古代史再検証蘇我氏とは何か [ 滝音能之 ]

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2017年3月、衝撃的な発表が奈良県明日香村でありました。
飛鳥地方最大級の古墳の存在が明らかになりました。

2014年からの発掘調査で・・・
新しく古墳の石室への通路の一部が見つかりました。
これらから、古墳の全体像が現れたのです。
小山田古墳と名付けられたこの古墳は、一遍が70mの方墳でした。
7世紀に築造され、完成後すぐに破壊されました。

これだけの巨大古墳を作れたのは・・・舒明天皇??
しかし、その一方で、この古墳が蘇我氏の拠点である甘樫丘の南の端にあることから、蘇我蝦夷の墓??
蘇我氏は、稲目・馬子・蝦夷・入鹿と、100年以上にわたって君臨していました。
仏教や、新しい制度を次々と導入し、倭国を先進国へと生まれ変わらせた最大の功労者でした。
ところが・・・645年6月、古代史史上最大のクーデターが発生!!
乙巳の変!!です。

日本書紀によると、この時中大兄は皇極天皇から入鹿殺害の理由を聞かれ・・・

「入鹿は大王の位を脅かした。
 故に征伐した。」by中大兄

しかし、そこには、緊迫した大陸情勢があったようです。
そして一族の場内部抗争も大きく関係していました。
彼らが殺された本当の理由とは・・・??
蘇我氏失脚の謎は・・・??

奈良盆地の南・・・飛鳥・・・
ここは、100年にわたる蘇我氏の権力の舞台です。
無数の遺跡に彩られた地です。
中心には大和政権の宮殿跡・飛鳥宮跡。
7世紀前半、蘇我蝦夷・入鹿親子は権力の絶頂にあり、まさにここで入鹿が殺されました。
そして、南東には蘇我氏の強大な権力を誇示する石舞台古墳が・・・!!
高さ4.7m、高さ19.1m、の巨大な石室は、もとは土に覆われた一辺50m四方の方墳でした。
蘇我馬子の墓と考えられています。
どうして蘇我氏は強大な権力を得ることができたのでしょうか。

それまで無名だった蘇我氏を、一躍大和政権の中枢を担う大豪族に育て上げたのは、蘇我稲目でした。
稲目の墓とされる都塚古墳・・・
2014年の発掘調査で・・・その姿は6段以上のピラミッド型でした。
この古墳の形状から、稲目と朝鮮半島の強いつながりが感じられます。
将軍塚は、朝鮮半島北部の王朝・高句麗の王墓、都塚古墳と同じ石積みのピラミッド型古墳です。
稲目は、新しい精神文化を取り入れ、多くの渡来人のリーダーとなっていたようです。
渡来人たちを掌握し、彼らの最新の知識・技術を使って、大和政権に奉仕していました。
やがて・・・大臣という最高位まで上り詰めます。
さらに稲目は娘たちを大王の妃とし、娘たちの子が次々と大王となっていくのです。

稲目の死後、蘇我氏の最盛期を支えたのが、二代・馬子です。
馬子は、父から譲り受けた地位をさらに確固たるものとしていきます。
当時の大和政権は、大臣主催で有力氏族の代表者たちによる合議が行われていました。
これに対し、馬子は弟たちを蘇我氏から独立させ、新しい氏族とし、蘇我一族で多数派を形成できるようにします。
代表者会議を押さえた馬子は、推古天皇の元、厩戸王(後の聖徳太子)と協力し、大和政権の改革に努めるのでした。
その業績を代表するのが、日本初の本格的寺院・飛鳥寺の建立です。
当時、仏教は東アジア諸国で信仰され、文明のグローバル・スタンダードとなっていました。
馬子は、この仏教を積極的に導入。
さらに従来の世襲に代わって、実力主義を取り入れた官位制度を導入した冠位十二階などの数々の政策を推進し、日本を先進的な国に変わらせようとしました。

626年馬子が死去すると、後を継いだのは息子の蝦夷でした。
しかし、馬子の時代と打って変わって次々と内紛が起きます。
628年、馬子と共に、数々の改革を行ってきた推古天皇が崩御。
この後継者選びが難航します。
有力候補は・・・聖徳太子の子・山背大兄王と、田村皇子です。
蝦夷は、田村皇子を推していました。
しかし、蝦夷の方針に、蘇我一族から反対する者が出てきました。
蝦夷の叔父・境部摩理勢です。
馬子の代に、蘇我氏から独立し、境部氏を名乗っていました。
摩理勢は蝦夷に対抗し、山背大兄王を支持します。
次の天皇を擁した者が、次の大臣になれる・・・
そこには、蘇我氏内部の族長権争いが含まれていたのです。
馬子の代には結束して多数派を築いていた本家と分家・・・
しかし、蝦夷の代から一族間の不和の原因となっていきました。
蘇我一族の分裂によって、大王を選ぶ代表者会議は紛糾・・・
蘇我氏は強硬手段に・・・兵をもって摩理勢を攻め滅ぼしたのです。
629年蝦夷の推す田村皇子が即位し、舒明天皇に・・・。
ひとまず大和政権の安泰は保たれました。

7世紀・・・中国大陸では、世界史のターニングポイントとなる出来事が発生していました。
618年、世界帝国・唐王朝の成立・・・唐は、強大な国力を背景に、領土の拡大を推し進めます。
唐の二代皇帝・太宗は東に目を向け、朝鮮半島の三国への圧力を強めていました。
唐建国の直前、隋王朝によって大陸を南北に貫く大運河が建設されていました。
唐はそのインフラを最大限に活用し、国力、軍事力を増進していました。
倭国としても、強力な王権を作りあげて、東アジアの情勢に退所する国家づくりが課題となっていました。
朝鮮半島の状況は対岸の火事ではなく、どう対処するのか?大和政権の最重要課題となっていました。

642年皇極天皇即位・・・
643年、病気がちだった蝦夷は、「大臣」を入鹿に譲ります。
入鹿は若い頃、留学僧の元で学び、唐への造詣が深いといわれ、唐の脅威を誰よりも感じていました。
唐との戦いに備えるためには、国内の体制を変える必要がある・・・
入鹿の耳に飛び込んできたのは、一早く政治改革を断行した高句麗情報でした。
唐の圧力を受けていた高句麗では、有力貴族の淵蓋蘇文がクーデターを起こし、王を殺害、新しい王を擁立し、独裁体制を築きました。
有力な貴族が権力を握り、唐との全面対決に臨もうとしたのです。

入鹿は、中国の脅威にいかに立ち向かうのか・・・??
そして国内の問題とは・・・??
部民正があって、それぞれの部族はそれぞれの主人に奉仕する縦割りな仕組みでした。
朝廷が必要な物、人間、兵力は、主人の豪族、王族の許可を得たうえで初めて朝廷に集まってくるというシステムでした。
戦争が可能なシステムを作るということは、中央集権的な仕組みを作るという事でした。
縦割り的な部民正を一元化する仕組みを入鹿は考えていたのです。

国内外の危機に直面した入鹿はどうする・・・??

積極策・・・改革を急ぎ断行する。
邪魔者を除き、わが手に権力を集中させなければ!!
高句麗では、権力集中に成功した。
この時、自分の脅威となるのは、王位継承候補となる山背大兄王・・・
他の豪族に担ぎ出され、いつ対立するかもわからない・・・!!
山背大兄王は、父・厩戸王から交通の要所・斑鳩と莫大な財を継承していました。
入鹿が大王を傀儡とし、権力を集中するためには、排除しなければならない人物でした。

慎重派・・・多数派を形成
権力の集中化を進めれば、豪族たちからの反発も大きいかも・・・。
自分の考え方に賛同する者を増やし、多数派を占めるべきではないか??

大和政権内で、蝦夷、入鹿は孤立しつつありました。
蘇我氏の強大な権力に反発する豪族たちが増えていたのです。
その原因となったのが、40年前に馬子が厩戸王と作り上げた冠位十二階でした。
大王に仕えるものを12段階の等級に分け、色違いの冠で分けるという人事制度です。
官位は大和政権への貢献度に対して一代限りで与えられました。
世襲から離れ、実力主義という画期的なものでした。
しかし、この制度の導入によって、蘇我氏への反発が生れたのです。

遣隋使で2度隋に渡った小野妹子は最後は徳冠という最高の地位につきました。
そうすると、豪族たちの政治的立場が相対的に下がっていったのです。
一方で、蘇我氏だけの独り勝ち・・・その不平不満が募っていっていたのです。


反発を恐れず改革か?多数派を形成するべきか・・・??

643年、入鹿の決断を促す緊急事態が新羅で起こっていました。
当時、高句麗と百済の侵攻に悩んでいた新羅は、唐に救援を求めました。
唐は新羅に対し・・・
「汝の国 婦人をもって 主となし 隣国に軽侮せらる」と言いました。
唐は救援の見返りに、新羅の女王を退位させ、新しく唐の王族を即位させることを要求しました。
国の根幹を揺るがす事態に、新羅は内乱状態に・・・!!

新羅の状況は、女帝を頂く当時の日本にとって無視できない存在でした。
皇極天皇は女帝・・・。
入鹿は権力集中を目指し、早急に決断します。
643年11月、山背大兄王を攻め滅ぼします。
他の豪族の反発を顧みない性急な行動に蝦夷は・・・
「ああ・・・入鹿、なんて愚かなことをした。 お前の命も危ないぞ。。。」と言ったとか。
2年後、蝦夷の恐れは現実のものに・・・

645年6月12日・・・乙巳の変。
ついにクーデターが・・・!!
宮中での儀式の際に、中大兄皇子らによって入鹿は殺されたのです。
中大兄たちは、すぐに飛鳥寺に軍を集結し、甘樫丘の邸宅に籠る蝦夷と対峙!!
飛鳥寺の中大兄の元には、王族や豪族が次々と集まったといいます。
反蘇我氏で多数派が形成されていたのです。
13日・・・命運が尽きたと思った蝦夷は、自宅に火をつけ自害・・・!!

ここに蝦夷、入鹿は滅びたのです。
蝦夷が自害した甘樫丘の南の端には小山田古墳。
蝦夷の墓の可能性がある古墳です。
日本書紀には蝦夷と入鹿の墓について・・・
二人は生前、全国の人を使って、大陵、小陵という自分たちの墓を作らせていました。
一遍70mの巨大な小山田古墳、これこそ、日本書紀にある大陵ではないか??と言われています。
これは、一遍50mの馬子の墓石舞台古墳や一遍60mの推古天皇陵をしのぐ規模です。
この大王をも越える巨大な墓を築いたことが、蘇我氏滅亡の引き金になったのではないか??
同時期の大王墓よりも大きな墓を・・・

古代史上最大のクーデターと言われる乙巳の変・・・
その首謀者の一人は、長らく蘇我氏の後塵を拝していた中臣鎌足でした。
鎌足は強大な蘇我氏を打倒する為に、周到な計画を練ります。
中大兄皇子ら有力な王族を立てることに成功!!
さらに・・・蘇我一族を分断!!
目を付けたのは、入鹿から権力奪還を狙う倉山田石川麻呂。
彼を暗殺計画に引き込みます。
その結果、石川麻呂は、入鹿、蝦夷亡き後の新政権で乙巳の変への功績を認められ上り詰めます。
しかし、その石川麻呂も僅か4年で失脚!!
残された蘇我一族も、歴史の表舞台から消えていきます。
しかし、後の時代に入ってもその権力を握るための手法は、ある一族に受け継がれました。
鎌足に始まる藤原氏です。
8世紀、藤原氏が次々と一族の娘を天皇に嫁がせ、外戚として権力を確固たるものとさせていきます。

蘇我氏が権力を掌握した要因の一つが群臣合議を掌握すること、もう一つが天皇家・大王家と外戚関係になることでした。
100年にわたりキングメーカーであり続けた蘇我氏・・・彼らが僅か2日で権力を失った理由とは・・・??
そして、その後の日本の権力構造に与えたものとは・・・??

権力への反感が渦巻いて、軍や警察などが参加や無視・放置、玉や大義名分などの正当性が反乱軍にあること・・・が、クーデターを成功させる要因となります。
入鹿、蝦夷は、反感があるのに放置し、抑え込むだけの力もなかったこと・・・
同族を配置し、権力を高めようと思っていたものの、世代交代で敵となってしまった・・・。

舒明天皇以降、天変地異がたくさんありました。
皇極が即位してからさらに増えたと書かれています。
そこには蘇我氏・・・蝦夷、入鹿の横暴ぶりを批判する意図がありました。
蘇我氏は・・・族長は、明日かを基盤とした入鹿、蝦夷から河内を基盤とした石川麻呂に・・・
蘇我氏の同族の多くは生き残り、高い地位に・・・。

蘇我氏の役割は・・・牧歌的な豪族の寄り合いを、近代国家に作り替えようとしたこと。
蘇我氏は先駆的・・・時代に先駆けて改革を目指したがゆえに、周りから浮き上がって潰されてしまった悲劇なのです。
国づくりをどうするかを考えて、突っ走って滅んでしまったのです。

日本の外交安全保障は、朝鮮半島情勢とその時々の大国が非常に大きなファクターであって、それは今も変わりありません。
性急な中央集権的国家を作り上げようとすると、失敗する可能性が高い・・・
日本史を貫く法則かもしれません。



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