島原の乱 キリシタン信仰と武装蜂起【電子書籍】[ 神田千里 ]

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今から380年前、長崎県島原半島で、江戸時代最大の内乱がありました。
1637~38年、島原の乱です。
3万7000の住民が武装蜂起!!
12万の幕府軍と戦いました。
一揆の原因は、切支丹弾圧の反発とされていますが・・・??

日本におけるキリスト教伝来は戦国時代の1549年。
カトリックの修道会が熱心に布教を行った結果、キリシタン大名も出てきました。
とりわけ九州に多く、肥前日野江城主・有馬晴信、肥後宇土城主・小西行長などがいました。
江戸幕府開府以後も、莫大な貿易での利益を得るために、家康はキリスト教の布教を許していました。
ポルトガルとの貿易が中心でしたが、1609年オランダ、1613年イギリスが参入しました。
しかし、1613年幕府は禁教令を発布。
教会を破壊し、宣教師たちをマカオなどに国外追放しました。

どうしてキリスト教は禁止されたのでしょうか??
原因の一つは、プロテスタントの国・オランダから届いた国書にありました。

「カトリック宣教師は日本人を改宗させて、他の宗教を排斥しようと考えている
 そして、宗教の争いを起こさせ、内乱に導こうとしているのだ。」

宗教勢の一揆を恐れる幕府・・・キリスト教の教えにも危機感を抱くようになります。
キリスト教自体が、「何人も神の許に平等」としています。
封建社会を目指す幕府にとっては、都合が悪かったのです。

2代将軍徳川秀忠は、将軍を頂点とする幕藩体制を揺るがすとして、キリスト教への弾圧を強化!!
信仰を捨てない者は、厳しく罰するように大名達にも圧力をかけます。
そんな中、キリシタン大名の有馬信治の代わりに島原藩主となったのが、松倉重昌でした。
重政は、幕府の命に従い、キリシタンを厳しく弾圧!!
凄惨な処刑を断行し、人々への見せしめとします。
こうした過酷な弾圧は、息子・勝家の代まで20年も続きました。
苦しみから逃れるために、人々は信仰を捨てるしかありませんでした。

ついに我慢の限界が・・・きっかけは・・・
1637年10月25日、事件は島原有馬村で起こりました。
信仰を捨てずにいたキリシタンたちが隠れて礼拝をおこなっていたところ、藩の役人に見つかってしまいました。
捕まれば厳しい拷問は必至!!
とっさに抵抗し、役人を殺してしまいました。

役人を殺したのだから死罪・・・ならば、戦うしかない!!

と、有馬村のキリシタンたちが蜂起、近隣の村にも飛び火し、10月26日島原で一揆が勃発!!
一揆勢は、島原藩士たちを殺害し、寺社を焼いていきます。
10月28日、唐津藩天草でもキリシタンが蜂起。
この地を治めていたキリシタン大名・小西行長は、関ケ原の戦いで西軍につき斬首、やってきた唐津藩主・寺沢堅高による厳しいキリシタン弾圧に耐えかねてのことでした。
この天草の一揆勢を率いていたのは天草四郎でした。
天草四郎・・・出身は上天草とも宇土ともいわれ・・・本名は、益田四郎時貞。
父はキリシタン大名・小西行長の元家臣で、関ケ原の戦いで主君を亡くしたので牢人に・・・
母は、マルタという洗礼名を持つキリシタンでした。
四郎もカトリックの洗礼を受けており、洗礼名はフランシスコあるいはジェロニモでした。
幼少から勉学に励み、長崎に遊学し、天草にある上天草市に落ち着きます。
一揆が始まった時、四郎は15歳だったともいわれています。
やがて四郎たちは、唐津藩の兵が籠る富岡城を包囲し、落城寸前まで追い込みます。
その後、島原の一揆勢と合流し、四郎は3万7000を率い、島原藩の蔵を襲って鉄砲530挺と、年貢米5000石を略奪!!
廃城となっていた島原の原城に立て籠ります。

近年の発掘から、一揆勢は石垣に沿って穴を掘り、家族単位で籠城生活を送っていたようです。
12月1日、90日に及ぶ籠城戦が始まりました。
原城本丸の礼拝堂で祈りを捧げる四郎・・・。
四郎の持つカリスマ性に惹かれ、団結する一揆勢!!

一方、幕府は事件の知らせを受けたのは数日後・・・
3代将軍家光は、すぐさま京都の治安維持を担う京都所司代・板倉重昌を指揮官に任命。
京都所司代を動かすのは異例のことでした。
そして、江戸にいた藩主には国元に帰るように指示しています。
幕府にとって一番恐ろしかったのは、原城のような状況が全国で起こることでした。
そして、江戸にいた九州の諸大名に、帰国して一揆鎮圧に加勢するように命じます。

12月10日
籠城する一揆勢3万7000に対し、諸大名の大軍勢が・・・!!
しかし、一揆勢の反撃を受け、思わぬ苦戦を強いられます。
幕府軍、まさかの苦戦の理由は・・・?
原城は三方が海に囲まれ、一方は崖という要害の地にありました。
有明海の潮の流れはあまりにも早く、船をつけるのは非常に困難でした。
そのため、幕府軍が城を攻めることができるのは、一日2回の潮どまりの時だけでした。
陸側は・・・あたり一面湿地帯で、ぬかるみで城にたどり着くのもままなりません。
しかも、一揆勢は崖の上に板塀を張り巡らし、準備をしていました。
板塀の裏に隠れ、幕府軍を狙い撃ち!!
地の利を生かし、大軍を相手に激しく抵抗する一揆勢!!
海の事情をよく知る彼らは、夜の間にこっそり船をだし、籠城のための武器や食料の調達をすることもできました。
幕府軍は3度の総攻撃をするも完敗・・・
指揮官の板倉重昌が戦死・・・3,800人の死傷者を出してしまいました。

1638年1月4日、板倉重昌に代わり、家光の側近、知恵伊豆こと老中松平信綱がやってきました。
兵糧攻めに戦略を変更!!
立て籠もっている人々に投降を呼びかけます。
矢文でやり取りをします。
そこに書かれていたのはもちろんキリシタンへの弾圧と・・・藩主松倉氏の悪政でした。
平地のない・・・凶作な大飢饉にもかかわらず、重税が課されていました。
重税の理由の一つは、島原城の建設・・・
外様大名だった松倉氏は、国内外に威厳を見せつけるべく、四層五階の分不相応の城を築城し、重い税をかけていました。
その取り立ては、息子・勝家の代になるとさらにひどくなり・・・
いろり銭、窓銭、戸口銭・・・と、税をかけ、子供が産まれると頭銭、亡くなると穴銭・・・何かと税を取り立てていきます。
納められない者には、恐ろしい罰を与えるのでした。
領民たちは、木の根や草を食べて凌ぐものの餓死者は増える一方・・・。
もう、我慢の限界でした。
キリシタン弾圧だけでなく、重税も一揆の原因だったのです。

どうして15歳の四郎が一揆の指導者となったのでしょうか?
一揆の数か月前の噂に・・・
ポルトガル宣教師の預言でもうすぐ神童が天草に現れて、キリスト教を再興するというものでした。
その時こそが決起の時!!
その神童こそが天草四郎・・・予言通りに現れた少年を、救世主とし、神の子と崇めたのです。
四郎は長崎に遊学していた際に、医学を学んでいました。
チョットした病気を治すこともできました。それが奇跡のように見えたのかもしれません。
四郎を神格化していく人々・・・。

四郎の陰で一揆を先導していた真の首謀者とは・・・??
小西行長の家臣・益田甚兵衛・・・四郎の父でした。
有馬晴信の家臣・有家堅物・・・
指導していた人たちは、関ケ原の戦いの後、武士から農民に身を落としていた庄屋となっていた人たちだったのです。
徳川への恨みを晴らすべく、その機会を虎視眈々と狙っていたのです。
原城の沖合6キロに浮かぶ湯島・・・別名談合島・・・庄屋たちはこの島の山頂に隠れ家を設け、一揆の機会をうかがっていました。
槍や刀などを密造しながら、作戦を立てていたのです。
しかし、問題が・・・
蜂起するにはキリシタンだけでは人数が足りなかったのです。
「キリシタンにならなければ討ち果たす!!」と、農民たちを脅し、無理やり引き込みました。
彼らは”無理なりキリシタン”と呼ばれました。

一揆勢はキリシタンだけではない・・・それを知った信綱は、一計を案じます。
知恵伊豆の起死回生の一手とは・・・??

2月1日、兵糧攻めを続ける中、一揆勢にキリシタンでない者がいると知った信綱は、これを利用します。
内部の結束を崩しにかかったのです。

手紙・・・
熊本藩に捕らえられていた四郎の甥・小平に手紙を持たせ・・・一揆勢に手紙を届けさせます。
 家光公はキリシタンを処刑する一方、無理やりキリシタンにされているものに至っては助命する!!
 キリシタンの中に後悔し、改宗する者がいれば助命する!!
しかし、一揆勢の指導者たちは、この交渉に応じず・・・。

籠城戦で勝つためには、援軍が肝要です。
一揆勢はどこからの援軍を待っていたのでしょうか??
発掘から、彼らはイエズス会の影響下にありました。
幕府は、一揆の後ろにポルトガルがいることをかなり警戒していました。
当時ポルトガルは、スペインと共に強大な権力を持っていました。
しかも世界進出を目論んでおり、アジアにも植民地を拡大・・・その触手の及ぶことを、幕府は恐れていたのです。
そこで、ポルトガルと戦っていたオランダと手を組んだのです。
そして、長崎平戸のオランダ商館に、海と陸から原城を砲撃するように依頼します。
しかし、幕府内部で強固な反対に・・・
熊本藩主・細川忠利は、外国船の力を借りるのはいかがなものか・・・恥辱である!!と反対!!

オランダ船から砲撃!!
おまけに待てど暮らせどポルトガル船は来ず・・・。
ポルトガルは本当に来ることになっていたのでしょうか?
日本全土となり、勝ち目があれば来る、勝ち目がなければ来なかった??

当時のポルトガルの拠点はマカオでした。
マカオから日本までは帆船・・・季節風は北風を受けて、この季節は日本へ針路をとることができません。
ポルトガルが指示しても、中尾から援軍を送ることは無理だったのです。

2月10日・・・籠城を始めてから2か月・・・一揆勢の兵糧と弾薬は底をつき、飢えによって動けない人々も・・・
そんな中、碁を打っていた天草四郎の左袖を鍋島軍の弾丸が撃ちぬいたのです。
神に守られて不死身と思ってた四郎が撃たれた・・・
神の子ではなかった・・・一揆勢は不吉と動揺し、四郎の求心力は瞬く間に低下・・・
原城を抜け出す者も出てきました。

一揆勢の投降者は1万人に・・・!!
窮地に陥った一揆勢・・・幕府軍から兵糧と弾薬を奪い取ろうと闇討ちをかけるも失敗・・・
多くの死傷者を出してしまいました。
信綱は生け捕りにしたものを尋問すると・・・城内の米が尽きていることが判明。

一揆勢が弱っている・・・!!と、信綱は総攻撃をかけることに・・・!!
2月28日、12万の幕府軍による一斉攻撃が始まりました。
数百本の火矢が放たれ、本丸は炎上!!
息もできないほどの黒鉛の中・・・一揆勢は小石から鍋、釜をも投げつけて抵抗!!
壮絶な決戦となりました。
幕府軍の記録には、老人、女性、子供までも皆殺しにしたとあります。
この時信綱は、四郎を生け捕りにするように命じていましたが・・・討ち取られてしまいました。
武装蜂起からおよそ4か月・・・江戸時代最大の内乱は、壮絶な結末に終わりました。

その2か月後、幕府は島原、天草の領主に対しても厳しい沙汰を・・・。
天草を治めていた唐津藩主・多羅沢堅高は領地を没収され自刃、お家断絶。
島原藩主・松倉勝家は流罪となり処刑。
領民たちが蜂起するほどの悪政に対する沙汰でした。

島原の乱における幕府の死傷者は、全国の武士の1%に当たるおよそ1万2000人。
さらにかかった費用も莫大で、悪性の代償はあまりにも大きなもの(40万両=400億円)でした。

蘭の終結後、幕府は原城を徹底的に壊し、石垣の外に一揆勢の遺体を埋めました。
平成になって発掘調査が行われるまで封印されていた原城からは、たくさんの遺骨が見つかっています。
幕府の処罰は厳しく、島原、天草のキリシタンをほぼ根絶やしにし、禁教令を強化。
ポルトガルとの国交を断絶し、鎖国体制に入っていきます。

学んだことは・・・武断政治の限界で、文治政治への変換の必要でした。
一揆勢の尊い命は、江戸時代の日本をながい泰平の世へ導いてくれたのです。



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