日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

紀元前200年の中国大陸・・・
民に圧制を敷く秦帝国を倒そうと立ち上がった二人の英雄がいました。
ひとりは若きエリート将軍の項羽。
戦の天才と謳われ無類の強さを誇りました。
もう一人は農民出身の劉邦・・・この時すでに40歳を過ぎていました。

地方の小役人だった劉邦は、酒と女が大好きなダメおやじ。。。
項羽と戦っても負け続けた劉邦・・・そのたびに、命からがら逃げ続けました。
ところが、最後に天下を握ったのは劉邦でした。
人生の半ばでセカンドチャンスにかけた劉邦・・・皇帝に上り詰める奇跡の大出世を遂げます。
どうして天下をとれたのでしょうか・・・??

紀元前221年、圧倒的な武力で史上初めて中国を統一した秦の始皇帝・・・しかし、秦は、万里の長城や始皇帝陵などの建設など、民に重い負担を強いて各地に反乱を招きました。
そうした民衆を率いたのが劉邦です。
しかし、彼は40過ぎまで自他楽な生活を送っていました。
そんなダメおやじが、どうしてリーダーになったのでしょうか?
劉邦は、現在の北京と上海の間の農村地帯・沛県に生れました。
紀元前91年ごろに完成した中国の歴史書「史記」によると・・・
農家に生まれた劉邦は、家業を嫌い定職にも就かず、酒と女が大好きな自他楽な生活が好きなダメおやじでした。
そんな劉邦・・・一つだけ長所がありました。
それは人相です。
花が高く、美しい髭を蓄えた竜顔の持ち主でした。
竜顔は天子の顔と言われ、徳の高い証でした。
そのせいか、彼がただ酒を飲んでいるだけで人が集まってきました。
そんな不思議な魅力を持つ男でした。
劉邦はその人望を買われて地方の小役人となり、結婚・・・
しかし、40歳を過ぎた頃、劉邦の運命は大きく変わることとなります。

紀元前210年、秦の始皇帝が死去・・・
これをきっかけに重い税と過酷な労働を強いていた秦に対し、各地で反乱が起きました。
各地で起きた反乱勢力は、やがてかつて秦に滅ぼされた楚に集まりました。
そして国王を擁立して楚を復活させ、反乱軍の中心にしました。
この時、劉邦も反乱に加わり、反乱軍のリーダーの一人となっていました。
軍といっても劉邦のもとに集まったのは、戦の経験もない農民たち・・・寄せ集めの集団でした。
楚に続々と集まってくるリーダーたち・・・楚の国王は宣言します。

「先に関中を平定したものをその地の王とする」と。

関中とは、秦の都を中心とする地域で、その王になるということは秦帝国を滅ぼすことを意味していました。
王の地位を夢見た劉邦は、打倒秦を目指して、早速関中を目指します。
そこに立ちはだかったのが、最大のライバルである項羽でした。
項羽・・・今も絶大な人気を誇る武将です。
項羽はこの時20代の若武者で、祖父はかつての楚の将軍というエリートでした。
身長180cmを超える大男で、頭がよく、力持ちだったといいます。
圧倒的な武力を誇る項羽軍は、まず秦の主力がいた城に向かって北上します。
そして、秦の主力20万人と激突!!
しかし、項羽の兵はわずか2万・・・賭けに打って出ます。
項羽は自分たちの乗ってきた船を川に沈めました。
三日分だけの食料を残して捨てさせます。
もはや・・・負けたら死ぬしかない・・・自軍をわざと窮地に追い込んで、兵士の力を引き出す作戦です。
楚の戦士は、一人で10人の敵を相手にしました。
その雄たけびは、天をも動かすほどでした。
追い込まれた項羽の兵はすさまじく、10倍もの進軍を撃破!!
しかし、項羽のすさまじさはこれにとどまりませんでした。

「秦軍をすべて生き埋めにしろ!!」

戦いで捕らえた20万人の兵を生き埋めにしたのです。
項羽の強さと残虐さは、この戦いで知れ渡ったといいます。

一方、南側から秦の都を目指した劉邦軍の戦いは、項羽の軍とは対照的でした。
劉邦軍が秦の南の拠点に迫った時・・・反乱軍の勢いに押され、秦の終わりを悟った司令官は命を助けてくれるのなら降伏すると和平を持ちかけてきたのです。
それに対し劉邦は一言こう言いました。

「善」

劉邦が秦の民に対して”力で抑えるのではない””人を殺すのではない”という認識を与えました。
劉邦軍は寛大だという噂はすぐに広まり、秦の拠点は次々と劉邦に降伏していきました。
その結果、劉邦は項羽よりも早く秦の都に到着し、王の権利を得ます。
すでに主力軍を失った秦王に抵抗する力はなく、劉邦に降伏・・・
ここに秦は滅亡するのです。
この時、劉邦は秦王の命はとりませんでした。

「楚王が私を派遣したのは、私の寛容さに期待してのこと、それを裏切ることはできない」

敵の命乞いには寛容だった劉邦ですが、聖人君子だったわけではありません。
秦王朝の財宝や美女たちを手あたり次第漁ろうと、喜び勇んで宮殿に入りました。
軍師の張良が劉邦を諫めます。

「天下のために動こうとするならば、目の前の快楽に我を忘れてはなりません
 それは暴君のすることと同じです」by張良

張良は、戦の素人集団を支えた名軍師でした。
劉邦は全幅の信頼を寄せていました。
張良の言葉を聞き、劉邦は略奪はせずに宮殿を出ます。

項羽より先に秦の都に入った劉邦・・・事前の約束では劉邦が王になるはずでしたが、項羽が猛反発!!
武力行使に出ます。
そして迎えた項羽と劉邦の直接対決・・・劉邦は項羽と何度も対決して、何度も負けています。
どうして項羽に負け続けたのでしょうか?
秦の都に一番乗りした劉邦は、
「項羽が都に入れないようにするべき」という部下の意見を聞き入れ、都への入り口を封鎖。
項羽を締め出しました。
これを知った項羽は激怒・・・!!
劉邦に後れを取ったとはいえ、秦の主力を倒した我こそ王になるべきなのに・・・!!

「劉邦を討つべし!!」

項羽は劉邦が封鎖していた都の入り口を突破!!
宮殿の外に、屈強な40万の兵を揃えました。
劉邦軍がわずか10万・・・!!
圧倒的な戦力の差を見せつけられた劉邦は、戦わずして負けを認めます。
みずから項羽の陣へ赴きます。
劉邦は、項羽に臣下の礼をとってこう言いました。

「私は、項羽将軍と力を合わせて秦を攻めました。
 ところが、思いもよらず私が先に都に入ることになってしまったのです。」

自分はあくまで項羽の部下であり、野心がないことを訴えます。
この時、項羽の軍師は、劉邦は危険だと進言します。

「かつて欲が深かった劉邦が、宝物にも女にも手を付けていない・・・
 これは、まさに劉邦の天下取りの志が小さくないということの現れです。
 今のうちに劉邦を亡き者にすべきです。」

項羽の軍師は劉邦を宴に招き、事故に見せかけた暗殺計画を立てます。
宴もたけなわになると余興の演舞始まります。
劉邦に華麗な舞から鋭い切っ先が迫ります。
飛び込んできたのは、危機を察した劉邦の部下でした。
異様に張り詰める空気・・・その時項羽は・・・ 

「壮士なり」

身を挺して守ろうとした部下の勇気を称え、項羽は肉と酒を与えてもてなしました。
劉邦はその隙に厠に行くふりをして逃走・・・!!

その数日後、項羽は清の都に入城!!
項羽のやり方は、劉邦とは真逆でした。
秦の王や王族を殺し、宮城に火を放ったのです。
都を焼く炎は、三か月続いたといいます。
その後、項羽は西楚を本拠地としました。
自らを「西楚覇王」を名乗り、18人の王に領地を分割!!
この時、劉邦も王として土地を与えられました。
しかしそこは、山ばかりで作物の育たないへき地でした。
項羽の横暴な振る舞いはエスカレート・・・楚の帝を殺害します。
あまりに無道な行いに対し、諸侯の怒りが噴出します。
反項羽の機運が高まるのを感じた劉邦は”打倒項羽”を諸侯に呼びかけます。
すると、続々と劉邦のもとに集まってきて・・・その数56万人の連合軍となりました。
西楚を攻撃します。
この時、項羽は遠征に出ていて留守だったために、連合軍が圧勝します。
勝利に意気上がる連合軍・・・占領地では略奪が横行し、酒宴に明け暮れる兵士が続出します。
これは劉邦の主義に反する行為ですが、劉邦に統制をとる力はありませんでした。
そんな中、劉邦が恐れていたことが・・・
項羽が遠征から戻ってきたのです。
項羽は3万の精鋭で連合軍を攻撃!!
勝利に気が緩み連合軍は10数万人が戦死しました。
項羽の追っ手に迫られた劉邦は、馬車から自分の子どもを蹴り落して逃げたといいます。
劉邦は3度も子供を蹴り落しましたが、その都度部下が馬車を止めて子供を拾い馬車に乗せました。
命からがら逃げかえった劉邦・・・自らの領地に戻ることもできずに、味方を求めてさまようことに・・・。

戦に負け続け、決して強くはない劉邦を支えたのが漢の三傑と言われた男たちでした。
優れた政治力で領地を治め劉邦軍を陰で支えた蕭何、的確な策と助言で劉邦軍を勝利へと導いた軍師の張良、劉邦が戦場で全幅の信頼を寄せる代将軍の韓信・・・どうして劉邦は自分よりも優れた者に慕われたのでしょうか?

連合軍が大敗北を喫したのち、劉邦は単独で項羽に向かうも負け続け、ジリジリと戦線を後退させていきました。
このままでは項羽に攻め滅ぼされてしまう・・・
そこで散り散りになった味方を集めるという任務に一人の男を抜擢します。
それが韓信です。
劉邦軍最強と称えられる韓信ですが、実は元項羽の部下でした。
韓信は何度も項羽に献策しますが、聞き入れてもらえません。
項羽に愛想をつかし、劉邦のもとにやってきたのです。
そんな韓信の勇猛ぶりは・・・
ある戦いで、20倍の敵を目にした韓信は、驚くべき行動に出ます。
川を背にしてわざと逃げ場のないところに陣を敷いたのです。
常識では考えられない無謀な行い・・・
後退すれば川に落ちて死ぬ・・・
ならば、攻めて前に出て討死しよう!!
死に物狂いで戦う韓信の軍は、遂に20倍もの敵を蹴散らしました。
韓信の戦いは背水の陣の言葉のもとになったといいます。
部下は、劉邦にこう進言します。

「韓信は、一国に二人といない優れた人物、国士無双です。」と。

劉邦は、韓信が項羽軍の武将であったにもかかわらず、大将軍に抜擢するのです。
劉邦が韓信に与えた使命は・・・
当時、項羽に恐れをなし、劉邦の連合軍から離脱する諸侯がたくさんいました。
韓信は、兵を率いて彼らを攻め、武力で従えて再び劉邦軍に参加させました。
諸国を回り敵を次々と従えていく韓信・・・遂に斉まで制圧・・・しかし、この時劉邦に韓信から意外な手紙が届きます。

「斉は嘘つきでこれまで裏切りを繰り返してきた国です。
 ついては私を仮の王にでもしていただかないと斉を治めることはできません。」

斉を従えるどころか、自ら王になりたいと言い出した韓信・・・
模試や裏切りでは・・・??と、激しく憤る劉邦。。。
しかし、この時、張良が劉邦に助言しました。

「ここは韓信を信じて望み通りになさいませ」

そこで劉邦は、韓信に意外な返事をします。

「有能な韓信が諸侯を平定したのだ
 仮の王とは言わず、真の王になるがよい」

これまでの働きを考えれば、お前が王になる資格は十分にある・・・この劉邦の計らいに、大いに感動する韓信。

「私の策を信じ、採用し、大将軍にもしてくれた
 すべては劉邦様のおかげ」

韓信がこうして国々を巡っていた頃、劉邦は広武山で項羽の進軍を食い止めていました。
広武山は、天然の要害で、さすがの項羽軍の攻めあぐねて膠着状態になっていました。
戦いが長引いたことで、項羽には焦りが生じます。
率いてきた数十万の兵士の食料が尽きかけていたのです。
遂に項羽は広武山の断崖に立ち、劉邦に呼びかけます。

「何年もの間、天下が乱れているのは、私たち2人のせいだ
 これ以上、民を苦しめるべきではない
 1対1で決着をつけようではないか」

しかし、劉邦は笑ってとりあいませんでした。

「力勝負はしない・・・!!」

つづけて劉邦は、項羽を激しく断罪します。

「項羽よ、お前はかつての秦の都に入り、暴虐非道の限りを尽くしこれを焼き払った
 お前はかつて、自分勝手に領地分けを行い、私を辺境の地に追いやった
 おまえはかつて、自らの主君たる楚の帝を殺した
 どれも天下の誰もが許すことのない極悪非道の罪である」

項羽の非道を堂々と断罪した劉邦・・・この言葉に共鳴した諸侯が次々と合流・・・
そして韓信は、30万もの見方を率いて劉邦のもとに向かっていました。

睨み合いを続ける劉邦と項羽・・・食糧は尽きかけ、不安が募ります。
しかし、劉邦軍にはその心配がありませんでした。
それは、三傑の一人・蕭何がいたからです。
領国の土地を豊かにし、民を増やし、前線に食料を送っていました。
当時の戦争で最も大事なことは、戦場の局面ではなく後方からの補給でした。
食糧がなければ戦争はできないのです。
項羽軍の弱点は、補給が不足していたことです。
1年が過ぎるころには、項羽軍は深刻な食糧難でした。
そのため、兵力の体力も士気も下がってしまう・・・。
ついに項羽は劉邦と和平を結びます。
本拠地に戻って立て直そうとしたのです。

撤退を始めた項羽軍・・・ようやく故郷に帰れると、兵士たちはホッとしていました。
しかし、劉邦軍では

「今こそ、項羽軍を討つ好機です」by張良

劉邦は約束を破り、項羽軍に追撃をかけました。
不意を突かれた項羽軍は総崩れ・・・項羽は何とか追撃を逃れ垓下にたどり着きます。
古くからあった城に籠城します。
この垓下城は、詳しい場所がわからず、真偽のほどはわかりませんでした。
が、2007年実際にあったことが確認されています。
項羽が籠城した城は、川と堀に囲まれた小高い丘にあり、東京ドーム4個分の難攻不落の要害でした。

劉邦は、籠城する項羽軍を幾重にも包囲・・・城は簡単には落ちそうにありません。
そこで劉邦は・・・??
何十万もの劉邦軍の兵士に、項羽の故郷・・・楚の国の歌を歌わせたのです。
東西南北・・・四方から聞こえる楚の歌を聞いた項羽は・・・

「なんと楚の人が多いことか・・・
 楚はすべて、劉邦の手に落ちてしまったのか・・・??」

項羽は楚の国が陥落し、楚の民が劉邦軍のものになったのだと思い込んで涙を流したといいます。
四面楚歌という言葉はこれから生まれました。
追いつめられた項羽軍は残りわずか・・・食料も尽きようとしていました。
項羽は800の兵を率いて城を出ると、劉邦に最後の戦いを挑みます。
しかし、やがて力尽き・・・長江のほとりで自害して果てました。
31歳・・・紀元前202年のことです。

何度も負け続け、しかし、最後に勝利した劉邦・・・
後に劉邦は天下をとれた理由についてこう語っています。

「わしは張良のように策を巡らし、戦場の勝敗を決することはできない
 わしは蕭何のように民を愛し、食料の供給を絶やさず安心させることはできない
 わしは韓信のように軍を率いて戦いに勝つことはできない
 だが、わしはこの3人の英傑を使いこなすことができた
 これが、わしか天下を勝ち取った理由だ」

紀元前202年 劉邦が皇帝に即位。
その後400年続く漢の誕生です。

しかし、皇帝となってからの劉邦は、人が変わったかのように冷徹な行いをしました。
劉邦は部下やかつての連合軍の諸侯たちに反乱、逃亡、暗殺などの疑いをかけ、部下たちを粛正していきます。
部下たちのおかげで天下を取ったのに・・・。
その矛先は、打倒項羽の立役者・韓信にも向けられました。
韓信に謀反の疑いをかけて位を奪い斬殺!!
漢王朝をひらいてから7年・・・仲間の粛正を重ねる中、劉邦は戦いでできた傷が元でその生涯を終えます。
62歳でした。

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今からおよそ300年前の江戸時代前期・・・元禄14年3月14日・・・
江戸城松の廊下で後世まで語り継がれることとなる事件が起こります。
播州赤穂藩主・浅野内匠頭が高家筆頭・吉良上野介に殿中で斬りつけたのです。
内匠頭はこの事件からわずか7時間後に切腹処分・・・
それから1年9ヵ月後・・・
元禄15年12月14日・・・赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入って上野介を討ち、切腹に処されるまでの赤穂事件・・・。
これをもとに作られた芝居が忠臣蔵です。

「預置金銀請払帳」・・・吉良邸討ち入りまでにかかった経費を記した文書・・・忠臣蔵の決算書、かかった費用は現在の価値で8000万円以上!!
刃傷事件から討ち入りまで1年9か月・・・どのようにして使われたのでしょうか?

元禄14年3月14日、浅野内匠頭の切腹と共に赤穂浅野家のおとり潰しが決まりました。
そして国元の赤穂藩は、城を明け渡すことになりました。
これに際し、筆頭家老である大石内蔵助はいろいろな精算処理に迫られます。

一般的に、藩が取り潰しになると、領地・城・江戸屋敷は幕府に返上。
しかし、藩が蓄えてきたものは藩の財産です。
精算処理をする必要がありました。

換算レートは・・・
金一両=   12万円
金一分=    3万円
金一朱=   7,500円
銀一匁=   2,000円
銀一文=     30円

まずは、
①藩札の精算・・・
藩札とは、藩が独自に発行した紙幣で、商人たちに支払われたものですが、藩が消滅すればなくなってしまう・・・換金する必要がありました。
ただし、これが莫大で、赤穂浅野家の記録によると藩がこれまでに発行した藩札は銀900貫目=約18億円・・・藩の返還予算に匹敵する額でした。
藩札を持っていた商人たちは、刃傷事件から5日後には、銀に換えてほしいと札座に殺到します。
赤穂藩には替り銀と呼ばれる藩札に交換するための準備金・銀700貫目(約14億円)が用意されていました。
これを使えば、藩札の総額900貫目の大部分が生産でき、不足は200貫目となります。
内蔵助は残りの分を塩田に貸した運上銀で精算しようと考えていましたが、赤穂藩は大坂商人に借金をして財政の不足を補っていました。
運上銀を大坂商人への担保としていたために取り上げられてしまいました。

銀200貫目はいまの4億円・・・
内蔵助は浅野家の本家である広島藩などに借金の申し入れに走らせますが、どこもけんもほろろ・・・。
「藩札は6分替えで行う!!」
額面の6割で替えるというのです。
6割は540貫・・・これなら700貫目で賄えます。
商人たちも、踏み倒されるよりはましだと藩札を額面の6割で銀に交換しました。
こうして内蔵助は何とか切り抜けました。

しかし・・・
②最後の給料と退職手当
赤穂藩はおよそ300人の藩士を抱えていました。
藩が潰れると藩士たちは浪人となり、路頭に迷うことが目に見えていました。
そこで、倉から米を放出・・・この年の分を一括支給しました。
米1万7836石=現在の価値で16億5000万円!!
さらに割賦金という退職金も支給
金5,899両=現在の価値で7億1千万円!!
割賦金は、基本的に藩士の石高に応じて支給されるものです。
しかし、内蔵助は高い録を持っている者には支給割合を減らし、すぐに困窮するであろう小録の者に多く支給しています。
内蔵助自身は、割賦金の受け取りは辞退しています。
こうして赤穂藩は最後の給料と退職金をあわせて23億5000万円を藩士300人ほどに分配しました。
単純計算で1人780万円ほどの支給となりました。
しばらくは暮らしていける学でしたが、すぐに新しい生活の基盤を作らなければなりませんでした。
すべての残務処理を終えたのは、吉良邸討ち入りの1年6か月前のことでした。

この残務処理の際、赤穂藩が売ったものには・・・
船17艘・・・・・・・・・・・・銀17貫目=3400万円
具足・馬具・弓・槍・・・銀15貫目=3000万円
鉄砲150挺・大筒など

藩士たちもそれぞれ家財の整理を行い、赤穂城から立ち退いていきました。
4月19日・・・赤穂城は幕府に引き渡されます。

大石内蔵助の手元には残ったのは391両、浅野内匠頭の正室・瑤泉院の持参金の化粧料300両・・・691両・・・およそ8292万円が討ち入りの軍資金となります。

箱根町の箱根神社には、浅野内匠頭が書いた「預置金銀請払帳」が残されてます。
討ち入りまでの支出報告が記録されています。
最初に使った先は・・・金100両・・・紫野瑞光院への寄付です。
京都堀河にあった紫野瑞光院に亡き主君・浅野内匠頭の墓を立てることとなり、金100両を寄付したのです。
内蔵助は、内匠頭の菩提を弔うため、他にも複数の寺院に多額の祈祷料を支払っており、その総額は金127両3分・・・軍資金の2割近くになりました。
内蔵助はこの時点でお金を討ち入りに使おうとは思っていなかったようです。
第一に浅野内匠頭の仏事費用でした。
仏事費金127両3分=約1533万円

その後、内匠頭の弟で旗本となっていた浅野大学を当主とし、浅野家を再興させようと動いていました。

赤穂城を幕府に引き渡したのち、残務処理を終えた大石内蔵助は、親戚を頼り京都郊外の山科に移住します。
家族と暮らすための家と土地を購入し、全国各地に散らばった赤穂浪士たちと連絡を取りながら、浅野家の再興に紛争します。
お家再興には伝手が必要でした。
そのお金・・・交際費、工作費は65両1分(783万円)・・・このことから、内蔵助の願いはお家再興だったと思われます。
この時点での残高は、498両=5976万円でした。

他にもかなりの支出割合を占めているのが上方~江戸間の旅費でした。
上方の浪士たちが次々と江戸へ行っていました。
その費用金78両1分2朱と銀42匁=1000万円にも上りました。
金銀請払帳に、日付の記載はありませんが、元禄14年9月ごろ~11月ごろまでの支出と推測されます。
どうしてその時期に集中して行かなければならなかったのでしょうか?
その頃、赤穂浪士たちの中で意見が対立!!
あくまでも赤穂藩再興を目指す大石内蔵助ら穏健派と、堀部安兵衛達江戸詰めの急進派が主君の無念を晴らすのが家臣の務めであるとし、一刻も早く討ち入りすべしとしていたのです。

そんな中、元禄14年8月19日・・・討ち入りまで1年4か月・・・
吉良耕付之介が呉服橋門内から本所へ屋敷替えが行われました。
これに湧きたったのが、江戸の急進派です。

「江戸城から遠い屋敷に移したということは、幕府にも暗に仇討せよと言っているのではないか}
「上方は煮え切らぬ!上方へ行き、説得し、急ぎ討ち入りの算段をつけよう」

そうした江戸での動きを知った内蔵助は、急進派をなだめるために進藤源四郎や大高源吾をを江戸へ送ったのです。
その旅費の内訳は・・・
旅籠宿泊料・・・350文(1万円)
駕籠代・食費など(1日)・・・500文(約1万5000円)
大井川の川越し・・・約48文~100文(約1400円~3000円)
なので、山科から江戸までは14日かかるので、片道の旅費は一人当たり3両(約36万円)

当時の旅は、宿場宿場に泊まるので、それなりにお金がかかります。
元禄の世にしても1日3両で山科~江戸間を移動するのはお金に余裕のある旅でした。
ところが、旅費をかけて江戸に行った進藤たちは、急進派たちと意気投合・・・全く役に立ちませんでした。
江戸に送った使者が次々と急進派に取り込まれたため、何度も使者を送ることになりました。
そこで内蔵助は堀部らに文を送ります。

「まだるく思し召し候とも時節を御見合わせなさるべく候」

討ち入りするいい時期が来るまで待つようにと言います。
しかし、それでも不安な内蔵助はお供を連れて江戸に向かうのです。
その費用二人分で金23両3分、銀20匁・・・289万円でした。
残りは419両・・・5028万円となってしまいました。
吉良邸討ち入りまで1年1か月・・・!!
江戸急進派は内匠頭の一周忌までに討ち入りたいと思っていました。
内蔵助は討ち入りの期日を決める必要はないと考えていたのです。
安兵衛は期日が決まらないと決心が固まらないと主張したのです。
内蔵助は、翌年の春にもう一度相談しようと提案します。
江戸に集まると目立つので、京都の山科あたりで話し合おうと決定しました。
急進派は、内蔵助が討ち入りに同意したのだと考えて納得しました。

赤穂浪士たちに残された軍資金は、691両ありました。
しかし、内匠頭への弔い料、お家再興のための工作費、度重なる上方~江戸間の旅費に消えていきました。
さらに、急進派との会談を終えた内蔵助は、上方から江戸へ来た者たちの屋敷(アジト)を購入します。
金70両・・・江戸三田屋敷調え代
およそ840万円で屋敷を購入し、修繕してアジトにしようと考えていましたが、その矢先・・・付近で火事が発生し、屋敷は燃えなかったものの将軍の別邸が類焼し、修繕が必要になりました。
その間、内蔵助が大金を投じて手に入れた屋敷が幕府の御用地になることに・・・。
結局屋敷は使えず840万円はムダ金に・・・。
手元に残った軍資金は、360両・・・4320万円ほどになりました。
吉良邸討ち入りまでおよそ1年となりました。

帳面には、度々旧赤穂藩士たちへの援助金と出てきます。
旧藩士たちの身分は浪人・・・無職でした。
粗末な裏長屋に住むなど、貧しい生活を送っていました。

「母のことを忘れたり、妻子のことを思わないわけではないが、武士の義理に命を捨てる道は、それには及ばないものです。
 わずかながら残した金銀・家財を頼りに母を世話してほしい。
 もし御命が長く続き財産が尽きたら、ともに餓死なさってください。
 それも仕方のないことと思います。」by小野寺十内

こうしたため、命つなぎにと金10両を送っています。
すでに借金をして首が回らないもののいました。
其れなりの割賦金のあった中級藩士でも、1年で使ってしまうほどでした。
そのため、飢えや生活困窮の名で援助金が出されたのです。

こうして困窮する藩士たちのために132両1分=1587万円が出され・・残金は227両・2733万円となったのです。

元禄15年2月15日、山科の大石内蔵助邸で会合が開かれました。
この話し合いの後、内蔵助は嫡男・力を残し、17年間連れ添った妻・理玖と子供たちを妻の実家に帰します。
この時、理玖は7か月の子を身籠っていました。
その後、理玖たちに類が及ばないための苦渋の選択でした。
この頃から内蔵助は京都祇園の一力茶屋などで遊興にふけるようになります。
そうした費用は・・・??帳面にはそのお金は書かれていません。
吉良邸討ち入りまで6か月のことでした。

討ち入りまで5か月前の元禄15年7月18日、討ち入りまで5か月の時・・・
内匠頭の罪に連座し、閉門を命じられていた弟・浅野大学に対する幕府の処分が決定します。
松平安芸守へのお預け・・・
屋敷や領地を取り上げられ、本家の広島藩に引き取られました。
事実上の改易処分でした。
これで大学が当主として浅野家を継ぐことはできなくなりました。
内蔵助のお家再興の夢は砕け散りました。
内蔵助は遂に腹をくくります。
処分から10日後・・・吉良邸討ち入りを宣言するのです。
ちなみに19人が集まったこの会議は、食事は金一両(12万円部屋代+食事代)
この後、赤穂他、各地に住んでいる浪士たちに連絡するように大高源吾と貝賀弥左衛門に命じます。
二人を赤穂に遣わす旅費と雑費が金二両一分と銀五匁五分(28万円)。
大高は2回赤穂に遣わされたので、別に金一両一分と銀四匁二分が支給されました。
それでも滞在費が足りなくなったのか、金10両の援助をしています。

それ以外にも、
銀百三十六匁五分四厘
原惣右衛門書き出す方々
飛脚賃金 並びに路銀不測の面々遣わす

討ち入りのために江戸に下ることが決まったので、原惣右衛門が手紙を書いて同士にたちに送った飛脚代も・・・
この時、連絡係の大高源吾と貝賀弥左衛門に大事な封書を預けます。
以前誓った120人に神文を出させていましたが、神文の署名部分を切り取ってそれを封にいれ託しました。
そして、大高源吾らは、内蔵助の通りにこう告げます。

「内蔵助殿は当初の計画を取りやめ、妻子を養うために仕官することにしました。
 皆様も勝手次第にしてください。
 ですからこの神文はお返しします。」

内蔵助はそれでも仇討がしたいと怒ったものに対してだけ真実を告げ仲間に入れました。
意志の固いものを選抜する・・・むやみに大勢が下ると目立つので、それは避けたいと思っていたようです。
結果、残った浪士たちは50人・・・その一人一人に支度金金三両(36万円)が与えられました。
こうして内蔵助のもとに残ったのは、60両・・・720万円ほどになりました。

そして・・・元禄15年11月5日・・・討ち入りまで1か月・・・
討ち入りを決意した大石内蔵助は1か月かけて江戸に到着。
日本橋石町の隠れ家に入ります。
この時60両となっていた軍資金から借家暮らしの浪士の家賃を払い、さらに一人当たり1か月につき金2分の食費を出します。
残りは僅か数両に・・・これで、弓矢や槍、長刀などの討ち入りの装備の総てを買わなければなりません。

これをあわせた装備の総額は12両の144万円・・・残金は-7両1分・・・約-87万円となってしまいました。
金銀請払帳の末尾には・・・「金七両一分(約87万円)不足 自分より払」とあります。
最後は内蔵助が自分のお金を使ったことがわかります。

元禄15年11月29日、討ち入りまで15日・・・内蔵助は金銀請払帳を締めます。
軍資金の使い道は、最終的に・・・


仏事費・・・・・・・・・・・・・・・1533万円
お家再興工作費・・・・・・・・783万円
江戸屋敷購入費・・・・・・・・840万円
旅費・江戸滞在費・・・・・・2976万円
会議通信費・・・・・・・・・・・・132万円
生活援助費・・・・・・・・・・・1587万円
討ち入り装備費・・・・・・・・・144万円
その他・・・・・・・・・・・・・・・・379万円

合計8369万円・・・こうして赤穂浪士四十七士は12月14日、吉良邸に討ち入ることとなったのです。
内蔵助は同士たちが集まった時・・・
「それぞれの店賃やツケの代金は12日までにしっかりと始末をつけておけ
 不足の際は申すがよい」
お金のない者にはまた内蔵助が自腹を切るというのです。
討ち入りにあたって身辺を整理し、綺麗にしておけということでした。
13日の夜・・・残った僅かの金を持ち寄り今生の暇乞いと酒を酌み交わしたといいます。
いよいよ討ち入りです!!

江戸城松の廊下の刃傷事件から1年9か月後の元禄15年12月14日夜・・・
赤穂浪士四十七士は吉良上野介の屋敷に向かいました。
そして4時半ごろ・・・いざ討ち入りです!!
浪士たちは次々と吉良の家臣たちを討ち取り、遂には隠れていた上野介を見つけ、主君の仇討を果たしたのです。
12月14日、討ち入りの夜、大石内蔵助は瑤泉院に金銀請渡帳を届けています。
計画が露見してしまうのを畏れ、ギリギリまで手元に置いていました。
いくら主君の仇を討つとはいえ、瑤泉院の私財に手を付けてしまったため、使い道の報告と償いの意味もあったのです。
内蔵助が管理していた資金があったからこそ、討ち入りは成功したのでした。

吉良邸討ち入りまでかかった経費を綴った預置金銀請払帳・・・それをつぶさに見ていくと、討ち入りまでの1年9か月がどれほど大変だったのか・・・よくわかります。
忠臣蔵の決算書は数字ですが、そこからは様々な葛藤や苦労・・・様々な思いを感じることができました。

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先ごろ、ローマ教皇が38年ぶりに日本を訪問・・・広島や長崎を訪れました。
人々が平和に暮らせる世界を願い、祈りを捧げました。
日本に初めてキリスト教が伝わったのは、今から遡ることおよそ470年前。。。
この国は戦乱に明け暮れる戦国時代の真っただ中でした。
キリスト教は救いを求める人々に瞬く間に広がり、大名の中には自ら洗礼を受けるものまで現れました。
その中でも、戦国最大のキリシタン大名であったのが、九州6か国をおさめた大大名・大友宗麟です。
イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルと出会って、その布教活動を手厚く保護・・・宗麟の領国・豊後では、最盛期にはキリシタン3万人を超えたといわれています。
当時、ヨーロッパで作られた日本地図には、九州をBVNGOとし、JAPANと並ぶ一つの国とみられていました。
ルイス・フロイスは、宗麟のことを「日本にある王侯中、もっとも思慮あり、聡明叡智の人」と称えています。
近年の発掘では、南蛮貿易で手にした莫大な富と力を示した品々が伺えます。
ところが、その繁栄を揺るがしかねない選択が宗麟を待ち受けていました。

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フランドル絵画の巨匠Anthony van Dyckの描いた絵・・・
左側がフランシスコ・ザビエルで、右側がなんと大友宗麟です。
ヨーロッパではこんな風にイメージされていました。

実際の肖像画はこちら!!

sourinn2












大友宗麟は、キリスト教をヨーロッパの文化や文明と一緒に丸ごと受け入れました。

大分県大分市・・・大伴家の最盛を築いた大友宗麟の拠点です。
市の中心部では、大規模な発掘調査が行われています。
それは、全国でも類を見ないほどの館でした。
歴代当主が暮らした大友館・・・広大な敷地に行けや庭園まである全国でも屈指の規模の館だったと思われます。
館を中心に、道が整然と格子状に敷かれ、45もの町が形成されていたといい、およそ5000軒の町屋が並んでいたといいます。
当時の国際貿易都市の堺、博多と匹敵する規模の町があったのです。
発掘調査では当時の繁栄を物語る品がたくさん出土しています。
当時、この館の当主である大友宗麟が、南蛮貿易を積極的に推し進め、たくさんの東南アジアと西洋に関する文物が輸入されていました。
ベトナムやタイの陶磁器、ヨーロッパのベネチアングラスも見つかっています。
南蛮貿易で莫大な財を得ていた証です。
大伴義鎮・・・後の宗麟は、1530年に大友家の長男として生れました。
鎌倉以来、400年にわたって豊後国を治める名家だった大友家・・・宗麟はその嫡男として誕生したものの、当主の座につくまでの道は順風満帆ではありませんでした。
弟・塩市丸を当主にという派閥に、父の義鑑が結託・・・宗麟派の粛正を画策するものの、弟は殺害され、父も巻き込まれて死亡する事件が勃発しました。
そんな肉親同士の骨肉の争いを経て、1550年大友家21代当主になります。
時に21歳・・・不安定な領国統治のために目をつけたのが南蛮貿易でした。
1543年、種子島の鉄砲伝来以来、日本とポルトガルとの交易が始まりました。
豊後・府内はポルトガル船に港を開放し、一大貿易拠点として発展していきます。
ポルトガルから商人が行き交い、町は大いににぎわったといいます。
カンボジアから宗麟に象が贈られたとの記録もあります。

世界史的にみると、大航海時代が日本にやって来ていました。
それに対応する九州の大名は、陸上だけでなく海上勢力とも立ち会わなければならない・・・
そこに活路を見出した・・・一番最先端をいった大名が大友宗麟でした。
宗麟の領国経営を支えた南蛮貿易・・・その成功の裏には、ある人物がいました。
1551年、宗麟はそのイエズス会宣教師を自らの屋敷に招きます。
イエズス会宣教師、フランシスコ・ザビエルです。
日本にキリスト教を最初に伝えた人物です。
その時の宗麟の様子がイエズス会側の記録に残っています。

「彼は司祭に対して敬意を表し、愛情をこめて歓迎した」

はるばる日本まで布教に来たイエズス会の活動の背景には、この頃のヨーロッパでの歴史のうねりがありました。
15世紀末・・・大航海時代を切り開いた大国スペインとぽrとがると出の海外領土分割条約・・・それは、独自に引いた線から東はポルトガル、西はスペインが植民地として支配する、世界を二分するというものでした。
アジアへの進出を目論むポルトガルの援助を受け、一体となって進出したのがカトリック教団のイエズス会でした。

大航海時代、ポルトガルとスペインは、海外に植民地を獲得するため進出しました。
カトリック教会が、この枠組みに乗って、海外布教を実現させました。
国家は植民地獲得のために、教会は不況のために・・・
相互に癒着しながら、海外に進出していました。
日本に進出したイエズス会は、キリスト教の布教・保護を領主に求めます。
その見返りとして領主にはポルトガルとの貿易の便宜を図りました。
宗麟はザビエルの求めに応じて、豊後での布教を許可し、多くの土地を提供します。
府内には、教会や育児院などの施設が・・・病院では治療が無料で行われたといいます。
さらに音楽や演劇など西洋の文化が積極的に取り入れられ、府内は異国情緒あふれる町となっていきました。
府内で集中して出土するメダイ・・・この素材は南蛮貿易で輸入したタイの鉛でした。
これと同じ鉛を使って作っていたのは火縄銃の鉄砲玉です。
キリスト教を保護することによって南蛮貿易の恩恵・・・それは富だけではなく、軍事的なメリットもありました。
大友宗麟がキリスト教を受け入れたのも、信仰的な理由も大きいが、戦国時代の中でヨーロッパの進んだ武器を手に入れるということは当然でした。
さらに、重要な貿易品が火薬の原料となる硝石でした。
南蛮の良質な硝石を確保することは、戦国大名の大きな課題でした。
宗麟は九州への進出を企てる毛利氏との戦いの中、ポルトガル側に書状を送っています。

「山口の王(毛利氏)への硝石の輸出を取りやめて、私だけに良質の硝石を輸出してほしい
 そうすれば、山口の暴君は領国を失い、キリスト教は今後も私の国で一緒にいられるだろう」

宗麟は、さらにポルトガルから大砲(国崩)まで入手していました。
領国の強化を図る宗麟と、アジアでの布教拡大を目指すイエズス会・・・両方の思いが合致して、大友家は繁栄を迎えていきます。

豊後から九州全土へと勢力を広げていく大友宗麟・・・
1559年には九州6か国を領有し、室町幕府から九州探題に任じられます。
その間も宗麟の領国では、キリスト教の布教を一貫して保護し続けました。
日本全国でも布教は実を結び、信徒はおよそ10万人に・・・!!

肥前のキリシタン大名・大村純忠の領国に残る記録には、キリシタンが数多くの神社仏閣を破壊し、僧侶を殺害したと書かれています。
キリスト教徒と既存宗教との確執は・・・??
イエズス会では神社仏閣の破壊は日本人のキリシタンが勝手に行ったものであると主張しています。
実際にはイエズス会の宣教師が、日本人のキリシタンに神社仏閣への放火などをそそのかしたのでは・・・??
ヨーロッパ人の宣教師にとって見れば、日本の宗教や信仰というものは偶像崇拝に当たります。
本来容認できるものではありませんでした。
一方仏教徒も・・・キリシタンの住む町に放火、教会は焼け落ち、宣教師は国外に避難する事態となりました。
こうした宗教間の軋轢に、宗麟も悩んでいたといいます。
イエズス会の記録によれば、キリシタンになることを勧めた宣教師に対して、宗麟はこう答えたといいます。

「私がキリシタンになろうとすれば、家臣たちは私を国守と認めなくなるだけでなく、それ以前に殺されてしまう」

大友家は代々禅宗とのかかわりが深く、豊後は仏教信仰に厚い土地柄でした。
1562年、33歳の時、キリスト教の保護をしながら、宗麟は出家し法名を名乗ります。
この時より宗麟の法名を名乗ります。
キリスト教に偏っていたわけではなく、仏教・禅宗への信仰心を維持していました。
宗教受容の多様性・・・その姿勢は、西国大名の場合は根本的に持っていました。

宗麟が目指したものは何だったのか・・・??
この頃、宗麟は本拠地を府内から臼杵に移しています。
出家をしながらも、キリスト教色の濃い町づくりをしています。
町づくりで特徴的なのが、城から教会へとのびる大通り・・・
イエズス会師の教育施設も建てられ、臼杵はキリスト教布教の一大拠点となりました。
近年の発掘調査では、国内最大規模のキリシタン墓地・・・棺桶を埋める穴や、墓標となる石材が66個も発見されています。
さらにこの墓地からは、十字架が建てられた広場や、礼拝堂と思われる建物の跡も発見されています。
臼杵では、キリシタンたちが平和に暮らしていた時代があったのです。
臼杵での宗麟は・・・??
自分は平和のうちにどうやったら領国が統治できるか苦慮していました。
そのために、キリスト教が最もふさわしい教えではないか??
自分の領国を平和のうちに統一して運営できるために、キリスト教を導入したいと思っていました。
キリスト教と既存の宗教が共存できる領国統治を目指した大友宗麟・・・
しかし、その繁栄を大きく揺るがしかねない選択が迫っていました。

日向国を巡って、宗麟は大友家の命運を左右する選択を迫られます。
当時、日向の大半を治めていたのは伊東氏でした。
南の薩摩・大隅を治めていたのは武門の名門・島津氏でした。
1576年、島津氏が日向の伊東領内に侵攻。
領地を奪われた伊東は、姻戚関係のある宗麟に援軍を求めてきました。

この当時、大友と島津の間に大問題が発生していました。
発端は、南蛮貿易を行う大友の船が、島津領で行方不明になったのです。
大友側は、船と積荷が島津に横領されたと疑っていたのです。
さらに日向は、大友家の南蛮貿易にとって重要な寄港地でした。
大友、島津にとって、南蛮貿易の利権をかけた戦いの側面を持っていました。
日向に出兵し、島津と戦うか??否か・・・??

①出兵を回避する??
島津と戦えば、毛利、龍造寺に攻め込まれるかもしれない・・・。
家督は嫡男に譲ったばかり、領国の安定を図るべきではないか??
当時、大友家の重臣たちは、出兵に反対するものが多かったといいます。
相手は勇猛果敢な島津軍・・・戦いは激戦が予想されました。
さらに、家督を譲った中利の義統はまだ21歳。

”義統は国主にそぐわない無能な人間であるとして罷免すべきか家臣の間で協議された”

ともいわれています。
義統は、家臣からの信頼が薄く、当主の資格さえ疑われていたといいます。

②日向に出兵する??
宗麟は、日向を手に入れたのちの構想を、イエズス会の宣教師に語ったと記録しています。

「日向に築く町は、従来の日本のものとは違う新しい法律と制度によって統治されねばならない
 日向の土地に住む者たちは、みながキリシタンとなって愛と兄弟的な一致をもって生きねばならない」

宗麟は、大友家が持つ領地とは別に、日向の地に争いのないキリシタンだけが住む理想郷を作ろうとしていたのです。
領国の統治は義統に任せ、自分は新しい国を造るのだ・・・。
ポルトガルや、東南アジアの協力を得ながら、キリスト教のもとで民と心を合わせ国を統治するのだ・・・!!

日向に出兵する??それとも出兵を回避する・・・??

宗麟の取った選択は・・・??日向へ出陣・・・!!
宗麟は日向に出兵する道を選びました。
この時宗麟は、これまでの自分を振り切る重大な選択をしていました。
洗礼をしてキリシタンとなったのです。
洗礼名は、ドン・フランシスコ。
キリスト教との出会いをもたらしたフランシスコ・ザビエルの名をもらったものです。
日向に向け、4万もの大友軍が進撃を開始。
宗麟の船には、十字軍さながらに深紅の十字の旗が掲げられたといいます。
宮崎県延岡市無鹿町・・・宗麟が本陣を置いた場所です。
この時つけられた無鹿という名前は、ポルトガル語で音楽・・・MUSICAのことです。
宗麟はここに宣教師たちの宿舎や教会を建設します。
その一方で、周辺の神社仏閣を破壊したといいます。
宗麟の挙兵に対し、迎え撃つ島津軍が日向に進出!!
1578年11月、戦いの火ぶたが切られます。
しかし、大友軍はもともと出兵に反対するものも多く、武将の意見がまとまらず一枚岩ではありませんでした。
島津軍は、陽動や待ち伏せを行い大友軍を翻弄します。
結果、戦いは島津軍の圧勝に終わりました。
敗戦の報を受けた宗麟は、急いで臼杵に撤退・・・命からがらの逃避行でした。
この戦いの後、勢いに乗った島津軍は九州北部に侵攻し、大友領にも殺到します。
苦境に立たされる宗麟・・・
領国や命を預かるキリシタンを守るにはどうすればいいのか・・・??

追いつめられた宗麟は、起死回生の一手に打って出ます。
全国統一を目指す秀吉のもとに自ら出向いて援軍を求めたのです。
1586年、宗麟の直訴により秀吉軍が20万軍で九州へ侵攻、翌年島津を降伏させます。
結果、九州全域は秀吉のもとに落ち、大友家は秀吉配下の一大名となりました。
しかし、島津攻略の直後、宗麟は病に倒れその生涯に幕を閉じます。

1587年、大友宗麟死去・・・享年58歳でした。
宣教師やキリシタンの身内に看取られた静かな最期でした。

九州を制圧した秀吉は、宗麟の死から1か月後、突如宣教師たちの国外追放を命じました。
世にいう伴天連追放令です。
この後、秀吉、家康と続く天下の中で、キリスト教徒たちは厳しい迫害の時代を迎えます。
かつてヨーロッパまで轟いた大友宗麟の名も、その輝きを失っていくのです。


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鎌倉時代終焉後のおよそ60年間、二つの朝廷が並び立つという日本史上類を見ない状態が起こりました。
南北朝時代・・・それはまさに動乱の日々でした。
およそ60年続いた南北朝時代は複雑な時代です。

1333年 建武の新政
1339年 後醍醐天皇崩御
1350年 観応の擾乱
1351年 正平の一統
1367年 足利義満三代将軍就任
1392年 南北朝合一

南北朝時代の軍記物「太平記絵巻」には宴で上半身裸で踊っている者、酒を煽りいい感じの者・・・これは、建武の新政のキーパーソン第96代後醍醐天皇が開いた無礼講といわれる宴です。
身分の上下など一切なくして飲み、歌いましょうということですが、真の目的は鎌倉幕府を倒幕する見方を集めることでした。
倒幕した理由は・・・??

「我が子に皇位を継がせることは出来ぬのか・・・??」

後醍醐天皇は、我が子を天皇にしたかったのですが、出来ない理由がりました。
それが両統迭立です。
その始まりは鎌倉時代の事・・・
きっかけは、第88代後嵯峨天皇が皇位継承を誰にするか明確にしないまま崩御したことにありました。
そして皇位継承者の後深草と亀山の相続争いとなりました。
持明院統第89代後深草天皇と大覚寺統第90代亀山天皇・・・から交互に即位する両統迭立となり、以後それが踏襲されていました。
後醍醐天皇は大覚寺統の天皇なので、次は持明院統からの天皇と決まっていたのです。
しかし、自分の子を天皇に即位させたい後醍醐天皇はこの両統迭立を廃止したかったのです。
そのためには、承久の乱以降、皇位継承に介入することになってきた鎌倉幕府を倒すことが必要だったのです。
くわえて、幕府による武士中心の政治ではなく、天皇中心の政治に戻すことを考えていました。
両統迭立を撤廃し、自分の子孫に皇位継承させ、天皇中心の政治に戻すために、後醍醐天皇は倒幕の狼煙を上げたのです。
ところが・・・その計画が二度も幕府にバレ、後醍醐天皇は隠岐へと流されてしまいます(1332年)。

後醍醐天皇の皇子・護良親王が各地に倒幕を命じ、吉野で挙兵したのはその8か月後のことでした。
すると、幕府への反乱勢力が次々と立ち上がるのです。
当時の鎌倉幕府に不満を持っていた人々はたくさんいました。
北条氏が日本の大半の所領を治め、その他の武士の所領が少なかったのです。
隠岐に流された翌年、後醍醐天皇は隠岐を脱出することに成功し、三度目の倒幕の狼煙を上げます。
この時、鎌倉幕府が鎮圧軍として関東から京都の派遣したのが、分裂のもう一人のキーパーソン・足利高氏です。
高氏は、一度は後醍醐天皇側と戦いますが、突如天皇方に寝返り、幕府に反旗を翻します。
自分と共に討伐軍の大将として派遣されていた北条一門の有力大名である名越高家が射殺されたことが、足利高氏が後醍醐に味方した理由の一つでした。
形勢が不利だと幕府を見限り天皇方に・・・そして倒幕の呼びかけに応じた武士たちをまとめ、六波羅探題を攻め落とします。
これによって天皇方が優勢に・・・
さらに、尊氏同様幕府から寝返った新田義貞ら反乱軍が鎌倉に入り、幕府軍を撃破!!
鎌倉幕府は滅亡します。

その年の6月のこと・・・武家から政権を奪還した後醍醐天皇は、京都に帰り元号を建武と改め、再び天皇による政治を始めます。
これが建武の新政です。
こうして、朝廷主導による政治に戻した後醍醐天皇ですが、その3年後、朝廷は南北に分かれてしまいます。

後醍醐天皇の政治は府独裁的でした。
天皇は鎌倉時代から武士が持つ所領を白紙に戻します。
その上で、個別安堵法を発布。
土地の所有権は、天皇が許可しない限り無効とするとしたのです。
すると、所領安堵の許可を求める武士たちが京都に殺到・・・都は大混乱となります。

二条河原落書には・・・
”この頃 都に流行るもの 夜討 強盗 謀綸旨”
綸旨とは天皇が出す命令の事で、後醍醐天皇のせいで治安が悪化し、偽の綸旨が出回るなど、世の中が混乱したことを批判しています。
朝廷ファーストだった後醍醐天皇は・・・
公家には十分に恩賞を与えるものの、武士たちには少ししか与えませんでした。
武士たちは大きな不満を抱きます。
後世、この時代の政治を「物狂いの沙汰」といっています。

武士を蔑ろにした後醍醐天皇の政治・・・不満分子が幕夏したのは1335年のことでした。
天皇中心の政治に不満を抱く旧幕府の残党が鎌倉を占拠します。
これを鎮圧すべく、願い出たのが足利尊氏でした。

「征夷大将軍に任じていただき、鎌倉へ向かわせてはもらえませんでしょうか」by尊氏

しかし後醍醐天皇は許しません。
天皇中心の政治に戻した後醍醐天皇にとって、征夷大将軍という役職など邪魔でした。
高氏は後醍醐天皇の許可なく鎌倉に向かい、反乱軍を鎮圧。
その後も天皇の帰郷命令を無視します。
まだまだ反乱分子が潜伏していたのです。
尊氏は旧幕府の残党を掃討してから京都に戻るつもりだったのです。

そんな尊氏の考えも露知らない後醍醐天皇は、新田義貞に足利尊氏追討命令を出します。
これによって鎌倉幕府を共に倒した後醍醐天皇と袂を分かち朝敵となってしまった尊氏は進撃して来た新田軍を竹之下の戦いで撃破!!
敗走する新田軍を追って京都に入るも、天皇方の北畠顕家の軍に敗北。
九州へと逃れていくのです。
しかし、九州で立て直した足利尊氏は、1336年、多々良浜で天皇方の大軍を破ると京都を目指します。
そして湊川の戦で新田軍と再び相まみえ勝利しました。

京都へと逃げ帰った新田軍は、後醍醐天皇が比叡山に立てこもります。
こうして、後醍醐天皇がいなくなった京都に足利尊氏が入り、持明院統の光明天皇を擁立。
その一方で、次は大覚寺統から天皇を出すことを条件に比叡山に籠っていた後醍醐天皇と和睦します。
これを受け、後醍醐天皇は天皇の正当性を示す三種の神器を新たに即位した光明天皇側に引き渡すのですが・・・
2か月後、御醍醐天皇は京都を脱出。
吉野につくと・・・
「今日の御所に渡した神器は偽物じゃ!!
 真の神器は朕のもとにある・・・!!」と。
自分こそが、正当な天皇であると宣言し、新しい王朝・・・南朝を設立します。
どうして朝廷が南北に分裂してしまったのか・・・??
それは、後醍醐天皇が「建武の新政」に失敗し、足利尊氏と対立したためです。
こうして朝廷は、南朝と北朝に分裂、二人の天皇が並び立つという日本史上類を見ない南北朝時代が幕を開けました。
これ以後、南朝と北朝は違う元号を使うことに・・・南朝は延元、北朝は建武と・・・。

遂に幕を開けた南北朝時代・・・
後醍醐天皇は吉野に追いやられる形で南朝を開くのですが、勢力は吉野周辺と九州、東国の一部にすぎませんでした。
後醍醐天皇は、京の都を取り戻すべく、味方の武士たちに京都に攻め入るように命じます。
しかし、天皇の側近だった北畠顕家が、1338年和泉国で討死していました。
また新田義貞も越前国で雑兵の矢を受け、「最早これまで」と、1338年に自害。
有力な武将を次々と失った南朝は、急速に力を失っていきました。

そこで後醍醐天皇は、自分の王子たちを陸奥や遠江に派遣しますが、これも失敗!!
1339年、我が子護良親王を皇太子とした翌日の8月16日、失意のうちに後醍醐天皇崩御。

「太平記」にはその最後の様子が記されています。
足利方を悉く滅亡させよと命じ、苦しい息を吐きながらも、朕の体は南の吉野で骨になるが、魂は北の京の都奪還の執念を持ち続けるといい残しました。

こうして南朝を立てた後醍醐天皇が崩御したことで、尊氏が後ろ盾となっていた北朝が俄然有利となっていきます。

後醍醐天皇が亡くなる前の年・・・
1338年、足利尊氏が征夷大将軍に就任します。
京都で室町幕府を開きました。
尊氏は弟・直義と政務を分担して、幕政を運営していました。

南北朝の対立は、実質的には南朝と北朝方の室町幕府との対立でした。
そのため、幕府の内紛が南北朝時代をより複雑にしていきます。
1347年、南朝方の運勢が九州で勢力を拡大、九州における幕府の拠点を次々と落としていきます。
これに呼応するかのように、父・後醍醐天皇の遺志を継いで即位した後村上天皇は、北朝方の幕府を倒そうと画策します。
京都に近い摂津国でも南朝方が挙兵しました。
それを鎮圧すべく、尊氏は側近の高師直を討伐軍の大将として出陣させます。
戦を得意とした師直は、見事四条畷の戦いに勝利すると、勢いそのままに南朝に兵を差し向け、皇居や公家の邸宅、寺社にまで火を放つのです。
この時、後村上天皇ら南朝は吉野を脱出し、賀名生へと逃げのびています。

一方、幕府の方でも師直に不満を抱くものがいました。
幕府の政務全般を担っていた弟の直義です。

「見境なく火をつけるとは、なんという狼藉・・・」

そんな直義の不満を余所に、この軍功によって師直の幕府での影響力は強まり、直義を凌ぐほどに・・・
おまけに、直義の養子である直冬が、師直に冷遇されていたのです。
直義の不満はついに爆発!!
「高師直を討つ!!」
これに呼応したのは、師直に不満を抱いていた各地の武士たちで、次々に挙兵します。
世にいう観応の擾乱の始まりでした。
挙兵した直義は、兄・尊氏もびっくりな策を講じます。
突然京都を脱出し、宿敵である南朝に出向きます。
そして、南朝に降伏し、和睦を申し入れます。
南朝勢力を味方につけるためでした。
この時、直義が出した和睦の条件は、南朝と北朝から天皇を交互に出し合う「両統迭立」に戻すというものでした。
しかしこれは、自分の子孫に跡を継がせるという後醍醐天皇の意思に反する事・・・
南朝には受け入れがたい条件でした。
その一方で、これを受け入れれば、直義に味方する武士たちが戦力になり、南朝復活のきっかけになるのでは・・・??
そこで南朝は、和睦の条件をうやむやにしたまま、南朝の戦力回復のために、足利直義の降伏を受け入れるのです。
この直義降伏によって、南朝有利と見た武士たちが南朝側についたことで、南朝の思惑通り、南朝は息を吹き返します。
1月・・・直義は石清水八幡宮を占拠し、大軍で京都に向かうと師直討伐の準備を始めます。
そして2月17日、摂津国・打出浜で直義軍は師直を擁護する兄・尊氏軍と激突。
尊氏軍を完膚なきまでに叩き潰すのです。
その3日後・・・直義は尊氏と和睦・・・高師直に資格を差し向け、斬殺したといいます。
こうして直義は尊氏の嫡男・義詮の補佐役として幕府の要職に復帰。
表面上は平穏をとし戻したかのように見えた幕府ですが、水面化では家臣たちが尊氏派と直義派に分かれて激しく争っていました。
そんな中、直義は義詮との関係がうまくいかず、幕府内で孤立していきます。
すると突如政務からの引退を表明。
北陸へと逃亡してしまいました。
この直義の行動が、再び南北朝に大きな波紋を呼びます。

南北朝時代が始まって15年・・・朝廷が一時的に一つになった時がありました。
1351年正平の一統です。
当時室町幕府は尊氏派と直義派に分裂していました。
孤立を深めた直義は北陸に逃げてしまいました。
九州では南朝方が勢力を拡大、幕府方の城を次々と攻略していました。
尊氏は焦ります。

「九州では我が軍が劣勢・・・ 
 やがて京の都までその手は伸びて来るだろう
 しかし、北へと逃げた弟・直義もなんとかせねばならん」

考えた末に出した答えは、直義を優先させた驚きなものでした。
南朝に降伏して和睦する!!
この時、尊氏が出した和睦の条件の一つが、元号を南朝の「正平」に統一すること。
そして北朝三代崇高天皇と皇太子・直仁親王が廃止され三種の神器も南朝に没収・・・その他北朝が行った叙位・任官も否定され、両朝分裂前に戻されたのです。
幕府が支持する北朝にとって圧倒的不利な条件での和睦・・・
直義のしていた南朝との講和・・・尊氏は南朝と和睦することで、直義を幕府に戻そうとしていました。
尊氏が南朝に降伏したことで、南朝が勝利となり南北朝が統一・・・これが正平の一統です。

しかし・・・再度分裂してしまいます。
南朝の有力武士が加わった尊氏軍が、北陸から鎌倉に向かった直義を捕らえて幽閉・・・。
その直後、直義は謎の死を遂げます。
さらに、尊氏が京都を離れているうちに、南朝が和睦を破って京都に侵攻・・・尊氏の嫡男である義詮を追い出し、三種の神器を奪い取ってしまいます。
天皇中心の世にしたい南朝方にとって、幕府の存在は認めることができなかったのです。
その後、京都はすぐに幕府の手に戻りますが、北朝の三人の上皇(光厳・光明・崇光)と皇太子が南朝に連れ去られます。
そこで、幕府を預かる義詮は、三種の神器のないまま、光厳上皇の第二皇子を後光厳天皇として即位させ北朝を復活。
こうして南朝が尊氏との和睦を破ったため、南北朝は再び分裂したのです。

1358年、足利尊氏死去・・・南北朝の混乱は、尊氏の代では終わりませんでした。

疫病を退散させる目的で、平安時代に始まったとされる祇園祭・・・
その壮麗な祭りの見どころは、山鉾の巡幸です。
今のように山鉾を巡幸しながらお囃子を鳴らしながら京都を練り歩くようになったのは南北朝時代といわれています。
町ごとに工夫を凝らした山鉾は、町衆の経済力を示すももであり、町内の団結を強める役割を果たしていました。
南北朝の分裂によって幾度も焼かれた京の町・・・
戦いは全国に飛び火し、世情は不安定に・・・人々は団結し、自ら身を守るしかありませんでした。
それは農民たちも同じで、惣という農民組織を作り団結、役人相手に年貢の交渉も始めます。
14世紀は、社会経済的にも重要視され、この頃から惣村という現在の農村の原型・村が形成されていきました。
南北朝時代が始まって20年以上が経っていました。
尊氏の死後、二代将軍には息子・義詮が・・・
義詮は南朝討伐を試みるも、混乱は続きます。

1367年、足利義満三代将軍就任。
南朝と幕府の本格的な和睦交渉を受け、後村上天皇は北朝と和睦して争いを収めるために綸旨を出します。
しかし・・・綸旨の中に、”北朝が降参すれば”と書かれていたため、義詮は激怒、和睦は実現しませんでした。
そしてその時、義詮はなくなります。
その後を継いで三代将軍に就任したのが義満・・・この義満こそが、南北朝時代に終止符を打つキーパーソンです。
義詮が亡くなった翌年、幕府との交渉に前向きだった後村上天皇が崩御・・・
和睦に反対していた長慶天皇が即位します。
この長慶天皇は、武力によって南北朝合一を果たそうとしていました。
室町幕府も、義詮が急死し、義満が後を継ぐ者のまだ11歳の少年でした。
義満が推さなかったために幕府は不安定になり、南北朝合一どころではなくなってしまったのです。
将軍義満が成長するまでは幕府も和睦どころではありません。
そして・・・南北朝時代が始まって47年・・・
南朝の長慶天皇が譲位し、後亀山天皇が即位します。
軍事的な体力が残っていなかったこともあり、南朝方の軍事活動は極端に減っていきます。
一方26歳となった足利義満は、各地の有力守護たちを討ち、将軍としての権力を拡大していきます。
南朝は最早脅威ではありませんでしたが、その存在は無視できません。
南朝が幕府に反旗を翻す勢力の受け入れ口になっていたからです。

「余に背く者たちを絶つには、南朝をなんとかせねばならぬな」

そこで義満は、和睦し南朝を取り込むことを考えます。
1391年、北朝方の室町幕府の軍勢が、九州の南朝最後の拠点を攻略。
ここに九州における南北朝の戦いがようやく終わりました。
その翌年の1392年、南北朝の和睦を考えていた義満は、南朝にこう呼びかけます。

「三種の神器を差し出して頂ければ、両統迭立を復活させましょう」

これ以上争いが続くことを望んでいなかった後亀山天皇はこれに応じます。
10月5日・・・天皇は僅かな臣下を連れて京都に向かい、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲渡・・・
ついに南北朝合一・・・およそ60年に続いた南北朝時代に終止符が打たれたのです。
この時の合一の条件は・・・
①南朝が「三種の神器」を北朝に譲渡
②国衙領は南朝が、長講堂領は北朝が支配
③今後、皇位は南朝と北朝が交互に
でした。

ところがこれに反し、これ以後北朝の系統が続くのです。
どうして南北朝合一の条件は守られなかったのでしょうか?
南朝との和睦交渉に、北朝はほとんど関与していませんでした。
幕府が勝手に行いました。
そのため、北朝が和睦の条件を聞いたのは合一後のことでした。
蚊帳の外におかれていた北朝は、幕府による事後報告を守る必要がないと考えたのです。
また、将軍義満も、もともと守る気がなく南朝をだましていたのでは・・・??とも言われますが・・・
しかし、両統迭立を破った時は、義満は亡くなった(1408年)後です。
南朝は敗北し、子孫が天皇として残ることはありませんでした。
北朝も大幅に弱体化し、足利幕府の強力な保護がなければやっていけなくなりました。
勝者は・・・室町幕府ということになります。
後醍醐天皇が足利尊氏と対立し、吉野に新しい王朝・南朝を設立してから60年・・・多くの人が血を流し、何度も町は焼かれ、人々は不安に駆られ続けました。
今から700年前、日本あった動乱の日々でした。


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一度見たら忘れない映画「サイコ」
ある調査では、史上最高のアメリカのスリル映画に選ばれました。
作ったのは、アルフレッド・ヒッチコック・・・サスペンスの神様として、今も世界中で愛されています。

「鳥」「めまい」・・・これらの映画を作り出したヒッチコック。
彼の作品は、後にヒットする様々な恐怖映画のお手本として大きな影響を与えたとされます。
その影響は恐怖映画にとどまらず・・・若き日のスピルバーグも撮影現場を度々見学・・・。
ヒッチコックは、映画の映像表現の世界を大きく変えました。

これほどの業績を残したヒッチコック・・・不満たらたらでした。
当時、恐怖映画は低級とみられ、いくら大ヒットしてもアカデミー監督賞は取れませんでした。
さらに、世界中から愛された外見も、コンプレックスでした。
恐怖を描くことに生涯情熱を燃やすつづけたその知られざる素顔とは・・・??

ヒッチコックがその生涯で世に出した長編映画は53本・・・そのほとんどが恐怖やサスペンスの映画でした。
ところが、本人は人一倍怖がりでした。
どうして恐怖に魅せられたのでしょうか??

19世紀の末、イギリス・ロンドンで映画が普及します。
ヒッチコックが生れたのはそんな時代でした。
1899年、ロンドン郊外で青果店を営む三人兄弟の末っ子として誕生しました。
両親はカトリック教徒でした。
当時のイギリスは、国王を首長とするイギリス国教会を信仰する人が大多数でした。
カトリックは少数派・・・
母・エマは末っ子のアルフレッドを溺愛・・・
毎晩、アルフレッドをベッドに呼んで、一日のでき義とを聞くのが日課でした。
この寝る前の母との時間は、就職してからも続いていました。
父・ウィリアムは、よく芝居に連れて行ってくれました。
美しく踊るバラ色のライトに照らされたヒロイン・・・しかし、悪役が登場すると照明は緑に!!
ライトの効果で恐怖が一層掻き立てられ、その光景が目に焼き付きました。
さらに、幼いアルフレッドが恐怖と思った体験が・・・

「私はすごく怖がりであることを告白しなければならない」

ある晩、夜中に突然目が覚めました。
いつもなら人の気配がするはずなのに、あまりに静かで真っ暗でした。
両親を呼ぶものの返事もなく、真っ暗な中、彷徨います。
キッチンにも誰もいない・・・ふと見ると、コールドミートがありました。
幼いアルフレッドは、涙を拭きながらそれを食べました。

「その時以来、私は夜一人でいることと、冷たい肉を食べることに耐えられなくなった」

ヒッチコックの少年時代はいつも孤独でした。

「遊び友達がいたという記憶はない」

ひとりで本を読んだり、ゲームをしたり、母親がそばにいれば満足でした。

ヒッチコックはコンプレックスの塊でした。
当時カトリックの信徒は、それだけで変わっている存在でした。
そして出身がロンドンのイーストエンドのさらに東のはずれ・・・
強い訛がありました。
その訛にもコンプレックスがあり、友達とコミュニケーションをとることができなかったのです。
しかも、勉強がよくでき、プライドが高い

1910年、11歳の時に聖イグナチウス・カレッジ入学
そこで、恐怖という感情をさらに強くすることになります。
学校の規律が厳しく、破ったものには体罰が・・・!!
堅いゴム製の鞭で・・・そして罰を待つ時間が辛かった・・・。

思春期のヒッチコックは・・・
「私は常に犯罪というものに引き付けられていた」

当時、ロンドンの市民を恐怖のどん底に突き落とした切り裂きジャックなどの凶悪犯罪・・・十代の頃からヒッチコックは裁判所に通っています。
殺人事件の裁判をノートに詳細に書き留めていました。
ロンドン警視庁内にある犯罪図書館にも通い、犯罪に関する知識を貪欲に求めます。
敬虔なカトリック信者・・・罪悪感を感じつつ、一方で犯罪に魅惑される・・・。
悪に魅惑される自分を感じると、自分は罪深いと感じる・・・
そんな感情が渦巻いていました。
それがヒッチコックの映画作りの原点でした。

21歳の時転機が訪れます。
1920年、ロンドンに新しく映画の撮影所ができました。
芝居や映画が好きだったヒッチコックは自ら出向いて採用!!

「私はアシスタント・ディレクターの職を得て、とても満足していた
 あるとき”いい脚本家を知らないか?”と聞かれたので、”僕が書きましょう”といった
 アート・ディレクターをするはずの友達がいたが、別の仕事で来られなくなった
 ”アート・ディレクターをどうする?”という話になったので、”僕がやりましょう”といった」

監督デビューは26歳の時・・・「快楽の園」でした。
ライトを駆使して、映像に明るさの強弱を極端につけるなど、工夫を凝らします。
しかし、試写会の席で配給会社の社長は・・・

「この作品は観客を混乱させ不安にする」

初監督作品は、あっさりお蔵入りとなってしまいました。
ヒッチコックの斬新な映像は、社長には理解されず、2作目もお蔵入り・・・。
ヒッチコックがようやく評価されたのは、本格的にサスペンスに取り組んだ「下宿人」でした。
物語は、あの”切り裂きジャック”が下敷きでした。
ブロンドの女性ばかりが狙われる謎の連続殺人事件・・・ロンドン中がその話題で持ちきりの中、怪しい男が下宿屋にやってきます。
あの男が噂の殺人鬼ではないか・・・??
人々の中に疑いと恐怖が膨らんでいきます。
それを演出した・・・撮影方法・・・謎の男にガラス板の上を歩かせ下から撮影し、階下から見上げる人々が上の部屋を想像するという方法をとりました。
下宿人は、試写会で好評!!
映画はようやく公開にこぎつけます。
面白い!!知的で明瞭!!苦労の末に世に出た「下宿人」は、空前の大ヒット!!
イギリス映画史上最高といわれ、ヒッチコックは一躍新進気鋭の監督となりました。

ヒットを次々に飛ばしたヒッチコックは、観客から絶大な支持を集めましたが、俳優やスタッフの評判は・・・たいていは冷酷でした。
どうして冷酷といわれたのでしょうか??
27歳の時、ヒッチコックは同じ年のアルマと結婚をしました。
アルマはヒッチコックより5年先輩で、16歳から映画界で働いていました。
各シーンの記録をとるスクリプターで、現場のほぼすべてに精通するスタッフでした。
2人が出会った頃・・・アルマに話しかけられてもヒッチコックは無視し続けていました。

「僕は女の人に対してひどく引っ込み思案になってしまうんだ」

しかし、アルマがこちらを見ていないときは、アルマを見つめっぱなしだったといいます。
アルマに強く惹かれていたものの、すぐに結婚を申し込みませんでした。
こだわりがあったのです。

「私はまず映画監督に、その次にアルマの夫になりたかった
 アルマと結婚するには監督という絶対的な地位が必要だと思ったんだ」

下宿人で自信を得たヒッチコックはようやくアルマと結婚・・・。
その後もヒッチコックは、毎回脚本をチェックしてもらうほど、頼りにしていました。

「仕事の話になると、普段おとなしいアルマが怖い番犬みたいになった」

アルマの方が、ヒッチコックを尻に敷いていました。
アルマは、プロデューサーで活躍するという自分自身の夢は諦めることになりましたが、ヒッチコックをサポートして、ありえない傑作が生みだされることに喜びを見出していました。

1929年、30歳の時に英国初のトーキー映画「ゆすり」を公開。
ある時、男に襲われた主人公のアリスは抵抗するうちにナイフで相手を刺し殺してしまう・・・
動揺したアリスは、見るものすべてがナイフに見えて、罪の意識に悩まされます。
アリスの恐怖心を描くために、ヒッチコックはナイフという言葉だけ音量をあげました。
トーキーの特徴を見事にとらえた演出で、名声はますます高まります。

映画館に次々と恐怖を送り出したヒッチコックですが、家に帰れば優しい父親でした。
彼は特に一人娘を溺愛しました。
仕事が終わると飲みにも行かず、家族と食事をするのが楽しみでした。
39歳の時、大きなチャンスが舞い込みます。
ハリウッドから監督の声がかかったのです。

1939年、39歳の時にハリウッドに進出!!
第1作は・・・1940年「レベッカ」
大富豪の後妻となって屋敷にやってきた主人公・・・
そこには至る所に前妻レベッカの影が・・・!!
主人公の心理が追いつめられていくサスペンスです。
レベッカの興行は大成功で、ハリウッド進出は大成功となりました。
アメリカでも自分のサスペンス映画は通用する!!
ヒッチコックは自信を深めていきました。

ヒッチコックが渡米した年、第二次世界大戦が勃発!!
ヨーロッパは火の海と化していきます。
故郷イギリスにも、空襲の危機が迫っていました。
ヒッチコックはロンドンにいた母をアメリカに呼びましたが、母はイギリスを離れることを拒否します。
2年後、母はイギリスでその生涯を終えました。
映画の製作に追われていたヒッチコックは、母の死に目にも会えませんでした。
この事実がマスコミを通じて知られると、イギリス国民が激怒し、バッシングします。
祖国を見捨てた男として・・・!!

1945年・・・終戦を迎えると、戦勝国のアメリカには豊かで明るい時代が訪れます。
ハリウッド映画は娯楽の王様で、映画界が大盛況!!
この時代、ヒッチコックはヒットを連発します。

1954年、54歳の時に「裏窓」公開
脚を骨折した主人公の楽しみは、裏窓から見える隣のアパートの住人達の観察・・・
そんなある日、殺人と思われる様子を目撃してしまいます。
50代の円熟期にないったヒッチコックは、「めまい」「北北西に進路をとれ」などの名作を次々と製作。
ヒッチコックの映画作りは完璧主義でした。
撮影前から頭の中に映画の全体像が出来上がっていて、詳細に沿った絵コンテに沿って撮影が行われました。
現場でのアドリブはほとんどありませんでした。

「すべて絵コンテ通りに撮るべきなんだ
 私は映画作りにおいて現場でアドリブはしない
 現場での変更は、フルオーケストラの前で音楽家が曲を作るようなもの
 曲がまだできていないのに”フルート、音を出してくれない?”
 フルートが音を出すと”ありがとう”といって曲を書く
 映画は絵コンテ通りに撮影して、スケジュールより早く製作されるべきだ」

ヒッチコックは俳優が求められる以上の自発的な演技をすることを嫌いました。

「俳優は家畜だ
 俳優はあぶくのようなもので、監督の名前こそが観客の心にはっきり残るべきだ」

撮影現場を見た評論家はこう書き残しています。

「撮影現場のヒッチコックはサディストだ
 演技に自信を持っているスター俳優を脂汗流すまでしごき、結局そのシーンを使わないことにしたと人に話す
 それが何よりの楽しみなのだ」

俳優だけでなく、脚本家さえ気に入らなければクビでした。
そして中断された脚本を引き取って、台詞を直しシーン割をしたのがアルマでした。
めったに人を褒めないヒッチコックの最高の誉め言葉は・・・
「アルマが脚本を気に入っているよ」
 
1958年、ヒッチコックが仕事が手につかない事態に陥ります。
アルマがガンで入院したのです。
ヒッチコックはアルマに万が一のことがあったら・・・と、気も狂わんばかりだったといいます。
アルマが無事退院してからも、暫くの間は仕事が再開できない状況でした。

サイレント映画、トーキー、カラーと、日進月歩の映画界で、常に新しい表現にチャレンジしたヒッチコック・・・しかし、どんな作品を作っても、恐怖というテーマは変わりませんでした。
どうして”恐怖”にこだわったのでしょうか?
1955年、TV「ヒッチコック劇場」放送開始
平穏な日常の中で、突然恐怖に襲われる30分のミステリードラマです。
ヒッチコックは、番組を監修するだけでなく物語のはじめと終わりに登場。
製作者が作品を語るスタイルは大好評で、ヒッチコックの顔も世に広まりました。 
これは、ヒッチコックではおなじみのカメオ出演の応用です。
きっかけは衛が下宿人の制作でした。
人件費を削るために出演しました。
それ以来、ヒッチコックは数多くの作品に登場・・・もはや予算のためではありませんでした。
そして観客の楽しみの一つが、映画の中のヒッチコックを探すことでした。

「監督として世間に認められるためには、自分の名前と作品と結びつけてマスコミに取り上げてもらう必要がある
 そうしないと、自分のやりたいことができない」

彼がヒッチコック劇場を手掛けたのには、もう一つ理由がありました。
1950年代後半、テレビが家庭に普及します。
テレビに御客を奪われた映画は、興行収入が落ち込みます。
年間100本制作していたのが、15本ほどに激減・・・。
低予算でも質の高い映画を作って映画館に御客を呼び戻す・・・
この為にテレビ制作の経験を映画制作に取り込みました。
それが・・・「サイコ」です。

スタッフはテレビ界から集められ、時間を削減して人件費を削減する為に、早撮りになれているテレビの人間が必要でした。
低予算で早撮りでモノクロ・・・当時の映画会では常識外れでした。
この映画の最大の見せ所はシャワーシーン・・・
殺人者の顔は見えず、女性の顔が何度も映し出されます。
一秒にも満たない短いカット・・・こうしたカットが50以上重ねられています。
ヒッチコックがこのカットで狙ったのは、観客にも悲鳴を上げさせること・・・
スクリーンと観客席、そのどちらからも悲鳴を上げさせて、絵k画と観客が一体となった恐怖体験を作ろうとしたのです。

観客の感情や心理を操作・・・罪の意識や恐怖を刺激し、感情や心理を操作することに、達成感を見出していました。
人の心を操りたい・・・これは、ヒッチコックが生れながらに持っていたもので、子供の頃からいたずらっ子でした。

常に新しい映画に挑戦するヒッチコックは、古い価値観とも戦いました。
サイコの封切り前・・・当時の映画は倫理が厳しく管理されていました。
わいせつな言葉、神を冒涜する言葉は、悪役でも使えませんでした。
サイコのある映像が、ハリウッド映画で使われたことのない映像でした。
倫理規定に反するのでは・・・??しかし、ヒッチコックは演出上必要だとして一歩もひきません。
それは・・・汚いということで自粛していたトイレのアップでした。
サイコの予告にも独創的なアイデアを持ち込みます。
自らが予告編に出演して撮影現場を案内します。
映画の映像はワンカットも使いませんでした。
そして映画館では誰であっても上映開始後は途中入場させないという前代未聞の規制を徹底させました。
すると・・・上映に遅れまいと人々が長蛇の列をつくり、それがいい宣伝となります。
サイコはヒッチコック最大のヒットとなります。

制作費は他の映画の半分の80万ドル、しかし、興行収入は3600万ドル・・・映画界に新たな希望をもたらしました。

ヒッチコックはさらに新しい恐怖に取り組みます。
それは人間以外の恐怖でした。
カモメやスズメなど、おとなしい鳥が突然襲ってくるという恐怖・・・
どうして鳥が人間を襲うのか・・・??
最後まで明らかにされません。それが恐怖を掻き立てました。
本物の鳥を使うことにこだわります。
クライマックス・・・女優は本物の鳥に襲われます。
女優が本当にケガをするところまでカメラを回してリアリティーを追求します。
鳥もサイコ同様大ヒット・・・この映画を見た人が鳥がトラウマになるなど、衝撃作となるのです。

「サイコ」「鳥」の大成功で、自他ともに認めるハリウッドを代表する映画監督となったヒッチコック・・・
しかし、60歳を過ぎたこの時でも、アカデミー賞には不満たらたらでした。
1940年「レベッカ」で初めてアカデミー監督賞にノミネートされます。
それ以後、5回ノミネートされるも5回とも落選していました。

「私はいつも花嫁の付き添い役で、決して花嫁にはなれない」

当時、サスペンス映画は低級という風潮がありました。
ヒッチコックがいくらヒットを飛ばしても、所詮はテクニックだけの職人監督であるとされたのです。
「サイコ」や「鳥」以外で見返してやる・・・!!
1966年「引き裂かれたカーテン」など次々と新作を作りました。

「ヒッチコックの新作・・・標準以下のでき」
「かつては高度な個性的なスタイルがあったが、今は過去の栄光の繰り返しだ」

1960年代、どぎつい描写や残酷な表現があふれていました。
描写を抑制して観客の想像力を刺激する・・・ヒッチコックが得意とした演出が物足りないとされてしまったのです。
時代遅れといわれ、ピンチに陥ったヒッチコック・・・救いの手は思わぬところから現れました。
それはヨーロッパ・・・フランスを中心とするヌーベルバーグが評価したのです。
新進気鋭の映画監督トリュフォーは、ヒッチコック映画は芸術だと評価します。
トリュフォーは、ヒッチコックに対して1週間以上のロングインタビューを敢行。

「映画術 ヒッチコック/トリュフォー」・・・その内容をまとめた本は、今も映画監督を目指す者たちのバイブルとなっています。
ヒッチコックはハリウッドでも再評価されるようになり、各地で往年の名作が上映されました。
しかし、こうしたリバイバル上映は、ヒッチコックには堪えがたいものでした。
往年の名作ではなく、今の作品に注目を浴びせたかったのです。

「私は常に、映画を作り続けねばならない
 引退こそが一番恐ろしいことだ」

ヒッチコックは70歳を超えても新作に挑戦します。
酒の飲み過ぎで心臓が弱り、ペースメーカーを・・・。
現場に立ち続けます。
しかし、かつての自信は消え失せ、残ったのは不安でした。

「みんなが私を裏切ろうとしている!
 みんな、私を見捨てようとしているんだ!!
 助けてくれ!私はひとりぼっちなんだ!!」

生来人づきあいが苦手なヒッチコックは、友人からの電話や手紙に返事をしてきませんでした。
気が付いたときには、長年の友人たちはヒッチコックの傍にはいませんでした。
そんなヒッチコックに最後まで寄り添ったのは、妻のアルマでした。
いつしか、アルマと二人だけで家に籠るようになります。

1979年、79歳の時にヒッチコックに最後の晴れ舞台が訪れます。
長年の映画会への貢献を表彰されたこの席で、ひねくれものの彼には珍しく感謝の意を表します。

「皆さんに紹介します
 私に最大の愛情と感謝、励ましをくれた4人の人物です。
 最高のパートナーでした。
 一人目は映画の編集者、二人目は脚本家、三人目は私の娘パトリシアの母親、余人目は長年うちのキッチンで腕を振るってくれた名コック・・・彼女の名前はアルマです。」

1年後・・・1980年4月29日、ヒッチコックはアルマに看取られながら80歳の生涯に幕を下ろしました。

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