侍・和柄・戦国武将Tシャツ(村上武吉)【村上水軍】【毛利】【海賊】【送料無料】【お土産】【プレゼント】【半袖】【厳島】【宮島】

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大小3000の島からなる瀬戸内海・・・
この海で、何百年にわたり中央権力に媚びることなく、自由に生きた一族がいました。
その一族とは、村上水軍です。
行き交う船は、彼らに関銭を払うことが掟!!
拒否すれば、誰であれ襲い略奪!!
奪い取った関銭を元に海洋貿易をし、瀬戸内最強の水軍を組織していきました。
そんな村上水軍を戦国時代に率いていたのが村上武吉!!

その実力は、陸地の名だたる大名が、武吉を敵に回すことを恐れていました。
そんな武吉を宣教師ルイス・フロイスは・・・日本最大の海賊と称しました。
群雄割拠・戦国の世に、瀬戸内海に君臨した海賊王でした。
この武吉の前に大きく立ちはだかったのが、豊臣秀吉です。
日本を一つにまとめようとしていた秀吉は、武吉が支配している海にも影響を及ぼそうとしていました。
秀吉は命じます。海の関所を停止することを・・・!!
関銭を停止するように命令してきたのです。
関銭徴収は、武吉たちが先祖代々自らの手で勝ち取ってきた既得権益です。
この権利を完全に否定したのです。
村上水軍の力を根こそぎ奪おうとする秀吉の苛烈な要求!!
村上武吉はどう応えるのか・・・!!

村上水軍はいつから存在しているのでしょうか??
それは謎です。
が、既に12世紀・平安時代に海賊に対する禁圧令が出されています。
古くから海賊たちは、中央政府にとって悩みの種だったのです。
中でも瀬戸内海は、朝鮮半島や中国からの船が都に向かう際の重要航路。
物資の往来も激しかったことから、多くの海賊が跋扈していました。
海の荒くれものは、陸の権力者のものであろうとお構いなし!!
海の民たちは、陸の権力者に阿ることなく自分たちの掟で生きていたのです。
そんな瀬戸内のリーダーとなったのが村上水軍!!
彼らが歴史の表舞台に躍り出たのが室町時代中期。
世は戦国時代へと突入していました。
村上水軍は、瀬戸内海の中央部、現在の山口県・上関から香川県・塩飽諸島まで170キロを支配下に置いていました。
その内部は3つの家から成り立っていました。
・因島村上氏
・来島村上氏
・戦国時代村上水軍の主となった能島村上氏
・・・武吉が頭領だった家です。

3つの村上家が協力することで、瀬戸内を遮る網を張ることができ、行き交う船から関銭を徴収していたのです。
戦国時代、武吉が瀬戸内を通る船に与えた村上の上の字が書かれた旗「過所旗」・・・行き交う船は、この旗を、関銭を払うことによって掲げ、安全を保障するパスポートとしていました。
逆に言えば、村上の許可なくしては瀬戸内海の海を通ることは許されなかったのです。
そんな武吉たち村上水軍が、瀬戸内の王者となれた秘密は・・・??

能島・・・能島村上氏が本拠地とした島です。
このあたりの潮流は、瀬戸内海とは全く違います。
まるで渓流のような激しい潮流・・・その速さは、最大10ノットおよそ時速18キロで流れています。
その動きは、潮の満ち引きによって絶えず変化していました。
このような中で育った村上水軍。
島々が密集しているこのあたりは、非情に潮の流れが激しかったのです。
この潮の流れで育まれた操縦技術が、彼らの力でした。
村上水軍は、卓越した操船技術を手に入れ、そして、瀬戸内の海賊の中でも抜きんでた存在となっていきます。

戦国時代、能島村上氏が本拠地としていたのが、この島全体を丸々城塞化した能島城でした。
島には、岩礁ピットが残っています。
岩礁ピットの総数は、能島城の周囲で400を越えています。
かなりの数の船を保有していました。
船をどれだけ持っていたのか?関銭をどれだけとっていたのか・・・??それは謎のままです。

しかし、海賊的な行為以外にも・・・
見近島からは、陶磁器の破片がたくさん(およそ1万2000)見つかっています。
中でも際立っているのが、中国、朝鮮の陶磁器の多さです。
能島村上氏が商品流通に干与していたことがわかります。
大名クラスの品々を取り扱っていました。
こうした活動を代々続けながら、瀬戸内海の王者となっていったのです。

1555年、武吉22歳の時・・・
瀬戸内海に接する中国地方では、ある新興勢力が・・・
広島県・・・安芸を拠点に勢力拡大を狙う毛利元就です。
その元就と対立していたのが、陶晴賢。
陶晴賢は、周防国を実質的に支配していた武将です。
この両者が、厳島神社がある宮島で激突!!
厳島の戦いです。
この一大決戦を前に、元就は武吉をかなり警戒していました。
小早川隆景によると・・・
「音戸の瀬戸の両側に砦を築くこと」としています。
能島村上氏が音戸の瀬戸を通過して、広島湾に侵入するのを防ごうとしたと考えられます。
元就は、武吉が敵方として参戦することを恐れ、砦を築いたというのです。
武吉の存在を恐れていた毛利元就!!

「能島村上武吉は、何としても味方に引き入れたいものだ」
「世を日に継いで調略せよ」

能島の力は、三島の村上の中で、一番強かったのです。
毛利にとって、瀬戸内の水軍の力は、他の大名と戦っていくうえで、極めて重要な意味を持っていました。
元就は、どうしても武吉を味方に付けたかったのです。

武吉の力・・・それは、室町幕府13代将軍村上義輝の知るところとなります。
この頃中国地方では、毛利と尼子が戦っていました。
それを何とかして鎮めようとした義輝は、武吉に仲介を頼みます。
能島村上氏が、将軍から「毛利に対して働きかけ出来る存在」として認められていたのです。
大名や将軍などの陸の支配者からも力を認められていた村上武吉。
日本最強の海賊として戦国の世を堂々と渡り歩いていました。

群雄割拠の戦国時代・・・それぞれの地域を代表する大名が誕生してきました。
中国地方を制覇したのは毛利家。
この頃には、毛利輝元になっていました。
そして、その毛利家を飲み込むように成長してきていたのが、東海、近畿を抑えた織田信長。
日本を一つにしようとしていた信長は、既存のルールを壊していきます。
関所を廃止、座を撤廃、楽市楽座を行いました。
信長は、旧来の支配者の既得権を否定することで、大きくなっていきました。

1576年、信長は本願寺を攻め立てていました。
そんな本願寺を助けようと思っていた毛利輝元は、本願寺に援助物資を運び入れるよう武吉率いる村上水軍に依頼します。
1576年7月、木津川の戦い・・・村上水軍と織田水軍との間で戦いの火ぶたが切られました。
ほうろく火矢で戦う村上水軍に織田水軍は驚きます。
この戦いで織田軍を壊滅させた村上水軍の名は、世に響き渡ります。
村上水軍の強さを痛感した信長は、天下統一のためには武吉の力が必要だと感じます。
そこで信長は・・・
「望むことがあるようなら、何でもその意を叶える。」と、武吉に言っています。
来るべき毛利との戦いに。村上水軍を味方にしようと思ったのです。
その翌年、信長は中国攻めに・・・!!
信長の意を受け進出してきたのは、羽柴秀吉。
秀吉は、村上水軍を本格的に調略すようと動き出します。
武吉の息子・元吉に書状を送ります。

「先日送ってきた使者を、こちらに寄こせ。
 内緒の話をしよう。」と・・・。

実は、能島村上家では、毛利に付こうとする父・武吉と、織田に付こうとする息子・元吉の間で意見が分かれていました。
それを知っていた秀吉が、調略を仕掛けたのです。
秀吉によって親子分断の危機・・・。
そして・・・来島村上氏にも・・・。
秀吉の誘いに、来島村上通総が乗ってしまいます。
これまで一致団結して瀬戸内海を支配してきた村上水軍・・・信長、秀吉という強大な敵を前に、結束に乱れが生じてしまいました。
このまま信長によって瀬戸内海は分断されてしまうのか??
そんな時大事件・・・1582年6月、本能寺の変!!
織田家の棟梁・織田信長が、家臣・明智光秀の謀反によって非業の死を遂げたのです。
この一大政変によって、秀吉の毛利攻めは中断!!
結果、瀬戸内海は、武吉が君臨することに・・・!!
武吉人生次第の危機は去ったかに見えました。
そかし、それはつかの間の事・・・。

本能寺の変という予想だにしなかった事件で再び瀬戸内海に君臨した村上武吉。
しかし、天下は一人の男によって、信じられないスピードでまとまろうとしていました。
その男とは、武吉たち家族の分断を図った羽柴秀吉です。

信長の後を継いだ秀吉は、本能寺の変の僅か3年後には関白に就任。
事実上の天下人となりました。
天下人となった秀吉は、日本を一つにまとめていく政策を打ち出します。
太閤検地・・・これまで地域によって異なっていた田畑の広さの単位を統一

「海陸役所停止の事。
 海と陸の関所は禁止とする。」

秀吉からすれば、関銭徴収は中世だから存在しえた私的な行為・・・
このような過去の遺物は、新しい国家には必要ない!!
何百年にわたる中世の海賊の基本的な在り方を侵害されてしまう!!
秀吉が命じた関銭の禁止・・・

関銭徴収は、先祖代々作り上げた海の掟・・・。
自由な海賊としての道か、生き延びてこその道か・・・??

天下人・豊臣秀吉の関銭禁止命令に、村上武吉は・・・??
豊臣政権側は、当然会場の静謐、対して武吉側は従来の権益・・・。
お互い引けない・・・!!
関銭行為を止めない武吉。
海賊として自由に生きる選択をしたのです。
しかし、武吉の態度に業を煮やした秀吉がついに動き出しました。

「能島・村上武吉が海賊行為を行ったと聞いた。 言語道断!!」

そして、武吉の瀬戸内追放!!

武吉を先祖代々の地から追い出したのです。
福岡県糸島半島へ移された武吉。
その4か月後、秀吉は「海賊禁止令」を出します。
「今後は、船を使うものは代官が管理し、海賊行為をしないように約束させる。」
秀吉はこの法令によって、今後海は、陸の者が支配すると宣言したのです。

中世の海賊の一番代表として日本中に名前が通っていた武吉を屈服させ、本拠地瀬戸内海から追放したということは、もう中世の海の世界というものはダメということを日本全体に知らせる出来事でした。

しかし、1598年3月、天下人・豊臣秀吉死去。
二年後の1600年、関ケ原の戦い!!
この混乱を待っていたように武吉が動き出します。
この時、68歳!!
武吉が向かったのは、愛媛県にある興居島。
この時、この地を治めていた加藤義明は関ケ原の戦いで不在。
この好きに武吉は瀬戸内海を取り戻そうと考えていました。

しかし・・・突如夜襲に・・・
檄文を送った相手が裏切ったと考えられています。
彼らにとっては、武吉はもう、過去のものだったのかもしれません。
瀬戸内海にある周防大島・・・夢破れた武吉はこの地に移ります。
以降、能島村上氏はもう海賊ではなく、毛利家の一家臣として生きていくのです。
関ケ原の戦いの4年後・・・
1604年8月22日、村上武吉死去・・・享年72歳でした。
武吉の死は、日本から海賊が姿を消したことを意味していました。
以降、海は、陸の論理によって支配されることとなります。


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