>【中古】島津久光・三条実美書翰

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(2017/3/11 22:32時点)
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今からおよそ150年前、日本に新しい時代をもたらした明治維新・・・その中心となったが、薩摩藩です。
下級藩士・西郷隆盛や大久保利通が牽引したといわれることが多いのですが・・・
藩主の座にはつかなかったものの、島津久光の影響が強くあります。

1862年・・・桜田門外の変から2年、尊王攘夷が声高に叫ばれていた時代、久光は毛槍を高々に掲げ、1000人もの武装した兵を率いて京へ乗り込みます。
前代未聞の卒兵上京でした。
当時、大名がくることさえ異例だった京都・・・無位無官の久光が京に行ったことは、歴史を変える大きな出来事でした。
従来、この上京は、久光の暴挙だとされてきました。
しかし、その実情は・・・??
朝廷、幕府、有力諸藩も加わった、挙国一致の政治体制を樹立。。。
その周到な計画の一端だったのです。
薩摩の地で、欧米列強の圧力にいち早く直面した久光・・・。
日本の危機を乗り越えるための賭けに出ました。

アメリカ商船モリソン号・・・ペリー来航の16年前の1837年、モリソン号が鹿児島に来航。
日本人漂流民の引き換えと共に、開国を求めてきました。
薩摩藩は、幕府の鎖国の方針に従って、砲撃!!
薩摩藩主の5男に生まれた久光は、この事件を20代前半で体験しています。
城下の喉元に、外国船の侵入を許したことに大きな衝撃を受けたことは、想像に難くありません。
海外の情報を貪欲に集め始めた久光・・・ほどなくして・・・
隣国・清でのアヘン戦争の知らせ・・・イギリスが清国を完膚なきまでに叩きのめしたというのです。
この戦争について久光は細かく記しています。
これ以降、越境の進出は加速していきます。
イギリス船、フランス戦が琉球に来航し、繰り返し開国を要求します。
この時期久光は、軍役方名代に抜擢され、海岸防備を任されます。
越境からどのようにして国を守るべきか・・・!!
それを示したのは、兄・斉彬でした。
斉彬は反射炉を建設、いち早く国産大砲の鋳造に乗り出していました。
その姿勢は、幕藩体制にも向いていました。オールジャパンの国防体制を・・・!!

行きついたのは、古い幕政の改革でした。
それまで幕府は内政や外交を、一部の譜代大名で行っていました。
つまり、譜代専制です。
斉彬は、カヤの外に置かれていた、外様や親藩も政治に参加することを求めました。
外国に対して、挙国一致体制を目指したのです。

実現に向けて・・・そんなさなか、1853年、黒船来航!!
幕府が大名達に意見を聞くと・・・多くの大名は、打ち払いを!!
そんな中、斉彬の意見は異彩を放っていました。
「打ち払いでは勝利は覚束ない。
 三年ほど返答を引き延ばし、軍備を整えたうえで打ち払うべきである。」
1854年、日米和親条約締結!!

食料や燃料の供給は認めるものの、通商は拒否する・・・
幕閣は斉彬の言うように、無謀な攘夷は避け、開国を先延ばしにしたのです。
ところが1858年・・・アメリカ総領事ハリスの執拗な要求に、日米修好通商条約を締結!!
時の孝明天皇は、条約承認を拒み、諸大名の意見聴取を求めていました。
これに対し、大老・井伊直弼は、独断で調印!!
さらに、井伊は、自らの方針に反するものは弾圧!!朝廷や雄藩の影響を排除した従来通りの譜代専制の幕政に戻したのです。
安政の大獄の嵐が吹き荒れるそのさなか・・・1858年7月、島津斉彬急死。
次の藩主は、久光の子・茂久に決まり、久光は後見役として藩政を支える立場となりました。

名君の死で抑えの利かなくなった薩摩藩は大混乱!!
井伊の強権政治に反対する若手下級藩士による脱藩突出計画!!
しかし、実際は、井伊の命を狙うテロ計画でした。
この危機に久光は対応を迫られます。
暴発寸前の藩士に対し、久光は茂久の名で・・・
「斉彬さまのご意志を貫き、国家を護り、朝廷への忠勤に励む。
 力を貸してほしい・・・」
ここには、機械が来たら、久光が中央政局に乗り出す。それまで待て!!
その時に、活躍の場を与える。。。という意味がありました。

感激した下級藩士は、誠忠組と名乗り、幕政改革を目指すこととなります。
辛くも暴発を抑え込んだ久光・・・
1860年3月、江戸で桜田門外の変が・・・井伊直弼の暗殺です。
井伊の首を取ったのは有村治左衛門・・・あろうことか、薩摩藩の脱藩浪士でした。
幕府の強権政治に対する反発は全国に広がり、薩摩藩にも飛び火する危険性が・・・。
一刻も早く、幕政改革に乗り出さなければ・・・!!
久光は、抜き差しならない状況に陥っていました。

江戸城の目と鼻の先で大老が暗殺されたことで、幕府の威信は地に落ちました。
幕府が選んだ道は、朝廷にすがることでした。
1860年孝明天皇の妹・和宮降嫁を要請。
公武合体による朝廷の権威をもって、譜代専制体制の延命を図ったのです。
一方、桜田門外の変は、薩摩の誠忠組にも動揺をもたらします。
脱藩突出計画が再燃・・・
幕府の反動政策と、薩摩の下級藩士の暴発・・・久光は事態の打開に動く・・・??

白羽の矢が立ったのは、開明派の水戸徳川家・一橋慶喜と、松平春嶽です。
雄藩連合に賛同する二人を担ぎ出すことで、幕政の改革をはかったのです。
しかし、藩主でもなく、無位無官の久光に何ができる・・・??
どうして幕府人事に介入できるのか・・・??

卒兵上京して幕府に改革を迫る・・・??
当時、幕府は禁令によって大名の入京を大きく制限していました。
そこで久光が考えたのが、島津家を所縁の深い、公家の近衛家から入京を要請してもらうことでした。
京に派遣されたのは、久光の腹心・大久保一蔵(大久保利通)!!
近衛忠房に打診しました。

「天皇のお考えを幕政に反映させるためには、十分な京都守衛の兵力が必要。
 我が藩が入京し、その任に当たる。」

しかし、久光にもたらされた返事はつれないものでした。
さらに足元に不安要素が・・・西郷隆盛の動向です。
西郷の久光に対する発言・・・
「恐れながら久光公は田舎者にございます。
 薩摩から一歩も外に出たことのない久光が入京したところで、誰も相手にはしてくれない・・・
 政治を変えることなどできない・・・」
というのです。

もう一つの道は・・・
薩摩同様、中央政局への関与を図っていた長州藩との提携です。
孝明天皇の和宮降嫁の条件は・・・通商条約を破棄し、鎖国に戻すことです。
しかし、一旦締結したものは破棄できない・・・。

この時、幕府に長州藩が持ち掛けたのが「航海遠略策」でした。
こちらから航海に乗り出して、交易を行えば、異国は恐れて朝貢してくるであろう・・・
積極的に海外進出し、異国を従わせるというロジックは、孝明天皇にも受け入れられ、朝廷と幕府の関係を好転させると期待されていました。

卒兵上京か??長州との連携か・・・??

1862年3月16日、1000人もの大軍が、薩摩を出発しました。
久光は、卒兵上京を選択したのです。
この時点で、京に入れる保証はどこにもありません。
しかし、久光は、懸命に打開策を探っていました。
藩士を京に先行させ、公家への工作を盛んに行っていたのです。
反応したのは・・・孝明天皇の側近・岩倉具視。
”諸藩が幕府を恐れ従っている中、薩摩と長州の両藩が、国家のため力を尽くしてくれることは、天の助けである”
岩倉は、””朝廷の命令を聞く幕府・・・幕府は一執行機関”に追い込んで、ゆくゆく政権そのものを奪ってしまおうと思っていました。
決め手は、久光の圧倒的な武力!!
薩摩兵は、100挺の小銃と、4門の野戦砲を携えていました。
奇しくも、京には攘夷派の志士が集結・・・
久光の上京に乗じ、京都所司代襲撃、武力討幕を計画していました。
久光と岩倉は、その鎮圧を、入京の理由にしようと思っていたのです。

薩摩を発って1か月後・・・1862年4月17日・・・薩摩兵入京。
その前日、孝明天皇から密かに下された勅命には・・・
”京に滞在すべし・・・”久光は、京都滞在の明文を得ました。
卒兵上京から1週間・・・4月23日に、久光の元へ恐るべき知らせが・・・。
伏見の寺田屋に、薩摩の誠忠組の一部が集結!!
京都所司代襲撃に向けて動き出したというのです。
久光の決断は・・・??

寺田屋事件・・・武力による鎮圧でした。
同じ薩摩の藩士を粛正したのです。
非情な決断でした。
襲撃を未然に防いだことで、孝明天皇の絶大な信頼を得る久光。
幕政改革案への朝廷の同意を獲得することに成功したのです。

1862年5月・・・久光は、勅使に同行して江戸へ出府!!
朝廷の命令と、薩摩の武力を背景にした威圧に、慶喜と春嶽の登用を飲むほかありませんでした。
無位無官の久光が、朝廷、幕府を動かしたのです。
卒兵上京の賭けは成功しました。

2年後の1864年1月・・・京都二条城で、新しい政治体制が始まりました。
久光が創設に尽力した参与会議です。
一橋慶喜を筆頭に、有力諸侯が朝廷の会議に参加し、その意向を幕政に反映させるという久光の目指す挙国一致体制そのものでした。
しかし、その前途は思わぬ形で阻まれることに・・・
火種となったのは、横浜鎖港問題です。
当時の日本は、通商条約の締結によって、箱館、長崎、横浜の三港を外国に開いていました。
そのうち横浜の開港を取りやめることで、攘夷にこだわる天皇を懐柔しようとしたのです。
久光ら諸侯の意見は、鎖港反対で一致していました。
しかし、その前に立ちはだかったのが・・・一橋慶喜でした。
対立のきっかけとなったのが・・・孝明天皇から、将軍家茂に宛てた宸翰です。

”無謀な攘夷は、朕の好むところにあらず”

あくまでも攘夷にこだわっていた天皇とは思えない内容でした。
訝しんだ慶喜が、密偵を使って調査させた結果、驚くべき結果が・・・
勅書の作成に、久光が深くかかわっていたことがわかったのです。

久光が作成した草案は・・・一字一句同じ!!
この頃の、天皇の意向は、久光の思惑を色濃く反映していました。
慶喜にとって、見過ごすことのできない事態だったのです。
久光が朝廷に近づきすぎた・・・

慶喜の頑強な抵抗の前に、久光は辞表を提出。
参与会議は僅か2か月で解体に追い込まれました。
雄藩の政治参加の青写真を描き、舞台を整えた久光の夢は潰えたのです。

失意のうちに薩摩に帰国した久光・・・
しかし、国政参加への想いが衰えることはありませんでした。
1865年、ヨーロッパへ留学生を派遣。
その一人が五代友厚です。
五代は、ベルギー商社契約を結んでいます。
ベルギー政府と薩摩藩が、薩摩領内の鉱山開発や貿易について取り決めたものです。
久光の新しい国家構想が・・・
もう、幕府そのものはなくしてしまう。。。
忠、武力の発動ではなく、外交権を奪うことで、幕府を事実上失くしてしまう。。。
朝廷のもとで、緩やかな連邦国家を作る・・・
これが、久光の日本国の在り方の青写真だったのです。
しかし、時代のスピードは、久光の予想をはるかに超えていました。

1866年、徳川慶喜が第15代将軍に・・・!!
徳川家への権力維持を図る慶喜に対し、西郷たち薩摩藩京都藩邸は、かつてのライバル・長州との提携を進めます。
天皇中心の新政権樹立に動き出していました。
そして・・・討幕の密勅が・・・!!

「賊臣慶喜を殄戮せよ!!」

それは、緩やかな改革を目指した久光の考えとはかけ離れたものでした。
裏で動いていたのは、かつて卒兵上京に尽力した岩倉具視と大久保利通でした。

1868年1月、戊辰戦争勃発!!
薩長両藩をはじめとする新政府軍は、1年以上の戦いの末、旧幕府軍に勝利!!
その結果、明治新政府は、天皇の元での中央集権体制へ向けて加速していくのです。

1871年突然の廃藩置県!!
久光の薩摩における政治基盤は、根こそぎ奪われました。
その日、久光は屋敷で花火をあげ、うっぷんを晴らしたといわれています。
政治の表舞台から退いた久光が、力を注いだのが歴史資料の収集です。
麗明館に残る玉里島津家資料は、1万2000点に及びます。
久光の命により集められたものです。
自らの手で開いた歴史の扉・・・しかし、その先に待っていたのは、思い描いていた時代ではありませんでした。



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