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2000年内戦下のスーダンで・・・
墜落したヘリコプターから奇跡的に救い出されたドイツ人女性・・・
その人は、98歳のレ二・リーフェンシュタールでした。
今から80年前に、歴史を動かす1本の映画を撮りました。
ヒトラーのもと・・・「意思の勝利」・・・ヒトラーのプロパガンダ映画です。
1902年8月22日、ドイツ・ベルリンにあるヴェディング地区で生まれました。
実業家の父と、母のもと裕福な生活でした。
変化に富んだ人生を送り、”20世紀を4度生きた女”と言われました。
レ二が監督したスポーツ映画の傑作「オリンピア(1938年)」。
スローモーション撮影・水中撮影・・・それまでの常識を覆したベルリンオリンピックの記録映画です。
高く評価され、スポーツドキュメントの金字塔と言われています。
どうしてこのような興奮するような作品をつくれたのでしょうか?
ビジネスの才能のあったレ二に、父は・・・
「お前が男の子だったらいいのに・・・」
と、言っていました。
父は、娘の才能を高く評価して、ビジネスをさせようと思っていました。
が・・・16歳の時、足を運んだダンススクールの同世代の女の子達をみて・・・
新舞踊をしたくなりました。
クラシックバレエとは違い、1920年に誕生した自由な表現をする前衛的なダンスです。
アドリブもあり、個性が如何なく発揮できるものでした。
プロのダンサーになりたい!!
父には内緒でスクールに通います。
好奇心旺盛な少女・・・レ二・・・。
舞台で踊ったことが父の耳に入ると、父は激怒!!
ダンスを習うなど言語道断!!
家出までしたレニ。
歩み寄ったのは父の方。。。
最上の舞踊学校に入り、様々なダンススタイルを学び、血のにじむような練習をします。
そして、21歳の時、最初についた職業はダンサーでした。
完璧で力強い優美さ、比類ない美しさ・・・批評家たちも絶賛します。
人生最初の成功を勝ち取ったのでした。
プロのダンサーとして大成功を修めたレ二・・・しかし、ひざを痛めてステージに上がれなくなってしまいます。
しかし・・・映画女優としてデビュー、30歳で映画監督となりました。
処女作の「青の光」は、国外でも評価され、監督として華々しい一歩を踏み出したのです。
当時のドイツは、第1次世界大戦の敗戦で、莫大な賠償金を背負わされ、財政破たんに陥っていました。
町には失業者が溢れていたのです。
その時、レ二が聞いた演説は・・・アドルフ・ヒトラーだったのです。
ヒトラーに感銘を受けて手紙を出して・・・ヒトラーもレ二の映画を見ていて・・・
ヒトラーはレ二の監督としての実力を高く評価してくれました。
ナチ党大会の映画監督になるように頼まれます。
「芸術家に撮ってもらいたい!!」
ナチ党には、宣伝省映画部があり、トップの宣伝大臣はゲッペルスでした。
しかし、その宣伝省を差し置いて映画をつくる・・・。
レ二は独自の手法を実現させていきます。
通常の演説撮影ではヒトラーから離れたところにカメラを置くのですが、これでは面白い映像は望めません。。。
なので、周囲にレールを敷いて至近距離から移動して撮影し、ヒトラーの威厳と存在感を演出します。
また、鍵十字の旗のポールにエレベーターをつけて、上から撮影します。
妥協を許さない撮影・・・編集・・・。
そんなある日、国防軍の幹部が!!
試写するためです。
しかし、その出来に激怒!!国防軍の扱いが!!!
というのも、悪天候でフィルムの写りが悪く、国防軍のシーンを一切使わなかったのです。
数日後・・・ナチ党総本部でヒトラーから・・・ある提案が出ました。
「国防軍の将軍や党の幹部たちをスタジオに集めて撮影し、それを映画のプロローグにしよう。
これで気分を害するものはいなくなる。」
自分のイメージとは全く違う!!
「そんなことできません!!」
ヒトラー相手に映画監督としての意思を貫きます。
刃向うものは粛清・・・
「この提案が気に入らないのならもう、勝手にしたまえ。。。」byヒトラー。
そしてできたのが「意思の勝利」でした。
この映画でレ二は、ヒトラーを身近なものにしようとしました。
そして最高権力者をビジュアル的に最大級に表現したものだったのです。
親近感、尊敬、憧れを表現しています。
ナチ党のプロパガンダとして効果をあげ、ドイツ国民映画賞を受賞します。
そして国境を越え、ベネチア映画祭で最高賞を受賞するのです。
1937年パリ万国博覧会グランプリ獲得!!
レ二は映画監督としての栄光を極めたのでした。
ヒトラー政権は当時盤石ではなく・・・
ヒトラーの肯定・・・優れたところを目に見える形でアピールしたのです。
映画監督として頂点に上り詰めたレ二・・・
1939年第二次世界大戦・・ユダヤ人迫害・・・大量虐殺・・・
戦いが進むにつれて劣勢になるドイツ。
奈落の底に落ちていく予感をしていたレ二。。。
ドイツの敗戦によってそれは現実となっていきます。
ニュルンベルク軍事裁判が始まりました。
18歳以上のドイツ国民にナチ党の選別が実施されます。
そしてレ二も・・・人生最大の危機が襲ったのです。
連合軍の追及は、執拗なまでに厳しく。。。
それは”ナチの精神の根絶”を目指したもので、レ二は要注意人物の筆頭だったのです。
否定するレ二・・・
しかし、ナチ党員の確認もないまま投獄、財産も凍結、映画のフィルムや自宅を差し押さえ。。。
自宅軟禁にも。。。
”非ナチ化裁判”・・・ドイツ人判事が被疑者とナチ政権の関係を裁くもの。。。が始まりました。
非ナチ化裁判では、ナチとのかかわりを5段階に分け・・・
①主要犯罪者
②活動家
③経度犯罪者
④同調者
⑤無罪
としていました。
段階に応じて厳しい刑罰が科せられました。
レ二が法廷に立つ日がやって来ました。。。
ナチとの関係を否定し、無実を訴えます。
レ二の刑は・・・”同調者”。
活動には協力したが、政治的責任はない!!というものでした。
ところが・・・最大の苦難が・・・
世界中からバッシングが起こりました。
国内外メディアからの猛烈なネガティブキャンペーンが起こったのです。
”指導者の花嫁””悪魔の監督””裸のレ二がヒトラーの前で踊った”・・・・
世間はレ二を”ナチの淫売”と貶めます。
根も葉もない噂でした。。。
レ二は第二次世界大戦中も映画を撮っていました。
撮影で、強制収容所に拘束されていたロマの人々をエキストラで使っていました。
そのことも非難の対象となったのです。
”収容所での大量虐殺を知っていた”という記事まで・・・。
そんな誹謗中傷に対して、レ二は名誉棄損で訴え、裁判で勝利しました。
しかし・・・その姿がさらに避難を呼び・・・死ぬまで続いたバッシングでした。。。
レ二は当時目立っていたドイツ女性・・・その女性に対して、手をゆるめることはなかったのです。
そして・・・50年以上バッシングを受けることで罪を受けることになるのでした。
そんな中でも映画を撮り続けます。
晋作の題材を求めて世界中を旅し、映画を企画します。
「赤い悪魔」「黒い積み荷」・・・これらはレ二が関わっているということでスポンサーや配給会社が撤退し、実現しなかったのです。
それでも前を向き続けるレ二。。。
「厳しい運命、死に瀕するようなこと
それでも生き延びた時、人は強くなる。」byレ二
50台半ばでアフリカを訪問、魅力に取りつかれていきます。
スーダンのヌマ族。。。
彼らに芸術性を見出します。
レ二は彼らの姿をカメラに収め続け・・・写真集を出版しました。
新しい人たちに芸術作品として評価されます。
最高傑作と言われるまでに復活し、世界に注目されていきます。
自伝「回想」を執筆。
ドキュメンタリー映画の製作。
この時98歳となっていました。
内戦のスーダンで、ヘリコプターが標的になってしまいました。
大破した機体の中から、奇跡的に生きていたレ二。。。
そして2002年・・・
100歳にして半世紀ぶりの新作映画「ワンダー・アンダー・ウォーター」を公開。
自分が潜った海の世界に魅了され、生き生きとした海の生命たちを取り続けた結果の作品でした。
映画を撮りたい!!長年の夢が叶ったのです。
よく2003年9月8日レ二・リーフェンシュタール死去。。。
享年101歳。
天国と地獄を見た人生に幕を閉じたのでした。
レニ・リーフェンシュタールはこちら。
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