天上の虹―持統天皇物語(第一期) 全6巻セット 講談社漫画文庫 [-] by

中古価格
¥3,398から
(2014/4/10 08:50時点)


今から1300年以上前、日本という国の在り方を定めた戦いがありました。
672年”壬申の乱”です。
天智天皇の後継争いとして天皇の長子・大友皇子と、天皇の弟・大海人皇子が国を二分して戦った古代最大の内乱です。
勝利した大海人皇子は天武天皇として即位、国の基本を作り上げていきます。
律令制や官僚制度、国史編纂、新都造営・・・天皇の称号を始めて用い、皇室ゆかりの儀式が整備されました。
天皇・国家を定めた・・・日本の国を作った戦いなのです。

しかし、乱の経緯については解らないことばかり・・・
戦いの発端は・・・??
皇位継承を辞退した大海人皇子はどうして蜂起したのか?
わずか30人余りで吉野を脱出した大海人皇子が、4日間で3万の軍勢に膨れ上がり圧勝できたのか??
そしてその時、天智天皇の娘であり大海人皇子の妻・鵜野姫皇女(持統天皇)は???

古代日本最大の内乱はどうして起こり、日本はどのように変わっていったのか?
日本の在り方とは???

壬申の乱は、戦前、教科書から削除されていました。
戦前は万世一系・・・壬申の乱は、都合が悪かったと思われます。

天智天皇の後継者争いから始まった壬申の乱・・・。
天智天皇の時代の政治は???
大化の改新を成功させた中大兄皇子・・・天智天皇は、663年白村江の戦いに直面します。
当時日本は倭国・・・百済復興のために大量の兵の兵を派遣し、新羅・唐と戦います。
大国・唐の圧倒的軍事力の前に大敗を喫した倭国軍。。。
その後、唐・新羅が百済を滅ぼすと、今度は唐と新羅が対立します。
混沌とする世界の中、倭国の危機が続いていました。
白村江の戦いに敗北したあと即位した天智天皇は、外圧に対抗するための軍事国家を建設を目指します。
水城や山城を急ピッチで作ります。
戦時体制をしき、本土決戦を意識し、侵略に備えたのです。
急速な富国強兵をすすめます。
671年・・・病に臥せった天智天皇。。。
有力候補は息子・若干24歳の大友皇子、もう一人は弟・大海人皇子でした。
天智天皇は息子ではなく、弟を指名したと日本書紀には書かれています。
当時の皇位継承は、明確に存在していたのではなく、・・・統ではなく資質。年齢や経験がモノをいったのです。
未知数の大友皇子よりも大海人皇子を選んだのですが。。。
大海人皇子は皇位継承を辞退し、出家してしまいました。
兄の想いを慮って身を引いたのか???
「お言葉にはご用心なさいませ。」
その一言で、兄の謀略を感じ取ったのかも知れません。
自分が皇位を継承すると言ったら・・・??
兄の謀略を察し・・・だからの出家だったのかもしれないのです。
そこには、天智天皇の国づくりに対する諸豪族の不満があったと言われています。

例えば・・・庚午年籍の制定・・・
土地や徴税など、豪族の既得権を国家の管理とするものでした。
公地公民は、確実に税と兵をとる方法でした。
おまけに都を飛鳥から近江大津宮に遷都しようと考えていました。
この遷都に対する不満から火事や不吉なことが起こったと言われています。
全員が集結して国の役人となる。。。
土地・民衆の支配権が国家に管理登録される不満。。。
大海人皇子はその不満を感じていたのでそのまま継ぐのは不利だ・・・と感じ、671年近江を出発し、隠遁生活に入りました。同行したのは妻・鵜野讃良皇女と息子・草壁皇子たち。。。

それから1か月余りで天智天皇が崩御。

こうして大友皇子が近江朝廷の実権を握ったのでした。

天智天皇の改革は・・・近代国家にならなければ国が亡びるかもしれない・・・ということを感じ、安全保障が第一でした。
古代皇位継承は今とは違い、統治能力とある程度の年齢が必要でした。
それが暗黙のルールだったのです。
25歳の大友は若く、おまけに母親(伊賀采女)の身分が低く、豪族とも扱われない可能性がありました。

そして大海人は、天智の不満・恨みを一身に背負わないためにも、出家が必要だったのです。
天智天皇は改善をしたかった・・・しかし大海人皇子は変革を望んでいたのです。

壬申の乱は、そんな大海人皇子の吉野脱出から始まります。
そのきっかけを日本書紀は・・・
672年5月、大海人皇子は家臣から報告を受けます。
「朝廷は天智天皇の陵墓を創るためとし妊婦を集めていますが、武器を持たせています。
 早く逃げないと危ないことになるでしょう。」
つまり、大友は大海人追討に向かうと言うのです。
吉野脱出は緊急避難???
近江朝廷側が仕掛けた?いえいえ、大海人皇子の念入りな作戦が伺えます。
吉野脱出の計画は???
①近江の皇子たちとの合流
高市皇子と大津皇子を呼び出し、伊勢で落ち合えるようにします。
脱出がばれると人質にされかねないので合流しました。

jin





















細い道・・・険しい道を通ります。
大海人皇子は事前に何回もシミュレーションしていたようです。
積殖山口で武市皇子と再会します。そして大津皇子とも合流。。。
これは計画的にしないと出来ないことです。
吉野に隠棲してから考えたようです。

そして・・・鈴鹿の山道を封鎖!!
この頃、大津宮は高市皇子と大津皇子がいなくなったので捜索開始。
一方鈴鹿に到着した大海人皇子は、追っ手を防ぐための軍事行動に出ました。

”500の軍勢で、鈴鹿の山道の守りを固めた”

鈴鹿の山道を抑える・・・これは大事なこと・・・近江朝廷側の追っ手を防ぎ、飛鳥からの追っ手も防げる場所だったのです。

不破の道を防げ!!
不破とは関ヶ原のことです。
交通の最大の要所でした。
近江と東国の関係を断ち、東国を味方につけることが目的でした。
不破を押さえ、尾張からの2万の兵も合流し・・・
4日間・170㎞の行程で・・・30人の一行は3万人にも膨れ上がっていったのでした。

白村江で西国は疲弊していましたが、東国は無傷な兵がたくさんいました。
鈴鹿と不破の関を押さえると・・・東国と畿内は遮断されます。
つまり、この二つの道を塞ぐことが勝利への道だったのです。
地図もないのに、道もないのに・・・何度も練習した成果でした。

壬申の乱は、6万人もの兵士が敵味方に分かれて戦った、古代史上最大の内乱でした。
しかし、大海人皇子軍の一方的勝利に終わるのです。
近江朝廷軍は遂に不破に向かって進軍します。
近江朝廷側に不満を抱く者たちが飛鳥で立ち・・・飛鳥はあっけなく落ちました。
大海人皇子の軍勢は各地で勝利し、大津宮へ・・・最後の決戦の地は、滋賀県にある瀬田橋。。。
兵力を結集し、雌雄を決することになりました。

勝敗はあっけなく・・・
近江方の陣は混乱し、逃げ散るのを止めることは出来ませんでした。
大友皇子たちも、かろうじて脱出しますが。。。
もはや逃げ場はなく・・・山前で・・・大友皇子は自ら首をくくって死に・・・
不破の大海人皇子の元へと届けられたのでした。

こうして壬申の乱は終わりを告げるのでした。

中央の大友がこれだけあっけなく負けた理由は・・・
大海人は戦争を起こそうとしていたこと。
大友は戦が起こるとは思っていなかった。。。
用意周到に準備していることに全く気付いていなかったのが原因だったのです。
そう、知らせてくれる見方がいなかったのです。

やはり、みんなが大海人皇子が継ぐべきだと思っていたのです。

どちらが勝った方が良かったのか???
大友が買った場合、天智天皇のまま・・・唐よりの政策になって、唐に取り込まれていたかもしれません。
国家として残るために、大海人が勝って良かったのだろうと思われます。

大友の首は必要だったの???
王族の首を斬るということは、日本の歴史上ほとんどありません。
戦後処理を考えると、大友は確実に死んだという事実を示さなければならなかったのです。

壬申の乱の翌年、大海人皇子は大津から飛鳥に都をもどし、天武天皇として即位し、大規模な国家改造のために、独裁的人事体制を築きます。

天智天皇の時代には有力豪族がついていた大臣のポストを無くし、天皇皇后を頂点に皇族・皇親に力を集中させ(皇親政治)、しかし、敗れた側の人々にも政治参加をさせました。
トップダウンのできる体制が整いました。

東アジアでは、新羅が唐と戦争を起こし・・・676年には新羅が朝鮮を平定します。
大陸の脅威は徐々に薄れ・・・国内の改革に取り組みだしました。
681年律令の編纂を開始、国史編纂事業にも取り組みます。これがのちの日本書紀です。
大王という名を改め、天皇という言葉を初めて使ったのは天武天皇だと考えられています。
天武天皇は、自らを天皇と名乗り、絶対的な権威を持ちました。
大王(おおきみ)は・・・たくさんいる王の中のTOPですが、天皇は唯一無二の存在です。

飛鳥の都を賛美する歌に・・・

「おおきみは
  神にしませば赤駒の
    腹這ふ田井を都と威しつ」

と、万葉集に収められています。

天皇は神である・・・

天武天皇は、どんな国家を目指したのでしょう?
天武朝の前半と後半とでは全く違い、天武10年までは戦争状態でした。
非常に高圧的に・・・国家の基本は軍事であるという政策をとります。
確実に税がとれて兵が徴収できる国家です。
天武5年に唐と新羅の戦争が終わり・・・天武7年にその知らせがもたらされました。

いつ攻めてくるかわからない時代が終わりました。
不安の無くなった天武政権は、貨幣経済でないと大きな国は動かせない!!と、税を徴収し、徴兵すること・・・近代的な考えになっていくのです。

政治的な立場には天皇と皇后しか置かない・・・
ふたりで決定する政治をし、みんな天皇と皇后の下に平等であることを認識させました。
まさに”一君万民”です。
唯一無二の天皇の為に・・・
神話が必要でした。
世界に対抗するためにも中国とのバランスを考えて作られたと考えられます。
天皇の歳が長すぎたり・・・いろいろ変な部分がありますが、努力してつじつま合わせをした結果ではないか?とも思われるのです。

絶対的な権力と権威・・・
天武天皇の最後の問題は皇位継承でした。
どう継承していくのか???
そこには皇后の想いもありました。
天皇の息子のうち、成人しているのは4人・・・
草壁皇子・大津皇子・高市皇子・忍壁皇子。。。
そのうち、鵜野讃良皇女の息子・控えめな草壁皇子と大田皇女の息子・優秀な大津皇子に絞られました。

大津皇子支持の声の多い中・・・
679年後継者を指名・・・草壁皇子です。
他の皇子には争わないと誓わせました。
しかし、686年天武天皇が崩御・・・
その1か月後に皇子たちの誓いは破られてしまうのでした。
大津皇子の謀反が発覚!!大津皇子は死に追いやられてしまいました。
ところが3年後には草壁皇子も亡くなってしまいます。
そこで皇后・鵜野讃良皇女が持統天皇として即位します。

夫の計画を引き継いで・・・
草壁皇子の息子・軽皇子を後継者と指名し、697年で文武天皇として即位します。
権力を持たない、若い天皇の誕生でした。
これがその後の日本の在り方を決めることになりました。
中国は易姓革命。天がそれを見放した時に滅びるのですが・・・
日本の場合は天は万世一系としてなり、権威はあるけれども権力はない・・・
という形となり、長続きする理由なのです。

これを強く支持したのは壬申の乱で争った大友皇子の息子・葛野王でした。
あまりにも若い天皇に反対意見のある中・・・
「わが国では今日まで子孫が皇位継承することになっている
 兄弟の順で相続するならば、国は乱れる」
と。。。葛野王は、天武天皇直系の軽皇子の即位を推したのです。

持統天皇は喜び、国を定る・・・現在まで連綿と続くこの国の在り方が、この壬申の乱から始まったのです。


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

歴史 ブログランキングへ

壬申の乱 (戦争の日本史)

新品価格
¥2,700から
(2014/4/10 08:51時点)

本当は怖ろしい万葉集 壬申の乱編 (祥伝社黄金文庫)

新品価格
¥617から
(2014/4/10 08:51時点)