歴史REAL邪馬台国 邪馬台国論争の「いま」がわかる! (洋泉社MOOK 最新日本史講座)

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今から1400年前の弥生時代末期・・・
日本がまだ倭国と言われていた時代、戦乱が続いていたこの国を統一へと導いた勢力がありました。
女王・卑弥呼が率いていた「邪馬台国」です。
邪馬台国最大の謎は、その所在地です。
畿内説、九州説・・・300年以上も論争が続いています。
邪馬台国の真の姿とは・・・??

論争が始まったのは、今から300年以上も前のこと。
江戸時代前・中期の儒学者松下見林が30年費やして、邪馬壹(台)→ヤマトと、読み、畿内の大和のことであると結論付けました。
これに反対したのが、新井白石で・・・。
邪馬台国は九州北部にあったと主張しました。
その後も論争が繰り広げられてきましたが・・・決着がついていません。

資料は・・・3世紀後半に書かれた中国の歴史書「魏志倭人伝」。
正式には「魏書東夷伝・倭人の条」を指します。
文字にしておよそ2000字・・・その記述の中にあるのが邪馬台国です。
邪馬台国は当時30の国を統治していたと書かれています。
邪馬台国の総人口は約50万人で、小規模な国があり、その中心を緩やかにまとめているのが邪馬台国で・・・
連合国家のようなクニの形だったと考えられています。
魏志倭人伝によると、治めていたのは女王・卑弥呼で宮室で暮らしていました。

中国から邪馬台国への道順(距離・方角・所要日数)が書かれていますが・・・
それらの記述を辿っていくと・・・邪馬台国はフィリピンの東の海上にあることになってしまいます。
そこで・・・九州説は・・・「陸路で一月」を「陸路で一日」に、「水路で十日、さらに陸路で一月」を「水路で十日、または陸路で一月」と、解釈しました。
畿内説は・・・「南」を「東」に読み替えました。
が・・・どちらも決定打はありませんでした。

そんな邪馬台国論争に終止符を打つかもしれない大発見が2009年に奈良でありました。
邪馬台国・畿内説
奈良県桜井市には、1971年から50年近く発掘してきた纏向遺跡があります。
規模は南北1.5km東西2kmに及ぶと推定され、これまで発掘されたのは遺跡自体の僅か2%と言われています。
ここで巨大な柱の跡が見つかりました。
南北19m、東西12mの大型建物と、東西に方向を同じくした建物2棟が確認されています。
複数の建物が方角のラインを定めて、極めて規則正しく並んでいます。
同時代の建物では、纏向でしか発見されていない特徴的な建物です。
魏志倭人伝の「宮室」・・・卑弥呼の宮殿を中心とする建造物ではないか?と、考えられるのです。
その可能性を裏付けるのが・・・桃の種です。
纏向遺跡から3000粒ほど発見されました。
宮殿に桃を植えるのは、中国の王宮のしきたりであり、古代から桃には邪気を払う力があるとされ、重要な祭祀に用いられてきました。
桃は宮殿にとってなくてはならないものでした。
もし、卑弥呼の宮殿であったなら、纏向が邪馬台国の中心であったことになるのですが・・・。
纏向遺跡から発見された出土品の中に・・・もっとも注目されているのが土器です。
「外来系土器」と呼ばれるもので、大和地域以外の場所で作られた土器で・・・その地域は9つあります。
西は九州から山陰地方、近畿地方、最も出土しているのは東海の土器で・・・北は北陸、東は関東に至っています。
纏向遺跡は、全国各地から多くの人が集まった場所で、社会経済の中心であった可能性は高いと思われます。
全国規模で多くの人が集まる場所は、邪馬台国しか考えられないので、纏向遺跡の可能性が高い・・・??
しかし・・・邪馬台国としての確証はありません。

邪馬台国とはいったいどんな国だったのでしょうか?
魏志倭人伝によると・・・
魏の使者が目の当たりにしたリアルな暮らしぶりが記録されています。

”倭国は温かく、冬でも夏でも生野菜を食べ、みんな裸足”でした。
当時の中国や朝鮮半島では、動物の皮を使った履物を使っていました。
裸足の人々を見て驚いたようです。
1年を通して食べていた生野菜は・・・薑(ショウガ)・橘・椒・茗荷はあるものの、それらを調味することを知らないと書かれています。
海辺に住む人は、魚を取って食べていました。
野菜だけでなく肉も食べ、竹製・木製の食器を使い、酒をもたしなんでいました。
倭国の人は長寿で、その寿命は100年・・・あるいは8、90年ぐらいであると書かれています。
男子は大人も子供も刺青の風習がりました。
訴訟もなく・・・古代の日本人は、温暖な気候の中でのどかに暮らしていたと思われます。

さらに・・・邪馬台国は中国との交渉に臨む際に・・・
海での遭難を避けるため、持衰を船に同乗させて旅の安全を祈ります。
暴風雨などの被害にあえば、役に立たなかったとして海にほうり込まれることもあったようです。
中国との交流が命がけであったことがわかります。


邪馬台国論争・九州説
佐賀県吉野ヶ里町にある吉野ケ里遺跡・・・
弥生時代の集落跡として日本最大を誇っています。
1991年には国の特別史跡に選定され、現在は吉野ケ里歴史公園として建物98棟が復元され、当時の生活が復元されています。
1986年から始まった発掘調査では、次々と遺構や出土品が・・・
吉野ケ里遺跡と邪馬台国との関係は・・・??

魏志倭人伝の建物などの記述と吉野ケ里遺跡の構造が符合するところです。
さらに、魏志倭人伝には周囲を柵で囲まれていたと書かれていましたが・・・吉野ケ里遺跡の堀に沿って柵があったのでは??
二重になっている堀の構造は、この時代では吉野ケ里だけです。
それだけ厳重に守らなければならなかったのでは・・・??
魏志倭人伝には、邪馬台国を始め30ぐらいの国名が書かれていますが・・・
それらの殆どは九州にあったとされています。
これらの国々が邪馬台国が統治した国の一部だとすれば・・・邪馬台国も九州北部にあったと思うのが極めて自然です。
倭国の中心地だったと思われるもの・・・鉄器(約200点)が吉野ケ里遺跡から出土しています。
この鉄器がカギを握るのでは・・・??
魏志倭人伝には、倭国の人は矢じりに鉄も使うと記されています。
鉄は日本では生産されておらず、中国から鉄の素材を輸入して加工して使っていました。
九州で出土している鉄が、畿内では出土されていません。
近畿地方はまだ3世紀では鉄は入っていないのではないか??


邪馬台国の候補地は、全国に数十カ所もあります。
そこには、卑弥呼にまつわる言い伝えがあるのです。
女王・卑弥呼・・・卑弥呼が存在していた3世紀ごろ・・・倭国は干ばつや天変地異で混乱を極めていました。
そんな中、呪術に長けた卑弥呼はシャーマン的な役割をしていたのではないか?と言われています。
社会不安の中で、人々は卑弥呼に服従していったのです。
卑弥呼にまつわる記述は・・・
中国の景初3年(239年)に、銅鏡100枚が送られています。
銅鏡とは、祭祀などに用いられた青銅の鏡のことです。
日本では、弥生時代から古墳時代にかけて多く製作された青銅製の鏡です。
祭祀などの特別な鏡・・・卑弥呼に送られたと思われる銅鏡が発見されています。
その場所は、島根県出雲地方です。
様々な神話の残る出雲では、古代に大きな勢力が存在していました。
出雲の神原神社古墳からは、太刀などの一緒に「三角縁神獣鏡」が出土しています。
この銅鏡に「景初3年」と入っていたので、卑弥呼に送られたものではないか?と言われています。
そのため、出雲も邪馬台国の候補地となっています。
卑弥呼にとってこの銅鏡は太陽神のシャーマンのイメージを・・・太陽神のような存在だったとされ、天照大神と同一人物ではないか?とも言われています。
天岩戸伝説・・・古事記によると、天照大神が天岩戸に閉じこもったことで、神様が住んでいた高天原を始めすべての世界に闇となり、禍が発生したと・・・これは卑弥呼の事ではないのか??
卑弥呼が亡くなったあたりで皆既日食があったのでは??
太陽が隠れてしまったことで、卑弥呼の権威が無くなって殺されたのか??
シャーマンとしての座を失ったのか??
天岩戸伝説のある場所も、各地にあります。
その代表的な場所が、宮崎県高千穂町です。
天岩戸神社には、洞窟が今も残っています。
他にも三重県の伊勢など・・・邪馬台国があったといわれる場所は、各地に存在しています。

卑弥呼が中国からもらった「金印」「墓」のあることが邪馬台国の必須条件ですが・・・??

邪馬台国の場所を特定する物証①金印
魏志倭人伝には、魏の皇帝が卑弥呼に「親魏倭王」の金印を送ったと書かれています。
金印は・・・1784年志賀島で発見されました。
この志賀島の金印は魏の前・・・後漢の時代だと言われています。
卑弥呼に送られたものとは時代が違うのです。
さらに刻まれた文字も「漢倭奴国王」となっていて・・・子の金印は卑弥呼とは関係ないことがわかっています。
卑弥呼の金印がまだ眠っていて・・・その場所が邪馬台国の場所だと思われるのです。

邪馬台国の場所を特定する物証②卑弥呼の墓
卑弥呼の亡くなった時期は・・・3世紀中ごろだと思われます。
その候補地は・・・??
吉野ケ里遺跡から40kmのところにある福岡県糸島市”平原遺跡”です。
発掘された1号墓の大きさは、14m×12mで四隅の丸い長方形・・・中央に木棺が埋葬されていました。
どうして卑弥呼の墓??
その根拠は・・・埋葬されていた人が使っていたとされる埋葬品・・・。ガラスの管玉、メノウの管玉・・・ガラスの勾玉・・・豪華な副葬品がありました。
身分の高い女性・・・女王の墓ではなかったか?
作られたのは弥生時代末期・・・時代が合うことからその墓は女王・卑弥呼の墓??
そして、大量の銅鏡が・・・40枚も発見されています。
直系46.cmメートルの国内最大のものでした。
太陽のようなデザインの中心には花模様が・・・
これほどまでに大きなものが大量に見つかっているのは平原遺跡だけで、これが魏から卑弥呼に送られたものではないか?と言われているのです。
銅鏡は、墓の四隅と足元付近から見つかりました。
そして、それらの銅鏡は・・・すべて割れた状態で埋められていたのです。
銅鏡は葬送儀礼の中で、意図的に割られたものと考えられます。
どうして意図的に割って埋めたのか?
それは、シャーマンの霊力を封じ込めるためには??
とすると、墓の主はシャーマン??卑弥呼なのでは?と言われています。

邪馬台国は九州なのか?

卑弥呼の墓は150mあり、100人余りの奴婢が葬られたと言われています。
巨大な卑弥呼の墓・・・
纏向遺跡に魏志倭人伝の記述に近い巨大な古墳があります。
箸墓古墳です。
天皇家ゆかりの倭迹迹日百襲姫命大市墓として宮内庁が管理しています。
箸墓古墳は前方後円墳で、その大きさは長さ280m後円部直径が150m、高さ30mあるのです。
墓の周囲には、堀があり、外側には堤が眠らされています。
巨大で形も整った古墳・・・同時期に出来た前方後円墳の中ではもっとも大きいものです。
特別な人の死・・・卑弥呼の墓としても最有力です。
2009年・・・土器の製造年代は卑弥呼の死と同時期だとぴったり一致しているのですか??
箸墓古墳は制約が多く、なかなか調べられないのが実情です。

果たして箸墓古墳が卑弥呼の墓だったのでしょうか??
決定的な証拠はまだ見つかっていません。
邪馬台国のミステリーロマンはまだまだ続きます。

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