歴史に学ぶ長命はこうして、短命はこの結果―粗食と摂生で天下を取った家康、ストレスと短気で滅びた浅野内匠頭

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1701年・・・元禄14年3月14日・・・
ひとりの大名が、無念の命を散らしました。
asano播州赤穂藩主・浅野内匠頭長矩です。
切腹の理由は、江戸城・松の大廊下で、高家筆頭・吉良上野介に斬りつけたということでした。
これが、歴史的な忠臣蔵の仇討ちへと進んでいきます。

どうして刃傷事件を起こしたのでしょうか?

浅野内匠頭の名を世に知らしめたのは・・・
もちろん忠臣蔵です。
この物語は、討ち入りから46年後、大坂・竹本座で公演された「仮名手本忠臣蔵」がベースとなっています。
ストーリーは・・・
吉良上野介に罵倒された浅野内匠頭が、怒りに耐え切れずに吉良に斬りかかり・・・
その咎で即日切腹となりました。
その後・・・家臣・大石内蔵助をはじめ四十七士が、主君の無念を晴らすべく、吉良邸に討ち入り、上野介の首を取り本懐を遂げるというものです。


浅野内匠頭は物語の中で、沈着冷静・清廉潔白に描かれています。
が・・・本当の浅野内匠頭は・・・??

1667年、赤穂藩江戸屋敷で生まれた浅野内匠頭長矩。
1675年に父・長友が死去、赤穂藩5万石の3代藩主となったのは、9歳の時でした。
1680年には、従五位下となり内匠頭の官職を賜りました。
内匠頭とは、もともと御所の建築・内装工事を務める頭を表すものでしたが・・・当時は既に、名前だけになっていました。

浅野内匠頭・名君伝説
①大名火消
14歳の時、赤坂で火事が発生!!
幕府から大名火消として出動し、家臣たちを従えて消火活動し、見事に延焼を防ぎ。。。
自ら火の中に飛び込んで陣頭指揮を行ったと言われています。
これを見た加賀藩主・前田綱紀は・・・
「尋常なものには、とてもあれだけの働きは出来まい。」と感心したといいます。

これ以来、火事が出ると出動を要請され・・・火消上手の大名としてその名を轟かせます。

②勅使饗応役
1683年・・・17歳の内匠頭は、勅使饗応役に抜擢されました。
それは、江戸にやって来た天皇の勅使の接待役で、重要な役でした。
この時、指導役だった吉良上野介と無事に大役を務めあげています。

将来を嘱望される大名となっていた浅野内匠頭。。。

35歳の時、運命を変える事件が・・・
1701年3月14日。。。
この日は年賀の挨拶の返礼として、朝廷の勅使が江戸城に挨拶にやってくる大切な日でした。
5代将軍綱吉も、儀式のために身支度をしていました。
この時・・・18年ぶりに勅使饗応役に就いた浅野内匠頭。
指導役も、前回と同じ、高家・吉良上野介でした。

kira高家とは・・・幕府と朝廷の間を取り持ち、江戸城の儀式を担当する家で、室町将軍家の血筋を引く名門でした。
吉良の石高は4200石、浅野内匠頭は5万石でした。
が・・・官位は吉良が従四位上左近衛権少尉と、吉良の方が5ランクも上でした。

事件が起こったのは、午前11時過ぎ・・・儀式直前。
江戸城本丸御殿で最も長い廊下・・・松の廊下でした。
突然、浅野内匠頭が吉良を斬りつけたのです。

吉良は慌てて逃げるものの、追いかけて斬りつける浅野内匠頭。
吉良は、命は助かったものの・・・傷を負ったのです。
事件を起こした浅野内匠頭は、その場にいた梶川与惣兵衛に取り押さえられました。
梶川の日記によると・・・

「上野介に恨みがあったので、江戸城内であり、大事な儀式の日でもありましたが、止むを得ず討ち果たした」

と言ったとか・・・。

しかし、理由が何であれ、殿中で刀を抜くことは、死罪と決まっていました。
死を覚悟した刃傷事件・・・それは・・・??

浅野内匠頭が刃傷事件を起こす前、吉良との間に・・・

老中たちの面前で、
「内匠頭殿は、万事不調法で、言うべき言葉もない。
 勅使たちも不快に思われている。」
と言ったとか。。。
そして、内匠頭はその後も執拗に嫌がらせを受けたとか・・・
どうして吉良は嫌がらせをしたのでしょうか?

その原因は・・・
①塩田説
当時の塩の精製方法は、揚浜式塩田でしたが・・・人力で浜に揚げるのは大変な労力を必要としていました。
が・・・赤穂藩は・・・入浜式塩田で・・・
満潮と干潮の間に水門を作り、塩田脇の水路まで海水を引き入れていました。
非常に効率がよく、生産性が良いので、この塩は米に換算すると2万8000国にもなっていました。
赤穂藩の財政を潤していたのです。
吉良は、この塩田の仕組みを教えてほしいと内匠頭に頼んだものの、無下に断られ・・・
嫌がらせが始まったというのです。

が・・・吉良の領内には塩田はなかったことが解りました。
なので、塩田説は無かったようです。

②賄賂説
刃傷事件を聞いた尾張藩士・朝日文左衛門は自信の日記に・・・
「吉良は欲が深く、諸大名は賄賂を贈って色々と教えてもらっていた。
 赤穂藩の江戸家老は、内匠頭へ賄賂を贈るように進言したが・・・
 ”賄賂などを送ってへつらうことはない”と、送らせなかった」

その為、嫌がらせが始まったのでは・・・??とも言われています。

吉良は強欲だったようですが・・・
浅野内匠頭は清廉潔白??

③横恋慕説
歌舞伎の仮名手本忠臣蔵では、吉良が内匠頭の妻に横恋慕したとなっています。
内匠頭は愛妻家??

内匠頭は17歳で三次藩主・浅野治長の娘・阿久利と結婚。
仮名手本忠臣蔵では、阿久利はたいそうな美人で、阿久利に吉良が横恋慕して・・・しかし、なびかない阿久利。
そこから夫・内匠頭に対する嫌がらせが始まりますが・・・。
実際に、吉良が阿久利に会う可能性はゼロに近いので、ありえないと思われます。

正室一筋だったという内匠頭。
本当は??
非常に女好きで、側室を献上すると立身出世すると書かれています。
昼も夜も奥で女性と遊び、政治は家老に任せっきりでした。

内匠頭は切れやすい性格だったようで・・・
刃傷事件もこの性格が災いして起こったと思われます。

刃傷事件を起こしたあと、内匠頭は陸奥一関藩邸に預けられます。
ほどなく・・・切腹の申し渡しが・・・
五代将軍・綱吉は、朝廷の使者を迎える大事な儀式の場を汚されたことに激怒し、即日切腹を申し付けたのです。
大名に対してここまで厳しい処分が行われたのは前代未聞でした。
が・・・吉良は喧嘩両成敗になることもなく・・・お咎めなしだったのです。

吉良が刀に手をかけていたのか??
そこがポイントで、吉良は刀には手をかけていませんでした。
殊勝であるとお褒めの言葉までもらった吉良。

内匠頭は・・・
「今日の不調法な行動は、どのような厳しい処分を命じられても仕方のないところ。
 切腹と命じて頂き、ありがたく存じ奉ります。」
斬罪ではなく切腹・・・武士・・・内匠頭にとっては大変ありがたいことでした。

ドラマなどではサクラの舞い散る中、悲劇として描かれることが多いのですが・・・
実際は??
切腹の美談
①辞世の句

「風さそふ
  花よりもなを
    われはまた
 花の名残を
   いかにとかせむ」

花に・・・吉良を討ち果たせなかった恨みを込めたこの有名な句。
果たして内匠頭は吉良の生死を知っていたのでしょうか?

刃傷事件は午前11時過ぎ・・・
内匠頭はすぐにとらえられ、取り調べを受けました。
一方吉良は治療を受け・・・
わずか4時間後の午後3時ごろ、内匠頭は罪人として江戸城を出され、田村邸にお預けとなりました。
その間・・・内匠頭は隔離されていました。
吉良の生死を知ったのは田村邸??

田村邸では・・・知らせるかどうか?悩んでいたようです。
が・・・何も聞かない内匠頭。
どうも、吉良を討ち果たしたと思っていたようです。
この辞世の句は、多門伝八郎の覚書にしか載っていません。
吉良が死んでいたと思っていた内匠頭には書くことができず・・・伝八郎の創作だと言われています。

②涙の別れ
内匠頭が切腹をする直前、江戸詰めの赤穂藩士・片岡源五右衛門と最後の別れをしたと言われています。
が、赤穂藩邸もてんてこ舞いのこの状況で、会えているかどうかもわかりません。
この、涙の別れも伝八郎の創作と考えられます。

実際の切腹は、午後6時ごろ、内匠頭は田村邸の庭に出され、畳二畳ほどの毛氈の上で・・・5万石の大名としては粗末なところで切腹したのでした。
浅野内匠頭長矩、35年の生涯でした。

この事実はすぐに国許に!!
国家老・大石内蔵助良雄は、国許で、藩主に代わって留守を守る最高位の家臣で、大石家は代々この地位にありました。
19日夜には第2報が・・・!!
藩主・浅野内匠頭の切腹と、赤穂藩のお取り潰しでした。
パニックとなった家臣たち。。。
浅野家断絶に当たって路頭に迷う家臣たちに切米・・・その年の給料の全額払いをします。
さらに、割賦金(退職金)を身分の低い者ほど手厚く配りました。
この大石の判断が大混乱を防いだと言われています。
一方、領民たちは・・・餅をついて喜んでいた!!とも言われています。
当時は普通、年貢は四公六民でしたが、赤穂藩では六公四民という税制・・・解放される喜びだったのです。

しかし・・・藩主たちにとっては、忠義を尽くす主君・・・
四十七士が主君の仇の首をとる!!決断をしました。
決して失敗は許されない、主君の仇討ち・・・!!
刃傷事件から1年9か月後の1702年(元禄15年)12月14日・・・
赤穂浪士四十七士は吉良邸に討ち入りし・・・わずか1時間で吉良を打ち取るのです。
江戸時代いろいろな仇討がありましたが、家臣が主君の仇討ちをしたのは、これ一つしかありません。

吉良邸を出た四十七士たちは、かつての赤穂藩邸前を通って浅野内匠頭の眠る泉岳寺に・・・!!
墓前に吉良の首を供えるのでした。
1703年2月4日・・・四十七士たちは、市中を騒がせた罪で切腹!!
武士道が失われてきていた元禄時代・・・
命がけの仇討ちは、世間で大いに賞賛されます。
わずか12日後には、江戸中村座で上演されます。
その後も・・・たくさんの芝居が・・・家臣たち、主君浅野内匠頭が美化されていきました。

悲劇のヒーロー像は、歴史が創り上げたものだったのです。

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