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”軍師官兵衛の恵瓊”

安国寺恵瓊は、安芸の安国寺に住した僧侶です。
安芸の守護家・武田信重の子として生まれました。が、この武田氏は、後に大内氏に滅ぼされてしまいます。

恵瓊は、小さい時に安国寺に逃れ、出家しました。
その後、京都にのぼって東福寺で禅修行をし、東福寺と南禅寺の住職にもなりました。

恵瓊はこの京都で、各国の情勢を把握できる目を養いました。



朝井・朝倉を滅ぼした織田信長については・・・

「信長の時代は、3年や5年は続くだろうが、その後はとんでもない死に方をしてしまうだろう。
 藤吉郎は天下を取れる人物である。」

この予言から10年後に、信長は本能寺で斃れることになるのです。
このように、恵瓊の人物眼と用法分析能力は、優れたものがあり、毛利氏は京都における外交僧と情報収集の任務を恵瓊に課したのでした。

外交交渉には、俗世間から離れた・・・出家した僧侶が中立で相応しい。。。恰好の交渉者だったのです。

毛利との仲が良かった恵瓊・・・1583年頃には秀吉の直臣として働くようになり、その立場を不動のものとします。
1600年の石田三成の挙兵では、三成らとともに輝元を西軍の総大将とし、担ぎ出そうと画策します。
輝元は、恵瓊の言葉を信じて西軍の総大将となります。

私の好きな”秀吉”の安国寺恵瓊

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関ケ原の当日に布陣。しかし、毛利は動かず!!
その理由は???
吉川広家が、徳川家康と密約を結んでいたのです。そして・・・結果、西軍は敗北します。
実は、裕家は、三成挙兵の時に西軍派の恵瓊と激しく対立していました。
敵は毛利にいたのです。恵瓊は戦わずして伊吹山中に逃げ込んだのでした。

京都に逃げ込んだ恵瓊。9月23日、遂に捕えられてしまいます。関ヶ原の合戦から8日目のこと。
この時すでに、小西行長は9月19日、三成は9月21日に伊吹山中でとらえられていました。
この3人は10月1日、大坂・堺・京都の町を引き回され、京都・六条河原で首を斬られ・・・三条橋に晒されたのでした。

恵瓊の読みは完全に外れてしまったのです。
秀吉のもとで・・・僧侶でありながら伊予国や北九州、安芸国安国寺を拝領するようになり・・・
元々僧侶の徳だった”無”の境地で物事を見ることを忘れ、鋭かった観察眼・・・人物眼が私利私欲でくもってしまったのかも知れません。

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