井伊直政 逆境から這い上がった勇将 (PHP文庫) [ 高野澄 ]

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時は戦国時代、真紅の幟をはためかせ、朱色に染め上げられたそろいの甲冑・・・
大将自ら突進し、命知らずと恐れられた最強の軍団・・・
人呼んで、”井伊の赤備え”!!
率いたのは、赤鬼の異名を持つ井伊直政です。
井伊直政は、井伊直虎を叔母に持ち、徳川家康の天下取りに貢献しました。
徳川四天王のひとりとして名を馳せました。
そんな壮絶な井伊直政の一生とは・・・??

静岡県浜松市北部にある引佐町・・・かつて井伊谷と呼ばれ、今川家配下にあった井伊家が代々この地を治めていました。
井伊家は、直虎の時代に領地を失い、一族滅亡の危機に瀕します。
直虎唯一の井伊家の希望の星は、直政でした。
直政は、1561年に父・直親と母・ひよの間に生まれました。
直政の父である直親は、本家に養子に入り、直虎とは兄弟関係にありました。
つまり、系図上、直虎と直政は叔母・甥の関係にありました。
そんな井伊家に大きな試練が・・・
井伊家が仕える今川家は、当時は海道一の弓取りと恐れられていました。
しかし、桶狭間の戦いで義元は自刃し、息子の氏真が後を継いだばかりでした。
甲斐の武田信玄や、三河の徳川家康がそこを虎視眈々と狙っていました。
今川家の将来に不安を抱いた直政の父・直親は、今川から独立したばかりの家康に近づきますが・・・その動きを今川に気付かれて殺されてしまいました。
28歳でした。

井伊谷の直接支配を目論む氏真は、直親の子で2歳だった虎松=直政の命も狙います。
この時は、今川家の家臣・新野親矩の嘆願によって命拾いしますが・・・後ろ盾だった新野が戦いで2年後に死亡。
そんな直政の後見人となったのが、叔母の直虎でした。

1568年直政8歳の時、今川家が井伊家の領地を没収、滅亡の危機に・・・
続いて武田信玄と、徳川家康が今川の領地に侵攻・・・
井伊谷にまで戦火が及んできました。
再び命の危険を感じた直政は、つてを頼って奥三河の山麓に身を寄せました。
鳳来寺山・・・1425段もある石段を登りきると・・・1300年以上の歴史を持つ鳳来寺があります。
戦火を逃れてきた直政は、ここで14歳までの7年間を過ごしました。

どうして鳳来寺だったのでしょうか??
寺院は殺生禁断、治外法権の場・・・武力勢力の踏み込めない場・・・
そして、学びの場であり、僧兵による技術の訓練を受けることができました。
何より井伊谷に近い・・・!!
直政はこの寺で、幅広い知識を身に着け、技を磨いていきました。
いつの日か井伊家を再興する為に・・・!!

今川家が信玄と家康に攻められて滅亡・・・領地と主君を失った井伊も風前の灯・・・
そこで直虎は、一族の再興を図るべく、行動を起こしました。
それは、寺に預けられていた直政を連れ戻し、当主にする道筋を立てること・・・。
直政の母・ひよを再婚させます。
相手は、家康の家臣だった松下源太郎です。
直政に井伊を名乗らせるのは危険だったので、直政を養子とし、井伊姓から松下姓に変えたのです。
そして直政の身辺警護も・・・!!
1574年14歳の直政は、父・直親の13回忌の法要を口実に井伊に戻ってきました。
直政に井伊家再興が託されました。

直政をどの戦国大名に仕えさせればいいのか・・・??

武田家は信玄が急死、勝頼が後を継いでいました。
徳川家康はまだ30代・・・三河から井伊谷のある遠江に進出していました。
三方が原の戦いで、武田軍に大敗・・・未知数でした。
しかし、家康を選んだ直虎・・・

直政の父・直親が家康に近づこうとしていたこと、松下源太郎から家康のことを聞き知っていたこと。。。

そこから家康を選びました。


徳川実記には・・・
1575年、家康が井伊谷まで鷹狩りにやってくることに・・・
一行が街道を歩いていると、真っ新の着物を着た少年が道端でひれ伏していました。
叔母直虎が、少しでも目立つように、新調した小袖を着せていたのです。
家康も立ち止まり、顔を上げた直政を見た家康は・・・
「面魂が尋常ではない。」と・・・。
「この地を治めていた井伊の孤児でございます。」byお付きの人
「我についてまいれ!!」by家康

こうして直政は、15歳にして家康に召し抱えられることとなるのです。

家康と内通したことによって、直政の父・直親が今川に某殺されたことを知っていて、自責の念があったこと。。。
築山殿の母は、井伊谷出身であったこと。。。
家康としては直政に身内のような感情を抱いていたのかもしれません。

15歳で家康に仕えることとなった井伊直政・・・
異例のスピードで出世していきます。
そのようにして、家康の信頼を勝ち取っていったのでしょうか?

1575年、甲斐・武田と争った遠江芝原の戦いが直政の初陣となりました。
家康の世話役として本陣に詰めていた直政。
夜半を過ぎた頃、武田の手の者が忍び込み、家康の寝首を欠こうとしました。
間一髪で、直政が討ち取りました。

1582年の神君伊賀越えでは・・・
本能寺の変が起きたとき、織田信長と同盟を結んでいた家康は大坂にいました。
追っ手から逃れるために、伊賀を抜け三河に・・・。
直政は、身を挺して家康を守り抜きます。

徳川家臣団・・・三河武士ばかりの中、外様の自分がどうやって忠義を表せばいいのか・・・??
その忠義に家康も応えます。
神君伊賀越えでの功を称え、「孔雀尾具足陣羽織」を与えます。

ところが家康の直政の可愛がりように・・・
家康と直政が衆道ではないのか??とまで噂されたといいます。

一気に出世していく直政・・・。
1582年天正壬午の乱・・・徳川と北条氏直との戦いで・・・
徳川軍8000VS北条軍4万!!
不利な徳川軍は、長期戦持ち込みます。
すると北条に行っていた武田の旧家臣たちが徳川に寝返っていきます。
遂には形勢が逆転!!
北条は和睦を申し入れ、甲斐と信濃は家康の手に落ちました。
この勝利の陰に、直政の活躍がありました。
直政の外交力・・・武田の旧家臣たちに書状を送り、本領安堵を約束し、彼らを取り込みます。
北条との交渉では・・・21歳にもかかわらず、交渉に臨み、どうどうと渡り合ったといいます。

その後、召し抱えることとなった武田の旧家臣たちを直政の配下に・・・。
武田の旧家臣を直政のもとに置いた家康の狙いとは・・・??
武田と徳川は、2代にわたっての宿敵でした。
皆には遺恨があったかもしれませんが、直政には遺恨がなかったので、上手くやっていけるのでは・・・??と思ったのです。

「武具、甲冑、全て赤にせよ!!」by家康

旧武田軍の中で、もっとも恐れられていたのは、赤備えと呼ばれた精鋭部隊でした。
当時、赤い甲冑は、特別な武勲をあげたものだけに許されていました。
その赤を、あえて身に着けさせることで、部隊の士気を上げようとしました。
こうして、武田の赤備えが井伊の赤備えに生まれ変わり、徳川一の精鋭部隊となったのです。

しかし・・・これが、徳川家臣団の中に不協和音を呼んできます。
やっかみと嫉妬の対象に・・・
直政にできることは、戦で証明し、譜代の家臣を黙らせること・・・
そのチャンスがやってきました。

1584年小牧・長久手の戦い勃発!!
信長の孫・三法師を擁する秀吉と、次男・信雄についた家康が対立!!
それは、後の天下取りを左右する大事な戦いでした。
先陣を任されたのは、井伊の赤備え!!
直政は、旧武田の兵を含む2000の兵を率いて、秀吉軍に襲い掛かります。
その時!!直政は対象であるにもかかわらず、先頭で敵方に突っ込んでいったのです。
すると、大将を死なせるわけにはいかないと、赤備えが・・・!!
直政は、一番首をとる活躍を・・・!!
それを見た秀吉は、「赤鬼!!」と、恐れおののいたといいます。
井伊の赤備えの鮮烈なデビューでした。
この常識破りの行動は・・・
武田の遺臣を任され、同僚の嫉妬、やっかみを黙らせるために、目立った手柄をあげる必要があり・・・旧武田の家臣団には、リーダーとしての気概を見せる必要があったのです。

小牧・長久手の戦いによって、家康から6万石を拝領。
かつて井伊が持っていた井伊谷の領地でした。
この時、25歳となっていました。

秀吉からヘッドハンティングされる直政・・・
しかし、直政は、自分を引き立ててくれ、お家を再興させてくれた家康に忠義を貫きます。
秀吉の命によって家康が関東に移されたときには、もっとも石高の大きい上野国12万石を拝領し、徳川筆頭家臣に・・・家康の四男・松平忠吉を娘婿に迎えます。
家康との結びつきをさらに強固なものに・・・!!
そして、家康の天下統一のために東奔西走します。
天下分け目の関ケ原に向けて・・・!!

豊臣秀吉は、幼い秀頼を残してこの世を去ります。
ようやく家康に天下のチャンスが巡ってきたのです。
徳川派と、反徳川(石田)派が対立する中、直政はその外交力で、豊臣恩顧の武将たちを徳川になびかせるために奔走します。
1600年6月・・・家康は敵対する上杉景勝を討つために会津征伐へと出陣!!
そのすきに、三成が反家康の狼煙を上げたのです。
家康軍はこの時、下野国、小山にいました。
景勝を討つべきか、三成を討つべきか・・・!!
直政は進言します。
「速やかに味方を上方に進め、天下を一つに定めるべきと存じます!!」by直政
家康は、三成との全面対決を決意!!
秀忠は中山道ルートで、直政は家康の名代として豊臣恩顧の大名たちを引き連れて東海道ルートで・・・!!
9月15日、関ケ原の戦い!!
東軍と西軍が対峙!!
前日に家康も到着しているというのに、秀忠は未だ到着しておらず・・・!!
真田に行く手を阻まれて、非常事態に・・・!!

大きな不安を抱えたまま、決戦に臨むことになった家康。
東軍の先陣を任されたのは、豊臣恩顧の武将・福島正則!!
後方にいた直政は、娘婿の松平忠吉と兵を引き連れて、福島隊の前へ・・・。

「今日は忠吉殿の初陣であるから、戦を学ぶため敵陣を見にいくだけじゃ。」by直政

が・・・鉄砲隊に号令をかけ、自ら敵陣へ・・・!!

直政は抜け駆けしてしまったのです。
これは重大な軍法違反でした。

「先手の差越しは、軍法に背く。
 行ったものは成敗する。」by家康

直政としては、徳川が先陣を切ったという既成事実が欲しかったようです。
徳川の力で戦いに勝った!!と。。。

直政の抜け駆けによって火ぶたが切られた関ケ原の戦い・・・。
一進一退の攻防の中、西軍の二人の武将が寝返ります。
一人は吉川広家!!
南宮山にいた毛利軍3万を足止めにしました。
もう一人は松尾山に陣取っていた小早川秀秋。
戦が始まって4時間後、味方である西軍にいきなり襲い掛かりました。
これをきっかけに一気に東軍優勢!!
この二人の行動の裏には、直政の影が・・・
事前に盟友・黒田長政を通じて寝返るように説得していました。

戦いが始まってから6時間後、東軍勝利が確定!!
ところが、直政を悲劇が襲います。
西軍の島津義弘の軍勢が、家康の本陣に突撃してきたのです。
敵中突破を図る”島津の退き口”です。
殆どの武将たちが島津に道をあける中、直政は・・・徳川の名に傷がつくと追撃・・・
直政は鉄砲で撃たれ、重傷を負ってしまいました。
怪我を負いながら家康の陣に戻った直政は、真っ先に松平忠吉の手柄を報告したと言います。
軍旗違反のリスクを犯しながら、忠吉に殊勲の機会を作り、命がけで徳川のために戦い抜いた直政に、労をねぎらう家康。。。

戦が終わっても、直政には多くの仕事が残っていました。
関ケ原の戦いでの西軍の武将たちの処遇です。
他の家臣たちが厳しい態度で臨む中、直政は敵として戦った武将たちの話を聞き、家康との交渉に粘り強く接します。
西軍の総大将・毛利輝元は、全ての所領を没収されるはずでしたが、120万石から30万石の減俸で済みました。
石田三成に対しても、処刑される直前まで手厚く面倒を見ました。
遺恨を残さないことが、徳川の安泰をもたらすと考えていたのです。
そして、直政自身は、近江国・佐和山18万石(彦根)を拝領。
その場所は、江戸に本拠を置く徳川に代わって、西国大名を見張る重要な拠点でした。
家康はその役目を全幅の信頼を置く直政に任せます。

が・・・2年後、直政は、関ケ原の傷が元で、42歳でその生涯を終えることとなるのです。
直政の死後、井伊家は、譜代大名筆頭となり、桜田門外の変でおなじみの井伊直弼をはじめ、大老を5人も排出。
直政は、徳川になくてはならない井伊家の礎を築いたのです。

「成敗利鈍に至りては 明の能く逆め賭るに非ざるなり」by直政

家康への義を尽くし、筆頭家臣にまで上り詰めた直政の人生は苦難の連続でした。
しかし、ひるむことなく突き進むチャレンジ精神こそが、名将と呼ばれる所以なのではないでしょうか?


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