日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

日曜日は、娘のエレクトーンの発表会のようなものがありました。

なので、終わった後は、パパの方のおばあちゃん、私の両親も含めてお食事に行くことになりました。

行ったのは・・・
がんこ「六三園」です。

P6240513.JPG

お料理はこんなかんじ。。。
P6240523.JPG

320x320_rect_11233065[1].jpg

320x320_714166[1].jpg


で、この六三園は・・・

大正時代に大阪・堂島の米穀取引所で活躍した伝説の相場師・和歌山県橋本出身の松井伊助(1865~1931)の持ち物でした。

和歌山の米相場師だった父に幼いころから鍛えられ、13歳で大阪に奉公に出た後、30歳になるかならないかで相場師として頭角を現しました。

米相場で大もうけして取引所の株を買い占め、北浜に進出、株式取引で巨万の富を築きましたが・・・

米騒動が起きた1918年、米の暴騰に手を焼いた寺内正毅内閣は、「今太閤」と呼ばれるほどになっていた松井に「米価を下げて社会不安をなくすために相場に水をかけてくれ。あんたしかおらん」とフィクサーを通じて頼み込んだので。。。
巨額の損も覚悟で松井は引き受け、米を売って売って売りまくり、「世直し大明神」と庶民から称賛を浴びたといいます。
 その松井伊助が63歳になった1928年に和歌山市に立てた別荘が「六三園」です。
完成当初の敷地面積は6,300坪(約21,000㎡)と言われ、面積も「六三園」命名の由来だとされています。

屋敷の玄関先には北浜での松井伊助の活躍を記念して、北浜に近い堺筋の難波橋の橋詰4カ所に松井が寄贈した天岡金一作のライオン像と同じものを1頭置きました。


P6240516.JPG

これかしら???


 六三園は戦後、一時米軍に接収されたが、1952年に和歌山銀行(当時は和歌山相銀)のオーナーだった尾藤家が買収して高級日本料理屋を開きました。しかし、和歌山銀行は2006年に紀陽銀行に合併され、六三園も尾藤家の手を離れます。


買収したのは、和歌山県上富田町出身で関西経済同友会の代表幹事も務めた「がんこフードサービス」の創業会長、小嶋淳司氏で、高級料理屋は、大衆路線の「がんこ六三園」に生まれ変わったのです。現在の敷地面積は2,000㎡ですが、大座敷から広縁を通して見る回遊式庭園の見事さは変わりません。


P6240534.JPG


P6240531.JPG

綺麗な自慢の庭を眺めながら、楽しくお食事が出来ました。黒ハート


私の母は、ここら辺の出身なのですが・・・
軍に接収されたときは、入り口にアメリカ兵が立っていたことなんか覚えていまして・・・

そして、自分家も接収され、家を追い出されたことを話していました。

お母さん・・・それって、もう耳タコですよ。。。揺れるハート


本当に、自分の身近にも、こんな歴史が埋もれているなんて・・・
そんなことを感じながらお食事するのも楽しいかもしれませんね。揺れるハート

にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

芸術・人文 ブログランキングへ

真実の近現代史 田原総一朗の仰天歴史塾

新品価格
¥1,050から
(2013/6/9 20:50時点)




久々、1か月ぶりの仰天歴史塾です。

楽しいです。

いつも、毎週してくれないかなあ・・・と、思いながら、この品質を保つためには月1回が限界なのかもしれませんね。黒ハート

今回は、~戦後復興と日米安保・吉田茂と岸信介~です。

1960年、国会周辺は、史上最大の騒乱・・・安保闘争で揺れていました。

日米安保の生みの親・・・吉田茂は、戦後復興の為に占領軍と対峙し、独立させました。
その時、安保が生まれたのです。
再軍備を避け、復興をしようとした吉田・・・

そして・・・その安保を改定し、安保を覆そうとしたのが岸信介でした。
憲法改正に臨もうとする岸・・・

2人の政治路線が安保で交わる時・・・
日本の政治が揺れました。

時を超えた路線構想は、今を持ってもまだ終わっていません。
ここに、戦後日本の原点がありまあす。

日本は戦後、占領軍・・・主にアメリカ軍の支配下に置かれました。
そのGHQ最高司令官が、ダグラス・マッカーサーでした。


マッカーサーは、
①日本を民主国家にすること。
②特にアメリカと戦争をしない国にすること。
が目的でした。

群を解体し、天皇を裁判にかける???

きちっとした天皇陛下に対し、ラフな格好のマッカーサー・・・
「天皇は現人神ではない・・・」
新聞の写真を見た日本人はショックを受けます。

imgtennoh[1].jpg


この時の会談の内容は・・・

天皇「・・・戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身あなたの代表する諸国の裁判に委ねるためおたずねした。」

マッカーサー「・・・明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までもゆり動かした。」

と、マッカーサーは懐古しています。

マッカーサーは、当時、命乞いに来たと思っていたのです。
    ↓
世界一のジェントルマンだ!!
と言うことで、裁判を回避しようと考えるのです。

天皇の地位を守ろうとします。
天皇をそのまま象徴として使うことに決めました。
陸海軍の武装解除の時も・・・普通なら反乱がおきるところですが、解体自体を「天皇の命令」としたので、反乱は起きなかったそうです。

その占領下にあって、マッカーサーと対立、対抗したのが吉田茂です。

GHQは、日本の弱体化を狙っていました。
重工業の設備を取り上げ、他の国に分配しようとします。
その為に邪魔な政治家を次々と公職追放します。

占領軍と渡り合える政治家を排除していきます。
その中で排除されなかった人物、どの政党にも属さず、議員でもなかった男・・・「吉田茂」です。
外交官出身で、後にワンマン宰相となる強烈な個性を持つ男。

吉田は、戦後復興の為に立ち上がります。

「日本を豊かな国に作りなおす!!占領軍と戦わなければならない」と思いました。

この吉田茂・・・
明治11年東京神田に生まれます。
明治34年学習院に入学。後に、東京大学卒業。
明治39年28歳で外務省に入省します。

当時の花形は、欧米に行く中、吉田は中国・済南領事となります。以後、天津・奉天総領事を歴任。
昭和21年68歳で第45代内閣総理大臣となります。

その間に・・・日本国憲法発布・サンフランシスコ講和条約調印・日米安全保障条約調印と、、、大きな足跡を残します。

何故・・・吉田が首相になれたのか?
それは、戦争中に憲兵隊に逮捕されていたからです。
「落日燃ゆ」でもそうでしたね。

落日燃ゆ [単行本] / 城山 三郎 (著); 新潮社 (刊)
落日燃ゆ [単行本] / 城山 三郎 (著); 新潮社 (刊)

何故逮捕されたかというと・・・
まだ戦争中に・・・近衛文麿と一緒に、東條英機を失墜させようとしたからです。
しかし、近衛家や吉田家にいたお手伝いさん・運転手はみんな、東條のスパイだったので、筒抜けでした。
近衛を逮捕するわけにもいかず、吉田を逮捕。。。

この「東條を辞めさせようとしたこと!!」が勲章となって、首相の座まで駆け上がるのです。

ワンマン宰相と言われた吉田茂。
どの政党にも属さない吉田が首相の座につくことになりました。
戦争反対を唱えていた吉田は、GHQに受け入れられ、生き残ったのです。

この逮捕の一件は・・・
戦争末期、誰の目にも敗戦は明らかでした。しかし、軍部の反対もあり、「どのように敗戦を受け入れるのか」「どのタイミングで敗戦を申し入れるのか」が問題となっていました。
そんな中、吉田は宮中を巻き込んで、降伏のための工作をしたのです。

外交官の吉田が首相となる・・・それはひとえに占領軍と交渉できる能力が求められたからなのです。

この時期、GHQは日本の弱体化を図っていました。
しかし日本は、GHQの意図を外し、復興する必要がありました。

吉田は占領軍と渡り合い、日本を独立させるために戦うことになります。

「戦争に負けて、外交に勝つ」

実は、戦後第1回の選挙で勝ったのは、当時の「鳩山一郎」が総裁の自由党でした。
だから、鳩山が首相となると誰もが思っていたのですが、GHQにより、公職追放されてしまいました。
後に戦争反対を唱えていましたが・・・リップサービスが豊富で、軍隊やヒトラーを褒めたことが一因と言われています。

だから、吉田茂が首相となったのです。
政治家でない男が首相となりました。

吉田茂の総理大臣就任条件は・・・
①資金作りは一切やらない
②閣僚の選考に口出しは無用
③辞めたくなったらいつでも辞める
鳩山一郎の回顧録には・・・
④GHQの追放が解けたら首相の座を鳩山一郎に返す・・・とあります???

しかし、返さなかったので、後にケンカのもとになりますが、本当に④はあったのでしょうか???

マッカーサーのしたこと・・。
追放と戦犯処理・・・
次に、憲法。

1946年11月に公布されました。
GHQは、そこでは、集会、結社、言論、宗教の自由、国民主権、男女同権などの基本的価値観を示しました。

第一条 天皇は、日本国民の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく

戦前は、主権は天皇にありましたが、国民主権とし天皇を象徴としました。

第九条  
①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する

②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない
 国の交戦権は、これを認めない

第1項では安全保障を放棄しています。

日本の上層部はこれを受けて、「日本人が日本国を守れないなら、アメリカに守ってもらおう」という考えに変わっていきます。

平和のためには安全保障がいるのに、その安全保障を考えないことにし、経済の復興ののみに、心血を注ぎました。

しかし、米ソ冷戦が始まります。
1947年にトルーマン・ドクトリンで、ソ連・共産主義の封じ込めが始まります。
1948年チェコスロバキア政変
1948年ベルリン封鎖
1950年朝鮮戦争
1962年キューバ危機

日本を弱くしようと思っていたのに・・・強くしようという考え方に世界が動き始めます。

WTO(1955) VS NATO(1949) です。

世界を二分し、ソ連とアメリカの覇権争いが30年近く続きます。

1957年ソ連がスプートニク号の打ち上げに成功。
科学の力を見せつけます。。。
宇宙軍拡競争へ・・・

アジアにおいては・・・
1949年中国で毛沢東率いる共産党が勝利。
東南アジアでも共産主義勢力が力をつけます。

そんな中、アメリカの考え方が変わり始めました。

1950年朝鮮戦争勃発
この戦争で、在日アメリカ軍が殆ど朝鮮に出兵してしまいます。
がら空きになった日本。。。
1950年8月、マッカーサーは警察予備隊(今の自衛隊)を作ることを吉田に要請。
半島の混乱で、日本の軍事的価値が上がったのです。

アメリカは、日本の弱体化政策を変えなければならなくなりました。
そこが、吉田の・・・日本の独立の千載一遇のチャンス。

1950年 警察予備隊発足     7万5000人
1952年 保安隊(保安庁設置)  11万人
1954年 自衛隊(防衛庁設置)  陸上 13万人
                海上 1万5000人
                航空   6000人 

この警察予備隊は軍隊なのか???
おまけにGHQは共産党を怖がって、非合法としてしまいました。

アメリカが自由にしてくれたのに・・・
レッドパージが始まります。

1951年9月サンフランシスコ講和条約
アメリカは、日本の独立を遅くしようとしていたけれども、冷戦に対抗するためにはそうも言っていられなくなって。。。

アメリカは最前線の拠点にしようと考えました。
対日平和条約調印。

48か国調印していますが、、、ソ連や中国は入っていません。
そして、48か国の中には日本の独立に反対している人々もありました。

その講和条約を結ばせるために、吉田茂は池田勇人を密使としてワシントンに送り込みます。
池田は、ジョセフ・ドッジと密談。

講和の見返りに、アメリカ軍の駐留を認めることを伝えます。
その工作をして、締結にまでこぎつけるのです。

しかし、吉田にはもう一つの署名が待っていました。
日米安全保障条約の調印式です。
これこそ、吉田がアメリカに提案したみかえりでした。

アメリカ軍の駐留継続をする安保が交換条件だったのです。
駐留する代わりに、群を持たずに守ってもらえる・・・
アメリカ軍の傘下に入れば、軍を持つ必要もない。。。持ちたくない吉田は安保を選んだのです。

しかし、日本人からはたった一人で署名します。
この日米安保条約の内容は、かなり不平等なものでした。
吉田は、安保条約には問題があると思っていたのです。

基地をつくる場合、相談しなくてよい
日本防御の義務なし
期限は無制限

こんな内容でしたが、吉田の中では、いくら不平等であったとしても日本の独立を最優先にしたかったことが伺えます。

国内で吉田に対する批判が始まります。
「憲法を改正すべきではないか???」

その後いろいろな問題が出てきます。

吉田は佐藤栄作の造船疑獄に対し指揮権を発動し逮捕を止めたり、「バカヤロー」解散をしたり・・・
何より、鳩山一郎が帰ってきたのに首相の席を譲らない。。。

ここで活躍しだすのが、岸信介です。

その話は、また後で。。。

↓ランキングに参加しています。るんるん
↓応援してくれると嬉しいです。黒ハート

にほんブログ村 経済ブログへ
にほんブログ村にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

政治 ブログランキングへ

100分でわかる! シリーズ2日米安保条約からロッキード疑獄 (一般書)

新品価格
¥1,260から
(2013/6/9 20:50時点)



100分でわかる! シリーズ3中曽根政権から豊かな時代の崩壊 (一般書)

新品価格
¥1,260から
(2013/6/9 20:51時点)


天下一の茶人とは誰か???

多くの人は、千利休と言うでしょう。
秀吉の元で、詫びの茶を作り上げ、茶人の立場から政治にかかわった利休。
その利休の陰で、歴史に葬られた男・・・
昭和の初め、岐阜県で陶器の破片が数多く見つかりました。

それを見た昭和の陶芸家・加藤唐九郎は・・・
「一目見て、惹きつけられてしまった・・・」と驚き、

北大路魯山人も、
「千変万化して、実に立派である」と評しました。

その焼き物の名は「織部焼」

その織部焼の名の由来となったのが、古田織部です。

信長・秀吉・家康の三人の天下人に仕え、戦国の世を茶の湯と言う一芸で生き抜いた文科系戦国武将。

「へうげもの」と呼ばれた作品を数多く作り出しました。
今、この漫画が売れています。

へうげもの 1~最新巻(モーニングKC ) [マーケットプレイス コミックセット]

新品価格
¥8,900から
(2013/6/9 20:54時点)




「へうげもの」とは、「ひょうきんもの」「ふざけたもの」「お調子者」と言う意味です。
利休の亡き後、秀吉・家康のNo,2となり、茶の湯で個性的な美を天下に知らしめました。

この織部、もともとは、織田信長の使い番でした。
織部の「使い番」の仕事とは、織田・豊臣時代に各地に命令を伝え、軍中を巡視し、情報を伝える役目のことです。
つまり、若手の幹部候補生でした。

1544年美濃に生まれます。200石の田舎大名でした。
17歳の頃、信長に仕えます。
これによって、織部の人生が変わるのです。

使い番として信長に仕え、信長を美の革命家として憧れていました。

「自分が気に入れば、それは美しい!!」
その考えが、織部を変えます。


当時最先端の文化だった茶の湯。二部長は、名物と呼ばれる茶道具が高価だったことに着目・・・
名物狩りとして、京都で買い上げ、武勲のあった者に与えました。

「美しい名物をわが手に!!」

みんな、一心不乱に頑張ります。

松永弾正久秀・・・この人は、戦国一悪い人で有名です。
13代将軍を殺し、主君を殺し、奈良の大仏を焼いた男です。
しかし、自分なりの美意識は持っていました。
この美意識、太平の世とはちょっと違うのです。


松永久秀が謀反の時は・・・
信長は、謀反を許す代わりに「平蜘蛛の茶釜」を献上せよと、引き換えにしようとしました。
しかし、久秀は断固拒否。
「平蜘蛛の茶釜」に火薬を詰めて、自爆します。


茶の湯大名・荒木村重謀反の時は・・・
武士としての名誉を捨て、城も正室も・・・家臣も何もかもの全てを捨てて、茶器とともに逃げ出す村重の姿がありました。
この荒木村重・・・のちに秀吉の茶人として生きたと言われています。

そんな中、古田織部も・・・
「武」か「茶」か・・・二つの道で悩んでいました。

どうして、この茶の湯が流行したのでしょう・・・。
茶の湯御政道と呼ばれます。これは、茶の湯を政治的に利用した信長の政策のことですが・・・。

茶の湯には二つの流れがあります。
美術として茶器を鑑賞する・・・室町様式と呼ばれ、鑑賞したり批評したりのためには、教養や知識を必要としました。
もう一つは・・・飲むという行為です。
「けっこうなおてまえでした。」教養のない武士でもできることでした。
そして、茶器の批評にしても・・・
利休好みと言うのが出てきます。そのまま、利休が良い!!と言えば良いもの!!と言うものです。

しかし、明智光秀の謀反によって、信長は死んでしまいました。

次にトップに立ったのは・・・
農民から天下を取った秀吉・堺の魚屋から天下の茶人となった利休。
2人は戦国の世に、新たな力を作ろうとしていました。

詫びの茶を考案します。
茶の湯をネットワークとし、全国の大名を把握、フィクサーとして秀吉のNo,2となった利休。

その利休の元で、武将茶人として生きることを選択します。
そんな利休に人生の教えを授かります。
「人と違うことをせよ」

利休の弟子は・・・「高弟七人」と呼ばれています。
蒲生氏郷・細川忠興・古田織部・柴山宗綱・瀬田正忠・高山長房・牧村利禎
その中でも、最高の弟子は、織部と言われています。

1585年秀吉より3万5000石を拝領し、大名へ。
織部十作を選定。

そして、織部のチャンスとなった北野大茶の湯。
唯一無二の茶の湯が発表できる!!
才能を開花させていく織部。。。

その頃から、師が秀吉と対立し始めていました。
それは、美意識の違いから始まったものでした。
利休のわびさびの極致を具現化したものは、「黒楽茶碗」でした。
しかし、秀吉は黒は陰気だとして、派手な「楽茶碗」を使い始めました。

それを見ていた三成は、利休を苦々しく思っていました。

そして・・・大徳寺山門の2階にある利休像に対して・・・いちゃもんをつけだしました。
もし、秀吉が大徳寺に参る際は、利休の下をくぐるのか!!と。。。

そして、もう一つは、価値のない茶器に法外な値段をつけて儲けていると・・・。

これによって、利休は切腹に追い込まれました。

人生の師を失った織部に対し、秀吉は。。。
「織部よ
   そなたが利休の 
      あとを継げ」

新たに武家流の茶をつくるように命令します。
それに呼応して、一新する織部。

小宇宙だった3畳に・・・窓を8個作り明るくし、相伴席をつくることで、身分に差をつけました。

いろいろなデザインの椀を作ります。
それは、町人の噂にまでなり、量産をしました。
それは全国に広まり、初の流行を生み出しました。
「織部焼」です。

昭和に入って再現された織部焼はこんな感じ。

中鉢 織部錆紋 角鉢 和食器 美濃焼

新品価格
¥2,520から
(2013/6/9 20:56時点)




それは、戦国とは違う新しい時代を織部に造ってほしかったのかもしれません。
茶道としての秀吉のNo,2となりました。


そんな秀吉も亡くなり・・・
利休がそうであったように、家康は、織部を無視できない存在になっていました。
そこで、秀忠の茶道指南役とします。

関ヶ原では東軍についていた織部。徳川との関係は、上手くいっているかのように見えました。
しかし家康は、織部の美に対して恐怖を抱き始めます。

秩序に収まらない・・・とらわれない自由な発想。。。
それは、下剋上の精神を煽るのでは???

豊臣・徳川、どちらからも信望のある織部。。。彼は、もろ刃の剣でした。

家康は、方広寺の「君臣豊楽」「国家安康」に目をつけました。
いちゃもんをつけ、それを書いた清韓禅師は蟄居となりました。

その清韓禅師を、織部は茶会に呼びます。
そこに、かつての利休を見てしまった家康・・・

家康に切腹の名を受けた織部は・・・

1615年 自害 享年72歳でした。

死後徳川家は、古田の存在を抹殺しようとしました。
20年で織部焼は失われてしまったのです。

織部の何を怖れたのでしょう。
「織部好み」は、家康の理解を越えていました。
解らないからこそ怖い!!

これから築こうとする泰平に対して、反逆しかねないと思ったのかもしれません。

そして、織部は、師である利休同様、死ぬことによって、自分の茶道を守ろうとしたのでした。

家康から、この織部の後を命じられた弟子の小堀遠州は、3代将軍家光に仕え、天下泰平の世に相応しい、「綺麗さび」の手法に一新しました。茶の湯だけではなく、庭など・・・総合芸術家となりました。

↓ランキングに参加しています。るんるん
↓応援してくれると嬉しいです。黒ハート
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

へうげもの 古田織部伝―数寄の天下を獲った武将

新品価格
¥1,890から
(2013/6/9 20:56時点)


日曜には、娘のエレクトーンの発表会でした。

親としては、ハラハラドキドキものでしたが・・・。

そこで、いろんな曲の中で~江~のオープニングテーマをひいた女の子がいました。

NHK大河ドラマ 江 姫たちの戦国 完全版 Blu-ray BOX 第壱集 / 上野樹里, 宮沢りえ, 水川あさみ (出演)
NHK大河ドラマ 江 姫たちの戦国 完全版 Blu-ray BOX 第壱集 / 上野樹里, 宮...
NHK大河ドラマ 江 姫たちの戦国 完全版 DVD-BOX 第弐集 / 上野樹里 (出演)
NHK大河ドラマ 江 姫たちの戦国 完全版 DVD-BOX 第弐集 / 上野樹里 (出演)

エレクトーンの調子が悪かったのか、一回詰まって引き直しをしていました。

他人の子だからでしょうね。
”頑張れ!!”と思う気持ちで涙があふれてきました。

自分の子だとそうはいきません。
なんせ、ひけるかどうかドキドキでそんな、涙も出ませんexclamation&question

そして、その音楽とともに、去年の~江~が蘇えってきました。

なんだかんだと批評しながら観た作品でしたが、音楽のきれいさ・・・毎週聞いていたはずなのに、解っていなかったのですね。

やっぱり耳で聞くだけ!!それが、耳を繊細にさせてくれたのでしょうか!?
とっても良い音楽だったと、今更ながら思いました。

とりあえず、皆様お疲れさまでした。揺れるハート



にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

第24回 「清盛の大一番」

1156(保元元)年7月、讃岐へ流罪となった崇徳上皇はひっそりと京を離れていきます。その姿をかつて崇徳上皇と親交のあった最近どこにでも出てくる西行が見送っています。



保元の乱の敗者たちが一掃され、後白河天皇のもとで実権を握る信西の政治改革が始まりました。

う~ん、、、この人の独り勝ちのようです。
最近のお公家さんたちは、近年まれにみる悪どさを感じさせてくれます。


信西は手始めに内裏の修復に着手し、1157(保元2)年にはみごとに完成。満足げに内裏を見つめる後白河天皇に信西は、平清盛ほか平氏一門がいかに貢献したかを語りました。

ここで、清盛と組んでいることを視聴者に強調して・・・
後白河の気持ちを逆なでております・・・あせあせ(飛び散る汗)


恩賞として平氏一門の官位はそれぞれあがることになりましたが、清盛の公卿昇進は見送られ・・・
代わりに長男・重盛が従五位上にのぼることになりました。満足げな清盛をよそに浮かない顔の重盛は、弟の基盛に本音を話します。大叔父・忠正を斬れと命じた信西につき従う父・清盛が理解できなかったのです。

やはり、「いいひと」に書いてくれています。
でも、重盛、あなたはこれから先、もっともっと苦しむことになるので・・・。
そこは気をしっかりと持ってね。揺れるハート

次に信西は、新しい内裏で相撲節会(すまいのせちえ)などさまざまな宮中行事の復興を計画し、その資金を得るために全国からあまねく税を取り立てることを徹底させます。そして清盛には、かねてより租税の集まりが悪い鎮西(九州)に行き、大宰府から相応の税を取り立てよと命じます。

清盛は、見返りに大宰府を取り仕切る大宰大弐(だいに)の官職を要求し、さらに私利私欲のために平氏を使うつもりならば容赦しないというと信西は、この先自分の言葉がうそだったときには、首をはねても良いと覚悟を語りました。

公家にしては、肝が据わっていますが、本当でしょうか???


そのころ、後白河天皇とその皇子・守仁は、玉座をめぐって対立。守仁の養母・美福門院が譲位を迫っていますが、後白河天皇は応じません。
本当に、美福門院は権力に固執していますね。。。
近衛帝の時に、鳥羽上皇の前で反省し、改心したんじゃないんでしょうか???
それって、男はいさぎ良いけど、女は悪いってこと???

でも、女は子供を育てないといけないですから・・・
やはり歴史上、いさぎよく散った女性はなかなかいませんからね・・・。
仕方ないのでしょう。るんるん

清盛邸をたずねていた藤原成親は、本来政治に興味のない後白河天皇の真意をとらえかねていましたが、清盛は後白河天皇が美福門院の心をもてあそんでいるのだと推測します。
怪物には怪物のことがよく理解できるようです。

そして清盛は鎮西に向かい、大宰府を手に入れると大胆な宣言をして去っていきます。清盛の妻・時子は、戦によって肝のすわった清盛ならば本当に手に入れるだろうと成親に告げます。やっと、女房になってきました。

一方、清盛と同じく戦の始末で肉親を斬った源義朝でしたが、左馬頭という低い官職にとどまったままでっす。
おまけに、「父殺し」のイケナイうわさまでたてられて・・・嘲笑されて、最悪です。。。

恩賞をもらうべく信西を訪ねる義朝でしたが、信西に会うことすらできず、藤原師光に冷たくあしらわれてしまいました。

ああ、可哀想です。義朝!!
公家にとっては、源氏はその程度なのです。。。
っていうか、平氏はすでに清盛のおじいちゃんが頑張って、頑張って、貢いで貢いで頑張っています。

東京に遷都するまで、ヤマト政権ならばやはり、平氏の方が雅でしょう。。。

やっぱり、ここまでされるからこそ、次の回に繋がるのです。黒ハート

代わって・・・鎮西にわたった清盛は、大宰府で接待を受け、珍しい宋の茶をふるまわれます。
やがてあらわれた大宰府役人の長・原田種直に豊かな鎮西にしては京に届く租税が少なすぎることを問い詰めると、鎮西一帯の暴れ者たちを手なずけるためにそのお金を使うからだと言います。


なんだか清盛、ついたり引いたりの術が使えるようになってきたようです。

一旦、その場を去った清盛は元海賊の兎丸たちを引きつれ再度種直をたずね、彼らを使ってふらちな者をこらしめる手助けをしようと言っておどし、更に平氏一門と組みともに力をつけようと持ちかけ、私腹を肥やしていた種直を制圧しました。

こうして手にした米を清盛は相撲節会の資金にあてるため、信西に届けます。不服な兎丸に、これは自分と朝廷との相撲だと告げる。京に運び込まれる米を満足げに見る信西に、清盛は相撲節会の宴の膳も自分に用意させてくれと頼むのでした。

また、藤原成親は自分の妹・経子と重盛の縁談を申し込みます。
そう、やはり、平氏の権力は、もう、無視できない状況にまで来ています。
平氏の”お金”がないと、公卿さんたちは生活できなくなってきています。失恋


清盛はどこかためらいのある重盛に、
「今が一門にとってどういうときがわかっておろうな」
と言い放ちます。

その時、私も言いました。
「大人になったな。。。清盛!!」

そう、その言葉は清盛が亡き妻・明子を身分が低いながらも妻にしたいと父に申し出たときに、家臣・家貞から言われた言葉でした。家貞は感慨深く、その記憶を盛国に告げると、盛国はその時より一門の背負っているものがはるかに重くなったからだと告げます。そんな盛国を家貞は頼もしく思うのでした。
一方源氏では、義朝の妻・由良の働きかけで頼朝が後白河天皇の姉・統子内親王に仕えることになりました。

しかし、その祝いの席で由良が突然病に倒れてしまいます。
いくら強気な賢い妻も、この状況では心労がかさんだのでしょう。

義朝は相撲節会の準備に追われる信西をたずね、またまた清盛と同等の国を願いでますが、信西は取り合いません。

ああ、なんだか、義朝が”いとあはれ”です・・・。
でも、これが次の回に・・・って、もういい??


後白河天皇が見守る中で相撲節会が開かれ、白熱した取り組みが行われます。

その同じ日、平氏一門は重盛と経子の婚礼の宴を行っていました。盛り上がる一門をよそに、思いつめていた表情の重盛はいきなり婚礼の中止を申し出ます。経子に不服はないが、叔父を斬ることを命じた信西と組むような父の跡を継ぐ覚悟ができていないからだと訴えるのです。
けなげな重盛です。揺れるハート
なんだか、重盛も、結構史実に忠実に書いてくれているような気がしますね。黒ハート
嬉しいです。

清盛は一向に動じず、重盛のたわごとを聞いている暇はないと重盛を庭に投げ飛ばしました。そして経子にわびた後にそのまま宴を続けさせました。
内外に対して、大きさを見せるようになってきましたね。黒ハート


ぼう然とするのは、平家の良心・重盛さんです。


一方、相撲節会での後白河天皇は取り組みよりも、そこで供された美しい宋の器や茶に心をひかれていました。信西は膳を用意したのが清盛であること、相撲節会のために鎮西から財を届け、その際に見つけた茶を余興として膳にしたことを説明します。

後白河さんは、とっても美味しいお茶だったようです。
”おもしろきこと”を発見したようです。揺れるハート

それを聞いた後白河天皇は清盛を大宰大弐(大宰府の長官)にすると決めました。
何か、含んでいそうなスマイルです。黒ハート


翌日、清盛邸をたずねた信西は清盛にそのことをつげ、手も触れずに勝った清盛の相撲をほめあげました。そして、後白河天皇は美福門院と守仁親王を内裏に呼び、玉座にいてはあいつと遊べない、と言ってあっさりと譲位を切りだしたのです。

大宰大弐となった清盛は、内裏で義朝と出会いました。義朝の歯ぎしりが聞こえてきそうです。あせあせ(飛び散る汗)

信西によって不遇を味わう義朝は、用がすめばお前も信西に捨てられると清盛に言い放ちますが・・・


清盛はそれでも今は他に道はないと言い返しました。
のし上がる気満々の清盛が、そこにはいました。


清盛と義朝、ふたりの運命が大きく変わろうとしてきていました。


2人のコントラストも、とってもよく出ています。黒ハート
今回は、保元の乱後の二人の立場の違いをかっちりと見せてくれていますね。
そして、これが、平治の乱の原因の一端となることも・・・。

次回もとっても楽しみにしています。黒ハート

NHK大河ドラマ《平清盛》サウンドトラック / 吉松隆 (作曲); 舘野泉 (演奏); 藤岡幸夫, 井上道義 (指揮); NHK交響楽団, 東京フィルハーモニー交響楽団 (演奏) (CD - 2012)
NHK大河ドラマ《平清盛》サウンドトラック / 吉松隆 (作曲); 舘野泉 (演奏); 藤岡幸...


久しぶりにNHKのHPを見ると、忠正叔父さんと、為義お父さんの特集が載っていました。面白かったですよ。

↓ランキングに参加しています。るんるん
↓応援してくれると嬉しいです。黒ハート

平清盛の闘い  幻の中世国家 (角川ソフィア文庫) [文庫] / 元木 泰雄 (著); 角川学芸出版 (刊)
平清盛の闘い 幻の中世国家 (角川ソフィア文庫) [文庫] / 元木 泰雄 (著); 角川学...
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

歴史 ブログランキングへ

このページのトップヘ