太宰府天満宮の謎菅原道真はなぜ日本人最初の「神」になったのか【電子書籍】[ 高野澄 ]

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「サクラサク」を願い、受験生が合格を祈願する学問の神様と言えば・・・天神様。
その天神様として祀られているのが菅原道真です。
平安時代、菅原道真は一生懸命に勉強し、出世し、朝廷の権力者となりました。
その功績にあやかって、今では学問の神様に。
しかし、そこには様々な事実が隠されていました。

道真が亡くなった後の909年、朝廷の権力を握っていた藤原時平が病の床に・・・
病魔退散の祈祷が連日行われていました。
ところが・・・伝説によるとある日、時平は突如もだえ苦しみだします。
そして、時平の両耳から蛇が這い出し・・・
「祈祷をやめさせろ!!」と命令しました。
この蛇こそが、道真の怨霊??
まもなくして時平は息を引き取りました。

まだまだ恐ろしい事は続きます。
時平の右腕だった源光が、狩猟中に沼に引きずり込まれてしまいました。
遺体すら発見されない異様な死に様・・・。

この二人は、権力の中枢にいた菅原道真を九州の大宰府へ追いやった・・・死に追いやった人物だったのです。
人々は噂します。
「道真の怨霊の仕業??」
「道真が恨みを晴らしている・・・??」
その後も、朝廷に不都合なことがあるたびに、道真の怨霊だとされ・・・
930年6月・・・道真の死から27年後・・・醍醐天皇の時代に極限状態に・・・!!

この年、京の都周辺では、例年にない干ばつが続いていました。
このままでは凶作は避けられない・・・
雨乞いを願うため、天皇のいる清涼殿へ貴族たちが集まっていました。
すると。。。俄に黒い雲が沸き起こり、目もくらまんばかりの光と共に凄まじい雷鳴が・・・!!
雷が清涼殿を直撃!!まるで、そこにいた憎き貴族たちを狙い撃ちするかのようでした。
大納言・藤原清貫は雷に打たれて即死、平希世は顔を焼かれてしまいました。
宮中は戦慄し、大パニックに・・・!!
菅原道真の怨霊??

醍醐天皇はショックを受け、祟りが次は我に降りかかるのではないか??と、退位し、出家しました。
そのかいもなく、出家したその日に亡くなってしまいました。
いつになったら道真の怨霊は治まるのか・・・??
でも、どうして人々はそんなに道真の怨霊を恐れたのでしょうか?


菅原家の屋敷があったのは、京都市上京区菅原院天満宮神社。
845年、道真はこの地で生まれ、今も井戸が残っています。
菅原家は、代々学者の家系で、祖父・清公は、最澄や空海と一緒に遣唐使に随行し、留学をした高名な学者。
父・是善は、当第一の文人で政治もかかわった朝廷の高官でした。
その血を引く道真には、子供の頃から大きな目標が・・・
「文章博士になりたい。」
文章博士は、数々の学者の中からわずかに二人という狭き門でした。
官僚育成機関である大学寮で詩や歴史を学びます。
そして、20人の文章生の試験に合格しなければなりません。
祖父は20歳で、小野篁は21歳・・・道真は18歳でという異例で合格しました。
そしてその20人の中でも2人の文章得業生となるのです。
更に、最難関の国家試験「方略試」にも26歳で合格。

877年、33歳でついに目標を達成し、文章博士となったのです。
今で言うと、東京大学の総長のような存在です。
学者の頂点となったのです。


しかし・・・出来過ぎる男は嫌われる・・・??
文章博士は天皇や高位の貴族達の家庭教師でもありました。
天皇からの信頼も厚く、出世出来るためにねたまれたのです。

菅原道真が文章博士となったころ、藤原氏の天下でした。
そんな中、道真はたくさんの子供たちに恵まれ、順風満帆な日々を送っていました。
そんな42歳・・・文章博士を解任され、讃岐国国司の任官を命じられました。
道真にとっては、左遷ともいえる人事・・・。
しかし、どんなに不本意であっても逆らうことはできません。
宮中での送別会の時・・・別れに当たって詩を求められます。
が・・・人目をはばからず涙を出して悔しがりました。
讃岐国は京都に近く温暖で、出世コースの一つのパターンでした。
しかし、道真は嫌で嫌でたまらなかったのです。
讃岐国へ渡った道真、行政のTOPとして働くこととなりましたが・・・ここで待っていたのは目を覆うばかりの悲惨な現実でした。
干ばつによって土地は荒廃し、疫病が流行り、多くの人が命を失い、土地を捨てて逃げ出す人も・・・!!
地方の人々の悲惨な現状を目の当たりにし、大きな衝撃を受けたのでした。

税として讃岐から都に送った絹が、質が悪いと攻め立てられます。
その日の食べ物にも困る民が、一生懸命作った物を・・・!!
それをぬくぬくとした部屋でケチをつける貴族・・・道真は怒りに震えます。

藤原基経を中心とする政治が人々を不幸に陥れることを実感し、学者・道真ではなく政治家・道真が生れます。
888年、道真は行動を起こします。
朝廷を牛耳る藤原氏の非を咎める書状を都に送りつけます。
出世に差しさわりがあると・・・と、誰も行動しない中、それは勇気ある行動でした。
しかし、藤原氏から何の音沙汰もありません。

道真の気骨ある行動に目を付けたのが、宇多天皇でした。
当時の日本は未曽有の財政危機にありました。
なんとか打開策を!!
しかし、藤原氏が支配する世では改革ができません。
そんな時・・・当時一番の実力者だった基経が急死、今がチャンスと天皇は、道真が4年の任期を終えて京都に帰るや否や、天皇の秘書官長に当たる蔵人頭に任命します。
宇多天皇が何より道真を評価したのは裏表のない真面目な仕事ぶりでした。
「君のため 民のため」に尽くす倫理観でした。

財政を立て直すため、蔵人頭、式部少輔、左中弁、左京太夫、式部大輔、左大弁、勘解由長官、春宮亮、参議・・・に出世、僅か3年で9つの要職を歴任し、改革に取り組みます。
しかし、これは当時の貴族に大打撃!!

大化の改新以来、日本の税は戸籍台帳を基に行われていました。
成年男子に対して税を課すという人頭税です。
しかし、この仕組みには大きな問題が・・・
男の子が生まれても、戸籍では女の子にして税を免れる人が出てきました。
そして地方豪族も、人頭税では土地の広さや作物の収穫量に関係なく、土地で働く民の人数分払わなくてはならないのですが・・・
免税が認められている貴族たちに名義料を・・・土地を形式上寄進し、事実上の支配を行ったのです。
貴族達は名義料で潤い、豪族たちは税を納めずに済むのです。
こうした事態が各地で頻発したので、国の税収が減少・・・財政危機は当然の結果でした。

この国家を揺るがす危機に・・・税制の抜本改革に取り組みだした道真。
税を人からではなく土地から徴収することにし、貴族たちには寄進された土地の返却を求めました。
しかし、貴族、地方の豪族はこの大改革で自分の利権を失うことになってしまう・・・。
道真は、この大改革で、貴族や豪族を敵に回してしまったのです。
朝廷内で奮闘する道真。
国史の編纂もしていた道真は、休む暇もありません。


894年、急に、道真に遣唐大使就任の話が持ち上がります。
道真を遣唐使に任命る事・・・それは藤原氏の巻き返しでした。
道真を任命してしまえば、京都から道真を追い払うことができる!!
おまけに遣唐使は危険な任務・・・途中で船が転覆してしまう可能性も多分にありました。
しかし道真は反論!!
これが認められ、遣唐使派遣は中止!!
藤原氏の計略は失敗に終わります。

藤原氏もこのままでは終わりません・・・
そんな道真に、ライバル登場!!
遣唐使の派遣問題から3年後、権大納言、右大将に任命されます。
一方・・・左大将に任命されたのは藤原時平。。。
亡き実力者・藤原基経の長男で27歳。
以前まではいかないまでも、まだ藤原氏の権力は健在でした。
宇多天皇は藤原氏の権力に屈し、時平を右大将にせざるを得なかったのです。
このままでは藤原氏に朝廷を支配されてしまう・・・。
そう案じた宇多天皇は対抗すべく、道真だけに相談をし、譲位をしました。
時平が左大将となったわずか半年後の897年7月3日、13歳の敦仁親王(醍醐天皇)に譲ったのです。
そして宇多上皇は醍醐天皇に・・・道真と相談して・・・道真一人が醍醐天皇を補佐するという状態を作りました。

しかし、時平は反撃に・・・!!
譲位が行われた直後、道真が出仕すると・・・他の貴族たちは誰一人出てきませんでした。
「政治は道真殿一人ですればよかろう!!」と、ボイコットしたのです。
藤原氏の激しい不満が渦巻きます。
899年、遂に政権No,2となる右大臣に・・・!!
藤原氏や皇族以外で右大臣となるのは極めて異例のことでした。
同時に左大臣に昇進した時平は焦ります。
道真に左大臣の座を奪われるのではないか??

突然、宇多上皇は出家して宇多法皇となります。
表舞台から身を引いてしまいました。
宇多上皇も追い詰められてしまったようです。
最大の後ろ盾を失ってしまった道真・・・!!
陰で画策していたのは・・・時平・・・!!

901年正月、菅原道真以外の貴族達が急遽集められた御所で、醍醐天皇が思いもよらない詔を出します。
「道真は権力をほしいままにし、朕を退けようと企てた。 
 直ちに右大臣の職を解き、大宰府への転任を命じる!!」
道真まさに、驚天動地!!
時平は、ありもしない道真のクーデター計画を醍醐天皇に告げ口したのです。

すると醍醐天皇は真偽を父・宇多法皇に正すこともなく道真の処分を決断!!
宇多法皇は、知らせを聞いてすぐに御所に駆け付けましたが、すでに出家した身・・・
御所に入ることすらできませんでした。


藤原氏の陰謀によって、権力も家も失った道真は、都からの去り際歌を詠みました。

「東風吹かば
  にほいおこせよ
         梅の花
 あるじなしとて
         春を忘るな」

失意のままたどり着いた大宰府で道真に与えられた家は、ボロボロの官舎でした。
右大臣まで上り詰めた道真に取って、大宰府での生活は惨めなものでした。
役所に出仕することも禁じられ、その日の食にさえ困る厳しい生活でした。
そして湧き上がる望郷の念・・・唯一の心の慰みが歌を詠むことでした。

大宰府に追放されてなお、あきらめない道真・・・
いつかは許されて帰りたい・・・仕事がしたい・・・と願い続けていたのです。
しかし・・・左遷から2年、59歳で帰らぬ人となりました。
福岡にある太宰府天満宮で眠っています。
というのも、道真が亡くなった後、その亡骸を京都に・・・と、運んだのですが、牛車が動かなくなりました。
そしてこの地で葬られたと言われています。

無念の死を遂げた道真は怨霊となっていきます。

道真亡き後その改革を引き継いだのは・・・道真を失脚させた張本人・藤原時平でした。
改革によって国家の財政破たんを立て直し、藤原道長に続く栄光へと繋がっていきます。

道真の死後、次々と起こる不幸を道真の怨霊と考えた藤原氏は・・・
北野天満宮を創建!!
道真を天神として祀ります。
藤原氏に疎まれ非業の死を遂げた道真は、皮肉にもその藤原氏によって神とされたのです。
そして今、学問の神様として祀られています。



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