足利尊氏と直義 [ 峰岸純夫 ]

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かつて・・・天皇が二人いる前代未聞の時代がありました。
南北朝時代です。
京都の北朝と、吉野の南朝・・・二つの朝廷の存在する時代が60年も続きました。
動乱の引き金を引いたのは、室町幕府初代将軍・足利尊氏です。
南朝と北朝の原因は、尊氏の三度の裏切りにありました。
最初の裏切りは、武家政権の鎌倉幕府。
尊氏の裏切りで幕府は滅亡。。。
二度目の裏切りの相手は、尊氏に裏切りを耳打ちした後醍醐天皇、最後は最愛の弟に対する裏切りでした。

戦前の人には、天皇に弓を引く”逆賊”として有名な尊氏。。。
戦前はタブーな人でした。

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足利尊氏と言えばこの肖像画で有名です。
猛々しい姿に逆臣、朝敵として記録されてきました。






ホントはこちら・・・

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勇猛な武将というよりも高貴な感じ。。。
清和源氏の直系なのです。
鎌倉幕府の筆頭御家人でした。
そんな尊氏がどうして???



鎌倉幕府は、頼朝が開いて以来、承久の乱・蒙古襲来・・・負けたことがありません。
東国政権だった鎌倉幕府は、六波羅探題、鎮西探題を置いて支配を広めていきました。
そんな最強の鎌倉幕府に反旗を翻したのが、後醍醐天皇です。

鎌倉時代後期、北条氏は富と権力を独占し、時の第14代執権・北条高時は栄華を極めて政務を顧みませんでした。
「野蛮な東国武士は勅書には応じないだろうから武力で征伐しようと思う」
1331年後醍醐天皇挙兵!!
しかし、朝廷軍3000VS幕府軍7万5000。。。圧倒的な幕府軍に完敗。
1332年には後醍醐天皇は隠岐に配流となり一件落着の筈でしたが・・・
ところが、護良親王が引き継いで挙兵!!
武士達に令旨をばらまきます。

おまけに後醍醐天皇は隠岐を脱出し、船上山に立て籠もります。
幕府は再び討伐軍を作り、その大将を任されたのが足利尊氏でした。

太平記には・・・

「父の喪中で悲しみも癒えず、その上私は病に冒されている。
 高時の出兵命令は実に恨めしい。」

天皇の討伐よりも父の喪中。。。
その上、
「自分は清和源氏の一族。。。血統の後期は我々の方が上なのだ。」

家格が低い北条氏に恨めしさが。。。
尊氏は、心の内を人には見せませんでした。

裏切りの決定打は”楠木正成”だったという説も。。。
尊氏が出兵する1か月も前から楠木軍は千早城に入城。
1333年2月~5月・千早城の戦い。。。
数万の幕府軍にわずか1000の兵で立ち向かいました。
奇想天外な戦術で・・・千早城を落とせない幕府軍は厭戦気分になり。。。
それが尊氏の背中を押したと言われているのです。
尊氏が西へ向かう間に、千早城から離脱してきた兵士たちに遭って。。。
幕府に対する不満、西での出来事を聞きながら、時代の流れが変わるのを肌で感じていたのかも知れません。

「後醍醐天皇が世の中を救うために綸旨を発せられたので、勅命に従い正義の兵を挙げる」

幕府を裏切り後醍醐天皇を選んだのでした。
1333年5月7日、尊氏は六波羅探題を攻略。
それをきっかけに、全国の武士が討幕に鞍替えしたのでした。
北条一族は鎌倉の山奥で集団自決し、150年続いた鎌倉幕府は尊氏が裏切りを決意してからわずか2週間で滅亡したのでした。

どうして挙兵したのか?
そこには血筋の問題がありました。
当時の天皇家は、持明院統と大覚寺統の二つに分かれており、交代に順番で即位し・・・両統迭立だったのです。
後醍醐天皇は、本当は天皇になる立場ではなかったのですが若くして兄が死に、天皇が回ってきたのです。
一代限りの天皇でした。
兄の血筋も持明院統も倒さなければ、自分の血筋には天皇の座が行くことはない。。。
両統迭立という仕組みを作った鎌倉幕府自体を倒さなければ!!
という発想の飛躍があったのです。
そして、後醍醐天皇の側近たちも、次男など・・・位につくことが出来ない寂しい人生を送るための人たちだったのです。
後醍醐と同じような不満を持っていた人たちだったのです。
過激になり討幕へと向かい・・・みんなで煽っていくのでした。
最強だった鎌倉幕府が崩壊した直接の原因は蒙古襲来・・・3度目がある・・・
非御家人を動員してまでも国を守ろうとした結果が、旧来からの御家人たちに不満を持たせ・・・御家人、非御家人たちからもそっぽを向かれたのでした。
当時は得宗専制体制で、北条一門が所領をたくさん持っていて・・・つまり、北条一門を倒せば莫大な所領が手に入る!!
足利尊氏も次男坊でした。長男が死ななければ、文学青年として一生を終えていたのかもしれない尊氏。。。
そんな英雄的でない尊氏が立ち上がるのです。

鎌倉幕府を倒し、新政権を樹立した後醍醐天皇・・・。
それに最も貢献した足利尊氏。。。しかし、2年後に後醍醐天皇に刃を向けることになります。
朝廷を再興したい後醍醐天皇。。。
1334年建武の新政が始まりました。
とにかく天皇の独裁政権でした。
例えば六月令・・・

”今後の土地所有権の変更は、一々後醍醐自身の裁断を経なければならない”

その結果、討幕に参加した武士達が恩賞欲しさに天皇の元へ殺到します。
対応しきれない後醍醐天皇は・・・
七月令・・・

”一々来られては、政務が煩雑になるので、現在持っている土地をそのまま治めるように”

としました。
武士達の恩賞への期待は失望えと変わっていったのです。
新政権始まってすぐの初歩的なミスでした。

そんな尊氏の立場は・・・???
武士達と天皇の間にはいり、仲介者として関東八国を治めていました。
後醍醐を支えていたのです。
しかし・・・
1335年7月北条時行挙兵!!
建武政権に不満を持つ御家人達を結集させ、一時鎌倉を制圧しました。
この時鎌倉を治めていたのは弟の足利直義でした。
命からがら鎌倉を脱出!!
尊氏は挙兵にあたり、征夷大将軍と恩賞を与える権利を認めてくれるように後醍醐天皇に進言します。
しかし、簡単には許可が下りなかったのです。

8月、尊氏は許可なく京を出発し、鎌倉へ・・・。
そして、制圧するとまだ天皇の宣旨が下されていないのに征夷将軍を自称し、手柄を挙げた武将たちに恩賞を与えたのです。
と・・・尊氏の現場判断は、弟・直義が下したものでした。
政権に見切りをつけ、新しい武家政権の構想を立てていたのです。
尊氏は、天皇に弁明しようとしますが既に信頼は失墜し。。。
天皇は新田義貞・北畠顕家の追討軍を出したのです。
天皇と弟の間で板挟みに・・・浄光明寺に引きこもってしまいました。

直義は駿河で尊氏追討軍と対決するもあえなく敗走、箱根まで帰ってきました。
そこで・・・あくまで弟の為に・・・闘う尊氏は、見事追討軍を破って京へ・・・!!
後醍醐天皇を比叡山に押し込めて1336年1月京都を制圧したのでした。

後醍醐天皇は、何をしたかったのでしょうか?
それは徳治主義。
徳のある人間が王座になる。。。というもので、
米価の調整、関所の撤廃、民の為になることをするという志は立派なのですが、それが理解されなかったのです。

幕府を裏切り天皇を裏切った尊氏・・・。
日本中を激しく動いた将軍でした。
京都と鎌倉、博多・・・その総距離は5000㎞以上!!
どうして尊氏はそこまで動き回らなければならなかったのでしょうか?

1336年1月27日、尊氏は北畠顕家軍に敗れ、京都を追われます。
尊氏絶体絶命の大ピンチ???
しかし、不思議なことが・・・。
「負けたはずの尊氏に、在京武士がついて行ってしまう。。。」
「朝敵を追悼する合戦の筈なのに、皆の士気が上がらないのはどうも変だ」
西日本敗走中に・・・元弘没収地返付令を出していた尊氏。
天皇によって没収された所領を返給するというものでした。

尊氏は武士の利益を守るための建武政権打倒を掲げていたのです。
敗戦の理由を朝敵になったことだと考え、新たな天皇を擁立することを考えます。
持明院統からの光明天皇。。。大義名分を得ようとしたのでした。
天皇同士の戦いに次々と集結し、都にあがる尊氏は、5月湊川の戦いで宿敵・楠木正成・新田義貞軍を破ります。
6月入京。。。京都奪還に成功しました。
そして8月15日功名天皇践祚。
名実ともに天下を取った尊氏。。。
早く遁世したいと言い出しました。仏門に入りたいと。。。
しかし、その願望は瞬く間に破られました。
12月後醍醐天皇は吉野に朝廷を開きました。
正当な皇位は自分にあると!!!
京に北朝、吉野に南朝。。。そして、後醍醐天皇は1339年8月16日亡くなりました。
尊氏は大きく落胆し、後醍醐天皇を弔うために天龍寺を造営。。。巨額な費用が使われたのでした。

尊氏最後の裏切りの相手は、最愛の弟・直義でした。
直義こそが室町幕府を治めていました。
長い間源頼朝と思われてきた肖像画が直義だという説があります。

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尊氏の絵(↑)と共に奉納されたとも言われています。
1336年11月建武式目制定。
幕府を鎌倉から京都に移して室町幕府が始まりました。
尊氏は政務の一切を弟・直義に任せ

「私は将軍という器ではないから、これからは軽々しく振る舞って武士たちの人気を得ていこうと思う。
 お前は重々しく振る舞って、無駄なことに時間を使わないでくれ」

と言っています。
真逆な性格で10年以上も幕府を支えてきた足利兄弟。

ところが・・・この肖像画の人物が・・・足利家の執事・高師直が原因で二人の仲が裂かれてしまうのです。
政権構想の違いで起こった観応の擾乱。
高師直を罷免した直義、将軍に直訴に行った高師直。。。あろうことか尊氏は直義を追放し、長男・義詮に政務を譲ろうとしました。
1351年12月、薩埵山の戦いで・・・
直接対決、尊氏3000、直義が50万で包囲しましたが、戦いは尊氏の勝利。
直義は鎌倉の寺に幽閉され・・・その後、謎の死を遂げるのでした。
太平記には・・・
”病死と公表されたが、本当は敵(尊氏)に毒を盛られて亡くなったと人々は噂している”

そして尊氏は些細な病気で54歳で亡くなります。
長らく逆賊とされてきた尊氏。

そんな尊氏の詠んだのがこの一句。

「よしあしと
  人をば言ひて
    誰もみな
 わが心をや 
   知らぬなるらむ」

足利尊氏は・・・イデオロギー的な歴史観におさまりきらない男。
人間としてのリアリティーのある誰の中にもある一面を持っていて、現代人に一番近い人なのかもしれません。
人間というのはいつの時代も不条理な存在で、その象徴が尊氏なのかもしれません。

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足利尊氏再発見 一族をめぐる肖像・仏像・古文書

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