武将フィギュア織田信長(おだのぶなが)【戦国武将】【フィギュア】【戦国武将フィギュア】【正子公也】 【smtb-TD】【saitama】

価格:10,800円
(2015/1/23 23:05時点)
感想(18件)



戦国の天才・破壊者・第六天魔王・革命児・・・一般に、広く流布された信長のイメージ・・・それは、信長の真の姿だったのでしょうか?
群雄割拠ひしめく戦国にあって、天下統一のもと、武力で日本を統一しようとしました。
しかし・・・従来の姿を見直さなければならない・・・??
”天下布武”の本当の意味とは・・・??

熊本県熊本市2014年に新発見の資料が公開されました。
発見された上洛に関する書状によると・・・
「将軍上洛の共として織田信長が参陣する・・・」
永禄11年に足利義昭を奉じて信長は上洛します。
信長は、自らの野望のために、傀儡としての将軍を担いで京に上ったとされてきていました。
発見されたのはその時の書状ですが・・・史実の上洛の2年前となっていました。

日本各地で群雄割拠した戦国時代・・・京で始まった戦いは、日本全土に広がっていました。
有力大名が力をつける一方で、室町幕府は弱体化して行っていました。

将軍は戦果を逃れるために都を離れることが多かったのですが・・・
当時、将軍が暗殺されたことによって、将軍職は空位となっていました。
そんな中、将軍候補に名乗りを上げたのが足利義昭。
しかし、反対勢力のために、各地を転々としていました。
流浪先から各地の大名に上洛を要請して・・・機会をうかがっていたのです。
義昭の上洛要請は・・・越後の上杉・甲斐の武田・・・有力大名はもとより、遠く薩摩の島津にまで上洛要請をしていました。
果たして大名側にメリットはあったのでしょうか?

軍事力、武力を持っていなかったであろう足利義昭・・・。
しかし、権威はあったようです。

将軍の権威は、戦国時代もあったと考えられます。

①栄典授与の権限
②大名たちの紛争の調停
③偏諱(将軍の名の一字をもらう)
武田信玄晴信の晴、上杉謙信輝虎の輝は、将軍の名の一字をもらっています。

義昭を奉じて将軍に就かせることができれば、権勢をふるうことができる!!
戦の時代であればあるほど、将軍の利用価値、権威の必要性が高くなってくるのです。

将軍の要請の手紙が届いたのは、永禄8年10月ごろに信長の元へ。。。
尾張の守護代の家臣から成り上がった織田家は、出自が低い・・・
大名としての正当性を得る絶好の機会でした。
信長は将軍に対して敬意をはらっていたようで・・・
衰退した室町幕府の再興を・・・室町幕府の秩序を再構築するための上洛だったのかもしれません。
一有力大名としてそれを支えていこうと考えていました。

しかし・・・上洛するにはかなり難しい・・・

①領国経営の安定が最優先
②都に兵を常駐させる必要がある=経済力も必要

永禄九年の書状の頃は・・・
桶狭間の戦いに勝利したものの、隣国美濃との戦いに手を焼いていました。
上洛など出来る余裕はなかったのです。

信長の居城・小牧山城は、美濃との戦いをにらんだ砦と思われてきました。
が・・・ここに信長が上洛を決意した・・・最新式の巨大な石垣が発見されたのです。
石垣など・・・最新式の技術は畿内にありました。
つまり、信長は、畿内の色んな技術・情報を押さえ・・・
そして・・・最新の技術を築くことのできるノウハウを持っていたのです。

城の南側に城下町が・・・当時、戦国大名の軍団を成していたのは農民たちでしたが・・・
信長は・・・つまり、兵農分離・・・専業の武士団を作って、城下町に住まわせていたのです。
農繁期、農閑期に関わらず、いつでも遠征できる軍団を作り上げたのです。
これは、中世から近世への大きな変革でした。
ここに、京都を目指していた意図があると言えます。

尾張の一大名でありながら、上洛の用意を着々とする信長。。。
しかし、事態は信長の思惑通りには行きませんでした。
直前に・・・近江・六角氏が反旗を翻します。
信長は行く手を阻まれ、上洛を断念しなければなりませんでした。
この上洛計画は幻に終わったのです。
そして・・・上洛を果たすのは、その2年後でした。

小牧山城を足掛かりに宿敵・美濃を攻め・・・永禄10年に美濃を平定します。
小牧山城から岐阜城に居城を移した信長は・・・”天下布武”という印を使いだしました。
日本で武力統一をしようという野望をもったという意味に使われてきたとされていましたが・・・
この天下布武・・・
ルイス・フロイスの書簡によると・・・
日本全国の中心である五畿内の主は「天下」と呼ばれ、「君主」を意味するとあります。
五畿内とは・・・京の周りの山城・大和・河内・摂津・和泉の事・・・。
天下の範囲はこの五つの事だったのです。
つまり、天下布武=全国を征服するという意味ではなく・・・
将軍の権威の及ぶ範囲の事で、”将軍の復権”を目指していたのです。

岐阜城でも足利将軍に憧れているという発見がありました。
大規模な庭園が発見され・・・その造園は、足利将軍の庭園様式を踏襲していると言えます。

革新的なイメージの強い信長は・・・伝統や文化を重んじていたようにも思えます。
幻の上洛計画の後も、義昭の上洛野望は続きます。
が・・・将軍候補として義昭の従兄弟・義栄が擁立されます。
もし・・・先に将軍になってしまわれたら・・・と、信長に上洛要請を働きかけます。

「これからは、織田信長をひたすら頼りにしたい。」

信長は、大きな決断に迫られていました。
2年前に失敗した上洛を成功させることができるのか・・・??

そこには、軍事力・経済力・外交力の3つの条件がありました。
美濃を手に入れて軍事力は大きく飛躍、兵農分離によって都に兵を常駐できる、津島湊・熱田湊の流通を支配、浅井・徳川とも同盟関係を結ぶ・・・
上洛の条件は整いつつありました。
上洛を阻む敵は・・・六角に三好・・・武田・上杉などの潜在的な敵勢力にも・・・

永禄11年9月26日、4万の大軍勢で足利義昭を奉じて信長は上洛を果たします。
成り上がり大名の上洛にアタフタする都・・・
しかし、都の人の心配をよそに、信長軍の規律は厳しく都はすぐに平静を取り戻しました。
将軍の軍隊としての矜持を観てとることができます。
義昭は将軍に就任・・・。

一方その立役者となった信長の名は、畿内一円に広まります。
周辺の武将たちは馳せ参じて忠誠を誓ったと言います。
それでも従わなかったものは、義昭の攘夷を大義名分として信長が平定・・・
遂に、五畿内の天下布武を成し遂げたのです。

義昭は・・・信長を慕い、副将軍や幕府高位を与えようとします。
しかし、上洛から2年・・・越前の朝倉・浅井・延暦寺・六角・三好・松永・武田・一向宗・・・次々に反旗を翻したのです。
信長は、室町幕府の再興・天下静謐を掲げ、戦い・・・支配地を拡張していきます。
義昭も・・・信長の勢いに嫉妬し、恐れ始めます。

二人の亀裂は・・・??
信長が義昭に送った十七条の意見書です。
義昭の怠慢をまとめ、諌めたものです。
忠勤の部下を大切にせよ・・・えこひいきがあってはならない・・・悪しき御所と陰口をたたかれている義昭に、公明正大を求めたのです。

そして・・・遂に元亀4年3月・・・義昭が挙兵・・・しかし、圧倒的な信長の前に義昭になすすべなし・・・。
元亀4年7月・・・義昭追放。
ここに室町幕府は崩壊。。。
義昭の命を奪わなかったのは、奪ったことにより謀反人となることを恐れたためとも言われています。
以降・・・天皇の権威によらない新しい天下を目指していくのです。

義昭は・・・各地の有力大名に、信長に対する挙兵を要請し続けます。
朝倉・浅井・武田を滅ぼした信長は・・・毛利・上杉・・・と、戦いを挑んでいきます。
信長の支配領域は、急激に膨れ上がっていきました。
しかし・・・天正10年6月2日・・・本能寺の変・・・
信長は、非業の最期を遂げることになるのです。
その後、天下統一は、豊臣秀吉によって実現されました。

信長の天下布武・・・真意はどこにあったのでしょうか・・・??

天下人・・・周りの人が認めた瞬間に、出来上がった権力・・・何の官職もない者が上に立てる権力・・・
今の秩序の中に生き残りの道を探し、既存の概念を突き抜けてしまったのが信長なのかもしれません。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

武将・リュック[カーキ] 織田信長 (戦国武将 グッズ カバン かばん リュック)【B-2008_BS039-01】

価格:4,665円
(2015/1/23 23:07時点)
感想(1件)

★ メール便OK!(送料180円~) ★ 戦国武将 手拭い-天下不武 織田信長 [原画・諏訪原寛幸]  ◆ 手拭い てぬぐい 織田信長 戦国武将 戦国武将グッズ ファブリック ◆

価格:1,728円
(2015/1/23 23:08時点)
感想(1件)