三好一族と織田信長 「天下」をめぐる覇権戦争 (中世武士選書シリーズ第31巻)

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1577年10月10日、一人の戦国武将が大和国・信貴山城で、爆死を遂げました。
その武将とは、戦国時代の大悪党と呼ばれた松永久秀です。

信長は、家康にこう言って紹介しました。
「この老人は、これまで人のせぬことを3つした。
 将軍の殺害に主君への謀反、奈良の大仏殿を焼いたことだ・・・!!」
信長は恐れ、傍に置いておきたいと考えました。
宣教師・ルイス・フロイスも、天下を掌握していたのは松永久秀だとしています。

松永久秀とはどんな人物だったのでしょうか??

冷酷無比で知られる織田信長・・・しかし、そんな信長が、一目置いていたのが松永久秀です。
久秀は、1510年京都・石清水八幡宮のあたりで生まれたと言われています。
久秀が生まれた室町時代後期・・・権力を持っていた足利将軍家と守護大名の力が弱まり、代わりに実際に領地を治めていた守護代・国衆などが武力と経済力を持ち、政治に影響力を持つようになっていました。
そのため、主君をうらぎる下剋上は当たり前・・・阿波出身の三好長慶もその一人でした。
主君の細川家(晴元)に反旗を翻して中央に進出し、畿内5か国に加え、丹波、讃岐、播磨・・・当時の戦国大名としては最大の規模を誇っていました。
久秀は、この三好長慶の右筆として仕えていました。
やがて才能を買われて武将として取り立てられると、外様でありながら三好家の親族と同じぐらいに出世していきます。
そんな中、久秀が主君を裏切ったという噂が・・・!!
当時、三好政権は、長慶の4人の弟たち(野口冬長・十河一存・安宅冬康・三好実休)によって支えられていました。
中でも、安宅冬康は重要な地位にいたのですが、長慶は冬康は城に呼び出すと謀反の疑いで自害させたのです。
この時、冬康の謀反を吹き込んだのが、松永久秀と言われています。
この前年、三好家の嫡男・義興が22歳の若さで病死していますが・・・これも、松永久秀が毒殺したともいわれています。
三好家を滅亡へと追い込み、下剋上を考えているのだと・・・??
事実、三好長慶が存命中はそむいたりしたことはなさそうですが、ルイス・フロイスは、「天下の再興統治権を掌握していたのは、松永霜台(久秀)であった。」と書き記しています。
当時、室町幕府より力のあったと言われている三好長慶よりも、久秀は力を持っていた・・・??
それは、久秀が置かれていた異様な立場に関係しています。
久秀は50歳で、室町幕府のお供衆に就任します。
お供衆は、将軍に付き従い、外出のお供や給仕を務める役職です。
つまり、三好家の家臣でありながら、幕府の仕事もこなしていたのです。
そのため、幕府の儀式の際には役人として参加し、主君・三好長慶よりも上座に座ることがあったので、主君への裏切りは久秀の立場が招いた周囲の誤解だったと噂されてしまいました。

将軍殺害・・・??
1565年、二条室町の将軍の御所を、突如1万2000の三好の兵が取り囲みました。
御所内には、13代将軍足利義輝が・・・!!
必死の抵抗を試みますが・・・義輝はついに殺されてしまいました。
この時、義輝の子を身ごもっていた侍女や、義輝の弟をはじめ200人近くが無残に殺されました。
あまりにも凄惨なこの事件・・・裏で糸を引いていたのは久秀・・・??

権力の回復を望んでいた義輝は、実質的権力者の三好に大きな不満を抱いていました。
そんな中、1564年三好長慶死去、これを好機と義輝は幕府の権力を復活させようとします。
が・・・長慶の死後も幕政を支配しようとした三好家の家臣たちは、義輝を殺害してしまったのです。
襲撃の際にの軍勢に、久秀の嫡男・久通がいましたが、本人は大和国にいて、襲撃には加わっていません。
その興福寺には、将軍の弟・義昭がいました。
兄が殺されたことで、自分の身を心配した義昭は・・・久秀から「義昭殿の命をとるつもりはない」と、書状を受け取っています。
そんな助けていた久秀が、本当に黒幕だったんでしょうか??
確実な資料はありませんが、情報は知っていたようで・・・それを止めた形跡はありません。
黙認だったようです。

義輝暗殺後、三好家は意のままに操れる義栄を14代将軍とします。
一方久秀も、興福寺の勢力を破り、大和国の一部を支配、信貴山城・多門山城を地盤を固めます。
しかし、三好政権の長慶が亡くなってから・・・三好家(三好長逸・三好政康・岩成友通)との間に争いが・・・!!
1566年、14代将軍義栄が久秀討伐令を出させます。
久秀も反撃を開始!!三好三人衆の高屋城を攻めますが、堺への撤退を余儀なくされました。
そして、三人衆側の1万5000の兵に包囲されてしまうのです。

戦国時代堺は貿易港として経済的に発展し、会合衆という商人たちによって自主的に運営されていました。
会合衆たちと親交のあった久秀、臙脂屋と能登谷に和睦の仲裁を依頼します。
武士の支配の入らないところで、交渉をしてもらったのです。
久秀が戦に負けたことを正式に公表することを条件に、戦は終わりました。三人衆は兵を引き上げます。
しかし、久秀は反撃に出ました。

1567年10月10日、奈良大仏殿が・・・火に包まれ、安置されていた大仏も火に包まれ、甚大な被害が・・・!!
出火の原因は松永久秀だったのでしょうか??
堺の戦いの翌年、三好三人衆に追いつめられた久秀に好機が訪れます。
それは、三好家の正式な後継者となった義継から・・・
三人衆によって冷遇されてきた義継が久秀に保護を求めてきたのです。
大義名分を手に入れた久秀・・・三好三人衆は、大和国で久秀と領地争いをしていた筒井順慶と手を組み、久秀の本拠地である多門山城の攻略に取り掛かります。
この時、本陣として選んだのが東大寺でした。
敵の進軍を知った久秀は、城を出て東大寺戒壇院跡地に陣を置きます。
両軍は6か月にわたり戦いを繰り広げますが、数に劣る久秀は、追い込まれていきます。
そこで、本陣に奇襲を・・・!!
敵の本陣に夜襲をかけたのです。
すると、放たれ火が大仏殿に・・・??
この火災について・・・猛火天に満ち、さながら落雷があったようで、ほとんど一瞬になくなった・・・と、書かれています。
巨大な大仏殿を一瞬で焼き尽くした猛火・・・
当時の大仏殿は、現在の大仏殿よりも幅約86m長いものでした。
また、この戦で大仏の下のほうが被害が少なかったということが分かります。
つまり、下から炎上したのではなく、天井に炎が・・・柱などの構造物は炎上しなかったと思われています。
東大寺の記録には、「西の回廊に火が懸かる 火を消すと雖も西風頻りに吹き・・・」とあります。
このことから強風にあおられ西の回廊から大仏殿に燃え移ったと思われます。
真っ先に火が着いたのは、組物の部分では??
毎秒1~2メートルで!!
屋根の内側から大仏殿を炎で包んだと思われます。

出火元と原因は・・・??
勧進所(穀屋・穀物倉庫)から出たといわれています。
穀屋で発生した兵火が、法花堂へ飛火し、それから大仏殿回廊へ延焼し、丑刻には大仏殿が焼失した!!
と、書かれています。
穀屋は、両陣営の中間地点に当たり、最も激しい戦闘がされていました。
つまり、火災の原因はどちらか・・・??特定することはできません。
が、どうして松永久秀がやったということになるのでしょうか??
地元の人間ではなく、外部から入ってきた人間だったので、嫌われていたという側面があります。
旧勢力側からすると歓迎されない人物だったのです。
歴史の展開の中で、悪く言われてしまうことになります。

三好三人衆は撤退し、この戦いには勝利した久秀、しかし、三人衆の攻撃は止まらず信貴山城は陥落!!
これによって窮地に追い込まれた久秀!!
織田信長に目をつけます。
桶狭間で今川義元を破った信長が、勢力を拡大!!
そして、天下取りのために京に上ると、足利義昭を将軍にしようと画策します。
これに反発した三好三人衆は・・・信長に敗れ阿波に・・・!!
こうして、義昭が15代将軍となり、それを庇護する信長が幕府の実権を握ると・・・久秀が動き出しました。
信長に取り入るために・・・
信長が茶の湯に傾倒していることを利用!!
なんと、久秀は名の通った茶人だったのです。
三代将軍義満が持っていたという茶入「つくも茄子」を一千貫(1億5000万円)で手に入れ、信長に譲ることで機嫌を取り取り入ることに成功します。
これによって久秀は2万の援軍を得て、筒井順慶を追い出し、大和国を平定することに成功します。
しかし、ここに想定外の事態が・・・!!
義昭と信長の関係が悪化!!
義昭は武田信玄などと接触し、信長包囲網を展開!!
これを見た久秀は、信長をあっさり裏切り、将軍に着きます。
将軍側の包囲網には信長でもかなうはずはない!!
しかし、久秀の読みは外れ・・・武田信玄が病死!!
さらに義昭も信長に敗北・・・室町幕府が滅亡してしまいました。

信長に反旗を翻した久秀軍も、多門山城を包囲され・・・降伏を与儀なくされます。
自分を裏切った者に容赦しない信長ですが、この時は大和国の支配権を奪っただけで、命まではとりませんでした。
どうして・・・??

久秀が、堺の商人と密接な関係があるという事、鉄砲の生産地、海外との交易・・・その軍事力、経済力を手に入れようとしたときに、久秀を利用しようとしたのです。
笹井を支配するために・・・!!
そして、久秀の築城術も手に入れようとしていました。
見事に作られた多門山城・・・のちの天守閣を思わせる四層の楼閣・・・豪華な壁画・・・壮麗な御殿・・・。
多門櫓は久秀の考案とされています。
信長が築いた安土城は、この久秀の多門山城を参考にしたともいわれています。

合戦の城から見せるための城へ・・・!!
それは信長からではなく、久秀からだったのです。
戦乱の世、城は重要な砦!!
人々がひれ伏する城を手に入れようとした信長なのです。
しかし、久秀はまたもや信長に逆らいます。

天下統一の信長の前に立ちはだかったのは・・・本願寺11代宗主・顕如。
1570年石山本願寺に籠城!!
以後、信長と10年にわたり石山合戦が始まります。
1577年、久秀は、信長軍の一翼となって石山本願寺を包囲していましたが、突如陣地を離れ、信貴山城に立てこもってしまいました。
またもや信長を裏切った久秀ですが・・・
一つは越後の上杉謙信!!
謙信が上洛の動きを見せていることに気付いた久秀は、本願寺派と組めば信長を討てると考えたからです。
そして、もう一つは、信長によって奪われていた大和国の支配権でした。

久秀の二度目の裏切りに激怒した信長は、明智光秀、筒井順慶らに信貴山城の包囲をさせます。
しかし、説得をも試みる信長・・・!!
久秀の持つ茶道具の名器「平蜘蛛茶釜」を差し出せば、命を助けるというものでしたが・・・
「わしの首と、この平蜘蛛の釜だけは信長には見せはせん!!」
拒絶した久秀!!
10月5日、織田軍4万の総攻撃が始まりました。
これに対する久秀の軍勢は8000余り・・・。
抵抗を試みるも追い詰められていきます。
久秀は、家臣・森好久に命じ、石山本願寺に援軍を要請!!
城を出た森は、鉄砲衆200人を引き連れて戻ってきました。
10月10日、織田軍の総攻撃が再び始まりました。
押し返す久秀軍!!
突如天守に近い三の丸から火の手が上がりました。
火をつけたのは、森好久が連れてきた鉄砲衆・・・実は彼らは敵の兵士たちでした。
森は本願寺に行くと見せかけて、敵の筒井順慶の陣地に・・・!!
そこで鉄砲衆200人を信貴山城に招き入れていたのです。

鉄砲衆の反乱により大混乱!!
久秀軍は後がない・・・!!
久秀は天守閣に火を放ち・・・信長が熱望した平蜘蛛の茶釜に鉄砲の火薬を入れて・・・爆破!!
城とともに焼け死んだといわれています。
68歳の生涯でした。

その茶釜は願い通り信長に渡ることはありませんでしたが・・・
久秀の首は安土へ・・・
体は久秀のライバル・筒井順慶によって信貴山城近くの達磨寺に葬られたといわれています。


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