>デアゴスティーニ日本の100人 第68号 大村益次郎

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1866年6月、徳川幕府の大軍勢が西へ・・・
目的は、幕府に反抗するたった一つの藩を叩き潰すため・・・!!
その数十数万・・・。
迎え討つのは長州藩、その数およそ5000!!
この絶望的な兵力差にもかかわらず、長州を劇的な勝利に導き、幕府崩壊のきっかけを作った男・・・
その名は、大村益次郎です。
勝海舟は・・・「長州軍に大村益次郎が出て来ては、とてもかなわぬと思った。」と言っています。

元々は村医者・・・しかし、兵学者へ成長。
長州藩の命運は、大村益次郎に託されたのです。

山口県山口市・・・当時は鋳銭司村と呼ばれていました。
明治維新からさかのぼる事40年前、1825年5月3日、大村益次郎はこの地に村医者の子として生まれました。
1846年、22歳の時、大坂に出ます。
その目的は当時日本で指折りの適塾に入る事・・・。
塾生には、福沢諭吉、大鳥圭介、佐野常民などがいました。
大村は、一心不乱に医学を学ぶ塾生として、注目されていました。

そして3年後には25歳で塾頭に上り詰めました。
当時、適塾の塾頭には、好待遇で仕官を求めてくる藩がいくつもありましたが・・・
翌年の1850年、26歳で故郷に帰りました。
家業の村医者を継がなければならなかったからと言われています。
このままいけば、ただの村医者として一生が終わる・・・。

ところが29歳の時・・・宇和島藩で。
江戸時代、10万石の城下町として栄えた宇和島市。
時の藩主は伊達宗城。数ある大名の中で格別の蘭学好きでした。
大村は、持っている洋学の知識、蘭学の知識、語学の知識を時代に生かそうと思っていたようです。
この宇和島行きが大きな転機となります。
宇和島藩が大村に求めたのは、本業の医学ではなく、兵学でした。
得意の蘭学を生かして、西洋の軍事書物の翻訳を命じられたのです。
こうして、大村の専門は、医学から兵学へ・・・!!

そんな西洋兵学の知識を深めていった大村に目を付けたのが・・・時の政権・徳川幕府でした。
3年前の黒船来航・・・圧倒的武力で開国を迫ってきたペリーになすすべなしの幕府・・・。
開国をきっかけに、老中・阿部正弘を中心とした首脳部は、優秀な西洋兵学者を集め始めました。
大村は、その目に留まったのです。

1856年11月、32歳で、蕃書調所の教授手伝に就任。
翌年には、講武所の教授に就任。
大村益次郎、33歳・・・長州の村医者が、兵学者に歩みを変え、幕府に仕えるまでに上り詰めたのです。
そんな大村に更なる誘いが・・・
それは、故郷・長州藩でした。
依頼内容は、江戸で兵書の翻訳や、藩士相手の蘭学の先生をして欲しいというもの・・・。
大村が適塾で優秀な成績を収め、故郷で村医者をやっていた時には見向きもしなかった長州藩。
どうして態度を変えたのでしょうか??
当時、長州藩は、諸外国を排除する攘夷を主張していました。
外国と渡り合うためにも、大村の西洋兵学の知識が必要だったのです。
大村は、兵学を通じて桂と親しくなり、故郷でも有名になっていきます。

それから5年・・・幕府にも長州にも頼られ、順風満帆な生活を送っていた大村。
しかし、その人生を大きく揺るがす大事件が・・・!!
1863年5月10日、長州藩、関門海峡を通る外国船を攻撃!!
しかし、翌月手痛い反撃に!!
外国の軍事力の前に、長州は手も足も出なかったのです。
このままだと外国に飲み込まれてしまう・・・。
長州藩は、大村に救いの手を求めます。
「外国の軍事力に対抗するため、幕府の役職を辞め、長州に戻ってきてほしい。」と。

幕府に残るか??長州に戻るか??
この時点で安泰なのは、幕府に残る事・・・。
ところが選んだのは長州藩でした。
そこには、大村の幕府に対する不信感があったのです。
大村が友人にあてた手紙には・・・
「大名に砲術などを研究する講武所をみせた。
 大神宮様(阿部正弘)はご自慢だ。
 にもかかわらず、自分の藩の軍隊には今も弓矢を持たせている。
 何のことやら、一切訳の分からない事だ。」と書いています。
大村は、研究はするが、武士そのものの戦い方を変える気などさらさらない阿部を見限っていたのです。
一方の長州藩には、新しい改革が・・・奇兵隊です!!
長州は、これまで武士にしか認めなかった武器を庶民にももたせ、軍事改革をしている長州に、大村は可能性を感じていたのです。
1863年10月、39歳の時に、長州に帰ります。
そして幕府には辞表を・・・!!
兵学者・大村益次郎の一大決心でした。

西洋兵学を学ぶ意義を・・・海軍従卒練習規範に書いています。
「私は、自分が浅はかであることを顧みず、今この本を訳し出版する
 皇国の確固たる独立のための武力をあげ、国家に利益があることを願うのみである。」
自分の能力を認めてくれる場所を求めて・・・行きついた場所は、日本を守りたいという自分の信念の生かせる長州でした。

西洋列強という巨大な敵と戦う決意をした長州藩・・・
しかし、そのためには戦い方の根本を考え直さなけれな・・・!!
大村は、藩の存亡をかけた大改革を託されます。
散兵戦術・・・
「アメリカ独立戦争以来、散兵戦術を用いることが盛んになった。」
西洋で主流となっていた散兵戦術とは・・・??
通常武士は、己の手柄をあげるため、個人個人で敵を目指して突っ込んでいきます。
一方、散兵戦術は、数人単位で行動・・・広く散会しながらも、全員共通の作戦目標の元、敵に向かっていきます。
この時兵は、決められた目標に向かって隠れながら進んでいきます。
兵を統率する指揮官が把握したうえで命令を出します。
そのため、散兵戦術は、兵も指揮官も、徹底的な訓練が必要となりました。
この戦術がみにつけば、敵が多くても少ない兵力で勝つことができる・・・!!
しかし、この大村の改革が実行される前に、長州には次から次へと難が降りかかります。 

1864年8月、英仏蘭米四国連合艦隊が下関を攻撃!!
長州に対して猛攻撃を開始!!
近代兵力の前に、長州藩はなすすべなし!!
さらに1月前には禁門の変が起こっていました。
長州藩は、幕府に完膚なきまでに叩きのめされ朝敵に・・・!!
幕府は15万の軍勢で長州藩を包囲・・・長州藩には降伏するほかありませんでした。
そして藩内は、幕府恭順の一派が牛耳ることに・・・。
その結果、大村は、藩の軍事担当から外されてしまいました。

大村の軍事改革は消え去ったかに見えましたが・・・
一人の藩士が立ち上がります。
高杉晋作です。
1865年1勝月、高杉晋作が、幕府の正規軍を破ります。
結果、長州藩は、再び幕府と対立の道を進みます。
これに対し幕府は、30藩以上から十数万人を動員し、長州を討つべく・・・
迎え討つ長州藩は5000!!
この絶望的劣勢を覆すには・・・この難題を任されたのが大村益次郎でした。

近代兵器の導入
躍起になって集めた武器がミニエー銃。
幕府に対抗する為に、4300丁購入しました。
その特徴は銃身の中・・・らせん状に溝が刻まれています。
銃弾は回転し、射程距離が格段に伸びるのです。
その射程距離はこれまでが100mに対し、500m!!
さらにミニエー銃から照準がつけられていて、これによって命中精度が5倍増します。
しかし、数で勝る幕府軍と対等に戦うためには、見合った近代的な戦術が必要です。

散兵戦術は、当時の兵には実現不可能と思われました。
関ケ原では・・・武士の周りにいる槍や旗を持った人々は奉公人で、その役目は自ら戦う事ではなく、主人を飾り立て手助けすること・・・。
武士は自らを手助けさせるために、無駄な戦力を共にしていたのです。
大村は主従関係で結ばれている武士と奉公人の関係を断ち切ろうと考えます。
武士から切り離した奉公人たちを藩が直接管理し、藩が任命した指揮官の元、兵とする。
そうすると、奉公人たちが兵力となるのです。
さらに奉公人から引き離された武士を銃を持つ兵に・・・
武士集団の解体に挑もうとしたのです。
しかし、それは、800年続いた武士の主従関係を根底から覆すことになってしまう。。。
武士の否定・・・軍制改革・・・??
それは、武士の反発を招き、最悪の場合、分裂を招く恐れが・・・

迫りくる幕府軍に対し、どこまで改革をするべきか??
1865年5月28日、毛利敬親は、重大な方針を家臣に告げました。
「平成は西洋陣法を採用!!」
長州藩はしがらみをすべて捨て、西洋式の軍事改革に突き進むことに・・・!!
大村たちは、前代未聞の改革をするために、絶対的存在の藩主の命令と言う切り札を使ったのです。
藩士たちに信じがたい命令をします。
それは、甲冑の売却!!
先祖代々の甲冑を売却し、そのお金でミニエー銃を買う・・・!!
さらに非情な命令は続きます。
「御一門などの家老職は、戦の時は総奉行としていたが、これからは一部隊とする。」
「主人は一人単騎で働く心得を持って、無用の従卒を連れて来てはならない。」
無用となった従卒は、藩士の禄高によって決められた人数を藩に差し出すように命じました。
これによって長州藩には主従による武士集団は消滅。
代わりに判を頂点として近代軍隊が誕生しました。
奇兵隊などの諸隊以外の・・・家臣団の隊も、西洋式となっていたのです。

1年後の1866年6月、第二次長州征伐
遂に幕府軍が長州に押し寄せてきました。
幕府軍は、芸州口・大島口・小倉口・石州口の4カ所から・・・総勢十数万の大軍勢・・・!!
大村が直接指揮を執ったのが石州口でした。
島根県益田市・・・敵の領地であるここに、打って出る作戦を立てます。
幕府軍があったのが萬福寺。
大村は最新式の銃と、散兵戦術で攻め立てます。
この散兵戦術に翻弄する幕府軍・・・。

「敵は、卑しい黒い装束で、ミニエー銃を持ってあちこち5~6人が隠れて撃ってくる。
 賊徒同様の振る舞いだ!!」

従来の戦術からは、正々堂々と姿を現し戦う・・・西洋戦術では、身体を保護しながら銃撃するのは非常に基本的な事でした。
これまでの武士とは全く違う方法で戦った大村。。。

民衆を味方につけ、武器、戦術ともに勝った長州藩は、幕府軍を圧倒!!
3か月に及んだ戦いは、幕府軍の撤退をもって終わったのです。
僅か長州一藩に敗れた幕府軍・・・その権威は完全に失墜したのです。
翌年・・・260年の長きにわたって日本を支配した徳川幕府は崩壊・・・
明治という新しい時代を迎えるのです。

長州だけでなく、日本全体を近代化へと導くこと・・・大村の役割はここからがスタート・・・!!
ところが、1869年9月4日、京都で襲撃されます。
襲った中には、大村と同じ長州藩の人間もいました。
彼らは大村を許せなかったのです。

大村は全身6カ所に大傷を負いながら、自らの不運を嘆くよりも軍の改革に生かそうとします。
「自分は兵士同様の傷を受けて、軍事病院が不可欠だということを知った。
 至急、軍事病院の基礎を作らないといけない・・・」
深い傷を負いながらも、軍事病院の建設を訴えた大村は、徹頭徹尾合理主義を通して来た男らしい言葉・・・
この書状を送った半月余りのち・・・
1869年11月5日 大村益次郎死去・享年45歳でした。

大村の遺体は山口に運ばれ眠っています。
大村益次郎・・・彼の決断は、800年続いた武士の世さえも終わらせ、日本の近代の礎を築くことに繋がっていったのです。



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