藤田嗣治「異邦人」の生涯 (講談社文庫)

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東京国立近代美術館で、秋に一人の画家の展覧会が開かれました。
ひときわ目立つ位置に・・・

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1943年に書かれた「アッツ島玉砕」・・・
太平洋の小島で繰り広げられた米兵との凄惨な戦いの場面です。

現実の戦いでは存在しなかった肉弾戦・・・画家が伝えたかったものとは・・・??
この絵を描いたのは、藤田嗣治。
戦前、芸術の都・パリで日本人初の成功を修めた画家でした。

一大センセーションを巻き起こした「ジョイ布のある裸婦像」
西洋美術では見られなかった乳白色の肌・・・第1次世界大戦後のデカダンスな風潮で飛ぶように売れました。
そんな藤田がどうして戦争の絵を・・・??

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藤田嗣治・・・1886年東京牛込に生まれます。
軍人を志した兄とは反対に、内向的で絵を描くことを望む次男坊でした。

画家・藤田を語るうえで欠かせないのが、父・・・陸軍軍医総監を務めた藤田嗣章でした。
海外経験も多かった父は、絵を描く嗣治を後押しします。

1905年東京美術学校西洋画科に入学。
しかし、待っていたのは劣等生の烙印でした。
このまま日本にいては芸術家としての未来はない・・・
藤田が選択したのは、パリへの留学でした。

1913年パリへ留学!!
パリには世界中から芸術家の卵たちがやってきていました。
スペインからはパブロ・ピカソが・・・イタリアからはモディリアーニが・・・エコール・ド・パリの時代だったのです。
模倣な絵をかきながら、勉強に励みます。
絵は売れず、小さな部屋で空腹を紛らわす日々が続きました。
が・・・そんな藤田を支えたのは父でした。
海外勤務をしたりしてお金を作って留学資金をフランスへ送金します。
絵描きとして成功することが父親を喜ばせること・・・
8年たったころ、苦労が報います。

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裸婦像がサロンで入選します。
西洋の油絵とは全く違う表現方法に、パリじゅうが熱狂します。
人気画家となり1時間で絵が売れることも・・・!!
浮世絵を参考にした作品だったのです。
日本人である自分がここで勝負するためには・・・??
東洋美術の伝統を導入しようと考えて、オリジナリティのある油絵に到達したのです。

藤田は時代の寵児となり、裸婦像を増産し、夜な夜な画家仲間たちとパーティーに繰り出しました。
ドジョウ掬いや民謡を披露することも・・・”お調子者”の異名をとることになります。
が・・・そんな日々は長く続きませんでした。
1929年世界大恐慌!!
裸婦像は全く売れなくなり、放蕩した分の巨額の負債が藤田を直撃します。
一度はパリの頂点に立ったものの、このままでは埋もれてしまう!!

1939年第2次世界大戦勃発!!
ドイツ軍がポーランドに進攻・・・翌年にはパリに迫ります。
藤田は戦火を避けるように日本に帰国!!
1941年12月8日ハワイ・真珠湾攻撃!!陸軍はマレー半島で行動開始!!
太平洋戦争がはじまりました。
1942年・・・藤田の姿はシンガポールに向かう船上にありました。
従軍画家としてシンガポールに赴いたのです。

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「シンガポール最後の日」
手前には日本軍、奥には陥落寸前のシンガポール!!
実際の兵士の話をもとに書き上げました。
”当時のままの血に濡れた服装で、つらいポーズも厭わずモデルになってくれた。
 僕もすっかり感激して、連日ぶっ通しで休まず描きまくった。”
出来上がった絵は”聖戦美術展”として全国を回り、喝さいを送りました。
戦意高揚に大きな影響を与えた絵でしたが・・・
開戦から半年・・・戦況に暗雲が立ち込め始めました。


1942年6月ミッドウェー海戦!!日本は、主力空母4隻を失うという大敗を喫し太平洋の制海権を失います。
占領していた島々は・・・補給もままならない厳しい状況へと陥っていきます。
悲劇はアリューシャン列島のアッツ島で起こります。
1943年1万人に及ぶアメリカ軍が突然アッツ島に上陸!!
すさまじい戦いで2,600人以上の日本軍守備隊が・・・初めて喫した全滅でした。

大本営発表では・・・
「アッツ島守備の我が部隊は、ついにことごとく玉砕しました。
 山崎部隊長は、ただの一度でも一兵の増援も要求したことがない、
 また一発の弾薬の補給も願ってまいりません。」
玉砕という文字がはじめて使われたのでした。
玉が弾けるほどの潔い死・・・玉砕をも美化し、戦意高揚へと向かわせようとする軍の意図がありました。

突然の玉砕の知らせに、藤田は芸術家としてこの悲劇を描くという選択をしました。

アッツ島につながる絵・・・それはこちら。

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1937年に画いた”秋田の行事”です。
一年を通じた秋田の暮らしが生き生きと描かれています。
日本の普遍的な営みを表現しています。
祝祭と戦争・・・裏と表・・・
戦争を前に藤田がたどり着いた生命を感じさせる群像表現・・・
アッツ島玉砕というテーマの大きな手掛かりとなりました。

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戦後70年の今年、藤田の展覧会にアッツ島玉砕が飾らられました。
敵味方すらわからないほど茶色で塗り固められた絵・・・
よく見ると、日本刀を振りかざす日本人とピストルを持つアメリカ人の群像が・・・
実際の戦場が全くわからないまま、この作品を2週間で仕上げます。
日本兵の死を描かずに全滅を書く・・・この難題に藤田が出した答えが激しい肉弾戦でした。
 
この絵の持つ力は、作者の想いをはるかに超えて・・・
作品の完成は新聞で大々的に!!
全国の美術館を目玉で巡回します。

””アッツ玉砕の前に跪いて、両手を合わせて祈り拝んでいる老男女
 お賽銭を画前に投げてその画中の人に供養を捧げて瞑目していた””

藤田は、自分の描いた絵が人々の心を動かしていることに心を打たれます。
「この絵だけは、数多く描いた作品の中の最も会心の作だった」

1945年ポツダム宣言受諾。
敗戦という事実は、藤田の人生を大きく変えていきます。
戦後GHQは、戦争に協力した者をリストアップし、公職から追放します。
追及は芸術家にも及ぶ・・・??
敗戦から2か月後の新聞には・・・
”自分の芸術供用を曲げて軍部に阿諛し、うまい汁を吸った茶坊主画家は誰だったのだ”などと書かれています。
率先して多くの戦争画を描いた藤田は、罪から逃れたい画家たちにとって格好の的だったのです。
ある日・・・ともに戦争画を描いていた友達が訪ねてきました。
友人は藤田に対しこう言いました。
食事をふるまった後・・・
「皆に変わって一人でその罪を引き受けてください。」と言われてしまいます。
その言葉は、藤田に計り知れない衝撃を与えました。

「絵描きは絵だけを描いてください
 日本画壇は早く世界的水準になってください」
藤田はこの言葉を残し、日本を後にし・・・6年後にはフランス国籍を手に入れました。
二度と母国に帰ることはありませんでした。

フランス・ランス地方・・・藤田最後の仕事は、自らを葬るための礼拝堂の建設でした。
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内壁一面にフレスコ画・・・80歳を迎える画家は、新しい画法でこの絵を完成させます。
背景に・・・キリストに祈りを捧げる藤田の姿がありました。
カトリックに改宗し魂の救いを求めます。
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礼拝堂を飾るステンドグラスは・・・
骸骨が書かれています。
アッツ島を思わせる・・・??
20世紀を弔うために・・・??
礼拝堂完成1年後、藤田は病のために死去。
この礼拝堂で静かに眠っています。



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