1882年(明治15年)。
伊藤博文と対立して政府を追われた大隈重信は、・・・早稲田大学の前身となる東京専門学校を開校しました。

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その頃・・・襄もまた、大学設立に向け準備を始めていました。
会津へ行った後、襄は体調を崩し。。。
しかし、心配する八重をよそに襄は精力的に働いていました。

デービス先生がアメリカから帰ってきました。
途中・・・船の中でに会津の女性に会ったという。。。
名前は・・・山川捨松。

文部省で・・・
帰国した山川捨松は同じく帰国子女の津田梅子と共に、女子大学の設立を求めて政府に掛け合っていました。
でも・・・日本語もあまり話せない。。。なかなか相手にされません。

この捨松の留学は、10年前に北海道開拓使が勝手に募ったもので。。。
当時としては、大事な娘を留学さ汗対なんて思うものなどおらず。。。
逆賊の東北諸藩や幕臣の子弟にお鉢が回っただけだという。。。
女は嫁に行って、男子を生むことが、国家への最上のご奉公であると、却下されます。

ま、健次郎でさえ留学できたのは同じような理由だと言えますから、
当時は男尊女卑の時代・・・
女性に学は要らない。。。嫁に行って男子を生むこと。。。
今でもそんな風に言う人いますからねえ。。。

なかなか仕事が見つからない捨松。。。嘆くものの。。。
健次郎の勤めている東京大学でさえ女性教員はいないという。。。
おまけに、山川家の人々は書生たちの面倒を見、会津にも送金していました。
形見の狭い捨松。。。

女が身をたてるのは難しい。。。
自分のアメリカでの10年は無駄だったの???


陸軍大阪鎮台となっていた山川浩は、山本家を訪問していました。
・・・会えなかった15年という長い年月。。。

「覚馬さん・・・
 俺も戦で敗れて・・・あわせる顔がなかったんです。
 そんじも・・・こうしてまた無事に会えた。。。」

浩と覚馬にはお互いに負い目がありました。

浩は・・・捨松の就職を頼みに襄に会いにきたのです。
二つ返事で捨松のことを受け入れる襄。。。

突然、浩は東京に呼び戻されました。
陸軍省人事局への栄転です。
日陰の身である会津モンに・・・なぜ、栄転??

突然山川家を訪れたのは、陸軍中将・大山巌。

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理由は・・・
”山川殿の妹御・捨松さんを・・・おいの嫁に戴きたく・・・”
とやってきたのです。

「此度の栄転は・・・妹を釣るためのエサ???
 言い訳は要らん・・・
 妹を人質に出すぐらいなら、陸軍など辞職いたしやす!!」

怒って席を立った浩。
なぜ、捨松なのです?と健次郎。

「不平等条約の改正は、日本政府の悲願。
 そいには日本が文明国じゃち列強に認めさす必要がある。
 捨松さは、西洋ん流儀を身に着けられ、才媛としてアメリカでも名高い。
 ゆえに我妻に最適・・・」

「妹を道具のように言うな!!」by浩。

それを聞いて捨松は・・・

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「日本の為に働けるなら、大山のアクセサリーになります。よろこんで。」

やけになる捨松。。。
一度会って、自分の目で見極めろ。。。と、健次郎が諭しました。

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パーティーで会った大山は。。。
何度かパーティーで捨松の事を見かけ・・・一目ぼれしていたという。。。
「おはんは外国人などではありもはん。
 誇り高か会津んおなごでごわす。
 おいが薩摩ん人間じゃっとが気に障っとでごわんそ。
 じゃっどん・・・
 海外に出れば同じ日本人です。」

実際、とっても紳士的だったと言います。
なんだか良い人。。。

会ってきたことに反対する山川家の人たち。。。
代々会津家老の家柄の娘が・・・会津には嫁げない。。。
会津の汚名を雪ぎ、国の礎となるための留学だったのに。。。
と、母に責められるのでした。

助けることの出来なかった尚之助の「会津戦記」を読んで忍びなく兄の背中を見て・・・
未だ残る・・・癒すことのできない心の傷を知るのでした。
やはり・・・この結婚は無理だと悟る捨松でした。

大学設立の為に東京にやって来た襄。ついてきた八重の本当の仕事は・・・
山川家に乗り込むことでした。
宿に訪ねてきたお客様は・・・捨松。。。
このまま京都に連れて行ってくれと頼みます。

「薩摩との縁談など、会津の者には迷惑です。
 兄は断っています。
 それでも大山さまは毎日うちに来ます。」

山川家に乗り込んだ八重。。。
そこには大山がいました。
大山は言う。。。
「捨松さあとの結婚・・・薩摩と会津が恨みを乗り越えたと・・・民に示すためにも意味のあること。。。
 お許し願いたか。。。
 海の外に出たら、同じ日本人でごわそ。。。」
「ここは日本です。」
「そげなせまか見識じゃ・・・日本は立ち行かん。。。」
「狭い??
 日本の政治は、薩長の狭い見識で決められてるではねえですか・・・」
バチバチな大山VS山川。

ごちゃごちゃいう男たちに・・・腕相撲で決めようという八重。
なんと、大山VS八重になっちゃいました。

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いや~八重に託されちゃいました。
この感じじゃ、八重は本気だったように思えるんだけども、もっと女性らしく、捨松の気持ちも想っての腕相撲にしてほしかったなあ。。。って思います。

「大山様」by捨松

「よい勝負でした。
 かつて・・・命がけで銃を撃ちあった手で・・・
 腕相撲ができた。
 15年・・・
 誰にも等しく時は流れたんです。
 この手は形を変えると・・・」
なんて優しい襄。
 
「戦は終わったの・・・山川・・・」

「この屋根の下では、兄上と呼んでもらおうか。。。」

う~ん、良い男ばっかりです。
これをみる限り、八重が一番ガサツです

1883年8月伊藤博文が帰国しました。
強力な官僚組織を作ろうとしていました。

東京大学を有能な官僚の育成機関とするように命じられる健次郎。。。

「学問は、国家によって左右されるものであっては断じてなりません。
 大学は、政治から独立した教育と研究の場です。」

「会津モンか・・・」

ここでも未だ偏見が残っていました。

12月には・・・鹿鳴館で大山巌と捨松の結婚披露宴が行われたのでした。

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「兄上・・・山川家の出世頭は、捨松かも知れませんね。。。」
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「時が乗り越えさせてくれるものもある。。。
 だけんじょ、俺が忘れぬうちは相手も同じ。。。
 逆賊と呼ばれ続けんだろう。。。
 それでも100年後、会津が日本の誉んなる日がくっかも知んねえ。。。
 それは、若いもん次第だ。。。」

一方、官僚が帝国大学に集まる中・・・私立大学生は徴兵に行かなければならなくなります。
そう、同志社は今後、徴兵による生徒不足に頭を悩ませることになるのでした。
 
山川捨松さんは、本当にカッコいい女性だったようです。
八重と比較しちゃいますが、親子ほども歳の離れた大山家に・・・もう世話をする必要はないとはいえ、前妻の子3人の親となり、世界で活躍します。

そう思うと、「八重の桜」は八重桜をもじったものなんでしょうが・・・
いつも思うのは、福島=大河ドラマ=捨松でも良かったんじゃないの?って思っていました。
捨松だったら題は何になったんだろう???松・・・う~ん、松。

良妻賢母・おまけに当時の働く女性のNo,1だったんじゃないかしら?

山川捨松さんです。はこちら

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