逆説の日本史〈19〉幕末年代史編2―井伊直弼と尊王攘夷の謎

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1860年3月3日・・・江戸城桜田門外・・・
200年続いた鎖国政策を捨て、開国への道を開いた政治家が暗殺されました。
江戸幕府大老・井伊直弼です。

世界に覇権を広げていた西欧列強の時代・・・
日本の舵取りが井伊大老にゆだねられました。

異国船打ち払いを訴える大名達、異国人を忌み嫌う朝廷・・・
意見のまとまらない中・・・反対派に厳しい弾圧を加えていく井伊直弼。
赤鬼と恐れられた直弼、その知られざる姿とは・・・??

1853年6月3日・・・日本は激動の時代を迎えます。
江戸湾に4隻の黒船が来航・・・アメリカ東インド艦隊総司令長官マシュー・ペリーが日本に開国と通商を迫ってきました。
江戸は大混乱に陥ります。

幕府は諸大名を招集し、意見を求めました。
攘夷派130人に対し、開国派8人・・・攘夷派が圧倒的な中、”開国が日本を救う!!”と主張したのは、彦根藩主・井伊直弼でした。

その2か月後・・・直弼が幕府に出した意見書は斬新なものでした。
「別段存寄書下書」には・・・斬新な外交論が・・・
これからはジャカルタに船を送って交易すべきだ!!
軍備を整えて、海外に日本の力を海外に示せば、内外ともに充実し、皇国安躰となるでしょう。

直弼が目指していたのは、交易による軍備増強・・・富国強兵だったのです。
直弼の外交論の裏には、諸外国に対する豊富な知識がありました。
最新情報を手に入れていたのです。

彦根藩は、代々徳川に仕えてきた譜代大名の筆頭です。
幕府が危機に陥った時は、先陣を切って戦うことを誉としてきました。
直弼はその井伊家の14男に生まれ・・・一生日の当たることのない生活を覚悟していましたが・・・
嫡子が急死・・・ほかの者はみな養子に出されていたので、彦根35万石の藩主となったのでした。
直弼は、先代の遺産15万両をすべての家臣、領民に分け与え・・・凶作の年には救い米を1万俵を配るなど、領民を思いやる政治を行っていました。

遊学中の吉田松陰は井伊直弼のことを・・・
実に人君に相応しく、その徳の高さに感涙にむせんだと書き残しています。

直弼は・・・幕府の中枢へ・・・!!
そこに立ちはだかったのは、水戸藩前藩主・海防参与の徳川斉昭でした。
異国船を打ち払うために、大砲を74門鋳造し、幕府に献上しました。
斉昭は絶えず、西欧の書物を取り寄せて研究していました。
異国船を打ち払い、鎖国を貫く・・・それが斉昭の基本姿勢でした。
尊王攘夷・・・天皇を尊び、異国の穢れを打ち払い、鎖国を貫く・・・この考え方は斉昭のもとから日本中へと広がっていきました。

開国か鎖国か?直弼と斉昭が対立します。

1854年1月16日・・・日本を離れていたペリーが軍艦7隻でやって来ました。
軍事的に優位なアメリカを排除することは、もはや不可能でした。

幕府は・・・日米和親条約を締結。
そのことで、斉昭は海防参与を辞任し・・・直弼と真っ向から対立することになるのです。

その頃・・・自らの戒名を定めた直弼・・・
直弼は菩提寺に戒名を納めて江戸に・・・攘夷派との戦いに命を懸けた出発でした。
1856年7月・・・アメリカ総領事ハリスが下田に来航します。
臨時の領事館を開き、通商条約の交渉に着手します。
おまけに・・・西欧列強の嵐がアジアに迫っていました。

1857年10月・・・ハリスが江戸城に乗り込んできました。通商条約の調印を求めて・・・!!
直弼たちは、通商条約締結は避けられないと判断しました。
しかし・・・条約締結を妨げているのは・・・攘夷の声が静まっていなかったのです。
外国掛の岩瀬忠震は・・・天皇の権威を借りて条約反対の勢力を削ごうとします。
天皇にはいつも事後報告でしたが、この時ばかりは先に許可を得ようと考えたのです。

1858年2月9日・・・幕府は孝明天皇に勅許を願い出ます。
半月後の2月23日・・・幕府にとっては思いがけない結果に・・・
もう一度諸大名と考え直してから願い出る様にとのことで・・・勅許が下りなかったのは初めてのことでした。

ここに来て・・・4月23日直弼大老に就任。。。
大老は将軍の補佐役で、幕府の最高位でした。
代々譜代大名の筆頭としての井伊家を汚すことはできない!!
再び斉昭と対峙することになります。

6月17日・・・ハリスは突然会談を求めてきました。
直弼は、岩瀬忠震を派遣します。
ハリスは東アジアの状況が急変し、日本に危機が迫っていると言いました。

英仏連合軍が清国との戦いに勝利、次の標的は日本と定めて動き出したというのです。
英仏は武力で屈辱的な条約を結ばせるに違いない!!
アメリカといい条件で条約を結んでおけば、同じ条件で結ばざるを得なくなる・・・というのです。
直弼に残された時間はありませんでした。

英仏に蹂躙されないためにも・・・!!

勅許をもらって調印するか?
でなければ内乱が起こる・・・!!
そうなれば、斉昭の説得はどうする??


勅許を待たない??
清国のように支配下に置かれてしまう・・・!!
天皇の意に背けば、幕府の威信はなくなってしまう・・・??

どちらからも圧力をかけられる直弼・・・どうする??

6月19日・・・日米修好通商条約は締結されました。
天皇の勅許をえないままの条約調印でした。

この事で・・・”開国の英傑”と呼ばれるようになった直弼。
しかし、「公用方秘録 木俣本」が発見されました。
最近見つかったこの本は、あまり知らされることはありませんでした。
そう、直弼を傷つけないためにも・・・。

従来の公用方秘録では、全て自分が責任をとる言っていますが・・・。
そんなことは言っていない・・・激しく動揺していたようです。
彦根では神さま扱いだった直弼・・・
この本は、表に出せないものだったのです。

岩瀬たちは、昌平坂学問所の出身で・・・この中では、ペリー来航以来、日本がどのような立場をとっていったらいいか?をたくさん議論していました。
つまり・・・岩瀬たちは、条約締結しかありえない!!と、腹をくくっていたのです。

その結果として・・・直弼は、条約締結しかありえない!!と思っていた官僚を、抑えることができなかったということなのです。

条約調印を知った斉昭ら攘夷派の大名たちは・・・6月24日、無断で江戸城に押しかけます。
大名たりとも、無断の登城は御法度です。
水戸の斉昭、尾張の慶勝、越前・松平慶永・・・激しく糾弾されます。

無視されてしまったことに、孝明天皇も激怒!!
怒りにかられた孝明天皇は、幕府の改革を求めました。
孝明天皇は、この無断調印に対して、公武合体し、国内を治めるよう・・・
幕府より先に、水戸藩に命を下したのです。
立場の無くなった幕府・・・

直弼は、反撃に出ます。
水戸藩による朝廷工作の証拠を探し始めました。
情け容赦ない探索と捕縛が繰り返されます。
これが、安政の大獄です。
直接斉昭が関与した証拠を掴みたい・・・!!
直弼の追及は、とどまることを知らず・・・
1年間で100人余りが刑を受け、8人が重罪の死罪となりました。
その半数が水戸藩士でした。
斉昭が朝廷と接触したという証拠は遂には見つからず・・・
幕府を批判したことを咎められ、永蟄居、これは終生にわたる謹慎だったのです。

直弼を名君と賞賛していた吉田松陰も・・・
斉昭との関わりは明らかにされないまま・・・しかし、幕府を強烈に批判し、老中暗殺を企てということで・・・刑に処せられたのです。
直弼に対する恨みは募るばかり・・・
水戸藩士たちが脱藩し・・・直弼暗殺計画が始まるのでした。
1860年3月3日・・・江戸城桜田門・・・季節外れの雪のなか・・・直弼は江戸城に向かっていました。
警備の侍・26人を伴っての登城でしたが・・・水戸浪士・薩摩藩士18人の襲撃・・・
わずか十数分の攻防で・・・直弼は凶刃に斃れたのでした。

その1年以上も前に・・・孝明天皇からは”叡慮氷解”がなされていました。
そう、孝明天皇は、無断調印を許してくれようとしていたのですが・・・そこには、”鎖国に戻しておく”という条件が付けられていたのです。
かえって混乱を招いてしまう・・・。

その事実は、直弼暗殺から2年・・・表に出ることはありませんでした。

しかし、将軍に仇名す者は自分が死のうが引き受ける・・・
たとえ殺されようとも・・・!!
それが、譜代大名・井伊家の務めだったのです。

通商条約調印の翌年、横浜に港が開き外国との交易が始まりました。
江戸の近くに港を置いて、利益を独占し、幕府の立て直しを図るのですが・・・
直弼の死から7年後・・・過熱した尊王上運動によって幕府は斃れるのです。

その後の日本は、直弼の描いたような交易による近代化を図っていくことになります。


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