幕末・・・悲劇の会津藩主・松平容保は、辞退に辞退をした京都守護職になってしまいます。
京都で尊王攘夷派と血みどろの抗争となってしまいます・・・。
容保は、鳥羽伏見の戦いで敗れ・・・徳川慶喜につき従って大坂を脱出、一路江戸へと向かうのです。

江戸では慶喜に再戦を説きますが・・・聞き入れてもらえず、会津に戻って恭順謹慎の日々を送ることとなりました。

しかし・・・官軍は振りかざした拳を振り降ろしたいために・・・会津に憎しみをぶつけます。
奥羽鎮撫総督府を編成し、朝敵となった会津討伐に向かうのでした。

この時の会津戦争で、会津方の戦死者3千人・・・そこには、女子供の戦い・・・白虎隊などの自刃もありました。
会津藩のたどった悲惨な運命は筆舌に尽くしがたく・・・
生き残った藩士とその家族、一部の領民たち1万4千人は青森県下北半島にある斗南に強制移住させられます。
斗南は、1年の半分以上が雪に覆われた・・・僻地でした。
その不毛の土地を開拓することとなった会津人たち・・・。

貧しさ、寒さ・・・地獄のような日々に耐える生活が続きます。
しかし、生活は一向に好転せず・・・人々は、海藻や雑穀で飢えをしのいだのでした。
明治4年に廃藩置県をむかえますが、貧しい生活は一向に変わらず。。。多くは東京へと移住していきます。
最終的には、3千人ほどが残り、西洋式牧場経営などに従事するようになりました。

容保は・・・
鶴ヶ城が落城した時、34歳だった容保。
元々容保は、美濃高須藩松平家3万石の6男として生まれます。
会津八代藩主・容敬に男子がなく、12歳の時に養子に入りました。
3万石から23万石へ逆玉に乗った容保は、部屋住みの羨望の眼差しでした。

身体があまり強くなかったけれども男らしく芯の強かった容保は、幕府に気に入られて・・・
貧乏くじの京都守護職を任されてしまいました。
この時、容保27歳。
律儀に職務を遂行し・・・これが仇となって・・・鳥羽伏見の戦いへと突き進んでいってしまうのです。

鶴ヶ城が落城し・・・新政府軍に降伏し・・・しかし、藩士の嘆願もあり罪一等を減ぜられ永禁錮処分となります。
容保は、因幡藩に蟄居の身となります。

容保の代わりに萱野権兵衛が責任を取って切腹したわけですが、あまりにも会津をやっつけすぎて後ろめたかった新政府軍は、容保の子・容大に家督相続を許し、会津松平家は存続することになります。
ちなみにこの容大、東京へと移り、学習院⇒近衛奇兵隊に入り、後に子爵となりました。

明治4年3月、容保は自宅謹慎となります。
そしてようやく5年正月に赦免、9年には従五位に叙されて名誉を回復、どんどん・・・正三位にまで登ります。
13年には上野と日光東照宮、二荒神社の宮司となり、最晩年までその職にありました。

名誉を回復したとはいえ、しかし、「朝敵」の汚名はなかなか消えるものではなく・・・

元々容保は、孝明天皇に最も気に入られていた大名でした。
二度も内密の宸翰を贈られています。
しかもそのひとつは、容保の忠義を称える分となっています。

しかし、この事を容保自身が口にすることは一切なく・・・
書簡が入った箱をいつも首から下げて・・・他人には触らせませんでした。
無数の家臣や領民に辛い犠牲をさせてしまったことを生涯悔いていていたのです。

明治26年、容保が鶴ヶ城において59歳で亡くなるまで初めて書簡の存在が明らかとなったのでした。

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