【バーゲン本】信長が宿敵本願寺顕如 [ 鈴木 輝一郎 ]

価格:972円
(2017/5/2 08:45時点)
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天下統一を目指して、数々の戦で百戦錬磨だった織田信長。
しかし、信長の最大の宿敵は、武田でも、上杉でもなく・・・顕如・・・武士ではなく、浄土真宗大坂本願寺の第11世宗主です。
各地の門徒を総動員し、一揆で信長に対抗します。
信長と蓮如の10年にわたる戦い・・・石山合戦です。

1560年、今川義元を桶狭間で破った織田信長は、その後も次々と敵を撃破し、近畿を制圧!!
1568年足利義昭を奉じて、悲願の上洛を果たします。
第15代将軍足利義昭の後見人となって、天下統一に名乗りをあげました。
そんな信長の前に立ちはだかったのが、本拠地を大坂とする浄土真宗・本願寺でした。
全国に数十万の門徒を持つ本願寺は、お布施によって戦国武将以上の財力を誇り、僧兵を持っていました。
勢力拡大を狙う信長にとって、本願寺は邪魔な存在・・・。
その財力を弱めるために、畿内平定を理由に本願寺に矢銭(軍資金)を要求しました。
断れば・・・制裁が待っていました。

この厳しい要求を突き付けられたのは、浄土真宗の若き宗主・顕如でした。
本願寺は要求を呑むのか・・・紛糾するものの、顕如は理不尽な信長の求めに応じます。
すると信長は、畿内一円にある浄土真宗の他の寺にも矢銭を要求。
30億円にも及びました。
ところが信長は、浄土真宗が莫大な矢銭を納めたにもかかわらず、本願寺の大坂からの立ち退きを要求したのです。

一方で、信長は天下取りのための策略を巡らせていました。
将軍・義昭に、五か条の条書を突きつけます。
「天下の儀は信長に任せおかれたのだから、上意をうかがわずに信長の考えで処置する」
政治はすべて信長が行う・・・とあったのです。
名ばかりの将軍となってしまった義昭は、武田、浅井、朝倉、三好・・・有力大名に呼びかけ、信長包囲網を築きます。
信長は、辛くも浅井・朝倉連合軍を破り・・・ところが三好一族が阿波から大坂に進出!!
信長も大坂を目指します。
そこで、信長に反旗を翻した顕如!!
信長と顕如、10年にわたる石山合戦の始まりでした。

顕如は全国の門徒に対し、檄を飛ばします。

「信長と戦え!!戦わない者は破門に処す!!」by顕如

「信長は、上洛して以来、たびたび難題を突き付けて来た。
 さらに本願寺が大坂から立ち退かなければ、破却すると通告してきた。。。
 このうえは、身命を投げ打ち、忠節を尽くすように・・・!!」by顕如

浄土真宗門徒にとっては、信長は命に代えても倒さなければならない仏敵となったのです。
顕如が決起した理由は・・・??
矢銭を要求する信長に対し、強い不快感を抱いていました。

本願寺派第11世宗主・顕如・・・
石山合戦開戦当時27歳、大坂本願寺の住職でした。
妻は、甲斐の虎・武田信玄の正室の妹・如春尼。

かたや信長は37歳。
天下統一を目指し京に上り、畿内の制圧に着手しようとしていました。
二人が激突した石山合戦の始まりは、信長による「大坂からの立ち退き命令」でした。
どうして大坂本願寺に立ち退きを命令したのでしょうか??

大坂本願寺は、今の大坂城のあたりにありました。
寺の周りには、自治集落である寺内町を作り、税を免除するなど経済的な特権を付与。
そのため、門徒だけでなく各地から商人たちも集まりたいそうな賑わいを見せていました。
当時の大坂の地形は、今とは異なり、本願寺のあたりは島になっていました。
そのため、都市国家の様相を呈していました。
全国から多くの人が集まる大坂・・・

「本願寺は日本で一番大きい宗派である
 日本の富の大部分は本願寺の僧侶が所有している。」byガスパル・ビレラの報告書

信長の狙いは、この本願寺の富にありました。
京都や大阪に近く、経済の拠点・・・大阪の経済力が欲しかったのです。

もう一つ本願寺から取り上げたかったのが、宗教的な既得権益です。
本願寺のような宗教勢力は、武将の権力構造の外にあります。
お布施を集めたり、僧兵を集めたり・・・信長にとっては脅威でした。
政教分離の確立を徹底しようとしたのです。
大坂から本願寺を追い出すことは、信長の天下統一にとっては必須だったのです。

1570年11月、信長のおひざ元尾張と伊勢の国境・・・長島で、大規模な一揆・・・長島一向一揆が・・・
顕如の命を受けた地元の門徒たちが、信長の弟・信興の治める城を攻撃!!
しかし、信長は、浅井朝倉との戦いで、応援に行くことができません。
一揆衆に囲まれた信興は、なすすべなく自決に追い込まれてしまいました。

「顕如よ、許さん!!」by信長

半年後、信長は長島一向一揆を鎮圧すべく、自ら大軍を率いて出発!!
しかし、一揆衆の反撃にあって、鎮圧どころか苦戦!!
長島は、複数の中洲の集合体で、戦うには自然の要塞・・・地の利がありました。
葦が深く生い茂る河原での戦い・・・進軍もままならないぬかるみ。
一揆衆は、その芦原に身を潜め、織田軍を罠にかけ取り囲みます。
重い甲冑を身に着けている織田軍は思うように身動きできず、次々と倒されていきました。
ゲリラ攻撃で、信長軍を窮地に追い込んでいきます。
織田軍は防戦一方となり、名将・柴田勝家までも負傷・・・織田軍は、退却を余儀なくされたのです。

武士と門徒では価値観が違う・・・
武士達の恩賞は、「知行」「出世」でしたが・・・門徒たちは戦って死ねば「極楽浄土」が約束されていました。
信長の大軍勢をもってしても勝てない理由がそこにはあったのです。

1571年9月、仏教界に衝撃が・・・
信長が、対抗勢力の一つだった比叡山延暦寺を焼き討ちしたのです。
僧侶、女性、子供に至るまで、3,000人を殺戮したのです。
浅井・朝倉との戦いで、中立を申し入れたにもかかわらず、これを拒否したことへの報復でした。
多くの戦国大名は、宗教勢力とは共存共栄でやってきていた中、信長は3つの権門。。。
①公家 ②寺家 ③武家 の公家と寺家とを排除して、武家の世界を作りたかったのです。

比叡山焼き討ちに危機を感じた顕如は、反信長勢力の結集に向けて動きます。
武田信玄を味方にし・・・
本願寺、浅井、朝倉、武田で信長包囲網を構築したのです。
戦国最強の武田軍が、織田軍に向かって進軍し始めました。


1572年三方ヶ原の戦いで、織田に組する徳川を撃破、信長は、絶体絶命の危機に・・・!!
ところが、信玄が進軍途中に死去・・・
信長包囲網にほころびが生じてきました。
これに乗じて、信長は足利義昭を追放!!
ここに室町幕府は滅亡!!
危機を脱した信長は、浅井・朝倉を殲滅!!
残る敵は、本願寺のみとなりました。

1574年7月・・・信長は、再び長島一向一揆の鎮圧に・・・
8万を越える大軍で、長島一帯を完全に包囲!!
前回のゲリラ戦に懲りた信長は、兵糧攻めに・・・!!
3か月で・・・半数が餓死・・・それでも「一揆衆すべて根切せよ!!」by信長
根切とは・・・降伏しても捕虜にせず・・・皆殺し!!
しかも一揆衆だけでなく、家族までも一人残らず殺せと命じました。
逃げられないように柵をし、火を放ち、2万もの人々を焼き殺してしまいました。
負けてもはい出て来る・・・門徒の怖さを信長は熟知していたのです。
遂に、長島一向一揆を鎮圧!!

1575年越前の一向一揆に乗り出します。
顕如は信長によって滅ぼされた朝倉の領地・越前に守護代として側近を派遣。
本願寺による領地の支配を目論んでいました。
しかし、信長がそれを許すはずもなく、ここでも殲滅作戦を実行!!
この時信長に差し出された首は、1万2000ともいわれています。
ここにきて、ようやく顕如は信長に休戦を乞い、和睦がなされました。
そしてこの和睦が、新しい領国支配のシステムを作り出すこととなります。

一向一揆を再び起こさせないために、重臣の柴田勝家を送り込みます。
これが、新しい領国支配の基礎となります。
戦国時代は領地を支配するのは土着の武士でしたが、信長はその土地と関係のない武士に一国を与え、領国支配を任せます。
それは、信長の求心力を高めるためでもありました。
信長を頂点とした統治システムだったのです。

越前一向一揆の後、信長と和睦をした本願寺の顕如・・・
しかし、顕如はまだ打倒信長を諦めてはいませんでした。
上杉謙信、武田勝頼らと新しい包囲網を築き、戦いを挑みます。
これに対し、信長もついに大坂攻めを決行!!
大軍で海と陸から本願寺を包囲!!
しかし、要害堅固の大坂本願寺・・・周囲には深い堀が張り巡らされて・・・
掛かっている橋には鉄砲隊が・・・!!
顕如は信長との全面対決に向けて、紀州の鉄砲隊・雑賀衆を雇っていました。

織田軍苦戦の一報を受けたとき、信長は京都にいました。
いそぎ信長は大坂に駆け付けて自ら指揮を執ることに・・・!!
しかし、足に流れ弾が当たり深手を負ってしまいました。
鉄砲と言う新しい武器で戦を勝ち上がってきた信長が、皮肉にもその鉄砲で負けたのです。
そこで信長は、長島一向一揆と同じく、兵糧攻めに作戦を変更!!
ところが、この作戦を邪魔したのが・・・西国の雄・毛利輝元でした。
信長と友好関係にあったにもかかわらず、瀬戸内海から木津川を通じて船で兵糧を本願寺に送っていたのです。
信長の兵糧攻め、全くの効果なし!!
輝元はどうして本願寺に味方したのでしょうか?
輝元は、信長の西国進出を食い止めようと考えていたようです。
戦況が拮抗している今ならば、信長を倒せるかも・・・??
1576年7月、本願寺の補給路を断つべく、織田水軍300艘を大阪湾に派遣!!
兵糧を積んで入ってきた毛利水軍を迎え討ちます。
これが木津川の戦いで・・・これも、織田軍は大敗!!
毛利水軍の強力な武器・・・焙烙玉(手りゅう弾)に負けたのです。
おかげで顕如は、兵糧と武器を手にすることとなりました。
撤退を余儀なくされてしまった信長・・・このまま手をこまねいているわけにはいかない・・・
顕如を倒さなければ天下統一はなしえない・・・

そこで、志摩国の九鬼水軍の九鬼義隆に命じて、焙烙玉に耐えうる船づくりに乗り出します。
鉄砲の弾も通らない・・・鉄甲船です。
ベースは当時の軍船として使われていた安宅船・・・
焙烙による攻撃を防ぐために、外側に厚い鉄板を貼り付けます。
四方には大砲を・・・!!
船の全長は30mに及び・・・世界初の鉄張り軍艦でした。

最高の攻撃力と防御力を誇る軍船でした!!
信長は、鉄甲船を6艘・・・堺に配備!!
毛利水軍に大敗してから2年後の1578年11月・・・
本願寺に物資を運ぼうと、毛利水軍600艘が大阪湾にやってきました。
鉄砲、焙烙玉で戦う毛利水軍・・・しかし、鉄甲船はびくともせず、鉄板がことごとく跳ね返します。
毛利水軍は・・・砲火を浴びて撃沈・・・完敗してしまうのでした。

信長は、本願寺の補給路を完全に立つことに成功!!
遂に、最終決戦!!
織田軍の完全包囲!!
10年戦ってきた顕如を打ち負かす、チャンスです!!
信長はこれまで一揆鎮圧に向けて大量虐殺を行ってきました。
今回も、非情な殲滅作戦を実行するのでは・・・??
しかし、信長の決断は・・・??

1580年閏3月、信長の起請文が顕如の元へ・・・
本願寺に対して、天皇の仲裁による勅命講和案を提示します。
その内容は・・・
「大坂を明け渡すならば、本願寺の存続を保証する」というものでした。
それに続けて信長は・・・
「これは、本願寺を赦免するようにとの、天皇からの仰せに従ったものである。」
どうして講和を選んだのでしょうか??
この時信長は、天下布武を成し遂げるためには、本願寺をつぶして城を立てることを考えていました。
本願寺の立つ土地と、寺内町を無傷で手に入れたかったのです。

顕如はこの和議を受け入れます。
しかし、それは、顕如の降伏を意味していました。
顕如は大坂本願寺を後にして、紀州の寺へ・・・。
その4か月後・・・主のいなくなった大坂本願寺は、失火とも放火とも区別のつかない火災によって消失してしまいました。
ここに・・・10年に及ぶ石山合戦が幕を下ろしたのでした。

この僅か2年後の1582年・・・信長は、明智光秀の謀反により本能寺の変で波乱の生涯を閉じることに・・・。
顕如との戦いに10年も費やしていなければ・・・天下を取っていたのかもしれません。
その後、豊臣秀吉は、大坂本願寺後に大坂城を築き、天下統一を果たすのです。


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