写真家大名・徳川慶勝の幕末維新―尾張藩主の知られざる決断

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西郷隆盛、勝海舟、木戸孝允、坂本龍馬、大久保利通・・・数々の英雄が歴史を彩った明治維新。
この維新があのような形で進んでいった理由は・・・御三家筆頭・第14代尾張藩主・徳川慶勝でした。

1868年鳥羽伏見の戦いで、新政府軍が勝利するも、江戸では旧幕府軍が徹底抗戦を主張!!
日本は、京都・江戸の間で国を二分する内乱の危機に陥っていました。
この時、慶勝がどちらに組するかで戦いの行方は大きく変わろうとしていました。

西国ににらみを効かす御三家筆頭・尾張徳川家。
1849年分家から尾張藩主となります。
幼いころから英才の誉れ高く、尾張家臣や領民から嘱望されての就任でした。
藩主となった慶勝は、海外の最新情報を集めることに力を注ぎます。
清が開国したことで生じた混乱・西欧列強の強大な軍事力・・・
国防に関心のある外様大名(福岡藩主・黒田斉溥、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬)らと連携し、来るべき外圧に立ち向かう道を探ろうとしていました。

藩主となって4年後・・・1853年ペリー来航。
開国を要求します。
策をまとめられない幕府に対して、意見「御尋二付建白書」をを提出。
国の根幹を揺るがす外交問題だとして朝廷と連携するべきだと進言します。
これは、挙国一致体制だと思われます。
慶勝は、日本全体を考えていたのです。


1858年日米修好通商条約締結
井伊直弼の・・・朝廷の了承を得ないままの本格的な開国でした。
それを知った慶勝は、急遽江戸城へ・・・!!
朝廷の許可を得ない条約の締結は、幕府の危機を招きかねない!!と、井伊直弼を責め立てますが・・・
反対に、突然の登城を責められ、藩主の座を追われ、謹慎の身となってしまいました。

謹慎の失意を慰めたものは・・・西洋の最先端テクノロジー・・・写真でした。
自由な外出も許されない慶勝は、屋敷の中で撮影に没頭!!
隠居謹慎の中で、写真に真実を追求していったのです。

慶勝の謹慎中・・・幕府を取り巻く環境は変わっていきます。
1860年桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺され、幕府の権威は失墜!!
幕府は天皇家と婚姻関係を結ぶことで権威を回復しようと公武合体を図ろうとします。
慶勝が求めていた朝廷との協力体制です。
しかし・・・孝明天皇は婚姻を認める代わりに厳しい条件・・・破約攘夷を求めます。
外国との条約を破棄し、外国人を退去させるよう求めたのです。
困難な状況に追い込まれた幕府が頼みにしたのが慶勝でした。
1863年正月 慶勝上洛。
朝廷との折衝役として・・・政治の表舞台に復帰します。

1863年5月長州藩外国船砲撃
各藩が勝手に行動しないように・・・幕府主導の下の挙国一致をしようとします。
そして慶勝の弟たちも・・・
会津藩主・松平容保は京都守護職に任命され、京都市中の治安維持を任されます。
桑名藩主・松平定敬は京都守護職となり容保を支えます。

長州が外国船に発砲した翌年・・・
1864年容保配下の新選組が池田屋で長州藩士たちの過激派たちを襲撃!!
2864年7月禁門の変、会津藩排除を唱える長州藩が、藩兵2000余りで京都御所に侵入するのを撃退しました。
長州は朝敵とされ、幕府に追討命令が出されました。
10月第一次長州征討
幕府にとって、230年ぶりの大規模な軍事行動です。
薩摩藩など35の藩で征討軍が組織され、総司令官に選ばれたのが慶勝でした。
15万の兵を率いて長州へ向かう慶勝。
ところが慶勝は、長州藩が禁門の変の首謀者として3人の家老の首を差し出すと、それを受け入れ、武力行使することなく征討軍を解散してしまいました。
どうして戦おうとしなかったのか・・・??

「聴衆を征伐して、海内を疲弊し、醜夷の術中に陥り候」

慶勝は、西欧列強が日本に進出する隙を与えないために、内戦を回避しようとしたのです。
そして、慶勝は、征討に参加した大名たちの合議で長州の処分を決めようとしました。

「外様大名も、日本の行く末を考えている・・・!!」

しかし、それに強く反対したのは、弟の会津藩主・松平容保でした。

「彼の諸侯を京師に召集すとある事を、深く非とせられ」

容保は、諸大名の合議で決めれば、幕府主導の政治体制が崩れてしまうと危惧していました。
これからの日本の在り方について・・・容保たちと相容れなくなってきました。

1866年6月第二次長州征討
幕府は命令に従わない長州に対して二度目の征討を行いました。
しかし、薩摩と同盟を結んで最新鋭の武器を獲得していた長州軍を前に、幕府軍は敗戦を続けます。
これを機に、薩長軍の討幕の勢いは加速し、幕府はその存続を脅かされていきます。
1867年10月将軍慶喜は起死回生の一手・・・大政奉還を行います。
政権を朝廷に返し、政治体制を大名の合議制に・・・その中で、主導権を握ろうとしていた慶喜。。。
慶勝も、大政奉還に賛同しています。
大名の合議制の確立が、世の混乱を立て直す機会だ!!と、持論に沿うものだったのです。
慶勝の望んだ挙国一致の体制が出来上がろうと見えましたが・・・

大政奉還から2か月後の12月、王政復古の大号令!!
薩摩藩、長州藩、公家の岩倉具視らが、天皇を中心とした新政府の樹立を宣言します。
慶勝はその新政府の要職に・・・。
ところが、新政府の中に慶喜の名前はありませんでした。
このままでは挙国一致の構想から徳川家が外れてしまう・・・。
慶勝は、慶喜を新政府に入れるように強く求めます。
これに対し、岩倉たちの条件は・・・”辞官納地”・・・つまり、慶喜の官位、徳川領200万石を朝廷に返上せよというものでした。
この徳川宗家を無力化する仕打ちを慶喜に伝える苦しい役を負わされたのが慶勝でした。
慶喜との会談の場で・・・
「尾張全国を宗室に還納し、以てその不足を償はん」
慶勝は、尾張の領地を宗家に返すことで、慶喜を支えるというのです。
新政府の中で、宗家を生き残らせたいという精一杯の進言でしたが・・・
慶喜は、これを受け入れようとはしませんでした。
そして最悪の事態が・・・!!

新政府の徳川家に対する処遇に不満を抱いていた容保たちが動きます。
1868年1月3日鳥羽・伏見の戦い勃発!!
旧幕府軍VS新政府軍の戦いです。
戦いは、錦の御旗を掲げた新政府軍の圧勝に終わります。

慶喜、容保、定敬らは、負傷兵を残したまま江戸に逃走!!
朝廷は彼らを朝敵とし、追討令を出します。
追討令が出されたその日、慶勝は岩倉具視から過酷な選択を迫られます。
旧幕府につくのか??新政府につくのか・・・??

宗家と共に起死回生の策に打って出るのか?
弟たちを敵に回しても新政府に留まるのか・・・??

1868年1月8日慶勝は自ら岩倉具視に告げます。
「勤王の道」と。

新政府側に付くことを選んだのです。
その後の慶勝の行動は素早く・・・
尾張藩の旧幕府派を処分し、名古屋から江戸にかけての大名に使者を送って、新政府側につくように説得!!
慶勝の工作は、寺や神社にまで徹底的に行われました。
集めた誓約書は500近くに上りました。
皆が揺れていたこの時期・・・尾張ケガ勤王誘因活動をする・・・
大規模な戦争をするのではなく、戦争を回避しようとしているという意思表示・・・
幕府の人材を失うことなく、徳川を残す・・・そんな行動だったようです。
2月6日、京都を発った新政府軍は、慶勝の働きもあって大きな抵抗を受けることもなく、僅か1か月で江戸に到着!!
江戸城は無血開城!!
慶勝は新政府に貢献する一方で、容保、定敬を救おうと一生懸命でした。
江戸で一橋家の当主となっていた茂徳に嘆願に当たらせます。
しかし・・・弟たちが許されることはありませんでした。
容保は会津で新政府軍に徹底抗戦ののち力尽きて降伏。
定敬は旧幕府軍最後の砦・五稜郭まで転戦するものの結局投降・・・。
二人は死罪は免れるものの、蟄居謹慎の身となりました。
維新の争乱も落ち着きを見せた明治4年・・・慶勝は名古屋から東京に移り住みます。

新しい町でも慶勝は写真の撮影をしました。
戦火を免れたかつての江戸を・・・。
慶勝が東京に移り住んだ翌年、容保と定敬は謹慎を解かれ・・・慶勝の日記には容保や定敬が登場するようになってきました。


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1878年9月・・・慶勝は弟たちを銀座に集めます。
行先は写真館。
兄弟そろっての記念撮影を呼び掛けたのです。


幕末維新という時代の曲がり角をそれぞれの信念で生き抜いた兄弟たち・・・。
これが最初で最後の集合写真となったのでした。





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