西郷隆盛 命もいらず 名もいらず

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明治維新の軍事的リーダーとして新しい時代を築いた西郷隆盛・・・。
戊辰戦争では新政府軍を勝利に導き江戸城無血開城を実現し、政治的手腕を見せつけました。

しかし・・・明治維新からわずか10年・・・
自らが作った新政府と戦うことになります。
最期の内戦・・・西南戦争です。
九州全土で7か月にわたって戦い・・・西郷の自決によって幕を閉じました。
どうして西南戦争に及んだのでしょうか?
西郷隆盛、最後の選択です。

源義経・楠木正成のように、偉大であると同時に最後は破滅してしまう・・・
日本人の惹かれてしまうキャラクターです。

桜島を望む南洲墓地に・・・西郷隆盛は2023名の同志と共に眠っています。
今も多くの人に尊敬を集める西郷。。。
旧幕府軍と戊辰戦争を戦い、江戸城無血開城を実現し・・・
そんな西郷に多大な影響を与えたのは、島津斉彬。
若き西郷が仕えた薩摩藩第11代藩主です。
薩摩には、よく外航船がきて・・・海外のことにも精通していた斉彬。。。
アヘン戦争で敗れた清が、西欧列強と不平等条約を結ばされていることに大きな危機感を抱いていました。
列強の侵略に備えるために・・・
洋式工場群・集成館を作り、武器弾薬の製造、造船技術の向上、藩で富国強兵をすすめていました。
国をひとつにまとめようとする先進的な斉彬の思想です。

アーネスト・サトウの手記によると・・・
幕藩体制の中で西郷は既に民主的な政治の仕組みを構想していました。
幕府の代わりに国民議会を設立しようとするもので・・・この時代に西郷の構想は無謀と思われました。
列強から日本を守るためには、軍備だけでは駄目だと思っていたようです。
日本国が富国強兵を進めるうえで、人材も広く必要だということです。
そこに、日本の発展を思っていたのです。

明治6年・・・新しい外交問題に直面します。
当時の日本の脅威は、朝鮮に南下してくるロシアでした。
鎖国を続け、近代化の遅れている挑戦が、ロシアの傘下に入る・・・
それは驚異的・・・
日本政府は朝鮮に正式に国交を求めますが・・・拒否されます。
両国の間には緊張が・・・
これに対して、武力で朝鮮を開国しようとする征韓論が広まってきていました。
西郷は、使節となって交渉しようとします。
朝鮮王朝との新たな絆の為に・・・。

征韓というと、朝鮮を征服する・・・というイメージが強いですが、この時西郷は、韓国併合のようなことは考えていなかったと思われます。
欧米列強の支配下に置かれていく東アジア・・・。
これに対抗するために、中国・朝鮮・日本を講和させようと考えていたのです。

ところが・・・西郷は思わぬ反発にあいます。
その急先鋒は・・・共に新政府をまとめてきた・・・幼馴染の大久保利通でした。
西郷と云えども、朝鮮に手を出せば戦争は回避できない・・・そう、大久保は考えていたのです。
当時、大久保に差し迫っていた問題は、内務省を設立し、政府主導で国内産業を育成することだったのです。
戦争となるとインフラは後回し・・・
戦争はあらゆるエネルギーを吸い取ってしまうからです。
政府首脳によって朝鮮への派遣を阻まれた西郷は、政府を離れ・・・
西郷と大久保・・・ふたりが会いまみえることは二度となかったのです。

明治6年11月・・・西郷帰郷・・・。
この時、旧薩摩藩出身の近衛兵3000人も行動を共にします。
士族の割合は・・・全国平均5%に対し鹿児島県は25%もあり、そこへ近衛兵たちも加わり士族であふれかえる鹿児島。。。
西郷は彼等を教育するために私学校を設立します。
その目的を”尊王と民衆への慈悲”を掲げました。
これは、政府転覆を掲げたのではなく、幕末維新のエネルギーを・・・日本を守る軍事力に組み込もうとしたのです。
将来日本に危機的状況が生まれた場合に、国を守るために活用しようとしていたのです。
明治政府によって武士の特権を奪われていく士族。。。
明治9年秩禄処分によって俸禄が打ち切られ、廃刀令によって武士の魂も取り上げられることになります。

遂に士族の怒りが爆発し・・・
神風連の乱・秋月の乱・・・九州を中心に乱がおこります。
私学校の若者たちの機運も高まっていきます。
しかし、政府に武力で訴えるには”大義”がないと、西郷は反対します。
一方、東京の大久保たちの不安は高まってきていました。
軍事力を蓄えていく私学校の生徒たちに、西郷が担がれるのではないか???

吹き荒れる士族たちの不満と西郷と大久保たちの不信と誤解が、日本史上最後の内戦へと突き進んでいくのです。
先に動いたのは、大久保率いる政府側でした。
薩摩藩が富国強兵のために作った集成館は、最新式のスナイドル銃の弾丸など日本の武器の多くが製造されていました。
明治10年1月29日。。。
この弾薬を巡って事件が起こります。
政府が夜間密かに弾薬を運び出そうとしたのです。
鹿児島にあったのでは、いずれ私学校の生徒に使われてしまうことを懸念したのです。
事態を知った生徒たちは、鹿児島各地の弾薬庫を襲い、武器を奪い取ります。
鹿児島城下を離れていた西郷は、これを聞いたとき「ちょっしもた」といったといわれています。
さらに事態を悪化させたのは・・・
当時不審者として警察が捕まえた若者は・・・西郷たちを見張り、あわよくば内部分裂をさそう政府が放った密偵だったのです。

連日の拷問によりした自白では・・・
西郷に反乱の動きがあれば、暗殺するように命じられていたというのです。
暗殺命令が虚偽の自白なのかどうかは分かりませんが。。。
しかし、私学校の若者の怒りは暴発寸前となっていました。

明治10年2月・・・西郷に選択の時が迫っていました。

大久保は・・・西郷が若者たちとは行動を共にしないと思っていたようです。
2月9日。
西郷の遠縁にあたる海軍中将・川村純義を鹿児島に遣わします。
川村は、西郷が若者に担がれない様に説得する使命を帯びていました。
しかし・・・私学校の生徒たちに阻まれて・・・上陸することもできなかったのです。
2月12日、説得交渉に失敗した川村は、もはや戦いは避けられない・・・!!
そこで政府は、東京から4000の兵士を九州に派遣することを決めたのです。
西郷は2月15日、1万3000の兵を連れて東京に向けて鹿児島をたちました。
この時点では、西郷は交渉前提としていたようです。
西郷が出陣するに当たり、通る県に宛てた書状には・・・
”政府へ尋問の筋これ有り”と書かれています。

薩摩軍は、現役の陸軍大将である西郷の行動を阻む者はないと、楽観していました。
しかし政府は・・・熊本城での籠城戦を仕掛けます。
籠城戦に薩摩軍も応じ・・・2月22日・・・
本格的な戦争が始まりました。

熊本城内に陣地を置く政府軍とそれを囲む薩摩軍・・・
しかし、西郷が積極的に戦ったという資料は残っていません。
つまり熊本城での戦いにも西郷の姿は感じられないのです。

西郷の意思とは別に、戦いは泥沼化・・・。
近年発見された資料には、西南戦争を終結させる手立てが書かれていました。
当時の鹿児島裁判所の判事たちが密かに天皇に宛てた直訴状です。
政府の西郷暗殺を法廷で訴え、勅使を下すように願い出たものです。
これが天皇に通れば停戦の命令が下って、大きな戦争にはならなかったのかもしれません。

この書状は、厳しい検問によって天皇のもとに届くことはありませんでした。
そして戦いは西南戦争最大の激戦地・田原坂へ・・・。
田原坂を登りきったところが一番の激戦地でした。
スナイドル銃の銃弾が今でも発見され・・・激闘の激しさを物語っています。
凄惨を極めた戦いは・・・補給面で圧倒的な政府軍が17日目に突破し、勝敗が決しました。

「薩摩は賊なんだ。。。」

薩摩軍は田原坂で敗戦以降、九州全土を逃げ惑います。
依然として西郷は前線で指揮を執ることはありません。
鹿児島にたどり着いた西郷と薩摩軍は・・・わずか400となっていました。
政府軍の総攻撃を受けた西郷は自決・・・。
ここに7か月に及んだ西南戦争が終わりました。
死者は両軍併せて1万4000。。。
政府の使った戦費は4100万円、国家予算の85%に上ったといわれています。

ボタンの掛け違えによる戦い。。。
この最後の闘争で・・・国内での武力闘争がなくなります。
ようやく引きずってきたものがすべて解決した闘争だったのです。
西郷隆盛は、確かに最後の英傑でした。


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