伊達政宗 秀吉・家康が一番恐れた男

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2012年に土蔵から貴重な資料が・・・
ここにはある武将のたくらみが書かれていました。
差出人は・・・遅れて来た英雄・・・伊達政宗。23歳の時に認めた密書でした。
裏切りをたきつける伊達政宗。。。そこには天下争奪への策謀がありました。

しかし・・・その野望を打ち砕こうとしていたのは、天下統一に邁進する豊臣秀吉でした。
22万の大軍勢で北条討伐へと向かう小田原攻め。。。

”北条氏を成敗すれば、そのまま黒川城に攻め入って政宗の首を刎ねる”

秀吉の視野には、政宗討伐が入っていました。
圧倒的な軍勢を前に・・・服従するか??
北条と共に戦うか??
政宗は人生最大の選択を迫られます。

1582年本能寺の変で織田信長が討ち死にすると・・・天下人に名乗りを上げたのは豊臣秀吉でした。
秀吉は破竹の勢いで西日本を制圧!!
その頃・・・未だ小国が割拠し、混乱の中にあったのが東北・・・
そんな中、一人の大名が家督を継ぎました。
遅れてきた英雄・伊達政宗です。
1560年、18歳という若さで伊達家当主となります。
その容赦ない戦い方は、近隣諸国を震え上がらせます。
本気で関東の先に天下を見ていたようです。

政宗が天下を狙う理由は・・・
伊達家は古くから室町幕府と結びついた名家でした。
2代前の当主は、奥州探題に任じられています。
室町幕府は潰えたものの・・・その意識は政宗のなかにも受け継がれていました。
中央を目指して・・・!!

しかし、天下統一はあまりにも先に進んでいて・・・
1587年豊臣秀吉九州平定。
織田信長の死からわずか5年で西日本を手中に治めます。
そして・・・東国支配へ!!
その東国の有力武将は北条氏と伊達氏でした。
伊達と北条が組めば、秀吉にとって強大な敵となる・・・??
関白の座についた秀吉は、惣無事令を発布します。
自分達の勝手な戦いを禁止し、討伐の対象としました。
さらに・・・京の都に上洛させ、服従の意を示させます。

これに反し、政宗は、奥州探題を大義名分に会津黒川城奪取。
奥羽66軍の半分を掌握しました。
上洛もせずに秀吉をかわし続ける政宗・・・。
関東では、北条方の武将が豊臣配下の城を奪うことに成功!!
北条氏は恭順しない??と解った秀吉には、この事件は攻め入る格好の大義名分となりました。

1589年11月・・・秀吉は、宣戦布告状を北条氏に送ります。
北条攻めの宣言です。
同時に秀吉は、同じ書状を大名に配布します。
それは・・・政宗のもとにも届けられました。
小田原参陣を要請された政宗は、徐々に追い詰められていきました。

1590年3月1日豊臣秀吉小田原攻めへ出兵。。。
諸国からの援軍22万の大軍勢となっていました。
最早・・・秀吉への態度を明らかにしなければ・・・どうする??政宗!!

北関東の武将に密書を送っています。
1589年10月30日の佐竹氏への手紙には・・・
すでに、秀吉に服従している佐竹氏の武将に内側から切り崩してくれるようにと書かれています。
政宗は、関東進出が秀吉との直接対決に繋がる可能性が高いと考えていました。
政宗の勢力拡大と秀吉の宣戦布告・・・。

1590年3月29日、豊臣軍が北条領内に侵入しました。
着々と小田原城に迫る!!
政宗に猶予はありませんでした。

伊達家存続のためにも恭順する??

北条について敵対する??

戦いの舞台は小田原城!!
上杉謙信も、武田信玄も落とせなかった難攻不落の名城です。
この時は、拡張整備もされ・・・巨大な総構えは9キロに及びました。

政宗は秀吉の圧力の中、北条氏との軍事同盟を結んでいました。
北条が秀吉と敵対する意向なら、自分も敵対したい!!
秀吉には飲み込まれたくないと思っていたようです。
もう一人・・・カギを握るのは徳川家康。
もともと北条とは姻戚関係にありました。
仮に・・・北条・徳川・伊達の東国連合ができれば、日本を二分する勢力と成り得たのです。

恭順する??敵対する??いずれにしても死を覚悟しなければなりませんでした。

悩んだ果てに恭順を選んだ政宗・・・
そこには腹心・片倉小十郎景綱の進言がありました。
ところが・・・伊達家家中は混乱!!母に毒殺を謀られます。
一命をとりとめた政宗は、弟を殺害!!母は、実家に逃亡してしまいました。

この騒動で出発を延期・・・引き返し・・・遠回り・・・などをしているうちに、4月、豊臣軍小田原城包囲!!
着々と小田原城攻めが進む中・・・政宗が参陣したのは2か月後の6月5日のことでした。

秀吉への謁見は許されず、箱根山中の底倉に幽閉され・・・6月9日秀吉への謁見命令が下されます。
審判の時・・・!!
そこで政宗は・・・白装束に身を包み、死を覚悟して・・・切腹覚悟で臨みます。
秀吉は・・・
「もう少し来るのが遅ければ、ここ(首)が危なかったな」と、政宗を許しました。
処刑を免れた政宗・・・
しかし、秀吉傘下に入ったことから政宗の運命が変わっていくのです。

豊臣軍は、北条の城を攻め・・・じりじりと押され、7月5日小田原城開城!!
遂に、100年続いた関東の雄・北条氏滅亡!!
東国から巨大勢力が無くなったことで、政宗の天下の夢も潰えたのでした。

その後・・・領国経営に邁進していく政宗。
金山採掘、新田開発、江戸の米相場を支配するまでになり、仙台藩の実質石高は100万石になったとも言われています。

徳川政権のもと、有力大名となっていく政宗でしたが、虎視眈々と野望を持っていました。
仙台城は豪華絢爛で、他に例をみないほどのお城・・・
その中でも大広間・・・政宗の座す上段の間の奥には・・・上々段の間がありました。
ここには天皇や将軍などを迎えるための部屋でした。

上々段の間がある建物は・・・秀吉の作った聚楽第・・・政宗の天下の夢がそこにはありました。

さらに政宗は、スペイン使節を派遣。
親交を結ぼうとし、幕府を倒し、自分は奥州王になろうとしていた可能性があります。
家康が危篤になると・・・政宗謀反の噂が・・・諸大名は危惧します。
いつも世が変わるとき・・・政宗の噂を皆がしました。

12歳の弟を殺したと言われる政宗・・・しかし、その弟・小次郎は大悲願寺で生きていた可能性があります。
毒殺未遂事件に関しては、矛盾がありました。
事件後、母が実家に帰ったのが4年後だったという資料が存在します。
これが事実であれば、小次郎殺害は、小田原参陣のため、家臣団の一本化を図ろうとしたためではないか?と、考えられるのです。
政宗と母が仕組んだ偽装工作・・・狂言をしたのでは??
自分が死んだら、伊達家を継ぐのは弟しかいない!!
死を賭して臨んだ小田原参陣・・・たとえ命を落としても伊達家を存続するという計略。
数々の謀略を立てた伊達政宗。。。
1636年亡くなります。享年70歳でした。
天下取りに兵を挙げることはありませんでした。

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