明治の巨人 岩崎弥太郎

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東京台東区・・・西洋様式の粋を集めた旧岩崎邸庭園は、国の重要文化財です。

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明治11年、この広大な土地を買い取ったのは最下級の武士から身を起こした三菱の創業者・岩崎弥太郎です。

高知県安芸市・・・
岩崎家はとても貧しく、地下浪人と呼ばれる土佐藩武士では最下級の身分でした。
土佐藩の武士階級は、藩主のもとに上士と下士に分けられ、下士から上士への出世は許されませんでした。
岩崎家は代々下士の身分でしたが、弥太郎の曽祖父の代に金に困って身分を売り払ってしまい、地下浪人という家禄ももらえない農民のような身分になってしまいました。
益々出世とは縁遠くなってしまいました。

しかし、そんな暮らしの中でも、夢を抱いていました。

1835年12月11日、土佐国安芸郡井ノ口村で、父・弥次郎と母・美和の間の長男として生まれます。
母のしつけは厳しく、傲慢な態度は許されませんでした。

弥太郎が実業家として成功したのちも、昔の苦労を忘れるなと、戒めたといいます。
この厳格な母のおかげで負けず嫌い、一本気な性格になっていきます。

そんな弥太郎のもう一人の師は、土佐藩重臣・吉田東洋です。
東洋は、身分にかかわらず優秀な人材を抜擢するべきだ!!と、開明的でした。
そんな東洋が開いた「少林塾」に1585年25歳で入塾します。

やがて弥太郎は、最大の理解者・東洋の推挙によって郷廻となりました。
郷廻は、農村を巡回する役職で、下級役人でしたが、夢にまで見た藩の役職でした。
日本が動乱の渦に巻き込まれ・・・そんな時に、1859年・26歳で長崎に出張!!
土佐の特産品を国外に輸出する調査と各国の情報収集を担いました。
しかし弥太郎は・・・連日宴会三昧!!遊郭に通い詰め・・・藩の金を使い果たしてしまいました。
1860年、27歳で免職!!
この放蕩三昧は・・・のちに役に立つこととなります。
土佐に帰った弥太郎は、豪商に頼んで100両を借り、使い込み分を返済します。
1861年には、28歳で「下士」の家格を買い取り回復!!
吉田東洋が、土佐藩の武士階級を刷新し、下士から上士への道が開かれた・・・と思ったら、吉田東洋暗殺!!
後ろ盾を無くした弥太郎は、4年間の不遇の時期を迎えるのでした。

財閥の・・・三井、住友は江戸時代からの商家でしたが、三菱の岩崎弥太郎は土佐藩の下級武士でした。
商売の経験も、バックボーンもない弥太郎・・・
最初のターニングポイントは34歳!!
くすぶる弥太郎に救世主!!後藤象二郎が現れます。
エリート街道で出世していた後藤は、弥太郎を藩の役職に復帰させます。
そして弥太郎は再び長崎に出張!!
長崎土佐商会という藩が諸外国と貿易するための窓口の仕事で、主任に大抜擢されました。
前回のことがあるのに、どうして主任になれたのでしょうか??
弥太郎の仕事ぶりが評価されたのではなく・・・たまたまの人手不足によるラッキー人事でした。
そんな弥太郎に与えられた仕事は、軍艦や近代兵器の購入でした。
しかし、このころの藩財政はひっ迫していて、イギリス商人オールトに18万両(180億円)の借金があり、資金繰りに苦しんでいました。

そこで弥太郎は・・・?
商売の極意
①接待
弥太郎は、武器購入の取引先である所外国人の接待に励みます。
以前の経験で遊興にたけていた弥太郎・・・
食事・・・酒・・・女性・・・お金・・・弥太郎は、商談を成立させていきます。

②はったり
当時、外国人は、居留地外に出ることはできませんでした。
が、弥太郎は、オールトを連れて馬で散策に出ようとします。
見張りの役人が制止するも・・・出ていくのでした。

接待とはったりで、外国商人の信頼を勝ち取っていく弥太郎!!
外国商人の信頼を得、資金援助を得、武器購入に成功したのでした。
人脈も多く・・・イギリス商人・グラバー、アメリカ商人・ウォルシュ兄弟と懇意にし、最先端の商売と資金を得られたようです。
長崎で培った人脈は、のちの大きな成功と関わっていきます。

弥太郎の重要な仕事・・・海援隊隊士たちへの給金の支払いです。
たびたび坂本龍馬と酒を酌み交わし、志を熱く語り合っていました。
しかし、龍馬は弥太郎に金の無心に来ることもあり・・・それは弥太郎のポケットマネーとなることもしばしば・・・。
龍馬や海援隊を疎ましく思うようになった中・・・
1867年11月15日、龍馬は暗殺されて今いました。

そして時代は江戸から明治へ・・・!!

維新を成し遂げた全国の志士たちは、新政府の要職に就き、時代のかじ取りを担っていきます。
後藤象二郎も、大阪府知事、逓信大臣を歴任し、政府内で活躍します。
しかし、傍観するしかなかった弥太郎・・・。
弥太郎は政治家になる夢を願っていましたが・・・後藤象二郎は・・・
「このまま土佐商会をお願いしたい。」というものでした。

1869年、弥太郎は後藤象二郎の推挙によって、長崎土佐商会から大坂土佐商会へ・・・
そこでも大きなことを成し遂げて・・・37歳で土佐藩No,3の「小参事」となります。
これは地下浪人からの異例の出世でした。
土佐藩で商売を任せられる者が他にはおらず・・・
結局、役人の夢は叶わず・・・

1870年大坂土佐商会は、表向きは土佐藩から独立し、私営会社・九十九商会となります。
弥太郎を中心に、新たに飛脚船事業に乗り出します。
この海運業が・・・後の三菱の企業母体となっていきます。
土佐藩主山口家の家紋の入った旗を掲げられなくなったので、新たな旗印・・・藩主である山内家の家紋「三ッ柏」と、岩崎家の家紋「三階菱」とを合わせて九十九商会の船旗号・・・そして三井のマークとなっていきます。

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1871年廃藩置県が実施され、藩士の身分を失った弥太郎は、無役となってしまいますが・・・後藤象二郎たちは、九十九商会存続を望み、弥太郎の会社として存続させることとしました。

しかし弥太郎は、首を縦には振りません!!
弥太郎は、まだ商人として生きる決心ができないでいたのです。
そんな弥太郎の決め手は・・・それ以外の道・・・選択肢がなかったのです。

弥太郎は、1874年に本拠地を大阪から東京に移転!!
それを機に、社名を「三菱商会」から「三菱蒸汽船会社」に改め、今まで培ってきた人脈と、政府から払下してもらった最先端の6隻の蒸気船で本格的に海運業をスタートさせました。
天候などの条件にかかわらずにスピーディーな運送!!

そんな弥太郎にライバル登場!!「帝国郵便蒸気船会社」です。
1872年政府の肝いりで作られた半官半民の海運会社で、圧倒的なシェアを持っており、弥太郎の入るスキなどありませんでした。
しかし・・・弥太郎は社員たちを鼓舞します。
帝国郵便蒸気船会社の社員たちは、多くが武士の出身でした。
プライドが高く、愛想を振りまいたり頭を下げたり・・・容易にはできませんでした。
しかし・・・三菱の社員もほとんどが元土佐藩士!!
そこで弥太郎は・・・おかめの面を用います。
おかめのような愛嬌たっぷりの笑顔で接しなさい!!と、店に飾りました。
元武士としてのプライドを捨てさせるために服装も・・・商人の使う前垂れを使わせます。
弥太郎は必要な経費は使いましたが、無駄な経費は絶対に許しませんでした。
積極的に外国人を登用!!
蒸気船の運航技術が豊富な船員を使います。
1876年の三菱の社員構成は・・・日本人1351人に対し、外国人388人もいました。
さらに東京大学や慶應義塾の学生を口説き落として適材適所に配置していきます。
これらの優秀な社員たちが、三菱の基礎を築いていきます。
この結果、信用・安心・良い人材・サービス・・・このおかげで帝国郵便蒸気船会社からお客を奪っていきます。

しかし、それでも強大なライバルには追いつくことが出来ません。
ライバルに勝つためには・・・??

1874年の台湾出兵!!
明治政府は台湾に軍隊を派遣するために、帝国郵便蒸気船会社にその輸送を依頼しますが、返事は・・・
「今日本を離れると、三菱に航路を奪われてしまうのでお引き受けできない!!」と言われてしまいました。
そこで政府がやむ負えなく依頼したのが三菱でした。
「光栄これより大なるはなし
 敢えて力を尽くして政府の重荷に対へざらんや!!」
と、お国の為と快諾したのでした。
明治政府は、三菱の船だけでは輸送に足りないだろうと、大型蒸気船を貸し与え、台湾出兵後もその船を使うことを許可しました。
僅か6隻でスタートの三菱でしたが、台湾への軍事輸送を終えると、一気に48隻も持つ海運業者となったのです。
この大躍進に、帝国郵便蒸気船会社の売り上げは激減し、事実上三菱に吸収合併されてしまうのでした。

目先の利益よりも政府に貸しを作った・・・弥太郎の大きな賭けが成功を導いたのです。
そして三菱は、政府の保護を受ける海運業者に指定され、巨大企業の第一歩を踏み出したのでした。


弥太郎は、その後も海外の海運業者と鎬を削ることとなります。
が・・・そこもまたサービスによって競争に勝っていきます。
1876年社員に特別賞与を支給・・・これが日本初のボーナスだと言われています。

1877年・・・維新の功労者・西郷隆盛が郷里・鹿児島で旧士族たちを集めて反乱を起こしました。西南戦争です。
ここでも弥太郎は、政府への協力を惜しまずに軍事輸送に尽力します。
これにより巨大な利益を得・・・さらに船舶数を増やしていきます。
日本全国はもとより海外航路も充実させていきます。
日本の蒸気船相当数の7割以上を持つ海運業の覇者となったのでした。
三菱商会設立からわずか4年のこと・・・44歳の時でした。

弥太郎の事業は、日本の経済発展と自立、独立に重要な役割を担っていました。
成功を手にした弥太郎は、東京で3カ所の土地を購入!!
六義園・清澄庭園・旧岩崎邸庭園です。
いずれも江戸時代大名屋敷だった場所です。
最下級の武士から成り上がった者の成功の証でした。

三菱商会設立から12年、1885年この地で52年の生涯を閉じることとなります。
死の間際まで、三菱の幹部たちに指示を出し続けていました。


弥太郎の死後、三菱は二代目社長となった弟・弥之助、三代目社長・久弥らによって経営の多角化が行われ、銀行、鉱山、造船・・・様々な業界に進出!!
そして日本経済の屋台骨となる三菱グループへと発展していくのです。



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