巨大地震 地下に潜む次の脅威 [ NHK取材班 ]

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東日本大震災から5年・・・
岩手県普代村。。。人口およそ3000人、主な産業は漁業。
三陸沿岸のちいさな村が、今から5年前に世界の注目を集めることとなります。

2011年3月11日東日本大震災。。。
津波が太平洋沿岸の町・村を襲いました。
しかし、普代村は住宅の浸水がゼロ、一人の死者も出しませんでした。

村を守ったのは、海抜15.5mに及ぶ防潮堤に水門・・・奇跡ともいわれた人命救助の陰には一人の男の執念がありました。
普代村元村長・和村幸得、40年もの歳月をかけて普代村の防災対策の実現に心血を注いだ人物です。
その道は、決して平たんなものではありませんでした。

村を津波から守ったのは、浜から300mにある高さ15,5mの普代水門です。
そして、同じく15,5mを誇る太田名部防潮堤です。
東日本大震災当時、水門を襲った波の高さはおよそ23,6メートル・・・しかし、防潮堤によってその勢いは弱まり、防潮林によって完全に止まりました。
一方、太田名部防潮堤は、漁港に張り巡らされた防波堤で波の力を弱め、防潮堤によって家を守りました。
村人たちの命だけでなく、家、財産を守った防潮堤と水門・・・
その施設を発案し、完成に導いたのが和村幸得です。
一介の漁村の村長でした。
40年も尊重を務めた和村・・・震災当時はすでに他界していました。

昭和8年・・・津波を体験していた和村・・・当時24歳、村役場でアルバイトをしている時でした。
和村は・・・
「強震後、約30分ぐらいで”津波だ!”と、アチコチで叫ぶ声がし、村はたちまち騒然となった
 我々も起き上がってみたら、沖の方よりゴォーッという音がして、すぐ裏山にかけ登り、振り返ってみたら普代盆地は波で一面に白くなっていた
 両側の山から親父を呼ぶ声、母親を呼ぶ声、阿鼻驚嘆とはこのことか、実に哀しい限りであった」
1933年3月3日、昭和三陸地震の大津波は、普代村にも大きな被害を出しました。
死者137人・・・壊滅状態の漁村で救助活動に追われます。
おりしも昭和恐慌、冷害・・・津波・・・ただでさえ貧しい生活をどん底へと・・・!!
人の命や財産を津波から守りたい!!それが和村の原点でした。

1947年38歳和村幸得、戦後初の普代村村長に就任。
そして本腰を入れて取り組むことになります。

①生業と防災をセットにした村づくり
まず、普代村の暮らしを支える漁業の振興です。
海に生きる漁師たちの安全を図る防災!!
防災と漁業は無縁であってはならない!!
全国各地の漁港を回り、その地の防災を研究します。
そして、漁港整備と津波防災がワンセットになった防災計画を実行に移します。
大切な漁港を守るために・・・!!
巨大な波消しブロックで防波堤を補強、整備し、防潮堤で守る!!
村の生活を守る!!

②過去最悪の被害を想定する
和村の防災のもう一つの原点は1896年6月15日の明治三陸地震です。
100年に一度の大津波が襲いました。
和村は悲劇の記憶にこだわりました。
人口267人の太田名部地区の死者は196人にもなりました。
残ったのは、神社と高台の一軒だけでした。

村の生命線である漁村を、再び危険にさらすことはできない!!
そのためには、明治の大津波に耐えうるものが絶対条件でした。
その高さ、15m以上!!
防潮堤建設が認められてもその高さに固執し続けます。
1967年防潮堤の完成にこぎつけました。
総工費5800万円!!
岩手県内一の高さを誇る防潮堤でした。

1967年太田名部防潮堤が完成した時代には、村は漁業を中心に産業も発展!!
世にいう昭和の所得倍増の時代に入りつつありました。
さらに70年代に入ると、田中内閣の列島改造のもと、村には国道が開通、鉄道をはじめ、水道、学校が整備され、陸の孤島と呼ばれていたその生活が変わりつつありました。
しかしその一方で、防災にかかわる問題が・・・!!
大幅な人口の増加です。
1947年に3552人だった人口が、1967年には4607人・・・住民の居住地域が広がりました。
それが和村の不安となります。
内陸部にも堤防を建築し、その内側を居住区にしていたからです。
しかし、世帯数の急増により、堤防内に収容しきれなくなってきていました。
堤防の外側に住宅や公共施設ができていきます。
広い土地を求め、小学校も海岸近くの高台へ・・・!!
豊かさを手に入れていく村・・・しかし、不安はぬぐいきれない・・・!!

「村の人口が増え、防波堤の外側にも人家が建てられるようになり、
 三陸縦貫鉄道の譜代駅も河川護岸の外側に設置された
 また、海岸の高台に学校が建築され、昭和8年の津波の大きさでは心配はないとしても、それ以上の場合は不安が残った」

想定を超える津波が村を襲ったら・・・??
普代水門設置を考えます。

❶水門を乗り越えるしか津波が侵入できない
❷防潮林で津波の進行エネルギーを抑制する
❸津波を川に沿って山の方に逃がす

完成すれば、村を津波から守ることができる!!
しかし、国と県は難色を示します。
それは、総事業費36億円・・・!!高さ15.5m!!

1960年チリ地震津波の高さは6m。。。
この経験から、岩手県の防潮堤建設の基準は高さ6mでした。
和村の要求はその倍以上!!
さらに、巨大な建設を巡り、村人たちも困惑します。
賛否両論が村人たちからも出てきます。
粘り強い説得交渉の結果・・・1972年普代水門建設の事業認可を受けます。
しかし、水門の必要を説いても、一部の村民から用地提供の協力が得られません・・・。
ちいさな漁村を取りまとめる責任・・・
予定通りに建設するか?やめるべきか・・・??

普代水門の建設をめぐる問題・・・。

計画通りに水門を建設する!!
12人の地権者のうち、11人の説得に成功!!
あとひとり・・・
強制執行に踏み切ります!!
政治生命をかけての・・・信念を持っての行動でした。
1972年普代水門着工!!
1984年普代水門完成!!
完全な合意がなされないままの完成でした。

1987年和村幸得、普代村村長を退任・・・水門の完成を見届け、40年の村長生活に終止符を打ちました。

「村民のためと確信をもって始めた仕事は、反対があっても説得してやり遂げてください。
 最後には理解してもらえる・・・ これが私の置き土産の言葉です。」

2011年3月11日、東日本大震災では数々の防波堤が次々と破壊されていきました。
津波は普代村にも襲い掛かりました。
太田名部地区では、和村が心血を注いだ防潮堤により、浸水被害はゼロ、集落は無傷で守られました。
しかし、普代水門を予想だにしない事態が・・・!!
津波の到達直前!!地震による停電で消防からの遠隔操作で閉まるはずの陸閘ゲートが閉まらなくなったのです。
もうすぐ津波がやってくる!!
消防署員が二人、水門に向かいます。
そして水門最上部の機械室で主導で閉める動作をしました。
ところが・・・ゲートは作動したものの、閉まる前に津波が襲来!!
消防士の決死の行動にもかかわらず、間に合わなかったのです。

15時28分・・・普代水門に津波が到達!!

普代水門は津波に乗り越えられてしまいました。
しかし、23.6mの津波が水門を襲ったものの、水門がその威力を弱め、防潮林が押さえこみました。
津波は村の中心手前で止まりました。
海岸よりにあった小学校も被害を免れます。

水門の内側の住宅の浸水はゼロ、死者はゼロ。
津波からの被害を最小限に抑えたのです。

しかし・・・”逃げる”ことを考えて行動することが必要です。

 


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