遣唐使 阿倍仲麻呂の夢 角川選書 / 上野誠 【全集・双書】

価格:1,944円
(2015/11/12 14:51時点)
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「天の原
  ふりさけ見れば春日なる
   御蓋の山にいでし月かも」

この句を異国の地で詠んだのは、望郷の歌・・・この作者は阿部仲麻呂です。
遣唐使として唐にわたり、二度と日本の土を踏むことなく生涯を終えました。

仲麻呂が生きた時代は、追い立てられるように強い国家を作ろうとしていました。
遣唐使たちが唐から最新の政治制度や文化を持ち帰っていました。

仲麻呂は唐の都・長安で遣唐留学生として学んでいました。
その後、日本人で初めて唐の官僚に抜擢されます。
時の皇帝・玄宗の側近に・・・!!

しかし、日本に戻るのが遣唐使の役目・・・どうして仲麻呂は帰らなかったのでしょうか??
異国の地でどんな活躍をしたのでしょうか??

それは、日本の外交、国際情勢と密接につながっていました。
仲麻呂が直面した東アジア世界とは・・・??

645年に建てられた奈良県桜井市にある安倍文殊院は、安倍一族の氏寺です。
安倍一族は飛鳥時代から朝廷に仕えた中級貴族でした。
文殊院の周囲一帯は一族が住んだ場所でした。
701年、仲麻呂はこの場所で生まれたとされています。

文殊院には、仲麻呂の像が祭られています。
仲麻呂は幼いころから学問に秀で、遣唐留学生に選ばれたのは十代半ばでした。
大きな期待を背負って・・・
安倍一族の興隆は、朝廷での活躍・・・修行を終えたら日本へ戻って出世することが大きな目標でした。
遣唐使は出世の大きなチャンスだったのです。
717年の遣唐使に選ばれ・・・総勢557名・・・その中には吉備真備もいました。
一行は4隻の船に・・・すし詰め状態でした。
717年春・・・仲麻呂は日本を出発・・・。

造船技術、航海技術も未熟で、沈没することもあったこの時代・・・遣唐使はまさに命がけでした。
そうまでした唐に赴く理由・・・

当時の日本は、強烈な危機感に襲われていました。
663年の白村江の戦い・・・朝鮮半島での戦いで、日本は唐・新羅の連合軍の前に大敗を喫します。
このままでは、国の存続は危うい・・・
ということで、唐との外交関係の立て直しと、強力な中央集権国家の樹立を急務としました。
その時・・・モデルとしたのが、東アジアの最強国・唐の国家体制でした。
遣唐使の任務は、最先端の政治制度や文化を輸入すること。
中でも最大の使命は、律令を学び取ることでした。
律令は、中国の代々の王朝が作り上げてきた国家の基礎となる法律のことです。
律=刑法、令=行政法に値します。
戸籍制度、官僚制度・・・日本は唐の律令を学びながら、独自の律令を作っていきました。

701年大宝律令完成。
しかし、律令を使いこなすことには不安があったようです。
実際の唐を見て、体験することを必要としたのです。

国づくりのための知識と経験の蓄積・・・安倍一族の隆盛・・・
多くの使命を背負い、4か月後に唐の都・長安へ・・・
次の遣唐使船が来るのは20年後・・・専門分野に分かれて勉強します。
圧倒的に優秀だった仲麻呂は、日本人として初の太学に入学!!
ここで、儒教を専門的に学びました。
儒教を学ぶことは、律令には欠かせない・・・
法律の理想や理念は、儒教によって形作られていました。
それを理解しなければ、律令は運用できない・・・!!
学び終えた仲麻呂・・・しかし、遣唐使船まではあと10年ほど残っていました。

そして異例の・・・日本人として初めて唐の官僚となります。
最初についたのは校書・・・宮廷の蔵書の誤りを正すことでした。
エリートが最初に任官するポジションでした。
順調にエリート街道を・・・31歳で左補闕となります。
左補闕は、玄宗皇帝と行動を共にし、政治の行き過ぎがあった場合にいさめるという・・・まさに皇帝の側近でした。
仲麻呂が順調に出世できたのは、多くの人脈を持っていたこと。
そこには、王維や李白もいました。
宮廷では、漢詩の才能が不可欠で・・・仲麻呂はたぐいまれな才能だったようです。

15年・・・遣唐使の枠を飛び出して、活躍する仲麻呂!!

733年遣唐使 唐に到着!!
自分が学んだものを日本にもたらす時がやってきました。
しかし、日本には帰国せず、唐に留まることにしました。

「親孝行のため、皇帝陛下に帰国を申し出た
 しかし、許されなかった。
 父母の恩に報いようとしても、我が人生に残された日はあるのか。
 もはや、予想することすらできない。」
 
仲麻呂は、玄宗に帰国を申し出るも、許されなかったのでしょうか?
中国の書には・・・
「阿倍仲麻呂は、中国の文化を好んだため、日本へは帰らず、玄宗皇帝のそばで出世した。」と書かれています。
自分の意志で帰らなかった・・・??


唐に留まる道を選んだ仲麻呂・・・。
その後、仲麻呂は、玄宗の側近として東アジアをまたにかけた外交官のような働きをします。
734年、遣唐使・吉備真備・平群大成が帰国の途に就きました。
が・・・平群大成の船は、暴風雨で今のベトナムに漂着します。

なんとか生き残った平群は1年後に長安に戻り、日本に帰りたいと訴えました。
次の遣唐使を何年も待つのではなく・・・渤海を通して帰国できるように取り計らう仲麻呂。
そしてこの計画を許してくれた玄宗。。。
739年平群大成は帰国することができました。

53歳で秘書監にまでのぼりつめます。
秘書監とは、国家の重要文書を管理する組織の責任者です。
文人官僚としてのトップについたのです。


752年遣唐使到着・・・。
遣唐使・大友古麻呂による争長事件が起こります。
それは、皇帝に挨拶をする朝賀の儀で起こりました。
唐の官僚をはじめ、唐に朝貢する国々の大使たちが年に一度の外交を行うために、大迷宮へやってきました。

古麻呂は唐に異議を申し立てます。
続日本紀によると・・・
「昔から新羅国は日本国に朝貢している国でございます。
 ところが新羅国が上席になっております。
 我が日本国は、それより下位であります。
 これは道理に合わないことでございます。」と・・・。
席順は・・・新羅が東側の1番、日本は西側の2番でした。
古麻呂は、新羅より下座であることはおかしいと訴えたのですが、その背景には日本の外交政策がありました。

当時、東アジアの外交は、絶対的な力を持つ唐が中心で、唐は自らを世界の中心とし、周辺諸国を臣下とし、朝貢を要求していました。
日本も唐に対して朝貢を行っていました。
しかし・・・天皇を頂点とする集権国家を目指していた日本は、国内では日本こそが世界の中心であるとしていたのです。
そのため渤海や新羅に対して朝貢を要求し、日本が上位であるという姿勢を貫いていたのです。
日本では世界の中心は天皇・・・だったのです。
しかし、国際外交ではいかがなものかな事でした。

この古麻呂の主張は受け入れられ・・・席次は入れ替わります。
古麻呂は国に帰ってからこのことを誇らしげに語ったと言われています。
丸くおさまったのは、仲麻呂の仲介があったからなのでしょうか??
事件のあと・・・玄宗皇帝は古麻呂たちに特別待遇を与えます。
皇帝のための経典を収めた三教殿や、政府の重要書を収めた府庫へと案内させ・・・その案内人が仲麻呂でした。
外国使節には与えない待遇を見せたのは、仲麻呂に対する皇帝の信頼があったからでしょう。
仲麻呂を通して日本に対して親近感があったのでしょう。
唐と日本の架け橋となった仲麻呂・・・。
結局古麻呂が示したダブルスタンダード外交が、大きな国際問題となることはありませんでした。

仲麻呂が玄宗の側近をしていた時代、唐は安定し人々は太平の世を謳歌していましたが・・・
745年玄宗が、絶世の美女・楊貴妃を迎えると、右腕・李林甫に政治を任せてしまいます。
強大な力を持った李林甫は、敵対勢力を次々と粛清・・・
反発した者たちが李林甫を追放!!
権力闘争が巻き起こりました。
752年遣唐使が長安に到着。。。
仲麻呂は、日本への帰国を玄宗に申し出ます。
唐に来て36年・・・どうしても帰りたい。。。
玄宗は仲麻呂に対し・・・帰国を許します。
どうして、国内が混乱の中、帰国を許したのでしょうか??

李白や王維が来た盛大な送別会で仲麻呂が謳った歌に・・・
「今まさに皇帝陛下の命を身に受けて唐を去ります。」とあります。
受けた命・・・それは、玄宗皇帝から天皇に向けた国書を託された??

王維が仲麻呂に送った歌に・・・
「敬問の詔を懐に携えて 君は旅立とうとしている
 金簡玉字のごとき尊き教えの書が
 今遥かなる国 日本に伝えられようとしている」
とあります。

金簡玉字は、道教の書・・・道教の教えを仲麻呂に託して日本に伝えようとしたと思われます。
道教は、儒教、仏教と並ぶ中国三大宗教の一つで、不老長生を目指すことで信仰を集めてきました。
道教に心酔していた玄宗が、それを近隣諸国に広めることで権威を広めたかったのかもしれません。

そして仲麻呂は・・・753年唐を出発・・・日本へと旅立ちます。
沖縄についたものの・・・天候のために漂流し、ベトナムへ・・・。
長安には、仲麻呂は遭難し、死んでしまったという連絡が届きました。
友人の詩人・李白な、声をあげて泣き、漢詩を作りました。
「君を乗せた一層の船の帆の影は、遠い遠い日本へ去っていった。
 そして明月のごとく明るい君は、碧い海に沈んでしまった。
 今、深い悲しみに満ちている。」
 
ところが、仲麻呂は生きていました。
命からがら1年かけて長安に戻ります。
しかしさらなる過酷な運命が・・・

755年安禄山の乱。
安禄山は、15万の大軍で長安を占領しました。
756年玄宗は、身の危険を感じ、蜀へと逃れます。
ここに玄宗の太平の治世は終わりをつげ・・・唐は、緩やかな衰退の道をたどるのです。

そんな中、仲麻呂は唐の官僚として生き続けていました。
最後の仕事は・・・766年鎮南都護に就任。
770年・・・異国の地で壮絶な人生を終えるのでした。


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