山川健次郎伝―白虎隊士から帝大総長へ

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八重の桜では、勝地涼さんです。

kennjirou

子供の頃は青びょうたんの頭のとってもいい白虎隊士でした。

兄はもちろん山川大蔵(後に浩)、妹は後に鹿鳴館の華と云われた山川捨松です。

このお兄ちゃんの大蔵は、陸軍軍人の政治家・男爵となり貴族院議員となり、妹の捨松さんは、女性日本人初の留学をします。ちなみに夫は官軍の大山巌です。猛反対を押し切っての結婚でした。

なかなか賊軍の中にあって、とっても出世している山川家ですが。。。この健次郎は・・・



会津戦争で負けてしまった会津・・・。
鶴ヶ城開城後、猪苗代に謹慎していた健次郎に対し、とっても賢いので勿体ない・・・と、重臣が相談した結果、越後へ脱走の藩命がでます。

長州藩士・奥平謙輔と会津藩士・秋月悌次郎との密約によって、会津の将来を託する人材として健次郎に白羽の矢が当ったのでした。
明治2年5月に東京の長州藩の屋敷に入り奥平の書生になります。

明治4年、北海道開拓使で技術者養成のため、何人かの書生をアメリカに留学させることになり、その一員に選ばれた健次郎。
よく明治4年、黒田清隆に引率されて健次郎はアメリカに向ったのでした。

そして難関のエール大学に合格。
健次郎はアメリカとの国力の差は日本人の理学の軽視であると感じ、自らの専攻を物理とします。
滞米4年、エール大学で物理学の学位を取得し帰国した健次郎は、東京大学の前身である東京開成学校の教授補として就職します。

明治12年には 日本人として最初の物理学教授となりました。
明治19年、帝国大学令が発布され、東京大学は東京帝国大学になります。
東京帝国大学は文科大学、理科大学、医科大学、工科大学、法科大学の5つの単科大学で構成され、明治26年に40歳で理科大学長に・・・
そして明治34年(1901)、健次郎48歳で東京帝国大学総長に選ばれたのでした。
朝敵の汚名を着せられた会津藩からの最高学府の総長就任はまさに異例のことで、旧会津藩の関係者は涙を流したと言われています。

その後、51歳で貴族院議員、52歳で東京帝国大学総長を辞任するも、58歳で九州帝国大学初代総長、60歳で再び請われて東京帝国大学総長に復帰、61歳で京都帝国大学総長を兼任、62歳の大正4年(1915)遂に男爵となったのでした。

敵であった薩摩・長州、そしてアメリカの人々に支えられながら、その恩に報いようと頑張った健次郎さんです。

八重の桜では、洋服に帽子をかぶっての人物紹介になっているので、これからも出てくるのでしょうね。
とっても楽しみです。

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