忠臣蔵 決断の時 DVD-BOX

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歌舞伎やドラマでおなじみの忠臣蔵。
赤穂浪士が吉良邸に討ちいったのは、今から313年前の1702年12月14日でした。
総大将は大石内蔵助・四十七士達の忠義の精神に、日本人はずっと魅了されてきました。

元禄14年(1701年)3月14日、江戸城・松の廊下に於いて浅野内匠頭が高家筆頭・吉良上野介を斬りつける事件が起きました。
内匠頭は即日切腹!!
1年後・・・主君の無念を晴らすべく、吉良を討ち、本懐を得るのですが・・・
このことを赤穂事件と呼びます。
これをもとに創作されたのが忠臣蔵です。

現在の歌舞伎やドラマのもととなったのが1748年初演の人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」です。
仮名手本とは、仮名文字の教科書という意味で、いろは文字の四十七文字と赤穂浪士の四十七士とかけているのです。
忠臣蔵の蔵は、忠臣の話が蔵のようにたくさん詰まっていると大石内蔵助の蔵とにかけていると言われています。
上演されると大ヒット、歌舞伎にもなり、興行すれば大当たりとなりました。
全11段からなり、実際の事件を題材とするため、幕府のことを刺激しないように・・・
時代は南北朝時代、登場人物も・・・
吉良上野介は高師直、浅野内匠頭は塩谷判官、大石内蔵助は大星由良助となっています。

大石内蔵助は1659年赤穂藩国家老・大石家の嫡男として誕生します。
祖父と父が相次いで亡くなったので19歳で家督を相続します。
28歳で但馬豊岡藩筆頭家老・石束家の娘・理玖と結婚。
三男二女を設けます。

儒学者の五井蘭洲は、内蔵助のことを昼行燈と呼び、役に立たないとしていますが・・・
浅野内匠頭からは徴用されず、年に3・4回の謹慎を命じられ、家に引きこもったと言われています。
この状況を一変させたのが、松の廊下事件だったのです。
江戸から事件の一報が届いたのは、わずか4日後の3月19日寅の下刻でした。
その日の夜には第2報の早籠が・・・!!
これによって、浅野内匠頭の切腹と、赤穂藩のおとり潰し・・・吉良への御咎めなしが判明します。
大混乱の赤穂藩!!

後処理は内蔵助の双肩に・・・!!
内蔵助はこれから路頭に迷う歌人たちに切米・1年分を支給、割賦金(退職金)を支払います。
内蔵助は割賦金をもらわず、身分の低いものほど手厚くしました。
心中穏やかではない藩士たち・・・喧嘩両成敗なのに、どうして吉良は御咎めなし・・・??
吉良邸討ち入り??籠城する??恭順する??まとまりませんでした。

内蔵助の提案は・・・
籠城は恐れ多い・・・吉良の処分を訴えて城の大手門で切腹するほかないのでは・・・??
無駄死に・・・??

300人ほどの家臣のうち、神文(誓約書)を提出したのは100名ほど。。。
この神文には、忠誠を誓う以外にも内蔵助の狙いがあったようです。

内蔵助の狙いは・・・
①浅野内匠頭の弟・朝の大学による浅野家再興
②吉良上野介を幕府に処分してもらう
同じ考えの人間を、判別しようとしたのです。
はじめは赤穂城を引き渡した後・・・行動に移ろうと考えていました。
藩士たちをまとめ上げ・・・皮肉にも真のリーダーとなっていった内蔵助なのです。

1701年4月19日、討ち入りまで614日。。。
浅野家断絶により、赤穂城を幕府に引き渡した内蔵助は、残務処理を終え・・・親戚を頼って、京都郊外の山科へ・・・。
華族と一緒に暮らすための土地と家を購入し、全国に散った赤穂浪士たちと連絡を取り合って浅野家再興に向けて始動しました。
しかし、主君・内匠頭の切腹から1年・・・討ち入りを急ぐ堀部安兵衛ら急進派の我慢がならなくなって・・・
1702年2月15日、討ち入りまで323日・・・大石宅で会合が行われました。

お家の再興か、敵討ちか・・・??

妻と長男・主税以外の子供を郷里に帰した内蔵助は、主税に・・・
「もう、母も弟もいないと思え。
 寝ても覚めても上野介殿の首を討ちとるべきと一心に念願せよ」by内蔵助
こうして討ち入りを覚悟した内蔵助です。

お話では京都で遊郭遊びをして敵の目をくらましていましたが、実際の内蔵助は・・・??
京都を物見遊山していたようですが・・・
歌舞伎などでは祇園の一力茶屋で遊んでいたというのが有名ですが、一力茶屋がお金を出してのコマーシャルのようなものだったようです。
遊郭で放蕩三昧だったというわけではなさそうで・・・ストレス発散だったようです。
京都に吉良の密偵が入っていたことは確かで・・・
意図したことではなく・・・討ち入りのカモフラージュになったことも否めません。

1702年7月18日、討ち入りまで172日。。。
閉門を命じられていた内匠頭の弟・浅野大学に広島藩お預けという最終処分が決まりました。
これは浅野家再興の希望が完全に絶たれ、もはや吉良には罰が下りないことが決まりました。
内蔵助は・・・京都・山科の自宅を引き払い、江戸へと向かいます。

1702年10月7日、討ち入りまで66日。。。
内蔵助は公家に仕える武士・垣見五郎兵衛と偽り、主人の名代として増上寺へ進物を届けるという名目で江戸へと向かいました。
公家に仕える武士としたのは・・・
赤穂の旧藩士だとばれると噂になって困るということと、縁戚をたどれば公家に仕える武士がいてお願いすることができたからです。

10月21日に箱根に到着。
この時、箱根神社に立ち寄っています。
ここには仇討ちで有名な”曽我兄弟のお墓”がありました。
このお墓を少し削り、討ち入りのお守りとします。
10月22日には鎌倉に到着。
鶴岡八幡宮で討ち入り成就を祈願しています。
10月26日には、川崎宿近くの平間村に到着。
討ち入りの装束を統一するように・・・等の訓令を出しています。
11月5日には、江戸に到着・・・日本橋石町の隠れ家に・・・!!

内蔵助が江戸に入ると本格的な討ち入りの用意が・・・
当初120人いた浪士たち・・・人情事件から1年以上たっていたということもあって、次々と離反し・・・最終的には様々な47人となってしまいました。
最年少は討ち入り時15歳だった大石主税、最年長は76歳の堀部矢兵衛でした。

吉良邸は討ち入りを警戒して襲撃されてもいいように、土蔵の下に抜け道があるとか、屋敷の入り口には柵があるとか噂されていましたが・・・大石佐左エ門らが手に入れた図面では、何の仕掛けもなく・・・ごく普通の武家屋敷であることが判明しました。
なので、確実に吉良のいる日に・・・!!というのも、事件後の吉良は、討ち入りを警戒して江戸城近くの息子・上杉綱憲邸にいることが多かったからです。
江戸城の近くではリスクが高すぎる・・・!!ということで、本所に戻っている時を狙おうというのですが・・・

ここで活躍したのが、茶の湯に精通していた大高源吾でした。
お茶の師匠から12月14日に吉良邸で茶会があり、吉良も参加するということを聞きつけたのです。
決行日は12月14日!!

1702年の元禄15年12月14日・・・討ち入り!!
見事本懐を遂げます。
翌年の2月・・・幕府は赤穂浪士たちに切腹を命じます。
主君のために命を懸ける忠臣の心意気が・・・
日本人の琴線に触れ、今に受け継がれているのです。


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