九州肥前に栄えた長崎県島原の城下町です。
雲仙普賢岳・有明海・・・雄大な自然にあふれた島原市・町の中心には白亜の城・島原城があります。

島原城を治めていたのは島原藩初代藩主・松倉重政です。
重政は、もともと大和国を治めていた筒井順慶の家臣で外様大名でした。
関ケ原や大坂の陣で武功を上げ肥前島原の大名として出世しました。
築城の名手と言われた重政は、見事な高石垣と美しい天守をもつ連格式の平城を造りました。
巨大な五十の天守閣は、大坂城・熊本城にも引けを取らないと言われています。

しかし・・・4万石・・・。
4万石なのにどうしてこんな大きい城が・・・???

1637年日本史上最大の一揆が勃発します。
島原の乱です。
わずか16歳の天草四郎を総大将に3万を超える一揆勢が蜂起、11万を超す幕府軍と激戦を繰り広げたと言われています。
これは地盤を固めようとしていた徳川幕府を震撼させるものでした。
この城は・・・4万石には過ぎたる城・・・。
この城を建てるために、莫大な築城費がかかり、幕府の財政は破綻・・・。
そこで重政は、民に重税をかし・・・おまけに飢饉で困窮していた農民たちに重くのしかかります。
さらに追い詰めたのがキリシタン弾圧。。。

島原は戦国時代、キリシタン大名の有馬晴信が統治していたということもあり、たくさんのキリシタンが暮らす地でした。
しかし、キリシタン禁制の制度が出来・・・
松倉氏による弾圧が始まったのです。
その弾圧は凄惨を極め・・・
磔、火あぶり・・・
重税に宗教弾圧・・・。
この苦難が重なって・・・島原の乱の要因になったとも言われています。

最後の激戦地となったのが南島原市の原城。
ほとんどの住民・・・3万7000人の一揆勢ほぼ全員が、この地で命を落としたと言われています。
原城本丸付近から、人骨と十字架が多数出土。。。
今も献花が絶えません。

島原の乱で命を落とした人々は、昔からこの地に住んでいた普通の農民でした。
ほとんどの住民がいなくなり、南を中心に無人になったと言われています。
今の町は、キリシタンを封印し、作り直された町です。
キリシタンの繁栄と弾圧がつまった町なのです。

1792年島原大変によって、普賢岳の地震によっていたるところで水が湧き始め・・・水の都・鯉の泳ぐ町となりました。
湧水スポットがたくさんあります。

400m続く武家屋敷通りには・・・
江戸時代島原藩の下級武士が暮らしていました。
通りの中央を流れるのは湧水で・・・水奉行がおかれるほど大切にされていました。
今もそのままの姿を残しています。

屋敷の塀の上には石が乗せられていて・・・
これは、敵が攻めてきた時に石つぶてとして利用する為とも言われています。
島原の乱後も警戒心が強かったようです。
その風習が現在も残っているのです。

この地方では1年中しめ縄を飾ります。
これを飾ることで、
”うちはキリシタンではない!!”ということを主張しているのです。
同じようなことに、仏間をあえて玄関の近くに置き、通りから仏間を見えるようにしている家もあります。
そんな文化が城下町に受け継がれているのです。

六文銭と言えば・・・真田幸村をはじめとする真田一族ですが・・・
真田家の拠点は、信州・上田が有名ですが・・・
崇台寺では、島原の乱で亡くなった人すべてを弔うために・・・乱の翌年に建立されました。
どうして六文銭と関係があるのでしょう?
乱ののちの・・・徳川譜代の三代藩主・高力忠房の正室・まのの方が、真田信之の娘だったのです。
真田了憶商人が来て・・・その縁で出来たお寺が崇台寺なのです。
しかし・・・その了憶上人真田説は・・・謎ですが・・・住職さんは、幸村の弟・真田信勝だと思っているそうです。

大坂の陣で幸村は死ななかった???
秀頼を背負って九州へ落ち延びた???
そうしたら島原へ・・・???

徳川幕府を震撼させた島原の乱。。。
乱の人々を弔う・・・しかし、この六文銭には、真田を弔う意味もあるのかも知れません。

壮絶な歴史の中で、独自の文化をはぐくんできた島原・・・
世紀の動乱に天変地異・・・
何度でも立ち上がる姿がそこにはありました。