週末に読売テレビ(日本テレビか・・・)で、やっていました。

ドラマかと思っていました。主婦の定番、「こたつに入って、ごろんとしながら呑気に見よう」と思っていた私がバカでした。。。バッド(下向き矢印)

なかなか内容が濃かったので・・・。たらーっ(汗)

後藤新平、大震災から帝都を復興させた男です。この大震災とは、もちろん、1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒に起こった、関東大震災のことです。

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後藤新平さんは、復興専門の独立機関を作り、自ら集めたプロフェッショナル達と一緒に、帝都復興に尽力した人です。ああ、だめです。江藤新平と、ごっちゃになってしまいそうです。バッド(下向き矢印)あせあせ(飛び散る汗)でも、違います。頑張ります。ダッシュ(走り出すさま)

そのプロフェッショナルとは、
芸術を愛した土木技師   太田圓一
後に新幹線を作った男   十河信二
耐震建築の権威      佐野利器  です。

他にも、たくさんの人の努力によって、復興がなされました。

関東大震災、被災地は、1府6県。東京府、神奈川県、千葉県、静岡県、茨城県、埼玉県、山梨県です。

未曽有の大惨事、東京の半分が焼失します。火災の原因は、木造建築、込み入っていて、火が回りやすかったのです。

その時、政治的にも最悪のタイミングでした。震災直前に総理大臣が急死しており、事実上内閣は存在していませんでした。

そんな中、一番に動いたのは後藤新平でした。

翌日の9月2日、山本権兵衛に、一刻も早い組閣を要請します。山本権兵衛exclamation&questionそれって、坂の上の雲の山本権兵衛?(石坂浩二)、司馬遼太郎さん曰く日本の軍隊の全てを作り上げた人です。有名な人がたくさんいるのでびっくりします。

その、山本権兵衛内閣で、内務大臣となった後藤新平は、震災に関するすべてを任されます。

元に戻す・復活ではなく、新しい理想の都を!!それが、復興でした。

9月3日、火災が納まると同時に、被災者のため、食料と水の確保、避難所を設けます。また、他の地域の人の生活必需品の買い占めも禁止しました。

9月6日、帝都復興の議を閣議に提出、東京の復興を、理想的な帝都づくりに大改造すると位置づけました。そして、それは、焼け跡すべてを、国が買い上げるというものでした。

後藤新平、幕末に、岩手県奥州市・貧しい武士の長男として生まれます。少年時代は、利発だが手におえないガキ大将でした。

若干35歳で内務省衛生局長となるも、相馬事件で入牢、地位も名誉も棒に振ります。

41歳の時、台湾総督府民政局長に就任、台北を衛生的な都市に作り上げました。
49歳では、満州。南満州鉄道初代総裁に就任。都市計画を実行し、大連を見事な街並みにしました。

で、震災後の話。
9月23日帝都復興院創設決定。後藤は自ら総裁となります。

「事のなるもならざるも人次第」
40代の若手を抜擢し、すべてを任せる。組織を無視した人事をしました。

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震災前の東京は、不衛生な路地裏があり、狭い道では消防車も入れない。おまけに、裏町は、江戸時代と変わらない密集した家・・・。

関東大震災の被害の拡大は、東京そのものに原因がありました。

後藤新平は、さかのぼること2年前、自分が東京市長の時大正10年に立案した8億円計画、それは、「災害に強い都市東京」を作る雄大なプランでしたが、予算の都合で実現できなかったという経緯がありました。

それが、今回の震災で、35億円計画へ。これは、当時の国家予算の2倍に当たります。焼失した土地を買いあげて新しい町へ・・・。

人々が廃墟の中で絶望していた中、早くも復興への道筋をたて、被災者を勇気づけていました。

「帝都復興院」が、活動を始めます。

それは、理想と現実のせめぎあいでした。

焼け跡を。。。東京市の半分を買い上げるなど、現実的には無理なことでした。おまけに被災者は、バラックを建て始めていました。これでは、買い上げが困難となります。

35億円の支出は無理だ・・・それに代わる案は?

「市民の力を借りよう!!区画整理をして、市民それぞれの土地を少しずつ小さくしよう。」この案が採用されます。それには市民が自分の土地を1割出すことが必須条件でした。

しかし、今も昔も総論賛成、各論反対、議員たちはたくさん持っていた自分たちの土地を出すのに反対します。土地にしがみつく大地主たち。。。

この議員たちの反対で、予算は削減されます。

内閣の解散・総選挙が考えられますが、後藤は、「それでは時間がかかりすぎる。もうすぐ冬が来る。凍死者が出るかもしれない・・・一刻も早く復興しなければ。」と、予算削減を受け入れます。

計画は立て直されることになりました。

この時のことを後藤新平は、
「窮迫をせる市民の現状に鑑み、忍び難きを忍びて、しばらく議会の修正に同意を表し、他日を期して、完きを期せむとす。」
と、次の議会に予算の復活をかけていました。復興予算はこの時7億円から4億6800万円になっていました。

しかし、後藤の望みも空しく、議会の初日、大正12年12月27日皇太子が狙撃されます。その責任を取り、内閣は総辞職するのです。

予算回復もならず、復興局に格下げ、後藤もわずか4か月で復興の指揮を外れることになりました。
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そして、復興計画は、現場の技術者に委ねられたのです。

予算の復活を目指して奮闘し、その願いが実を結び、復興局、東京市、横浜市が活動を始めます。しかし、土地の1割を譲るというのはなかなか受け入れられませんでした。

中でも反発したのは、江戸っ子神田の駿河台でした。
安全な街づくりを説明するも譲りません。

そこで、神田から説明を始めます。江戸時代から、幾度となく丸焼けになっていた神田、後藤新平が講演をし、市民に理解を求めました。

その努力により、初めての区画整理は神田で行われました。反発していた神田で行われたことが功を奏し、順調に行われました。

街はどう変わったのか・・・?市民たちの協力もあって、見通しの良い道ができました。

区画整理と同時に、橋の再建が行われました。画家たちの書きたい橋の絵を描いてもらい、隅田川で、橋の展覧会をしたい!!「計算できない橋」を作りたい!!

太田は、文化成熟の土台としての都市づくりを目指していました。そして、美観・デザインを重んじて、復興に文化を加えたのです。

大正13年、十河が鉄道省に戻されることになります。表向きは栄転でも、ごり押しをするため、煙たがられての配属でした。

復興に向いて走り出した時、予想もつかない事態が・・・。

大正13年8月、復興局疑獄事件。
2人の職員が、賄賂をもらったとして逮捕されたのです。そこから芋づる式に捕まります。
太田・十河も逮捕。

必死に復興していたのに、世間の目は冷たかったのです。評判もガタ落ちとなり、区画整理も暗礁に乗り上げます。

そんな中、大正15年3月、太田圓一自殺。享年45歳でした。


後に残った復興院の人たちが、廃墟から新しい都を作り上げました。

来ないと思っていた未来は、やってきました。
後藤新平の夢は、現実となったのです。

たくさんの広い道路や公園ができました。日本最初のリバーサイドパーク日比谷公園、東京の小学校、公園、橋にはその面影が随処に残っています。

行政・専門家・市民が一つのチームになった成果です。

昭和5年3月26日帝都復興記念式典が行われます。それは、関東大震災から2400日後のことでした。しかし、それを後藤が見ることはありませんでした。

昭和4年4月13日列車の中で倒れます。享年71歳でした。

東日本大震災からの復興は、進んでいるのでしょうか?
東日本大震災以後、政治が不透明で、良く解りません。政治家の方たちは何を考えているのでしょうか?
復興が、滞りなく進むことを望みます。

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