源頼朝 鎌倉幕府草創への道 (中世武士選書) [ 菱沼一憲 ]

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江戸幕府初代将軍徳川家康。
家康が天下を手に入れることができた一つの要因は長寿でした。
薬や医術を学び病に対処、常に健康に気を遣っていました。
歴史にその名を残す偉人達・・・どうやって病と闘い死と向き合ってきたのでしょうか?

鎌倉幕府初代将軍・源頼朝

鎌倉幕府を開いた源頼朝は、1147年尾張国に源氏の棟梁・源義朝の嫡男として生まれました。
その後、義朝と共に平治の乱に加わるも、平清盛に敗北を喫し父を殺され、頼朝は伊豆に流されます。
1160年、頼朝14歳の時でした。

それ以来、父の菩提を弔いながら、いつの日か敵を討とうと平家への恨みを募らせていきます。
願いがかなったのは、25年後の1185年、頼朝39歳の時でした。
源氏が壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼしたのです。
1192年、頼朝は鎌倉幕府初代将軍となります。
武士が中心となって政治を行う武家政権の安定化を図っていきますが・・・将軍になってから6年後の冬の事。
武蔵国で行われた橋の開通式に参列した帰り道、頼朝は落馬してしまいます。

「武士の棟梁でありながら落馬するとは、何たる失態!!」

酷くショックを受けたものの、大したけがもなくいつもと変わらぬ日々を送っていました。
ところが・・・2週間ほどたった日の早朝・・・ひどい頭痛と吐き気を訴え・・・そのまま亡くなってしまうのです。
53歳でした。

亡くなる前日まで元気だったので、人々はその死を不信がりました。
様々な噂が・・・頼朝の謎の死、その死因とは・・・??

死因①亡霊説
南北朝時代の書かれた「保暦間記」には・・・
「安徳天皇らの亡霊を見て、気を失い病に倒れた」
とあります。
頼朝は壇ノ浦で平家と共に身を海に投げた、安徳天皇らの亡霊を見て病に倒れたというのです。
当時は、亡霊や祟りの存在が強く信じられていたからです。
が、信憑性はありません。

死因②毒殺説
鎌倉幕府編纂の「吾妻鏡」は、なぜか頼朝の死の前後3年間は空白となっています。
これは、頼朝の不信な死を隠したいという隠蔽説ではないか??と!!
そしてその首謀者こそ、当時頼朝の後ろ盾であった北条氏で、頼朝から政権を奪うために、あらかじめヒ素を飲ませ、毒殺し、隠蔽を図ったというのです。
ヒ素の中毒症状は・・・
・胃や腹部の激しい痛み
・嘔吐
・血性の下痢
・重症の場合は、腎障害や、全身痙攣を引き起こす
です。

頼朝もまた、強い吐き気をもよおしていたので、ヒ素とも考えられますが・・・まだ鎌倉幕府が安定していない時期に、北条氏がカリスマ性のある頼朝を毒殺するメリットがない??

死因③糖尿病説
五摂家の一つ近衛家の日記「猪隈関白記」の中に
「頼朝卿、飲水の重病により」という記述があり、頼朝は重い飲水病を患っていたことになります。
飲水病とは・・・??糖尿病のことです。
大量に水を飲みたがることから、飲水病と名付けられたようです。
糖尿病になると・・・血管障害や腎障害、神経障害を起こし、重病の場合、死に至る可能性がります。
頼朝の死は糖尿病??

頼朝の場合、突然体調不良を起こしているので、糖尿病で死に至った可能性は低いと思われます。

頼朝の死の原因は落馬・・・??
慢性硬膜下血腫による死亡が有力です。
これは、頭部打撲の後、2~3週間後に症状が出ます。
頭を討った際に、じわじわと出血し、血種が大きくなり、脳幹を圧迫して死に至る場合がります。
気にならないほどの打撲で・・・。

鎌倉幕府初代将軍・源頼朝
病歴:糖尿病
死因:慢性硬膜下血腫
没年齢:53歳
でした。


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