決戦!本能寺

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戦国最大のミステリー・・・”本能寺の変”
天下統一を目前に、非業の死を遂げた織田信長。
信長がどうして明智の謀反に気づかなかったのでしょうか??

1579年長篠の戦いで武田勝頼を破り、その3年後武田家が滅亡・・・信長は、日本の領土の半分を手にしました。
天下統一を目論む信長は、重臣たちを全国に配置!!
北陸には筆頭家老の柴田勝家、中国地方は羽柴秀吉、関東は滝川一益、近畿は明智光秀。
1582年5月29に備中高松で毛利軍と対峙していた秀吉から援軍要請がありました。
安土城を出発した信長は、その日のうちに京都に入りました。
出立までの数日、定宿としていた本能寺に!!

この時、信長に随行した家来150人のうち、武術の心得があったのは小姓・森蘭丸らわずか30人ほどでした。
これらは、信長の家臣の精鋭たちが各国で戦いの真っ最中だったことで、信長が無防備であったということではないようです。

当時の本能寺は、現在の本能寺より南西に600mのところ。
大きさも格別で東西140m、南北270mもある大寺院でした。
平成19年の発掘調査によって、本能寺には強固な門や石垣があり、四方には深い堀もあったようです。
本能寺は、城郭、要塞の昨日のある寺でした。
他に、信長がわずかな人数しか連れていなかった理由は、すでにこの時点で信長に逆らうものがいることは予期しておらず、約1km離れた明覚寺に嫡男・信忠が500の兵を置いていました。
安全・・・まさか、光秀が反旗を翻すなど思いも取らなかったのです。

この時信長は、朝廷より太政大臣・関白・征夷大将軍らの官職に任ぜられることになっていました。
三職推任と呼ばれるもので、朝廷も信長の力を認めているという証でした。
もはや京都に敵なし!!信長はこの時、自分が襲われるなどとは思ってもみませんでした。
6月1日、本能寺から20キロ離れた丹波亀山城から秀吉の援軍の準備を行っていました。
だれも・・・謀反のことは知りませんでした。
家臣には「信長さまが、わが軍の装備を確かめたいそうだ」と、言います。
謀反の計画がばれれば許されない!!
そして、用心に用心を重ねて本能寺へ・・・
1582年6月1日午後6時・・・
光秀軍1万3000を引き連れて、丹波篠山城を出発!!
本能寺へと向かったのでした。

どうして信長はこの大軍に気付かなかったのでしょうか??
2時間後、野条で軍議を開いた光秀。
呼ばれたのは、側近中の側近わずか数名で・・・謀反の意を告げます。
危惧する声の上がる中・・・光秀の決心に、最後は道を同じくすることを誓います。
野条・・・篠村八幡宮は、足利尊氏ゆかりの地です。
尊氏と光秀には共通点がありました。
明智家は、美濃国・清和源氏の流れをくむ土岐氏の一族で、尊氏もまた同じ源氏でした。
尊氏は慕っていた後醍醐天皇に謀反を起こしたことで有名ですが、その決意を固めたのが篠村八幡宮だっやのです。
部下たちに起請文を書かせます。
日付が変わった6月2日0時ごろ・・・沓掛に・・・。
光秀は、全員に小休止・食事をさせ・・・天野源右衛門に「不審者を見つけたら、構わず切り捨てよ!!」と命じます。本能寺に向かっていることを知られないように、怪しいものはみな切り捨てよということです。
この時、天野は農民まで斬りつけたと言われています。
本能寺まであと5キロ・・・戦の用意をさせます。火縄銃も・・・!!
謀反を知らない兵士たちがざわめきますが・・・
「今日より我が殿(光秀)は天下様にお成りになる。
 下々の者、わらじ履きの者たちまで勇み喜ぶがよい!!
 手柄の次第によって、処遇の高下を決めよう!!」と言われるのでした。

秀吉の援軍という大義名分を利用した光秀の周到な策だったのです。


本能寺の変から400年以上・・・怨恨説、信長自滅説、野望説、ノイローゼ説、朝廷守護説、救世主説、人間性不一致説、突発説、黒幕説、内通露見説、信長自殺説、信長不死説・・・いろいろ言われてきました。時代を超えて人々を惹きつけてきました。

野望説の根拠は・・・3日前に呼んだ句・・・
「ときは今 あめが下しる 五月哉」です。
どうして謀反を起こしたのか・・・??

長く伝えられてきたのは①怨恨説です。
江戸時代に書かれた「川角太閤記」に書かれています。
が・・・江戸時代に書かれた作品で・・・信長のイメージは冷酷非道となっていました。
信長=悪役というイメージ先行でした。
信長譜代の家臣でない光秀は、斎藤道三に仕えていましたが、勢力争いに巻き込まれ離散・・・放浪の末に、越前の朝倉義景に仕えます。身分は足軽でした。
転機があったのは1565年、京を逃げてきた足利義昭に信長を紹介する役目をすることとなりました。
帰蝶の母が明智の家系で、いとこ同士・・・その縁を頼ったようです。
権力を握るためにも足利家と近づきたいと思っていた信長は、橋渡し役の光秀を取り立てて自らの家臣に!!
光秀は、知識人で才覚に優れていたので、翌年には京都の政務についています。

1575年交通の要所である丹波国の攻略を4年がかりで平定!!
信長は、「丹波国での光秀の働きは、天下の面目を施した」と言われています。
褒め称え、光秀に丹波国29万石を与えたのでした。
足軽から一国の主にまで取り立ててくれた信長に対し、
「瓦礫のように落ちぶれていた自分を召し出し、そのうえ、莫大な人数を預けられた
 一族家臣は、子孫に至るまで信長さまへの御奉公を忘れてはならない。」
光秀がこれを書いたのは・・・本能寺の変の1年前のことでした。

②黒幕説
光秀の黒幕として一番有力視されているのが足利幕府15代将軍・足利義昭です。
義昭は、信長の後ろ盾があっての将軍でした。
なので、実権は信長が掌握!!
業を煮やした義昭は1573年兵を挙げますが・・・制圧され、京から追放されてしまいました。
それでもあきらめられない義昭は、旧知の仲の光秀に謀反を持ち掛けた??

③家康共謀説
信長の家康暗殺計画を光秀が利用したという説ですが・・・。
家康は、信長と20年にわたって同盟関係でした。
この頃から三河を手に入れようと思っていた信長・・・
家康を本能寺に招いて光秀に討たせる??というものです。
これに対して信長の横暴さに耐えかねていた光秀が共謀して本能寺で家康を待っていたところを討ったというものですが・・・
信長にとっても家康にとってもお互いが大切なパートナーであったことには間違いありません。
勝つという見込みのない物に、家康は挑戦しません。

そしてさらなる新説が・・・。
本能寺の変の直前、長曾我部元親と光秀の重臣・斎藤利光との間で書かれたものです。
④四国・長曾我部問題説
1575年10月、阿波国・三好氏と対立していた信長は、四国統一を目指していた土佐の長曾我部元親と同盟を結びます。
この時の取次役は光秀!!
信長は元親に約束します。
「四国における勢力圏の展開は、元親の手柄次第にせよ」
信長という強力な後ろ盾を手にし、破竹の勢いで勢力を拡大!!
阿波のみならず、四国を平定しようとしていました。
しかし、この勢いに危機感をいだいた信長は・・・
「本国の土佐と阿波の南半国は安堵するが、讃岐と伊予は召し上げる!!」としました。

元親はこれを一度は拒絶するも、光秀の説得もあり承知しました。
しかし、信長は、すでに準備していた四国征伐を中止せず、三男・信孝に出陣を命じます。
予定日は1582年6月2日!!まさに、本能寺の変の当日でした。
この四国征伐を阻止するために、本能寺の変を引き起こした・・・??
この手紙そのものには、元親の苦悩があり、光秀の取りなそうという苦しみもあります。
一つの要因となりますが・・・。

⑤信長横暴阻止説
本能寺の変当日に、光秀が旧知の武将に宛てた手紙には・・・
「信長の悪虐は、天下の妨げ・・・討ち果たし候。」とあります。
悪虐??
信長は気性が激しく、目的の為ならば非道な行いも厭いませんでした。
刃向かうものは実の弟でも抹殺!!
義理弟(浅井長政)家滅亡!!
比叡山焼き討ち!!
石山合戦!!
人々が恐れおののきます。
そのうえ、信長は権威のために、天皇家の皇子を養子に迎え、朝廷との関係を強めます。
が・・・天皇家にも横暴な態度を・・・
天皇が決めていた暦、年号・・・これは、陰陽師・安倍晴明の子孫に当たる土御門家が制定した”宣明歴”が使われていました。
しかし、信長は、尾張を中心に流布していた尾張暦を勝手に使っていたのです。
二つの暦の決定的な違いは閏暦・・・。
この頃は、1年が354日の太陰暦でした。
3年に一度閏月を設けて暦のずれを直していました。
本能寺の変が起こった年も閏月です。
新年のはじめを閏1月にする宣明歴と、年の終わりを閏12月信長の暦では新年が変わってきます。
ここで、朝廷と対立したのです。
京都で公家との交流も盛んだった光秀は、公家たちの不満を耳にしていました。

時まで支配しようとしていた信長・・・!!

正親町天皇から誠人親王に譲位させ。。。
養子にしていた誠人親王の第五皇子を新天皇とし、天皇の義父として君臨しようとしていたようです。
常識人だった光秀にとっては、目に余るものがあったのです。
もう一つ許せなかったのは・・・織田氏は藤原でしたが、ある段階から平氏を名乗っています。
源氏の光秀にとって、兵士を名乗る信長が天下を取るのは許せなかったのかもしれません。
そう、幕府を開いた源義朝・足利尊氏は源氏直系なのです。

平氏が天下を取るのなら、それは阻止しなければならない・・・??
1582年5月29日、秀吉の毛利攻めの援軍として出発し、京・本能寺に宿泊!!
信長の京での目的は、茶の湯に傾倒していた信長が、これまで信長が集めてきた茶器を公家たちにお披露目することでした。

本能寺の変の1日前の6月1日・・・
信長は、本能寺に公家や僧侶など40人ほどを招き、茶会を催し、持ってきたいくつもの茶器を披露します。
ご満悦の信長は、陽が落ちるとそのまま酒宴へ!!
そこには、近くの寺にいた長男・信忠もいました。
親子は久しぶりに酒を酌み交わします・・・これが、最後とも知らず・・・。

信長が床に就いたのは、日が変わったころ・・・。
酔いしれたせいか深い眠りに・・・しかし、6月2日午前4時!!
京に入った光秀軍が本能寺を取り囲みます。
光秀軍1万3000に対し、信長軍150!!
静かな夜は、一転、修羅場と化したのでした。
喧騒で目を覚ました信長は、下々の者が喧嘩でもしているのだろうと楽観していたようです。
しかし、森蘭丸から謀反を知らされると・・・「是非に及ばず!!」と、弓をとり、次々と敵を迎え撃ちます。
しかし、肘に深手を負ってしまい・・・「もはやこれまで!!」覚悟を決めて本能寺に火を放ち、自害するのでした。

その後、光秀たちは懸命に信長の遺体を探しますが・・・髪の毛一本すら探すことが出来なかったのです。
信長の遺体は何処へ・・・!!
火災によって燃え尽きてしまった・・・??
木造建築が燃え尽きるのは1000℃、人骨が完全に燃え尽きるのには1600℃以上必要です。
この時の火災だけで完全に燃え尽きたとは考えにくいのですが・・・。
信長の家臣が持ち去ったのか・・・??
しかし、周りは光秀の兵1万3000!!そんな余裕はなかったはずです。
信長の遺体はどこへ消えてしまったのでしょうか・・・??

遺骨一本さえ残っていない・・・その手掛かりは本能寺にありました。
信長は、鉄砲を重用し、種子島→堺の豪商を介して、鉄砲や火薬を入手していました。
そして信長は、戦に大量の鉄砲や火薬を使っていました。
その保管先の一つが本能寺だったのです。
そのため、当時の本能寺には、多くの鉄砲や火薬を置く保管庫があったと思われます。
敵に自分の首をとられないために・・・遺体を晒さないために・・・
大量の火薬に火をつけ爆破!!
跡形もなく吹き飛ばしたのではないか??とも言われています。

1582年6月2日信長自害!!


人間五十年  下天のうちを比ぶれば
                  夢幻のごとくなり


短くはかない人生を、天下取りの野望に向かって突き進んだ信長・・・49年の壮絶な生涯でした。



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