リボルテックヤマグチ No.079 戦国BASARA 伊達政宗

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ピンチをチャンスに変え、人生を謳歌した男・・・伊達政宗です。

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野望を胸に、武将たちがしのぎを削った戦国時代・・・
漆黒の鎧に身を包み、東北の覇者となった独眼竜・・・伊達政宗。
乱世の終わりに天下を夢見た最後の戦国武将です。

「人生楽しまずしてなんという。。。」

その心の強さはどこから来たのでしょうか???

当時の武将は派手な甲冑をのぞむ中・・・
シンプルな黒漆五枚胴具足を使っていました。

19歳・・・戦場からの手紙。
伊達政宗は、1567年出羽国・米沢に生まれます。
跡取りとなる男子は宝。。。
梵天丸と呼ばれ、大事に・・・大きな期待を背負って育ちました。
しかし・・・5歳の時疱瘡に・・・当時、死の病と言われた天然痘でした。
命は取り留めたものの・・・右目は光を失ってしまいました。

”伊達家の跡取りには相応しくない”

運に恵まれた健康な跡取りを・・・
そして母までも疎んじるようになります。

しかし、父・輝宗は、政宗に武道や兵法、学問などを熱心に教えました。
11歳で元服の時には・・・伊達藤次郎政宗と名付けました。
政宗は、室町時代9代当主・・・中興の祖の名前でした。
18歳の時に父から家督を譲られ伊達家17代当主となります。

そして期待を込めて父から手紙が・・・!!

「若いときは暴言や失言をし、戦い方も誤りがちである。
 しかし、世間の声は気にするな。
 わしとおまえは共にある。
 決して臆せず覚悟を決めて進め
 そうすれば、異を唱える者はいなくなる。」

と。。。

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1585年政宗19歳・・・当主となって初の戦いが!!
伊達VS大内の戦いです。
女子供・・・犬までも斬り殺す。。。
関東を手に入れると豪語しています。
この手紙で・・・政宗の強さ、恐さが噂となって広まります。
周りに対して脅しをかけたのです。
派手なパフォーマンスでした。

周囲の見る目が変わり始めます。
隣国城主・畠山義継は、領地の半分を差し出すことで恭順を示します。
しかし、政宗はこれを認めず、領地はすべて没収、子供を人質として差し出すように命じます。
容赦のない政宗。。。これに対し畠山は???
父・輝宗を人質に拉致し逃走。

国境での争いとなり・・・
政宗は、父を巻き添えにして殺してしまったのでした。
父・輝宗・・・討死・・・享年42歳でした。

強引に相手を追い詰めた結果でした。
励ましてくれた父を巻き添えにしてしまった政宗。。。
これ以降、戦い方がガラッと変わり、諜略を使うようになり・・・東国の覇者へと上り詰めるのでした。


鳥をかたどったサイン

1589年・・・政宗は既に東国の覇者となっていました。
23歳で東北の半分近くを!!
そして・・・関東・・・天下へ!!

しかし、大きな壁が立ちはだかります。
それは、関白・秀吉。
その頃秀吉は、西日本を手に入れて・・・北条と伊達・・・天下統一に王手をかけていました。
1589年秀吉は、関東を支配する北条氏に宣戦布告!!
政宗にも揺さぶりをかけてきます。
秀吉に従って、北条攻めに参加せよとの脅しの手紙が届きます。
・・・出陣しない政宗。。。
豊臣政権には組み込まれない自信がありました。

1590年4月秀吉軍、20万の大軍で小田原城を包囲。
天下人の桁外れの実力を、全国の大名たちに知らしめるためでした。

秀吉の力を見くびっていた政宗・・・
小田原に兵を進める決心をします。
しかし、参陣の手紙から、すでに4か月もたっていました。
政宗軍が小田原に到着したのは、小田原城攻めが終わる1か月前のことでした。

この遅刻に秀吉は大激怒!!

この危機に政宗は・・・
秀吉との初対面に際して、白装束で参上します。
この芝居がかったパフォーマンスに秀吉は・・・許すのでした。
政宗が当主となってからの領地のほとんどが秀吉に召し上げられてしまいました。

しかし、野望を失ったわけではありませんでした。
伊達領の隣国で地侍達が反乱を起こしました。
これは・・・秀吉が裏からけしかけたものでしたが、秀吉にばれてしまいます。
密書が秀吉の手に渡ってしまったのです。
その手紙には、政宗の花押が。。。

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しかし、反乱の手紙には花押であるセキレイの目がありませんでした。
よって花押は偽物であると主張したのでした。

命の瀬戸際を楽しんでいくかのような政宗。。。

1598年・・・豊臣秀吉がなくなります。
この機を逃さなかったのが、徳川家康でした。
関ヶ原の戦いで、石田三成と天下分け目の戦いをします。
結果は、東軍が圧勝し、家康は天下人の道へとすすんでいきます。
江戸幕府を開き将軍へ!!!

この勝利には、東北で伊達家が貢献していました。
三成側の有力大名・上杉家を東北に釘づけしていたのです。
褒美は、上杉の領地を含む50万石。
自分の領地と合わせると、大大名の100万石となれるのです。
徳川政権での地位は、確実!!な筈でした。
しかし、家康は約束を守らず、2万石しか与えませんでした。

そして・・・家康によって追い詰められていきます。
天下普請によって、伊達家の国力と資金が失われていきます。
おまけに敵対する上杉を隣に配置、政宗を牽制する扱いは、まさに仮想敵。。。

しかも家康は、倹約家!!
徳川の世が着々と出来上がっていきます。
政宗は、平和路線で安心させるように持って行きます。
江戸の屋敷に招待してお茶や囲碁でおもてなし。
贈り物攻撃も欠かしません。

鮭・狩りの獲物・オットセイのたたき・・・

仙台に京都の女歌舞伎を招いて遊興に励みます。
徳川の警戒心を解くために。。。
その結果、政宗を信頼し始めました。

徳川家康、危篤!!!
伊達政宗謀反の噂が・・・!!!

政宗は駿府へ!!
戦ではなく、見舞いのためでした。
枕元へ来た政宗に・・・
「息子 秀忠をよろしく頼む。。。」
と願った家康。
この時、政宗は50歳でした。

天下への野望を諦めた時「苦しみ」から解放され「楽しみ」を知った政宗でした。

宮城県仙台は東北最大の都市です。
この基礎を築いたのは政宗です。
それは新しい平和の街づくりでした。

高台に築かれた仙台城。。。
しかし、敵意がないということを示すために天守はありません。
 
食にも力を入れて・・・仙台味噌ができます。
献立も自分で作り、料理もします。

「料理の心得がないものは、心が貧しいものである。
 一品でも自ら盛るなら、それが最高の馳走である。」

47歳の時、スペインとローマに使節を送ったりもしています。
国内の文化にも力を入れます。
和歌や漢詩もたしなみ、書も一流。
能楽・茶の湯・香道・鷹狩り・酒・・・まさに悠々自適の生活を送りました。

余生を楽しんだ政宗は、1636年亡くなります。
享年70歳でした。
精一杯生きているからこその”楽しい人生”でした。


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