日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

1582年・・・天正10年6月2日・・・京都・本能寺に宿泊中の織田信長を、明智光秀が急襲・・・!!
信長を自害へと追い込みました。
光秀は、そのまま近くにいた信長の嫡男・信忠も襲撃し、死に追いやりました。
本能寺の変・・・未だ、様々な謎が残る、戦国史上最大のミステリーです。
この謀叛には、数少ない生き証人がいます。
その男の名は弥助・・・弥助は、光秀の襲撃、信長の自害、信忠の自害まですべてを目の当たりにした歴史の目撃者なのです。

①なぜ信長の遺体は見つからなかったのか・・・??
弥助は、身の丈6尺以上(190cm)の大男で、十人力の怪力の持ち主と、信長公記には書かれています。
イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが上司に宛てた書簡には「イエズス会日本年報追加」には、本能寺の変における弥助の行動が書かれていました。

”信長に贈った黒奴が、信長の死後世子の邸に赴き相当長い間戦っていたところ、明智の家臣が彼に近づいて恐るることなくその刀を差し出せといったので、これを渡した”

弥助は、イエズス会から信長への贈り物でした。

159年7月・・・本能寺の変の3年前・・・
イエズス会の船が、島原半島の口之津に入港しました。
その時、宣教師ヴァリニャーノの従者として降り立った一人が弥助でした。
信長公記によると・・・
”年の齢二十六、七と見えたり
 その身の黒きこと牛のごとし
 彼の男 健やかに器量なり”
アフリカのモザンビーク出身と言われる弥助は、奴隷として買い取られ、インドのゴアで宣教師の護衛兼荷物持ちとなった事がわかっています。
更に弥助には大きな役目がありました。
宣教師たちは物珍しさが好きな日本人のために、黒人を「人寄せ」に使っていました。
当時、日本では黒人の人気は相当なもので、布教をしていた宣教師はこう書いています。
”日本人は極めて新奇なことを喜ぶ
 彼らは黒人を見るためにお金を払うだろうから、それを監督する者は短期間で金持ちになるだろう”
イエズス会は、黒人を日本に連れてくることで、日本人の心をつかもうとしていたのです。

1581年、弥助は宣教師に連れられて、京都に来ました。
弥助の噂は瞬く間に広がり、弥助を一目見ようと大勢の人が押しかけました。
見物人同士の喧嘩でけが人が出るほどでした。
その騒ぎを聞きつけた織田信長が、弥助を連れてくるように命じます。

1581年2月、信長と面識のあった宣教師オルガンティーノは、弥助を伴って信長との謁見に臨むこととなります。
信長は当時、畿内を中心とした強力な政権を確立、イエズス会は信長を日本の実質的最高権力者と見なし、信長に取り入ることでキリスト教の布教と庇護を確実にするという目論見がありました。
この時弥助をはじめてみたときの信長の反応は・・・??

”信長は大いに喜んだものの、愉しませるために我らが墨を塗ったのではないかと考え、男の肌の色が生来の者であると信じなかった
 しかしながら、帯から上の着物を脱がせて検分した後は、信長もようやくこれを納得した”

弥助の漆黒の肌に驚いた信長は、肌をこすったり引っかいたりしました。
それでも肌の色が変わらないとわかると、やっと黒い肌を認めたといいます。
片言の日本語が喋れるとわかった信長は、矢継ぎ早に質問をしたといいます。
数日後・・・弥助の主人ヴァリニャーノも信長に謁見します。
そこで弥助の運命が一変!!当時珍しいクリスタルガラスなどを献上したところ、弥助の献上も申し出たのです。
弥助を気に入っていた信長は、この申し出を受け入れました。
しかも、単なる従者としてではなく、弥助を侍として取り立てたのです。
信長公記によると・・・
”弥助は安土城の城下町に従者付きの住居を与えられ、さらに身分に相応しい衣服と武具も与えられた”とあり、正式な家臣となっていました。
こうして弥助は、日本初の外国人侍となったのです。
本能寺の変のわずか1年3か月前のことでした。

1582年6月1日・・・
天下統一を目指す織田信長は、羽柴秀吉の毛利攻めの援軍に向かうために、京都本能寺に宿泊していました。
当時の本能寺は、東西140m、南北270mの広大な敷地と大伽藍を有していました。
しかし、信長が連れていたのは僅かな手勢のみでした。
従者のうち戦力となるのは弥助を含め、30人ほどでした。
そして翌、6月2日未明・・・
信長と同じく秀吉の援軍に出立するはずだった明智光秀が、1万3000の兵で本能寺を包囲!!
只ならぬ喧噪で目を覚ました信長は、当初、従者たちの喧嘩だと思ったといいます。
しかし、小姓の森蘭丸が、明智光秀の謀反であると告げると・・・

「是非に及ばず」

と覚悟を決めたのです。

鬨の声を上げ攻撃を仕掛ける明智の軍勢、それでも信長は弓を次々と放ち、弦が切れると槍を突き立てて敵をなぎ倒しました。
弥助も主君の首をとらせてなるものかと必死に応戦!!
しかし、兵力の差は歴然・・・状況を打破するには至りませんでした。
そして、雑兵によって深手を負わされた信長は、もはやこれまで・・・と観念・・・
一説によると奥に誰も通さぬよう命じ、燃え盛る本能寺で自害し、果てたといわれています。
49歳でした。
問題はこの後・・・襲撃後、明智軍は信長の遺体を探します。
しかし、それらしき遺骨すら見つけることができませんでした。
信長の遺体はどこに消えたのでしょうか?
それが、本能寺の変おける長年の謎でした。
その謎を解くカギを握っていたのは弥助でした。

森蘭丸が、信長の首を切り落とし、弥助が本能寺から持ち出すことを任されていた・・・??
戦国の世では、首をとることが戦に勝った事の証・・・
首が見つからなければ、光秀は信長を討ったとは証明されず、大きな打撃となります。
弥助に首を持って本能寺を脱出した・・・??
明智軍をどうやって突破したのか??

信長の死後の弥助の行動は・・・??
本能寺の近くにあった阿弥陀寺に残されています。
本能寺の変の頃、阿弥陀寺の住職をしていたのは清玉上人です。
清玉上人は、幼い頃信長の兄・信広に命を救われ、その後織田家に家族同然に育てられた織田家とつながりの深い人物でした。
そんな清玉上人の本能寺の変当日の行動を書いたものが「信長公阿弥陀寺由緒之記録」です。
そこには・・・
本能寺の変の知らせを受けた清玉上人は、大いに驚き、仲間の僧侶20人ばかりと一緒に信長のもとに駆け付けます。
なんとか寺の裏側から寺に入ると、既に信長は切腹した後・・・
墓地のやぶの中で、10人ほどが火葬をしていました。
話を聞くと、遺言通り信長の首を持ち出そうとしたものの、四方を明智軍に囲まれているので仕方なく火葬しているとの事・・・
この火葬を行っていた家臣の一人が弥助・・・??
弥助たち家臣は、織田家にゆかりのある清玉上人なら信長の遺骨を託せる・・・と、あるものは再び明智軍に飛び込んで行ったといいます。
火葬を終えた清玉上人は、信長の遺骨を取り集め、自らが着ていた法衣に包みました。
そして、本能寺の僧侶のふりをして阿弥陀寺に持ち帰ります。
火葬し、遺骨にしていたので、目立たずに持ち運ぶことができたというのです。
清玉上人は、葬儀を行い、死を弔いました。
そのため、現在でも阿弥陀寺では信長の法要が毎年行われています。
墓地も存在しています。
弥助たち家臣が火葬し、清玉上人が遺骨を持ち去った可能性が高いと思われます。

本能寺の変の直後、京都と近江を支配下に置いた光秀は、織田家の武将たちの反撃に備えます。
その際、光秀は周辺の武将たちに味方になるように要請します。
しかし、信長の遺体が見つからないことで、信長が討たれた確証はなく、もし生きていた場合光秀に加担したことで攻め滅ぼされてしまう・・・と、ほとんどの武将が光秀の味方に付かなかったといいます。
その結果・・・
1582年6月13日、明智軍は本能寺の変を知り急遽引き返した秀吉の軍と山崎で激突し敗退・・・
光秀は、逃げる途中に落ち武者狩りにあい、本能寺の変からわずか11日後に命を落としました。
弥助と清玉上人の活躍が、光秀の三日天下につながったとも考えられます。

遺骨を上人に預けた弥助は・・・??

②なぜ信忠も巻き添えとなってしまったのか・・・??
本能寺と1.2キロのところに信忠が宿泊していました。

本能寺の変の当日、織田信長の嫡男・信忠は、京都にいないはずでした。
本能寺の変の3か月前・・・3月11日、織田家が長年争っていた甲斐の武田氏を滅ぼしたことで、信忠は功労者である徳川家康をねぎらうために堺に向かう予定だったのです。
しかし、父・信長が毛利と戦う羽柴秀吉の応援に向かうことになり、安土を出発したことを知った信忠は、急遽予定を変更し、信長を迎えようと京都にとどまったのです。
このように信忠が信長の顔色をうかがうのには理由がりました。
織田家の嫡男として小さい頃から帝王学を学んできた信忠は、父・信長と共に多くの戦に参戦し、自らも多くの功績をあげてきました。
1575年織田家の家督を継いで岐阜城へ・・・
美濃・尾張の二か国およそ100万石を治める大名に・・・正式に織田家の当主となったのです。
しかし、信忠に対する信長の評価は・・・

「信忠は、一見器用に見えるが、城持ち大名としては不器用だ
 もっと人が予測できないことをやらなければ合戦には勝てない」

と、極めて厳しいものでした。
信忠は19歳で織田家を継承しましたが、天下平定の実権は父・信長のもとにありました。
そんな中、信長が自らの後継者として信忠に並々ならぬ期待をしていました。
信忠にとっては、そのプレッシャーは、計り知れないものがありました。
その父・信長の重圧が、信忠を京都に止まらせてしまったのです。

1582年6月1日・・・
信忠は、本能寺にいる信長のもとを訪ね、酒を酌み交わしたといいます。
それが、父と子の今生の別れとなりました。
その僅か数時間後・・・本能寺の変が起きたのです。
信忠は、明智軍が本能寺を攻めたという知らせを妙覚寺で聞きました。
その信忠のもとへ弥助が駆けつけることに・・・
どうして弥助が向かったのか・・・??
明智急襲の知らせを聞いた信忠は、直ちに手勢500人を引き連れて、父・信長を救うべく本能寺に向かいました。
その途中で、信長の家臣で村井貞勝に遭遇します。
すると村井が、
「本能寺は明智勢に取り囲まれ、近づくことすらできません。」by村井
「となれば、もはや明智勢から逃げ切ることは出来ないだろう
 もし逃げられたとしても、雑兵に討ち取られては後世の物笑いになり、無念である」by信忠
「ならば、御所へお行き下さい
 御所であれば、光秀も攻め入ることはできないでしょう」by村井
「仕方あるまい・・・」by信忠

こうして信忠は、二条御所に向かい、籠城することになったのです。
一方、死を覚悟した信長は、一刻も早く京都から脱出の命を信忠に伝える必要がありました。
信長にとって最悪の事態は、自分と信忠が同時に討ち取られてしまうことでした。
織田家の当主である信忠が生きていれば反撃できる!!
そこで、信長が考えたのが、何とかして信忠を京都から脱出させることだったのです。
しかし、本能寺は光秀の軍勢に取り囲まれている・・・
どうやって伝える・・・??
信長は、十人力の弥助なら、明智軍を潜り抜け、自らの首と伝言を妙覚寺の信忠に届けられると考えたのかもしれません。
信長の命を受けた弥助は、信長の遺骨は清玉上人に託すことになりましたが、伝言だけは・・・と、命がけで妙覚寺に向かうこととなります。
その結果、弥助はなんとか信忠のもとにたどり着くことができました。

弥助は、織田家の当主だった信忠に、信長の死を報せ、京都から退避するように伝えるために、信忠のもとに向かったのです。
明智光秀が信長を討ち取ったのち、織田家当主の信忠は、弥助から父・信長の死と、京都を脱出せよという最後の命を受け取りました。
しかし、信忠が逃げようとした形跡はありません。
すでに、安全であったはずの二条御所も明智軍に包囲され、京都を脱出することは不可能だったのです。
それでも信忠は、明智軍と命の限り戦いました。
弥助も信忠を守ろうと応戦しますが、それも時間の問題でした。

信忠の最期について信長公記には・・・

「私が腹を切ったら縁の板をひきはがし、亡骸を床下に入れて隠せ」

こう言い残し、信忠は自決という名誉の死を選んだのです。
26歳の若さでした。

③光秀に謀反を起こさせた黒幕とは誰なのか・・・??

織田信長とその嫡男・信忠が自害し、明智光秀軍の勝利に終わった本能寺の変・・・
ここにもう一つの謎があります。
その後の弥助について、フロイスはこう書いています。

「明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差し出せと言ったので、これを渡した」

こうして弥助を捕らえた明智の家臣が光秀にその処分をたずねると・・・光秀はこう命じました。

「インドのパードレの聖堂に置け」by光秀

インドのパードレの聖堂とは、京都・南蛮寺・・・イエズス会の京都における本拠地のことです。
明智軍と戦った信長の側近・弥助をなぜか無罪放免・・・かつて従者として仕えていたイエズス会へ戻したのです。
どうして弥助は殺されることなくイエズス会に戻されたのでしょうか?

本能寺の変の後、光秀に味方する武将はいませんでした。
そこで、光秀が目をつけたのが、京都に近い高槻城主の高山右近でした。
右近はかつて信長によって弾圧された荒木村重の家臣だったことで、信長に反感を持っていると考えたからです。
光秀は、右近がキリシタン大名でもあったことから、宣教師を通じて書状を送り、味方になるように要請していました。
とにかく見方を作る必要があった光秀・・・
イエズス会と連携して、キリシタン勢の支持を得ようとしたのです。

こうした光秀とイエズス会との関係が、本能寺の変の前からあったという説があります。
そのきっかけとなったのは、信長のある行動でした。
ルイス・フロイスの「日本史」によると・・・

「安土山の寺院には神体はなく、信長は己自らが神体であり、生きたる神仏であるとし、彼の上に万物の創造主もないと言い、地上において崇拝されんことを望んだ」

信長は、自らが神になろうとしたのです。
安土城・・・の本丸に清涼殿という天皇を招く館を作りました。
しかし、この館の上に、信長のいる天守を置いたのです。
自ら天皇の上にたとうと・・・あらゆるものを超越しようと自らを神格化し、全く新しい権力構造を作ろうとしたのです。
この信長の野望は、キリスト教に忠実なイエズス会にとって絶対に許すことにできないものでした。
そして、そんな信長の絶対的権力に恐れを抱いたのが、信長の重臣・明智光秀でもあったのです。
当時光秀は、信長によって丹波・近江志賀郡などの領地を召し上げられ、出雲と石見を自ら攻略し、領土とするよう命じられていました。
このことから、打倒信長という点で、イエズス会と光秀の利害が一致、そのため、イエズス会が本能寺の変の黒幕だった・・・??

その結果か、光秀は本能寺に宿泊していた信長を襲い、自らの主君を自害に追い込むことになりました。
そして、この謀叛の一部始終を、イエズス会の宣教師たちは、本能寺のすぐ近くの南蛮寺から見届けていたのです。

「インドのパードレの聖堂に置け」・・・

つまり、弥助がイエズス会に返されたのは、光秀とイエズス会との密接な関係の証であった可能性があるのです。

イエズス会の思惑と、信長の野望・・・その狭間で、運命を翻弄されたのが弥助だったのかもしれません。
この後、弥助に関する記録は残っていません。
日本を離れ、モザンビークに帰ったのでは??と言われています。
しかし、イエズス会の報告書に気になる記述がありました。
本能寺の変の2年後、九州に黒人がいたことが記され、キリシタン大名であった有馬晴信の軍勢の大砲の使い手として活躍し、勝利をもたらしたというのです。
その黒人が弥助だったとしたら・・・九州のどこかで一生を終えていたのかもしれません。
本能寺の変の目撃者として全ての真相を胸に秘めたまま・・・。

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今から200年前、江戸は人口100万を超え、錦絵、読み本、芝居に落語が大人気。
空前の繁栄を誇っていました。
手軽な食事として天ぷらや寿司が流行。
今、私たちが時代劇で見る光景は、まさにこの頃のことです。
しかし、この江戸の最盛期に君臨した将軍は??

11代将軍・徳川家斉です。

しかし、教科書に乗る家斉は、大奥が代名詞。
40人を超える側室を持ち、産ませた子供は53人・・・小作りばかりに励む放蕩将軍・・・
家斉は、子供の多くを、主だった大名たちに跡継ぎや正妻として送り込んでいます。
その数、21家、640万石です。
まるで日本中の主だった大名を自分の血筋で埋め尽くし、一大ファミリー化を図っているように見えます。

徳川家斉は、1773年、八代将軍の孫である一橋治済の長男として生まれます。
7歳の時、10代将軍・家治の跡継ぎが急死したことによって次期将軍への道を歩み始めます。
治済は、なんとかして家斉を次期将軍にしようとして時の老中・田沼意次に接近。
他の候補者を退き、家斉を将軍候補にさせました。
そして1786年、将軍・家治が病死し、家斉は15歳で11代将軍に就任します。
同時に父・治済の工作で田沼意次が失脚、老中となった松平定信のもとで、寛政の改革が始まりました。
しかし、家斉は、翌年定信を退け、自ら政治を行い始めます。

徳川実紀によると。。。
家斉は早朝から日が高くなるまで怠けることなく政務をこなし、真剣に政治に取り組んでいました。
しかしやがて、遊び好きの本性が表れ始めます。
趣味は鷹狩り・・・関東中の狩場に足しげく通い、鴨を捕らえるだけでは飽き足らず、猪や鹿狩りまでやっています。
江戸湾に巨大な鯨が現れたときは、目の前で見たいと浜御殿の池に引き入れさせ、泳ぐ姿を見て楽しんだという逸話も残っています。
そんな家斉を最も特徴づけるのが、色好みです。
15歳から大奥通いを始め、次々と手を付け40人を超える側室を持ったともいわれています。
最初の子が生まれたのが17歳の時、生涯で53人もの子供をもうけ、大奥に入り浸っていたと言われています。
さらに家斉は、生まれた子供たちを全国の大名家に世継ぎや正室として送り込んでいます。
その結果、全国の主だった大名の多くが、家斉の息子や娘婿となっていきました。
その方法は、大名たちの弱みに付け込む実に巧みなものでした。

その一つが”金”・・・
将軍家から迎えるといろいろなメリットがあります。
若君をもらうと支度金、お姫さまだと化粧料、たくさんの女中を連れてくるので1万両、2万両。
迎える側が幕府から借金をしている場合、免除してもらう。
当座は財政難が救われたのです。
当時の大名たちは、参勤交代やお手伝い普請などで借金を抱え、どの藩も借金に喘いでいました。
それが、家斉の子どもを受け入れることで借金が免除され、金銭的に支援を受けるなどの恩恵を受けられました。
その金額は莫大なものでした。
例えば、水戸徳川家は、家斉の娘を正室に迎えたことで、幕府に借りていた19万2000両の借金が免除されることに・・・今の金額で、200億円の借金免除でした。
100万石の加賀前田家も、家斉の娘を正室に迎えました。
その時に作られた門が、東京大学の赤門です。
将軍の娘を迎えることで出費がかさみましたが、それに対して毎年1万8000両(18億円)の化粧料を前だけに行っています。
中には世継ぎがいるにもかかわらず廃嫡し、家斉の息子を世継ぎに迎えた藩も・・・明石・松平家です。
これによって2万石を加増されています。
家族化かの波は、外様にまで・・・
徳島藩蜂須賀家では・・・家斉の23男を後継ぎに迎え入れ、長州藩・毛利家、仙台藩・伊達家も家斉の娘を正室として迎えています。
こうして将軍・家斉のファミリーとなったのは、21家に及びます。

こうした縁組にかかる莫大な費用を、家斉はどのように工面したのでしょうか?
その秘密は、貨幣の改鋳という錬金術でした。
それまで流通していた小判・4819万両を回収、金の含有量の少ない小判に作り直させたのです。
浮いた金の分が、幕府の利益になりました。
家斉の貨幣改鋳は、小判以外の貨幣にも及び、15年間で1550万両の利益があったと言われています。
強引に作った潤沢なお金によって子供たちを大名家に送り込んでいたのです。

江戸幕府の1年間を、100万両前後で予算を組んでいました。
かなりの貨幣鋳造をして財政を豊かにしました。
それだけ湯水のように使って、徳川家の血が各大名家に浸透していくということに使ったのです。
さらに・・・家斉が利用したのが「家格」
子供を受け入れた大名たちを優遇し、家格を上げたのです。
江戸城ではこの家格によってすべてが区別されていました。
特に、大名が控える部屋は、家格によって七カ所に分かれていました。
最上位とされるのが、松之大廊下に面した大廊下の一室・・・御三家に御下問、そして加賀前田家のみが使用できました。
主な譜代大名には黒書院溜之間と帝鑑之間が用意され、10万石以上の外様大名や官位の高い大名は大広間が控の間となりました。
それ以外の大名は155家には3つの部屋が与えられています。
家格が低ければ、将軍に謁見する場合も集団で平伏、立ったままの将軍に目通りする事しか許されていません。
家格の違いは歴然でした。
そんな下位の部屋から大出世をしたのが、わずか6万石の舘林・松平家です。
家斉の20番目の息子を養子とすることに成功します。
すると、大部屋から帝鑑之間、大広間を経由して大廊下へと三段跳びの大出世・・・
家紋も、三つ葉葵の使用を許されるという破格の扱いとなりました。
封建社会の平和な時代、他に人間の望みがない時代・・・格が上がること、人より上に行くということは、一番の望みでした。
金と家格を使った巧みな大名支配と子供送り込み・・・家斉はただの贅沢将軍だったのでしょうか??

18世紀末から19世紀・・・家斉が統治した時代には、日本を取り巻く環境が大きく変わろうとしていました。
外国船が日本近海に現れるようになっていたのです。
1792年、ロシアの使節・ラックスマンが根室に来航、通商を求めます。
1808年イギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入。
外圧が高まっていました。
当然家斉の耳にも入ります。
通商を求めるロシア船に頭を悩ませ、外国船の対策に旅谷議論しています。
しかし、外国船対策の一元化は当時の幕藩体制は適していませんでした。
それぞれの地域を支配しているのは大名で、中には外国と密貿易を行っている場合もあり、足並みをそろえることはできませんでした。
そんな中、家斉の子供達でファミリー化すれば・・・将軍の意に沿うのでは・・・??
幕府を中心にものを考えるとなれば、幕府に協力すると海岸線の防備をしようと言われれば喜んで手をあげる・・・殿様は、将軍家のために尽くそう・・・そういう思いがあったのです。

もう一つの問題が・・・徳川一門の結束です。
幕府が開かれてから190年・・・ゆるみが出てきていました。
家斉が特に注目したのが尾張徳川家・・・
尾張藩は御三家筆頭の62万石。
徳川家康の9男・義直を初代藩主にいただく名門です。
尾張藩が位置するのは西国で反乱が起きた場合に、幕府を守る楯になる重要拠点です。
そんな尾張徳川家・・・すっかり血縁が薄くなってきていました。
さらに、8代将軍の座を尾張藩を差し置いて紀州藩の吉宗が勝ち取ったことで不仲となり、七代藩主となった宗春は吉宗と対立。
宗春は蟄居・謹慎させられ、その後、将軍家と終わりの間には緊張が続いていました。
そこで家斉が考えたのが娘を送り込むことでした。
尾張徳川家に娘を嫁がせ跡取りが生れれば、その子は家斉の孫・・・
家斉は、5歳になったばかりの長女・淑姫を尾張の世継ぎと婚約させます。
しかし、同じ年、その世継ぎが病死し、家斉の目論見は潰えてしまいました。

1796年、空いていた尾張の世継ぎに生れたばかりの4男・敬之助を養子として送り込みます。
しかし、その4男は、わずか1年で病死・・・
家斉は諦めません。
1年後、弟の子を尾張藩主の世継ぎとして送り込み、自分の10歳になった長女を嫁がせ、ファミリー化しようとします。
家斉は、養子に入った弟の子に斉朝という名前を与えています。
そして翌年斉朝は、尾張藩10代藩主徳川斉朝となり、ついに家斉の尾張ファミリー化は成功します。
度重なる子供送り込み工作・・・尾張藩も、最初は歓迎していたといいます。
将軍家との血のつなが生じ、姫との間に子供が生まれて次の当主になれば、確固とした血のつながりの再現となりります。
官位も上がり、経済的にもある程度のメリットが生じます。
相対的に尾張にとってはいいことです。
しかし、順風満帆は続きません。三人目に送り込んだ斉朝は、尾張藩を統治するものの淑姫との間に世継ぎは生まれませんでした。
1822年、家斉は夫婦の養子として19男斉温を養子に据えます。
この時、家斉50歳・・・あくまでも尾張家をファミリーにしたかったのです。
斉朝を継いで藩主となった斉温は、江戸城西ノ丸が大火で焼失した時、父家斉のために見舞金として9万両もの大金と大量の木曽ヒノキを献上したといいます。
家長である家斉を、大名家を継いだ子供たちが助けてくれる・・・
それこそが、家斉の目指すファミリーでした。
4回にわたって跡継ぎや正妻を送り込まれ、家斉のファミリーとなっていた尾張藩・・・11代藩主となった斉温かは、1836年近衛家の姫・福君と結婚。
この婚儀は、尾張藩に莫大な費用を強いることとなりました。
福君の婚礼調度品は、210点にも及び、贅を尽くした調度品でした。
当然、福君の出立の準備も尾張藩が行いました。
京都から江戸へ下向する行列は千人を超え、これにもまた巨額の費用が掛かったと言われています。
ところが、婚儀から3年後斉温は21歳で死去・・・1839年。
跡継ぎがいなかったことで、尾張藩は混乱します。
藩士たちは度重なる家斉の子の受け入れが藩の財政を圧迫したとし、次こそは尾張家初代の分家から次の藩主を・・・と期待するようになっていきます。
この時家老に出された意見書には、

”度重なる世継ぎ受け入れは、天下の嘲りを受け、将軍家の乗っ取りに怨念を持つ者や、お国の恥と嘆く家臣が大勢いる”と書かれています。

急進過激派・・・我々はどんな政治的圧力にも屈しない・・・
金や鉄のような固い意志を持つ・・・ということで、金鉄党と名付け、派閥を作りました。
将軍家による尾張家の乗っ取りではないのか・・・??

この時、家斉67歳・・・空席となった尾張藩主の座をどうするのか・・・??
用紙に送り込める子や孫はいない・・・尾張藩の中から不平不満が出ている今、手綱を緩めることはできない・・・

どうする・・・??
男子を将軍家に戻し、尾張徳川家に送る??
夫と死別し出戻った永姫か、婚約しているもののまだ13歳の泰姫を・・・女子を尾張徳川家に送る??
しかし、それまでには何年もかかってしまう・・・!!
忠誠を誓わせて誰も送らない・・・??

どうする・・・??

1839年3月26日、家斉は決断を下します。
御三卿の一つ田安家当主・斉荘(家斉12男)を、亡くなった藩主・斉温の末期養子として尾張藩12藩主を継がせたのです。
これに尾張藩主の不満が爆発!!
押し付け養子であると批判の声が上がります。
家斉は、尾張藩をなだめるために当時日本有数の商業地で10万石相当であった近江八幡を加増します。
さらに、吉宗と対立して蟄居させられていた尾張藩七代藩主宗春の罪を赦し、官位を元に戻します。
家斉は、いかなる代償を払ってでも、尾張藩を身内に止めようと考えていました。
斉荘が藩主になった事を見届けると・・・2年後・・・
1841年徳川家斉死去・・・69歳でした。

しかし、尾張の問題は終わりませんでした。
家斉の死から4年後・・・斉荘が病死・・・再び尾張藩主の座が空席となってしまいます。
家斉の息子の12代将軍家慶は、なおも親しい身内を尾張藩主とすることにこだわり家斉の弟の子供・慶臧を13代藩主として送り込んでいます。

尾張藩士たちは、「またか!!」尾張藩と将軍家の戦になるようなことまで、平気で言う過激状態になってきていました。

新藩主となった慶臧に、兄である越前福井藩主・松平春嶽は手紙を送り、尾張内をなだめるように指示しています。
手紙には、家臣から気に入らないことを言われても、決して咎めだてしないこと、仁心を持って接することと書かれています。
しかし、その4年後、慶臧は14歳で亡くなってしまいます。
跡を継ぎ、14代藩主となったのは、初代藩主義直の流れをくむ美濃高須藩松平家の徳川義勝でした。
遂に尾張藩は、家斉ファミリーではなくなりました。

1868年・・・鳥羽伏見の戦いが起こります。
この時、新政府軍の中心となっていた長州・毛利家は、かつて家斉の娘を正室に迎えましたが子供は生まれず、家斉の血筋とはなりませんでした。
家斉の子供を送り込まれた21家の中で、家斉の血筋が当主となっていたのは、加賀藩・前田家、鳥取・池田家、姫路・酒井家、徳島・蜂須賀家・・・4家のみ・・・
しかし、この4家が、旧幕府側につくことはありませんでした。
鳥羽伏見の戦い以降、新政府軍に味方します。
そして尾張藩藩主となっていた徳川義勝は、新政府の要職につき、江戸無血開城の受け取り役を務めています。

家斉が50年かけて行った大名ファミリー化計画・・・
それが幕府を支えることはありませんでした。


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マリア・カラス・・・美貌と実力を兼ね備え、歌に生き、愛に生きた世紀の歌姫です。
その最後のステージは日本でした。
まだ50歳だったマリア・カラスの早過ぎる終幕・・・その訳とは・・・??

maria
類まれな表現力で、オペラ界を変えたカラス・・・”カラス以前””カラス以後”という言葉が生まれたほどでした。
歌声だけでなく、エキゾチックなその美貌で世界中の聴衆を魅了しました。
しかし、彼女はその外見に強いコンプレックスを持っていました。

世紀の歌姫と言われ、世界中の劇場から依頼が殺到したマリア・カラス・・・しかし、反面、色々なトラブルを起こしました。
突然の公演キャンセル、大劇場との対立、いつしか”高慢””金の亡者””キャンセル魔”と言われるようになります。


私生活もたたかれます。
夫がある身にもかかわらずギリシャの大富豪オナシスと9年間の大恋愛、しかし、オナシスはマリアを裏切り元アメリカ大統領夫人ジャクリーン・ケネディと再婚。

世紀の歌姫・・・その人生に秘められた愛と悲しみとは・・・??

マリア・カラスの家は決して裕福ではなく、両親は音楽関係ではありませんでした。
しかし、マリアはオペラ歌手への道を選びます。
どうしてオペラ歌手となったのでしょうか?
1923年、マリアはニューヨークで誕生しました。
両親はギリシャ移民でした。

父・ジョージは平凡な薬剤師、母・エヴァンゲリアは幼い男の子を失くしたばかり・・・男の子が欲しかったといいます。
しかし、生まれてきたのは女の子のマリア・・・
我が子を見た母は、「その子をあっちへやって!!」
母は、姉のジャッキーにだけ愛情を注ぎました。
かつて歌手を夢見ていた母は、ジャッキーに蓄音機を買い、ピアノを学ばせて音楽の才能を伸ばそうとしました。
マリアは、母に気に入られようと姉のすることは何でもしました。
7歳の時、マリアはレコードに合わせて姉のように歌ってみました。
すると母は・・・才能があるのは姉ではなくマリアであると気づきます。

「母は、私に並外れた音楽の才能があることに気付いた最初の人でした。」

母は、突然マリアに興味を抱くようになります。
マリアにもピアノのレッスンを受けさせ、図書館でレコードを聞かせ、厳しい英才教育を施しました。
マリアも母の関心が自分に向いたので、喜んで練習をしました。

1935年、11歳の時、ラジオの音楽コンテストに出場します。
マリアはアコーディオン奏者に次いで2位となりました。

「私が母に愛されていると感じたのは、歌っている時だけでした。」

母は、薬剤師の父を見下しており、両親の不仲は子供が見ても明らかでした。
そして母は、父をアメリカに残し、1937年、13歳の時ギリシャに移住。
マリアは奨学金を得てアテネの音楽学校へ・・・!!
その学校で教えていた世界的なソプラノ歌手エルビラ・デ・イダルゴは、すぐにマリアの才能にほれ込みました。

「マリアが孤独なのは気付いていました」byイダルゴ
 
母に愛されていないマリアを娘のようにかわいがるイダルゴ・・・
普段の生活でも何かと面倒を見ました。
オペラ歌手の卵だったマリアは体重が80キロ以上あり、外見には無頓着でした。

「先生は私の服装を嘆いていた
 容姿に磨きをかけよようと本気で努力をしないなら、もうレッスンはいないとおっしゃったほどよ」

家庭では得られなかった安らぎ・・・
マリアは歌のレッスンに集中しました。

こうしてマリアが声楽の練習をしていた時に第二次世界大戦が勃発!!
1941年、17歳の時、ドイツ軍・イタリア軍がアテネを占領します。
占領下におかれたアテネは、食糧不足に陥ります。
すると母は、マリアにドイツ兵やイタリア兵との親密な関係を強要・・・食料得るためでした。
この頃から、母とマリアの溝は深まったといいます。

1942年、18歳の時「トスカ」でプロのオペラ・デビュー。
マリアはこのトスカをこの後も何度も演じ、得意のレパートリーとします。
上演が終わると、何度もカーテンコールが起きるほど好評でした。
これを機に、ドイツ兵や、イタリア兵の前で歌うようになります。
しかし、このことが後に災いしてしまうのです。
対戦も終わりに近づいた1944年、20歳の時にアテネが開放。
すると、マリアがドイツ兵やイタリア兵のために歌っていたことが問題視されました。
劇場から追放され、音楽学校の奨学金も打ち切られます。
1945年、21歳の時に、マリアは仕事を求めて母と離れ、父のいるアメリカ・ニューヨークに向かいます。

しかし、いくらオーディションを受けても不合格。
ギリシャで有名になったぐらいでは、アメリカでは通用しませんでした。
世界屈指のオペラハウス・メトロポリタン歌劇場のオーディションもうまくいきません。
しかし、マリアは地震に満ち溢れていました。

「メトロポリタンはいつか歌ってくれ、と私に頭を下げて来るでしょう」

歌手活動を本格化させたマリア・カラスは、30キロ以上のダイエットをします。
あまりに急激な原料は、歌声に影響する可能性がありましたが、マリアは大変身を遂げました。
ニューヨークに戻って2年、ようやくマリアにチャンスが巡ってきました。
イタリアでのオペラ出演です。
マリアはすぐに、イタリアのベローナに向かいます。
1947年、23歳の時に「ラ・ジョコンダ」でイタリア・デビュー。
2万5000人も集まった野外劇場で歌い上げます。
しかし、公演は成功したものの、次の契約につながりません。
そこに、救いの手を差し伸べたのが、オペラ好きで地元では有名な実業家のジョヴァンニ・バッティスタ・メネギーニでした。
マリアより30歳ほど年上の52歳でした。
公演前の食事会で、マリアに一目ぼれしたのです。
その後、マリアを高級レストランに誘っては口説きます。
初めてレディーとして扱われるマリア・・・次第にメネギーニを愛するようになっていきます。
あえない時、マリアがメネギーニに贈った手紙には・・・

「私がどんなにあなたを恋しがっているかお分かりにならないでしょう
 あなたの腕に戻る日が待ちきれません」

裕福なメネギーニは、マリアの生活を保障。
マネージャーも務め、仕事上のパートナーになりました。
メネギーニの援助でイタリアを拠点としたマリアに、少しづつオペラの仕事が舞い込むようになります。

1948年、24歳の時、フィレンツェで「ノルマ」が大成功!!
カラスブームが巻き起こります。
ノルマは最も難しい曲の一つで、それまであまり歌われてはいませんでした。
しかし、マリアは見事に歌いこなして観客を魅了します。
それが可能だったのは、マリアが様々な声を使いこなせたからです。

「美しい声だけでは十分ではありません
 役を演じる時は、幸福感・喜び・悲しみ・恐れなどを表現する為に、千種類もの声を使い分ける必要があります。
 美しい声だけでそれができますか?」

さらにマリアがこだわったのが演技です。
当時のオペラは、あまり演技にこだわっていませんでした。
当時は、”ちゃんと楽譜通りにやりましょう”というオペラでした。
そして衣装を着けて棒立ちで歌っている・・・
マリア・カラスは、激しい演技を行うことによって、歌い手としての個性を発揮するのに成功したのです。
オペラ歌手として軌道に乗ったマリアは、1949年、25歳の時にメネギーニと結婚。
そして主役のチャンスが訪れます。

1951年ミラノ・スカラ座で正式にデビューします。
スカラ座といえば、誰もが憧れるイタリアオペラの殿堂・・・!!
この時演じたのは、「シチリア島の夕べの祈り」
マスコミの反応は・・・

”驚異的な広がりを持つ中音域と低音域はきらめくような美しさに満ちている”

その歌声に熱狂した聴衆は、いつしかマリアをこう呼ぶようになります。

”スカラ座の女王”と。

マリア・カラスの名は世界中に響き渡り、王族や大富豪も、マリアの舞台を見ることがステータスとなりました。
新境地を次々と開いていくマリアは、オペラの常識にも挑戦します。
体重が必要とされるオペラ歌手にもかかわらず、痩せようと考えたのです。
きっかけは、映画「ローマの休日」でした。
オードリー・ヘップバーンに憧れたマリアは、ダイエットを決意しました。
そして、11か月で30キロ以上の体重を落としました。
マスコミでも話題となり、その減量法聞かれると・・・

「もし痩せる方法がわかっていたら、私は世界一の金持ちになれたと思いませんか?」

ハリウッド女優並みのスタイルを手に入れると、ディオールやジバンシーなどのデザイナーが、ドレスや宝飾品を提供。
マリア・カラスは、誰もがうらやむ大スターとなりました。
さらに、マリアの勢いは止まりません。
駆け出しのころからあこがれていた生まれ故郷ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の出演!!
1956年、32歳の時にメトロポリタン歌劇場で初公演。
マリアは聴衆を感動と興奮の渦に巻き込んで、16回ものカーテンコールを受けました。
ダイエットをしてもその歌声は、衰えませんでした。
大スターとなったマリア・・・ギリシャの母とは疎遠になっていました。
マリアは仕送りをしていましたが、母はそれ以上にお金を欲しがりました。
マリアが断わると、母はマスコミを通じて冷たい娘と非難しました。
マリアはそんな母が許せず、生涯あうことはありませんでした。

35歳の時、マリア・カラスは17歳年上の大富豪オナシスと恋に落ちます。
オナシスは妻も子もありながら、女遊びの絶えないプレイボーイ・・・。
それなのに、どうしてマリアは恋に落ちたのでしょうか?

30代で世界で最も有名な歌姫となったマリア・・・
しかし、栄光の影で様々な苦悩を抱えていました。
その一つが、夫メネギーニのお金への執着。
マネージャーでもあるメネギーニは、マリアが売れてくるとギャラを法外に吊り上げました。
1947年・・・1公演:4万リラ
しかし、10年後には、80万~100万リラと20倍以上に・・・
今の日本円で1000万円以上です。
余りに高額な請求に、困惑する劇場側に、メネギーニは「妻が望んでいるので・・・」と言いました。
実際には、マリアは夫に任せっきりだったので、ギャラの金額などわかっていませんでした。
さらにマリアを悩ませたのは、大御所の批評家たちでした。

「マリア・カラスの声は、力強さはあるが清らかさがない」

若い批評家には熱狂的に評価された一方で、大御所の受けは悪かったのです。
というのも、マリアは今までにいないタイプでした。
マリアは自分を侮辱する手紙ばかりを100通ほど保管していました。
どうしてこのような手紙を保管していたのかは難しいですが、自分をさらに精進させるために自分の糧にするためだったと思われます。
絶頂期だったマリア・・・しかし、翌年から破滅の足音が聞こえてくるのでした。

1957年、33歳のエディンバラでの公演以来、喉の調子を崩します。
医者に休養を命じられていました。
それでもどうしてもと頼み込まれ、5回の上演・・・しかし、喉は4回が限度でした。
そのため、1回分の代役を頼みます。
オペラでは、体調に合わせて代役が歌うのはよくあること・・・
ところが・・・

「あの忌まわしいパーティーに行ったのが間違いでした」

5回目の公演キャンセルの日にパーティーに出席・・・
これが報道され、マスコミから非難の嵐が・・・!!
オペラ歌手としては当たり前のことをしただけなのに・・・。

この事件から4か月後・・・
1958年1月にローマで事件を起こします。
イタリア大統領も見に来る公演でマリアはノルマを演じることになっていました。
ところが、またしても喉の調子を崩してしまう・・・
一幕目は乗り越えたものの、二幕目以降は出演できないというマリアに、スタッフは・・・

「あなたならできます
 舞台を続けないとダメですよ!!」

「声が出ないのよ・・・」

「いい加減でいいんだよ、それなら!!」

遂に、二幕目をすることなく公演中止。
これが大問題となり、マリアは会見を開いて声が出なかったと弁明します。
しかし、マスコミは気まぐれでワガママだと非難します。
これをきっかけに、スカラ座を始めイタリアでの契約が無くなります。
大統領も出席する公演をキャンセルしたことで、イタリア政府の介入もあったとされます。
さらに同年、メトロポリタン歌劇場と演目で衝突!!

「同じ演目ばかり・・・新しい試みがしたいの!!」

大劇場との関係悪化は、メネギーニの責任が大きいといわれています。
メネギーニにとって交渉はありえないことでした。
自分の要求額でなければ契約しませんでした。
アメリカに行って、メトロポリタンの支配人・ビングが相手でも、同じやり方をしました。
メネギーニ同様、ビングも譲らない性格だったので、二人は喧嘩になっていました。
さらに、マリアのビジネス用の口座からメネギーニ個人の口座にお金を移して使い込んでいたことが発覚。
マリアはショックを受け、夫への信頼は粉々に崩れました。

声の衰え・・・大劇場との衝突・・・夫の裏切り・・・
精神的にも追いつめられた時、一人の男性と出会いました。
マリアより17歳年上で、一代で巨万の富を築いた大富豪オナシスです。
しかし、オナシスは妻の間に二人の子供のいる既婚者でした。

1959年、35歳の時、オナシスがマリア夫婦を招待したオナシスの地中海クルーズがマリアの人生を変えました。
元イギリス首相・チャーチルなどを乗せた3週間の航海・・・
クルーズの間、マリアとオナシスは急接近します。
二人きりの時間を過ごしました。
港に戻ってきたころには、マリアはメネギーニと別れる決意をしていました。
結婚生活は終わりをつげ、マネージャーも辞めさせました。
世紀の歌姫の大富豪の恋は、マスコミも注目します。

「私は長いことカゴの中で飼われていると感じていました
 ですから、活気にあふれ魅力的なオナシスや彼の友人たちに出会った時、私は生まれ変わったのです」

マリア・カラスがオナシスと恋に落ちた翌年・・・
1960年、マリアが36歳の時、オナシスが妻と離婚します。
マリアは、アメリカの市民権を放棄して、1966年、42歳でギリシャ国籍を取得します。
オナシスと結婚するためでした。
当時、マリアを悩ませていたのは声の衰えでした。
ある時、パリのオペラ座で公演した時も、最後まで持たずに途中降板していまいました。

「歌っていたのは本当の私ではないのよ
 自分の声ではなくて、聞き覚えのない他人の声に聞こえたわ」

超えの衰えたマリアは、仕事を控え、オナシスとの生活を最優先しました。

「8年半もの間 共に生きてきて 私は心から言います
 あなたのことをとても誇りに思い 全身全霊をかけてあなたを愛していますと・・・
 そして、あなたもまた私に対して同じ思いでいることを願っています」

ところが・・・この手紙が書かれた9か月後・・・
1968年・・・オナシスは、もとアメリカ大統領夫人ジャクリーン・ケネディと再婚します。
この衝撃的なニュースを新聞で知ったマリア・・・
結婚式当日は、オナシスとよく行ったレストランに足を運びました。

「私には屈辱よ
 2か月たっても立ち直れない」

オナシスとジャクリーンが結婚して数か月後・・・
マリアのアパートを一人の男が訪ねてきました。
なんと、オナシス・・・ジャクリーンと離婚はしないが、マリアとよりを戻したいというのです。
マリアは拒絶・・・しかし、結局はオナシスを許し、受け入れるのです。
心の支えが戻ってきたマリアは、47歳で新たな挑戦を始めます。
ニューヨークのジュリアード音楽院で、若者たちに教えたのです。

聴講生には、世界三大テノールと言われるプラシド・ドミンゴ、ルチアーノ・パヴァロッティの姿もありました。
再びステージに立つ気力の湧いたマリアは、1973年、49歳で世界各地をコンサートで回ります。
ヨーロッパやアメリカなど世界9か国を回り、最後は日本でした。
札幌での公演を終わりホテルに戻ると、マリアを愕然とさせる報せが・・・オナシス緊急入院!!
マリアはパリで入院中のオナシスのもとへ・・・!!

「私よ マリア
 あなたのカナリヤよ
 あなたを愛している
 これからもずっと愛し続ける」
 
9日後・・・
1975年3月15日、オナシス死去・・・69歳でした。
マリアが葬儀に参列することは許されませんでした。
オナシスの死後、マリアはパリの自宅からほとんど出ませんでした。
ステージにも、札幌公演を最後に、二度と立つことはありませんでした。
過去に自分が歌った歌声を、聞いてばかりだったといいます。
夜・・・眠れなくて睡眠薬を飲み、朝・・・頭をすっきりさせるために興奮剤
1977年9月16日、マリア・カラス53歳、自宅で急死・・・
心臓麻痺と言われています。

晩年自伝を書くことを勧めた作家に対してこう言っていたといいます。

「自伝ならもう書いたわよ
 それは、私が演じてきた音楽の中にあるわ
 音楽こそ私が知る唯一の言語なんですもの」

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1582年6月2日・・・天下統一目前で織田信長が家臣・明智光秀の謀反で命を落とします。
本能寺の変です。
戦国の世を大きく変えたこの事件は、信長と光秀を取り巻く女たちの運命も翻弄しました。
光秀の娘・・・細川ガラシャもその一人です。

戦国の革命児・織田信長が、尾張の一大名から天下布武を掲げ走り出したころ・・・
1563年、細川ガラシャは武勇、教養を兼ね備えていた明智光秀の三女・玉として生まれました。
ガラシャとは、キリスト教の洗礼名です。
幼少の頃の玉の記録はありません。
歴史にその名が現れるのは、16歳で名門・細川家の嫡男・忠興と結婚した時です。
当時、二人の父・・・明智光秀(近江国)と細川忠興(山城国)は、織田信長の家臣した。
その婚儀を取り持ち、媒酌人を買って出たのが、主君・信長本人でした。
そこには信長の思惑がありました。
この頃の明智光秀は信長の重臣で、西を攻める・・・細川藤孝も援軍として、この二組を固く結びつけようとしていたのです。
京都府長岡京市・・・細川家の居城・勝龍寺城で婚儀が執り行われました。
誰もがうらやむ美男美女のカップルでした。
夫・忠興は玉の美しさに惚れ込み、手作りのカルタを作るなどして喜ばせ、夫婦仲は良かったといいます。
結婚した翌年には、長女・於長、その翌年には長男・忠隆が生れます。
そんな中、明智家は丹波国を、細川家は丹後国を見事平定・・・拝領し、順風満帆でした。
勝龍寺城での生活が、玉にとって一番幸せな時期でした。

玉は、美しいだけでなく、和歌、儒学、仏教にも精通していました。
才色兼備で、義父・細川藤孝も「一入 最愛の嫁」と絶賛していました。

1582年6月2日、結婚から4年がたった玉20歳の時・・・運命が急転します。
本能寺の変が起きるのです。
父・明智光秀が、主君である織田信長を討ったことで、謀反人の娘となってしまった玉・・・
これが悲劇の始まりでした。

ガラシャの悲劇①謀反人の娘

信長に謀反を起こした光秀は、すぐさま細川家に援軍を要請・・・
上洛し、味方に加わるように書状を送りました。
しかし、細川家が出した答えは非常なものでした。
「光秀は主君の敵」
光秀に味方することを拒んだのです。
当主の藤孝は、髻を切って息子・忠興に家督を譲ります。
主君信長への哀悼の意を示します。
昵懇であった実家と嫁ぎ先の対立・・・その狭間で苦しむ玉に・・・
織田家、細川家家臣たちから謀反人の娘・玉に対する離縁や自害を求める声があがります。

この時夫忠興が取った策とは・・・??

父を助けてほしい・・・愛する夫と一緒にいたい・・・そう願う玉・・・
夫・忠興に一縷の望みを託していました。
しかし、忠興は・・・「最早、共に暮らすことはできない」そう言って、玉を丹後国のはずれ味土野に幽閉してしまうのです。
明智軍記には、味土野に明智家の茶屋があったといいます。
忠興は、玉を実家ゆかりの地へ移すことで、様々な圧力から守ろうとしたのです。
そんな忠興の気持ちなど知る由もない玉は・・・
「(父上が)腹黒なる御心ゆえ
 自らも忠興に捨てられ
 微かなる有り様なり」と、認めています。
本能寺の変から11日後・・・1582年6月13日、山﨑の戦い
父、光秀は信長の家臣だった羽柴秀吉と戦い、惨敗・・・敗走する中、落ち武者狩りにあい落命・・・母や玉の男兄弟たちも命を絶ち、明智家は乱世に散りました。

玉は・・・数人の家老と侍女をつれ、陸の孤島で幼い子たちとも引き離され孤独の日々を送っていました。
この時、身籠っていた玉は、次男・興秋を出産。
そんな玉の支えとなっていたのは、身の回りの世話をしてくれていた清原いとという侍女でした。
このいとは、儒学者の娘で、玉の教養の高さは彼女の影響もあったようです。

秀吉の臣下となり武功をあげて行った細川忠興は、妻・玉の幽閉を解いてもらえるように秀吉に願い出ます。
秀吉は、あっさりと主君・信長の敵を許します。
この頃、秀吉自身は地位を不動のものとしていました。
徳川家康、織田信雄など周りに敵もいたので、忠興が自分の手足となって働いてくれるようにと思ってのことでした。
かつて大阪での大坂での屋敷のあった地に玉は戻ってきました。
しかし、その暮らしは幽閉生活よりも苦しいものでした。

ガラシャの悲劇②戦国一の美女
玉の幽閉中に側室を持ち、子まで成していた夫・忠興・・・たまに厳しく接します。
それは、かつての優しい夫ではありませんでした。
短気な忠興に、頑なになっていく玉の心・・・。
どうして忠興は玉に厳しかったのでしょうか?

”彼女に対して行った極端な監禁は、信じられぬほど厳しいものであった”byルイス・フロイス

そして出入りを逐一報告させました。
窮屈な生活を強いられていた玉・・・どうしてそんな必要があったのでしょうか?

理由❶謀反人の娘ということへの世間体を気にした
理由❷戦国一の美女だったので、忠興の過度の嫉妬がそうさせました。
     美しい妻が、他の男の目に触れることを嫌ったのです。

次第にふさぎ込んでいく玉・・・。
常に監視されている窮屈な暮らし・・・

玉を他の男の目に触れさせたくない・・・その心を最も駆り立てたのは、主君である秀吉でした。
忠興が秀吉の命で朝鮮出兵した時の事・・・
秀吉が九州の名護屋城に大名たちの妻子を招き、茶会を行うという噂を聞くと、忠興はいてもたってもいられず、玉に何度も手紙を送っています。
その中には歌も・・・

なびくなよ
  わが姫垣の
       女郎花
男山より
  風は吹くとも

女郎花とは玉の事、男山は秀吉の事・・・どんなことがあってもなびくなということです。
秀吉は女好きで有名で、留守見舞いとして家臣たちの妻を呼び寄せていました。
それであわよくば自分のものにしようと・・・そこを気にしていました。
そんな忠興に対して、こんな歌を返しています。

なびくまじ
   わがませ垣の
         女郎花
男山より
  風は吹くとも

そして茶会当日・・・玉はある覚悟をもって秀吉と謁見します。
秀吉の前に進み出て挨拶をした玉は、その懐からわざと短刀を落としたのです。
私に触れれば自害するという意思表示でした。
流石の秀吉もその覚悟を知り、そのまま帰したといいます。
とはいえ、自分の幽閉中に側室を持ったうえ、嫉妬・監禁というゆがんだ愛情表現・・・
玉の夫への不信感は強まっていきます。
そんな中でも、忠興のある話には熱心に耳を傾けました。
キリスト教の話です。
忠興は、親交の深かった大名・高山右近から聞いたキリスト教の教えを玉によく聞かせました。
何より自分の話を聞き、こちらだけを見てくれる・・・
玉の心を唯一引き止められる幸せな時間でした。

1549年、イエズス会の宣教師ザビエルによってキリスト教は伝えられました。
30年余りで全国に広まり、信者は15万人に達したといいます。
夫・忠興からキリスト教の話を聞かされた玉は、その教えに大きく心を動かされました。

「神の前では何人も平等であり、愛をもって接しなければならない」

玉は、教会に行き、もっと教えを聞きたいと思うようになっていきます。

ガラシャの悲劇❸キリシタン
厳しい監視の中、外に出ることのできない玉に、チャンスが巡ってきたのは1587年3月のことでした。
夫・忠興が秀吉の命を受け、九州討伐へ・・・!!
大坂の屋敷を離れたのです。
玉は、病気と偽り部屋に籠ると監視の目を欺き、侍女たちと屋敷を抜け出します。
向かったのは、天満の教会です。
玉は、日が暮れるまで宣教師にキリスト教の教えについて質問を繰り返しました。
玉に会った宣教師は・・・イエズス会日本通信にこう書いています。

”これほどの理解力を持つ聡明な日本女性を見たことがない
 明晰かつ果敢な判断ができる女性であった”

玉は、すぐに洗礼を受けることを望みましたが、かないませんでした。
細川家の素性を明かさない玉を、宣教師が怪しんだからです。
諦めて屋敷に戻った玉でしたが、その後、外出の機会がもどってくることはありませんでした。
そこで、どうしてもキリシタンになりたかった玉は、まず侍女・清原いとに洗礼を受けさせます。
そしてそのいとから洗礼を受け、ようやくキリシタンとなったのです。
洗礼名はガラシャ・・・ラテン語で神の恩恵という意味です。
玉という名から連想された”賜る”からつけられたといわれています。
この時、25歳でした。

どうしてガラシャはそこまでしてキリシタンになりたかったのでしょうか?
儒教の”三従の教え”から解き放たれたかったのでは・・・??
三従の教え・・・子供の時は父に、結婚してからは夫に、年老いたら長男に従うというものです。
女性は生涯男性にしたがうという三従の教えから解き放たれたかったのです。
そして三男の忠利が病弱だったため、その回復を願ったのだともいわれています。

キリシタンとなって充実な日々を送っていたガラシャですが、生きる希望となっていたキリスト教が、またもや悲劇を起こします。
1587年6月・・・九州を平定した秀吉が、キリスト教への入信および日本人奴隷の売買への禁止、宣教師の国外退去を命じる伴天連追放令を発布しました。

秀吉は、実際に九州に足を踏み入れて、キリスト教が強くなってきていることに気付いたのです。
長崎の出島をイエズス会が占拠している・・・!!
憤りを感じているところへ、日本人の男女が奴隷として東南アジアへと売られていったことを知ります。
そしてキリスト教徒の結束力の強さ・・・そこに信長が苦しめられてきた一向一揆と同じものを・・・結束力の恐ろしさを感じたのです。
秀吉のキリシタンに対する迫害は、次第に強くなっていきます。
大名たちにもキリスト教を禁止・・・破ったものは領地没収など厳しく接します。

秀吉がキリスト教への締め付けを強める中、ガラシャは娘や侍女たち、家臣たちにも洗礼を受けさせていました。
これに激高したのは九州から帰ってきた細川忠興でした。
忠興は、ガラシャの喉元に短刀を突き付け改宗することを迫りましたが、ガラシャは決して首を縦に振りませんでした。
そこで、忠興は、洗礼を受けた周りの者たちを攻撃し始めます。
キリシタンとなった侍女たちの髪を切ったり、鼻や両耳を削ぎ落され屋敷の外に追い出されるものまでいました。
忠興自身もキリシタンに共感している部分もありましたが、秀吉も伴天連追放令を出したことに従うほか、家を守れませんでした。
妻がキリスト教にのめり込んでいく・・・立場上許せませんでした。
ガラシャは、忠興との離縁を望むようになります。
侍女を通じて宣教師に相談するも・・・・キリスト教では離婚は禁じられているといわれます。
ガラシャは覚悟を決めて宣教師に手紙を書きました。

「どのような迫害を受けようとも、私の信仰はかわりません」

厚い信仰心で自らの人生に立ち向かう決意をしたガラシャでしたが、時代の大きな波にのまれようとしていました。
1598年8月18日、天下人・豊臣秀吉死去・・・
秀吉亡き後、天下を狙って暗躍する徳川家康と豊臣政権を守ろうとする石田三成が対立・・・
再び戦乱に・・・
徳川家康の東軍7万8000VS石田三成の西軍・8万4000!!
天下分け目の関ケ原の戦いが始まりました。
しかし、この大戦は、わずか半日で決着・・・!!家康の東軍の圧勝で終わりました。
この勝敗に大きく関係していたのが、細川ガラシャだといわれています。
関ケ原の戦いとガラシャの関係とは。。。??
関ケ原の戦いの3か月前・・・細川忠興を始め多くの大名たちが家康に反抗していた上杉討伐の為に会津へと向かいます。
大坂城下に残されたのは、夫を待つ妻たち・・・。
三成は、敵対する大名の妻子を大坂城内に人質にとる作戦に出ます。
人質として三成がどうしても欲しかったのがガラシャでした。
ガラシャを人質にすれば、妻を溺愛する忠興は必ず寝返りする・・・!!
そうなれば、他の大名たちの次々と味方に付くだろうと考えたのです。

7月16日、三成の使者が大坂城下の細川家の屋敷を訪れて・・・
「御上様(ガラシャ)を人質として差し出すように・・・さもなければ屋敷に押しかける」
この時、大坂に残った細川家の重臣たちが出した結論を、侍女が書き残しています。
”一人も人質なし”と・・・!!
絶対に人質になってはいけないというのです。
この判断の元、ガラシャは人質になることを拒絶!!
すると翌日・・・石田軍によって細川家は取り囲まれてしまいます。
危機が迫る中、ガラシャの脳裏によぎったのは夫の言葉でした。

「いざという時には、そなたも細川忠興の妻として自害するように。」

ガラシャは悩みます。
キリスト教では自殺は禁止されていました。
しかし、このままでは人質として捕らえられてしまう・・・
そうなれば、妻としての面目が立たない・・・!!
神への祈りをささげたガラシャは侍女たちを集め、自らの覚悟を話します。

「私はひとりで死にます。
 皆は逃げよ・・・!!」

そして、夫に宛てた遺言を託すのです。

「側室を正室代わりにされることはないように」

妻の意地を見せたガラシャに、最早迷いはありませんでした。
そして家老である小笠原秀清に言います。

「私の胸をその長刀で突きなさい」

自害せず、家臣に殺させることでキリストの教えを守り、死によって大名の妻として細川家を守ったのです。
残った家臣たちもガラシャに続いて自刃・・・屋敷に火が放たれ、遺体は炎に包まれました。
細川ガラシャ・・・この時38歳・・・妻の死が、上杉討伐に行っていた夫・忠興の元に伝えられたのは数日後のことだったといいます。
この一連の出来事について細川家の記録にこう書かれています。

「自害せしむるの間 三成怖れて 人質を取り入ることならず」

ガラシャを死なせてしまったことで、三成は怖気づいてしまったのだ・・・と。
この事件が、三成が正室を人質にとる作戦を諦めさせる原因となりました。
結果、関ケ原の戦いで家康が不利にならずに済んだのです。

男たちの争いに翻弄されたガラシャの辞世のうた・・・

散りぬべき
   時知りてこそ
       世の中の
花も花なれ
      人も人あれ

散り際を知っている花は美しく、私もそうなりたい・・・
その潔い死は、歴史を大きく変えたのでした。

キリスト教が禁じられている中、忠興は妻の葬儀を教会で行いました。
その際、涙を流し泣き続けたといいます。
そして忠興は亡くなる83歳まで正室を迎えることはありませんでした。
ガラシャの遺言通り・・・
本能寺の変、関ケ原の戦いと、戦国の覇権争いに巻き込まれ、波乱の人生を送ったガラシャ・・・
自らが招いたわけではない悲劇に、何度も身を引き裂かれるような思いをし、キリスト教という救いに出会い、慈悲深い心で戦乱の世を必死に生き抜きました。
ガラシャはまさに戦国の世を象徴する女性でした。

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細川ガラシャ キリシタン史料から見た生涯 (中公新書)

昭和の選択です~~!!

明治38年日本海軍連合艦隊が世界を驚愕させました。
当時世界最強と謳われたロシア・バルチック艦隊を完膚なきまでに撃破したのです。
日露戦争の体勢を決したのです。
この時、連合艦隊の巡洋艦・日進に乗り込んでいたのが、海軍兵学校を卒業したばかりの山本五十六です。
未来の連合艦隊司令長官は21歳の若さでした。
完璧な勝利をおさめた日本海海戦でしたが、山本は戦闘中の事故で大けがを負います。
山本は左手の指2本を失っていました。
明治・大正・激動の昭和を軍人として生きた山本は、戦争回避を信念とするに至ります。
しかし、連合艦隊司令長官となった山本は、作戦立案を迫られます。
親友に宛てた手紙には、対米戦争の悲痛な思いが綴られていました。
山本をアメリカとの戦争に向かわせたものは何だったのでしょうか??
その葛藤と選択は・・・??

日本海海戦からおよそ15年後、35歳の山本五十六はアメリカ駐在を命じられます。
そののちは大使館付武官として合計3年を過ごします。
山本が目の当たりにしたのは、アメリカの豊かな石油資源と大量生産システムによる工業先進国の姿でした。
中でも山本の興味を引いたのは、航空機の発達でした。
第一次世界大戦で新兵器として登場した飛行機は、その後も研究されていました。
第一次世界大戦後、各国は平和を求め戦艦など主力艦などの保有量のを制限する軍縮会議を開きました。
山本の兵学校時代からの親友・堀悌吉は、この会議に随行していました。
日本はイギリス5:アメリカ5:日本3.5の保有を主張しましたが、日本3(6割)に抑えられます。
日米の国力差を知る全権・加藤友三郎海軍大臣は、堀悌吉にこう言って条約に調印しました。

「平たく言えば金がなければ戦争は出来ぬということなり
 結論として日米戦争は不可能ということ」

加藤や堀の考え・・・国力でいったら、過大な比率をもらっていると考えたのです。
しかし、日本3を単純に数字が低いというところに引っかかる人も多かったのです。

ワシントン会議集結8年後のロンドン海軍軍縮会議で、巡洋艦、駆逐艦などの補助艦が制約を受けることとなります。
度重なる軍縮は、海軍内に大きな軋轢を生んでいきます。
国際的な軍縮条約を順守しようとする条約派と、反対する艦隊派とに分かれます。
艦隊派は巨大戦艦で大砲を撃ち合う大艦巨砲主義を中心に置きます。
艦隊派を支持していたのは、軍令部のTOP伏見宮博恭王・・・艦隊派は、伏見宮の力を背景に、条約派の軍人を次々に引退させていました。
堀悌吉は、条約派の中心にいました。
堀の処遇に危機感を抱いた山本は、伏見宮と直談判に及びます。
山本はこの時の発言を書き残しています。

「堀たちは、事実とすこぶる異なる悪評を立てられております
 人事が汚れなく、神聖公明に行われることが、海軍結束の唯一の道であります」

しかし3か月後、堀も予備役に編入され、現役を去ります。
その翌年、山本は海軍航空本部長となり、国産航空機の開発に尽力します。
これがのちにアメリカを震撼させる零戦の誕生へと繋がっていきます。
アメリカでの経験から、山本は今後、航空機が戦争の主力となることを見通していたのです。

昭和11年、山本は海軍次官として海軍省への出所を命じられます。
海軍次官は、海軍大臣を補佐しながら軍を政治面から動かす重要な役職でした。
翌年、山本と旧知の間柄の米内光正が海軍大臣として就任。
米内とのコンビで、山本は国政に参画していくこととなります。

山本が海軍次官を務めていた昭和12年7月・・・北京郊外盧溝橋での衝突がきっかけで、日中両国は全面戦争に突入しました。
この戦争で、山本が育てた海軍航空部隊は都市部への爆撃を展開します。

日中戦争がはじまった翌年、日本はドイツ・イタリアと軍事同盟を結ぶという動きに出ました。
日本陸軍は、ドイツ、イタリアの力を頼りに、中国を支援するイギリス・アメリカをけん制しようと考えたのです。
しかし、海軍はこの同盟締結に断固反対でした。
三国同盟を結ぶと、即座にアメリカが日本を敵視とする・・・
アメリカと大変な衝突関係になってしまう・・・!!
戦力物資の輸出が止まってしまうどころか、戦争になる可能性があると思う海軍の軍人はたくさんいました。
日本の石油の殆どは輸入に依存し、そのほとんど・・・8割がアメリカからでした。
米内海軍大臣や、古賀軍令部次長ら海軍上層部は、一丸となって反対しました。
アメリカの国力を知る海軍次官・山本は、反対の急先鋒でした。
強硬に反対する山本には、同盟推進派による暗殺まで計画されました。
身辺に危険を感じた山本は、この時覚悟のような遺書を残しています。

”勇戦奮闘
 戦場の華と散らむは易し
 誰かし至減一貫 俗欲を排し斃れて後 巳むの難きを知らむ
 此身滅すへし 此志奮ふ可からず”

昭和14年8月・・・
三国同盟締結に山本らが反対を貫いていた時、ドイツは突然ソ連と”独ソ不可侵条約”を結びます。
ドイツと共にソ連を挟み撃ちにしようと考えていた同盟推進派の目論見は外れ、三国同盟は立ち消えとなります。
ヨーロッパ情勢を見誤った内閣は退陣・・・山本も海軍省から転出することになりました。
新たなポストは、海軍の花形・・・連合艦隊の司令長官という重職でした。
山本の就任直後、ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発。
軍政を離れ艦隊に復帰した山本は、この後、激動する世界情勢の中で苦悩することとなります。

瀬戸内海の小島・柱島・・・
標高およそ280mの山頂にレンガ積みの建物が残されています。
海軍が建設した海軍見張り所の跡です。
ここで何をしていたのか・・・??
柱島は、呉の海軍工廠に近く、大艦隊が停泊するには十分な位置にありました。
山本が指揮する連合艦隊は、この柱島の南2キロに停泊することを常としていました。
山本が司令長官に就任した直後に始まった第二次世界大戦・・・
ドイツは破竹の勢いで勝ち進みます。
わずか1年足らずの間に、オランダ、フランスなどがドイツの軍門に下ります。
日本ではドイツの勢いを受け、再び日独伊三国同盟締結への機運が高まります。
アジアのオランダ領、フランス領の資源を確保しようという動きでした。
アメリカはこれに反発し、航空機用ガソリンや、鉄くずの対日輸出を禁止するという強硬な態度に出ました。
抜き差しならない状況で、山本は海軍首脳部が集められた席上で、三国同盟締結への賛同を求められました。
伏見宮王らがリードして、海軍も同盟を承認する動きに出ていたのです。
アメリカとの戦争に反対の山本は、連合艦隊司令長官として不満を表しました。

”重油は何処よりとるや
 鉄は何処より入るや”

核心を突いた問いかけでしたが、黙殺され、海軍は同盟締結に賛成しました。

昭和15年9月27日、日独伊三国同盟締結。
いよいよ対米戦争が現実味を帯びてきました。
山本は、首相・近衛文麿に呼ばれ、対米戦の展望を問われました。

「ぜひやれと言われれば、初めの半年か一年は、随分暴れて御覧に入れる
 しかしながら、2年3年となれば、全く確信は持てません
 三国同盟ができたのは致し方ないが、こうなったうえは日米戦を回避するよう、極力ご努力願いたい」

アメリカとの戦争を回避したい山本・・・
しかし、司令長官として連合艦隊を率いなければいけない職責が重くのしかかります。

もはや、アメリカとの戦いは避けられないのか・・・??
しかし、国力の差を考えると、勝てる見込みはない・・・
発展目覚ましいアメリカには、豊かな石油資源まであるのだ。
例え戦争になったとしても、なんとか早期に講和へと持ち込まなくてはならない・・・!!
戦いが長引けば、苦しい戦況に陥ることは間違いない・・・

今まで育ててきた航空兵力を用いて奇襲攻撃を立案するしかないか・・・??
緒戦で大きな打撃を与えれば、アメリカの戦意を喪失させることができるかもしれない。
そのためには、奇襲作戦しかない・・・??
いや・・・アメリカと戦争をしてはいけない・・・!!
国が兵を養っているのは、戦うためではなく平和を守るためなのだ・・・!!
かつて三国同盟締結を阻止したように、軍と国政を動かすことができないだろうか・・・??
戦争回避を願うものは、海軍内にもたくさんいる。
既に退役されている米内大将に復帰していただき、伏見宮殿下に代わって軍令部総長についてもらって海軍の方針を変える・・・??
大軍大臣も務めた米内大将なら、海軍内の意見をまとめて戦争を回避することができる・・・??

海軍が動かねば、アメリカとの戦争は不可能なのだ・・・!!
対米戦争回避への道は残されているのか・・・??

昭和16年1月7日付の山本直筆の文書には・・・
厳秘と書かれた文書は、前年11月に海軍大臣に提示した山本の考えの覚書です。
従来の作戦で、机上の演習を繰り返しても、日本海軍はアメリカの勝つことは出来ず、このまま戦ってはじり貧に陥ってしまいます。
そこでまず遂行すべきなのは、開戦後真っ先に敵の主力艦隊を猛烈に攻撃してアメリカ海軍と国民の士気を失わせることです。
そのため、敵主力艦隊がハワイ真珠湾に停泊している場合、航空部隊で徹底的に撃破いたします。
月明かりの夜か、夜明けを狙い、全航空兵力を使って全滅覚悟で強襲・奇襲をかけるのです。

山本は、アメリカ太平洋艦隊の基地・ハワイ真珠湾を全力で攻撃する奇襲作戦を立案しました。
しかし、この文章の末尾にはこう書かれています。
”堂々の大作戦を指揮すべき大連合艦隊司令長官は、他にその人ありと確信する次第なり
 大臣にはその名前を告げ、伏見宮総長にも申し上げた”
山本は第二艦隊司令長官となっていた古賀峯一にその名を明かしています。

「此上は一日も早く 米内氏を使用の外なし」と。

さらにアメリカとの戦争回避のため、米内の軍令部総長への起用も進言していました。
山本は、奇襲作戦を立てながらも、戦争回避の人事工作を画策していたのでした。
この相反する考えは・・・??
軍人として「やったら負ける」とは言えない・・・
常識的に考えて出来ない作戦を要求して、出来ないといわれたら
「それじゃあ今はできません」と言いたかったのか・・・??

山本が望んだ人事が実現されることもなく、最後の望みを天皇の決断にゆだねるほかはありませんでした。
その苦しい進駐を堀に送っています。

「最後の聖断のみ残されておるも、個人としての意見と正確に正反対の意見を固め、その方向に一途邁進の外なき現在の立場は、真にへんなものなり。
 之も命というものか・・・。」

昭和16年11月、山本はまだ戦争回避の望みを捨てていませんでした。
ハワイ攻撃を準備する艦隊首脳陣に、日米交渉が今も続けられていると告げました。
交渉妥結の場合は、12月7日午前1時までに引き上げを命じると付け加えました。
山本のギリギリにして苦渋の選択でした。

しかし・・・山本はその時を柱島沖の連合艦隊旗艦長門で迎えました。
昭和16年12月8日未明・・・山本が放った奇襲部隊は作戦を成功させました。
真珠湾に停泊中の戦艦4隻を撃沈し、航空機200機以上を破壊するという戦果を上げたのです。
国内はこれに湧きます。
ところが・・・アメリカ太平洋艦隊の空母3隻は真珠湾にはおらず、決定的な打撃は与えていませんでした。
アメリカとの航空兵力の差を知る山本は、不安を募らせていました。

”現在の航空にては 今春伊吾 心細き限り”

山本の想像通り、アメリカは迅速に巻き返しを図ります。
これ以後日米海軍は、太平洋上で熾烈な戦いを繰り広げます。
昭和18年4月18日、山本はラバウルから最前線の視察のために飛び立ちました。
之を事前に察知したアメリカ軍は、パプアニューギニア・ブーゲンビル島の上空で待ち伏せし、山本の搭乗機を撃墜しました。
わずか4分ほどの交戦だったといいます。
翌日、墜落機の座席で山本の遺骸が発見されます。
かつて日本海海戦で二本の指を失った左手に軍刀を握り右手を添えていたといいます。

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