マリア・テレジア: ハプスブルク唯一の「女帝」 (河出文庫)

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ヨーロッパの名門・・・ハプスブルク家のマリア・テレジア・・・。

オーストリアの首都にある世界遺産・シェーンブルン宮殿。
フランスのベルサイユ、ロシアの冬宮と並んで、世界の三大宮殿の一つとされています。
ハプスブルク家の栄華を現代に伝えるこの宮殿を建てた人物こそ、マリア・テレジアです。


16人の子供の母親であり、宮殿には末娘マリー・アントワネットが7歳だった時、当時6歳だったモーツァルトが演奏に来た部屋が残っています。
子供たちを愛するとともに、テレジアには大きな使命がありました。
君主として国民の幸せと国の発展を・・・!!
国の近代化に成功し、オーストリアでは今でも国母として称えられています。

ハプスブルク家の領土を狙う急先鋒は・・・
プロイセンのフリードリヒ2世、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いで勢力を拡大していました。
マリア・テレジアは、人生の多くをこの男との戦いに費やします。
戦いに勝利するために、さっそうと馬にまたがります。
そして・・・300年以上も敵対していたフランスと手を組む・・・外交革命をやってのけます。


中世の13世紀から20世紀にいたるまで、ヨーロッパで権勢をふるったハプスブルク家。
双頭の鷲の紋章で知られています。
マリア・テレジアが生れた頃には、オーストリア、ハンガリーなど中欧ヨーロッパを支配するハプスブルク帝国を築いていました。
その帝国を引き継いだマリア・テレジア・・・
敵が突然襲い掛かってきました。
周囲がためらう中、戦いに乗り出すのです。

1717年、マリア・テレジアは、ハプスブルク家の長女として生まれました。
王女としての教養を身に着けるために、ピアノ、ダンス、外国語、宗教を学びました。
6歳の時に、小国・ロートリンゲン王子、フランツ・シュテファンと出会います。
9歳年上のこの少年に恋心を抱き・・・テレジア1736年、19歳の時・・・初恋のフランツと結婚しました。
この結婚に期待していたのが、父・カール6世でした。
早く後継ぎとなる男の子が欲しい!!
ハプスブルク家の君主は代々男性・・・しかし、カール6世には男子がいませんでした。
そこで、テレジアの子に期待したのです。
すぐに二人の間に子供が・・・しかし、娘・・・2人目、3人目も娘でした。
カール6世は失望してしまいます。
そして4人目を身ごもっていた時・・・カール6世急死。

1740年、23歳の時、突然の父の死によって・・・長女だったテレジアは、ハプスブルク家の君主に・・・!!
しかし、周辺諸国は女性の君主を認めようとはしませんでした。

「鷲が死んだので羽根をいただこう・・・」

王女としての教養しか身に着けていなかったテレジア・・・
国を統治する経験も知識もありません。
しかし、突然財政や軍隊に向き合わなければならなくなりました。
突然、プロイセンがハプスブルク家北部のシュレージェン地方に侵攻!!
帝国内で、最も資源の豊富な工業地帯でした。
プロイセン軍を率いていたのは、国王・フリードリヒ2世!!
強大な軍事力を背景に、シュレージェンを占領してしまいました。
テレジアは、父の時代からの側近たちと緊急会議を開きます。
しかし・・・誰も口を開こうとはしない・・・。
沈黙が続きます。

皆、戦争をしても勝ち目がないと思っていたのです。
しかし、テレジアは・・・
「父から譲り受けた領地を割譲することはなりません!!
 シュレージェンを失うくらいなら、ペチコートを脱いだ方がましだわ!!」
当時、身分の高い女性がスカートの下に履いていたペチコートを脱ぐということは、並々ならぬ覚悟でした。
シュレージェン奪還の決意!!
しかし、事態はさらに緊迫!!
周辺諸国が攻め寄せてきます。
そんな中・・・テレジアは、乗馬の練習を始めました。
側近たちはわけもわからずオロオロ・・・
しかし、ほどなくして、テレジアは、颯爽と馬にまたがってハンガリーに現れました。
長い対立の末に、支配下に置かれていたハンガリーでは、いまだにハプスブルク家に対する反発が強かったのですが・・・それでも事態を切り抜けるには、ハンガリーの軍事力に頼るしかない!!
そこで、馬を愛するハンガリー人の信頼を得ようと乗馬を特訓したのです。
テレジアを見たハンガリー人たちは・・・
「女王万歳!!我らが国王万歳!!」
ハンガリーには、「国王の騎行」という騎馬民族国家ならではの儀式がありました。
ハンガリー各地から持ち寄った土で作った丘を国王が剣をもって駆け上がり、「どこから敵が雇用とも国を守る!!」と、宣誓するのです。
この儀式に望むために訓練をしたのです。

ハンガリーを味方につけたテレジアは、攻め寄せる周辺国に立ち向かいます。
このオーストリア継承戦争は、8年にわたって続きました。
結局、プロイセンにとられたシュレージェン地方を取り返せなかったものの、テレジアはハプスブルクの後継者として周辺国に認められたのでした。

シェーンブルン宮殿を拠点に、テレジアは国の改革を進めていきます。
8年に及ぶ戦争の経験を踏まえて、いかにハプスブルク家が時代に後れた国であるのかを痛感したのです。
テレジアは、徹底した近代化に乗り出します。
最初に手を付けたのが、人材の登用でした。
従来のように身分を気にすることなく優秀な人材を抜擢!!
こうして抜擢した人材と共に、あらゆる改革に挑んでいきます。

軍隊・・・
それまで戦いがあるときには、農民や傭兵を使っての寄せ集めの軍隊でしたが・・・
正式な軍を作ることに資、士官学校を設立!!
貴族も農民の平等に扱います。
兵たちの食堂も作り、栄養価の高い食事を提供、傷病兵の病院も作ります。
しかし、軍を辞していくためには多額の費用が・・・

税制改革にも取り組みます。
多民族国家のハプスブルク帝国では、各地域が勝手に税率を決め、国に納める額も自分達で決めていたので、
財政が不安定でした。
そこで、税率を一本化し、中央から役人を派遣し、税の徴収に当たらせます。
これによって国の財政が安定し、地域差による不公平感も無くなります。

生産性の向上にも・・・。
当時労働者は、寝ているとき以外働いているというほど長時間仕事場にいました。
しかし、実際は仕事を中断し、遊んだりお酒を飲んだり・・・
そこで、休憩時間を設けます。
人々の集中力が高まっていきます。

一方、家族との時間を大切にするテレジア。
シェーンブルン宮殿は、もともとウィーン郊外の別荘でしたが、政務をとりながら家族と暮らせるように整理したものです。
子供は、息子5人、娘11人の合わせて16人。
宮殿内に劇場を設け、子供たちが披露する声楽やバレエを見るのが、一番の楽しみでした。

テレジアは、子供たちの家庭教師を自ら選びます。
息子には帝王学を、娘には様々な教養を・・・
しかし、結婚に関しては、恋愛結婚は認めませんでした。
政略結婚によって、周辺国との関係を強化する必要があると考えていたからです。
ハプスブルク家には、古くから娘たちを政略結婚させる伝統がありました。
子供は資本で、それを政治に投資するという感覚です。
結局、テレジアの娘たちも犠牲にならざるを得ませんでした。

テレジアには忘れることのできない屈辱がありました。
プロイセンのフリードリヒ2世にシュレージェンを奪われたことです。
テレジアは、再び宿敵・フリードリヒと戦います。
シュレージェン奪還の秘策は・・・フランスやロシアとのプロイセン包囲網でした。
そしてロシアの女帝エリザベータ、フランスのポンパドゥール夫人を味方につけることに・・・ペチコート同盟を作り上げたのです。
しかし、この同盟成立への道程は容易なものではありませんでした。
というのも・・・フランスとハプスブルク家は300年以上の敵対関係にありました。
しかも、フランスはプロイセンと協調関係にあったのです。
フランス国王・ルイ15世が、やすやすと同盟を結んでくれるはずはない・・・
そこで、フランスにスパイとして送り込まれたのが、側近・カウニッツ伯爵!!
テレジアは、カウニッツと二人で秘密裏に動き始めます。
フランスのベルサイユに赴いたカウニッツは、頻繁に舞踏会を催します。
諜報活動に励むカウニッツ。
そして逐一テレジアに報告!!
6年後・・・ルイ15世の公妾で、国政を取仕切っていたポンパドゥール夫人を味方につけることに成功します。
彼女は女性を蔑視するフリードリヒ2世に反感を持っていたのです。
ポンパドゥール夫人は、ルイ15世を説得!!
遂に、ハプスブルク帝国とフランスとの同盟が成立しました。
この大転換は、歴史上外交革命と言われています。

家庭を大切にし、モラルを重んじるテレジアにとって、ルイ15世の愛人の存在を認め、力を借りるのは耐え難い事でした。
しかし、シュレージェンを取り戻すには、こうするしかないと判断し、行動したのです。

テレジアはその一方で、ロシアの女帝エリザベートに手紙を送ります。
エリザベータは快諾。
彼女も女性を蔑むフリードリヒを苦々しく思っていたのです。

こうして三人の女性によるペチコート同盟が成立し、プロイセン包囲網が完成したのです。
そして・・・1756年、39歳の時に、七年戦争が始まります。
ハプスブルク帝国を率いたのはダウン将軍。
テレジアが抜擢した人材のひとりでした。
ダウン将軍は次々とプロイセン軍を撃破!!
テレジアは・・・
「私は心の奥底から、本当に嬉しい気持ちをあなたに伝えないではいられません。」
そして、ロシアとハプスブルク帝国との連合軍を前に、フリードリヒ2世惨敗!!
彼自身、胸部に弾丸を受け、タバコ缶のおかげで九死に一生を得ていました。

テレジアは勝利を確信!!
その矢先、信じられないことが・・・
ロシアの女帝・エリザベート死去。
代わって即位したピョートル3世は、フリードリヒ2世の崇拝者でした。
そして・・・テレジアとの同盟を破棄し、プロイセン側についたのです。
プロイセンは、崩壊寸前で踏みとどまったのです。
一方、ハプスブルク帝国も、戦争継続の余力は残っていませんでした。
長引く戦いで、国力は衰退し、国民の暮らしはひっ迫し、食料不足に陥っていました。 
テレジアはついに、シュレージェンの奪還を断念。
多くの人が犠牲となった七年戦争は、1763年、46歳の時に集結。
戦後、テレジアは・・・
「私は戦争の打撃を嫌というほど体験しましたから、もう戦争などしたくはありません。」

結局、シュレージェンを取り戻せなかったばかりか、多くの犠牲者を出し、国力も衰退してしまった・・・
しかしテレジアは今もなお”国母”として慕われています。

七年戦争終結から2年後・・・最愛の夫・フランツが亡くなってしまいました。
「わたくしの幸せな結婚生活は、29年6か月6日。
 335か月、1540週・・・
 突然彼は、私の手から奪い取られてしまった。」
テレジアはその後死ぬまで、喪服を脱ぐことはありませんでした。
伴侶がいなくなったテレジアは、一人で子供たちと向き合います。

24歳になった長男・ヨーゼフ2世にある程度の国政を任せることにしました。
幼いころから帝王学を学んできたので、戦争で悪化した国家財政を直すために歳出削減を始めます。
休廷の馬を1200頭から400頭。
「馬の世話をしていた飼育係たちはどうなったの?
 まさか、彼らを路頭に迷わせるつもりではないでしょうね?」
しかし、ヨーゼフは聞く耳を持ちません。
それどころか、儀式や祝祭など、自分が必要でないと思ったものは廃止してしまいます。
歳出削減を推し進めていきます。

テレジアとヨーゼフの対立を決定的にしたのがポーランドの分割でした。
ヨーゼフは、テレジアの宿敵・フリードリヒ2世を崇拝していたのです。
そのフリードリヒの呼びかけに応じて・・・プロイセン、ロシアと共に3か国でポーランドを領土を略奪してしまったのです。
”国力を回復するためには、新しい領土が必要!!”というヨーゼフの考えがありました。
勢いに乗ったヨーゼフは、隣国・バイエルンの王が亡くなったのを機会にバイエルンへ侵攻。
テレジアは必死に息子を諭します。
「バイエルンに要求を突きつける正当な理由など、何もないではないですか??」

もう・・・ヨーロッパの平安を乱さないでほしい・・・

テレジアが危惧した通り、ヨーロッパに再び戦火が・・・!!
フリードリヒがハプスブルクを攻撃してきたのです。
フリードリヒは、好戦的なヨーゼフは、いずれプロイセンに悪影響を及ぼすと思ったのです。
戦いが始まりましたが・・・双方決め手にかけ膠着状態・・・
兵士たちは疲弊するばかりでした。
そんな中・・・フリードリヒ2世のもとへ一通の手紙が・・・
送り主はテレジア。
「自分の子供を無理矢理戦場に連れて行かれた女性たちのことを、私はいつも考えてきました。
 戦争とはなんと醜い営みなのでしょう。
 人間性に対しても、幸せに対しても・・・」
宿敵に対し、和平を申し出ました。

フリードリヒ2世はこれを受け入れました。
テレジアは、人命が失われ、経済が崩壊していく戦争を、なんとしても避けたかったのです。
その思いから、息子に内緒で手紙を送り、ヨーロッパに平和をもたらしたのです。

テレジアを悩ませたのは、ヨーゼフだけではありませんでした。
中でも手を焼いたのが・・・フランス国王・ルイ16世に嫁いだ末娘、マリー・アントワネット。
テレジアは浪費を重ねる噂しか聞こえてこない娘に対し、苦言を呈していました。

「わたくしは、多くの新聞が何度も書き立てていることについて、言わざるを得ません。 
 それはあなたの華美な装飾品についてです。
 髪が90センチもあり、羽根やリボンで飾り立てているそうではないですか。
 もしあなたが改めなければ、待っているのはただならぬ不幸だけ。」

一人の母親としては、ジレンマを抱え続けていましたが、国民のためには様々な改革を・・・!!
当時、人々を死に追いやる天然痘が流行しました。
そこでテレジアは、予防接種のために自ら現場に赴きます。
他国に先駆け義務教育を導入し、帝国の全域に小学校を設立します。
教育が生活の改善、国力のにつながるとしたのです。
当時の考え方では革新的でした。

「やがてこの子たちが成長して、教養を身に着けた成人となって、国家を支えてくれるのだわ。」

母であり、君主であり続けたテレジア。
「過ぎ去った幸せを思い浮かべているの。
 その幸せをあまりにも大切にしなかったと今更ながら後悔したりもしているけれど、今、私が早く来ないかと待ち望んでいるのは、棺と死に装束だけ。」

ハプスブルク帝国の君主となって40年・・・
1780年11月29日、マリア・テレジア死去・・・63年の生涯でした。


テレジアの死から3か月後・・・
一枚の版画が作られました。
「テレジア最期の日」
子供たちに囲まれ、息を引き取る様子が描かてれいます。
テレジアの死を悼み、多くの人が手に入れられるように版画にしたと言います。
23歳という若さで大国を背負ったテレジア。
生涯をかけて国を守り抜き、近代化へと導きました。
その人生は、国民を想い、国を育てるという愛に満ち溢れたものでした。
テレジアは、即位したとき、君主としての決意をこう述べていました。

「私は、最期の日に至るまで、誰よりも慈悲深い女王であり、必ず正義を守る国母でありたい。」




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