真田信之 父の知略に勝った決断力 (PHP新書)

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戦国時代屈指の名将・真田昌幸、日の本一の兵・真田信繁・・・
二人の英雄のはざまにあったのが、嫡男・真田信之でした。
信之がいたからこそ、江戸260年、真田の家名は絶えることなく明治維新まで続きます。

真田の名が天下に轟いたのは、戦国時代最後の大坂の陣!!
徳川VS豊臣の戦いでした。総勢30万人の戦いで、信之の弟・信繁は、出城・真田丸を拠点にして徳川をさんざん悩ませます。
2016年2月真田丸の新しい絵図が発見されました。
大坂の陣に一番近い絵図・・・そこには、今まで考えられていなかったことが書かれていました。
しかし、信繁が活躍すれば活躍するほど信之は苦境に立たされていきます。
真田家存亡の危機に・・・!!

天下に勇名をはせた父と弟・・・陰に隠れているかに見える兄・信之・・・生涯をかけて真田を守った男の決断とは・・・??

真田信之の菩提を弔う大鋒寺には、信之の生前の姿の門外不出の木像があります。
信之が実際に戦ったのは関ケ原までです。
以降、60年近くは武器を持たず・・・しかし、関ケ原が終わってからが、信之の武器を持たない戦いの始まりでした。
後に、徳川幕府から天下の飾・・・武士の鑑と称えられた信之・・・信之はどうやって真田家の家名を存続させていったのでしょうか?
そこには信之の苦悩がありました。
日本を二分にして戦った関ケ原の戦い・・・実は、この戦いの前夜・・・真田一族の命運をかけた大きな決断がありました。
1600年7月、上杉征伐参陣の途中・・・真田に密書が届けられました。
大老・家康の不在をついて、石田三成が反徳川の兵を挙げたのです。
密書は、家康を糾弾し、三成の西軍に組するように依頼する内容でした。
東につくか?西につくのか・・・??選択に迫られます。
信之の正妻は、徳川重臣・本多忠勝の娘、信繁の正妻は西軍首謀者のひとり大谷吉継の娘でした。
兄弟の姻戚関係は東西に分裂したのです。
昌幸は西軍に組する決意を明かし、弟もそれに賛同・・・しかし、信之は二人に異を唱えます。
ひとたび家康公に従い出陣した以上、逆心を示せば、不義のそしりを受けかねない・・・!!
結果、信之は東軍に、父・昌幸と弟・信繁は西軍に組することとなります。いわゆる”犬伏の別れ”です。

しかし、関ケ原の戦いは、わずか1日で東軍の勝利に終わります。
信之は勝者となり、父と弟は敗者となりました。
関ケ原の戦いは、真田一族の運命を大きく変えていきます。
勝者となった信之は、もともとも領地の沼田に加え、父の領地であった上田などを合わせ9万5千石の大名に列します。
一方、反旗を翻した昌幸に対し、のちの二代将軍・秀忠は「必ず昌幸を処刑すべし!!」と、怒りをあらわにしたと言います。
なぜなら・・・関ケ原の前哨戦となる第二次上田合戦で、昌幸に足止めを食らった秀忠は、天下分け目の合戦に間に合わなかったからです。

信之は、徳川家の重臣たちに助命嘆願の根回しをします。
この時の命がけの言葉が残っています。
「昌幸を誅するならば、それより先に、この私に切腹をご命じください!!」
命がけの信之の嘆願に、父と弟は罪一等を減じ、高野山の麓の九度山に幽閉されることとなります。

そして関ケ原から3年後の1603年、家康、征夷大将軍に就任。
以後、信之は江戸幕府に組し、徳川を支えていくこととなります。
徳川家に忠誠を誓った信之・・・しかし、信之の領国経営は苦悩の連続でした。
江戸城普請など、幕府の公役負担、浅間山噴火による作物被害・・・そのうえ、父と弟の幽閉生活を支えていました。
幽閉先の昌幸からお金の催促も・・・
真田領は災害がひどく、復興にたくさんのお金がかかっていました。
それだけではなく、農民たちは年貢が払えず、借金も払えず、身売りをしていました。
それを自分がお金を出して村に帰してやっているのです。
信之は、厳しいやりくりの中、領国復興を行おうとしていたのです。
おまけに、父と弟の仕送りはかなりの負担でした。
しかし、そんな信之の努力も無に帰します。
1611年6月4日・・・父・昌幸が赦免されることなく九度山で亡くなります。
享年65・・・無念の死でした。
信之は、父の葬儀を行うべく、幕府の許しを請うものの・・・その許可が下りることはありませんでした。
昌幸は危険人物とみなされていたのです。

幽閉先には、信繁が残されます。
父亡きあとも、弟の生活を支えていく信之・・・
しかし、徳川と豊臣との戦いが、二人に亀裂を生じさせていきます。

江戸幕府を開府し、全国統治を目指す家康にとって、どうしても排除しなければならないのが豊臣家・・・
1614年8月、方広寺小鐘銘事件!!
国家安康・・・家康の文字を分け、呪詛をかけている!!という言いがかりを機会に、両者の決戦は避けられないものとなっていきます。
九度山に幽閉されている信繁に心情の変化が・・・??

「こちらにお見舞いに来ることは無用!!
 特に変わったことはありません。」
それまでの信繁は、寄ってほしい、来てほしいという内容の手紙を送っていました。
異質な内容の手紙・・・大阪入城直前の手紙かも知れません。

万が一、弟が大坂城に入れば、信之にとって敵となり、責任を取って改易される可能性もある・・・
おまけに信之は中風を患っていました。
信之は歩くこともままならない・・・弟の説得にも向かえない・・・
どうすればいい??

幕府にとって父・昌幸は”公儀御憚りの仁”・・・徳川と戦った時の主将はあくまでも昌幸、信之ではない・・・。

信繁を説得する・・・??
強行策・・・??
もし信之が弟を亡き者にしようとすれば・・・家臣団は分裂する・・・??

弟の大坂入城をどう阻止する・・・??

1614年10月・・・豊臣と徳川の激突が・・・!!
信之は弟・信繁の入城を阻止するべく、九度山に家臣を派遣、説得を試みます。
幕府に味方するように説得します。
しかし、信繁は、父・昌幸の遺言もありこれを拒絶!!
結果・・・信繁、大坂城に入城!!

信繁同様集まった浪人たちは10万余り・・・!!
対する幕府軍は20万で大坂城を包囲!!
大坂冬の陣の幕開けです。
信之は病のために参陣できない・・・
幕府の許可を得た信之は、長男と次男を大坂へ従軍させています。
大坂冬の陣で大軍勢を破った信繁・・・信繁が築いた真田丸!!
しかし、真田丸にはまだまだ謎が多く・・・知られていません。
今年2月・・・松江で新しい発見がありました。
真田丸の絵図の中でも、大坂の陣に最も近いものです。
真田丸とは陸続きで防御が手薄なために大坂城の南に作られた出城です。
従来の真田丸は、大坂城に接していると考えられていましたが・・・
200mをこえる谷を挟んで大坂城から独立する形になっていました。

さらにこれまでと異なる点は、土橋という出入り口です。
敵が攻め寄せれば防御に徹し、敵が撤退すれば反撃に打って出ることができます。
守るためだけの真田丸・・・と思われていましたが、信繁は反撃する事を考えていたようです。
実際、徳川軍の混乱に乗じて出撃し、手痛い一撃を加えています。
真田丸の信繁の活躍に衝撃を受ける家康。
信濃一国を与える代わりに寝返るように・・・と、調略します。
信繁はこれを相手にしなかったと言います。
しかし・・・信繁の奮戦空しく、大坂城を狙う大筒によって・・・豊臣方の動揺を招き、一時休戦・・・
12月19日講和成立。
講和から半年後、大坂夏の陣!!
徳川15万に対し、豊臣5万・・・
真田丸はすでになく、大坂城の総構えは埋め立てられ、場外出撃を余儀なくされた豊臣方は決死の戦いを敢行!!
しかし・・・1615年5月7日・・・幕府勢を蹴散らし、家康の本陣を目指した信繁は戦乱の中で壮絶な死を遂げます。
享年49歳と言われています。

弟の名声が高まる一方・・・戦後、疑いがかけられています。
真田家が大坂に援軍を送り、密かに領内の信繁とはかりごとをしていたというのです。
それに対し信之は・・・
「若し、反逆の心があれば、関ケ原の時に父と弟と一緒に敵となっている!!
親兄弟と袂を分かち、徳川のために忠義を尽くしてきたわれらが今更反逆を企てるものか?
そう思うなら、言い訳などしない。
速やかに自決して見せよう!!」
それを聞いた秀忠は、信之の幕府に対する忠義を認めたといいます。
かろうじて真田家の存続は保たれました。
しかし、実際、弟ともに戦った家臣たちもいました。
大坂に行った真田領の者の妻子を詮議し、京都に送りました。
処刑されたと言われています。
過酷な処置をとらなければ、幕府からの疑念、弟と密談の結果家臣を贈ったという疑念を払しょくできなかったようです。
真田の家名を守るために・・・!!
93年の長きにわたる生涯を、真田家存続のために奔走することとなるのです。

信之は第二次上田合戦で上田城を壊されて上田に入ります。
立派なお城に・・・とせずに、上田城はそのままに、堀だけ掘って近くの館に暮らしています。
当時の大名としてはあり得ない・・・しかし、それでいいという合理性と、上田城を立派に復興すれば、徳川から目をつけられかねない・・・とわかって配慮に配慮を重ねていたようです。

戦国時代から江戸時代の初めまで、武名が全ての時代に・・・
徳川に一泡吹かせたことで真田の名が天下に轟きました。
反徳川の空気のある人たちは、みんな真田を憧れの目で見ていました。

そんな中でひたすら忠義を尽くす犬に徹する兄・信之・・・
強い真田も徳川の犬となる状態・・・
あれだけ強かった真田も今となっては徳川家の飾りとなった・・・。
だから、改易に処されなかったのかもしれません。

長野県松代は、江戸時代、初代藩主となった信之の治めた土地です。
信之の菩提寺には、信之の隠居後にあった板戸が・・・不思議な絵が描かれています。
籠の中に入れられた鳥・・・
父・信之と、弟・信繁を思ってこんな形の供養をしていたのかもしれません。
もしかすると信幸自身かも・・・。

晩年の信之の、父と弟に対する思いは、単純なものではなかったでしょう。
そして、歴代の藩主が秘蔵してきた箱が・・・「吉光御腰物箱」。
この箱の中には、家康などの将軍家からの書状が沢山ありました。
その中に、関ケ原の戦いで敗れた石田三成や大谷吉継が、西軍に味方するように書かれた書状が残されていました。
幕府に憚りある代物が・・・。
こうした危険な文書を・・・どうして後世に伝えようとしたのでしょうか。
真田家の重要な記録として・・・自分自身が父や弟と袂を分かたねばならなかった・・・本来であれば一緒に行動していたのかもしれない・・・
信之が再興した天厩寺・・・英雄・武田信玄の弟を弔う寺です。
奇しくも信玄の弟の名も信繁でした。
墓の横にある小さな供養塔は、大坂の陣で戦死した弟の供養塔だと伝えられています。
信之が幕府に遠慮し、ここで弟を弔ったのだと言われています。
兵として戦場で華々しく散った弟・信繁、一方真田の名を守るために一生をかけて命がけの折衝をした信之・・・
歩んだ道は違えど、父・昌幸の意を汲んだそれぞれの決断でした。


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