彷徨の王権 聖武天皇 (角川選書 (305))

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世界遺産・奈良東大寺・・・。
創建は今から1260年前、その変わらない象徴として人々の心のよりどころとなってきたのが大仏様です。
高さ約15m、顔の大きさで6.7m・・・手のひらも3m弱。
これほどまでに巨大な大仏の建立を行ったのが、聖武天皇です。
完成まで14年、延べ260万人を動員した前代未聞の大国家プロジェクトでした。
その真の目的とは・・・??

華厳宗の大本山である東大寺。
本尊である大仏を安置する大仏殿は、木造建築としては世界最大を誇ります。
今の大仏殿は三代目。

758年聖武天皇が創設
1190年重源上人が再建
1709年公慶上人が再建

最初の大仏殿は、今の大仏殿の1.5倍も大きいものでした。
江戸時代に再建した際に、柱となる木材が調達できずに小さくなってしまったと言います。
大仏も三代目で、頭と肩が江戸時代、胸のあたりが戦国時代、奈良時代はひざ下から蓮弁にしか残っていません。

過去に二度再建された大仏ですが、作られた当時全身が黄金で輝いていました。
「信貴山縁起絵巻」では、黄金に輝いています。
顔の形も少し違います。16m21㎝今より少し大きかったのです。

聖武天皇が唐にならって作られたと言われています。
中国では、5世紀ごろから時の皇帝たちによって盛んに大仏たちが作られていました。
聖武天皇の側近には、吉備真備・玄昉など、中国に渡った者がおり、それに倣って作ったようです。
16mも中国に倣っています。
古来、仏像の高さは、一丈六尺・・・人間の2倍とされてきました。
そこに仏の光がくまなく照らすように・・・と、華厳宗で無限を表す10という数字をかけ、座像にするために半分・・・八丈・・・16mとなるのです。
その大仏を、中国のような石造ではなく、銅で作ることを望みました。
菌にこだわったのには理由がありました。
大阪柏原にあった知識寺・・・天皇がかつてここを訪れた際に、金色の廬舎那仏に深く感銘を受けたためでした。
高さ16m・・・金銅製・・・前代未聞の大仏となりました。

どうして大仏を造ろうと思ったのでしょうか??

奈良の都は反映している・・・万葉集に謳われていますfが、聖武天皇の時代は、決して穏やかなものではありませんでした。
732年日照りや台風で凶作が続き・・・飢饉が起こり、餓死者が続出!!
近畿で大地震!!多くの建物が倒壊しました。
不治の病とされていた天然痘が大流行で、おびただしい数の死者が・・・!!

「異変や災害が止まらないのは、我に徳がないからである。」by聖武天皇

徳治思想・・・政治を行う者に徳がないため、天災や疫病が起きるという考え方だったようです。


大仏建立の理由①
聖武天皇は、大仏を建立することで、国や民衆を救おうと考えたのです。
気にかかることは・・・
天照大神の子孫であるのに、仏教に頼っていいのだろうか??
ある時、伊勢国を訪れていた聖武天皇は、夢を見ます。
伊勢神宮に伝わる書によると、巫女が現れて・・・
「日輪は大日如来である。
 その本体は廬舎那仏である。
 皆の者はこのことをよくわかった上で、仏教に帰依するべきである。」と・・・。

日輪とは天照大神のことで、廬舎那仏は大仏の別名です。
つまり、同じだというのです。

神様も、大仏の造営に参加し大仏に協力し、帰依することによって災害、祟りが無くなるのではないのか・・・??
神と仏の力で国を救おうと廬舎那仏を造る決心をしましたが・・・

もう一つ、個人的な悩みが・・・
原因は、聖武天皇の生まれにありました。
701年5月・・・文武天皇と藤原宮子との間に第一皇子として生まれました。
幼名は首皇子・・・子の誕生を誰よりも喜んだのは、藤原不比等でした。
宮子の父の不比等は、このまま首皇子が後を継げば・・・
外戚である藤原氏が権力を掌握できる・・・!!

724年24歳で即位し、聖武天皇となりました。
そして、不比等の娘・・・叔母・光明子との間に一男一女を設けます。
聖武天皇は、皇子を僅か1か月で皇太子に立て、皇位につくのは藤原の血を引くこの子だ!!としたのですが・・・1歳を迎える前に亡くなってしまいました。
悲しみは深く、平城京の東にお堂を立て菩提を弔いました。
藤原の血を引く子・・・聖武天皇の中で重荷になっていきます。
焦りを覚え・・・不比等の長男の娘と次男の娘を夫人に迎えます。
「藤原からの三人の夫人のうち、誰かが皇子を授かれば・・・」
しかし、遂に皇子は生まれません・・・精神的に追い込まれていく聖武天皇。。。

おまけに、朝廷の要職につき、天皇を支えていた藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が流行り病の天然痘で次々となくなり・・・藤原氏の力が急速に衰えていきます。


大仏建立の理由②
聖武天皇は藤原氏の重圧から逃れるために、大仏に救いを求めたのでは・・・??

740年追い打ちをかけるように、聖武天皇のいとこにあたる藤原広嗣が政権の不満から、九州の大宰府で1万の兵を挙げました。
制圧に向かわせましたが・・・平城京を離れてしまいます。
伊賀・伊勢・美濃・近江などを転々と死、恭仁京に遷都してしまいました。
まだ恭仁京の造営をしているのに、近江の紫香楽に利休を造り始め・・・5年間の間、さまようように行幸を繰り返し、各地を転々としたのです。
これは計画していたものと思われます。
紫香楽宮に何回も行幸をし、ここに大仏を造ることを説得していました。
結局大仏は奈良に作られることとなりますが・・・
743年10月15日、紫香楽で大仏造顕の詔を発します。
「三法(仏・法・僧)の力によって、天下が安泰となり、命あるもの全てが栄えることを望む。 
 この思いを叶えるために、国中の銅を尽くして仏を造り、山を削って仏堂を立てることに協力してほしい。
 我の富や権勢をもって造ることはたやすいが、それでは反発するものを生み、更に世の中を不安にしてしまう。
 一本の草、一握りの土でも、協力したいというものがいれば、共に大仏を造ろうではないか。」

権力者としての命令ではなく、日本国中の人が心を一つにして大仏を造ることを思っていたようです。

大仏建立・・・詔から1年目・・・
744年紫香楽宮で大仏建立が始まります。
しかし、それは14年にも及ぶ壮絶な日々の始まりでした。
高さ16m、金銅製という世界初の大仏・・・
日本の仏師たちはどのように作っていいのかわかりませんでした。
参考にできたのは国中公麻呂です。
公麻呂は聖武天皇のために、作図をしたり、製作の総指揮を任されました。

大仏完成までに従事した人数は約260万人!!
貢献したのは行基。
30年以上にわたって仏の道を説きながら、橋を造り、道を造り、寺院や困窮者のための宿泊所を建設していました。
民衆から厚く信頼されていた行基のおかげで人々は集まってきます。
聖武天皇も、自ら綱を引いて大仏の骨柱を立てたと言います。
しかし、紫香楽で大仏は完成しませんでした。
大仏製作を始めてから1年・・・
紫香楽宮周辺で、立て続けに4度も山火事が起きました。
4回目は宮に迫る勢いで、聖武天皇も非難しました。
これは、反対する人々が妨害のために放火したのでは・・・??と言われています。

理由①
朝廷内に、僻地の紫香楽宮での大仏建立に反対するものが多かったのです。
朝廷内に不穏な空気が・・・そこへ大きな地震が・・・!!

理由②
地震などの発生で、紫香楽宮は天から認められた場所ではないと考えたのです。

紫香楽での大仏建立を断念・・・
詔から3年・・・
746年平城京に戻り、金鐘山寺(のちの東大寺)で大仏建立再開。
皇子の眠るこの地しかない。。。!!

大仏建立成功のために、万全の体制を整えます。

大仏建立成功への道①組織化
聖武天皇は仏像づくりのために造寺司という役所を置きます。
寺院を造営するための機関で、有能な人材を置きました。
細かく部署を造り、全国からの職人を並べ、熟練者をトップに組織化することで効率アップを図ります。

工人・・・専門職ごとに細かく分けます。
工人には司工(公務員)と雇工(民間人)ですが・・・民衆と共に造るという思いから、たくさんの民間人が雇われました。

大仏建立成功への道②福利厚生
苦しい労働・・・自分たちも救われるために・・・という気持ちが大切で・・・。
それまでの奴隷のような扱いでは無くなります。
病気で休んでも食事が出る。
親を亡くした際には、国に帰れる。
夏には昼食後の休憩があった。etc.
聖武天皇は、民衆の心が大仏から離れないように、福利厚生に力を入れたのです。


745年8月23日地鎮祭。
聖武天皇は自ら土をすくって運び、光明皇后は大仏の座す場所を突き固めます。
工事の無事を祈ります。

鋳型づくり・・・
平城京には木材や銅、資材が全国から運び込まれました。銅だけでも500トンはあったと言います。
大仏建立は、国を挙げての一大事業です。
想像を絶する鋳型づくりです。
千度以上で鍜治場のようになります。
その過酷な環境に、倒れるものも沢山いました。
だからこその福利厚生なのです。

銅500トン、錫8トン、水銀2.5トン、金0.4トン・・・金属だけでもこれだけ要りました。
国中の銅を尽くして・・・全国から集めてこなければいけない量ですが・・・
金・・・日本では見つからないものでした。

そんな時吉報が・・・!!
749年2月22日、陸奥国小田郡(現在の宮城県)で金が見つかりました。
大変喜んで、聖武天皇は年号を天平感宝と改めたほどでした。
翌年、病気がちだった聖武天皇は出家し、皇位を娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲り自らは太上天皇となりました。
10月・・・鋳型を外していきますが・・・技術が未熟だったため、修復するのに数年がかかります。
いよいよ大仏に金メッキが施されましたが・・・
当時は水銀を用いて行われました。
水銀に金を加え、大仏表面に塗って、火で温め水銀を蒸発させ、金が残るようにするというものでしたが・・・
この方法では、熱せられた水銀が、有毒な蒸気となって空中に・・・!!
この気化した水銀によって多くの人が命を落としたと思われます。
まさに、命がけだったのです。

詔が出てからすでに9年・・・できたのは頭部のみ・・・。
752年4月9日完成を待たずして開眼供養会が行われることになりました。
それはこの年が、仏教伝来200年という節目の年だったからです。
五色の旗で飾られ、多くの参列者で埋め尽くされました。
集められた僧侶は1万人を超え、大仏に命を吹き込むのはインドから来た菩提僊那が行いました。
瞳を入れるための筆には、長い綱が結んでおり、聖武太上天皇はじめ参列者はそれを握ることで大仏に命を吹き込む感動の時を共にします。

そして大仏開眼!!
大仏殿を取り巻いていた観衆から歓声が沸き起こりました。
聖武太上天皇は、この大仏開眼した筆に括りつけていた綱を、宝物として大切にしたと言います。
開眼供養会が終わった後も、作られる大仏・・・
詔から14年・・・
757年民衆たちの協力と犠牲によって大仏が完成したと言われています。
しかし、聖武太上天皇が完成した金色の大仏を見ることはありませんでした。
前年・・・完成を待たずして亡くなっていたのです。

東大寺で聖武天皇の一周忌が行われました。
黄金色の大仏の前に、1500人の僧侶が集まったといいます。
大仏はその後、地震によって首が落ちてしまったり、火災で焼かれたり・・・
苦難に見舞われますが・・・その都度、時の権力者と民衆によって再建されてきました。
全ての人の心を一つにして・・・聖武天皇の願いと共に・・・人々の心のよりどころにされてきたのです。


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