山中鹿之助幸盛―歴史新発掘 川中島合戦の落し子の生涯

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 山中鹿之助・・・今大河でやっている”軍師官兵衛”では、別所哲也さんがやっていました。
もっとカッコよく、話を膨らませて欲しかったなあ・・・なんて、物足りなさを感じながら。。。

sika












尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月祈った逸話は有名です。

その山中鹿之助・・・
「尼子十勇士」を集めた智将・山中鹿之介幸盛。
山陰、山陽で「11州の太守」と言われていた尼子氏が、毛利元就に滅ぼされ・・・
再興をかけて十勇士と共に、何度も毛利氏を攻め立てた男です。

尼子氏が滅ぼされたのは、鹿之介が21歳の時。。。
降伏した尼子義久に、元就は切腹を許さず・・・兄弟共々、安芸に幽閉してしまいました。

山伏姿となり、各地を歩き、十勇士を集めた鹿之介・・・
しかし、再興のためには旗印・・・尼子の血を引いた殿が必要だと考えるようになります。
そこで以前、内紛の時に京都に預けられていて僧侶となっていた・・・全盛期の当主・尼子経久の次男の孫を説き伏せ、当時17歳だった彼に尼子孫四郎勝久を名乗らせるのでした。

勝久を当主とし、200の兵を率いて但馬に渡った鹿之介・・・
この地で海賊・奈佐(なこ)日本之介などの見方を得、出雲に上陸しましたが、この時の兵力は6000人を超えていました。

その時・・・尼子のかつての居城月山富田城には300の兵しかいなかったので、毛利方は降伏を願い出ます。

遂にお家再興が・・・!!

と思ったものの・・・謀略長けた毛利の家臣が鹿之介に斬りかかります。
鹿之介は、命からがら逃げのびて、奪還計画は失敗に終わったのです。


でも・・・へこたれません。
次は、毛利と戦っている九州の大友宗麟と結んで挟み撃ちにする作戦に出ます。
この時も、わずか6000の尼子軍は1万5000の毛利軍に敗れてしまいました。
吉川元春に捕えられた鹿之介は、赤痢にかかったと言って何度も厠へ・・・その隙をついて逃げ出したのでした。
その2年後にも挙兵しましたが、やはり失敗してしまいます。

これまで鹿之介を援助してきたのは、毛利と敵対していた織田信長。
毛利を羽柴秀吉に攻めさせたとき、上月城に尼子軍を2300の兵と共に戦わせました。
毛利3万の大軍が上月城に!!

このままでは攻め落とされる!!と、信長に訴える秀吉。。。
しかし、共倒れになることを怖れた信長は、上月城を見放したのです。

鹿之介はまたもや破れてしまいました。

毛利は、勝久が切腹すれば、ほかの者は助けると言うので、26歳の勝久は自害。。。
敵の吉川元春に一太刀浴びせてから後を追う!!と、約束した鹿之助も、安芸に護送される途中で斬りつけられ・・・思いを遂げぬまま34歳でこの世を去りました。

この鹿之介。長男は新六幸元。
1570年生まれの幸元は、山中氏の一族、黒田幸隆の養子でした。
秀吉の攻撃で黒田城が陥落すると摂津国伊丹近くの鴻池村に移り、武士を捨て・・・
商人になることを決意します。
名も鴻池新右衛門直文と改めました。

鴻池では濁酒造りが盛んで。。。
しかし、苦労の末、芳醇な清酒造りに成功します。

この清酒造りに関しては、新右衛門を恨んでいた下男が、腹いせに酒に灰を投げ込んで出来た・・・という伝説まであります。

この清酒を江戸に運んで・・・評判となります。
その後、酒造りを辞め、運送業が主となります。
さらに両替商となった鴻池は、大坂一の豪商となり、やがて銀行業を始めます。
それが三和銀行・・・現在の三菱東京UFJ銀行なのです。

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