もっと知りたい長谷川等伯―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション) 新品価格 |
京都にある真言宗総本山・智積院には、長谷川等伯の国宝「楓図」があります。
作者は桃山時代の絵師・長谷川等伯です。
依頼主は、時の権力者・豊臣秀吉。。。
しかし、秀吉による等伯の抜擢は異例中の異例でした。
戦国の世に終止符が打たれようとしていた時代に、名だたる武将は権力を示すために次々と城など建造物を作ります。
内装を彩ったのが・・・襖や屏風などに描かれる障壁画。
その製作を担っていたのが、一大画家集団・狩野派でした。
狩野派は、時の権力者に接近し、その技術力と組織力で確固たる地位を築いていたのです。
権力者の仕事は100%狩野派の仕事で・・・それは・・・等伯を阻む、巨大な壁でした。
しかし、時代は新たに展開します。
秀吉が天下を握り・・・
等伯を後押ししていたのは、当時力をつけて来ていた”新仏教”。
そして、千利休に代表される莫大な資金を持つ商人たちでした。
等伯の出身は、石川県七尾市。
当時支配していたのは、守護大名・畠山氏でした。
その家臣の家に武士の子として生まれました。
しかし、染物屋をしていた長谷川家に養子として出されてしまいました。
長谷川家は、お寺に奉納する仏画を作る絵仏師としても地元では知られていました。
卓越していた技術を持っていた等伯・・・しかし、狩野派と渡り合うこともなく・・・地元で生涯を終える筈でした。
ところが・・・1571年33歳の時に、突然京都に移り住みます。
伝統ある京の画壇を支配していたのは狩野派。
当時一門を率いていたのは狩野永徳。
永徳は信長・秀吉をはじめ全国の武将、朝廷からも厚い信頼をえて・・・大規模な事業は狩野派が握っていました。
京に縁もゆかりもない等伯が頼ったのは自らも信仰していた日蓮宗のネットワークでした。
日蓮宗は、死後の救済よりも現世の幸せに重きを置いた教えで・・・町人を中心に信者を集め、京都では毎月2~3の寺院が作られるという急成長ぶりでした。
日蓮宗本山・本法寺に身を寄せます。
本法寺に残された作品としては「日堯上人像」があります。
仏教絵画の注文を受けながら、腕を磨いていました。
しかし・・・それから18年・・・消息が分かりません。
「等伯画説」によると・・・
堺の人々と交流していたようです。
その仲をもったのが、当時の本法寺住職・日通上人・・・堺の豪商の出身でした。
商人の町堺・・・
繁栄を極めたその町で・・・飛躍の時を伺っていたのです。
1589年歴史の表舞台に躍り出たのは51歳のときでした。
この時代・・・色々な勢力が出てきていました。
商人の台頭によって・・・京都や堺では豪商と言われる人たちです。
自分たち好みの芸術を求めていたのです。
増築されることになった大徳寺の山門・天井画や柱絵を描くという大仕事を任されます。
極楽浄土を舞う姿が力強く描かれました。
大徳寺は、町衆から宮廷の貴族まで、大きな影響力を持つ寺。。。
等伯の画は、京都で一躍評判となりました。
私財を投じ、その山門増築を進めたのは、当代きっての茶人・千利休でした。
堺の出身で美の創造者・千利休は狩野派に批判的だったといいます。
良き理解者を得て、才能を開花させていく等伯。
1590年、名声をさらに高めたのが・・・御所の造営に伴って描かれる障壁画でした。
永徳率いる狩野派は、自分たちの権益を守ろうと、妨害工作に出始めます。
永徳と等伯とではその位には天と地との差がありました。
永徳は力づくで等伯の進出を阻止します。
しかし・・・同年、狩野永徳死去。。。
カリスマの死によって狩野派は、混乱に陥りました。
遂に等伯は・・・天下人豊臣秀吉からの依頼を受けます。
それは・・・楓図を描く・・・秀吉の息子の菩提寺に、95枚の襖絵を描くという一大事業でした。
秀吉は、政権が交代したことを絵によって示そうと考えていたようです。
なので、狩野派と違った絵を使う必要があったのです。
1591年秀吉の長男・鶴松が他界・・・
秀吉はその菩提を弔う寺・・・祥雲寺を建設し、障壁画を等伯に依頼しました。
1200平方メートルの巨大な建物に・・・95枚の障壁画を描かなければなりません。
狩野派が請け負っていい大仕事。。。
当時の長谷川派は少人数・・・なのに、今までにない質と量の仕事だったのです。
この頃・・・千利休は秀吉に切腹を命じられています。
秀吉に気に入られなけれな・・・命がかかっている??
命がけの仕事だったのです。
1593年障壁画を完成させます。
「楓図」の対となるのは「桜図」。。。等伯・久蔵親子の作品です。
新参者の一大プロジェクト・・・これを通じて新しい絵画表現を開拓した等伯。
等伯は楓図で、狩野派にもマネできない表現をしました。
楓図は細かくカラフル・・・狩野派を抜いた色彩で華やかさ、豪華さが表現されていました。
しかし、突如不幸が訪れます。
逸材に成長していた息子久蔵が26歳の若さで死去・・・。
そして・・・5年後には後ろ盾となっていた豊臣秀吉が死去。
跡継ぎとパトロンを失った等伯。。。
長谷川派発展のために???
等伯が活路を見出したのが新規開拓策でした。
本法寺に収められている「仏涅槃図」。
61歳の等伯は、この巨大な涅槃像で人々の度肝を抜きます。
商品価値を上げるための、ブランディング戦略です。
そしてこの仏涅槃像をそのまま奉納するのではなく、宮中でお披露目し・・・
そのことによって、画に格をつけたのです。
新規顧客層の開拓に乗り出します。
雪舟というブランドを取り入れて、町衆を味方につける・・・
その戦略は成功しましたが・・・
1610年長谷川等伯死去によって、長谷川一派を取り巻く環境が変わってしまいます。
狩野派・・・は、江戸時代に入っても、御用絵師の座は譲らず、永徳の孫・狩野探幽は、永徳以来の天才と呼ばれ、多くの障壁画を残しています。
御用絵師・探幽は、鑑定も行っており、多くの作品が持ち込まれます。
等伯の作品を周文の作品と鑑定したり・・・
等伯を美術史から抹殺しようとしました。
つまり、等伯が亡くなった後も、等伯の存在感が狩野派を脅かしていたのです。
等伯が再評価されるのは、昭和に入ってからです。
「楓図」さえも、狩野永徳の作と言われていましたが、画風や構図の研究で、等伯の作であると証明されました。
歴史から消されていた等伯が再び脚光を浴びます。
明らかになってきたのは、多彩な画風に挑戦した等伯の天才ぶりと後世に与えた影響でした。
多くの苦難を乗り越えた等伯の足跡は、その作品と共に語り継がれていきます。
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