の竹千代にするべき・・・そうしなければ秩序が崩れてしまうと家康に直訴!!

この行為は、身分をわきまえないものとして厳しく罰せられるかもしれない危険な行為でした。
お福の切なる訴えを聞いた家康・・・すぐには決断しませんでした。

次期将軍は竹千代??国松・・・??

1611年10月、突然家康が江戸を訪れます。
竹千代と国松を呼び出し・・・広間の上座についた家康は、まず竹千代に、
「竹千代殿 これへ これへ」つられて国松も上座に行こうとすると・・・
「国松はそこにおれ!!」と、しかりつけ、下座におきました。
竹千代を上座に呼ぶことで、家康は自分の考えを家臣たちに示しました。
三代将軍が決まった瞬間でした。
1623年、竹千代は家光と名を改め、20歳で将軍につきます。
お福45歳のことでした。

家光を三代将軍に育て上げ、乳母としての念願を果たしたお福・・・
しかし、それで満足することはありませんでした。
次に力を注いだのは、大奥の礎作りでした。
大奥とは、江戸城の奥で、将軍の正室や側室たちが生活する男子禁制の場です。

「全て奥向きの定法は皆二位の局(お福)の制作なりとぞ」

どうしてお福はそのようなことができたのでしょうか?
父・秀忠から将軍職を継承した家光・・・
その3年後・・・1626年に実母・お江が死去・・・享年54歳でした。
20歳の頃から理想とする政治を始めた家光・・・
47歳になったお福は子育てを終えてからも一層家光を支えることとなります。
乳母の後見役割・・・育てた「養い君」は、大きくなっても叔母に相談に行きます。
これに応える関係があり、お福も何かお役に立ちたいと思っていました。
家光は、意欲的に政治に取り組みます。
全国の藩主を江戸に行き来させる参勤交代制度を確立、外国への渡航を禁じた鎖国政策を強化、当時は幕府に絶対的な力はなく、大きな力を持つ大名はたくさんいました。
お福はこの頃、頻繁に大名の婚姻の相談に乗ります。
相談に乗りながら、その家にはどんな人物がいるのか??謀反を起こしそうな気配はないのか??
大名たちをくまなく調べたといいます。

婚姻政策は、当時の大名統制の根幹でした。
家光がどうやったら日本を統治できるのか??
家光がよりよく徳川幕府を運営していくためにはどうしたらいいのか??
派閥工作をしていたのです。

「上様のためなら何でもできる・・・」

お福は大名達を奥向きから支配していきます。
小姓をしていたお福の息子・稲葉正勝を、重要な箱根の関所のある小田原藩主に・・・
これによって、お福のせいへの影響力はますます増していきます。
全てが順調に見えた家光の治世・・・
しかし、お福には頭を悩ませる問題がありました。
将軍になって10年になっても正室の間に跡継ぎが生れませんでした。
このままでは家康から続く徳川宗家の血統が途絶えてしまう・・・!!
そんな折、衝撃的な出来事が起きます。
家光が天然痘にかかり、瀕死の状況に・・・
天然痘で亡くなるのが普通であった時代・・・家光が亡くなると徳川家自体が危機に瀕してしまう・・・!!
幕府も倒壊してしまうのではないか・・・??
大きな危機感を抱いていました。
すぐさまお福は、江戸城内の神社に向かいました。
そこで、こう祈願したと言われています。

「もし、家光さまを助けてくれるというのなら、私は死ぬまで絶対に薬を飲みません」

お福の祈りが通じたのか、家光は奇跡的に命を取り留めます。
病気は治ったものの、跡継ぎ問題に新たな危機を感じたお福。
家光の正室は京都から来た公家の娘・・・仲は良くなかったと言われています。
一説では、女性に関心がなかったと言われる家光・・・
そんなある日、お福のもとに耳寄りな情報が・・・家光が女性に一目ぼれしたと言います。
しかし、その女性は尼さん・・・
それでもお福は諦めず、尼さんを強引に還俗させ、髪が伸びるまで待って側室に迎え入れたのです。
さらに、お福自らも町に出てスカウトします。
そして目をつけたのが、一人の女性・・・
古着屋の店先に座っていたお蘭という娘でした。
当時側室と言えば、大名や公家などの名門から取るのが常識・・・町娘から取るのはありえない話でした。
春日局は”上様のお気に召すか”を一番大切にしていました。
家光はお蘭を一目で気に入り側室にしました。
1641年、家光の嫡男が誕生。
これでひとまず跡継ぎ問題は解決しました。
しかし、お福はさらに側室を江戸城に迎えます。
これが後に大奥という組織の礎となりました。
中々順調に子供が育たない時代、家光が若い時から病弱だったことから、第2、第3の候補の跡継ぎを産む女性を作っておく必要があったのです。
それが徳川家の安泰のためになるという方針でした。

家光の時代の大奥は・・・
御殿を囲むように女中たちの部屋が・・・最大8名にまで増えた側室たち。
そこには、お福の部屋もありました。
こうした組織を作ることで、お福の政治への影響力はより高まっていきました。
将軍とのかかわりが近い・・・将軍の意向を左右し得る立場でした。
幕府の政治にも、大きな影響を与えました。
全国の大名からも注目され、将軍の考えを聞くために春日局に接触して将軍の考えを聞こうという大名はたくさんいました。

最盛期には3000人を超えたのちの大奥・・・
規律を守るため、男子禁制などの厳しい掟がありました。
その一方、お福は側室だけではなく、世話をする女中たち全員の待遇改善に努めます。

女房(女中)たちは、武士が具足を一揃えするほどの費用をかけ小袖を用意しております
今までは私のお手当を分配して参りましたが、全ての階級の女中たちに、衣装代を幕府より頂戴したいのです

お福は、奥で働く全ての階級の女中に衣装代を出してほしいと幕府に要望します。
衣装代を出してほしい、実家に手当てが欲しい、勤めに関することがらを奔走しました。
そういう要求をできるのはお福で、そういう人だからいろいろな人から要望が集まってきました。
大奥制度を作る基礎にお福が参画していったのです。

そんなお福が51歳の時、嬉しい出来事が・・・
京に赴き天皇に拝謁した時のこと・・・「春日局」という称号を賜わったのです。
春日局とは、本来天皇の子を産んだ女官だけに与えられる由緒ある称号でした。
それが、徳川家の、しかも一介の乳母に与えられたのは前代未聞のことでした。

夫と別れ、人生をやり直そうと江戸城に来て40年・・・
お福は公私にわたって家光を支え続けました。
ところが・・・1643年、65歳の時に病に倒れます。
容態は日に日に悪化・・・しかし、周りがどんなに勧めても薬を飲もうとはしませんでした。
かつて家光が大病を患った時に立てた薬立ちの願掛けを今なお守っていたのです。
何度も見まいに来た家光が、書いた手紙が残っています。

”お前は私が病とならぬよう、薬断ちの願をかけ、長い間それを守ってくれた
 だが、お前に万一のことがあれば、それこそ私は心痛の余り命が尽きてしまうだろう
 お前が薬を飲むのは天下のためだ
 どうか薬で病を治し、私に長く仕えてほしい”

しかし、お福は何度頼まれても薬を口にすることはありませんでした。
困った家光は一計を案じます。

”これならば如何じゃ・・・薬を飲んでくれるか?”

家光が用意したのは、徳川家の家宝「曜変天目茶碗」・・・
家光自身、めったに使うことのない貴重な茶碗を、お福に薬湯を飲ませるために差し出したのです。

「上様のご厚情・・・有難き幸せにございます」

お福はようやく薬の入った茶碗を口に運びました。
しかし、薬はお福の喉を伝い、胸元へと流れていきました。
家光はここまでしても、自分の願掛けを破らなかったのです。
そして、お福は静かに息を引き取り、65年の人生を終えました。
1643年、春日局死去
京都にあるお福の菩提寺・麟祥院・・・家光は一体の木像を掘らせ置きました。
”春日局木像”です。
慈悲深い優しい笑みを浮かべたお福の姿・・・
命をかけて生涯尽くしてくれたお福に対しての感謝のしるしだと言われています。

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鎌倉で長い歴史を誇る鶴岡八幡宮・・・
この境内に、雄々しく凛とした社があります。
白旗神社・・・祀られているのは、鎌倉で日本初の武家政権・鎌倉幕府を開いた源頼朝です。
武家の頂点を極めた頼朝・・・その人生はまさに波乱万丈でした。
どうして流人から将軍になれたのでしょうか・・・??

流人から武士の頂点となった源頼朝・・・どうやってそこに至ったのでしょうか??

①1159年 平治の乱

1143年、頼朝は源氏を束ねる武家の棟梁源義朝の子として京の都で生まれたと言われています。
三男でしたが、嫡男として育てられます。
それは、母親の家が名門貴族の藤原家の血をひき、熱田神宮の宮司をしていたことで、二人の兄の母より家柄や地位が高かったからです。
血筋に恵まれたこと、父・義朝が後白河上皇の近臣・藤原信頼の信頼を得ていたこともあって、頼朝はわずか12歳で後白河上皇の姉・上西門院統子に仕えることになります。
その翌年の1159年、蔵人に就任・・・宮中の全ての事務、行事に関する職で、出世の登竜門でした。
そして、同じ年、頼朝は13歳で初陣を果たします。
それが平治の乱!!
父・義朝が、朝廷の実権を握ろうとした藤原信頼と共に起こした内乱です。
武家のライバル平清盛が熊野詣で京の都を留守にしていたすきに、後白河法皇の屋敷を襲撃・・・
上皇とその息子である二条天皇を幽閉したのです。
このクーデターにより、父・義朝は受領の最高峰の播磨守に・・・
初陣を飾った頼朝は、右兵衛権之佐になりました。
これは、源氏にとって大きな意味を持っていました。

右兵衛権佐は、朝廷の有力者の子弟が任命される地位で、官位が四位以上の者が命じられることが多かったのです。
当時まだ従五位下であった頼朝が命じられたことは、源氏の家柄が非常に上昇していたことを表しています。
父・義朝たちの目論見は、うまくいったはずでした。
ところが・・・クーデターを知った清盛が、急遽京の都に戻ってきました。
清盛の挙兵によって、後白河法皇と二条天皇が脱出・・・
これによって、義朝たちは一変・・・賊軍となってしまいました。
そして、清盛の武力の前に惨敗・・・父・義朝は敗走中に謀殺されます。
父とはぐれた頼朝は・・・??
平家方に捕らえられてしまいました。
元服していれば処刑される・・・頼朝も、その例にもれず処刑されるはずでした。

清盛の母である池禅尼が亡くした子供に似ているからと命乞いをしたと言われていますが、元服して戦に臨んだ敗軍の武士が処刑されることを武士の妻である池禅尼が理解できないはずはありません。
亡くした子供に似ているから・・・ではなく、頼朝の助命嘆願は圧力をかけられていたからです。
その圧力とは・・・上西門院統子と後白河法皇でした。
頼朝の母の一族に助命を懇願されたので、池禅尼に圧力をかけたのだと思われます。

1160年3月11日、頼朝は京の都を追われ、伊豆の伊東に流されます。
その身は、平家方の有力豪族・伊東祐親の監視下におかれるも、ある程度の自由は認められていました。
損なる人生活が十数年続いた頃・・・
頼朝は伊東祐親が上洛している間に、祐親の娘・八重姫と恋仲になり、男の子・千鶴丸を設けてしまったのです。
これを知った祐親は激怒!!
娘と頼朝を引き離したばかりか、なんと千鶴丸を殺害してしまったのです。
さらにその後、頼朝の暗殺まで計画・・・頼朝に再び命の危険が迫ります。

この危機にすくいの手を差し伸べたのが、祐親の次男で暗殺計画に反対していた伊東祐清です。
その祐清の手引きによって、頼朝は辛くも伊東から脱出。
蛭ヶ小島にうつるとその在庁官人だった北条時政の保護を受けることに・・・
その後、31歳になった頼朝は、時政の娘・政子と結婚。
1178年娘・大姫が生れました。
流人でありながら、おだやかな生活を手に入れたのです。
そんな中でも胸の奥には武士としての滾るものがありました。

「いつか・・・父の仇・清盛を討つ!!」by頼朝

しかし、”平家にあらずんば人にあらず”と言われるほど、清盛を中心とした勢いは増すばかり・・・
頼朝は、伊豆に流されてから20年を過ごすことになります。
流人である頼朝には、武力も何もなく、周囲も清盛が平家を攻撃するとは思っていませんでした。
本人も、平家との立場の違いに、仇討ちを諦めていたのです。

「もはや・・・平家を討つことはかなわぬのか・・・??」by頼朝

流された伊豆の地で、父の仇である平家を討つと誓いながらも、20年・・・勢力を増す平家に挙兵できていませんでした。
そんな中・・・
1180年4月、平家の権勢を良しとしない後白河法皇の皇子・以仁王が挙兵に動きます。
全国の武士に、平家を討つために立ち上がって欲しいと願ったのです。
その知らせは、伊豆にいる頼朝のもとにも届けられました。
遂に、平家に一矢報いることができる・・・!!はずでした。
ところが、以仁王の乱は、平家の知る処となって鎮圧・・・
平家の今後の出方と反平家の武士たちの動向を見極め、頼朝はどう動くのか??慎重に考えました。
頼朝は伊豆周辺の状況を見ながら、虎視眈々と味方集めをしていきます。
以仁王の乱の後、それまで源氏の一族が治めていた伊豆の国の知行国主の座に平時忠がつきます。
平家による支配が色濃くなったことで、北条氏を含む伊豆の武士たちは反発!!
頼朝はそんな彼らを味方に取り込んでいきました。
さらに・・・相模・上総は後白河法皇の知行国でした。
それが平家が知行するようになり、後白河法皇の知行国の武士たちは圧力を受けるようになったのです。
頼朝はそうした平家の圧力に不満を抱く、相模や上総の武士たちにも目をつけます。
すぐに相模に腹心を派遣し、味方に引き入れることに成功します。

「ついに・・・機は熟した!!」

②1180年 源頼朝挙兵

8月17日、頼朝は平家打倒の狼煙を上げます。
しかし・・・相模国の石橋山で、平家方の大庭景親軍と激突するも、圧倒的な兵力差で惨敗を喫してしまいます。

「まだ、兵が足りぬか・・・!!」

そこで頼朝は、更なる味方集めに奔走します。

「平家によって幽閉されている院(後白河法皇)を共に救おう!!」と。

後白河法皇のためという大義名分が功を奏したのか、上総、下総の有力武将が頼朝の味方に・・・
更には、平家に不満を持っていた関東各地の有力武将たちもが次々と合流・・・平家方の武将を倒していきました。
すると、その形勢に平家方の武将の中にも頼朝に下る者たちが現れます。
こうして頼朝は、流人ながらも強大な軍団を作り上げることに成功します。
10月6日、源氏ゆかりの地鎌倉に入り、本拠地とします。
石橋山での敗戦から、わずか1月後のことでした。
頼朝は、行きつく暇もなく、京から送り込まれている大軍を迎え撃つべく出陣!!
黄瀬川沿いに布陣し、富士川の近くに陣を構えた平家軍と対峙します。
富士川の合戦です。
両軍に走る緊張・・・ところが・・・
10月20日未明・・・一斉に飛び立った水鳥の羽音を、源氏軍の紀州と勘違いした平家軍が、慌てふためいて逃げて行ったのです。
戦わずして勝利した頼朝は、実質的に関東を支配することとなりました。
頼朝は、平家という共通の敵を作り、勝ったら平家の所領を与えることにしました。
そうやって武士たちを繋ぎとめていたのです。
この新恩給与を朝廷にも認めさせ、後の地頭という制度につなげていきます。
頼朝に従っていた武将たちは、やがて御家人となり、頼朝と御家人との間には、「御恩と奉公」という関係が生れ、これが鎌倉幕府を支える基本となっていきます。
20年間流人として生きてきた頼朝には、東国の武士たちが何を望んでいるのか・・・それを知っていたからできたことです。

この合戦後、運命的な出会いをすることとなります。
腹違いの弟・義経との初体面です。
平時の乱の混乱のさ中に生れた義経は、幼いころに京の鞍馬寺に預けられるも、打倒平家を胸に京の都を脱出、奥州・平泉へ・・・!!
藤原秀衡の庇護を受け、武士として立派な成長を遂げていました。
そして・・・義経は、兄の挙兵を聞きやってきたのです。
二人は涙しながら語り合ったと言います。
こうして頼朝と義経は、力を合わせて打倒平家に邁進することとなるのです。

③1181年 平清盛死去

関東の武士たちを味方につけ、富士川の合戦で平家軍に勝利した頼朝は、鎌倉を拠点に実質的に関東を支配することになりました。
しかし、頼朝は平治の乱で平家に敗れて以来、いまだ朝廷に弓を引いた謀反人のままでした。
そこで、上洛して後白河法皇に近づき、どうにかして謀反人の立場をといてもらおうと考えていました。
その策は・・・平家の打倒と後白河法皇の救援と建前として上洛することです。
ところがそんな頼朝のもとに衝撃的な報せが・・・!!
平家を率い、強大な権力を有していた平清盛が熱病で急死したのです。

「なんと!!あの清盛が死んだ・・・??」

清盛の死で、頼朝の策は破綻します。
大黒柱を失った平家が政権を返上したことで、後白河法皇の院政が復活!!
頼朝が上洛する理由が無くなってしまったのです。



そこで頼朝は驚くべき策を・・・!!
源氏と平家の和平です。
頼朝は後白河法皇に書状を送り、こう申し入れます。

❶院(後白河法皇)への敵意はない
❷これまでの行動は、院の救済が目的
❸院が平家の滅亡を望まない場合は、朝廷の支配のもとで源氏が東国、平家が西国の治安維持を担当する

後白河法皇は、この頼朝の案に興味を示しますが、平家は猛反発します。
亡き清盛の遺言があったからです。

「かならずや我が墓前に頼朝の首を供えよ・・・!!」

結局、和平は結ばれませんでした。
しかし、これはすべて頼朝の思惑通りでした。
頼朝も、平家と和睦できるとは思っていませんでした。
この案を出すことで、後白河法皇の信頼を得ようとしたのです。
後白河法皇や朝廷の信頼を得るために、実現しないであろう和平工作を上奏したのです。
実際法皇は、突っぱねた平家に不信感を抱き、頼朝に近づいていきます。
こうして上洛への道筋を作った頼朝・・・その最終目的は、謀反人の汚名を雪ぎ、朝廷を守る唯一の官軍になること・・・しかし、横やりが・・・!!

④1183年 木曽義仲 上洛

それは、同じ源氏・いとこの木曽義仲が先に上洛。
平家を都落ちさせてしまったのです。
おまけに義仲は後白河法皇に面会、平家追討の宣旨を受けました。
一説にはこの時義仲は、頼朝を謀反人のまま据え置くように働きかけたと言います。
こうして後白河方法の信任を得た義仲が、頼朝より官軍として平家追討軍を率いることに・・・!!
頼朝は、上洛の機会を逸してしまいました。
ところが、義仲軍の兵士たちが、京の都で乱暴狼藉を働いたことで、後白河法皇が激怒!!
これを知った頼朝は、すぐさま後白河方法に使者を送り、如何に自分が法皇のために力を注いでいるのかをアピール・・・その苦労が実ったのか・・・

1183年10月9日・・・
頼朝は朝廷から謀反人の立場をとかれ、従五位下に任じられます。
14歳で伊豆に流されてから23年・・・37歳でようやく少年時代の官位に返り咲きました。
そして、この5日後・・・朝廷に認めさせたのが・・・

❶東国にある荘園の年貢や税は、頼朝が徴収して、朝廷や荘園領主におさめる
❷これに違反する者がいれば、朝廷は頼朝に追討を命じることができる

これにより頼朝は、名実ともに関東の支配権を得ます。
京の都では、後白河法皇や朝廷の信頼を失った木曽義仲を追討のため、頼朝の上洛を期待する声が・・・!!
その声に応え、頼朝が今日に派遣したのが弟の源義経でした。

1184年1月・・・
義経は宇治川の合戦で義仲軍と激突!!
見事、義仲を討ち取りました。
これで、ライバルがいなくなり、頼朝が平家追討の旗頭となったのです。

⑤1185年 平家滅亡

頼朝は平家追討のために、弟の義経を西国に派遣。
兄の期待に応えるように、義経は一の谷の合戦や屋島の合戦で奮戦し、平家を追いつめていきます。
そして、1185年3月・・・壇ノ浦の合戦で平家軍に勝利!!
頼朝の挙兵から4年半・・・ついに源氏が平家を滅ぼしたのです。

平家を滅亡させた功労者となった義経・・・
父も兄もなくしていた頼朝にとって、義経の存在は心許す唯一の存在でした。
そんな義経を、頼朝は自分の子として迎え入れ、後継者にしようとしたほどでした。
ところが・・・頼朝は、次第に義経と対立を深めていきます。
1184年8月6日、義経は法皇から左衛門少尉を与えられ、検非違使の職を宣旨られます。
義経は、源氏の権威が上がったと、兄頼朝も喜んでくれると思いました。
しかし・・・平家追討に対する恩賞を誰に与えるのかは、自分が申請すると朝廷に申し出ていた頼朝は、自身の許可を得ず官職をもらった義経に激怒!!
これが、頼朝と義経の対立の原因だと吾妻鏡には書かれています。
しかし・・・頼朝は、義経が検非違使になった後も、後白河法皇との取次などを任せています。
むしろ、頼朝は義経を検非違使に推挙していた可能性もあるのです。

⑥1189年 源義経 追討

血を分けた兄弟である頼朝と義経・・・
二人はともに平家打倒の宿願を果たしましたが、その後激しく対立!!
頼朝は実の弟である義経を死に追い込んでいくこととなります。
どうして頼朝は弟の義経を追討したのでしょうか?

通説では、頼朝は自分の許可も得ずに検非違使の職をもらったことに激怒し、二人の対立の原因とされてきました。
義経の検非違使就任は頼朝も了承していた可能性があります。
問題だったのは、義経が検非違使の職にとどまり続けたことだったのでは・・・??

対立の理由
❶検非違使留任問題
頼朝は平家追討の勲功として義経に伊予守の官職を与えるように推挙していました。
京の都の治安を守る検非違使は、京に留まる必要があります。
しかし、伊予守などの受領は、必ずしも現地に行く必要がありません。
頼朝は義経を伊予守に就任させ鎌倉に呼び戻し、自分の近くに置いておこうと考えていました。
ところが、義経は、伊予守の職をもらった後も、辞任しなければならない検非違使に留任し、京の都に居続けたのです。
これに頼朝は腹を立て、二人の仲に決定的な亀裂が生じたのです。
頼朝は、自分の軍が朝廷を守る唯一の官軍になることを目指していました。
しかし、義経は検非違使として京に留まることで後白河法皇の直属軍になる可能性がありました。
義経の検非違使留任が、頼朝軍を唯一官軍にする大きな妨げとなったのです。

❷後継者問題
弟義経との初体面から2年・・・
1182年8月に頼朝の嫡男・頼家が誕生。
我が子を跡継ぎにしたい頼朝は、弟・義経の存在を疎ましく思うようになっていきます。
義経が源氏の後継者となり、よりいrが退けられることを頼朝は恐れていました。
下手をすれば、源氏が二つに分裂し、頼朝が築いた権力が消滅する危険性があったのです。
頼家を後継者にする弊害となり、源氏内の派閥闘争の火種となる義経を排除したかったのです。

1187年、義経が藤原秀衡を頼って平泉に到着。
一方、頼朝は義経追討の宣旨を受けます。
しかし、秀衡の強大な軍事力を前に、頼朝は手を出せずにいました。
ところが・・・10月29日、秀衡は病死。
頼朝は義経追討に動きます。秀衡の後継者である泰衡に圧力をかけ、義経と奥州藤原氏の分裂を画策。
泰衡は家を守るために義経を攻撃することに・・・!!
追いつめられた義経は・・・
1189年4月30日、義経自害!!
その後、頼朝は平泉に兵を送り込んで、強大な力を有していた奥州藤原氏を滅ぼすのです。
これで敵対する武家勢力は消滅・・・頼朝は遂に武家政権の頂点に立ったのです。

⑦1192年 頼朝 将軍就任

弟である義経や、奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、1190年11月7日、上洛。
一千騎の兵を従えて堂々たる行列で京の都に戻ってきました。
14歳で都を追われてから30年の月日が経っていました。
この時頼朝は武官の最高位・右近衛大将に任じられ、名実ともに武士の最高位に上り詰めるのですが・・・
わずか9日後に辞任して鎌倉に帰ってしまいました。

右近衛大将は、朝廷の政務、儀式への参加が主な仕事・・・京の都に絶えずいなければなりませんでした。
頼朝は拠点とする鎌倉で体制を盤石にすることを優先しました。
頼朝は、鎌倉にいても務まる権威ある官職を朝廷に求めます。
そうして2年後、朝廷から賜ったのが・・・
1192年、征夷大将軍・・・46歳でついに流人から将軍となりました。
その3年後、頼朝は再び上洛。
妻・政子、嫡男・頼家、娘・大姫らを引き連れてのことでした。
頼朝は、娘の大姫を、時の後鳥羽天皇の妃にしようと考えていました。
朝廷の有力者に大姫を紹介し、後鳥羽天皇との縁談を取り持ってもらおうと・・・
大姫を入内させ、男子が生れればそれは天皇・・・源氏は天皇の外戚となり、強大な権力を得ることができます。
大姫を嫁がせることで、源氏と北条氏の権威が上がると頼朝は考えていました。
源氏と北条氏が天皇の縁戚となり、高い権威を持つことで、幕府の安定を図ろうとしたのです。

ところが・・・入内を待たずに娘の大姫は入内を待たずに病死・・・。
20歳だったと言われています。
かなしみいえぬままに大姫の代わりとしてその妹の入内計画を始めますが・・・
最後の願いはかなわず・・・
1199年正月13日、源頼朝、53歳で病死。
志半ば・・・波乱に満ちた生涯でした。

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