今回のBS歴史館。
「新選組」時代を先駆けた最強軍団~近藤勇・新たなる真実~ です。
待っていました!!とばかりの「新選組」ネタです。最近は、自分が良いお年だからか、テレビ番組の新選組では・・・「もう知ってるし・・・」「それも知ってるし・・・」みたいな感じの構成が多かったのですが、今回の切り口、結構面白かったです。
私的感情を抜きにして、レポートできたらいいなあ・・・と、思いますが、できるでしょうか?
幕末、風雲急を告げる京都で、反幕府勢力に立ち向かったのが幕末最強の剣豪集団「新選組」
誠の旗のもとに命を懸けた若者たち。。。
強さと儚さの天才剣士・沖田総司
戦いに全てをかけた鬼の副長・土方歳三
最強集団の頼れるリーダー・近藤勇
芹沢鴨暗殺・池田屋事件・油小路の決闘、数かすの戦いから浮かび上がる最強組織の作り方とは?
今までは、農民が「武士として出世したい!!」というのが定説でしたが、異なる事実が発見されました。
近藤勇、前に進み続けた男の実像とは
京都、三条小橋西入に・・・あの池田屋がありました。
池田屋事件は、当時無名だった近藤勇と新選組が、京都に名を轟かすことになった事件です。
小島鹿之助宛ての近藤勇の手紙がたくさんあるので、それを追って順々に・・・。
当時京では、徳川に反発し、政治実権を朝廷に!!という運動が活発化、長州を主とする反幕府勢力による天誅が起き、治安が悪かったのです。
都の治安維持を請け負う京都守護職・会津藩主・松平容保の元で、非公式の雇われ部隊として「新選組」が誕生します。
幕末のそれぞれの立場とは・・・。
開国派・・・・①江戸・幕閣
攘夷派・・・・②京都・公武合体派・・・孝明天皇・一橋・会津・桑名・新選組
③長州・尊王攘夷派・・・長州・土佐激派・過激派公家
となっていました。
そのため、事実、今日とはすごく治安が悪かったのです。
その治安を良くするため、京都の治安を守る私設警備隊として誕生しました。
当時は、京都所司代、町奉行所は、軍事力としてはかなり弱く、機能していないも同然でした。
元治元年の手紙には・・・。
長州が、京都に放火・天皇を長州に奪い去る計画が・・・。
6月5日、商人・古高俊太郎捕縛、家から大量の武器・武具を発見。京都への放火を確信します。
会津藩に、一斉捜索を依頼するも、動きません。
しびれを切らした近藤は、30人を二手に分けて捜索、3時間後、近藤以下10人は、池田屋に潜伏しているとの情報を掴みます。
そう、新選組だけが、池田屋の浪士結集のニュースを掴んだのです。京都奉行所、京都所司代、京都守護職が掴んでいないのに・・・。
このことからも、小さいながら、情報を集める組織と、優秀な人材を抱えていたということが解ります。
近藤は、わずか数人で乗り込みます。
「御用改めである!!」
そこには、20人が待ち構えていました。戦が始まりました。2時間に及ぶ斬り合い・・・。
「永倉は、刀を折られ、沖田の刀は切っ先が折れ、藤堂は鉢金をたたき落とされ重傷」
7人を討ち取り、23人が捕縛。京都に新選組の名前が知れ渡った瞬間でした。
しかし、このことが、危険な運命に一歩踏み出した瞬間でした。
この池田屋事件で、西国の人間に決定的なマイナスイメージを与えたことは間違いありません。深く、新選組に恨みを持つようになります。
池田屋事件・・・それは、すごいインパクトがありました。が、大人しく捕縛されればなかった斬り合いです。こんな大立ち回りになるとは・・・想定外の出来事だったかもしれません。
そして、新選組は、さらに強力な戦闘集団へと進化していきます。
近藤が組織した新選組は、最盛期には隊士は200人を超えていました。
ちなみに、赤穂藩が討ち入りを行う前、全体で家臣が300人、200人というのは、5~6万石の藩の人数を統率することになるのですが、どうしたのでしょうか?
武骨で不器用と思われていた近藤の哲学・・・「英雄でないものが英雄である」
近藤の原点となったのは、武州多摩地方。当時は、江戸の西を守る重要な土地。甲州街道は江戸に、人・情報・物資を運ぶ大切な道。八王子街道は、横浜の情報が入ってくる大切な道。おまけに天領ということもあって、文武両道の地だったのです。
天保5年10月9日誕生。
16歳の時、試衛館に入門。腕を見込まれ養子に。28歳の時に試衛館道場主になります。
天然理心流は、武士の恰好や型を重んじた剣法ではなく、武士でなくても・・・農民が、野盗を退治するためにも使える実践的な剣法でした。「勝つ」ではなく、「負けない」という根性が土台になっていました。
そこで、剣術を磨く仲間には、沖田、山南、土方、他にも農民や脱藩浪士がいました。
この場所で、「幕府は、日本は、自分はどうしたらいいのか?」身分に関係なく論じていたのです。
文久3年浪士組が募集されます。京都に向かう将軍警護のため、身分を問わず有志を募ったのです。
「国家の大事の為に働ける!!」
名主・佐藤彦五郎とのきずなは強く、家族や道場をを預けて参加します。この佐藤彦五郎とは剣を通して義兄弟の契りを交わしていて、精神的にも経済的にも近藤を支えたと言います。
実際、多摩の情報収集量は高く、政治への関心は大変高かったのです。それは、開国によって当時の輸出の代表的な生糸の生産地だったので、お金持ちが増え、農民が自衛力を養うために近藤の試衛館に習いに行ったのです。
剣術道場は議論の場。
江戸三大道場 桃井道場(武市半平太)
千葉道場(坂本龍馬)
斉藤道場(桂小五郎) がいて、
道場では、地域や身分を超えた議論がなされていたといいます。
草莽の有志・・・それは、草の根。
「地域や藩を超えた”日本人”としての責務感」護民官、防人のような意識を持ち始めたのです。
隊士募集した中には、水戸藩士芹沢鴨もいました。
近藤は、京都壬生寺近辺を拠点に、町なかの警備を始めます。
文久3年3.26日の手紙には・・・
「天皇と将軍を守り、奸賊を斬る。身分も所属も関係なく、在野の一人として国に尽くしたい。」と、草莽有志(草むらの志)を主張しています。藩、幕府というバックを持たない草莽の志士たちが運動を展開する。
これが、「英雄でない者こそ英雄である」なのです。
これらの手紙では、新選組と多摩の密接な関係が伺えます。多摩は、バックグラウンドであり、仕送りなどもしていましたし、近藤からは政治情報を送っていたのです。
そこには、多摩という土地柄、普通の農民とは違う。天領であるので、将軍に仕えているという誇りがありました。野蛮な殺戮集団・新選組のイメージはありません。
文久3年9月20日の手紙には・・・。
芹沢鴨 変死
それは、当時の屯所だった八木邸で・・・。
深夜、芹沢は、腹心2名と共に殺されます。
知らせを聞いて、飛んできた近藤は・・・「長州人の仕業だ!!」と、つぶやきました。
しかし、真犯人は、土方・沖田をはじめとする新選組隊士でした。
この後、近藤たちは新選組を自分たちの組織へと作り変えていくのです。
芹沢鴨暗殺の理由は・・・
素行の悪さがあげられます。商家を焼き討ちしたり、芸妓の髪を切るなどの乱暴狼藉です。これは、新選組や会津藩の信用を著しく陥れる行為でした。
会津藩からも注意を受け、近藤は渋りましたが、鉄の掟「局中法度」で追い落としたのです。
この局中法度、資料的には確認されていませんが、永倉新八の証言によると、4か条。
一、士道に背くこと
一、局を脱すること
一、勝手に金策を致すこと
一、勝手に訴訟を取り扱うこと
これに背くと、切腹、粛清、暗殺されるのです。
しかし、芹沢鴨暗殺には、武士(芹沢鴨)と農民(近藤勇)出身の考えの差があったのかもしれません。この事件は、近藤の組織作りの一環と言えるでしょう。
「50余人の烏合の衆の浪士局、近藤氏一人の総括にて、ようやくとりしまりまかりあり候」と、会津藩の記録にも残っています。
ここで、サークル的な、同志的”緩さ”が引き締まりました。
翌日には、盛大な葬式を、近藤が取り仕切ることとなります。策士・近藤
新選組とは、身分を超えて集ったいわば「烏合の衆」。前歴のわからない人の集まりでした。
彼らを入隊と同時に武士と認め、身分を開放する。しかし、自分には責任を以て欲しいというけじめなのです。
彼らをまとめるには、厳しい掟が必要でした。
近藤は、強固な一体化を進めます。
※死番をつくりました。4人一組で警護をして、いざ怪しいところに踏み込むとき、死の危険が伴う先頭を、日替わりで回す制度のことです。死番に当たった人間は、朝からその覚悟を持たせるという厳しいルールです。
池田屋事件以後、勤皇派の敵とされた新選組。組織をより強固にしないと、殺される恐怖感はぬぐえません。4人一組というのも、単独で動くな!!ということも含まれていました。
※切腹の介錯は、新人隊士に勤めさせ、度胸をつけました。
165年間平和が続いていた時代、人を切り殺した経験なんかない時代、当たり前のように人が斬れる最強の組織を作りたかったのです。
実践で骨身にしみ込ませる・・・。最強の剣豪集団へ・・・。
ここまで来ると、隊士の中にもずれが出てきます。近藤の目指すものとの確執・・・。仲間だった山南の脱走然り。
池田屋事件の結果、長州VS幕府の戦いが激しくなります。
元治元年7月19日禁門の変。長州と幕府が京都で衝突します。
長州が、蛤御門まで攻め寄ります。
激戦の末、長州が敗北。
孝明天皇は、激怒し「長州討つべし!!」と、勅命を下します。
近藤は、新選組を「警察」から「軍隊」へと仕立てあげます。
土方の作った「行軍録」に基づいて、戦争のための組織編成をします。
この組織制度1~8までの(組頭)小隊長を配置、その下に5人ほどが配属。そう、一番隊組長は沖田総司
さらに最強にするために、軍中法度・・・戦争の際の軍律を作ります。
そこには・・・組頭を戦死させた組の部下は、責任を以て死ぬまで戦え!!とありました。
臆して敵に背を向けた者は斬罪。
そうして、江戸から即戦力となる参謀・伊東甲子太郎を呼びます。伊東は、朝廷を重視する、尊王思想に精通し、幅広い人脈を持っていました。伊東は、諜報活動に貢献。
しかし、後にこの伊東が、危険な火種となるのです。
新選組は、大砲や小銃、西洋軍備も取り入れて、200人を超える大所帯となりました。着実に近代軍備化が進んでいました。
しかし、新選組に、長州征伐命令は出ませんでした。
「京の治安維持を尊重しなさい!!」
慶応2年夏、第二次長州征伐
幕府の率いる大軍が、長州に攻め込みます。しかし、長州は最新の武器で反撃、まさかの幕府の敗北!!
幕府は完敗し、権威は大きく失墜。ここで伊東は動きます。
この長征征伐を、伊東は許そうとしますが、近藤は長州を討つのは、「朝幕とも御一致の御処置」と譲りません。長州は、倒すべきだ!!
「幕府を破った長州も含めてより強い日本を作らなければ!!」
そんなグループが、慶応3年3月10日、伊東を立てながら穏便に分離します。その中には、試衛館からの仲間、藤堂平助もいました。
表向きの理由は、「御陵衛士」天皇陵の警備役を仰せつかったからというものでした。
罪に問えない近藤・・・。
その3か月後の6月10日幕府から、隊士全員を幕臣に取り立てるとの打診が・・・。不安定な立場から幕臣へ・・・。近藤はこれを受諾。それは、組織維持のためでした。
これに対し6月12日、隊士10人が脱退と伊東派への合流を希望します。
理由は、「2君にまみえず」
幕臣化に反対したのは、脱藩浪士、藩を脱して「尽忠報国」の組織に入ったのに、新しい別の主君に仕えるのは嫌だったのです。
農民出身の近藤や土方とはこだわりが違うのですが。。。でも、それは許されることではありません。認めれば更なる流出が懸念されました。脱するを認めず、隊士4人切腹。
では、草莽の立場だった近藤が、なぜ幕臣となったのでしょう?
幕府の旗色が悪い中、新選組隊士たちも動揺する。その先には、脱走、分裂・・・。
「討幕」か「佐幕」、どちらかに身を置かなければいけない状況になってきていたのです。多摩は天領だ。例え旗色は悪くても・・・。時代に逆行する選択でした。
分裂の危機の中、時代は大きく動きます。
10月14日大政奉還
徳川の政権は、朝廷に返上されたのでした。足元が大きく揺らぎます。
この大政奉還は、幕臣となった近藤には大変ショックなことでした。天領も含めると700万石はある徳川。幕府と共に、自分たちの理想を実現しようとしたのは妥当だったかもしれないのに・・・。
伊東派は、歓迎し、公家を中心とした政治を主張します。伊東は、またもや新選組を揺るがし、その基盤までも破壊しようとします。
近藤は・・・。
11月18日 伊東を宴席に招待。その帰り道、油小路で・・・暗殺。
遺体は放置され、回収に来た伊東一派を待ち伏せし・・・。
かつての仲間に対する凄惨な殺害。それは、組織を守るという危機感からでした。そう、藤堂平助も・・・。
慶応4年1月鳥羽伏見の戦い。
薩摩・長州VS幕府・新選組
最新鋭の軍備を持つ新政府軍に惨敗し・・・おまけに、新政府軍に錦の御旗が・・・・。
天皇と幕府の為に戦ってきたのに、「賊軍になってしまう!!」
大勢の隊士を失い江戸に来た近藤、新しく兵を募り戦いへ・・・。甲府で新政府を迎え撃つために!!
この時に立ち上がったのが、佐藤彦五郎と小島鹿之助でした。佐藤は近藤を支援するために奔走し、横浜で鉄砲20丁を仕入れます。
小島鹿之助は、家として援軍を出します。
多摩の誇りと共に甲府へ。。。甲陽鎮撫隊です。
情勢はわかっていました。でも、やらざるを得なかったのです。
しかし、甲府城は先に新政府軍に抑えられていました。近藤軍は敗北、東へ転戦するも包囲され、流山で投降します。
近藤は、偽名を使って逃げようとします。この時まだ、理想は捨ててはいませんでした。例え命は捨ててでも・・・。
新選組に対する積年の恨みが向けられ・・・。
慶応4年4月25日近藤斬首。天皇に逆らった罪で。。。
武士ではありえない斬首でした。
その後、その意思は土方が受け継ぎます。近代戦を身に着けた土方は、函館まで負け知らずの大活躍!!銃弾で倒れるまで戦い続けました。
幕末、国の為に戦う者たちが、身分を問わず集った新選組。幕府と共に滅んだ古い組織という従来の考え方は見直されつつあります。
江戸から明治へ、武士から百姓の時代になった!!百姓まで、国を何とかしなければならないと思った時代だったのです。
近代へと変わる中で、大事な動きをした新選組、その主体は、侍ではなく、百姓でした。
新選組は、全国様々な階層から集った志願兵でした。
Last Samuraiではなく、First Military最初の”国民軍”だったのかもしれません。
後に盛んになる自由民権運動、中心は坂本龍馬のいた土佐ですが、多摩でも盛んに行われます。これは、近藤・土方のおかげと言えるでしょう。
切腹を選ばずに処刑された近藤・・・。
「英雄でないものが英雄だ・・・」草莽の意思を貫いたのでしょう。
処刑前に近藤が詠んだ歌の中に・・・。
「快く受けん 電光三尺の剣 ただまさに一死を以て 君恩に報いん」
この君とは一体誰だったのでしょうか?
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待っていました!!とばかりの「新選組」ネタです。最近は、自分が良いお年だからか、テレビ番組の新選組では・・・「もう知ってるし・・・」「それも知ってるし・・・」みたいな感じの構成が多かったのですが、今回の切り口、結構面白かったです。
私的感情を抜きにして、レポートできたらいいなあ・・・と、思いますが、できるでしょうか?
幕末、風雲急を告げる京都で、反幕府勢力に立ち向かったのが幕末最強の剣豪集団「新選組」
誠の旗のもとに命を懸けた若者たち。。。
強さと儚さの天才剣士・沖田総司
戦いに全てをかけた鬼の副長・土方歳三
最強集団の頼れるリーダー・近藤勇
芹沢鴨暗殺・池田屋事件・油小路の決闘、数かすの戦いから浮かび上がる最強組織の作り方とは?
今までは、農民が「武士として出世したい!!」というのが定説でしたが、異なる事実が発見されました。
近藤勇、前に進み続けた男の実像とは
京都、三条小橋西入に・・・あの池田屋がありました。
池田屋事件は、当時無名だった近藤勇と新選組が、京都に名を轟かすことになった事件です。
小島鹿之助宛ての近藤勇の手紙がたくさんあるので、それを追って順々に・・・。
当時京では、徳川に反発し、政治実権を朝廷に!!という運動が活発化、長州を主とする反幕府勢力による天誅が起き、治安が悪かったのです。
都の治安維持を請け負う京都守護職・会津藩主・松平容保の元で、非公式の雇われ部隊として「新選組」が誕生します。
幕末のそれぞれの立場とは・・・。
開国派・・・・①江戸・幕閣
攘夷派・・・・②京都・公武合体派・・・孝明天皇・一橋・会津・桑名・新選組
③長州・尊王攘夷派・・・長州・土佐激派・過激派公家
となっていました。
そのため、事実、今日とはすごく治安が悪かったのです。
その治安を良くするため、京都の治安を守る私設警備隊として誕生しました。
当時は、京都所司代、町奉行所は、軍事力としてはかなり弱く、機能していないも同然でした。
元治元年の手紙には・・・。
長州が、京都に放火・天皇を長州に奪い去る計画が・・・。
6月5日、商人・古高俊太郎捕縛、家から大量の武器・武具を発見。京都への放火を確信します。
会津藩に、一斉捜索を依頼するも、動きません。
しびれを切らした近藤は、30人を二手に分けて捜索、3時間後、近藤以下10人は、池田屋に潜伏しているとの情報を掴みます。
そう、新選組だけが、池田屋の浪士結集のニュースを掴んだのです。京都奉行所、京都所司代、京都守護職が掴んでいないのに・・・。
このことからも、小さいながら、情報を集める組織と、優秀な人材を抱えていたということが解ります。
近藤は、わずか数人で乗り込みます。
「御用改めである!!」
そこには、20人が待ち構えていました。戦が始まりました。2時間に及ぶ斬り合い・・・。
「永倉は、刀を折られ、沖田の刀は切っ先が折れ、藤堂は鉢金をたたき落とされ重傷」
7人を討ち取り、23人が捕縛。京都に新選組の名前が知れ渡った瞬間でした。
しかし、このことが、危険な運命に一歩踏み出した瞬間でした。
この池田屋事件で、西国の人間に決定的なマイナスイメージを与えたことは間違いありません。深く、新選組に恨みを持つようになります。
池田屋事件・・・それは、すごいインパクトがありました。が、大人しく捕縛されればなかった斬り合いです。こんな大立ち回りになるとは・・・想定外の出来事だったかもしれません。
そして、新選組は、さらに強力な戦闘集団へと進化していきます。
近藤が組織した新選組は、最盛期には隊士は200人を超えていました。
ちなみに、赤穂藩が討ち入りを行う前、全体で家臣が300人、200人というのは、5~6万石の藩の人数を統率することになるのですが、どうしたのでしょうか?
武骨で不器用と思われていた近藤の哲学・・・「英雄でないものが英雄である」
近藤の原点となったのは、武州多摩地方。当時は、江戸の西を守る重要な土地。甲州街道は江戸に、人・情報・物資を運ぶ大切な道。八王子街道は、横浜の情報が入ってくる大切な道。おまけに天領ということもあって、文武両道の地だったのです。
天保5年10月9日誕生。
16歳の時、試衛館に入門。腕を見込まれ養子に。28歳の時に試衛館道場主になります。
天然理心流は、武士の恰好や型を重んじた剣法ではなく、武士でなくても・・・農民が、野盗を退治するためにも使える実践的な剣法でした。「勝つ」ではなく、「負けない」という根性が土台になっていました。
そこで、剣術を磨く仲間には、沖田、山南、土方、他にも農民や脱藩浪士がいました。
この場所で、「幕府は、日本は、自分はどうしたらいいのか?」身分に関係なく論じていたのです。
文久3年浪士組が募集されます。京都に向かう将軍警護のため、身分を問わず有志を募ったのです。
「国家の大事の為に働ける!!」
名主・佐藤彦五郎とのきずなは強く、家族や道場をを預けて参加します。この佐藤彦五郎とは剣を通して義兄弟の契りを交わしていて、精神的にも経済的にも近藤を支えたと言います。
実際、多摩の情報収集量は高く、政治への関心は大変高かったのです。それは、開国によって当時の輸出の代表的な生糸の生産地だったので、お金持ちが増え、農民が自衛力を養うために近藤の試衛館に習いに行ったのです。
剣術道場は議論の場。
江戸三大道場 桃井道場(武市半平太)
千葉道場(坂本龍馬)
斉藤道場(桂小五郎) がいて、
道場では、地域や身分を超えた議論がなされていたといいます。
草莽の有志・・・それは、草の根。
「地域や藩を超えた”日本人”としての責務感」護民官、防人のような意識を持ち始めたのです。
隊士募集した中には、水戸藩士芹沢鴨もいました。
近藤は、京都壬生寺近辺を拠点に、町なかの警備を始めます。
文久3年3.26日の手紙には・・・
「天皇と将軍を守り、奸賊を斬る。身分も所属も関係なく、在野の一人として国に尽くしたい。」と、草莽有志(草むらの志)を主張しています。藩、幕府というバックを持たない草莽の志士たちが運動を展開する。
これが、「英雄でない者こそ英雄である」なのです。
これらの手紙では、新選組と多摩の密接な関係が伺えます。多摩は、バックグラウンドであり、仕送りなどもしていましたし、近藤からは政治情報を送っていたのです。
そこには、多摩という土地柄、普通の農民とは違う。天領であるので、将軍に仕えているという誇りがありました。野蛮な殺戮集団・新選組のイメージはありません。
文久3年9月20日の手紙には・・・。
芹沢鴨 変死
それは、当時の屯所だった八木邸で・・・。
深夜、芹沢は、腹心2名と共に殺されます。
知らせを聞いて、飛んできた近藤は・・・「長州人の仕業だ!!」と、つぶやきました。
しかし、真犯人は、土方・沖田をはじめとする新選組隊士でした。
この後、近藤たちは新選組を自分たちの組織へと作り変えていくのです。
芹沢鴨暗殺の理由は・・・
素行の悪さがあげられます。商家を焼き討ちしたり、芸妓の髪を切るなどの乱暴狼藉です。これは、新選組や会津藩の信用を著しく陥れる行為でした。
会津藩からも注意を受け、近藤は渋りましたが、鉄の掟「局中法度」で追い落としたのです。
この局中法度、資料的には確認されていませんが、永倉新八の証言によると、4か条。
一、士道に背くこと
一、局を脱すること
一、勝手に金策を致すこと
一、勝手に訴訟を取り扱うこと
これに背くと、切腹、粛清、暗殺されるのです。
しかし、芹沢鴨暗殺には、武士(芹沢鴨)と農民(近藤勇)出身の考えの差があったのかもしれません。この事件は、近藤の組織作りの一環と言えるでしょう。
「50余人の烏合の衆の浪士局、近藤氏一人の総括にて、ようやくとりしまりまかりあり候」と、会津藩の記録にも残っています。
ここで、サークル的な、同志的”緩さ”が引き締まりました。
翌日には、盛大な葬式を、近藤が取り仕切ることとなります。策士・近藤
新選組とは、身分を超えて集ったいわば「烏合の衆」。前歴のわからない人の集まりでした。
彼らを入隊と同時に武士と認め、身分を開放する。しかし、自分には責任を以て欲しいというけじめなのです。
彼らをまとめるには、厳しい掟が必要でした。
近藤は、強固な一体化を進めます。
※死番をつくりました。4人一組で警護をして、いざ怪しいところに踏み込むとき、死の危険が伴う先頭を、日替わりで回す制度のことです。死番に当たった人間は、朝からその覚悟を持たせるという厳しいルールです。
池田屋事件以後、勤皇派の敵とされた新選組。組織をより強固にしないと、殺される恐怖感はぬぐえません。4人一組というのも、単独で動くな!!ということも含まれていました。
※切腹の介錯は、新人隊士に勤めさせ、度胸をつけました。
165年間平和が続いていた時代、人を切り殺した経験なんかない時代、当たり前のように人が斬れる最強の組織を作りたかったのです。
実践で骨身にしみ込ませる・・・。最強の剣豪集団へ・・・。
ここまで来ると、隊士の中にもずれが出てきます。近藤の目指すものとの確執・・・。仲間だった山南の脱走然り。
池田屋事件の結果、長州VS幕府の戦いが激しくなります。
元治元年7月19日禁門の変。長州と幕府が京都で衝突します。
長州が、蛤御門まで攻め寄ります。
激戦の末、長州が敗北。
孝明天皇は、激怒し「長州討つべし!!」と、勅命を下します。
近藤は、新選組を「警察」から「軍隊」へと仕立てあげます。
土方の作った「行軍録」に基づいて、戦争のための組織編成をします。
この組織制度1~8までの(組頭)小隊長を配置、その下に5人ほどが配属。そう、一番隊組長は沖田総司
さらに最強にするために、軍中法度・・・戦争の際の軍律を作ります。
そこには・・・組頭を戦死させた組の部下は、責任を以て死ぬまで戦え!!とありました。
臆して敵に背を向けた者は斬罪。
そうして、江戸から即戦力となる参謀・伊東甲子太郎を呼びます。伊東は、朝廷を重視する、尊王思想に精通し、幅広い人脈を持っていました。伊東は、諜報活動に貢献。
しかし、後にこの伊東が、危険な火種となるのです。
新選組は、大砲や小銃、西洋軍備も取り入れて、200人を超える大所帯となりました。着実に近代軍備化が進んでいました。
しかし、新選組に、長州征伐命令は出ませんでした。
「京の治安維持を尊重しなさい!!」
慶応2年夏、第二次長州征伐
幕府の率いる大軍が、長州に攻め込みます。しかし、長州は最新の武器で反撃、まさかの幕府の敗北!!
幕府は完敗し、権威は大きく失墜。ここで伊東は動きます。
この長征征伐を、伊東は許そうとしますが、近藤は長州を討つのは、「朝幕とも御一致の御処置」と譲りません。長州は、倒すべきだ!!
「幕府を破った長州も含めてより強い日本を作らなければ!!」
そんなグループが、慶応3年3月10日、伊東を立てながら穏便に分離します。その中には、試衛館からの仲間、藤堂平助もいました。
表向きの理由は、「御陵衛士」天皇陵の警備役を仰せつかったからというものでした。
罪に問えない近藤・・・。
その3か月後の6月10日幕府から、隊士全員を幕臣に取り立てるとの打診が・・・。不安定な立場から幕臣へ・・・。近藤はこれを受諾。それは、組織維持のためでした。
これに対し6月12日、隊士10人が脱退と伊東派への合流を希望します。
理由は、「2君にまみえず」
幕臣化に反対したのは、脱藩浪士、藩を脱して「尽忠報国」の組織に入ったのに、新しい別の主君に仕えるのは嫌だったのです。
農民出身の近藤や土方とはこだわりが違うのですが。。。でも、それは許されることではありません。認めれば更なる流出が懸念されました。脱するを認めず、隊士4人切腹。
では、草莽の立場だった近藤が、なぜ幕臣となったのでしょう?
幕府の旗色が悪い中、新選組隊士たちも動揺する。その先には、脱走、分裂・・・。
「討幕」か「佐幕」、どちらかに身を置かなければいけない状況になってきていたのです。多摩は天領だ。例え旗色は悪くても・・・。時代に逆行する選択でした。
分裂の危機の中、時代は大きく動きます。
10月14日大政奉還
徳川の政権は、朝廷に返上されたのでした。足元が大きく揺らぎます。
この大政奉還は、幕臣となった近藤には大変ショックなことでした。天領も含めると700万石はある徳川。幕府と共に、自分たちの理想を実現しようとしたのは妥当だったかもしれないのに・・・。
伊東派は、歓迎し、公家を中心とした政治を主張します。伊東は、またもや新選組を揺るがし、その基盤までも破壊しようとします。
近藤は・・・。
11月18日 伊東を宴席に招待。その帰り道、油小路で・・・暗殺。
遺体は放置され、回収に来た伊東一派を待ち伏せし・・・。
かつての仲間に対する凄惨な殺害。それは、組織を守るという危機感からでした。そう、藤堂平助も・・・。
慶応4年1月鳥羽伏見の戦い。
薩摩・長州VS幕府・新選組
最新鋭の軍備を持つ新政府軍に惨敗し・・・おまけに、新政府軍に錦の御旗が・・・・。
天皇と幕府の為に戦ってきたのに、「賊軍になってしまう!!」
大勢の隊士を失い江戸に来た近藤、新しく兵を募り戦いへ・・・。甲府で新政府を迎え撃つために!!
この時に立ち上がったのが、佐藤彦五郎と小島鹿之助でした。佐藤は近藤を支援するために奔走し、横浜で鉄砲20丁を仕入れます。
小島鹿之助は、家として援軍を出します。
多摩の誇りと共に甲府へ。。。甲陽鎮撫隊です。
情勢はわかっていました。でも、やらざるを得なかったのです。
しかし、甲府城は先に新政府軍に抑えられていました。近藤軍は敗北、東へ転戦するも包囲され、流山で投降します。
近藤は、偽名を使って逃げようとします。この時まだ、理想は捨ててはいませんでした。例え命は捨ててでも・・・。
新選組に対する積年の恨みが向けられ・・・。
慶応4年4月25日近藤斬首。天皇に逆らった罪で。。。
武士ではありえない斬首でした。
その後、その意思は土方が受け継ぎます。近代戦を身に着けた土方は、函館まで負け知らずの大活躍!!銃弾で倒れるまで戦い続けました。
幕末、国の為に戦う者たちが、身分を問わず集った新選組。幕府と共に滅んだ古い組織という従来の考え方は見直されつつあります。
江戸から明治へ、武士から百姓の時代になった!!百姓まで、国を何とかしなければならないと思った時代だったのです。
近代へと変わる中で、大事な動きをした新選組、その主体は、侍ではなく、百姓でした。
新選組は、全国様々な階層から集った志願兵でした。
Last Samuraiではなく、First Military最初の”国民軍”だったのかもしれません。
後に盛んになる自由民権運動、中心は坂本龍馬のいた土佐ですが、多摩でも盛んに行われます。これは、近藤・土方のおかげと言えるでしょう。
切腹を選ばずに処刑された近藤・・・。
「英雄でないものが英雄だ・・・」草莽の意思を貫いたのでしょう。
処刑前に近藤が詠んだ歌の中に・・・。
「快く受けん 電光三尺の剣 ただまさに一死を以て 君恩に報いん」
この君とは一体誰だったのでしょうか?
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