築山殿と徳川家康―徳川氏の謎と伝説―

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戦国の世を制し、太平の世を築いた徳川幕府初代将軍・徳川家康。。。
崇められた家康は、神・・・東照大権現にまでなりました。

そんな家康の輝かしい歴史の中でタブーとされたのは・・・
1579年8月・・・家康の正室・築山殿は、岡崎から浜松城へと向かっていました。
城まであと2キロ・・・付き添っていた家臣が突然刀を抜いて、築山殿を襲いました。
築山殿事件・・・殺害を命じたのは・・・当時38歳だった夫・徳川家康でした。
どうして・・・??

好色家と言われていた家康は、生涯で17人の正室・側室がいました。
最初の妻が築山殿・・・二人は同じ1542年生まれ・・・戦国の世でほんろうされて育ちました。
家康は、岡崎城主・松平弘忠の長男・竹千代として生まれました。
当時の松平家は弱小・・・東を今川、西を織田に挟まれ強大な勢力に挟まれた苦しい領国経営でした。
織田家とは・・・祖父の代から激しい敵対関係・・・
松平家は、家康を今川家に人質に出すことで支援を得ていました。
足利将軍家の流れをくむ今川家は、名門中の名門・・・当主・義元は優れ、天下人に最も近いと目されていました。
家康を人質にした義元は、岡崎城に家臣を送り込み、三河の領政権を掌握し・・・尾張の一部まで支配を広げていきます。
今川家の居城のある駿府に送られた家康は・・・人質として束縛された生活を送っていました。

築山殿は・・・義元の義妹と今川家家臣・関口親永の娘・於瀬名として生まれました。
和歌などの教養を受け、何不自由ない生活を送っていました。
義元は・・・家康に嫁がせ、徳川と姻戚関係を結びます。
今川家が松平家を支配下に置く・・・そんな状況でした。
そして・・・今川義元の考える政略結婚をすることになった家康です。

政略結婚であったものの・・・仲は良かったといいます。
しかし・・・時は戦国・・・その幸せは音を立てて崩れていきました。
結婚から3年後・・・1560年5月19日、桶狭間の戦いで信長に討たれた義元!!
総崩れとなった今川軍・・・
家康は、義元の先発隊として最前線の大高城にいました。
松平家の菩提寺・大樹寺に逃げ込んだ家康・・・もはやこれまで!!と、先祖の墓の前での切腹を考えますが、住職・登誉上人から”太平の世を築くために生きよ!!”と言われて踏みとどまりました。
家康は、今川がいなくなりもぬけの殻となった岡崎城に入り、念願だった城を取り戻し・・・
悩んだ末に家康は、織田と手を結ぶことにします。

1562年清州同盟を信長と結び、今川家からの独立を果たしたのです。
背後を気にすることなく今川・武田と戦えることとなった家康・・・
しかし、今川一門の血を引く築山殿には悲劇の始まりだったのです。
家康の裏切りによって今川を敵に回した築山殿は・・・竹千代君とともに今川家の人質になってしまいました。
この人質問題は、家康も悩ましく・・・自分の思い通りには動けません。

築山殿たち奪還のための策を練ります。
東三河の鵜殿長照を攻撃!!ようやく攻め落とし・・・長照の子、氏長・氏次兄弟を捕らえ・・・
鵜殿家は今川家と親戚関係にあったので、今川家と人質交換を求め・・・成功するのです。
晴れて解放され岡崎城に住むことになった築山殿・・・
待っていたのは屈辱的な対応でした。
岡崎城に入ることは禁じられ、幽閉同然の生活だったのです。
夫婦の溝も深まっていたようです。。。

今川を破った信長の勢いはとどまるところを知らず・・・美濃を攻め落とし、天下人への道が開けていきました。
一方家康は・・・今川が弱まったとはいえ後ろの武田が虎視眈々と狙っていました。
家康は信長との結びつきを強めるために、竹千代に信長の娘・徳姫を正室に迎え、元服すると竹千代→信康(信長+家康)となりました。
徳姫との夫婦仲もよく、二人の女の子を設けますが・・・男の子が生まれていなかったので心配した築山殿は、側室を取ることを薦めます。
このことがきっかけとなり、二人の仲は冷めていきます。
この不仲・・・信長も家康も知っていたようです。

信康と徳姫が結婚してから12年後の1579年・・・
徳姫は信長宛に一通の書状を出します。
12か条からなるその文には・・・
夫・信康について”乱暴な振る舞いが多く、踊りの下手な者に腹を立てて弓で射殺した”とか”鷹狩りで獲物がなかったと不機嫌になり、通りがかった僧侶をなぶり殺しにした”とか記し、築山殿に関しても・・・
”ありもしない噂を広め、自分と信康との仲を裂こうとしている”とか”築山殿は自分に意地悪で、武田家臣の娘、を信康の側室にした”とかが、築山殿と信康を貶めるためのことが書かれていたのです。

信長が、家康の使者・酒井忠次を呼んで真偽を問いただしたところ・・・
「十か条は真でございます。」by忠次
信康と築山殿を庇わなかった・・・
事実に激怒した信長は、信康の処分を要求します。
家康側は・・・この話し合いに紛糾!!
しかし・・・まずは岡崎城から浜松城に向かう途中の築山殿を殺害!!
その半月後・・・このとき21歳の信康に自害を申し付けたのです。

本当に信長の命だったのでしょうか??
信長の命令だった・・・という可能性は低いと思われます。
12か条の真実とは・・・??
この書状は残っていません。
これは、江戸時代に入ってから書かれた「改正・三河後風土記」に書かれています。


”築山殿は自分に意地悪で、武田家臣の娘、を信康の側室にした”
しかし・・・跡継ぎができない=側室を迎えるということは、当時としては当たり前のことでした。
”ありもしない噂を広め、自分と信康との仲を裂こうとしている”
仲が悪くなっていたのは事実ですが、築山殿が裂いたかどうか?それはわかりません。
信康は乱暴で・・・
”乱暴な振る舞いが多く、踊りの下手な者に腹を立てて弓で射殺した”
”鷹狩りで獲物がなかったと不機嫌になり、通りがかった僧侶をなぶり殺しにした”
信康は、若いころから勇猛果敢で知られていました。
14歳で初陣を飾ると、次々と軍功を上げ、家臣たちから辛抱を得るようになっていました。
その戦いぶりは、敵将・武田勝頼から「かの小冠者長生せば必ず天下に旗を立つべし」と称されるほどで、そのようなものが理不尽な行為をするとは思えません。
現に信康が自害したとき、「上下万民は声を引き手悲しまざるはなし」と、多くの人が死を惜しんでいました。

この手紙自身の信ぴょう性が低いのです。

では、どうして後世に書き換えられてしまったのでしょうか??
それは、家康が東照大権現として神格化されていく中で、妻殺し、嫡男殺しがお命にならない必要があったのです。
信長に命じられて仕方なくやった・・・として、後世の人間が改ざんした可能性が高いと言われています。
では、どうして築山殿は殺されたのでしょうか??

築山殿は・・・悪女だったので家康が我慢できずに殺された・・・とも言われています。
浜松市御前谷・・・築山殿が殺害されたのでこの名がついたとされています。
ここの”太刀洗の池”で・・・
築山殿を殺した家臣が池で刀を洗ったところ、しばらくして池の水が枯れてしまった・・・
築山殿殺害に立ち会った一人の者が、手足が溶けて亡くなった・・・
別の者の孫娘が精神に異常をきたし、築山殿の名を叫びながらこの世を去った・・・
いずれも築山殿の怨念のせいだとされ、そんな噂は生前から築山殿に付きまとっていました。
しかし・・・意図的に悪女に仕立て上げられた可能性が高く・・・実際の築山殿は和歌好きの教養深い女性でした。
では、どうして築山殿は殺されなければならなかったのでしょうか??

信長が、時姫の書状を読んだ時にした、酒井忠次と会話は・・・
「信康殿に、我が主君・家康への謀反の疑いあり・・・
 信長様に、信康殿の処罰をお許しいただきたい・・・」
と、義理の父となる信長に、信康処罰の了承を願い出たとされ・・・
「家康の思い通りにせよ」by信長  となったという説です。

その真相は・・・??

1569年遠江を支配下に入れた家康は、1570年に浜松に居城を移しました。
岡崎城を信康に譲り・・・わずか12歳で城主となった信康。
若くして岡崎城主となったために、家康のコントロールが効かなくなっていました。
妹・亀姫の結婚問題・・・家康は、武田軍に備えるために、武田側についていた長篠城主・奥平信昌を取り込もうと、亀姫との婚儀を進めますが、信康は可愛い妹を敵方に渡すとは・・・??と、亀裂が!!
おまけに浜松城の家臣と岡崎城の家臣とが対立!!
家康の近くで軍功に恵まれている浜松派家臣VS戦のしんがりなどの地味な岡崎派。。。

1575年春、岡崎派が不穏な動きを見せました。
信康の有力家臣・大岡弥四郎たちが、武田方と内通し、その援護を受けて家康の追放を企てたのです。
そしていよいよ決行!!というときに、仲間が家康に密告し洩れてしまい・・・大岡は処刑!!謀反は未然に防げたものの、家康の不信は消えず・・・
信康を二股城に幽閉、家臣たちには内通しないという証文を取りました。
家臣たちの嘆願も聞き入れず、信康の処分を考えるようになり・・・酒井忠次が織田信長に会談したというのです。
信長の黙認によって・・・家康は、ついに信康の処分を決意したのでした。

1579年8月・・・釈明のために、急いで家康のもとへ・・・
事件はその途中で起こったのです。

それを聞いた家康は・・・
「女なのだから、殺さずに尼寺にでも入れて、生かしておけば良いものを・・・」と言ったといいます。

夫と息子の確執に巻き込まれ、戦国の世の犠牲となった女の一生・・・
この悲しい歴史が、江戸幕府成立の礎となったことは事実です。

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