武田信繁って誰?
最近忙しいのか、テレビを座ってみることが出来なかったので、ビデオ、いっぱいたまっています。
今回は、やっと見ることが出来ました。THE ナンバー2.
自ら二番手を選んだ男~武田信繁です。
ほんと、誰?ですが、武田信玄の弟です。
信玄のNO,2は、「山本勘助」といわれていますが、それは、ほとんどが作り話です。山本勘助は、軍学書「甲陽軍艦」に登場する軍師で、武田には山本菅助という人間は存在するのだけれど、軍師としての山本勘助は存在しないのです。
武田家の本当のNO,2は、信玄の四才下の弟「信繁」らしいのです。
信玄の父・信虎は、ひょうきんで臆病者の信玄よりも、文武両道の信繁に家督を譲ろうとしていたらしいのです。えっつ!!、私の戦国時代最強の信玄が、臆病者だったなんて!!!。です。
「かっこいいよな、風林火山」って、思っていたのですが・・・。
そして、それを知った信玄は、家臣に担ぎ上げられ父・信虎を追放、この時、弟は父につかずに兄・信玄についたのです。
信繁が信玄についた理由
①父が戦争ばかりをして、民に嫌われていたから
②武田家は、家臣も含めた合議制で、別に武田家としての勢力が強いわけではなかったから
そして、家臣が起こしたクーデターにより政権をとったものの、家臣をどうやってまとめるか。その為に、信繁が分国法(甲州法度之次第)を作成しました。
この法律では、第55条に自分自身もこの法律の捌きを受けるとしています。これは、当時、自分が法律!!みたいな君主が多かったので、珍しいのです。
農民には、信玄堤などダムや堤防を作って人気を取り、この法律で家臣共々まとまり、やっと武田の当主としての地位を確立したのです。
信繁は、左馬助の位置にあり、軍馬の調達、兵器の購入、後方支援を行っていました。ちなみに、武田軍は甲州騎馬隊として有名ですが、もうこの時代合戦では足軽が出現していて斬馬刀で馬の足を狙われるので、騎馬隊が活躍することはなく、騎馬隊は機動力の活用にあったとされ、そのスピード勝負が武田軍の真骨頂だったようです。
この信繁の家訓は、信玄の偉大な足跡に多大な影響を与えたといわれており、父の反面教師なのか家臣を大切に慈悲の心を持って接することが謳われ信玄はその家訓の最大の理解者であり、実践者であったそうです。
信玄はこの頃海に出たかったが、南は北条、今川の三国同盟があるので北に上がるしかなくここで上杉謙信との有名な戦い・川中島の戦いが勃発します。
信玄はいかにして戦わずして勝つか、ということを考えており、今でいうイメージ戦略として・・・
①風林火山の旗を必勝の旗とした
②真っ赤な赤備(甲冑)は信玄最強のしるしで、これは後に織田信長が取り入れています。
第四回目の川中島の戦いで謙信に奇襲をかけられ絶体絶命のピンチの時、信繁が最前線で戦い、壮絶な死を遂げています。この、信玄と謙信が刀を交えた銅像がありますが、一説によると謙信と刀を交えたのは信繁かも?って、いわれています。つまり、信玄の身代わりになって戦ったといわれているのです。
その土地は信玄のものとなりましたが、大損をしたのは信繁を失った信玄だったのです。その後、信繁がいなくなったことにより武田家は、内部分裂をおこしていきます。
この信繁の家訓は、江戸時代になっても武士の心得として読みつがれていました。
何事にも退屈すべきでないこと。
「孟子」にいう一心に努力する者こそ偉大な人物である
その後、信繁という人物が現れます。その信繁とは、真田幸村のことです。幸村の父が、信繁を偲んでつけた名前で、真田幸村は大阪城に入った時、真っ赤な鎧を着ていたそうです。
ホント、THEなんばー2は面白いです。歴史も知っているようでなかなか知りません。私が、戦国最強と思っていた信玄が、ダメダメだったなんて・・・。でも、やっぱり私の中ではカッコいいですよ。
でも、いつの時代にもドラマがあって、ロマンがあるんだなってことでしょうか。まだまだ埋もれている賢人を知りたいなと思う今日この頃でした。
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自ら二番手を選んだ男~武田信繁です。
ほんと、誰?ですが、武田信玄の弟です。
信玄のNO,2は、「山本勘助」といわれていますが、それは、ほとんどが作り話です。山本勘助は、軍学書「甲陽軍艦」に登場する軍師で、武田には山本菅助という人間は存在するのだけれど、軍師としての山本勘助は存在しないのです。
武田家の本当のNO,2は、信玄の四才下の弟「信繁」らしいのです。
信玄の父・信虎は、ひょうきんで臆病者の信玄よりも、文武両道の信繁に家督を譲ろうとしていたらしいのです。えっつ!!、私の戦国時代最強の信玄が、臆病者だったなんて!!!。です。
「かっこいいよな、風林火山」って、思っていたのですが・・・。
そして、それを知った信玄は、家臣に担ぎ上げられ父・信虎を追放、この時、弟は父につかずに兄・信玄についたのです。
信繁が信玄についた理由
①父が戦争ばかりをして、民に嫌われていたから
②武田家は、家臣も含めた合議制で、別に武田家としての勢力が強いわけではなかったから
そして、家臣が起こしたクーデターにより政権をとったものの、家臣をどうやってまとめるか。その為に、信繁が分国法(甲州法度之次第)を作成しました。
この法律では、第55条に自分自身もこの法律の捌きを受けるとしています。これは、当時、自分が法律!!みたいな君主が多かったので、珍しいのです。
農民には、信玄堤などダムや堤防を作って人気を取り、この法律で家臣共々まとまり、やっと武田の当主としての地位を確立したのです。
信繁は、左馬助の位置にあり、軍馬の調達、兵器の購入、後方支援を行っていました。ちなみに、武田軍は甲州騎馬隊として有名ですが、もうこの時代合戦では足軽が出現していて斬馬刀で馬の足を狙われるので、騎馬隊が活躍することはなく、騎馬隊は機動力の活用にあったとされ、そのスピード勝負が武田軍の真骨頂だったようです。
この信繁の家訓は、信玄の偉大な足跡に多大な影響を与えたといわれており、父の反面教師なのか家臣を大切に慈悲の心を持って接することが謳われ信玄はその家訓の最大の理解者であり、実践者であったそうです。
信玄はこの頃海に出たかったが、南は北条、今川の三国同盟があるので北に上がるしかなくここで上杉謙信との有名な戦い・川中島の戦いが勃発します。
信玄はいかにして戦わずして勝つか、ということを考えており、今でいうイメージ戦略として・・・
①風林火山の旗を必勝の旗とした
②真っ赤な赤備(甲冑)は信玄最強のしるしで、これは後に織田信長が取り入れています。
第四回目の川中島の戦いで謙信に奇襲をかけられ絶体絶命のピンチの時、信繁が最前線で戦い、壮絶な死を遂げています。この、信玄と謙信が刀を交えた銅像がありますが、一説によると謙信と刀を交えたのは信繁かも?って、いわれています。つまり、信玄の身代わりになって戦ったといわれているのです。
その土地は信玄のものとなりましたが、大損をしたのは信繁を失った信玄だったのです。その後、信繁がいなくなったことにより武田家は、内部分裂をおこしていきます。
この信繁の家訓は、江戸時代になっても武士の心得として読みつがれていました。
何事にも退屈すべきでないこと。
「孟子」にいう一心に努力する者こそ偉大な人物である
その後、信繁という人物が現れます。その信繁とは、真田幸村のことです。幸村の父が、信繁を偲んでつけた名前で、真田幸村は大阪城に入った時、真っ赤な鎧を着ていたそうです。
ホント、THEなんばー2は面白いです。歴史も知っているようでなかなか知りません。私が、戦国最強と思っていた信玄が、ダメダメだったなんて・・・。でも、やっぱり私の中ではカッコいいですよ。
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