江戸の災害史 - 徳川日本の経験に学ぶ (中公新書)

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1657年1月18日、江戸の町で起きた火災は3日間燃え続け、町を、人を、江戸城天守をも炎に包んでいきました。
江戸の2/3を焼き、10万人を死に追いやった・・・明暦の大火。
後の関東大震災や東京大空襲などと並ぶ、日本史上最大級の災害となりました。


明暦3年1月18日、午後1時ごろ・・・
江戸城の北、本郷にあった本妙寺から出火。
現在の文京区本郷5丁目にある本妙寺坂付近です。
火は、北よりの風にあおられて南東へ・・・。
湯島、駿河台の大名屋敷を次々と焼いていきます。
信仰の場であった湯島天神や神田明神にも延焼。
日本橋にあった吉原や劇場のあった地域までも壊滅状態!!

午後5時ごろになっても日はおさまりません。
西からの風に代わり・・・火は東方向へ・・・
八丁堀の通りは、鍋や布団など家財道具を手に逃げまどう人たちでごった返しました。
車長持ちに荷物を乗せて逃げる人も・・・それが道を塞いでしまったので、さらなる混乱をきたしました。
火の勢いはとどまることを知らず、停泊中の船にまで飛び火!!
隅田川を飛び越して、霊岸島へと広がっていきました。島に祀られていた寺は炎上・・・
さらにその先にあった佃島、石川島も焼き尽くしたのです。

どうして被害が広まったのでしょうか??
火事が起こった1月18日は・・・現在の3月初旬・・・。
この時の江戸では80日以上雨が降っておらず、井戸は枯れ、空気はひどく乾燥していました。
小型台風並みの季節風が吹いて砂煙を巻き上げていました。

過密都市・・・
江戸開府から50年余り・・・その間に町は急激に拡大し、人口は50万人。
どうして人口が急増したのでしょうか??
1635年、幕府の政策として参勤交代制度化。
大名達は、上屋敷、中屋敷、下屋敷を構え、家臣を常駐させます。
大大名ではこれに加えて抱屋敷もありました。
これによって武家地は密集化が進み、さらに新しい町に全国から一旗揚げようと商人たちも町人地に集まってきました。
密集していたので、延焼が激しくなったのです。


さらに情報の錯綜。
火の手が迫った伝馬町の牢獄では・・・
牢屋奉行の石出帯刀は独断で、牢に戻ると約束させ、囚人たちを解き放ちました。
囚人たちは石出の措置に感激!!
全員戻ってきたと言います。
しかし、この人道的措置が2万3000人もの死者を出した浅草橋門での悲劇を生んでしまいました。
浅草橋門にはこの時火災から逃れようと多くの人々が押し寄せていました。
しかし、門が閉じられていたのです。
浅草橋門の門番たちが、小伝馬町の囚人たちが脱獄したと誤報を信じ、囚人たちを外に出すまいと門を閉ざしてしまったのです。
背後から迫ってくる火に人々は焼かれ、門をよじ登った者は堀に落ちて溺れてしまいました。

防火体制の甘さ・・・。
人口が急増し、火事が多発しても、町にはまだ火の見櫓も、半鐘もほとんどありませんでした。
消火活動は、破壊消防でした。
当時は大名火消しのみで、町火消はこの63年後に設けられます。当時は町人たちの自助努力でした。

甚大な被害をもたらした明暦の大火・・・
その日がおさまったのは、1月19日午前2時ごろでした。
半日燃え続け・・・四十八町、5.3平方キロメートルを焼き尽くしていました。
大勢の人が行方不明者を探して彷徨っていたと言います。

それでは本妙寺の出火原因とは??
振袖火事??新都市計画のための幕府放火説??
出火原因がわからなかったので、様々なうわさが飛び交います。

江戸時代に火事を出してしまうと江戸追放などの処分がなされますが、本妙寺は火元であるにもかかわらず処分なし。
出火元である本妙寺になんの処分もなかったので、もう一つの説が出てきます。
本妙寺に隣接した老中・阿部忠秋邸が出火元という説です。
おまけに本妙寺は大火後、寺の格が上がる厚遇を受けています。
また阿部家から供養料が、関東大震災まで納められています。

実際には確証がなく、断定はできませんが・・・。

48もの町を焼き、半日ほどで自然鎮火した火災。
ところが再び火の手が上がります。
9時間後・・・19日の午前11時ごろ。
火元となったのは、小石川にあった大番衆与力の宿所。
出火原因は不明。
北西の風にあおられて、火は南下。
水戸藩屋敷を焼き外堀を越えていきます。
麹町・・・大名屋敷を次々と焼いていきました。
大名屋敷から逃げた馬が、通りを人々を蹴散らして走ったので、多くの犠牲者が出ました。

そして火の手はついに江戸城へ!!
北の丸が炎上!!
火は天守へ・・・!!
江戸城天守は、壁に合板を用いて耐火建築だったことから燃えることはないと誰もが安心していましたが・・・
正午過ぎ、高さ60メートルを誇る日本一の天守は火柱となってしまいました。
猛烈な火災旋風が発生。これによって、天守の窓が開き、そこから炎が入って内側から燃え広がったのです。
弾薬庫が爆発!!
火は、本丸御殿へと迫ります。
幕閣たちは時の第4代将軍・家綱をどこへ避難させるかで議論!!
しかし、先代の将軍の異母兄弟であり幕閣であった保科正之は・・・

「本丸に火が回ったら西の丸に移ればよい。
 西の丸が焼けたら本丸の焼け跡に陣を建てればよい。
 将軍を動かすなどもってのほかだ!!」

一同、返す言葉もありませんでした。
保科は、リーダーである将軍が軽々しく動けば、人々が動揺すると考えたのです。
将軍は保科の提案通り、西の丸に避難しました。

ところがその時大奥では女性たちがパニックに・・・。
その女性たちを救ったのが、老中・松平信綱でした。
女中たちは大奥以外の部屋に入ったことがないので、どうやって西の丸に行けばいいのかわかりませんでした。
そこで、畳を裏返し、それを道しるべとしたのです。
午後4時ごろ・・・風は西風に・・・火は西の丸をそれて東へ向かいました。
京橋付近では次々と橋が焼け落ち、2万6000人が亡くなりました。


1月19日午後4時ごろ・・・麹町5丁目の町屋から第三の出火が・・・。
西風にあおられて、火は西の丸、桜田門、日比谷、増上寺・・・
1月20日午前8時ごろ自然鎮火。。。
海岸べりで止まりました。

この3つの火元から出た火事の3日間で、江戸の6割を焼き尽くしました。
明暦の大火による被害は・・・
大名屋敷・・・・・・・・160軒
旗本屋敷・・・・・・・・770軒
   町家・・・・・・・・800町
   寺社・・・・・・・・350か所
     橋・・・・・・・・60基
   倉庫・・・・・・・9000か所

焼失面積は、およそ25平方キロメートル、千代田区と中央区のほぼ全域、文京区の60%が焼けてしまいました。
死者の数はおよそ10万人、その夜から大雪が降ったので、焼け出された人が凍死したことも原因の一つです。

町を襲った明暦の大火・・・その救済措置とは・・・??
余りにも甚大な被害に・・・すぐさま救済措置をとったのが、保科正之をはじめとする幕閣でした。

①情報統制
鎮火した1月20日、保科は老中・松平信綱の名で関東一円に将軍の無事を伝えるお触書を出しました。
人々を安心させるためです。

②食糧配給
翌日には江戸市中に6カ所の仮小屋を設置し、かゆの配給を始めました。
その量、一日1000俵。
配給は、2月12日までのおよそ20日間行われました。
さらに、焼けてしまった幕府の米蔵の米も放出。
焦げているとはいえ、貴重な食料となりました。

③金銭援助
保科は大名から下級武士まで、階級に関わらずに援助をしました。
さらに、町人たちにも16万両の資金援助をしようとしたところ・・・幕閣たちは反対!!
しかし、
「幕府の金蔵に蓄えがあるのは、このような時に使って民を安堵させるため、救済しないのであれば、たくわえなどしない方がましである!!」
と、庶民への援助を断行!!

保科はこれらの救済措置を矢継ぎ早に行いますが・・・
しかし、自身もこの時、大火で大きな痛手を負っていました。
跡継ぎである正頼が火災により死去したのです。
数日間喪に服しただけで政務に戻る保科正之。

焼き尽くされた江戸の復興プロジェクトを始める保科。
しかし、幕閣の人々は・・・焼け落ちた天守を建てようとします。
保科は、この天守建設のお金を、町の復興に使おうとします。
軍備の象徴だった天守など、もはや無用の長物!!
太平の世にこの判断は正しい事でした。
以後、江戸城天守が再建されることはありませんでした。

保科は復興のための木材は買わない、と、うわさを流すことで、材木商たちが材木の値段をつり上げようとするのを阻止します。
在庫を一挙に放出する材木商たち・・・価格は安定し、材木を手に入れやすくなりました。
さらに参勤交代の停止や、期間短縮を決行!!
深刻な食糧不足のために、国元に人々を帰すことで口減らしをしたのです。

そんな江戸復興プロジェクトとは??

①過密化の改善
被害拡大の原因であった過密化の改善を試みます。
大名屋敷を移転します。
例えば江戸城内にあった尾張、水戸、紀州の上屋敷をそれぞれ外堀の外へ・・・
その跡地は、建物を造らず、馬場や菜園にし、火除け地としました。
今の皇居・吹上御苑のところです。
これによって大名屋敷は玉つきに郊外に押しやられます。
青山、赤坂、麻布はこの時に整地されました。
また、移転によって次からは、びっしりと建物を建てないようにしました。
日本橋にあった吉原遊郭も、浅草の北に移転、新吉原として200年賑わうこととなります。

②道の拡張
火事の際、逃げ惑う人々でごった返した道も拡張します。
日本橋通りなどのメインストリートは、およそ2倍に広げられ、万が一に備えて真っすぐに道を通します。
通りに面した商家には、それまで柱がついた2メートル近いひさしがありましたが、これを三尺に規制。
居住用の町屋はひさしを一間つけることが義務付けられ、三階建ては禁止。
火災が起きたときにひさしから屋根に上り、破壊消防をしやすいようにしました。

③耐火建築の奨励
新しく建物を建てるときは、藁葺や茅葺でなく牡蠣殻葺に・・・
外壁は土や漆喰で塗って、木造部分を見えないようにしました。

迅速に推し進められた江戸の復興、その最後の一手は・・・橋の増設。
明暦の大火が大きな被害となったのは、人々が隅田川を渡れなかったことでした。
というのも、幕府は隅田川を天然の堀としていたので防犯上、千住大橋より下流に橋をかけることを禁じていたのです。
両国橋・・・後に、見世物小屋の営業が許され、江戸一番の賑わいを見せることとなります。
さらに新大橋、永代橋がかけられ、隅田川の東側は大きな発展を遂げていきます。
この復興事業によって、一気に拡大した江戸。
およそ1.5倍にまで広がります。
もはや戦国にあらず・・・軍事的要素を捨て去った江戸は、この時、平和都市へと生まれ変わります。

上方文化を受け入れるだけだった人々は、新しくなった江戸で結束し、独自の文化をはぐくんでいきます。
明暦の大火後に建てられた寺・・・墨田区両国にある回向院。
道端に放置されていた犠牲者の人々を見て心を痛めた保科正之が、創建させました。
彼らを供養するために・・・。



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