日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

青い海、美しい砂浜・・・お金持ちのリゾート客が楽しむカリブ海・・・
2022年6月・・・海底を調査していたコロンビア海軍が1708年に沈没したスペイン財宝船2隻を発見しました。
積み込まれた金銀や美術品・・・政府が発表したその価値は、2兆2000億円!!
当時カリブ海では、中南米で取れた宝石や貴金属をヨーロッパに運び込む船が盛んに行き交っていました。
その財宝船を狙う奴らが・・・カリブ海の海賊です。

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かつてハリウッドで盛んに作られた海賊映画・・・
一攫千金を狙って生きるか死ぬかの一発勝負!!
硬い絆の仲間たち・・・自由を愛する陽気なヒーロー・・・それが映画や物語に登場する海賊のイメージです。
しかし、カリブの海賊の時代にその実態を描いた本があります。
1678年「アメリカの海賊」(ジョン・エスケメリング)・1824年「もっとも悪名高い海賊の強奪と殺人の歴史」(チャールズ・ジョンソン)です。

そこに記された海賊の残虐さは・・・
捕虜を的にして射撃の腕を競い合う
甲板に捕虜を集めて大砲を放つ・・・何人死ぬのかかけをする
極めつけは頭を縄で縛り、棒を差し込み、目玉が飛び出るまでねじる!!「ねじりあげ」という拷問です。

残虐であればあるほど一目を置かれるのが海賊の世界・・・!!
なかにはあまりに残虐で、「奴に捕まるくらいなら死んだ方がまし」と噂された海賊が、フランシス・ロロノア・・・フランス人でした。
ロロノアが内陸の町に向け森の中を進んでいると、スペイン兵の待ち伏せに遭います。
反撃して何人か捕虜にすると、怒り狂ったロロノアは、にわかに短刀を抜いて捕虜の胸を切り裂き心臓を手づかみで取り出すと・・・
「安全な道を正直に教えろ!!さもないとお前たちもこうしてやるぞ!!」
見せしめのため、別の捕虜の口に心臓を突っ込んで食べさせました。

海賊は、楽しい時にも、腹を立てた時にも、同じようによく人を殺しました。
彼らの笑顔の中には、危険が潜んでいました。

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カリブの海賊のきっかけは・・・
1492年コロンブスの「新大陸」再発見以来、カリブ海はスペインが支配していました。
1655年、新大陸への進出に出遅れていたイギリスは、カリブ海に貿易拠点を築こうとジャマイカ島を攻略。
イギリスは国の財源となる大規模なサトウキビ畑を開拓します。
そこで強制的に働かされた人がいました。
年季奉公人・・・植民地の地主に雇われた期間限定の白人奴隷です。
本国で多額の借金を抱えた貧民や失業者、犯罪者でした。
そんな食い詰め者たちが、カリブ海に送り込まれたのです。

ムチで打たれながら、劣悪で、過酷な環境で働かされる日々・・・
ここで死ぬくらいなら犯罪者の方がましだと逃げ出した人々が、無法者、海賊となりました。
生きるということが全て・・・力の強い者、暴力を持つ者が君臨して行く場所・・・それが、カリブ海の海賊の世界でした。
しかし、いくら無法地帯とはいえ、海賊行為はもちろん犯罪でした。
イギリスやスペインなど国家の役人に捕まれば縛り首でした。

ところが、海賊の中には、国の制度を利用して英雄になりあがる海賊も・・・!!
ヘンリー・モーガン・・・イギリス生まれの策略家です。
15歳の時、年季奉公人としてカリブ海に送られたモーガンは、一発逆転の野望を抱いて海賊となりました。
欲望まみれの海賊たちは、奪ったお金は酒場や娼館で使い果たします。
しかし、モーガンは金を節約し、貯金を続けました。
30歳の時、ためたお金でジャマイカ島で小さな農園を買います。
「身分が違うのはわかっている
 でも、結婚してほしい」
農園の地主として貴族であるジャマイカ総督一族の娘と結婚。
堅実な人生設計でしたが・・・築いた地位をもとに、モーガンは33歳で私掠免許を手に入れます。
海賊らしくない生活は、全てこのためでした。
私掠免許とは・・・イギリス国王から貴族や商人など金持ちの船主に発行される略奪許可証です。
つまり、国家後任の海賊免許でした。
これがあれば、イギリスの宿敵スペイン相手にいくら略奪、殺人を起こしても罪には問われません。
モーガン最悪の略奪は、パナマ北部のポルトベロ。
当時はスペイン領で、財宝輸送拠点のひとつであり、難攻不落の砦を備えていました。
その砦に、海賊460人を率いたモーガンが襲い掛かります。
しかし、砦に近づくことができません。
するとモーガンは、神をも恐れぬ作戦に・・・!!
町の教会や修道院から神父や修道士、修道女を無理やりかき集め・・・彼らに梯子を背負わせ砦の城壁に架けさせたのです。

「こいつらを人間の盾にして攻め込め!!」

敬虔なカトリック信者のスペイン兵士たちは、聖職者を撃つことが出来ず、砦は陥落。
スペインの拠点の地を手に入れたモーガンは、1カ月に渡り拷問・強奪・殺戮・凌辱・・・莫大な財宝迄ふんだくりました。

「私掠免許があれば、なにも恐れることはない
 やりたい放題だ」

そんなモーガンに、イギリス王室はナイトの称号を授与、さらに、ジャマイカ副総督に任命しました。
若き頃からの野望を果たしたのです。
一方、イギリスも私掠品の略奪で、植民地が潤うのだからぼろ儲け!!
国が過酷な労働に送り込んだ年季奉公人が海賊となり、国も海賊を利用して豊かになる・・・!!
そんな無法地帯の悪循環がカリブ海の海賊を生んだのです。

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1692年、時代は大転換!!
敵対していたイギリスとスペインが和平を結び同盟国となります。
私掠免許は無効となり、海賊は縛り首!!海賊の取り締まりが強化されることになりました。
そんな逆風に逆らって、ずる賢さで生き残ろうとした男がいました。
真夜中の裏切り者ヘンリー・エヴリーです。
その海賊人生も、裏切りから始まりました。
エヴリーは、元は海賊を取り締まるイギリス艦隊の兵士でした。
ある真夜中、エヴリーの乗る船が静かに動き出します。
船長が眠るのを見計らい、エヴリーが勝手に出航させたのです。

「これからは俺様がこの船の船長だ!!
 海賊を取り締まるより、海賊になった方が大儲けができるぜ!!」byエヴリー

一夜にして船長の座と85人の手下を手に入れました。
取り締まりが厳しいカリブ海を避け、インド洋へ略奪三昧・・・!!
エヴリーは、440人と6隻を従える大海賊となりました。
エヴリーは手下に命じます。

「奪った財宝を6隻の船にバラバラに積んでいると、誰かがちょろまかすかもしれねえ
 そこで、親分であるオレの船にまとめて積み俺がしっかり守ってやる!!」byエヴリー

ところが・・・
「この船には一生安楽に暮らせるだけの財宝がある
 他の奴らのことなど知ったこっちゃねえ!!」byエヴリー

真夜中、眠ってしまった5隻の手下を置き去りにして、財宝を持ち逃げしました。
エヴリーは余生を過ごすために故郷のイギリスへ・・・!!
ところが、財宝を現金に換えるため町の商人に預けたが・・・

「いいんですか・・・??
 あんたがお宝をどうやって手に入れたのか、役人にばらしたら縛り首ですよ」by商人

悪徳商人の方が一枚上手・・・まるで陸の海賊でした。
あわれ・・・ほぼすべての財産を奪い取られたエヴリーは貧乏暮らしの末に病気となり、37歳で死亡。
自分の棺の代金さえ、残っていませんでした。
海賊としては策士でも、陸では子ども扱い・・・
それが追い詰められた海賊の現状でした。

こうして数を減らしていったカリブの海賊・・・
しかし、その後、またもや国家の都合が海賊の運命を変えます。

きっかけは、1702年、イギリスとスペインの関係が再び悪化。
スペイン継承戦争が始まります。
この戦争で、海軍力に劣るイギリスは、「私掠免許」を乱発します。
1600隻以上が「私掠船」となりました。
スペインの輸送船を相手に大暴れ・・・!!
略奪で大儲けのチャンスです。
何万人もが、私掠船の船員になったのですが・・・以前とは大きく条件が変わっていました。
私掠船が奪った略奪品は、10%をイギリス政府が徴収、残りの90%を、船主・船長・船員たちで30%ずつ分配・・・つまり、乗組員が50人ならば船員1人の取り分は0.6%となります。
船長の1/50でした。
うまい汁を吸ったのは、船主や船長だけ・・・一攫千金の夢などありませんでした。
海賊も組織の中に組み入れられたサラリーマン海賊となってしまっていました。
大きな夢は見られずに、ある程度の収入を確保していく・・・
それが私掠免許のもとで行われていました。

さらにこの後も、国の都合が変わり、海賊たちは振り回されます。
1713年、スペイン継承戦争終結。
「私掠免許」が無効となり、私掠船は廃止、多くの船乗りが失業します。
すると今度は、船主であるイギリス貴族や商人が悪徳業者と化しました。
船乗りが運よく働き口を見つけても、人余りに付け込む船主から船員は凄まじい搾取に合うのです。
強欲な船主に買いたたかれ賃金は50%カット、航海の最中、船長は出来るだけ少ない予算で積み荷を運ぼうと船員の食費を切り詰め、そのうえ、長い航海の気晴らしに船員をムチで虐待するなど繰り返す者もいました。
まるで、「年季奉公人」に逆戻りしたような状況でした。
船乗りは・・・
「理不尽な支配に対する憎しみが、その後の俺の人生を決めた
 国家が俺たちを使い捨てにせず、法的な支援をしてくれたなら、これほど多くの船乗りが海賊になることはなかっただろう」

かたぎの船には絶望しかない・・・!!
船乗りの5人にひとり、2000人ほどが海賊となりました。
ところが、そうした海賊の中から、国家や商人の不条理な支配に立ち向かう男がいました。
人呼んで海賊の先生ベンジャミン・ホーニゴールドです。
有名な海賊黒ひげなど、多くの船長を育てた親分肌のイギリス人です。
ほーにゴールドは、輸送船を襲うと、いつも船員に奇妙な質問をしました。

「お前の船の船長は、いい奴か?それとも悪い奴か?」

船員がいい船長だと答えると、その船長にボートを与え、食料を渡して解放しました。
しかし、船員が船長に虐待され悪い奴と答えると・・・鼻を削ぎ落し、耳を切り取りました。
権力を嫌い、船乗りの気持ちを大事にするホーニゴールドの元には、海賊たちが続々と集まりました。
また、いくら海賊が集まっても、財宝を監禁するとき悪徳商人に騙されたら元も子もない・・・
そこで、ホーニゴールドが始めたのが、新たな拠点づくりでした。

目をつけたのがバハマ諸島のひとつ・・・ニュープロヴィデンス島です。
イギリス領でしたが、戦争でスペインの攻撃を受け、荒れ果てたまま放置されていました。

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1715年、ホーニゴールドはこの島に拠点を定め、他の海賊団も誘ったため2000人の海賊が集まる町として復興します。
すると、金の匂いにつられ商人たちも集まってきました。

「海賊の金を当てにするほど欲に目が眩んだ悪徳商人なら、役人に密告しないだろう」byホーニゴールド

しかし、つられてきたのは商人たちだけではありませんでした。
復興した島を支配下に治め、利権を手にしようとイギリス政府が行政官を送りこんできました。
すぐさまホーニゴールドは、行政官の屋敷を訪ね言い放ちます。

「もしも海賊に手を出してみろ、家を焼き尽くしてお前を殺す!!
 家族はムチで打ち据えてやる!」byホーニゴールド

怯えた行政官は、島から逃げ出しました。
ホーニゴールドは、島の人々を集めて宣言します。

「この島は、イギリスに見捨てられた
 これからは俺たち海賊が守る!!」byホーニゴールド

イギリスの支配を離れ、海賊の自治区となったニュープロヴィデンス島。
人々は、この不思議な共同体をこう呼びました。
その名も”海賊共和国”と!!

1715年、バハマ諸島ニュープロヴィデンス島に海賊共和国が誕生。
およそ2000人の海賊たちの拠点には、商人や娼婦なども集まり、中南米有数の町として繁栄します。
ここではならず者もみんな仲間・・・共同体の秩序を守るために驚くべきルールがありました。

この「海賊の掟」を守ることが仲間の絆を維持し1人ひとりの利益になる!!
・各人は重大事項の決定に際し、1票の権利を有する
海賊船では、次の略奪目的や船長を選ぶなど大事なことは投票で決めます。
身分や立場に関係なく、1票の権利があります。
船長が信頼できなければ、投票で辞めさせることもできます。

・船長は戦利品の2人分、そのほかは1人分を取得
戦利品は、乗組員みんなで公平に山分けです。
船長さんは、責任があるので多めですが、2人分に抑えています。
私掠船の場合は、乗組員は船長の何十分の一で下から、格段の待遇のよさ!!
乗組員も”やりがい”をもって「略奪」できます。

・敵と交戦中に四肢のいずれかを失った者には150ポンドを支払い、 船に残ることは自由とする
ケガをした時の補償も充実
5年間は遊んで暮らせるだけのお金が支払われます。
職場に残ることもできるとは、至れり尽くせりの労災補償です。

危険を伴う仕事なので、雇用規約が生まれました。

自分達はルールに縛られながら、外に向かってはルールを逸脱した行為をする・・・
非常に矛盾した世界の中で生きていました。

1718年、カリブの海賊は5000人に増え、400隻が海を荒らしまわりました。
海賊黄金時代の最盛期を迎えていました。
しかし、イギリスやスペインが黙っているわけもなく・・・
海賊の被害は前輸送船のおよそ半分・・・2500隻が襲われる甚大なものになっていたからです。
海賊は、スペイン帝国、大英帝国、デンマーク、オランダ、フランスなど、ヨーロッパ経済の生命線となっていました。
「新大陸」との貿易にとって、脅威になりつつありました。
全ての帝国は、海賊共和国を憎み、海賊の排除を目論んでいたのです。
それぞれの国が、海賊討伐のため軍艦を急造、カリブ海に派遣!!
世界が海賊共和国の壊滅に向け動き出していました。

1718年、海賊共和国は誕生から3年がたち、最盛期を迎えていました。
この壊滅を狙うイギリス政府は、イギリス最強の切り札を投入します。
ウッズ・ロジャーズ・・・世界一周の偉業を成し遂げたイギリスの英雄です。
元私掠船員・・・海賊としてその強さも弱点も知り尽くした男でした。
1718年7月24日、ロジャーは7隻の軍監で海賊共和国に乗り込みました。
ところが、ロジャーズが海賊たちに示したのは温情策でした。
恩赦令でした。

「武装を解除して投降すれば、国王はお前たちのこれまでの罪を許して下さる
 略奪で稼いだ金を持ったまま余生を過ごすことができる
 もし、恩赦に逆らえば、取り締まりによって縛り首だ
 どちらか好きな方を選ぶがよい」

海賊たちは直ちに対応を話し合います。
しかし、意見は大きく割れました。
恩赦賛成派・・・「海賊の先生」ホーニゴールド
海賊共和国を作った男がなぜ・・・??
「俺たちはこれまで100年暮らせるほどの財宝を略奪してきた
 恩赦を受ければ、何の心配もなく、生まれ故郷に戻って余生を過ごすことができる
 こんなにおいしい取引を断わる奴は間抜けだぜ」byホーニゴールド

恩赦拒否派・・・「ホーニゴールドの弟子」黒ひげ
「国王や議会なんぞくそ食らえだ
 俺たちが敗れるときは船の火薬庫にピストルをぶち込んで木っ端微塵
 そろって陽気に地獄へ行くのさ!!」

翌日夜・・・イギリス艦隊が大爆発!!
恩赦を拒否する海賊が、火薬を積んだ船をイギリス艦隊にぶつけたのです。
しかし、全てはロジャーズの狙いのうちでした。
直ちに、恩赦派のホーニゴールドに拒否派の討伐を命じました。

「国家に歯向かうならず者を捕まえたら、ひとりに付き30ポンドの報奨金を出そう!!
船長なら100ポンドだ!!生死は問わない!!」

仲間をひとり捕らえれば1年から3年暮らせる高額賞金!!
同士討ちをそそのかされたホーニゴールドは、3週間後・・・
10人の海賊と3人の死体をロジャーズに差し出しました。
莫大な賞金を得たホーニゴールドは、海賊ハンターとして元の仲間を捕らえ続けました。

一方、恩赦令を拒否した黒ひげは、カリブ海を離れ、北アメリカで海賊行為を続けていました。

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1718年11月22日・・・
黒ひげは、自らイギリスの軍艦を攻撃!!
酒を煽りながらイギリス軍艦に吠えます。

「オレは、貴様を見逃そうとは思わねえし、命乞いしようとも思わねえ!!」

これが最後の言葉となりました。
 
絶命した黒ひげの体には、20カ所の刀傷と5発の銃弾が残されていたといいます。
黒ひげの片腕ブラック・シーザーは、遺言を託されていました。

「俺が死んだら火薬庫に火をつけて、船を爆破しろ」

しかし、寸前で逮捕。
シーザーら手下たちはみな、縛り首となりました。
処刑の直前、ひとりが海賊の魂を叫びました。

「もっと悪事を働かなかったことが心残りだぜ!!」

恩赦令を拒否した海賊たちは、毎月数十人処刑され続け、海賊共和国はわずか3年で崩壊しました。
一方、恩赦令を受け入れたホーニゴールドは、莫大な財産をもとに余生を丘で過ごすはずでしたが・・・
イギリス政府に従い「海賊狩りを」続ける中、逮捕、処刑されます。
捕まえたのはホーニゴールドに恨みを持つスペイン海軍でした。

その後、カリブ海は国力を増したイギリスが制圧。
輸送船を守る数多くの軍艦の武力によって、海賊は消え去っていきます。

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白いローヴの三角頭巾・・・アメリカの闇・白人至上主義の秘密結社KKK(クー・クラックス・クラン)。
殺害、爆弾テロ、秘密を破る者には制裁を!!
三角頭巾に謎めいた儀式を行う・・・白人至上主義を訴え、時に黒人をリンチ、殺害に及ぶ・・・日本人の知らない彼らの頭巾の下の素顔とは??

「秘密結社KKK 白い闇の正体~人はなぜ差別と暴力に走るのか?~」



アメリカ南部ミシシッピ州ネショバ郡フィラデルフィア・・・
人口7000人余りの小さい町・・・50%が黒人で、40%が白人です。
58年前、KKKによる全米が恐怖に震える事件が起こりました。

”ミシシッピ・バーニング事件”です。

1964年6月21日夜・・・町を訪れていた3人の公民権運動家が突然行方不明となりました。
原因は不明・・・3人とも20代前半の若者でした。
地元ミシシッピ州出身の黒人と、北部ニューヨークから訪れた白人二人です。
彼らは人種差別に反対し、黒人の公民権、政治参加の権利を確立する活動のため、ミシシッピを訪問。
車ごと、ぷっつりと姿を消しました。
失踪から2日後の6月23日、激しく燃やされた車が郊外の沼地で発見されました。
3人の姿はなく・・・何者かが証拠隠滅を図ったのです。

首都ワシントンD.C.の公民権団体からの要請で、サリバン捜査官を中心とするFBI150人が派遣されました。
FBIは、海軍にも協力を要請。
500人以上が、3人を見つけるべく車の発見現場の近くの森や川を捜索しました。
すると・・・遺体発見!!
黒人でした。
ところが、行方不明の若者ではありませんでした。
捜索を始めると、町のあちこちで8人もの遺体を発見します。
その多くは、激しい暴行を受けていました。
リンチ殺人が多発しているのに、表向きは平穏・・・異常事態の町で一体何が起きているのでしょうか??

1960年代当時、アメリカ南部の11全ての州では、独自の人種差別政策が100年近く施行されていました。
黒人は、専用の場所にしか出入りが許されず、学校や電車、バス、待合室、さらにはホテルやレストランまで・・・特に選挙は、連邦法で黒人にも投票権がありましたが、南部では州独自の法律を作り、脅し、暴力で黒人が占拠に行けないように仕向けていました。

行方不明の3人は、この状況を変えようと、北部の公民権団体の支援を受け、ミシシッピ州で黒人のための活動を行おうとしていました。
それを、何者かが阻止しようとしている・・・
さらに、州知事までもが・・・
「私には3人が殺されたとは思えない
 そのような憶測を正当化する州警察の情報も何もない」

誰もが同じように、事件は起きていないという態度・・・
FBIによる聞き込みも難航します。
白人も黒人も、怯えるように協力を拒否・・・
「話すな・・・沈黙しろ!!」
何者かが、恐怖で町を支配していました。

3人の失踪から40日後・・・郊外のダム建設予定地で、事態は動きました。
3人の遺体が発見されたのです。
激しい暴行を受け、射殺されていました。
3年後、FBIはようやく容疑者を確定、逮捕・起訴しました。
その数は18人に及びました。
ガソリンスタンド勤務、トラック運転手、牧師、セールスマンなど職業はバラバラでした。
共通していたのは、みな、ミシシッピの秘密結社に属していたことです。
KKK組織・・・「ミシシッピの白い騎士団」です。
それは、南部各地にある白人至上主義の秘密結社・クー・クラックス・クランのうち5000人もの団員がいる有力組織でした。
設立者は、逮捕された一人サミュエル・バウワーズでした。
日常での表の顔は、自動販売機の業者・・・しかし、秘密の裏の顔は、”グランド・ウィザード偉大なる魔法使い”と呼ばれるリーダーでした。

潜入捜査!米国にはびこる白人至上主義



1960年代のミシシッピでは、クランは秘密裏に襲撃し、爆破し、人を殴り、人が中にいようとかまわず家や職場に銃を撃ち放火する・・・こういったことが日常茶飯事だったのです。

事件が発生した1964年6月2日、夜10時半・・・
運動家の若者3人が車で走行中、後ろから3台の車がついてくる・・・
1台は保安官のパトロール・カー、なんと、保安官と副保安官がKKKのメンバーだったのです。
集団でリンチ、射殺・・・この時、主犯格の副保安官プライスが語った言葉を研究者が記録していました。

「君たちはいい仕事をした
 ミシシッピは君たちを誇りに思うだろう
 この州の立場を外の奴らに知らしめたんだ
 だが、その前に、お前たちひとりひとりの目を見て言いたい
 最初にしゃべった奴が死ぬんだ
 しゃべる奴は死ぬ、死ぬ、死ぬ」

彼らはテロリスト集団です。
「そんなことをするな」とか、「あなたの組織に反対している」という白人がいれば、今度は彼らが標的となってしまいます。

1967年10月、裁判開廷
地元で開かれた裁判に、逮捕された副保安官、保安官、を含む18人が現れました。
陪審員は、全員、地元から選ばれた白人です。
判決は・・・18人中7人が有罪。
いずれも殺人罪ではなく、公民権活動侵害の共同謀議という軽い罪に終わりました。
表向きは善良な一市民として過ごし、裏では白人優位の社会を守るため、差別と暴力、恐怖による支配をいとわない・・・それが、クー・クラックス・クランの正体でした。

1860年代、最も初期のKKKの衣装・・・白装束ではなく全身が赤と白でした。
三角帽子にマスク、どうしてこんな格好をしたのでしょうか??
アメリカ南部・音楽の町として知られるテネシー州ナッシュビル。
車で2時間ほど南に、人口8000人ほどの町プラスキがあります。
町の中心部・かつての判事事務所の入り口に、奇妙なものが飾られています。
裏返された銘板、かつて表向きになっていた時代はこう読まれました。

”クー・クラックス・クラン ここに結成される
      1865年12月24日        ”  

結成したのは、20代の若者6人でした。
弁護士や地元新聞の編集者など、町のインテリ層で、全員が南北戦争での元南軍兵士でした。
南北戦争・・・それは、1861年~65年、アメリカ史上最悪の70万人以上の死者を出した内戦です。
北部23州と、南部11州の戦いでした。
おびただしい犠牲を出しながら、1865年、南軍が敗北します。
南部各地に北軍の連邦勢力が進駐し、各州が合衆国に復帰し、国家再建に向け戦後処理が行われました。
その中にあったのが、南部にあった黒人奴隷の開放でした。
そもそも南部は、黒人奴隷を使い、綿花を中心とした農業で繁栄していました。
その400万人に及ぶ奴隷に、アメリカ国民の権利を与える奴隷解放が始まったのです。
選挙権が認められ、これまで白人が独占していた南部の政治の世界に黒人が入ってくることになりました。
戦争に敗北した上、これまでの白人独占の社会を強制的に変えられることは、南部の白人たちには耐えられない屈辱でした。
そんな中、札付きの6人の南軍兵士がうっぷん晴らしの秘密のいたずらを始めました。
すると、白人たちの間で話題となり、広がっていきます。
それが、奇抜な衣装で人々を驚かすイタズラでした。
赤と白のストライプ、胸には月と星・・・これは、南軍の軍旗などに良く使われたモチーフです。
マスクは流行が広がるにつれ、バリエーション豊富となります。
いずれも昼間の素顔を隠し、グロテスクな見た目で威嚇します。
やがて、こうしたうっぷん晴らしは、不満を抱えた何ぐ¥部の人たちに広まって、過激なものになっていきます。
彼らが敵とする人々は、南部の社会を変えようとする白人や、奴隷から解放された黒人への組織的な暴力へと発展していきました。

KKKを語るうえで、当時の一般的な白人の黒人に対する暴力行為について考える必要があります。
この時代は、暴力的な時代で、白人が黒人に暴力を振るうのは当たり前でした。
プラスキでKKKが結成されたころ、一般白人も黒人への暴力を盛んに行っていたのです。
この二つにはおそらく関係があり、一部の人たちはその両方に関係していました。
たった6人によるKKK発足からわずか1年半後の1867年5月。
参加者が55万人に達したKKKを一つにまとめる男が現れました。
元南軍将校のネイサン・ベッドフォード・フォレストです。
南軍の英雄で人気が高い人物がリーダーとなり、巨大組織に作り替えたのです。

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KKKの規約書・・・タイトルは、***の規約。
あくまで秘密結社なので、KKKとは一切書かれていません。
入会の儀式では、思想がクランに相応しいかどうか、質問を受けます。

「あなたは黒人の平等に反対しますか?」
「あなたは南部の権利を維持することに賛成しますか?」

そして、もし組織の秘密を外に漏らすようなことがあれば、”裏切った会員は、法に基づく究極の罰を受ける”
その組織と肩書は、かなりファンタジーです。
南部14州の帝国で騎士団を統括するのは、帝国の偉大なる魔法使いと10人の精霊・・・
各地方の王国を担当するグランドドラゴンと8人のヒドラ。
その下の位も、巨大人、ゴブリン、一つ目巨人、大修道士・・・と、ファンタジーのような肩書が続きます。
会員は、現実社会とは異なる秘密帝国の一員の気分となります。

フォレストは豪語します。

「もし有事となれば、5日以内に4万人の男たちを派遣することができる」

フォレストは元軍人で戦前は奴隷商人、暴力的な人で彼の哲学は暴力と白人至上主義でした。
彼にとってKKKは、戦争に負けて失った南部の名誉や尊厳を取り戻す一つの手段だったのです。
しかし、KKKメンバーの暴力は止まりません。
1898年、ジョージア州では3か月で39人がKKKによって殺害されました。
アラバマ州では109件の殺害事件、3カ所の黒人学校が襲撃され、裁判所も放火されました。
KKKは、それぞれの地方で過激化の一途をたどり、フォレストの権威でも抑えられなくなっていました。
第1期のKKKで重要なことは、中央集権ではなかったということです。
KKKで起きた人の命を奪うリンチや殺人は、特定の誰かが指揮して行われたわけではありません。
暴力を振るう相手も、その振る舞い方も違うため、上から統制することはできませんでした。
1869年、フォレストはKKK解散。
バラバラになったメンバーたちは、個別に北の連邦軍勢力に制圧されるなど、勢いを失い消滅しました。

1877年、南部全ての州から連邦軍が撤退。
南部で黒人の参政権などが認められ、奴隷解放が完了するのを見届けてのことでした。
ところが、連邦軍の重しが取れたとたん、南部の各州は黒人の隔離制度(ジム・クロウ法)成立。
後の、1960年代まで続く公共施設の分離や、黒人が選挙権を行使できない状態はここから始まりました。
過激な暴力による差別集団・KKKが消滅したそのあとにこそ、その後90年に及ぶアメリカの黒人差別社会は固定されていくのです。

KKKの会員数が最も多かった1920年代、やっていたのはパレードとフォークダンス。
500万人が暴れるどころか、家族で集まる楽しいイベントでした。
1920年代、アメリカに大衆文化が花開きます。
KKKが突如復活!!
その行動とは・・・??
観覧車を楽しむKKK、飛行機の前で記念撮影、”絶対秘密で裏切り者には罰を!!”の決まりはどこに??
笑顔で復活したKKK。
1910年代、アメリカはそれまでの価値観が大きく変わる時代を迎えていました。
ニューヨークには、超高層ビルが立ち並ぶようになり、北部アメリカの工業化は目覚ましく発展しつつありました。
一方、南部を中心とした農村地帯は、経済的に立ち遅れる地域が多く、保守的な農民層の間で不満は募る一方でした。
南北戦争で発生した分断の傷は、いまだ癒されてはいませんでした。
そんな中、KKKをメインに描いた大作映画が公開されます。

それでもあなたを「赦す」と言う――黒人差別が引き起こした教会銃乱射事件 (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズIII-11)

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1915年公開の「國民の創生」・D.W.グリフィスです。
物語の舞台は、南北戦争とその後の南部社会。
奴隷から解放され、平等な権利を与えられた黒人たちは、日に日に勢力を増し、白人女性に結婚を迫ったり、選挙の際白人の投票を拒否したりと、やりたい放題・・・。
そこに突如、馬に乗って表れた救世主がKKKでした。
眼だけ出した真っ白な衣装、秘密どころか白昼堂々「正義の騎士団」として、横暴な黒人たちを打ち負かします。
物語は、南部と北部の白人男女が結ばれハッピーエンド・・・分断された南部と北部が統合されたのです。
この映画は、黒人を極端に悪者として描いたことで、激しい抗議や上映禁止運動に晒されましたが、興行はロングランとなり、当時の白人層の気持ちに応えたものでした。
そして、映画公開中の1915年11月・・・ジョージア州ストーンマウンテンで。
この山の頂上で、炎で光り輝く十字架が掲げられました。
KKKの復活でした。
第2期KKKを創設したのは、おどろおどろしい仮面の男・・・教会の牧師ウィリアム・シモンズでした。
シモンズは、後におなじみとなる白装束など、映画國民の創生でのイメージに影響を受け、復活させたと言われています。
第1期KKKの理念を受け継いで作られた第2期の規約「クロラン」
この内容には、第1期と決定的に異なる部分があります。
入会時の質問の重要ポイントは、
「あなたはキリスト教の教義を信じますか?」
「あなたはこの国で生まれた生粋の白人ですか?」でした。

第1期への重点である
「南部の権利を維持することに賛成しますか?」
「黒人の平等に反対しますか?」
ではなく・・・白人のキリスト教徒であることを最も重視しているのです。

「私たちは創造主によって定められた人類の人種間の区別を認め、白人至上主義を忠実に維持し、いかなる妥協にも断固として反対します」byクロラン

彼らが嫌悪感を示したのは、当時急増していたイタリア、ポーランド、ロシアなどからやってくる「新移民」でした。
これまでアメリカに渡ってきた白人の多くがキリスト教プロテスタントであったのに対し、「新移民」はカトリック、正教、ユダヤ教・・・しかも、Sん移民たちは、自分たちの文化をそのまま持ち込み、コミュニティーを作り、アメリカ社会に同化しようとしませんでした。
シモンズ達第2次KKKは、これを警戒したのです。
彼らは、自分達開拓時代からの白人が、とても大きな力を持っていて豊かなのは、生物としての進化の最上位にいることを生まれながらに運命づけられていると信じていました。
従って、新移民さえいなければ、あらゆる面で秩序正しく純粋で、清潔になるはずだと空想しました。

シモンズは、第1期のように暴力で他社を排除するのではなく、みずからが古き良き時代の道徳を取り戻すよう訴えます。

「我々の祖先の古きアメリカは、至る所で消え去りつつある
 我々アメリカ人は、進むべき道を改めなければならない
 我々に必要なのは、良識と健全なる精神の復興である
 我々は前進するのではない
 我々は逆戻りするのである」byシモンズ

KKKは、病院や学校建設のための寄付を募るなど、慈善活動を盛んに行います。
そして、新たな会員を集めるために、家族連れで楽しめる娯楽イベントを開催します。
遊園地でのイベント、アクロバット飛行ショー、ドラゴンに立ち向かう騎士のパレード・・・
そして、KKK復活から10年が経った1925年8月、首都ワシントンD.C.で、大規模なパレードを開催します。
この頃、KKKは全米で200支部、会員数は500万人の政治勢力にまでなっていました。
自分達の社会が変わる不安を抱えた人たちが、娯楽の楽しさに導かれ、白人至上主義という差別意識に取り込まれていきました。
この会員たちは、過激な思想を持っていたわけではありません。
白人至上主義は、規範的なことでした。
誰もが大きな社会集団であるKKKに加わったかもしれません。

1924年、アメリカ連邦政府は、移民の年間受け入れ数を大幅に制限する移民法を施行します。
KKKは大きな目標を達成したことで、勢いを失います。
会員数を急速に減らしたKKKは、古き良きアメリカの実現が出来ないまま衰退していきました。

1960年代、アメリカ国民の価値観が、大きく揺らいだ時代・・・
KKKは、三度よみがえります。
この間、KKKが起こしたとされる爆弾・爆破のテロの数は、100件以上。
第2期と打って変わって暴力の恐怖と秘密を絶対とする集団としてよみがえったのです。

マーティン・ルーサー・キング・ジュニア・・・
1950年代半ばから始まった公民権運動。
人種差別の解消を目指す運動は、社会全体を大きく揺さぶりました。
ところが、1957年、白人が通う公立高校(アーカンソー州リトルロック・セントラル高校)で、黒人生徒の受け入れをめぐり軍隊が出動する騒ぎとなりました。
騒ぎの中、白人の生徒たちは、
「授業は一緒でも構わないけど、ダンスパーティーはイヤです」
「黒人と一緒の授業は無理です」
「学校が閉鎖された方がましです」
社会が変わることを、保守的な白人層は拒絶し続けました。
権利を求める黒人への暴力・・・こうした社会の分裂に応えるように復活したのがKKKでした。

「神のご意思のもと 死ぬまで一歩も譲らない」

この時のKKKは、全国組織ではなく、南部の各州でその名称を名乗りました。
特に、アラバマ州のKKKは、最悪の活動を活発に行っていました。
1950年代を通じて、白人の居住区に住もうとした黒人の家などが襲撃されました。
ダイナマイトによる爆弾事件はおよそ50件。

1961年、アラバマ州アニストンでは、公民権運動家のバスに火炎瓶を投げ入れ、脱出した運動家たちに暴行!!
しかも、公民権運動に反対する警察署長は、KKKのメンバーと秘密の連携をもち、見て見ぬふりをしました。
容疑者は逮捕されても無罪か、軽い罪で終わりました。
何物かが、権力者と秘密の結託、見えない恐怖が町を覆いました。
それがこの時代のKKKでした。
彼らがやろうとしていることの一部には、恐怖を広げ、その為にうまく秘密主義を押し通すということがあります。
秘密主義でありながら、秘密主義であることをマスコミに確実に知らせる・・・
これは、恐怖を広めるうえでは非常に有効な作戦でした。

しかし、この教会で起きた事件は、アメリカを変えます。
アラバマ州バーミング・ハム16番街バプテスト教会・・・
1963年9月15日日曜日10時22分のこと、KKKが地下室に仕掛けた19本のダイナマイトが爆発しました。
日曜礼拝に集まっていた人びと、20人前後が負傷、4人が死亡しました。
死亡したのは、11歳から14歳までの少女・・・市民運動への参加すらない子供でした。
世間では、残虐な暴力に対する嫌悪感が高まっていきます。
1964年以降、公民権法(1964)、投票権法成立(1965)などが成立すると、南部の人種差別政策は撤廃。
選挙で黒人有権者に対する威嚇は無くなり、投票率は飛躍的に上昇しました。

その後、連邦政府による捜査や、世論の反発を受け、KKKを名乗る各地の組織は徐々に消滅していきました。
2005年、KKKの時代が終わったことを象徴する出来事が起きました。
公民権運動家の青年3人が殺害されたミシシッピ・バーニング事件の容疑者が、改めて地元の裁判所で裁かれることになりました。
被告は、元牧師のエドガー・レイ・キリン(80)
地元のKKKの中心的な役割でしたが、1967年の裁判では陪審員が彼をかばい無罪でした。
40年ぶりの裁判・・・今回の陪審員の判断は全員一致。

「陪審員はあなたが有罪だという判決を下しました」

過失致死罪で懲役60年・・・

そして今、KKKを名乗る団体に代わり新たな白人至上主義のグループが現れています。
2021年1月、こうしたグループは、連邦議会襲撃事件にも参加。
インターネット空間で、全米のあらゆる階層が白人至上主義で繋がっていて、全体像は見えません。
KKKを生み出した人間の負の感情は、今も生き続けています。

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クー・クラックス・クラン 革命とロマンス

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今から20年ほど前、イギリスで裁判が開かれました。
争われたのは、ナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺!!ホロコーストについてです。
これまで定説とされたものが、もしや覆されるのではないかと、世界中の話題となりました。
果たして歴史は、裁判で決められるのでしょうか??

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2000年1月11日、ロンドンの王立裁判所・・・
この日から始まる法廷の取材に世界中のマスコミが駆けつけました。
この裁判は、原告・歴史作家のデイヴッド・アーヴィングと被告・歴史学者デボラ・E・リップシュタットが争うものでした。
世界中から注目を浴びることになった理由とは・・・??

「私が見た歴史資料によるとガス室はなかった」byアーヴィング

アーヴィングは、
「ユダヤ人大量虐殺・ホロコーストについて、世間が信じているガス室などの常識は間違っている」
という・・・そんなアーヴィングを批判したのが、アメリカ在住の歴史学者リップシュタット。彼女は自らの著書で痛烈に書き記しました。
「彼の研究は、歴史というより神話に近い」

アーヴィングが主張するホロコースト否定論は事実ではない!!というのです。
歴史が裁判によって争われることになりました。

ホロコースト・・・それは、第2次世界大戦中、ナチ政権による組織的なユダヤ人虐殺のことです。
総統アドルフ・ヒトラーのもと、強制収容所のガス室などでユダヤ人を絶滅させる計画が進められました。
終戦前後、連合国が強制収容所の資料や残された毒物、生存者たちの証言をもとに調査を開始したことで、実態が明らかになりました。
その後も、世界中の人々が研究をすすめ、銃殺やガス室などで殺されたユダヤ人の数は推定600万人とされています。
ところが、1970年代、歴史の常識と考えられて来た説に異論を唱える人が現れます。

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1974年イギリスで発行されました
「本当に600万人が死んだのか?」
「当時のヨーロッパにユダヤ人は600万人もいなかった」と主張。
1975年、アメリカでは
「20世紀の大ペテン・殺されたはずのユダヤ人がアメリカの大都市で生きている」

こうしたホロコースト否定論で有名になったのが、イギリス人で作家デイビッド・アーヴィングです。
アーヴィングのデビューは、1963年「ドレスデンの破壊」でした。
ドイツ側の爆撃被害から第2次世界大戦を調査した本です。
イギリス人でありながら、ドイツ側の視点で戦争の実態を明らかにする著作は、一定の評価を得ていました。
ところが、1977年に出版した「ヒトラーの戦争」以降、彼はホロコーストの常識を覆そうとします。

「ヒトラーはユダヤ人虐殺を命令していない」
「大量虐殺のためのガス室などない」
「収容所のユダヤ人の死因は病気か連合軍の攻撃」

アーヴィングの主張の前提には、世間の人々が知らない重大な事実がありました。
それは「世界中のどこにもヒトラーによるユダヤ人抹殺を命令した文書は見つかっていない」ということでした。
そもそも、ヒトラーがホロコーストを命じた証拠がない以上、ホロコーストの常識も怪しいというのです。

確かにユダヤ人虐殺の命令文書は見つかっていません。
しかし、ヒトラーの関与を示す資料は、一個人が一生をかけても読み切れないほど大量にあります。
歴史学者は、ヒトラーが口頭で命令したと考えています。
歴史学者たちは、「アーヴィングとは議論にならない」と判断し、彼を無視していました。
ところが、歴史学者が誰も止めようとしない中、アーヴィングはテレビなど多数のメディアに登場!!
「ホロコーストの常識はあやしい」と語り続けました。

1993年アメリカでは、「ホロコーストは起きていなかったという説はあり得るか?」というインタビューに、ありえない65%、ありえる22%も回答しました。
着実に世間の意識を変えていきました。
この状況に立ち向かったのは、アメリカ・エモリ―大学でアメリカユダヤ史の教鞭をとっていた歴史学者リップシュタット教授でした。
リップシュタットは、1993年「ホロコーストの否定」で、アービングの「ヒトラーの戦争」を批判しました。

「アーヴィングは、総統ヒトラーの熱烈な崇拝者」
「彼は自分の信条に合わせるため、事実を歪曲し、資料を加工する」

つまり、アービングはヒトラーを擁護するために、歴史資料加工を行ってホロコーストの事実を歪曲したと批判したのです。
これにアービングは反撃します。
リップシュタットと出版社を名誉棄損で訴えたのです。

「私はあくまで資料を基に事実を書いている
 思想信条をもとに事実を捻じ曲げたという記述は誹謗中傷だ」

一方、訴えられたリップシュタットは、和解などを選ばず法廷で受けて立つと決断しました。
しかしこれはリップシュタットにとって大きなリスクを伴うものでした。
当時のイギリスの名誉棄損裁判では、訴えられた側が非難内容の正当性を証明しなければなりませんでした。
つまり、訴えられたリップシュタットは、アーヴィングが「ヒトラーの熱烈な崇拝者」「資料の捻じ曲げ・事実を歪曲」と証明しなければなりませんでした。
つまり、アーヴィングが本や講演内容のもとになる資料を調べ上げ、捻じ曲げているかを精査しなければなりませんでした。
その為には、人も時間も必要で、裁判費用は億単位!!
しかし、彼女はあえて法廷で戦うことを選びました。

「過去に起きたことは何も変えられない
 しかし、過去に起きたことに対する人々の認識は変わる
 アーヴィングが変えようとしたのは人々の認識です
 私はそれを許すことはできなかったのです」

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2000年1月11日、ホロコースト否定論をめぐる裁判が始まりました。
名誉棄損を訴えた原告アービングは弁護士を使わず、自分自身で弁論します。
一方、訴えられた被告リップシュタットは、3人の弁護士をはじめチームで立ち向かいます。
リップシュタット側の弁護士リチャード・ランプトンは、冒頭陳述で裁判の争点を語ります。

「裁判官、我々はアービングの主張には欺瞞と意図的な資料の捻じ曲げを明らかにします
 さらに、その動機は、ヒトラーの熱狂的な辛抱に由来する反ユダヤ主義にあることを証明します」byランプトン

裁判の争点は3つ・・・
①ヒトラーはユダヤ人虐殺を命じず虐殺を止めようとした?
②ガス室で大量虐殺は行われていない?
③資料の捻じ曲げは反ユダヤ主義思想によるものか?

「アーヴィングが反ユダヤ主義思想を持っているかは問題の核心
 ホロコースト否定は単なる歴史の曲解ではない
 彼らは”戦後のユダヤ人がドイツから補償金をもらうためホロコーストをでっち上げた”と考えている
 ホロコースト否定は、反ユダヤ主義のひとつの形なのです」byリップシュタット
 
第1の争点・・・ヒトラーはユダヤ人虐殺を止めた?
焦点となったのは、アービングの資料の”イギリス軍の盗聴記録”です。
1945年4月、イギリス軍の捕虜収容所にて・・・
イギリス軍は、捕虜にしたドイツ人兵士の会話を盗聴していました。
その中に、あるドイツ軍将校ヴァルター・ブルンスの盗聴記録があります。 

「今後は大量銃殺を禁止するという命令が下された」

アーヴィングはこの命令を、「総統本部からの発令・・・ヒトラーがユダヤ人虐殺を止める命令を敷く出した」と主張していました。

二つ目の根拠は、ドイツの公文書館にあったナチス親衛隊のヒムラーの電話のメモです。
1941年11月30日のもので、重要な記述がありました。
そのメモには・・・
”ベルリンからのユダヤ人の移送 抹殺なし”
このメモをもとに、アーヴィングは新たな説を打ち立てます。

「ヒトラーとヒムラーが、ベルリンのユダヤ人の処遇を議論した結果、今後すべてのユダヤ人を抹殺しないというヒトラーの命令が下った」byアーヴィング

ヒムラーのメモと、イギリス軍の盗聴記録・・・
アーヴィングはこうした記録から、”ヒトラーはユダヤ人を守っていた”という結論を導き出しました。
2000年1月13日、裁判3日目・・・ヒトラーがユダヤ人を守っていたというアーヴィングの主張に対し、被告人の弁護士ランプトンは反論します。
イギリス軍の盗聴記録・・・
「アーヴィングさんは、記録の元の意味を歪曲している」
リップシュタット側は、アーヴィングが根拠としているイギリス軍の盗聴記録を見つけ出し、法廷に提出。
そこには、”今後は大量銃殺を禁止するという命令が下された”・・・確かに、アーヴィングの主張通り、大量銃殺を禁止する命令について記されています。
ところが「アーヴィングさんが何をしたかというと、記録の前半部分を取り上げ、公判を省略していたのです」
大量銃殺の記述・・・そのすぐ隣には、”実施する場合は秘密裏に進めること”とありました。

大量銃殺は禁止だが、実施するなら秘密裏に進めよ・・・!!

ランプトンはこれを読み解きます。

「この命令は、ユダヤ人の命を守るために出されたのではない
 ”大量銃殺を連合軍に知られてはいけない”という命令です」

さらにランプトンは、アーヴィングがこの”秘密裏に進めよ”という部分を不当に省略し、ヒトラーが大量銃殺禁止を命じたとアーヴィングが歪曲したとします。
これに対しアーヴィングは、
「不当な省略ではなくようやくです
 この記録の重要部分は大量虐殺が禁止されたこと」
アーヴィングは、不当な省略ではなく要約だと主張することで、あくまでヒトラーが銃殺を止めようとした自説が正しいと語ります。

ヒムラーのメモ・・・
これをもとに、アーヴィングがユダヤ人は抹殺しないというヒトラーの命令が下ったと主張する資料です。
ランプトンはこのメモについてアーヴィングが重大な間違いをしていると指摘します。

「あなたはメモの中の”ユダヤ人の移送”という言葉から、”ユダヤ人全体の抹殺がなくなった”と捉えている
 しかし、メモの単語が示しているのは、列車1台分の話に過ぎない」

移送されるユダヤ人をユダヤ人全体と捉えるには、その単語は複数形のハズ・・・しかし、このメモの単語は単数形でした。列車一台分では・・・!!
これをアーヴィングがわざと複数形に歪曲し、移送されるユダヤ人全体の話として捻じ曲げたというのです。
これを指摘されたアーヴィングは、
「私がメモのこの部分を読み間違えたのでしょう 
 文章の読み間違えは、学者にもよくあることです」
するとリップシュタット側は、アービングの著書には資料の捻じ曲げが19カ所もあることを指摘します。
相次ぐ指摘にアービングは、「要約です、推測です、読み間違えました」と答え続けていましたが、最終的には
「一部の資料については、そちらの主張が正しいと思います」

アーヴィングはリップシュタットの批判が一部正当であると認めざるを得なかったのです。
こうしたアーヴィングの歴史資料の扱い方について、リップシュタット側の関係者エヴァンズ教授は・・・

「どんな歴史学者でも間違いは犯します
 しかし、アーヴィングが書いたものは、全てヒトラーが無罪になる方向に向かっています
 つまり、アーヴィングの間違いは、単なるミスではなく、意図的に資料を捻じ曲げたと言えるのです」

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第2の争点・・・ガス室で大量虐殺は行われていない??
ポーランド南部・・・アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所・・・
1942年の春からナチス・ドイツはユダヤ人の絶滅計画を実行に移していくさ中、大量にさらに効率的に殺戮するための施設が次々と作られます。
それが猛毒ガスを使ったガス室でした。
現在、姿をとどめるガス室は、一部再現されたひとつだけ・・・
当時、アウシュビッツ全体には、5つのガス室があったが、そのうちのひとつは囚人による反乱で破壊、3つは敗戦間際、証拠隠滅のためナチ親衛隊が解体・爆破しました。
このように、当時の建物が残っていないことが、ガス室についての否定論を呼び起こすことになります。
その代表的な動きが、1988年2月。
破壊されたガス室のがれきを無許可で削り持ち帰る人物が現れました。
自称死刑の専門家フレッド・ロイヒターです。
ロイヒターが削り取ったのは、破壊されたすべてのガス室のがれき・・・
さらに、ガス室と同じ毒ガスで衣服についたシラミを除去する消毒室の壁も、持ち帰りました。
ロイヒターは、ガス室のがれき、消毒室の壁の毒ガスの残留濃度を検査します。
その結果、猛毒シアン化合物は、消毒室で高濃度、ガス室ではごくわずかでした。
そこでロイヒターは、シラミを殺すよりも濃度の低い毒ガスでは人間を殺すことはできないと、結論。
ロイヒターは、この内容を1988年に出版します。
アーヴィングは、この本に影響を受けたというのです。

「ロイヒターの報告書を読み、ホロコーストの全てが疑惑に代わりました」

2000年1月24日、ロイヒター報告をもとに、ガス室での大量虐殺はなかったと主張するアーヴィング。
被告弁護士ランプトンはアーヴィングを追求します。

「処刑用のガス室が存在しなかったなら、がれきの中のシアン化合物の痕跡をどう説明しますか??」

「その部屋は、病気などで死んだ遺体の消毒に使われていたのです」

「死体を消毒??なぜそのようなことを??」

「シラミがたかっているから消毒する必要があります」

「死体は火葬するので消毒の必要はないのではないですか?」

次々に畳みかけるランプトンに対し、アーヴィングは主張を変えていきます。

「あの部屋は実は防空壕だったのです」

「もし、防空壕だったとしたら、囚人たちが逃げ込むのには狭すぎます」

「ナチ親衛隊院の防空壕だったのです」

「親衛隊員の弊社からこの部屋まで4キロか5キロ・・・
 遠すぎませんか?」

問題の部屋が何に使われたか??次々に見解が変わるアーヴィング。
そもそも、その部屋が何か検証していないようでした。
現在、アーヴィングのガス室否定に影響を与えたロイヒター報告も、サンプル採取・分析方法のずさんさが指摘され、様々な点で批判されています。

2000年1月25日、アーヴィングが明確に答えられない問題の部屋について、リップシュタット側はこれがガス室であるという証言を開示します。
証言は建築史が専門の歴史学者ロベルト・ヤン・ファン・ペルト。
証拠としたのは設計図面です。
1942年、地下にある問題の部屋で大きな改築工事が行われています。
建築前には、死体安置所として使われていた場所  
図面を比べると・・・新たに直接外から降りてくる階段が造られていることが分かります。
そこから奥に進むと大きな部屋に入るドアが一つだけ・・・内開きから外開きに変わっていました。
これは、ドアを内開きにしておくと悪い事情があったからです。
例えば、扉の向こう側に人々が集まってそのまま命を落とした場合、死体の山で扉は開けられなくなります。
外から人々が地下におり、奥の部屋に入り、向こう側で扉に殺到して命を落とす・・・
つまり、この部屋がガス室です。

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ファン・ぺルトは、これ以外にも750ページ、27万文字の膨大なレポートを裁判所に提出しています。
ファン・ぺルトレポート・・・現在、インターネットで公開され、誰でも読むことができます。
アウシュビッツの生存者から元司令官まで、問題の部屋にまつわる多くの証言、ナチによる廃棄を逃れた葉ちゅう関連の資料など、世界中の研究者による長年の調査による膨大な記録・・・
その一つ一つがガス室の存在と大量虐殺を示唆するものでした。

「私は裁判で”収束する証拠”という言葉を使いました
 あらゆる角度からの証拠が、同じ結論へと収束するのです」byファン・ぺルト
 
1月25日、閉廷間際・・・
アーヴィングはファン・ぺルトに対して反撃を開始します。

「ファン・ぺルトさんの推測には、矛盾が生じています
 つまり、あるはずのものがないのです
 それは、毒物の投入孔です」

現在唯一残されているガス室・・・
その屋上には、再現された煙突のようなものがいくつもついています。
これは毒ガス発生剤「チクロンB」の投入孔だといいます。
しかし、アーヴィングは現在がれきになっている部屋の残骸からは、その痕跡が見つかっていないというのです。
リップシュタット側は反論します。

「ガス室が爆破された時、投入孔もがれきになったのです
 しかし、穴があったことは、生存者たちの証言でも一致しています」

「これまた多くの歴史学者が投入孔の跡を探したが見つかっていません
 つまり、生存者の証言は、ウソということになります」

午後4時・・・この日は時間切れで終了。
投入孔に関する議論は、翌日に持ち越されることになりました。
その後、裁判所を出たアーヴィングは、取り囲むマスコミに対しパフォーマンスを行います。

「ノーホール・ノーホロコースト」

すると、翌日の新聞には、
”歴史家が証言・アウシュビッツにガス室はなかった”
”アーヴィング、忌まわしき残虐行為説に異議を唱える”
”被告側証人たちの証言は全面的に打ち砕かれた
 なぜなら屋根に穴の痕跡も認められないのだから”

ガス室をめぐる議論で、リップシュタット側の膨大な証拠を前に、アーヴィングは研究不足を露呈し、追い詰められたはずでした。
実際に、翌日以降、ガス室の投入孔についてリップシュタット側も資料を提示し反論しましたが、世間にはアーヴィングのたった一つの言葉の印象が残ったのです。

ガス室がどこにあるのかわかっていたので、この議論がバカげていることはわかっていました。
実際投入孔は存在しています。
今は、発掘されたものを見ることができます。
しかし、アーヴィングの言葉はキャッチ―で、新聞も派手な見出しをつけることが大好きです。
派手でシンプルな新聞に、読者はうまく興味をそそられてしまいます。


第3の争点
アーヴィングによる資料の捻じ曲げは、反ユダヤ主義思想が原因か?

リップシュタット側は、裁判が始まるまでアーヴィングの思想信条を調べるため、講演ビデオを大量に調査します。
その映像は、裁判中何度も法廷で流されていました。
それは、ホロコーストの生存者に対して侮蔑的な言葉の連続でした。

「(ユダヤ人にとって)ホロコーストはビッグビジネスです
 だから、ホロコーストという神話が生き続けて行けるのです」

またある講演では、アウシュビッツ生存者が囚人番号を見せたと話題にし、
「そこで私は言うのです 確かにあなたは苦しんでこられた
 でもその入れ墨で終戦以降どれだけ稼いだんですか?」

アーヴィングが反ユダヤ主義であることは誰の目にも明らかでした。

彼のヒトラーへの称賛は、彼の人格に深く根差していました。
ヒトラーは、怪物という説を否定することは正当だと考えられます。

顔のないヒトラーたち(字幕版)



2000年1月31日・・・これまでとは違う議論に導いていきます。
進化心理学者のケヴィン・マクドナルド・・・ユダヤ人は陰謀をめぐらす民族だと主張し、批判されている人物です。
「1996年に、アーヴィングさんの本の出版が取りやめになりました
 その理由は、リップシュタットさんが圧力をかけたからです」

1996年、アーヴィングは、ナチ政権の宣伝大臣ゲッペルスの伝記を執筆。
ところが、ナチス擁護を行うアーヴィングに批判が殺到します。
出版社が契約解除を申し出たため、出版が取りやめになったのです。
この時、批判が殺到した原因は、3年前にリップシュタットがアーヴィングを批判したためと主張しました。

「被告リップシュタットは、言論の自由を奪おうとする試みをしているようです」

言論の自由・・・アーヴィングは、たとえ自分自身に反ユダヤ主義思想があったとしても、発言・出版する権利はあると主張したのです。
このアーヴィングの問題的に対し、リップシュタット側も意見が分かれています。

ホロコーストの否定は、反ユダヤ主義の一形態です。
それは容易にヘイトクライムに波及します。
しかし、歴史を扱う場合、それが完全に間違っていても、人が自分の考えを言うのを許されることが重要です。

「私も言論の自由を強く信奉している
 私たちが気に入らないことでさえ、許さなければならないのです
 しかし、言論の自由は、憎むべきウソを言う人が演説する権利を持つことではない
 ウソは言論の自由に含まれないのです」byリップシュタット

2000年3月15日(裁判32日目)
最終弁論が行われます。
まずはリップシュタット側・・・
「アーヴィング氏は、言論の自由を守ろうとしているように見えます
 しかし、事実はそうではありません
 アーヴィング氏はウソつきです
 被告側は、この点につき証明を済ませたと申し上げます」
  
対してアーヴィングは・・・
「被告は歴史家としての私を抹殺しようとした
 今回の裁判は、言論の自由をめぐるものです
 もし私が敗訴したなら、今後誰も何も言えなくなるでしょう」

判決を前にしたこの時の心境について、リップシュタットは自著で振り返っています。

「小競り合いには勝っているけど、戦争には結局負けそうな気がする」

2000年4月11日、判決の日。
法廷に入るリップシュタット。
一方、やってきたアーヴィングに対しては、ナチズムに反対する人々が集まっていました。
その中には、過剰な攻撃をする人たちで現場は騒然としました。

やがて法廷では、裁判官が判決文を読み上げます。


「アーヴィングさんの著作に対しては、人々が気付かなかった多くの文書を発見したことで、軍事史家として称賛する部分も多い
 しかし、リップシュタットさん側が提示した歴史資料の蓄積は、お互いを補強試合関連づいています
 その膨大な証拠書類は、アーヴィングさんの史実の扱いが歪曲と間違いがひどすぎることを表している 
 彼は、反ユダヤ主義という信念に合致する形で、自分好みの歴史を伝えようとしてきたと私は考える
 したがって、被告側に正当性があると判断する」

リップシュタットの批判は、名誉棄損に当たらないという判決でした。

「この勝利は、私個人ではなく、歴史に埋もれた悲劇や偏見に苦しむすべての人に捧げます」byリップシュタット

アーヴィングは裁判ののち、しばらくはホロコースト否定論を訴えました。
しかし現在は、公の場で語ることは無くなっています。

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1350年~52年、室町時代草創期・・・朝廷が二つに分かれ、南北城時代とも言われた頃、幕府内の抗争に端を発した全国規模の争いが勃発しました。
観応の擾乱です。
相対したのは、室町幕府初代将軍・足利尊氏と、弟・直義です。
兄弟げんかが日本の武士たちを巻き込みました。

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1336年、足利尊氏は京に室町幕府を開きました。
しかし、政務にはほとんど干渉しませんでした。
尊氏が担ったことと言えば、軍事を取りまとめること。
そして、武士たちの手柄を査定する論功行賞を行い、恩賞を与える”恩賞充行権”を執行することでした。
代わりに政務全般を引き受けたのが、2歳年下の弟・直義でした。
所領の裁判や、寺社勢力との土地をめぐる交渉などを一手に引き受けました。
まさに、兄弟二人三脚で歩み出した室町幕府・・・
このまま順調にいくかと思われました。
しかし・・・幕府内に、不協和音が聞こえてきました。

原因は、直義と幕府の重臣・高師直との対立でした。
高師直は、主君・足利尊氏に従い、各地を転戦・・・室町幕府樹立に貢献した武将です。
将軍に次ぐナンバー2の役職である執事(のちの管領)として、幕府を支えていました。
最も重要な仕事は、尊氏が出す恩賞に関する文章を発給すること・・・
さらに、京の北朝と吉野の南朝・・・二人の天皇が存在する中、幕府が支持する北朝との交渉を行っていました。
そうした師直の幕府内での権力を、さらに強める出来事が起こります。
南朝を樹立した後醍醐天皇の意思を継いだ後村上天皇が、幕府を倒そうと画策します。
その動きに呼応して、1347年、南朝方の楠木正行が挙兵!!
尊氏は、すぐに討伐軍を派遣します。
しかし、大敗を喫してしまいました。
そこで、戦を得意とする師直を、討幕軍の大将として出陣させることにしました。
すると、師直は、見事楠木軍の城を攻め落としました。
さらに、勢いそのままに、後村上天皇のいる吉野にも兵を差し向け、皇居・公家の邸宅、寺社まで焼き払いました。
こうした師直の活躍によって、幕府は危機を回避、その軍功によって師直は忠直より力を得て・・・
尊氏がやっていた論功行賞まで行うようになったのです。
しかし、師直の恩賞の与え方は、配下の武士たちにとって問題がありました。

全ての武士を満足させられるほどの恩賞が与えられたわけではありませんでした。
それに不満を持った武士たちの多数が、直義を支持したことが対立を長引かせる原因にもなりました。
当時の武士たちにとって、領地が与えられる恩賞は、何より重要です。
その為、恩賞次第で誰につくかを決めていました。
さらに、直義は、師直が論功行賞にまで関与するようになったことに、苛立っていました。
そんな中、直義の腹心・上杉重能・畠山直宗が、直義が信頼を寄せる僧侶を通じて師直の悪行を密告してきたのです。

「天皇は木や金で作った人形で十分
 生身の天皇は、遠くに流してしまえ!!」by師直

これは、幕府内で権勢をふるう師直に嫉妬した二人による捏造でした。
ところが、直義は、信頼していた僧侶から聞いたため、これを信じてしまったのえす。

1349年6月、直義は、上杉や畠山らと密かに師直の殺害計画を練り始めます。
それは、100人以上の武士を配し、師直を襲わせるというものでしたが・・・
この計画は、事前に師直の知る処となって失敗に終わります。
すると直義は、将軍である兄・尊氏に直談判に出ました。

「師直が、悪行の限りを尽くし、困っております
 執事の罷免をお願いしたく・・・」

「よし、わかった」

尊氏は、弟・直義の言葉を信じました。
師直は、執事を解任され、所領も没収・・・幕府から追放されてしまいました。
しかし、根も葉もない話で追放された師直が黙っているはずがありません。
罷免されてからわずか2か月後、5万を超える兵を引き連れて京に攻め込むというクーデターを決行しました。
危険を感じた直義は、兄・尊氏の邸宅に避難するも師直の軍勢に取り囲まれてしまいます。
師直は、自分を陥れた上杉重能と畠山直宗の身柄の引き渡しを要求します。
すると尊氏は・・・

「なに!!わしにさしずだと??
 家臣に強要されて、下手人を出した前例などあるものか!!
 そんなことをするくらいなら、討ち死にじゃ!!」by尊氏

激高する尊氏を、直義はなんとかなだめました。
そして、腹心である上杉と畠山を越前国に流罪にし、自身も政務から退くことを師直に約束してことを治めました。
師直のクーデターは、対立する忠直の政務引退という当初の要求以上の大成功を収めました。
ところが、師直は、それだけでに止まらず・・・中国地方を統治していた直義の養子・直冬にも兵を差し向けたのです。
直冬はそれに屈し、九州へと逃れました。
さらに師直は、越前国に流されていた上杉・畠山を殺害させたのです。

この直冬・・・尊氏の実の子でした。
ところが、身分の低い側室から生まれた子供だったためか、尊氏に認められず冷遇されていました。
それを見かねた直義が、自分の養子として迎え入れ、とてもかわいがっていたのです。
それなのに・・・自分だけでなく直冬までも・・!!

1349年8月21日、高師直は、再び尊氏の執事となりました。
その2か月後、身を引くことになった足利忠義から政務を引き継いだのは、将軍・尊氏の跡継ぎと目されていた義詮でした。
正式な引継ぎを終えると、直義は出家。
粗末な家に籠り、 ひっそりと暮らし始めました。
ところが、黙っていなかったのが、直義の養子・直冬でした。
逃げ延びた九州で味方を募り、密かにその勢力を拡大!!

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1350年9月、直冬が反幕の兵を挙げたのです。
10月16日、挙兵の報せを聞いた尊氏は、直冬討伐を決意!!
自ら兵を率い、28日に師直と共に九州に向け京を出発することに成しました。
しかし、その2日前、直義が密かに京を出ていたという知らせが舞い込みます。
師直はすぐに尊氏に進言しました。

「なにやら悪い予感がいたします
 あちらも兵を挙げるやもしれません
 出陣を取りやめ、直義殿を探したほうがよろしいかと」by師直

「たとえ兵を挙げたとて、気にするほどではない
 予定通り出陣じゃ!!」by尊氏

尊氏は、直義のことなど気にも留めていませんでした。
当時の直義は、出家・・・直義に味方する武将はいないと、尊氏は考えていました。
それは、尊氏の判断ミスでした。
直義は、京を出ると大和国から河内国の石川城へ入り、次々と味方を集めていました。
打倒・師直!!
直義の師直討伐の劇に応え、各地の武士が次々と挙兵します。
中には、師直の恩賞の与え方に不満を持っていた尊氏派の重臣もいました。
さすがの尊氏も、直義を無視できなくなります。

そんな中・・・直義が禁じ手を出します。
河内国に入った直義が、次に向かった先は、幕府と敵対していた南朝。
直義は、南朝に和睦を申し入れます。
南朝の権威と戦力を利用し、尊氏と師直に対抗するためでした。
直義からの申し出に対し、南朝では激論が交わされます。
そして、直義と手を組むことが、南朝復活のきっかけになると考えます。

直義が南朝と手を組んだことで、師直に不満を抱いていた武士だけでなく、今後南朝が有利になると考えた武士たちが次々と直義側につきました。
そして、1351年1月7日、直義軍は、石清水八幡宮を占拠。
師直を討伐する準備を整えます。

観応の擾乱の幕開けです。
直冬討伐の為、京を出発していた尊氏と師直でしたが、直義は南朝と手を組んだことを知ると、急ぎ戻ります。
1月10日には、山城国山崎に着陣。 
15日には、尊氏の子・義詮も合流しました。
しかし、形勢が直義側に傾くと、尊氏・師直軍の武士たちは次々と直義に寝返っていきました。
尊氏たちは、ますます追い込まれていきました。

2月17日、摂津国打出浜で、直義軍と尊氏・師直軍が激突します。
尊氏・師直軍は、勢いに乗った直義軍によって、完膚なきまでに叩きのめされます。
ところが、この時、戦場に直義の姿はありませんでした。
直義は戦場から遠く離れた石清水八幡宮に留まっていました。
この戦いは、直義にとっては師直を粛清し、排除するのが目的でした。
尊氏と対立するつもりは全くなかったのです。

2月20日、尊氏と直義との間で和睦交渉が行われます。
尊氏は和睦交渉の条件として師直の出家を提案します。
直義はこれに納得し、兄と和睦しました。
その4日後、師直は出家しました。
そして、京に戻る尊氏を追い、師直も出発しましたが・・・その途中で惨殺されてしまいました。
犯行に及んだのは、かつて師直の嘘の悪行を密告し、流罪となり殺された上杉重能の息子の軍勢と言われています。
差し向けたのは、直義だったと言われています。
1351年2月26日、高師直死去・・・。

兄・尊氏と和睦を結んだ直義は、尊氏の子・義詮の政務を補佐するという形で幕府に復帰します。
直義の養子・直冬も、幕府の一員となり、九州の統治を任されました。
全て思い通り・・・そう安堵したのも束の間でした。
次々と誤算が生じます。

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直義の誤算①南朝との和睦
南朝との和睦交渉が行き詰まりを見せます。
直義は、和睦の条件として北朝と南朝がそれぞれ交互に天皇を出し合い一つの朝廷にすることを提案。
しかし、南朝は、自分達が正当な血筋であるから南朝の皇族だけが天皇になるべきだと断固拒否したのです。
1351年5月15日、5か月に及んだ南朝との和睦交渉が決裂してしまいました。
この交渉失敗に対して、直義はその政治力を疑問視され、信用を失っていきます。

②兄・尊氏に恩賞充行権を残したこと
それは、直義が、兄・尊氏と師直軍に勝利し、尊氏と和睦交渉に臨んだ時のこと。。。
敗者であるにもかかわらず、尊氏はこう言い放ったのです。

「わしに従い戦った武士への恩賞を、最優先にすべきであろう」by尊氏

尊氏は、これまでの恩賞は不十分だったからそれを不満に思っていた武士たちが直義に味方をしてそのために配備区したと考えていました。
将軍として恩賞を広く与えれば、直義に味方した武士も自分のもとに戻ると考えたのです。
その為に、恩賞を与える権限だけは死守したかったので、直義に対して強気に出ました。
観応の擾乱において、恩賞問題は大きなカギとなります。
全国規模の大きな戦いへと広がったのは、武士たちが尊氏、直義、どちらにつけばより確実に恩賞をもらえるかというところにありました。
武士に十分な恩賞を与えて満足させないと、自分に従ってくれないことを尊氏は思い知ったのです。
直義は、弟として尊氏に対して遠慮もあり、この戦いを起こした直義の目的は高師直の排除と、直冬の容認でした。
その二つの目標が達成されていたので、極力擾乱以前の体制に・・・政治体制を元通りに戻すことを、直義は望んでいました。
尊氏が強気の態度に出なくても、直義は恩賞を与える権限を残した可能性が高いのです。

しかし、この判断が直義を追い詰めていきます。
尊氏は、勝った直義側ではなく、尊氏側の武士たちへの恩賞を優先します。
直義は、自分の配下の武士へもちゃんと恩賞を与えるように尊氏を説得しましたが、それは叶いませんでした。
勝利に貢献したにもかかわらず、満足な見返りを得ることが出来なかった直義派の武士たちは、大いに失望します。
彼らまで、直義から離れて行きました。
さらに直義の誤算は続きます。
直義に立強いて、尊氏の子・義詮が強く反発するようになりました。

③義詮の反発
義詮は、補佐であるはずの直義が、このままでは自分の立場を奪いかねないと恐れます。
また、一説に、義詮は、自分を将軍の跡継ぎと認めてくれていた師直に恩義を感じていたため、師直を暗殺した直義のことを恨んでいたともいわれています。
義詮は、土地の所領に関する政務や、土地の訴訟をめぐる裁判をする直義に対抗し、午前沙汰という新たな裁判機関を設立します。
土地の問題に関して、独自に対応しました。
直義とは別の方法で・・・!!
所領争いの裁判は、たいていもともと土地を持っていた寺社側が、代わって土地を得た武士皮を訴えることがほとんどでした。
直義は、訴えた寺社側と、訴えられた武士側双方の言い分を聞き、土地の所有に関する文書を吟味して裁定を下していました。
ところが、義詮は、訴えた寺社側の言い分だけを聞いて裁定。
裁判のスピード化を図ったのです。
これに喜んだ寺社も、直義から離れていくことに・・・
直義は、幕府内で孤立を深めていったのです。

1351年7月19日、直義は、兄である将軍・足利尊氏に政務からの引退を申し入れます。
尊氏は、直義を説得し、引退だけはとどまらせたものの、もはや直義に、政治への熱意や意欲はありませんでした。
同じ頃、南朝が幕府から寝返った武士たちを味方につけたことで、勢いを取り戻し、各地で挙兵します。
尊氏は、南朝軍を討伐するべく、京を出陣!!
多くの兵が付き従いました。
その為、直義は留守を任されることになります。
なんとも不可解な行動に出ます。
深夜・・・京を出て、北陸に向かいました。
通説では、直義は、兄・尊氏の出陣を南朝軍討伐のためではなく、自分を包囲し殲滅するためと考えていたというのです。
だから、夜陰に乗じて京を出たのだと・・・!!
直義と南朝の講和の死牌によって、全国各地の南朝方の武士たちが挙兵をしました。
尊氏派も対処するために京を出ています。
それを自分を討つためだと誤解したのです。

尊氏は、直義が京を離れたことを知ると、大急ぎで京に戻り、使者を北陸に派遣!!
直義に戻ってくるように伝えました。
しかし、尊氏の説得にもかかわらず、直義は帰ってきませんでした。
そのうちに、足利の兄弟たちがたもとを分かったと噂が広まったのか・・・
幕府だけでなく、全国の武士たちが尊氏派と直義派に分かれて各地で戦乱を起こしたのです。
尊氏の歌には・・・

”おさまれと
  わたくしもなく
      祈るわが
心を神も
    さぞ守るらむ”

戦わなくてもいい相手でした。
どうか、今すぐにでも戦が終わってほしい・・・
尊氏はただそう祈ったのです。
しかし・・・1351年9月12日、尊氏と直義の和睦がなってからわずか7か月後のこと。
二人は再び戦うことになってしまいました。
両軍は、琵琶湖の北東にある八相山で激突!!
地の利を得た武士たちが多くいた尊氏軍が勝利しました。

1351年10月2日、近江国錦織興福寺で、尊氏派直義と和睦交渉を行います。
しかし、話し合いは決裂しました。
すると、尊氏は意外な行動に出ます。
なんと、南朝との和睦交渉を始めたのです。
敵対していた尊氏の突然の申し出に、南朝は困惑します。
しかし、尊氏が、今後天皇は南朝の皇族のみから即位させると提案したことで、話しはまとまりました。
どうして、尊氏は南朝と手を組むことにしたのでしょうか?
最大の理由は、直義と講和するというのが最終目標でした。
尊氏は、直義が失敗した南朝との和睦を実現することで、直義と和睦するつもりだったのです。

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感想(31件)



1351年11月3日、尊氏の子・義詮が幕府側の使者となり南朝との和睦を締結。
その内容は、おおむね尊氏の提案通りでしたが、尊氏は不満をあらわにします。
なぜなら、南朝との和睦の条件の中に、直義を追討せよという命令が含まれており、義詮がその条件を受け入れてしまったからです。
しかし、この条件で南朝との和睦は成立。
その翌日、11月4日、尊氏は直義追討の兵を挙げ、京を出発します。
義詮は直義を武力で倒すため、父・尊氏と共に出陣することを考えていました。
尊氏はすべて断っています。
義詮をつれて行くよりも、単独の方が直義と和睦できる余地があると考えたのです。
尊氏は最後の最後まで、直義と講和を諦めずに実現させようとしていました。

直義は、北陸を経由して鎌倉に向かっていました。
11月15日、直義は鎌倉に到着します。
尊氏もまた鎌倉に向かっていました。
11月29日、駿河国薩埵山に3000の兵で布陣。
直義軍も大軍を率いて鎌倉を出発し、尊氏軍を包囲します。
血を分けた兄弟の最後の決戦・・・そこに直義の姿はありませんでした。
直義は、薩埵山から離れた伊豆国府に籠り、そこから一歩も動こうとはしませんでした。
この時、直義が詠んだと言われる歌が残っています。

”暗きより
 暗きに迷う
    心にも
 離れぬ月を
   待つぞはかなき”

何故兄と戦わなくてはならないのか?
どうしてこんなことになってしまったのか?
和睦を拒否した直義でしたが、最期まで兄・尊氏と戦うことなどできなかったのです。
尊氏もまた同じ気持ちでした。
薩埵山に布陣したまま、兵を進めようとはしなかったのです。
そんな中、京にいた尊氏の子・義詮は、関東の武士たちに使者を送り、味方になるよう促しました。
これに、下野国の宇都宮氏などが呼応し、12月15日、尊氏軍として参戦!!
これによって一気に直義軍は劣勢に立たされ、薩埵山から撤退。

1352年1月、ついに、直義は降伏しました。
鎌倉浄妙寺・・・兄・足利尊氏との戦いに敗れた直義は、この寺に幽閉されることになりました。
すると、直義の体調は、そこから急激に悪化。
1352年2月26日、奇しくも宿敵・高師直を暗殺した日からちょうど1年後、直義は46歳でこの世を去ったのです。

この時、兄・尊氏はまだ鎌倉にいました。
戦後処理のため、鎌倉に腰を落ち着け、東国の統治に専念することにしたのです。
しかし、弟の最期に立ち会ったのか、わかっていません。
望まない戦いを続けなければならなかった兄弟・・・
最愛の弟への弔いの気持ちが消えることはなかったはずです。

室町幕府を二つに引き裂いた観応の擾乱・・・
この戦が、後の幕府を大きく変えたといいます。
擾乱以前に比べて、積極的に武士に恩賞を与えるようになりました。
武士の室町幕府への忠誠や支持が高まり、政権の基盤が強化されました。
南北朝の内乱が収束し、室町幕府の覇権が確立する・・・そんな意義のある戦乱でした。

また、全国規模で戦乱が起こったことから、武士の数が飛躍的に増加。
江戸時代まで続く武士中心の社会は、観応の擾乱から始まったといえるのです。

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感想(17件)



1945年8月12日・・・太平洋戦争が苦境になる中、国民はまだ日本が勝つと信じていました。
ところが、首相官邸の一室では、ある文書の草案が秘密裏に作られていました。
3日間、ほぼ徹夜・・・!!
終戦の詔書です。
日本政府は、アメリカなど連合国から降伏を迫られたポツダム宣言を受諾し、3年8カ月に及んだ戦争を終わらせる決断をしていました。
しかし、これに全ての者が納得したわけではありませんでした。
玉音放送を阻止しようとクーデターを起こした将校たちがいました。
一体何があったのか・・・緊迫の24時間!!

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1945年8月14日、午前11時55分
玉音放送のおよそ24時間前・・・アメリカ軍の爆撃機B-29が、山口県岩国市に焼夷弾の雨を降らせました。
さらに、光市にあった海軍工廠も爆撃。
岩国市と光市で死者1200人以上!!

皇居では、御前会議が終わろうとしていました。
日本の運命を決めるご聖断が下されました。
皇居の防空施設・御文庫付属庫・・・御前会議はこの中にあった会議室で行われていました。
その中で天皇はこう述べられました。

「私は世界の現状と国内の実情を十分検討した結果、これ以上戦争を継続することは無理だと考える
 自分は如何になろうとも万民の生命を救いたい
 この際、耐え難きを耐え 忍び難きを忍び 一致協力 将来の回復に立ち直りたいと思う
 私として為すべきことがあれば 何でもいとわない 
 国民に呼びかけることが良ければ 私はいつでもマイクの前に立つ」

天皇の涙ながらのお言葉に、会議の列席者も皆涙していたといいます。
時の総理大臣・鈴木貫太郎は、ご聖断を煩わせたことを天皇に詫び、日本の再建を誓いました。
こうして、日本のポツダム宣言の受諾・・・連合国に対する無条件降伏が決まったのです。

8月14日、午後0時30分(玉音放送まで23時間30分)
御前会議の終了からおよそ30分・・・会議に列席していた陸軍大臣の阿南惟幾が陸軍省に戻ると、すぐに青年将校たちが駆け寄ってきました。

「即時終戦のご聖断が下った
 力及ばず諸君の信頼に添えなかったことを詫びる」by阿南

これに将校たちが激怒、大臣に激しく詰め寄りました。
阿南は、青年将校たちに対してポツダム宣言は受諾しない・・・日本はこのまま戦争を継続すると、言っていました。
青年将校たちは、阿南陸軍大臣が戦争を続行させてくれると思ってたのです。
しかし、阿南陸軍大臣もポツダム宣言受諾を容認したのです。

阿南陸軍大臣が、当初、ポツダム宣言の受諾に反対していたのには理由がありました。
それが国体護持です。
国体護持とは国の在り方を変えずに護るということで、すなわち天皇制の存続を意味していました。
天皇を現人神と考えていた当時の人々にとっては絶対に譲れない条件でしたが・・・
日本に無条件降伏を迫るポツダム宣言にはそれが明記されていなかったため、阿南は強硬に受諾を反対、徹底抗戦を主張していたのです。
しかし・・・
「陛下は”苦しかろうが我慢してくれ”と涙を流して申された
 自分としては、もはやこれ以上、反対を申し上げることはできぬ
 それでも納得がいかぬなら、まこの阿南を斬れ!阿南を斬ってからやれ!」by阿南

天皇のお言葉に心を打たれた阿南は、ポツダム宣言の受諾を容認するしかありませんでした。
そして、天皇の思いに応えるために、戦争継続を望む青年将校たちを命がけで止めようとしました。
すると・・・一人の将校が絶叫にもにた大声をあげ、泣き始めました。
畑中健二少佐・33歳・・・その泣きわめくさまは、周りの者が怯えるほどでした。
普段温厚な男でも、平静を保てないほど無条件降伏は受け入れがたいものでした。

日本のいちばん長い日

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8月14日午後1時(玉音放送まで23時間)
首相官邸において、全大臣出席の元閣議が始まりました。
3日間、ほぼ徹夜で書き上げた終戦の詔書の審議・・・つまり、どのような言葉で終戦を国民に告げるべきか?についてと、その終戦の詔書を天皇が読み上げてラジオで流すという玉音放送についてでした。
日本の敗戦を知れば、国民が激しく動揺し混乱するのは明らかでした。
それを少しでも抑えるべく、天皇の声・・・玉音で伝えることにしました。
閣議では生放送という案も出ましたが、天皇に日本放送協会・東京放送会館まで足を運ばせたうえ、放送時間に合わせてマイクの前に立っていただくのはあまりにも恐れ多いということで、玉音放送に決定しました。
そして、天皇が朗読する終戦の詔書の録音は、14日のうちに宮内省の2階で録音されることになりました。
日本放送協会の会長に録音班を連れて宮内省に出頭せよという命令が下されました。

8月14日午後3時(玉音放送まで21時間)
閣議を中座して陸軍省に戻った阿南大臣は、庁舎にいたもの全員を会議室に集め、ご聖断に従って陸軍も無条件降伏を受け入れたことを報告します。
これは決定事項であり、いかなる背反も許さないと、強く言い聞かせ、最後にこう告げました。

「諸君においてはもはや、玉砕は任務を解決する道ではない
 泥を食い、野に臥しても、最後まで皇国護持のため奮闘せられたい」by阿南

しかし、そこに先ほど大臣室で号泣していた畑中少佐の姿はありませんでした。
畑中は、無条件降伏をどうしても受け入れることが出来ず、同志である椎崎中佐と共に戦争を継続するためのクーデターを模索していました。
それは・・・皇居を占拠し、玉音放送を阻止することでした。

日本政府は日本が劣勢という情報を、一切流していませんでした。
畑中たちにしてみれば、この段階で玉音放送を阻止すれば国民が敗戦を知ることはないため、戦争を継続できると考えたのです。
畑中たちはエリート軍人でした。
最前線で戦った経験もなく、現状もしらず、神国日本が負けるはずがないという考えに凝り固まっていました。
東京周辺の軍の施設には、戦闘機や戦車が、まだ多く残っていました。
絶対に負けない!!と思っていたのです。

東京国立近代美術館・工芸館・・・
現在、重要文化財に指定されているこの地は、かつては近衛師団司令部の庁舎でした。
近衛師団とは、天皇と皇居を警護する陸軍精鋭部隊のことです。
師団とは、一つの作戦を単独で遂行できる最小単位の部隊のことで、トップは師団長でした。
その師団が2つ以上合わさると軍になるなど、複合していくことで大きな組織となり、その軍医上のTOPが司令官と呼ばれました。
クーデターを画策する畑中少佐は、陸軍の中間幹部で司令官や師団長を作戦面で補佐する参謀に起用されることが多い階級でしたが、陸軍省勤務でどの部隊にも属していなかったため、戦況をあまり把握していなかったようです。

1945年8月14日午後2時(玉音放送まで22時間)
畑中少佐は椎崎中佐と共に近衛師団の司令部を訪れ、旧知の中だった古賀秀正参謀らと面会。
戦争継続の正当性を訴え、クーデター実行のための下工作を依頼します。

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8月14日午後3時(玉音放送まで21時間)
近衛師団の司令部を後にした畑中は椎崎と別れ、日比谷にある東部軍管区司令部へと向かいます。
東日本を統括する東部郡にもクーデターに協力してもらおうと、司令官を説得しにやってきました。
しかし、司令官室に入るなり田中静壱司令官は割れんばかりの声で一括!!

「俺のところへ何しに来た!!
 貴様の考えていることはわかっておる!!
 帰れ!!」

畑中は顔面蒼白となり、しばらくたち尽くしたのち、一礼して逃げる用に帰りました。
東部軍は、関東一円を統括している実働部隊で、各地の戦況をよく把握していました。
日本の悲惨な戦況をよく知る田中司令官は、やみくもに戦争を叫ぶ畑中に腹を立てたのだと思われます。
終戦を決めた日本・・・それを強硬に反対する青年将校たち。
しかし、そんな軍部の状況など国民は知る由もありませんでした。
みな、必死に耐えて生きていました。
日本が必ず勝つと信じて・・・!!

8月14日午後9時(玉音放送まで15時間)
突然、ラジオのニュース番組が告げます。
「明日15日正午に重大なラジオ放送があります
 国民はみな謹んで聞くように」

8月14日午後10時30分(玉音放送まで13時間30分)
ラジオから玉音放送の予告が流れたおよそ1時間30分後・・・
クーデターを目論む畑中と椎崎は、陸軍の先輩将校である井田正孝中佐の元を訪ねていました。
寝ている井田中佐を起こし、クーデターの下工作が進んでいることを説明しました。
近衛師団全体を動かすために、森第一師団長の同意が欲しいと訴えます。
畑中の真剣なまなざしに心を動かされた井田は、「ダメなときは本当に諦めるのだな」と、念を押し、畑中が頷くと覚悟を決めました。

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8月14日午後11時(玉音放送まで13時間)
首相官邸で続けられていた閣議がようやく終わり、終戦の詔書の文案が完成しました。
鈴木内閣の閣僚たちが署名し、天皇の裁可を受けました。
続けて、アメリカなどの連合国に、中立国であるスイスを通じてポツダム宣言を受諾した旨を通告しました。
対外的な日本の敗戦はこの時決まりました。
そして、日付も間もなく変わろうとする午後11時30分・・・
宮内省の2階にある御政務室で宮内大臣や天皇の側近である侍従長の立ち会いのもと、終戦の詔書の録音が始まりました。
マイクの前に立った天皇は・・・

「声はどの程度でよろしいか」

と、お聞きになり、「普通で結構です」と、立会人が答えると、静かに朗読を始めました。
天皇の肉声・・・玉音が公式に録音されたのは、この時が初めてです。
朗読は、1回およそ5分、天皇の希望もあって、2回行われ、2組のレコード盤に別々に収録されました。
そして、出来上がった玉音盤は、日本放送協会の担当者によって丸い管の中に納められ、さらにふたが開いてしまわないように木綿の袋に入れられました。
天皇が皇居の防空施設に帰られたのは、丁度日付が変わった頃でした。
玉音放送まであと12時間・・・!!

この時、近衛師団司令部を訪れていた陸軍将校・畑中・椎崎・井田の三人は苛立っていました。
クーデター実行のために、近衛兵を動かしてもらおうと森師団長を訪ねたものの、先客がいたため1時間以上待たされていました。
ようやく室内に通されたのは、午前0時30分ごろでした。
畑中は、別件があってその場を離れていたため、説得役は井田が務めることになりました。
すでに軍服を脱ぎ、くつろいでいた森師団長は、最初こそ
「陛下のご意思に反する行動は許さぬ」
と、反対したものの・・・
汗をびっしりとかきながら懸命に戦争継続の正当性を訴える井田の姿に心を動かされたのか・・・

「諸君の意図は十分理解した
 率直に言って感服した
 今、直ちに明治神宮の神前に額づき、最後の決断を授かろうと思う」

井田は戦後この時のことを手記にこう綴っています。

”この言葉を聞いた時ほど嬉しかったことはなかった”by井田の手記

さらに井田は、森師団長から自分の右腕である参謀長にも意見を聞くようにと言われ、師団長室を退出。
するとそこへ畑中が戻ってきました。
この時、午前1時30分・・・
”ところが、それから10分もたったであろうか
 突如として師団長室が騒がしくなったような気がした”by井田の手記

そして・・・何事かと井田が慌てて師団長室に戻ると・・・拳銃を握りしめた畑中が、顔面蒼白で出てきました。

「時間がなくてやりました
 仕方がなかったんです」

井田が師団長室に飛び込むと、既にこと切れた森師団長が無残な姿で横たわっていました。

師団長の行動はウソではないか??
殺さなければ・・・!!
と畑中は思ったのでした。
時間がない・・・畑中は、近衛師団の協力が遅ければ、クーデターは失敗すると考えていました。

しかし、森師団長の命令がなければ、近衛兵は動かせない・・・!!
そこで畑中たちは、大胆な手を考え付きます。
森師団長の机から印鑑を取り出すと、あらかじめ用意していた偽の命令書に押印!!
この偽の師団長命令を、近衛師団の各連隊に発令したのです。
そこにはこう書かれていました。

”皇居と放送局を占拠せよ”

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8月15日午前2時(玉音放送まで10時間)
師団長命令が偽物とは知る由もない近衛兵たちは、すぐに動き始めました。
皇居のすべての門を封鎖して、人の出入りを禁じ、東京放送会館を占拠。
さらに、玉音版の作成を終えて帰宅しようとしていた職員たちを捕らえて監禁。
そして、職員たちの尋問によって、玉音盤が宮内省に保管されていることが分かると・・・
近衛兵たちに宮内省を占拠せよという新たな命令が下されました。
近衛兵たちは、瞬く間に宮内省を占拠し、外部と連絡が取れないように電話線を切断。
そのうえで玉音盤を探し始めました。
しかし、そんなに探しても見つかりません!!

8月15日午前2時(玉音放送まで10時間)
近衛兵たちは、玉音盤が保管されているという宮内省を占拠。
各部屋を回り隅々まで探すも、玉音盤はどこにもありません。
宮内省の職員や侍従を脅してみても、みな知らないと答えるばかり・・・
結局見つけられませんでした。
玉音盤はどうして見つからなかったのでしょうか?

玉音盤が完成したのち、それを放送まで保管し、守るべきか検討されました。
宮内省側は「放送局が預かるべき」
日本放送協会は「持ち帰るのは畏れ多い」
結局、常に天皇のそばにいる侍従がいいだろうということになって中堅侍従だった徳川義寛がその大役を任されました。
そして、徳川侍従は、大胆にもその金庫をいつも仕事をしている事務室の戸棚の上に無造作に置いておいたのです。
徳川侍従は、玉音盤の保管場所を秘密にし、近衛兵に摑まった際も、決して口を割りませんでした。
また、宮内大臣ら要人を人質に取られないよういち早く宮内省の地下にある隠し部屋に匿ったことも功を奏しました。
自分の事務室の入り口に、”女官寝室”と書きました。
玉音盤を託された徳川侍従が保管場所を誰にも話さず、しかも機転を利かせたことが玉音盤を守ることとなりました。
玉音盤が見つからなければ、放送を阻止することはできません・・・
クーデターは失敗!!
井田は畑中を説得します。

「畑中・・・もういかんよ
 世が明ける前に兵を引け
 そして、我々だけで責任をとろう
 世の人々は真夏の世の夢を見たと笑って済ませてくれるだろう」by井田

しかし、井田の言葉は、畑中の心を変えることはできませんでした。
諦めきれない畑中は、なんと近衛兵たちに占拠されている放送会館へと向かったのです。

8月15日午前4時30分(玉音放送まで7時間30分)
日本放送協会東京放送会館に乗り込んだ畑中は、報道部室に押し入ると、そこにいた副部長に拳銃を突き付け、
「5時からのニュースに自分を出せ」
と、迫りました。
しかし、副部長はこれを拒否。

「全国同時放送なので、各局と連絡を取ってから出ないとできない」

すると畑中は、隣のニューススタジオに入り込み、現行の下読みをしていたアナウンサーに銃口を向けました。
自分に放送させろと迫る畑中の左手には、クーデターの趣旨を綴った分厚い原稿がありました。
放送させてなるものか!!と思ったアナウンサーは、咄嗟に嘘をつきます。

「現在、警戒警報が発令中です
 会報発令中に放送するには、東部軍の許可が必要です」

東部軍の田中司令官には、昨日、一喝されたばかり・・・畑中は銃口を下ろすしかありませんでした。

同じ頃、近衛兵たちに占拠されていた皇居に、一人の男が駆けつけていました。
まさにその人・・・東部軍管区司令官・田中静壱大将!!
田中は、近衛師団の連隊長たちに、命令が偽物であったことを告げ、即時解散するように命じました。

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8月15日午前5時30分(玉音放送まで6時間30分)
国民に敗戦を告げる運命の日の朝・・・
玉音放送を前に一人の男が自らの手で命を絶ちました。
陸軍大臣・阿南惟幾大将です。
その遺書には・・・
”一死を以て 大罪を謝し奉る”
その命を以て敗戦の責任をとったのです。

8月15日午前7時21分(玉音放送まで4時間39分)
突然ラジオから・・・
”かしこくも天皇陛下におかせられましては本日正午、御自ら放送あそばされます
 誠に畏れ多き極みでございます
 送電のない地方にも、放送の時間には特別に送電しますので国民はひとり残らず謹んで玉音を拝しますように”
この玉音放送の予告アナウンスは、もともと午前5時に放送される予定でした。
しかし、畑中少佐の襲撃の影響で、放送が遅れたのです。

8月15日午前10府(玉音放送まで2時間)
宮内省から、2組の玉音盤が運び出されました。
1組は警視庁の車で東京放送会館の会長室へ、もう1組は宮内省の車で日比谷の第一生命館の地下にあった予備スタジオへ!!
不測の事態を想定し、万全の態勢がとられました。

8月15日午前11時(玉音放送まで1時間)
当日は、アメリカの戦闘機がたくさん飛んでいました。
それが、11時過ぎになると姿を消して音がピタッとやみました。
その頃、玉音放送が行われる東京放送会館のスタジオには、すでに多くの人が集まっていました。
まもなく訪れる終戦の時を前に、えもいわれぬ緊張感が漂う中・・・
畑中たちとは関係のない、ひとりの憲兵が突如乱入しようとしました。
すぐに取り押さえられ、事なきを得たものの、スタジオ内は騒然!!

8月15日午前11時30分(玉音放送まで30分)
皇居前の芝生広場にはクーデターに失敗した畑中と椎崎がいました。
玉音放送を止められなかった・・・日本が負けた・・・その悔しさと共に自ら命を絶ちました。

8月15日午前11時59分(玉音放送まで1分)
この時の東京の天気は晴れ・・・気温はすでに27度を超えていました。
最新の戦況を伝えていたラジオから正午の時報が・・・!!
ラジオが起立を促し、”君が代”が流れた後、天皇の声が聞こえてきました。

”朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ
 非常ノ措置ヲ以テ 時局ヲ収拾セムト欲シ
 慈ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク”

人々の心の中は、戦争が終わった安堵感と、焼け野原となった日本でこれからどう生きていくのかという不安で入り乱れていました。

3年8カ月に及んだ太平洋戦争が終わりました。
この戦争で300万人以上の日本人が亡くなったと推定されています。
戦争孤児は12万人以上。
戦争は終わっても、人々の生きるための戦いが終わったわけではありませんでした。
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