ニクソン回顧録 第1部 栄光の日々

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アメリカ大統領選挙・・・世界が注目する大統領選挙・・・
その熾烈な戦いに3度挑み、挫折と栄光を味わったのは、第37代アメリカ大統領、リチャード・ニクソン。

1960年のアメリカ合衆国大統領選挙・・・勝ったのは、ジョン・F・ケネディ。
世論調査では圧倒的に不利でしたが、僅かの差で逆転勝利したのです。
このケネディに、屈辱的な敗北をしたのが、リチャード・ニクソンです。
一時政界から姿を消すほど追いつめられていましたが、1968年大統領選挙へ・・・!!
今度は僅差で勝利、次の選挙では、歴史的大勝利で再選を果たします。
が、スキャンダルによって辞任・・・任期中に辞任した唯一の大統領という汚名を残しました。

大統領となったニクソンは、衝撃的な外交を行います。
日本への沖縄返還、ソビエトとは核兵器制限交渉、中国との関係改善・・・
一方、人間性には厳しい目が向けられます。
マスコミに対する暴言、大統領執務室の通話を秘密裏に録音、権力を乱用、捜査を妨害・・・

1971年7月15日、ニクソンが行ったテレビ演説が、世界に衝撃を与えました。
「周恩来総理は、中国政府を代表してニクソン大統領が1972年の5月までの適当な時期に中国を訪れるよう招待しました。
 私ニクソンは、この招請を喜んで受け入れました。」byニクソン
当時、激しく対立していたアメリカと中国・・・
その両国が手を取るのは、考えられない・・・世界を揺るがした事件でした。
知らずに慌てた日本は、日中国交回復に乗り出します。

世界の度肝を抜いたニクソンは、元々陰気野郎と言われるほどの内気な少年でした。
そんな彼が、どうして大統領となったのでしょうか?
1913年1月9日、ニクソンは、5人兄弟の次男として、カリフォルニア州に生まれました。
学校から帰ると、両親の営む雑貨店の手伝いに負われ、友達と遊ぶ暇もありませんでした。
そんな関係に拍車をかけたのが、父・フランクです。
絶対に自分の意見を譲らず、息子のニクソンであってもやり込めました。
時には手を挙げることも・・・
いつしかニクソンは、無口な少年となっていました。
そして・・・つかられたあだ名が陰気野郎!!

日ごろ物静かなニクソンが多弁となるとき・・・それは、討論の授業でした。
周到な準備をし、当日の授業では完膚なきまでに相手を論破!!
もう一つ、若い頃のニクソンに影響を与えたのは・・・
弟が結核性の脳炎で死去・・・さらに兄も結核に侵され、長い闘病生活の末に亡くなりました。
母親は・・・
「その時からリチャードは一人で三人分の人生を生き、両親の失った分を補おうと前にもまして努力しようとしているように思えた。」と言っています。
ひたすら勉強し、大学を優秀な成績で卒業!!
1934年・・・21歳の時に、弁護士を目指し、デューク大学法科大学院へ進学!!
そして、同級生たちとの議論のうちに、政治に興味を持つようになります。

卒業後ニクソンは、地元の弁護士事務所に・・・瞬く間に看板弁護士となります。
結婚をし、順風満帆に見えましたが・・・
1941年、28歳の時に太平洋戦争勃発!!
ニクソンは自ら軍に志願!!
最前線である東南アジアの激戦地へと赴きます。
太平洋戦争が始まった時、若い男性は志願するのが当然だと思われていました。
政治的野心があるならなおさらです。
従軍しなければ、自分には愛国心があると選挙で訴えることができません。

終戦後・・・地元・カリフォルニアの共和党本部からお呼びがかかります。
弁護士としての実績、軍に志願した経歴が評価されたのです。
1946年33歳の時に、下院議員選挙に出馬。
しかし、相手は当選五回の民主党・ボアヒース。
無名の新人が勝てるはずがありませんでした。
ニクソンは、相手のことを完璧なまでに調べ上げます。
勝つためのキーワード・・・それは、反共・・・反共産主義でした。
米ソ冷戦真っただ中のこの時代、共産主義に対しての反発、風当たりが強かったのです。
ニクソンは、相手候補がかつて共産主義に傾倒していたことを見つけ、攻撃します。
国民の反共感情を巧みに煽ります。
ニクソンは、敵を明確にするのに長けていて、自分の敵をみんなの敵だと納得させました。
共産主義を文字かな恐怖として利用したのです。
結果は、ニクソンの圧勝!!
下院議員となったニクソンは、反共を武器に、その地位を高めていきます。
政界の重鎮の一人がソビエトのスパイであることを突き止めて自白に追い込みます。
反共の闘士として全米にその名を知られるようになっていきます。

そして、上院議員選挙に当選!!
大統領選に臨むアイゼンハワー大統領から副大統領候補に指名されます。
しかし、思わぬ危機が・・・支持者からの不正献金疑惑が浮上!!
副大統領になるどころか、政治生命が危ぶまれる事態に・・・!!
そこで、思い切った行動に出ます。
当時、新しいメディアだったテレビを利用します。
「国民の皆さんに、副大統領候補としてお話があります。
 私たちのワシントンの家は、4万1千ドルですが、2万ドルの借金があります。」
家族や親族を含めた家計の実態を公表し、不正献金を受けたことがないと・・・
そして、一つだけ例外があるといいます。
「テキサスの支援者から1匹のコッカースパニエルを贈られました。
 黒と白のまだら模様の犬なので、娘がチェッカーズと名付けました。
 子供は犬が大好きです。
 チェッカーズだけは、誰が何と言おうと、手放すつもりはありません。」と。

後に、「チェッカーズスピーチ」と言われるこの演説は、人々の心を揺さぶりました。
そしてニクソンは、大統領選挙に勝ったアイゼンハワーの元、副大統領となります。
その後、アジア太平洋地域を外遊し、多くの国々の指導者と意見を交わしました。
その中でニクソンが実感したのが、中国の脅威でした。
「アジア・太平洋に於いて、重要な新しい底知れぬ要素は、共産主義中国であった。
 人々は、中共は後進国で、未開発だからアジアでは脅威になり得ないと言っていた時期に、私はその影響力はすでに、この地域全体に広がっていると直接得た情報を報告できた。」

中国にどう対処するか??
ニクソンにとって生涯にわたる重要なテーマとなりました。
1960年47歳で副大統領としての実績を掲げ、大統領選に立候補。
相手は、民主党のジョン・F・ケネディ。
事前の世論調査では、ニクソンがリードしていましたが・・・
この時初めて行われた大統領によるテレビ討論で情勢が覆ります。
ニクソンは、遊説中に膝を痛め、2週間の入院をしたばかり・・・
テレビでは弱々しく映ってしまいます。
反して若々しくて精悍なケネディ・・・。
新聞は、ケネディ上院議員が討論を制した!!
複数の州知事がケネディ指示にまわると報じました。
結局・・・勝ったのはケネディ・・・大統領選まれにみる接戦でした。

テレビ討論会で重要なのは・・・「7-38-55」のルールです。
人間は、人の好き嫌いを一瞬で判断します。
そのうち55%は視覚情報・・・見た目です。
聴覚情報・・・話しぶりは38%、言語情報・・・話の内容は7%ということです。
視覚情報・・・ここで、圧倒的にケネディが勝ったのです。
髭を剃らずにメイクをし、汗でドーランが落ち、醜く映ってしまったニクソン。。。
そして、ケネディの黒のスーツとニクソンのグレーのスーツ・・・。
白黒テレビの当時、黒はコントラストがはっきりしていて、力強い印象。
グレーは背景と同化してしまい、弱々しく映ってしまったのです。

2年後再起を図るニクソンは、1962年、49歳でカリフォルニア州知事選に立候補!!
しかし・・・惨敗!!
記者会見の席で、マスコミへの不満をぶちまけます。
ニクソンは、政界から姿を消しました。。。


ケネディに負けた8年後・・・奇跡の復活を遂げて大統領となります。
そして中国訪問を発表、世界に衝撃を与えます。
かつて反共の闘士と言われたニクソンが、どうして中国との関係改善を試みたのでしょうか??
政界を去ったニクソンは、一介の弁護士に戻っていました。
ケネディ大統領が暗殺され・・・副大統領のジョンソンが第36代大統領に・・・!!
ベトナム戦争への本格的な軍事介入が・・・
中国やソビエトが支援する北ベトナムとアメリカが支援する南ベトナムが争ったベトナム戦争。。。
アメリカは、当初は戦争への介入を評価していました。
しかし、戦争が長期化するにつれ、アメリカの犠牲者が増大、莫大な費用がかさんで国内経済も疲弊していきます。
さらにアメリカの爆撃に国際社会から批判が・・・!!
こうしてアメリカ国内でも反戦ムードが高まっていきます。
ニクソンはこれを機に立ち上がります。
1968年55歳で大統領選に出馬。
公約に掲げたのはベトナムからの「名誉ある撤退」です。
ニクソンは、接戦を制します。
1969年、56歳で第37代アメリカ大統領に就任しました。

大統領となったニクソンが力を入れたのは、中国との関係改善でした。
副大統領時代から共産主義・中国の影響が東アジアに広がることを危惧していたニクソンは、友好関係を築こうとします。
「この世界は、中国が変化しない限り安全で張り得ない。
 長期的観点から、中国を孤立させることは許されない。」
中国を、アメリカが引っ張る国際社会に連れて来て、その中でうまくやり取りをし、中国を抑えながら、東アジアの国際情勢の安定を図っていたのです。

そこには再選の思惑もありました。
当時、アメリカ国民にとって、中国は不気味な国でした。
その中国の脅威を取り去れば、絶大な支持を得ることができる・・・!!

扱いにくいソビエトより・・・中国が政治家としての腕の見せ所だったのです。
国民にアピールできるチャンスでした。
しかし、国交もなく、対立してきた中国との関係改善は容易ではありません。
ニクソンは、あらゆる手を繰り出していきます。

沖縄を日本に変換したとき、核兵器なしで変換したのもそのためと言われています。
日本だけでなく、中国との関係を意識していたのです。
沖縄に核兵器を配備しないことで、中国に安心感を与えようとしました。
安全保障上の利益を尊重するというシグナルを、中国に対し送ったのです。

また、ソビエトとの核兵器制限交渉に乗り出し、緊張緩和をしたのも、中国との関係改善を見越したものと思われます。
当時、ソビエトと中国は、共産主義をめぐる路線の違いから激しく対立。
もしアメリカとソビエトが手を組めば、中国は孤立してしまう・・・という不安感に付け込もうとしたのです。
この中国とソビエト・・・どちらも上手くやっていくことを狙ったのです。

カンザスシティでニクソンが演説しています。
五極・・・アメリカ、欧州、ソ連、日本、中国、五極の競争の時代になると・・・!!

そして、世界を揺るがしたテレビ放送・・・
「周恩来総理は、中国政府を代表してニクソン大統領が1972年の5月までの適当な時期に中国を訪れるよう招待しました。
 私ニクソンは、この招請を喜んで受け入れました。」
1972年世界中が注目する中、中国を訪問。
米中両国は、敵対関係に終止符を打ち、国交正常化を目指すこととなりました。

1972年ニクソンは、3度目となる大統領選に挑みます。
圧倒的な大差で再選!!
しかし、任期の途中で辞任した唯一の大統領という汚名を残すこととなります。
どうして辞任に・・・??
大統領選のさなか、ニクソンと対立する民主党本部に何者かが侵入!!
ウォーターゲート事件と呼ばれるこの事件・・・
はじめはコソ泥の仕業と思われていましたが・・・犯人の一人が「ホワイトハウスもこのことを知っている」と自供。
ニクソンの関与を疑ったワシントンポストの記者が執拗に真相を追います。
その結果、盗聴容疑者が選挙資金を得ていたことが明らかに・・・
この首謀者は、ニクソンの側近で、ニクソンはかかわっていなかったとされています。
しかし・・・疑惑の目が向けられます。
ニクソンは記者会見に臨みます。
「今日、私は困難な決断を下しました。
 政府内の近しい仲間の辞職を受理したのです。
 またFBIや検察官、大陪審に全面的に協力するよう、政府と再選委員会の全員に命じました。」
ニクソンへの疑いは、晴れたかに見えました。
しかし、関係者への追求が続く中・・・ニクソンが捜査を妨害しようとしていたことが発覚!!
さらに事件とは直接問題ではない事が、クローズアップされていきます。
大統領執務室での会話記録がすべてテープに録音されていたことが判りました。
この録音は、将来自分の功績を誇る図書館を作るためにとってあったという。
ニクソンはテープの提出を拒否!!
「テープ提出の腱で、大統領の会話の機密性が脅かされています。
 機密保持の原則を犯す決議には断固反対です。」
さらに権力を乱用!!
検察官の解任を命じ、司法長官を辞任に追い込みます。
こうした一連の報道に人々の怒りが爆発!!

任期半ばの1974年・・・
「物事を途中で投げ出すのは嫌いです。
 任期を終えずに去るのは、耐え難い苦痛です。
 しかし、大統領として国益を最優先すべきです。
 
 よって私は、明日の正午に大統領を辞任します。」

翌朝・・・
「別れの挨拶の準備に心を集中しようとしたが、その間、何度も心をよぎったのは、あんなに高い所にいたのにどうしてこんな低い所に落ちることになるのかという思いだった。」

そして、別れの挨拶・・・

「私の人生から永遠に光が消えてしまった。
 みなさん、一人一人に言いたい。
 諸君の事は忘れない。」

ホワイトハウスを後にして、大統領専用機に乗り込むニクソン・・・
最後にお決まりのポーズを見せました。

辞任から3年・・・ニクソンはウォーターゲート事件に対して重い口を開きました。
「私は友人を失望させました。
 私は国を失望させました。
 政治のシステムをダメにし、政府で仕事を夢見る若者に、全て腐敗していると思わせ失望させました。
 私はこの重荷を、一生背負っていかなければなりません。」

1979年米中間に、正式に国交が樹立しました。
当時のカーター大統領は、鄧小平を招き、晩餐会を開くことに・・・
その晩餐会に、ニクソンが現れました。
中国側の強い希望でした。
1980年レーガン大統領に親書を送りました。
「私個人に関して、どんな公職に就くことも求めてはいません。
 しかしながら、あなたが必要と思われるなら、私が特に詳しい領域について、喜んでアドバイスいたします。」
外交政策の指南役を申し出たのでした。

1989年中国で天安門事件・・・
民主化を求める学生を、中国政府が武力で排除!!
これに対し、アメリカ国内で中国を批判する声が高まります。
この時、ニクソンはこう指摘したと言われています。
「中国を国際社会から孤立させることになれば、改革開放の動きは頓挫し、古い体制が力を取り戻すことになるだろう。」

1991年ソビエト連邦崩壊。
民主化への支援が不十分だ歳、同じ共和党のジョージ・ブッシュ大統領を批判!!
その後、民主党のクリントン政権が誕生した際には、唐の壁を越えてアドバイスを送りました。
最後までアメリカの外交を気にかかけていたニクソン・・・
1994年ニクソンは心臓発作で倒れ、そのまま亡くなります。81歳でした。

ニクソンの葬儀には、5人の大統領経験者が参列。
クリントン大統領が弔辞を述べました。

「彼は間違いも犯しました。
 成し遂げたことと同じくそれも彼の人生の一部です。
 彼は何度もこう言いました。
 ”人はゴールを見失ったり、登るべき新しい山がないと魂が死んでしまう”と。
 彼の人生は終わりました。
 今後、ニクソン大統領は、その業績によって判断されますように。」

現在、ニクソンの生家は、アメリカ政府の運営するニクソン大統領図書館となっています。 
今・・・ニクソンへの関心が集まる中、年間10万人がここを訪れると言います。

「人は負けても終わったわけではない。
 人はやめたときに終わるのだ。」byリチャード・ニクソン

 

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