田原総一朗の仰天歴史塾~ニッポンリーダー列伝~

真実の近現代史 田原総一朗の仰天歴史塾

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第2回 世界が認めた日本外交です。揺れるハート

日本は、ペリーが4隻の軍艦と共にやってきて、無理やり開国させられました。当時は帝国主義の時代。。。植民地になっても仕方のない時代でした。ところが、列強を追い越して、5大国になりました。
それは、奇跡。。。

そんな奇跡を起こした二人を紹介してくれます。

「世界が認めた日本外交」

ひとりは、陸奥宗光。近代日本外交の礎を築いた男です。
外務大臣として、不平等条約に対し辣腕を振るい、カミソリ大臣の異名をとりました。

日清戦争、下関条約、三国干渉、激動の時代、日本の命運を任された陸奥は、どんな大仕事をやってのけたのでしょう?

まず、日清戦争、日露戦争とは?
この戦争は、伊藤博文も明治天皇も反対でした。おまけに大国相手・・・。そんな戦争をどうやって勝ったのでしょうか?

陸奥宗光・・・
1844年和歌山に生まれます。
紀州藩藩主の息子として生まれますが、1853年城を追い出され脱藩します。
幕府側の藩であったにもかかわらず、新政府に採用されたという変わった経歴を持ちます。

陸奥は、勝海舟の海軍操練所に入ります。さらに、坂本龍馬の海援隊に加わります。この時点から、幕府側の人間ではないのです。いろいろな意味で、積極的な人物なのです。
が、面白いところは、「刀を使わず逃げるのが信条」というところです。

明治になると、紀州に帰り、紀州藩だけで徴兵制を敷きます。2万人の軍隊を造ります。
西南戦争の際に、陸奥は西郷派となり、土佐の急進派と共に、藩閥政府の転覆を計画、1878年逮捕され収監されます。その時に勉強したのが、「最大多数の最大幸福」を主張、功利主義を唱えたイギリスの哲学者ジェレミー・ベンサムです。


1883年特赦によって出獄。
1884年から85年にかけてヨーロッパを外遊。衆議院議員になります。

1892年伊藤内閣で外務大臣になります。
カミソリ大臣と呼ばれました。

どうして陸奥なのか?
それは、陸奥に魅力・才能があったからで、坂本龍馬でさえも、「刀無しでこれから生きていけるのは、俺と陸奥だ」と言ったぐらいだったそうです。

陸奥宗光が日清戦争を始めますが・・・。
1880年以降、列強の進出と政治の混乱で、朝鮮国民は苦しい生活を送っていました。しかし李氏朝鮮は、自らの手で改革できずにいました。

不満が頂点に達した民は各地で反乱を起こします。・・・1894年東学党の乱。
東学党の乱に手を焼いた朝鮮政府は、清に援軍を要請します。実はこの時、日本と清との間で天津条約が結ばれていました。1885年に結ばれたもので、日清両国が朝鮮に出兵するときは、お互いに通知し合うというものでした。

その結果、日清両国が出兵することとなりました。が、すぐに東学党の乱がおさまってしまったのです。
清は帰ったものの、日本は帰りませんでした。

日本は、信徒戦争を始めるきっかけが欲しかったのです。
日本は清へ、朝鮮の内政改革を共同で行うことを提案しました。

しかし、清は「日本の撤兵が先」として、日本の提案を拒否しました。

日本は強引に皇帝の父・大院君を奪い、「独立を応援します」と、担ぎ上げます。クーデターで新政府を樹立。大院君に進軍掃討を依頼させました。
日本は、大院君に、皇帝復帰や朝鮮の独立をほのめかしました。

絶好のチャンス、大義名分が出来て、戦争が始まります。

伊藤博文は、清との戦争に反対でした。明治天皇も戦争に反対でした。
それでも戦争が始まってしまいます。
明治天皇は・・・。「朕の戦争に非ず」と言って、伊勢神宮にお参りに行かなかったとか。

しかし、日清戦争では連戦連勝。
宣戦布告前に奇襲作戦で戦います。
おまけに、当時は西太后。清の国は、軍艦建造の予算を隠居後に住む家の庭園費用に使ってしまいました。

まだまだ連戦連勝の理由は・・・。
日本人の資質。日本と清とは戦争の概念が違うということ。
進軍の戦争は、大軍を集め、規模で威嚇、弱い敵に必死に攻められると逃げてしまうということ。
日本軍の戦争は、命を惜しまない吶喊攻撃だから、勝てないのです。
ヨーロッパや中国は、傭兵なので、逃げないように目立つ服を着せて行進させます。が、日本人は、散兵戦が出来る、個人個人がベストを尽くすという伝統があったのです。

1895年下関講和会議
講和条約が結ばれます。日本の全権は、首相伊藤博文、外務大臣陸奥宗光。
清の全権は李鴻章。
条約交渉の結果、日本が得たのは、
清が朝鮮の独立を承認。
賠償金2億両
遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲でした。

しかし、当時の列強ロシア・フランス・ドイツは、これに反対します。三国干渉です。
遼東半島を返せということになります。

しかし、陸奥は、三国干渉は、戦争開始時から予想していたそうです。
伊藤も解っていたそうです。しかし、あらゆる手を打って戦争したのです。

ロシアは海への出口がなく、朝鮮半島を抑えて、初めて海への出口が出来るということを目論んでいました。

日本では、「臥薪嘗胆」という言葉が流行します。この時から日本は、軍事力を強化しなければならない!!と、強兵へと進んでいくのです。

まず、「産めよ増やせよ」ということで、明治新政府は、堕胎を法律で禁じ、富国強兵策の一環として、出産を奨励します。


では、どうして、日清戦争をしたかったのでしょうか?
日本は朝鮮の中立か、支配下に置くことを望んでいました。
当時は帝国主義の時代、植民地をつくることは当たり前のことでした。世界の列強が植民地をつくっていたのです。朝鮮を、清やロシアの支配下に置かれては、安全保障上問題があると考えたのです。

日本は、朝鮮半島がいつも戦争のきっかけになってきているのです。
とても魅力的な地域なのです。

天皇が反対していてもOKなんでしょうか?
大日本帝国憲法には、天皇の持つ権限の行使には国務大臣が進言し、責任を持つとあります。
天皇が、反対と言っても、反対とは言いづらいのです。
これが、太平洋戦争が終わるまで続きます。

日本は清に勝つ見込みをどこに見出していたのでしょう?
それは、日本は清の内情(西太后のこと)を密かに把握していたからだそうです。
しかし、日本人の根底には、「撃ちてし止まむ」=敵を討たないでおくものかという気持ち(太平洋戦争の時に戦意高揚のために使われた言葉)があるのです。


開国以来の悲願・不平等条約の撤廃は、日本が戦争に勝ったからなくなったのでしょうか?

不平等条約は、日清戦争がはじまる数日前に陸奥宗光によって、全て解決していました。
勝ったからではなく、教科書が間違っているとのこと。
しかし、条約発行は締結の5年後、明治32年に領事裁判権が無くなるのです。
その12年後、明治44年に関税自由化になります。
それは、27年間の交渉の賜物だったのです。すべて、陸奥の仕事でした。だから、カミソリ外交なのです。

1897年、肺結核のため死去。53歳でした。

この陸奥外交の神髄は、徹底的な「攻め」の外交だということ。
大久保と似ているのかも知れません。

何故首相になれなかったのか?それは、紀州藩出身だったからなのです。


日清戦争直後の世界は・・・。
まさに、帝国主義時代。ロシアとイギリスが覇権争いをしていました。
イギリスは、東へ東へ・・・。ロシアは、西に西に・・・。シベリア鉄道も計画中。領土を広げていました。それが常識でした。

ロシアは、何とか旅順が欲しかったのです。ロシアの目的は不凍港で、旅順までシベリア鉄道をのばそうとしていました。

小村寿太郎は・・・。
日本の第1期エリートで、ただただ、国の利益だけ考えて生きた男です。

超大国を相手に、人一倍の度胸で渡り歩き、大胆な外交戦略と、思い切った決断で、近代国家の生き残りをかけて戦いました。

日本を最強国イギリスに認めさせた日英同盟、国防の戦いを唱えた日露戦争。激動する帝国主義の時代に、小村はどう判断を九だし、実行に移したのでしょうか?

伊藤博文は、ロシアが南下しないようにと手を組みたいと思っていました。
それに反し、小村・桂首相はイギリスと手を組もうと考えていました。ロシアをやっつけようと思っていました。日本が二分され大もめにもめました。

小村寿太郎。
1870年東京の大学南校(現在の東京大学)に入学します。日本のエリート第1期生です。
ハーバードに留学し、法律を学びます。英語力が抜群に優れていました。

1893年駐清代理公使となります。
1894年清と国交断絶。公使館を閉鎖して帰国しますが、このことが、陸奥の眼にとまります。時局の的確な判断を見込まれ、重用されるようになります。

1901年桂内閣時の外務大臣に任命されます。

このころ、義和団の乱がおきます。武闘派の秘密結社・義和団による外国排斥を目的とした動乱の事で、西太后は、この義和団の乱を使って、諸外国を排斥しようとします。これが、1900年北清事変です。

諸外国が、中国を押さえつけようと、出兵します。北清事変で一番多くの兵を出したのがロシア。南下したいロシア。満州・朝鮮を狙うロシアと、それを警戒する日本が最も多くの派兵を行ったのです。
ロシア1万5000人。日本1万2000人。

北清事変後も、ロシアが駐屯。できれば満州・朝鮮が欲しい。。。
勝手に満州を占領したロシアに、日本は戦争の可能性を意識するようになります。
その時の外交のトップが、小村寿太郎でした。

日本は二つに分かれてしまいます。
伊藤は、満州をロシアの保護、朝鮮を日本の保護と主張しますが、けんもほろろにロシアに玉砕。ロシアとの交渉が難航する中、小村寿太郎が1902年日英同盟を締結します。日本がロシアと戦争して、不利になったらイギリスが助けるというものでした。

おまけに天皇は、伊藤博文の味方だったのに。。。

小村と桂は、伊藤博文を枢密院議長に祭り上げ、開戦慎重論を封じ込めました。枢密院議長には、なんの権限もありません。
ロシアでも、伊藤博文と交渉を重ねてきた穏健派が追放されます。
後に残るのは戦争でした。

小村は、どうしてロシアよりもイギリスを選んだのでしょうか?
イギリスは、世界中に帝国主義を展開しているので、世界一はイギリスだということ。イギリスは、当時、ボーア戦争で疲弊しきっていたので、孤立政策を捨て、ロシアに対抗するために日英同盟を結んだと言えるでしょう。

戦争に突き進んでいく両国。。。
シベリア鉄道が、旅順まで来たら。。。完成すると、極東に武器や兵隊を送り込めるということです。
単線なので、資材を運んできた貨車を戻さずに燃やし、急ピッチで鉄道建設を行ったのです。

小村や桂は、早く戦わなければ!!と、思っていました。
シベリア鉄道が、全線開通する前に、開戦しなければ勝てないと踏んでいました。

早く!!早く!!早く!!

1904年日露戦争開戦。伊藤博文も、明治天皇も、マスコミも戦争反対でしたが・・・。マスコミは、次第に賛成へと変わっていきました。

戦争が近づくと、賛成派に変わっていく・・・。それは、日中戦争でも同じでした。それは、言論の統制ではなく、戦争反対だと新聞が売れなくなるからです。

明治天皇は、歌を詠んでいます。
「よもの海 みなはらからと 思ふ世に
       など波風の たちさわぐらむ」 と。

反戦を訴えていました。
だって、戦争に負けたら、自分の立場も危うくなるし、何より、先祖に申し訳が立ちません。
昭和天皇も、太平洋戦争が始まる時に、これを読んだとか・・・。
しかし、ほんとうの権利は、大臣にありました。

1902年日英同盟を結んだ日本は、七つの海を支配するイギリスから世界の情報を手に入れ、債権を発行し戦費を調達しました。

1904年日露戦争開戦。満州征服を画策し、朝鮮にも進出しようとしていたロシア、その脅威に対抗するためには戦争しかないと思っていた小村。天皇や、伊藤を説得し、シベリア鉄道が開通する前に、開戦にこぎつけます。

なぜ、大国ロシアに勝てたのか?
それは、日本人の能力のおかげ?

日本軍は武器の操作が早いとか?それは、茶の湯の作法?
如何なる無駄の動きもない。日本の下士官は、昔も今も世界一だということです。
アメリカの将軍と、ドイツの将校と、日本の下士官がいれば、世界最強だとか。

もちろん、戦後の復興も、政治家ではなく下士官の能力だということです。
現場の力がすごいのです。


ロシアに勝てた最大の要因は、ロシア革命が起こったこと。
そして、日本はもうだめだという所まで来ていましたが、そのことは、軍事機密でした。隠し通すことで、仲介に入ってくれたアメリカ・ルーズベルトさえ日本が優勢だと錯覚し、誤解していたこと。

やっとこさ、日本は勝てたのです。
1905年アメリカのポーツマスで講和会議が開かれます。
実は、ロシアは負けたとは思っていませんでした。

日本の要求は、
賠償金50億円
樺太全土の割譲
遼東半島の租借権  でした。

が、ポーツマス会議では、ロシアは南樺太を割譲、日本は賠償金を放棄する。という結果になってしまうのです。新聞では、勝った勝っただったのに・・・。
1905年に暴動・日比谷焼打ち事件が起こります。国民の不満は爆発し、小村は世論の非難を一身に浴びました。人気が急落します。

しかし、ロシアは朝鮮をあきらめました。
日本は、韓国への自由裁量権を獲得し、満州への勢力拡大を視野に入れることになるのです。それが、満州事変へと繋がっていくのです。

もう一つは、日露戦争で初めて有色人種が白色人種に勝った戦争でもありました。
アジアの植民地が、日本を学んで白人に勝とう!!と、アジアの独立運動家が奮起、日本が活動の拠点となることになります。
その一人が、孫文。辛亥革命では、日本が沢山応援しました。

日韓併合で伊藤博文は暗殺されます。暗殺犯は、韓国人・安重根。韓国の英雄です。
戦争にも反対し、日韓併合にも反対していました。

伊藤は、併合に反対している自分こそ、韓国政府の説得役に適任だと考えていました。あくまで、反対だったのです。なのに、ハルピンで暗殺され・・・暗殺直後に韓国併合されます。

小村は、日本の安全保障のために、韓国を支配しなければならないと思っていたのです。このロシアの脅威は、常にあり、太平洋戦争時も原因となりました。

外交でうまくやったのは、中曽根さん、小泉さんが、アメリカに信用されていました。
今は、外交上手の政治家さんはいないそうです。たらーっ(汗)
今の官僚は、天下国家を言わなくなってしまいました。関心がなくなってしまったのでしょう。今の外交を任せるなら、どちらがいいでしょう?

田原総一朗の早大「大隈塾」講義録 Okuma juku review 2005−〔2〕
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